鹿王院 - (2008/08/26 (火) 14:54:16) の1つ前との変更点
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&sizex(6){&bold(){鹿王院}}
出典: 京都府教育委員会編『鹿王院文書目録』(京都府教育委員会・1997)、鹿王院文書研究会編『鹿王院文書の研究』(思文閣出版・2000)、『国史大辞典』、『京都市の文化財 記念物』(京都市文化観光局文化部文化財・1992)ほか
&ref(rokuouin.jpg) &ref(rokuouin03.jpg)
&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){鹿王院}(ろくおういん)は、京都市右京区嵯峨北堀町にある[[臨済宗]]系の単立寺院。 山号は覚雄山、本尊は[[釈迦如来]]、開山(初代住職)は[[春屋妙葩]]、開基(創立者)は室町幕府3代将軍である[[足利義満>足利氏]]。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
鹿王院は、康暦2年(1380)に[[足利義満>足利氏]]が建立した大福田宝幢寺の開山塔として創建されたことに始まる。開山の[[春屋妙葩]]は[[夢窓疎石]]の俗甥にあたり、貞和元年(1346)より[[天龍寺]]雲居庵の塔主となった。[[夢窓>夢窓疎石]]の没後、[[春屋妙葩]]は義堂周信とともに[[夢窓>夢窓疎石]]門下の中枢として[[天龍寺]]・[[臨川寺>天龍寺]]焼失後の復旧に尽力するなど活躍したが、応安2年(1369)に[[延暦寺]]衆徒の強訴に端を発して管領細川頼之と対立し、[[春屋>春屋妙葩]]は丹後国に隠棲した。康暦元年(1379)に細川頼之が失脚したのち、[[天龍寺]]雲居庵に復職。[[南禅寺]]に住み、[[足利義満>足利氏]]の信任を得て全国の禅僧を統轄した。宝幢寺と鹿王院の建立は[[春屋>春屋妙葩]]が復帰した康暦元年(1379)のこととみられている。至徳2年(1385)に宝幢寺を十刹に列する旨、また同寺住持職は開山塔頭である鹿王院推挙の人物をもって補任されるという旨を[[足利義満>足利氏]]から得て、寺格を向上させ、宝幢寺は京都十刹の第五位に列せられた。[[春屋>春屋妙葩]]は至徳3年(1386)に宝幢寺住持を退き、嘉慶元年(1388)には体調を崩して居を鹿王院に移し、翌年に同院で没した。その後、宝幢寺とその末寺15ヵ寺は[[春屋>春屋妙葩]]門派として隆盛するも、[[応仁の乱]]によって荒廃。所領の実質支配が後退し、次第に門派運営が困難になっていった。門派の諸寺院が退転・統廃合が進行したなかで、本来は宝幢寺の開山塔所にすぎなかった鹿王院のみが残存することとなる。天正11年(1583)に鹿王院は同院領の知行を[[豊臣政権>豊臣氏]]に認められ、天正13年(1585)に行われた検地において「[[天龍寺]]之内鹿王院領」として提出していることから、この間に[[天龍寺]]の塔頭に組み込まれたようである。理由については明確ではないが、十刹寺院宝幢寺の由緒を標榜し、[[春屋>春屋妙葩]]門派の拠点寺院としての地位を維持した。寛文年間(1661~1673)には旗本酒井忠知の子で、酒井忠次([[徳川家康>徳川氏]]の功臣)の孫にあたる虎岑玄竹によって再興され、現在の堂宇のほとんどがこの頃に建てられた。庄内藩の酒井家が全面的に後援したという。単立寺院となったのは昭和43年(1968)である。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***客殿
正面の「鹿王院」の額は[[足利義満>足利氏]]筆。現在は宿坊として利用されている。
***本堂
客殿から舎利殿に至る歩廊の中間にある。延宝4年(1676)の建立。内部には[[運慶>慶派]]の作という[[釈迦如来]]像と十大弟子像、後檀の右には開山の[[普明国師>春屋妙葩]]像、左には開基の[[足利義満>足利氏]]像が安置されている。
***庭園
客殿の南に広がる庭園は、[[嵐山]]を借景とし、舎利殿を中心に樹齢400年の木斛が配された[[枯山水庭園]]で、作庭時期は不明。舎利殿の建立と同時期に庭園も整えられたものと考えられている。
***舎利殿
宝暦13年(1763)に建てられた。「嵯峨の[[金閣>金閣寺]]」とも呼ばれる。内部に安置される多宝塔には鎌倉幕府3代将軍の源実朝が宋から請来したという仏牙舎利が納められており、毎年10月15日(仏舎利が博多に到着した日)に開帳される。
***山門
室町時代に建立されたという四脚門。扁額の「覚雄山」は[[足利義満>足利氏]]の筆による。ここから本堂へ竹林を抜ける石畳の参道が美しい。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
なし
***重要文化財(建造物)
なし
***重要文化財(美術工芸品)
絹本著色[[夢窓国師>夢窓疎石]]像 絹本著色[[夢窓国師>夢窓疎石]]像 紙本著色[[釈迦三尊>釈迦如来]]及び三十祖像([[明兆>吉山明兆]]作) 紙本墨画蘭石図 絹本墨画出山[[釈迦>釈迦如来]]像 紙本墨書後醍醐天皇宸翰御消息 紙本墨書鹿王院文書 紙本墨書金剛院文書 [[「夢窓疎石]]筆臨幸私記 [[夢窓疎石]]墨蹟
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市右京区嵯峨北堀町24
電話番号 075-861-1645
拝観時間 9:00~17:00
拝観料 300円
アクセス 京福電車嵐山線「鹿王院駅」下車徒歩5分
駐車場 無料駐車場あり
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
&sizex(5){&color(red){リンク}}
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&sizex(6){&bold(){鹿王院}}
出典: 京都府教育委員会編『鹿王院文書目録』(京都府教育委員会・1997)、鹿王院文書研究会編『鹿王院文書の研究』(思文閣出版・2000)、『国史大辞典』、『京都市の文化財 記念物』(京都市文化観光局文化部文化財・1992)ほか
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&bold(){鹿王院}(ろくおういん)は、京都市右京区嵯峨北堀町にある[[臨済宗]]系の単立寺院。 山号は覚雄山、本尊は[[釈迦如来]]、開山(初代住職)は[[春屋妙葩]]、開基(創立者)は室町幕府3代将軍である[[足利義満>足利氏]]。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
鹿王院は、康暦2年(1380)に[[足利義満>足利氏]]が建立した大福田宝幢寺の開山塔として創建されたことに始まる。開山の[[春屋妙葩]]は[[夢窓疎石]]の俗甥にあたり、貞和元年(1346)より[[天龍寺]]雲居庵の塔主となった。[[夢窓>夢窓疎石]]の没後、[[春屋妙葩]]は義堂周信とともに[[夢窓>夢窓疎石]]門下の中枢として[[天龍寺]]・[[臨川寺>天龍寺]]焼失後の復旧に尽力するなど活躍したが、応安2年(1369)に[[延暦寺]]衆徒の強訴に端を発して管領細川頼之と対立し、[[春屋>春屋妙葩]]は丹後国に隠棲した。康暦元年(1379)に細川頼之が失脚したのち、[[天龍寺]]雲居庵に復職。[[南禅寺]]に住み、[[足利義満>足利氏]]の信任を得て全国の禅僧を統轄した。宝幢寺と鹿王院の建立は[[春屋>春屋妙葩]]が復帰した康暦元年(1379)のこととみられている。至徳2年(1385)に宝幢寺を十刹に列する旨、また同寺住持職は開山塔頭である鹿王院推挙の人物をもって補任されるという旨を[[足利義満>足利氏]]から得て、寺格を向上させ、宝幢寺は京都十刹の第五位に列せられた。[[春屋>春屋妙葩]]は至徳3年(1386)に宝幢寺住持を退き、嘉慶元年(1388)には体調を崩して居を鹿王院に移し、翌年に同院で没した。その後、宝幢寺とその末寺15ヵ寺は[[春屋>春屋妙葩]]門派として隆盛するも、[[応仁の乱]]によって荒廃。所領の実質支配が後退し、次第に門派運営が困難になっていった。門派の諸寺院が退転・統廃合が進行したなかで、本来は宝幢寺の開山塔所にすぎなかった鹿王院のみが残存することとなる。天正11年(1583)に鹿王院は同院領の知行を[[豊臣政権>豊臣氏]]に認められ、天正13年(1585)に行われた検地において「[[天龍寺]]之内鹿王院領」として提出していることから、この間に[[天龍寺]]の塔頭に組み込まれたようである。理由については明確ではないが、十刹寺院宝幢寺の由緒を標榜し、[[春屋>春屋妙葩]]門派の拠点寺院としての地位を維持した。寛文年間(1661~1673)には旗本酒井忠知の子で、酒井忠次([[徳川家康>徳川氏]]の功臣)の孫にあたる虎岑玄竹によって再興され、現在の堂宇のほとんどがこの頃に建てられた。庄内藩の酒井家が全面的に後援したという。単立寺院となったのは昭和43年(1968)である。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***客殿
正面の「鹿王院」の額は[[足利義満>足利氏]]筆。現在は宿坊として利用されている。
***本堂
客殿から舎利殿に至る歩廊の中間にある。延宝4年(1676)の建立。内部には[[運慶>慶派]]の作という[[釈迦如来]]像と十大弟子像、後檀の右には開山の[[普明国師>春屋妙葩]]像、左には開基の[[足利義満>足利氏]]像が安置されている。
***庭園
客殿の南に広がる庭園は、[[嵐山]]を借景とし、舎利殿を中心に樹齢400年の木斛が配された[[枯山水庭園]]で、作庭時期は不明。舎利殿の建立と同時期に庭園も整えられたものと考えられている。
***舎利殿
宝暦13年(1763)に建てられた。「嵯峨の[[金閣>金閣寺]]」とも呼ばれる。内部に安置される多宝塔には鎌倉幕府3代将軍の源実朝が宋から請来したという仏牙舎利が納められており、毎年10月15日(仏舎利が博多に到着した日)に開帳される。
***山門
室町時代に建立されたという四脚門。扁額の「覚雄山」は[[足利義満>足利氏]]の筆による。ここから本堂へ竹林を抜ける石畳の参道が美しい。
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***国宝
なし
***重要文化財(建造物)
なし
***重要文化財(美術工芸品)
絹本著色[[夢窓国師>夢窓疎石]]像 絹本著色[[夢窓国師>夢窓疎石]]像 紙本著色[[釈迦三尊>釈迦如来]]及び三十祖像([[明兆>吉山明兆]]作) 紙本墨画蘭石図 絹本墨画出山[[釈迦>釈迦如来]]像 紙本墨書後醍醐天皇宸翰御消息 紙本墨書鹿王院文書 紙本墨書金剛院文書 [[夢窓疎石]]筆臨幸私記 [[夢窓疎石]]墨蹟
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市右京区嵯峨北堀町24
電話番号 075-861-1645
拝観時間 9:00~17:00
拝観料 300円
アクセス 京福電車嵐山線「鹿王院駅」下車徒歩5分
駐車場 無料駐車場あり
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