長門

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*CV
佐倉綾音

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*史実情報
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1920年(大正9年) 10月27日 竣工前後の&bold(){長門}を写した、有名な一葉。

 日本海軍の対米大規模海軍拡張計画、所謂「八・八艦隊計画」の第一弾として建造されたのが、&bold(){長門}である。
 これまでに培われた造船ノウハウと、第一次大戦の戦訓を取り入れて設計された長門型は、従来の戦艦とは異なる、多くの新要素を盛り込んで開発された。
 主砲は米戦艦を凌駕すべく、41センチ砲の採用を決定。41センチ砲戦艦は今だ例がなく、&bold(){長門}が世界に先駆ける形となった。
 艦橋構造も大きく変更され、従来の三脚楼を廃し、太い主柱の周囲を六本の支柱で囲むように支え、各設備を段状に配する櫓檣(ろしょう)となった。
 外見的特徴以外にも、防御装甲が第一次大戦の戦訓に基づいたものとなり、速力は27ノットに達した。これは当時の平均である23ノットを大きく上回るもので、日本海軍は&bold(){長門}の速度を秘匿し、23ノットと発表している。
 ささいな事では、艦橋の高層化によりエレベーターが設置されたりしている。
 こうして、&bold(){長門}は世界一の性能を持って設計され、完成した。

 &bold(){長門}の完成直後、ワシントン海軍軍縮条約の締結により「八・八艦隊計画」は廃棄された。
 &bold(){長門}は聯合艦隊旗艦に就任。日本海軍の顔として人々に愛された。大正時代、少年雑誌付録のカルタに「[[陸奥]]と&bold(){長門}は日本の誇り」という札があったことも、長門型がいかに国民に愛されていたかを示している。
 この頃、&bold(){長門}は煙突を大きく後方に湾曲させた。当初は造船関係者に冷笑される措置だったが段々と定着し、やがてはこの姿こそが美しいと人々の間に認知されていった。
 また、完成当初の艦首は八八艦隊計画下における艦隊決戦補助兵器『一号機雷』対策のためスプーンバウであったが、凌波性が今ひとつ劣ることや、『一号機雷』による艦隊決戦補助の廃案もあり、大正15年から昭和2年までに艦首がより凌波性の高いクリッパーバウに改修された。
 関東大震災が発生した際は、出先の大連より全速力で東京湾へと急行。この時英国巡洋艦に追跡され、秘匿されていた&bold(){長門}の速力が知れることとなったが、諸外国からは特に反応がなかった。
 その後海軍は寸断された鉄道網に代わり、艦艇を用い人員や物資の輸送を実施。東京湾に日本海軍の主力が勢ぞろいした様は、被災した人々を励ましたと言われる。
 余談だが、大正末期に高松宮宣仁親王(昭和天皇の弟)が任官している。
 当時の士官たちは&bold(){字が上手いからと宮様に書類を代筆させた}他、&bold(){宮様のツケで宴会をしたり}、かなり好き放題したらしい。幸い、宮様が不快な思いをすることはなかったようだが。
 この宮様のツケで宴会をしたのが、後に「[[雷]]」艦長として英国兵を救助した工藤俊作である(元々、工藤は靴を貸したお礼にと宮様に奢って貰ったのを、周りが便乗して宴会にした)。

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1936年(昭和11年) 1月下旬 近代化改装を完了しテスト中の姿

 昭和9年には近代化を図る大規模な改装工事を実施し、それまでとは艦容を一変させる。
 二・二六事件の際は、聯合艦隊旗艦として戦艦部隊を率い品川沖に展開。国会議事堂へと主砲を向け、海軍は断固叛乱に立ち向かう姿勢を示した。

 太平洋戦争が始まると、かの有名な「ニイタカヤマノボレ 一二○八」を聯合艦隊全艦艇に向けて発信する。
 その後は[[大和]]と共に主力として温存されるが、戦艦対戦艦による大規模な艦隊戦など起こる事もなく、活躍の機会はなかった。
 1943年6月には、柱島で停泊中に妹・陸奥が突如爆沈。当日は濃霧であったが、居合わせた長門は扶桑と共に救助活動を行った。
 数少ない出撃はマリアナ沖海戦と、レイテ沖海戦の二つのみである。
 マリアナ沖海戦では、大和姉妹と共に機動部隊の護衛として出撃。
 [[隼鷹]]へ突進する敵雷撃機5機編隊に向け距離約1万5千メートルから主砲三式弾を発射し、初弾で全機撃墜を報告。
 これが、長門の主砲が初めて敵へ火を噴いた瞬間だった。
 同海戦では敵艦載機の爆撃を受けるも、大きな損傷はなかった。
 また、被弾大破した空母飛鷹の曳航を試みるも、果たせずにいる。

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レイテ沖海戦前 ブルネイ泊地での長門。前艦橋最頂部に21号電探、後艦橋に13号電探が追加されている。右舷奥に見えるのは大和(奥)と武蔵。

 レイテ沖海戦では第一遊撃艦隊として出撃。途中爆弾数発を受けるも行動に支障はなく、サマール島沖海戦に参加。敵空母への砲撃を行ったが、
 [[武蔵]]を失った[[大和]]の僚艦として行動していたため、[[大和]]が敵魚雷に挟まれ身動きが取れなくなった際も同行し、戦列から離れてしまっている。
 この海戦で長門は敵機からの攻撃を複数回にわたって受けたが、避けきれなかった最初の魚雷は突如向きを変えて外れ、次の魚雷は近すぎたためか艦底を通過。
 また命中した爆弾は薄い艦首部だったため炸裂せず貫通、被害を免れるなどの幸運に恵まれている。

 レイテより帰還した&bold(){長門}は燃料を補給されず、横須賀に繋留されることになった。
 年明けには[[榛名]]、[[伊勢]]、[[日向]]と共に浮き砲台となる事が決定し、煙突上部と後部マストを切断。副砲や電探など多くの装備を撤去し、迷彩塗装と浮島に偽装する工作をした。この時の姿を撮影した写真が多く残っているが、見るには少し忍びない。
 7月末、迫る米空母艦載機の攻撃で艦橋を損傷し、艦長や砲術長が戦死。日本戦艦最後の艦長として、杉野修一大佐(“杉野は何処”で有名な杉野一等兵曹の長男)が着任する。
 そして、長門はそのまま終戦を迎えた。

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終戦を迎えた横須賀で、米軍より撮影された&bold(){長門}。

 終戦時、&bold(){長門}は日本の戦艦12隻の中で、唯一水上に姿を留めていた。戦に敗れようとも、横須賀の海に浮かぶ&bold(){長門}の姿はいまだ衰えておらず、偉容を失っていなかった。
 翌月、&bold(){長門}は米軍に接収され、後部艦橋には軍艦旗に代わり星条旗が翻った。この時の様子はカラー映像として残っており、「なんでも鑑定団」に備品の艦内時計が登場した折、紹介されている。
 &bold(){長門}は研究資料としてアメリカへと回航され、翌年ビキニの海にその姿を見せた。これは戦後初となる核実験、「クロスロード作戦」に標的として供されたのであり、傍らには軽巡・[[酒匂]](さかわ)の姿もあった。
&blankimg(http://www56.atwiki.jp/kancolle?cmd=upload&act=open&pageid=55&file=cross.jpg)
 実験は7月1日の空中実験と、25日に行われる水中実験の計2回だった。1日の実験では大型艦はほぼ無傷で、&bold(){長門}も例外ではなかった。
 この実験の結果を聞いた当時の農商大臣の夫人は「英霊がみんなで船底から長門を支えてるんですよ」と言った(阿川弘之:軍艦長門の生涯 下巻 P368)。
 25日の実験では、ほぼ爆心地の中心にあった戦艦アーカンソーが轟沈、空母サラトガが7時間後にゆっくりと沈没する中、&bold(){長門}は右に5度傾いたまま浮き続けていた。
 実験の直前、長門は真珠湾の意趣返しとばかりに、艦首には穴が開けられ、艦体には機雷が設置されるなどしていた。しかし、1000以上に細かく分けられた水防区画が功を奏し、海上に留まり続けた。
 当時の日本では、原爆実験の実施と「長門沈まず」が報じられ、日本造船の技術が確かだった証拠であると喧伝された。
 だが、&bold(){長門}は29日朝、長門の姿は忽然として海面から消えていた。28日深夜から29日の未明にかけて、静かに横転沈没したのだった。
 &bold(){}長門沈没の瞬間を目撃した人間は、誰も居ない。

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1946年7月25日 遠くからでも、日本戦艦の特徴ある艦影を確認できる。
 
 こうした最期は、日本海軍の栄光と凋落を一身に背負った&bold(){長門}が意地を見せたのだと、多くの人が称している。
 現在、長門の沈没地点はダイビングスポットになっており、海底に眠る&bold(){長門}を見ることが出来る。なお、ビッグ7の中で、唯一原型をとどめて残っている船でもある。
 上下逆さまに着底したため、艦橋は折れているものの比較的形が残っている他、自慢の主砲塔も健在である。

 余談だが、先に少し触れたとおり「なんでも鑑定団」に由来の品が登場している。
 2003年8/26の放送では艦内で使用されていた時計が登場。専門家により艦橋で使用されたものではないかとされ、20万の値が付いた。
 2005年9月27日の放送では、米国回航時に接収された軍艦旗が少将旗、先任旗と共に登場。軍艦旗には1000万円の鑑定額がつけられた。
 この軍艦旗は、1年後に同番組の出演者・石坂浩二氏が1000万円で自費購入し、広島県呉市の呉市海事歴史科学館(通称:大和ミュージアム)に寄贈している。

 この他にも、世界遺産の番組などでビキニ環礁が紹介された際には、必ずと言っていいほど紹介されている。
 長門を題材とした作品に、阿川弘之の著書「軍艦長門の生涯」がある。ファン必読である。

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|>|>|艦歴|
|>|>|大日本帝国海軍|
|発注|>|八八艦隊計画第1号艦|
|起工|1917年08月28日|於呉海軍工廠|
|進水|1919年11月09日|長門型戦艦一番艦“長門”と命名|
|竣工|1920年11月25日|横須賀鎮守府所属|
||1920年12月01日|第一艦隊第一戦隊旗艦となる|
||1921年12月01日|戦艦“伊勢”より連合艦隊旗艦を継承|
||1923年09月01日|関東大震災発生に伴う救援物資輸送を実施|
||1934年04月|近代化改装工事に着手|
||1936年01月31日|工事完了|
||1937年08月20日|第二次上海事変勃発に伴い陸軍第11師団(上海派遣軍)を上海へ輸送|
||1940年10月11日|紀元2600年特別観艦式に参加|
||1941年12月06日|連合艦隊旗艦としてハワイ攻撃支援を実施|
||1942年02月12日|連合艦隊旗艦機能を戦艦“大和”に継承|
||1942年06月05日|ミッドウェー作戦に参加|
||1942年07月14日|姉妹艦“陸奥”と共に第一艦隊第二戦隊へ編入|
||1943年06月08日|戦艦“陸奥”爆沈。救難作業にあたる|
||1943年08月17日|トラック島へ進出|
||1944年02月25日|第一艦隊廃止。第二艦隊第一戦隊へ編入し戦隊旗艦となる|
||1944年05月04日|戦隊旗艦を“大和”に継承|
||1944年06月18日|あ号作戦(マリアナ沖海戦)に参加|
||1944年10月23日|捷一号作戦(レイテ沖海戦)に参加|
||1944年11月15日|第二艦隊第三戦隊へ編入|
||1944年11月25日|雪風など第十七駆逐隊の護衛を受け横須賀港に入港|
|||以後、燃料不足により終戦まで外洋航行不能|
||1945年01月01日|第三戦隊解隊。第二艦隊第一戦隊(僚艦“大和”“榛名”)へ編入|
||1945年02月10日|第一戦隊解隊。横須賀鎮守府警備艦へ編入|
||1945年04月20日|予備艦へ種別変更|
||1945年06月01日|特殊警備艦へ艦種変更。主砲以外の全兵装及びマスト・電探・煙突が撤去される|
||1945年07月18日|横須賀空襲にて艦橋に直撃弾。艦長以下艦橋要員が全員戦死|
||1945年08月15日|中破状態のまま終戦を迎える|
||1945年08月30日|米軍によって接収される|
|除籍|1945年09月15日|正式な除籍の後、米軍への引き渡しを実施|
|>|>|アメリカ合衆国海軍|
||1946年03月18日|クロスロード作戦の標的艦として軽巡洋艦“酒匂”と共に横須賀港を出港|
||1946年07月01日|第一実験(エイブル/空中爆発)、爆心地より1500m地点で被爆。損害軽微|
||1946年07月25日|第二実験(ベーカー/水中爆発)、爆心地より900m付近で被爆。右舷破孔の浸水により5度傾斜|
|沈没|1946年07月29日|第二実験による浸水が原因とされるも、沈没時の目撃者なし|

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*台詞一覧
|状況    |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など|
|自己紹介|私が戦艦長門だ、よろしく頼むぞ。敵戦艦との殴り合いなら任せておけ。||
|秘書クリック会話①|なんだ?||
|秘書クリック会話②|私の顔に、何か付いているのか?||
|秘書クリック会話③|あまり艤装には触らないでもらいたいものだな|終戦直前、主砲以外の艤装を全て剥がされている|
|戦績表示時|司令部から連絡だ||
|編成選択時|戦艦長門、出撃する!||
|装備時①|近代化改修か。私には必要ないのだが…|近代化改修の際、機関を交換せずに25ノットを維持できたことに由来か|
|装備時②|ありがたい。これなら奴とも戦えるな|他のBIG7のことか?|
|装備時③|いいだろう||
|>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)|
|ドック入り|少し整備は必要だな||
|ドック入り(重傷)|艦隊決戦は、万全の状態で戦いたいからな。||
|建造時|新たな仲間が進水したようだ。楽しみだな||
|艦隊帰投時|作戦終了だ。艦隊が帰投したぞ||
|出撃時|第一戦隊、出撃するぞ!|第一戦隊は最強戦艦部隊だった|
|戦闘開始時|ビッグ7の力、侮るなよ|図鑑は「ビッ&bold(){ク}7」だが「ビッ&bold(){グ}7」が正解(現在は修正済)&br()残りの6隻は「陸奥」、米コロラド型「コロラド」「メリーランド」「ウエストバージニア」、英ネルソン型「ネルソン」「ロドニー」|
|攻撃時|待ちに待った艦隊決戦か。胸が熱いな|一度も戦艦対戦艦の艦隊戦を迎えることなく終戦|
|夜戦開始時|よし!艦隊、この長門に続け!||
|夜戦攻撃時|全主砲、斉射。…てーい!||
|MVP時|連合艦隊の旗艦を務めた栄光に比べれば微々たるものだが、貰っておこう…か|長門は聯合艦隊旗艦として国内外に知られた|
|被弾小破①|フッ…効かぬわ!||
|被弾小破②|長門型の装甲は伊達ではないよ|欧米の新型戦艦をも上回る最大508mmの装甲を持っていた。これより厚いのは大和型だけ。|
|被弾カットイン|くっ…敵艦隊も…なかなかやるな…!||
|撃沈時(反転)|COLOR(white):戦いの中で沈むのだ……あの光ではなく…本望だな…|COLOR(white):戦後、米軍の標的艦として核爆弾により沈没| 
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*同型艦
&bold(){長門} ― [[陸奥]]

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*コメント
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*外部リンク
-[[Wikipedia:長門>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%96%80_(%E6%88%A6%E8%89%A6)]]
-[[ニコニコ大百科:長門>>http://dic.nicovideo.jp/a/%E6%88%A6%E8%89%A6%E9%95%B7%E9%96%80]]

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