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慶派
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慶派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、日本仏像史(2001・美術出版社)ほか
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概略
慶派(けいは)は、平安末期から鎌倉時代に仏像彫刻史の新様式を打ち立てた仏師の一派。この派の祖である康慶は、定朝の系譜を継ぐ正系仏師の中の奈良仏師の傍流。名前に慶の字がつく者が多いことから慶派と呼ばれ、工房を京都七条に持ったことから、七条佛所ともいわれた。源頼朝に重用され、平氏の南都焼き討ちで焼失した興福寺や東大寺の復興作業を一手に担う。鎌倉政権が平氏や貴族たちと親密な関係にあった円派や院派などの仏師を敬遠したことに加え、従来の定朝様が形式に流れて迫力を失っていたこと、慶派のダイナミックな意匠が武家好みであり、新たな時代表現を感じさせたことなど、様々な条件が合致したことにより慶派一門の隆盛が始まることとなる。作品は躍動的造形を大胆に取り入れた男性的な表現を特徴とし、玉眼を嵌入するなど写実性を高めて実在感を伴うものとしている。また定朝以前の仏師とは異なり、慶派の仏師は仏像胎内に署名や記録文書を残したため、仏像の作者を特定することが可能となった。
慶派(けいは)は、平安末期から鎌倉時代に仏像彫刻史の新様式を打ち立てた仏師の一派。この派の祖である康慶は、定朝の系譜を継ぐ正系仏師の中の奈良仏師の傍流。名前に慶の字がつく者が多いことから慶派と呼ばれ、工房を京都七条に持ったことから、七条佛所ともいわれた。源頼朝に重用され、平氏の南都焼き討ちで焼失した興福寺や東大寺の復興作業を一手に担う。鎌倉政権が平氏や貴族たちと親密な関係にあった円派や院派などの仏師を敬遠したことに加え、従来の定朝様が形式に流れて迫力を失っていたこと、慶派のダイナミックな意匠が武家好みであり、新たな時代表現を感じさせたことなど、様々な条件が合致したことにより慶派一門の隆盛が始まることとなる。作品は躍動的造形を大胆に取り入れた男性的な表現を特徴とし、玉眼を嵌入するなど写実性を高めて実在感を伴うものとしている。また定朝以前の仏師とは異なり、慶派の仏師は仏像胎内に署名や記録文書を残したため、仏像の作者を特定することが可能となった。
人物史・作風と代表的な作品
康慶(こうけい) 生没年不詳
慶派の棟梁仏師として慶派の基礎を築いた。定朝から五代目の康朝の弟子と考えられ、息子運慶と弟子快慶を筆頭とした仏師集団を指揮する。蓮華王院(三十三間堂)の造像に関わり、東大寺・興福寺の復興にあたっては運慶や快慶ら一門を挙げて活躍する。個性的な風貌や力強い表現による「鎌倉様式」を生み出した祖。
不空羂索観音坐像 興福寺南円堂 国宝
不空羂索観音坐像 興福寺南円堂 国宝
運慶(うんけい) 久安4年?~貞応2年(1148?~1224)
日本仏像史を代表する天才仏師。白鳳・天平時代の仏像の古典を研究し、男性的な表情、変化に富んだ衣文、量感に富む力強い体躯などの特徴を持つ独自の作風を完成させた。建久7年(1196)に父康慶や快慶らとともに東大寺大仏殿の両脇侍像と四天王像の造立に携わる(のちに焼失し現存せず)。建仁3年(1203)には東大寺南大門の金剛力士(仁王)像を造立。解体修理の際に、胎内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶らが多くの小仏師を率いてわずか2ヶ月で造立したことが裏付けられ、運慶が総指揮にあたったものと考えられている。興福寺北円堂に安置される無著・世親像は、肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている。運慶の作と称されている仏像は日本各地にきわめて多い(特に仁王像に多い)が、銘記、像内納入品、信頼できる史料、作風、技法等から運慶の真作と確認されている作品は少ない。
地蔵菩薩?坐像 六波羅蜜寺?所蔵 重要文化財
大日如来坐像 奈良・円成寺所蔵 国宝
金剛力士立像 奈良・東大寺所蔵 国宝
弥勒菩薩?坐像、無著菩薩・世親菩薩立像 奈良・興福寺北円堂所蔵 国宝
八大童子立像 和歌山・金剛峯寺所蔵 国宝
地蔵菩薩?坐像 六波羅蜜寺?所蔵 重要文化財
大日如来坐像 奈良・円成寺所蔵 国宝
金剛力士立像 奈良・東大寺所蔵 国宝
弥勒菩薩?坐像、無著菩薩・世親菩薩立像 奈良・興福寺北円堂所蔵 国宝
八大童子立像 和歌山・金剛峯寺所蔵 国宝
快慶(かいけい) 生没年不詳
康慶の弟子で、運慶と並び称される巧匠。安阿弥陀仏とも称し、「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれる穏やかで理知的、絵画的で繊細な作風は慶派の中では異色の存在。三尺前後の阿弥陀如来像の作例が多く、在銘の現存作も多い。師康慶や運慶とともに、平氏の南都焼き討ちで壊滅的な被害を受けた東大寺や興福寺の復興造仏事業に携わる。東大寺大仏再興の大勧進(総責任者)であった俊乗坊重源と関係が深く、東大寺の僧形八幡神像や東大寺俊乗堂の阿弥陀如来立像など重源関係の造像を数多く手掛けた。兵庫・浄土寺の阿弥陀三尊像なども、重源が設置した東大寺別所の造像である。作品は、銘記や関係史料から真作と判明しているものだけで40件近く現存し、制作年が明らかなものが多い。また大寺院だけでなく、由緒の明らかでない小寺院にも作品が残されている。
弥勒菩薩?坐像 醍醐寺三宝院所蔵 重要文化財
金剛薩埵坐像 隨心院?所蔵 重要文化財
十大弟子立像 大報恩寺(千本釈迦堂)所蔵 重要文化財
僧形八幡神坐像 奈良・東大寺所蔵 国宝
阿弥陀如来立像 奈良・東大寺俊乗堂所蔵 重要文化財
文殊菩薩五尊像 奈良・安倍文殊院所蔵 重要文化財
大日如来坐像 滋賀・石山寺所蔵 重要文化財
阿弥陀三尊立像 兵庫・浄土寺所蔵 国宝
孔雀明王像 和歌山・金剛峯寺所蔵 重要文化財
弥勒菩薩?坐像 醍醐寺三宝院所蔵 重要文化財
金剛薩埵坐像 隨心院?所蔵 重要文化財
十大弟子立像 大報恩寺(千本釈迦堂)所蔵 重要文化財
僧形八幡神坐像 奈良・東大寺所蔵 国宝
阿弥陀如来立像 奈良・東大寺俊乗堂所蔵 重要文化財
文殊菩薩五尊像 奈良・安倍文殊院所蔵 重要文化財
大日如来坐像 滋賀・石山寺所蔵 重要文化財
阿弥陀三尊立像 兵庫・浄土寺所蔵 国宝
孔雀明王像 和歌山・金剛峯寺所蔵 重要文化財
定慶(じょうけい) 生没年不詳
湛慶(たんけい) 承安3年~建長8年(1173~1256)
運慶の長男。父運慶の写実性を受け継ぎつつも、躍動感をおさえて穏健な趣にまとめあげた「湛慶様式」を完成させる。晩年には蓮華王院(三十三間堂)本尊の千手観音坐像を造像。本尊の左右に林立する千手観音立像中にも湛慶作の銘をもつものが数躯ある。
千手観音坐像 蓮華王院(三十三間堂)所蔵 国宝
千手観音坐像 蓮華王院(三十三間堂)所蔵 国宝
康勝(こうしょう) 生没年不詳
運慶の四男。建久9年(1198)頃、父に従い兄湛慶らと共に教王護国寺(東寺)の仁王像および二天像を、天福元年(1233)には弘法大師像を制作した。六波羅蜜寺?に安置される空也?上人立像は「僧康勝」の銘があり、代表作として著名である。
弘法大師像 教王護国寺(東寺)所蔵 国宝
空也?上人立像 六波羅蜜寺?所蔵 重要文化財
弘法大師像 教王護国寺(東寺)所蔵 国宝
空也?上人立像 六波羅蜜寺?所蔵 重要文化財
行快(ぎょうかい) 生没年不詳
快慶の弟子。大報恩寺(千本釈迦堂)の本尊である釈迦如来像を造像した。奈良・長谷寺の十一面観音像の制作においては師快慶を補佐し、蓮華王院(三十三間堂)の千手観音立像にも銘を残す。
釈迦如来坐像 大報恩寺(千本釈迦堂) 重要文化財
釈迦如来坐像 大報恩寺(千本釈迦堂) 重要文化財
その他
京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「鞍馬寺の聖観音菩薩像の作者は誰か。 (ア)康勝 (イ)定慶 (ウ)湛慶 (エ)康円」
「鞍馬寺の聖観音菩薩像の作者は誰か。 (ア)康勝 (イ)定慶 (ウ)湛慶 (エ)康円」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「六波羅蜜寺の空也上人立像の作者は誰か。 (ア)運慶 (イ)湛慶 (ウ)快慶 (エ)康勝」
「六波羅蜜寺の空也上人立像の作者は誰か。 (ア)運慶 (イ)湛慶 (ウ)快慶 (エ)康勝」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「六波羅蜜寺の空也上人立像の作者である康勝は何派の仏師か。」
「六波羅蜜寺の空也上人立像の作者である康勝は何派の仏師か。」