四天王 - (2008/08/16 (土) 11:56:59) の1つ前との変更点
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&sizex(6){&bold(){四天王}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、猪川和子編『日本の美術240 四天王』(至文堂・1986)、佐和隆研著『仏像図典(増補版)』(吉川弘文館・1990)
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){四天王}(してんのう)は須弥山の中腹、欲界の第六天の四方を守護する天部で、東方&bold(){持国天}、南方&bold(){増長天}、西方&bold(){広日天}、北方&bold(){多聞天}をいう。武器を手に甲胃をつけた武将形で、邪鬼を踏みつけるように立つ。日本において、多聞天のみが独尊像として造像安置される場合は&bold(){毘沙門天}と呼ぶのが通例で、民間信仰においては七福神のひとつにも数えられている。
&sizex(5){&color(red){名称}}
東方の持国天は「国を支える者=持国」という意味である「ダータラシュトラ」が和名となって提頭頼咤天(だいずらいた・Dhrtarastra)に、南方の増長天は「大きく育つ=増長」という意味である「ヴィルーダッカ」が毘楼勒叉天(びるろくしゃ・Virudhaka)に、西方の広目天は「千里眼を持つ者=広目」という意味である「ヴィルパクシャ」が毘楼博叉天(びるばくしゃ・Virupaksa)、北方の多聞天は「すべてを一切聞きもらさぬ=多聞」という意味である「ヴァイシュラヴァナ」が毘沙門天(びしゃもん・Vaisravana)となった。なお像名と立ち位置の覚え方に「トン・ナン・シャー・ペー(東南西北)地蔵購うた(持・増・広・多)」というのがある。
&sizex(5){&color(red){像容}}
インドでは神話時代から護世神として存在し、仏教時代以後は四方を守護する護法神として経典中にしばしば説かれるにいたった。もともと仏教本来の神ではなく、その表現にもとくに規制がなかっただけに、インドでは貴人の姿に表現され、中央アジアを経て中国に入る間に次第に武人像としての完成した。一般に甲冑を着けた瞋目(しんもく、怒り顔)威相の武将姿に表わされ、邪鬼を足下に踏んで破邪の性格を強調している。持物については所説がなく、単に武将が剣や戟などの武器を持つ姿に作られる。現存最古の作例である法隆寺金堂の四天王はその古様な像容においてきわめて特長的である。一般に四天王寺様と呼ばれ、朝鮮や南北朝時代の中国の像容を偲ばせる誇張の少ない忿形、直立した像容、形式的な着衣は後世のものとは異としている。奈良時代以後の像は表現が自由になり、手足の動作も忿形も著しくなる。持物は広目天が筆と巻子、多聞天が剣と塔をとるほかは、おおむね剣をや矛を握る姿に作られる。[[密教]]流入以後は、護世天としての座を次第に十二天に奪われるが、それでも別尊曼荼羅の四隅に配される例は少なくない。胎蔵界曼荼羅では多聞天が塔と宝棒をとるほかは、それぞれ戟や剣を握っている。このように四天王に定形はなく、持物はしばしば変り、左右が逆手の場合もあり、像形も様々で一定していない。
***持国天
兜を被っているものが多く、長剣を構える姿が一般的である。
(1)右手は腰に托し、左手に刀を持つ。
(2)右手は仰掌して宝珠を、左手は伸ばして刀を持つ。
(3)右手は掌を揚げ、左手は矛を持つ。
(4)右手に大刀を持ち、左手は矛を持つ。
***増長天
口を大きく開けて叫ぶ明確な憤怒の相を表しており、長槍や矛を持つ姿が一般的である。
(1)右手は掌を揚げ、左手は矛を持つ。
(2)右手に矛を、左手は伸ばして刀を持つ。
(3)右手に抜折羅(密教法具)を持ち、左手を腰にあてる。
(4)右手は胸前に剣を持ち、左手を腰に托す。
***広目天
その名が示す通り、全ての世界の出来事を漏らさずに見届け、この世の真実を書き留めるための巻き物と筆を持つ姿が一般的である。
(1)右手に筆を持ち、書写する姿勢を作る。
(2)右手に赤索を持ち、左手は伸ばして矛を持つ。
(2)右手に金剛杵を持ち、左手は矛を持つ。
(4)右手に三叉戟を持ち、左手を腰に托す。
***多聞天
片手に宝棒あるいは三叉戟、片手には小さな宝塔を持つ姿で表現されるのが一般的である。
(1)右手に宝棒を持ち、左手で宝塔を捧げる。
(2)右手で宝塔を捧げ、左手は伸ばして矛を持つ。
(3)右手は金剛杵を、左手は矛を持つ。
(4)右手は金剛杵を持ち、左手で宝塔を捧げる。
&sizex(5){&color(red){日本における造形例}}
(1)三躯同形、多聞天右手塔(四天王寺様) 法隆寺金堂
(2)四躯右手揚げ、多聞天右手塔 [[東寺]]講堂・[[広隆寺]](多聞天欠)・円成寺
(3)持国天左手揚げ、多聞天右手塔 当麻寺・東大寺法華堂(三月堂)・大安寺
(4)持国天交叉手、多聞天右手塔 唐招提寺・興福寺北円堂
(5)持国天交叉・両手下、多聞天左手塔 西大寺(多聞天後補)
(6)持国天右宝珠、多聞天右手塔 興福寺東金堂・観世音寺
(7)二躯相称、一躯左手揚げ、多聞天左手塔右手揚げ(善水寺形式) 善水寺・観心寺・[[清凉寺]]
(8)二躯相称、一躯左手揚げ、多聞天左手塔右手揚げ 円教寺・鶴林寺・[[禅定寺]]
(9)二躯相称、一躯右手揚げ、多聞天左手塔右手下げ 法隆寺講堂・[[浄瑠璃寺]]
(10)二躯右手揚げ、一躯左手揚げ、多聞天左手塔右手揚げ [[六波羅蜜寺]]
(11)二躯相称、一躯手揚げず、多聞左手塔右手下げ 大乗寺・[[醍醐寺]]
(12)二躯相称、多聞天右手塔(鎌倉時代以降) 金剛峯寺
&sizex(5){&color(red){日本における代表的な四天王像}}
***飛鳥時代(白鳳期)
奈良・法隆寺金堂像 国宝
奈良・当麻寺金堂像 重要文化財
***奈良時代(天平期)
奈良・東大寺法華堂(三月堂)像 国宝
奈良・東大寺戒壇院像 国宝
奈良・唐招提寺金堂像 国宝
奈良・大安寺像 重要文化財
奈良・西大寺四王堂像 重要文化財 ※邪鬼のみ天平期のもので、四天王像は後補
***平安時代
[[教王護国寺>東寺]]([[東寺]])講堂像 国宝
[[広隆寺]]像 重要文化財
[[清凉寺]]像 重要文化財
[[浄瑠璃寺]]像 国宝
奈良・興福寺東金堂像 国宝
奈良・興福寺北円堂像 国宝
兵庫・圓教寺摩尼殿像 重要文化財
兵庫・鶴林寺像 重要文化財
福岡・観世音寺像 重要文化財
***鎌倉時代以降
和歌山・金剛峯寺像 重要文化財 [[快慶>慶派]]作
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&sizex(6){&bold(){四天王}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、猪川和子編『日本の美術240 四天王』(至文堂・1986)、佐和隆研著『仏像図典(増補版)』(吉川弘文館・1990)
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&bold(){四天王}(してんのう)は須弥山の中腹、欲界の第六天の四方を守護する天部で、東方&bold(){持国天}、南方&bold(){増長天}、西方&bold(){広日天}、北方&bold(){多聞天}をいう。武器を手に甲胃をつけた武将形で、邪鬼を踏みつけるように立つ。日本において、多聞天のみが独尊像として造像安置される場合は&bold(){毘沙門天}と呼ぶのが通例で、民間信仰においては七福神のひとつにも数えられている。
&sizex(5){&color(red){名称}}
東方の持国天は「国を支える者=持国」という意味である「ダータラシュトラ」が和名となって提頭頼咤天(だいずらいた・Dhrtarastra)に、南方の増長天は「大きく育つ=増長」という意味である「ヴィルーダッカ」が毘楼勒叉天(びるろくしゃ・Virudhaka)に、西方の広目天は「千里眼を持つ者=広目」という意味である「ヴィルパクシャ」が毘楼博叉天(びるばくしゃ・Virupaksa)、北方の多聞天は「すべてを一切聞きもらさぬ=多聞」という意味である「ヴァイシュラヴァナ」が毘沙門天(びしゃもん・Vaisravana)となった。なお像名と立ち位置の覚え方に「トン・ナン・シャー・ペー(東南西北)地蔵購うた(持・増・広・多)」というのがある。
&sizex(5){&color(red){像容}}
インドでは神話時代から護世神として存在し、仏教時代以後は四方を守護する護法神として経典中にしばしば説かれるにいたった。もともと仏教本来の神ではなく、その表現にもとくに規制がなかっただけに、インドでは貴人の姿に表現され、中央アジアを経て中国に入る間に次第に武人像としての完成した。一般に甲冑を着けた瞋目(しんもく、怒り顔)威相の武将姿に表わされ、邪鬼を足下に踏んで破邪の性格を強調している。持物については所説がなく、単に武将が剣や戟などの武器を持つ姿に作られる。現存最古の作例である法隆寺金堂の四天王はその古様な像容においてきわめて特長的である。一般に四天王寺様と呼ばれ、朝鮮や南北朝時代の中国の像容を偲ばせる誇張の少ない忿形、直立した像容、形式的な着衣は後世のものとは異としている。奈良時代以後の像は表現が自由になり、手足の動作も忿形も著しくなる。持物は広目天が筆と巻子、多聞天が剣と塔をとるほかは、おおむね剣をや矛を握る姿に作られる。[[密教]]流入以後は、護世天としての座を次第に十二天に奪われるが、それでも別尊曼荼羅の四隅に配される例は少なくない。胎蔵界曼荼羅では多聞天が塔と宝棒をとるほかは、それぞれ戟や剣を握っている。このように四天王に定形はなく、持物はしばしば変り、左右が逆手の場合もあり、像形も様々で一定していない。
***持国天
兜を被っているものが多く、長剣を構える姿が一般的である。
(1)右手は腰に托し、左手に刀を持つ。
(2)右手は仰掌して宝珠を、左手は伸ばして刀を持つ。
(3)右手は掌を揚げ、左手は矛を持つ。
(4)右手に大刀を持ち、左手は矛を持つ。
***増長天
口を大きく開けて叫ぶ明確な憤怒の相を表しており、長槍や矛を持つ姿が一般的である。
(1)右手は掌を揚げ、左手は矛を持つ。
(2)右手に矛を、左手は伸ばして刀を持つ。
(3)右手に抜折羅(密教法具)を持ち、左手を腰にあてる。
(4)右手は胸前に剣を持ち、左手を腰に托す。
***広目天
その名が示す通り、全ての世界の出来事を漏らさずに見届け、この世の真実を書き留めるための巻き物と筆を持つ姿が一般的である。
(1)右手に筆を持ち、書写する姿勢を作る。
(2)右手に赤索を持ち、左手は伸ばして矛を持つ。
(2)右手に金剛杵を持ち、左手は矛を持つ。
(4)右手に三叉戟を持ち、左手を腰に托す。
***多聞天
片手に宝棒あるいは三叉戟、片手には小さな宝塔を持つ姿で表現されるのが一般的である。
(1)右手に宝棒を持ち、左手で宝塔を捧げる。
(2)右手で宝塔を捧げ、左手は伸ばして矛を持つ。
(3)右手は金剛杵を、左手は矛を持つ。
(4)右手は金剛杵を持ち、左手で宝塔を捧げる。
&sizex(5){&color(red){日本における造形例}}
(1)三躯同形、多聞天右手塔(四天王寺様) 法隆寺金堂
(2)四躯右手揚げ、多聞天右手塔 [[東寺]]講堂・[[広隆寺]](多聞天欠)・円成寺
(3)持国天左手揚げ、多聞天右手塔 当麻寺・東大寺法華堂(三月堂)・大安寺
(4)持国天交叉手、多聞天右手塔 唐招提寺・興福寺北円堂
(5)持国天交叉・両手下、多聞天左手塔 西大寺(多聞天後補)
(6)持国天右宝珠、多聞天右手塔 興福寺東金堂・観世音寺
(7)二躯相称、一躯左手揚げ、多聞天左手塔右手揚げ(善水寺形式) 善水寺・観心寺・[[清凉寺]]
(8)二躯相称、一躯左手揚げ、多聞天左手塔右手揚げ 円教寺・鶴林寺・[[禅定寺]]
(9)二躯相称、一躯右手揚げ、多聞天左手塔右手下げ 法隆寺講堂・[[浄瑠璃寺]]
(10)二躯右手揚げ、一躯左手揚げ、多聞天左手塔右手揚げ [[六波羅蜜寺]]
(11)二躯相称、一躯手揚げず、多聞左手塔右手下げ 大乗寺・[[醍醐寺]]
(12)二躯相称、多聞天右手塔(鎌倉時代以降) 金剛峯寺
&sizex(5){&color(red){日本における代表的な四天王像}}
***飛鳥時代(白鳳期)
奈良・法隆寺金堂像 国宝
奈良・当麻寺金堂像 重要文化財
***奈良時代(天平期)
奈良・東大寺法華堂(三月堂)像 国宝
奈良・東大寺戒壇院像 国宝
奈良・唐招提寺金堂像 国宝
奈良・大安寺像 重要文化財
奈良・西大寺四王堂像 重要文化財 ※邪鬼のみ天平期のもので、四天王像は後補
***平安時代
[[教王護国寺>東寺]]([[東寺]])講堂像 国宝
[[広隆寺]]像 重要文化財
[[清凉寺]]像 重要文化財
[[浄瑠璃寺]]像 国宝
奈良・興福寺東金堂像 国宝
奈良・興福寺北円堂像 国宝
兵庫・圓教寺摩尼殿像 重要文化財
兵庫・鶴林寺像 重要文化財
福岡・観世音寺像 重要文化財
***鎌倉時代以降
和歌山・金剛峯寺像 重要文化財 [[快慶>慶派]]作
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