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東本願寺 - (2008/08/27 (水) 12:06:42) のソース
&sizex(6){&bold(){東本願寺(真宗本廟)}} 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか &ref(higashihonganji.jpg) &ref(higashihonganji3.jpg) &ref(higashihonganji4.jpg) &sizex(5){&color(red){概略}} &bold(){東本願寺}(ひがしほんがんじ)は、京都市下京区にある[[浄土真宗]]の一派、真宗大谷派の本山寺院。「お東さん」の愛称でも呼ばれるが「東本願寺」は通称であり、正式名称は&bold(){真宗本廟}(しんしゅうほんびょう)。本尊は[[阿弥陀如来]]、開基(創立者)は教如(本願寺光寿)。[[徳川家康>徳川氏]]より[[本願寺>西本願寺]](現在の[[西本願寺]])の東側に寺領を与えられて創建された。近接する飛地境内地の渉成園も管理する。 &sizex(5){&color(red){歴史}} [[浄土真宗]]の宗祖[[親鸞]]の末娘覚信尼によって興った[[本願寺>西本願寺]]が、越前国(福井県)吉崎から京都の山科、大坂の石山と各地を移転しながら発展。石山での織田信長との10年間のわたる抗争・和睦を経て、天正19年(1591)に[[豊臣秀吉>豊臣氏]]からの土地の寄進を受け、京都市下京区堀川六条に移転する。本願寺11世顕如の死後、長男の教如と弟の准如が対立し、慶長7年(1602)に教如が[[徳川家康>徳川氏]]から寺領を与えられて別立することになった。このため寺が東西ふたつに分かれることとなり、教如の開いた寺を東本願寺、それまでの[[本願寺>西本願寺]]は[[西本願寺]]と通称されるようになった。江戸期には4度の火災に見舞われ、現存する建造物の多くは明治期の再建。しかし建築物・障壁画等は当時の技術の粋を集めたもので、御影堂は世界最大級の木造建築物である(現在修復工事中)。明治以降、[[親鸞]]の血筋を引く大谷家の当主が法主(宗派の教学を顕現する)、管長(真宗大谷派の代表)、住職(真宗大谷派の本山東本願寺の代表)の地位を継承し、権限を独占していたが、昭和35年(1960)頃からこうした教団のあり方をめぐって意見が対立、改革を主張する勢力が教団のあり方の改正を訴える。昭和56年(1981)になって宗憲(宗派の憲法にあたる)が改正され、教団運営が選挙で選ばれた議員による議会制となり、従来の法主、管長、住職にかわって門首が置かれるなどの改革が行われた。一方、同派の東京浅草別院住職であった大谷光紹(興如)が従来通り法主を中心とする運営を主張し、宗憲の改正と時期を同じくして真宗大谷派から分離独立し、これに賛同する末寺・門徒をまとめて「[[浄土真宗]]東本願寺派」を名乗った。大谷光紹の弟暢順(經如)や暢道(後に光道と改称、秀如)らも大谷派を離脱、現在真宗大谷派は大谷暢顯(淨如)を門首とし真宗本廟を本山とする真宗大谷派、大谷光見(聞如)を法主とし浅草別院を本山とする[[浄土真宗]]東本願寺派、大谷光輪(楽如)を門主とする財団法人本願寺維持財団、大谷光道(秀如)を当主とする東本願寺大谷家の4派に分かれている。正式名称である「真宗本廟」は親鸞の根本道場・帰依処としての「はかどころ」を意味し、分派した諸派と区別して正当性を主張する意味がある。 &sizex(5){&color(red){伽藍}} ***御影堂 正面76m、側面58m、高さ38mの二重層の建築物で、明治28年(1895)に完成した。入母屋造、桟瓦葺。宗祖[[親鸞]]の御真影が安置されている。屋根には約17万枚の瓦が使われ、90本の柱が支える堂内には927枚の畳が敷かれており、世界最大級の木造建築として有名。 ***阿弥陀堂 御影堂の南側に並んで建ち、御影堂と同じく明治28年(1895)に完成した。入母屋造、桟瓦葺。御影堂よりはやや小ぶりで単層だが、正面52m、側面47m、高さ29mの大きさを誇り、約10万枚の瓦と401枚の畳が使われている。堂内には本尊の[[阿弥陀如来]]像、本尊の左右には[[法然]]と聖徳太子の御影と、インド・中国・日本の六高僧の御影を安置する。 ***御影堂門 御影堂の東側正面にある高さ約28mの重層門で、明治44年(1911)の再建。入母屋造、桟瓦葺。楼上には「真宗本廟」の扁額が掲げられ、[[釈迦如来]]・阿難尊者・[[弥勒菩薩]]の三尊像を安置する。天井には[[竹内栖鳳]]の天女の絵が描かれる予定だったが、下絵を完成させた段階で逝去したため白いままとなっている。楼上は通常非公開。 ***阿弥陀堂門 阿弥陀堂の正面やや北寄りに建つ切妻造、檜皮葺の四脚門。唐破風を備え、江戸時代には唐門とも呼ばれた。現在の門は明治44年(1911)の再建。 ***参拝接待所 建築家[[武田五一]]の監修によって昭和9年(1934)に新築。平成10年(1998)には本願寺中興の祖、8世蓮如の500回御遠忌の記念事業として、地下部分に視聴覚ホールやギャラリーなどが設けられた。 ***諸殿(書院・能舞台・宮御殿・大寝殿・桜下亭ほか) 書院は来賓接待に使用され、白書院からは能舞台が観覧できる。宮御殿は旧[[大宮御所>京都御所]]内の御殿を移築したもので、[[琵琶湖疏水]]を利用した庭園がある。大寝殿は慶応3年(1867)に建てられた東本願寺最古の建物で[[竹内栖鳳]]の障壁画が飾られている。桜下亭は明治42年(1909)に東京霞ヶ丘に建てられた隠居所を移築したもので、[[円山応挙]]の障壁画が飾られている。これら諸殿は公式行事や来賓接待などに利用されるため通常非公開であるが、期間限定で公開されることもある。 ***渉成園(枳殻邸) 周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれる歴代門首の隠居所。平安時代に左大臣源融が奥州塩釜の景を移して海水を運ばせたという六条河原院苑池の遺構と伝わり、寛永18年(1641)に[[徳川家光>徳川氏]]から寄進された。約1万坪の[[池泉回遊式庭園]]は承応2年(1653)に[[石川丈山]]によって作庭され、印月池を中心として回棹廊(檜皮葺の廊橋)、侵雪橋(木造の反橋)、縮遠亭(中島に建つ茶室)、傍花閣(二層門)、園林堂(棟方志功の襖絵がある仏堂)などの建物が配置されている。慶応元年(1865)より明治期にかけて修復されたが、石組は当時とほぼ変わらないという。昭和11年(1936)には国の[[名勝>名勝・特別名勝]]に指定された。 ***大谷祖廟(東大谷) [[円山公園]]の南にあり、東大谷とも呼ばれる御廟所。弘長2年(1262)に[[親鸞]]の遺骨を鳥辺野の北の地に納め、10年後に改葬されて新たに祖廟が建立され、寛文10年(1670)現在地に移転した。長い参道の先に、御廟、本堂、書院、墓地などがある。本堂は元禄14年(1701)の諸堂の整備の際に建立されたもの。[[親鸞]]をはじめ、本願寺の歴代並びに全国の門徒の遺骨が納められている。 &sizex(5){&color(red){文化財}} ***国宝 教行信証([[親鸞]]筆、坂東本) ***重要文化財(建造物) なし ***重要文化財(美術工芸品) 絹本著色[[親鸞]]聖人像 紙本著色[[本願寺聖人>親鸞]]伝絵 紙本著色[[本願寺聖人>親鸞]][[親鸞]]伝絵 一念多念文意([[親鸞]]筆) ***名勝 渉成園 &sizex(5){&color(red){拝観情報}} 住所 京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754 電話番号 075-371-9181 拝観時間 5:50~17:30(3月~10月)、6:20~16:30(11月~2月) 拝観料 境内自由 アクセス JR京都駅より徒歩7分、市バス「烏丸七条」下車すぐ 駐車場 門前道路にタイムパーキングあり &sizex(5){&color(red){主な行事}} 1月1日 修正会 1月25日 [[法然]]上人御祥月命日法要 2月22日 聖徳太子御祥月命日法要 3月春分の日を中心に7日間 春季彼岸会法要 3月25日 蓮如上人御祥月命日法要 4月1日~3日 春の法要 4月1日~8日 花まつり 4月15日 立教開宗記念法要 7月14日~15日 盂蘭盆会法要 8月1日~5日 暁天講座(大谷祖廟) 8月14日~16日 万灯会(大谷祖廟) 9月秋分の日を中心に7日間 秋季彼岸会法要 9月27日~28日 大谷祖廟報恩講(大谷本廟) 11月21日~28日 宗祖[[親鸞]]聖人御正忌報恩講 12月20日 お煤払い 12月31日 歳末昏時勤行 &sizex(5){&color(red){その他}} ***京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定3級出題 「東本願寺の別邸である渉成園は誰から与えられた地に作られたか。 (ア)徳川家康 (イ)徳川秀忠 (ウ)徳川家光 (エ)徳川家綱」 &sizex(5){&color(red){リンク}} 東本願寺オフィシャル http://www.tomo-net.or.jp/ ---- #amazon(text,image,4022504471)