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栄西
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栄西
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)、『うちのお寺は臨済宗』(双葉社・1997)ほか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)、『うちのお寺は臨済宗』(双葉社・1997)ほか

概略
栄西(ようさい・えいさい)は臨済宗?の開祖として著名な僧。一般的には「えいさい」と呼ばれるが、臨済宗?の寺では「ようさい」と呼ばれる。諡号は千光国師。「茶祖」としても知られる。永治元年~建保3年(1141~1215 ※生年には異説がある)
栄西(ようさい・えいさい)は臨済宗?の開祖として著名な僧。一般的には「えいさい」と呼ばれるが、臨済宗?の寺では「ようさい」と呼ばれる。諡号は千光国師。「茶祖」としても知られる。永治元年~建保3年(1141~1215 ※生年には異説がある)
人物史
備中国(現岡山県)生まれ。吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれる。幼いときから父に従って仏教の手ほどきを受け、11歳の時、父の友人である安養寺の静心(じょうしん)和尚に師事。天台?密教?を本格的に学びはじめる。14歳で延暦寺に登るが、その堕落に絶望し、それを改革するため宋で密教?を学ぶことを希望し、仁安3年(1168)、28歳のときに入宋を果たした。当時、宋では既に禅宗が台頭していたため密教?を学ぶことはできなかったが、流行していた南宋禅を知ったことを成果とし、帰国する。帰国後は九州を中心に布教活動を展開。しかし、このころから仏教の正しい教えを学びたいと願い、今度は宋を経て天竺(インド)へ行きたいと強く希望するようになる。文治3年(1187)二度目の入宋。許可が降りず天竺行きは断念したが、その地で天台山万年寺の虚庵懐敞(きあんえじょう)に師事、5年あまり臨済宗?黄龍派の禅の修行にはげみ、明菴(みんなん)の道号をさずけられた。帰国後博多に日本最初の禅寺聖福寺を建立の後、京都に戻って禅による天台宗?の再興を試みるも、延暦寺の猛反発に合い、朝廷からは「禅停止」の命を受けた。その後、鎌倉幕府2代将軍源頼家の庇護を受け、建仁2年(1202)、京都に建仁寺を設立し、寺内に真言院・天台・禅の三宗をおき、比叡山の末寺として出発する。ここにはじめて禅宗が公認されることとなった。75歳にて鎌倉の寿福寺にて没。著書に茶の効能をまとめた『喫茶養生記』や『興禅護国論』など。茶は、栄西が二度目の渡宋からの帰国の際、日本に持ち帰ったもので、高山寺の栂尾茶園は明恵が栄西から贈られた茶種を栽培したもの。
備中国(現岡山県)生まれ。吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれる。幼いときから父に従って仏教の手ほどきを受け、11歳の時、父の友人である安養寺の静心(じょうしん)和尚に師事。天台?密教?を本格的に学びはじめる。14歳で延暦寺に登るが、その堕落に絶望し、それを改革するため宋で密教?を学ぶことを希望し、仁安3年(1168)、28歳のときに入宋を果たした。当時、宋では既に禅宗が台頭していたため密教?を学ぶことはできなかったが、流行していた南宋禅を知ったことを成果とし、帰国する。帰国後は九州を中心に布教活動を展開。しかし、このころから仏教の正しい教えを学びたいと願い、今度は宋を経て天竺(インド)へ行きたいと強く希望するようになる。文治3年(1187)二度目の入宋。許可が降りず天竺行きは断念したが、その地で天台山万年寺の虚庵懐敞(きあんえじょう)に師事、5年あまり臨済宗?黄龍派の禅の修行にはげみ、明菴(みんなん)の道号をさずけられた。帰国後博多に日本最初の禅寺聖福寺を建立の後、京都に戻って禅による天台宗?の再興を試みるも、延暦寺の猛反発に合い、朝廷からは「禅停止」の命を受けた。その後、鎌倉幕府2代将軍源頼家の庇護を受け、建仁2年(1202)、京都に建仁寺を設立し、寺内に真言院・天台・禅の三宗をおき、比叡山の末寺として出発する。ここにはじめて禅宗が公認されることとなった。75歳にて鎌倉の寿福寺にて没。著書に茶の効能をまとめた『喫茶養生記』や『興禅護国論』など。茶は、栄西が二度目の渡宋からの帰国の際、日本に持ち帰ったもので、高山寺の栂尾茶園は明恵が栄西から贈られた茶種を栽培したもの。
その他
京都検定出題
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「宋から喫茶の風習を持ち帰り、禅宗と共に茶を広めた栄西が開いた寺院はどこか。」
「宋から喫茶の風習を持ち帰り、禅宗と共に茶を広めた栄西が開いた寺院はどこか。」