中尉とは、前漢前期に置かれた
朝廷の
職官である。
京師(京城、首都)とその周辺を警邏し、
盗賊に備え、これを捕らえることを司った。
宮中を巡回する
衛尉と表裏を為すとされる。名実共に、諸郡の
群尉の任を中央において果たした職と言える。
武帝に
執金吾と改められ、以後その名が長く用いられる。
なお、
王国の軍備を司る長官としては中尉の名が継続して用いられた。
目次
歴史
位
職掌
京師を
徼循するを掌る。
徼は遮繞を謂うなり。いわゆる遊徼。徼循して盗賊を禁じ備えるなり。
属吏(前漢)
丞
二人、千石。
それぞれ部隊を率いる。
将軍制等によれば、編成の上級単位である
部を率いるのが部司馬、その下の単位である
曲を率いるのが候、千人という順序となる。
屬官
(前漢)
一人。
三人。
式、表也。(顔師古)
車駕が出づれば前に在りて道を清めることを掌る。還れば麾を持ち宮門に至り、門乃ち開く。
秩六百石。
秩六百石。
秩六百石。
一人。
二人。
獄令、治水の官なり。
初め、寺互は
少府に属し、中ばは
主爵に属し、後に中尉に属す。
中興して省く。
一人。
一人。
一人。
三人。
左輔都尉
右輔都尉
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関連項目・人物
詳説
漢王朝が興ると、
山東に
諸王を封じ、それ以外の地方には
郡県を置いて官吏による統治を企図した。
郡には長官として郡守(後の
太守)があって行政を総括し、また郡尉(後の
諸郡都尉)があって
徴兵からなる郡兵を統率した。
しかし、
京師長安県周辺五十数県の広い地域には郡守は置かれず、
朝廷の
中都官による直轄統治が行われた。言わば『京師圏』(後に
三輔と呼ばれる)に於いて文治を担当したのが
内史であり、武事を担当したのが
中尉であった。
中尉の後身となる
執金吾は、
「仕官するなら執金吾、妻を娶らば
陰麗華」
と、
長安にてその車騎の甚だ盛んなことを見た若き
光武帝が嘆じたことで有名であるが、その設置当初の
中尉期に於いては
楚漢戦争の余韻を持ち多数の精兵を擁した堂々たる武官職であった。
既に
淮南王英布の乱に対して、
とあり、さらに、
五月、匈奴が北地に入居し、河南に寇を為す。 上は
甘泉に幸し、
丞相灌嬰を遣わして匈奴を撃ち、匈奴は去る。中尉の
材官を発して
衛将軍に属し、長安に軍す。(文帝紀三年)
六年冬十月,隴西、天水、安定の
騎士、及び中尉、河南、河內の卒十萬人を発し、将軍李息、
郎中令徐自を遣わして
西羌を征するを為す。これを平げる。(武帝紀元鼎六年)
と、有事にあって中尉の領する兵力が皇帝と別働して京師の守備に就いたり、征伐の主戦力となったことが見て取れる。
また、中尉自らも、
十四年冬、匈奴が邊を寇し、北地都尉卬を殺す。 三将軍を遣わし隴西、北地、上郡に軍す。中尉
周舍が衛将軍となり、
郎中令張武が車騎将軍となり、
渭北に軍す。車千乗、騎卒十万人。(文帝紀十四年)
景帝中三年秋、蝗。これより先、匈奴が邊を寇す。中尉不害、車騎・材官士を将い、代の高柳に屯す。(五行志第七中之下/聽羞)
衛尉李広が驍騎將軍と為り雲中に屯し、中尉
程不識車騎將軍と為り鴈門に屯す。六月に罷。(武帝紀元光元年)
秋、東越王餘善が反し、漢の将吏を攻め殺す。橫海将軍韓説、中尉王音舒を遣わし会稽に出、樓船将軍楊僕が豫章に出、これを撃つ。(武帝紀元鼎六年)
と、将軍号を帯びて出征することがあった。この場合、中尉本来の兵力が主体になったと想像できる。
一方、中尉の平時での職掌は
盗賊を禁じることであるが、史書には
姦猾を検挙し断罪した例が見られる。
後會更五銖錢白金起,民は姦を為し、京師尤も甚し。乃ち縱を以って右內史と為し、王音舒を中尉と為す。(酷吏伝/義縱)
遷って河内太守と為る。……河內の豪姦の家を皆知り……捕郡中の豪猾を捕らえ、相連坐すること千余家。……上はこれを聞き、以って能と為し遷して中尉と為す。その治、また河内に
放い……。
温舒、また中尉となる。……吏は淫悪な少年を苛察し、缿(密告の道具)を投げ告を購い姦を言わせ、伯落の長を置き以って姦を収め司った。……姦猾は治を窮め、大抵
盡く
獄中に靡爛し(尽き果て)、論を行って出る者無し。
是の時、上方通天臺を作るを欲するも而して未だ人有らず。温舒は中尉の脱卒を覆すことを請い、数万人の作を得た。(酷吏伝/王溫舒)
これらの検挙は、地方では
諸郡都尉の管轄であったから、中尉とはまさに「中央の都尉」であった。
その所有する主兵力もまた諸郡都尉と同じく、管轄の
県・
郷里から徴兵された
士卒で編成されていたと推定される。
漢代、郡県制が敷かれた地域の
戸口には徴兵制が敷かれ、
正となった者は一年間は
衛士として宮廷を衛護する他、
材官・
騎士等として郡に務めて諸郡都尉の指揮下に入ることが知られている。しかし、中尉の担当する『京師圏』にて彼ら材官・騎士を引き受ける職官が何者か、史書には記されていない。ただ
京輔、
右輔、
左輔の三つの輔都尉が中尉に所属したと百官表が記している。
この輔都尉は、同じく百官表で、元鼎四年「更めて二輔都尉を置く」ともされる(元鼎四年の時点で、京師周辺の行政は右内史・左内史の言わば「二輔」が司っており、「三輔」はまだ成立していない)。
しかし、
東方朔伝では、
武帝期初頭の建元三年に右輔都尉の記述が確認されるため、当初の輔都尉二者は中尉に属し、元鼎四年後に二輔の行政長官各位の所属に「更め」られたのだと言える。上記の王溫舒伝にも、溫舒が中尉部の「脱卒」を集めて数万人を得た事から、管轄地の
徭役を総督する地位にあったことが分かるのである。
また、濱口重國氏らは、漢初に京師守備に重要な役割を果たした
南北軍のうち、北軍とは中尉の率いる軍であったとする。南北軍の詳細については諸説があり一致を見ておらず、中尉と北軍を直接結び付ける記録も見つかっていないが、この仮説を後押しする記述として、武帝期後期に高官となった
江充の事跡がある。
拜して
直指繡衣使者と為り、三輔の盜賊を督し踰侈(奢侈が度を越すこと)を禁察す。貴戚・近臣に奢僭多く、充みな挙劾せり。車馬を没入し、身は北軍に待して匈奴を撃たんと令するよう奏請す。
直指繡衣は常制の官では検挙できない盗賊や姦猾を捕らえる皇帝の使者である。この使者が三輔という中尉の管轄で中尉の職責を代行し、その罪人を北軍の士卒にしたことは北軍と中尉の関係の深さを推測させる。
また、『百官表』にて北軍の壘営を掌るのは公卿に属さない
中壘校尉とされるものの、この中壘校尉が設置されるのは武帝期であり、一方で中尉の属には中壘令という類似した名の職官が記されている。
結
仮説も含めて中尉の歴史を概観すれば以下のようになる。
漢初の中尉は、後の三輔に当たる『朝廷直轄圏』の五十数県から徴兵された士卒によって編成された常備兵団の司令官であった。
平時には『直轄圏』の政事・軍事を
内史と言わば「縦割り」して分掌し、長安城内を守備すると共に圏内の盗賊・姦猾を取り締まって「中央の郡尉」に相当した。その広大な地域を掌握するため、(漢初から存在したかは不明であるが)
右輔、
左輔の輔都尉が分置された。その長安城内の屯営は
中壘と呼ばれたと思われるが、常備兵の他に毎年の徴兵によって教練を受けた士卒が民間に累積していくため、その予備役を合わせれば数万の大兵力になったと考えられる。
しかし
武帝期以降、京師周辺の治安の向上や
匈奴の脅威の低下によって、中尉に大きな権限を集中する必要がなくなる。まず元鼎四年、二つの輔都尉が
右内史・
左内史の管轄に移り、太初元年には行政区分が
京兆尹、
右扶風、
左馮翊に三分され、大きく縦割りされていた政事軍事の権限は三者に細分化されることになる。同年、中尉が
執金吾と改称され、軍官を示す「尉」の字を除かれる。同じ頃、
中壘校尉が設置され、北軍の主要屯営であった「中壘」も皇帝の直轄に移管される。
執金吾と改称して以降も、姦猾を督し(酷吏伝/尹賞)たり、節を持し兵を将いて
胡を撃った(奉世輒伝)例から、諸々の権限が一時に失われたとも思われないが、前漢後期にかけて執金吾は当初の大兵力と諸郡都尉に相当する城壁外の盗賊・姦猾を検挙する職責を失っていき、光武帝が長安を詣でた
新代には「仕官するなら執金吾」と気楽に言われるような、華々しい車騎を伴って長安城内を巡回し、重責と言えば
武庫を守る程度の顕職となっていたのだろう。
ただし、続く後漢代に於いてもまた、
執金吾はその時代故の特殊な役割を果たすことになる。
参照
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最終更新:2015年02月10日 02:37