東京へ帰る。
そう決めると大分心が落ち着いた。
この部屋から出なければ安全だろう。
例令(たとえ)、何があったとしても。
この部屋から出なければ安全だろう。
例令(たとえ)、何があったとしても。
――これ以上深入りすると、死ぬぞ。
京極堂は云っていた。
京極堂は云っていた。
これは深入りしなければいいのだ。
私はもう東京へ帰るのだ――だから何も問題はない。
私はもう東京へ帰るのだ――だから何も問題はない。
そう後は鳥口が帰ってくるのを待てばいいのだ。
それまで何をする?――帰り支度だ!
それまで何をする?――帰り支度だ!
私はいそいそと荷物の整理を始めた。
鞄の中に出していた衣服などを詰めていると、ひとつの手帳を見つけた。
鞄の中に出していた衣服などを詰めていると、ひとつの手帳を見つけた。
これは?――鷹野三四の切り抜き帳・・・
どうせ、私にはもう関係のない事なのだが、暇つぶしに何となく読んでみた。
そこには驚くべき事が書かれていた。
そして、私は解った。
この村で起きている事柄の形が。
"そう云う事だったのか"。
【切り抜き帳より(抜粋)】
<綿流しの意義について>
生贄を狩り、それを饗す宴、綿流し。
それ自体は異常なものでありながらも、同時に娯楽性を伴うものだと考えられてきた。
(異常な行為に娯楽性を感じるという「無理」によって、
自分たちが人間を超越した存在だと信じこもうとしたのかもしれない)
だが、その説に一石を投じる興味深い文献を見つけた。
(異常な行為に娯楽性を感じるという「無理」によって、
自分たちが人間を超越した存在だと信じこもうとしたのかもしれない)
だが、その説に一石を投じる興味深い文献を見つけた。
口伝らしく、鵜呑みにできるものではなさそうだが、その内容は少し興味を惹く。
それによると、鬼ヶ淵村の住民にも、この儀式を「恐れる」感情があったと云うのだ。
それによると、鬼ヶ淵村の住民にも、この儀式を「恐れる」感情があったと云うのだ。
これは非常に面白い異聞だ
私はこれまで、鬼ヶ淵村の住民は綿流しの儀式にある種の陶酔を得ていると考えてきた。
だが、この儀式によって村人が得ていたものが陶酔ではなく恐怖だったとすると、
儀式の意味するところは大きく変わってしまう。
私はこれまで、鬼ヶ淵村の住民は綿流しの儀式にある種の陶酔を得ていると考えてきた。
だが、この儀式によって村人が得ていたものが陶酔ではなく恐怖だったとすると、
儀式の意味するところは大きく変わってしまう。
つまり、有力者達が自分達の都合のいいように組み上げた戒律を厳守させるために催した、
見せしめの処刑だった可能性が出てくる。
鬼ヶ淵村を実効支配してきたのは御三家と呼ばれる3つの旧家だ。
この御三家の研究なくして、鬼ヶ淵村の真実には迫れまい。
見せしめの処刑だった可能性が出てくる。
鬼ヶ淵村を実効支配してきたのは御三家と呼ばれる3つの旧家だ。
この御三家の研究なくして、鬼ヶ淵村の真実には迫れまい。
<オヤシロ様について>
オヤシロ様が、どういう字で書くのかはあまり知られていない。
と云うのも、時代によって様々な修飾詞が付き、微妙に名称が変わったり、
当て字が変わったりするため、正式な名称を知る事が大変難しいからだ。
と云うのも、時代によって様々な修飾詞が付き、微妙に名称が変わったり、
当て字が変わったりするため、正式な名称を知る事が大変難しいからだ。
全ての時代に共通するのは、名称の読みに必ず「オヤシロ」の4文字が入るという事だけ。
オヤシロ様を祀る「社(やしろ)」が、そのまま礼拝対象になり、
「御社さま」と呼ばれるに至った云う説があるが、あまり頂けない。
オヤシロ様を祀る「社(やしろ)」が、そのまま礼拝対象になり、
「御社さま」と呼ばれるに至った云う説があるが、あまり頂けない。
これに関連するかわからないが、オヤシロ様を祀る高貴な血筋である古手家の人間には、
オヤシロ様の血が流れていると云う。
オヤシロ様の血が流れていると云う。
そして古手家に伝えられる伝説では、八代続いて第一子が女子ならば、
八代目のその娘はオヤシロ様の生まれ変わりである――と云うのだ。
八代目のその娘はオヤシロ様の生まれ変わりである――と云うのだ。
この伝説に従うなら、オヤシロ様は「御八代様」と書くのが正しいと思う。
(この当て字はあくまでも私の思いつきなので、真偽は確かめようもないが)
(この当て字はあくまでも私の思いつきなので、真偽は確かめようもないが)
だとするなら、御八代様は再び降臨する事を前提にした名称と云う事になる。
崇拝対象の再臨は、いくつかの宗教でも見受けられるので、そんなに珍しいものではない。
だが、さらにその中のいくつかでは、崇拝対象の再臨を「審判の日」等と呼び、
世界の終末を意味するものである事も忘れてはならないだろう。
崇拝対象の再臨は、いくつかの宗教でも見受けられるので、そんなに珍しいものではない。
だが、さらにその中のいくつかでは、崇拝対象の再臨を「審判の日」等と呼び、
世界の終末を意味するものである事も忘れてはならないだろう。
村中の年寄り連中に、目に入れても痛くないくらい甘やかされている少女、古手梨花。
――彼女が、その八代目、「御八代様」であると云う噂がある。
古手の家系図はわからないが、少なくとも過去2代の間、第一子が女児である事は私も確認している。
雛見沢を見守る少女、古手梨花。彼女の加護を村が失ったらどうなるのか?
人と鬼は和を失い、どうなるのか?想像するだけでも――胸が、躍る。
雛見沢を見守る少女、古手梨花。彼女の加護を村が失ったらどうなるのか?
人と鬼は和を失い、どうなるのか?想像するだけでも――胸が、躍る。
<「帰巣性」と「望郷症」について>
広義の意味で「帰巣性」を取り扱うなら、およそほとんどの生き物に帰巣性があると云えるだろう。
人間についても同じで、我々は睡眠や休息、食事と云った行為を、馴染んでいる家で行いたがる。
この家は、まさに巣に通じるだろう。故(ゆえ)に人にも帰巣性があると云える。
人間についても同じで、我々は睡眠や休息、食事と云った行為を、馴染んでいる家で行いたがる。
この家は、まさに巣に通じるだろう。故(ゆえ)に人にも帰巣性があると云える。
そもそも何故動物は巣を必要とするのか。
睡眠や休息、食事と云う行為は、生存のために不可欠な行為であり、同時に隙を見せる行為でもある。
その為、隙を見せても大丈夫な「安全地帯」を設ける必要があったからである。
この「安全地帯」を得ない事が、高度な精神的抑圧を与えることは自明だろう。
睡眠や休息、食事と云う行為は、生存のために不可欠な行為であり、同時に隙を見せる行為でもある。
その為、隙を見せても大丈夫な「安全地帯」を設ける必要があったからである。
この「安全地帯」を得ない事が、高度な精神的抑圧を与えることは自明だろう。
動物を慣れない環境に強制的に移せば、相当の精神的抑圧を与える事になるし。
人間とて、不慣れな土地で気を許せない生活を強いれば、相当の精神的抑圧を受ける。
そしてその抑圧から生じる症状が「望郷症」である。
本邦ではあまり馴染みがないが、西洋では「ホーム・シック」(家の病)と呼ばれ、
中世から研究され、精神的なものではなく、肉体的な病気とまで信じられていた。
(略)
ただし、病と呼ぶのは正しくない。正確には「望郷症」とは、
郷里と云う「安全地帯」へ戻りたいと脳が要求する、帰巣信号であると云えるからだ。
始め脳は郷里などへの思い出などを掻きたて、自然な帰郷を促す。
だが理性がそれを咎め帰郷を果たせないと、脳は身体に異常な信号を送るようになる。
その結果、衰弱が起こり、より異郷での生活を困難としていき、
最後には理性を曲げる事で、帰郷を果たすのである。
人間とて、不慣れな土地で気を許せない生活を強いれば、相当の精神的抑圧を受ける。
そしてその抑圧から生じる症状が「望郷症」である。
本邦ではあまり馴染みがないが、西洋では「ホーム・シック」(家の病)と呼ばれ、
中世から研究され、精神的なものではなく、肉体的な病気とまで信じられていた。
(略)
ただし、病と呼ぶのは正しくない。正確には「望郷症」とは、
郷里と云う「安全地帯」へ戻りたいと脳が要求する、帰巣信号であると云えるからだ。
始め脳は郷里などへの思い出などを掻きたて、自然な帰郷を促す。
だが理性がそれを咎め帰郷を果たせないと、脳は身体に異常な信号を送るようになる。
その結果、衰弱が起こり、より異郷での生活を困難としていき、
最後には理性を曲げる事で、帰郷を果たすのである。
つまり「帰巣性」ゆえに「望郷症」が生み出されるのである。
同時に、「帰巣性」が強ければ、より強力な「望郷症」が生み出されるわけでもある。
また「帰巣性」の強さには、個人差や、環境の安全性の多加や、文化的な地域差もみられる。
同時に、「帰巣性」が強ければ、より強力な「望郷症」が生み出されるわけでもある。
また「帰巣性」の強さには、個人差や、環境の安全性の多加や、文化的な地域差もみられる。
そんな中にあって、極めて過剰に「帰巣性」が強いと考えられるのが「鬼ヶ淵村」の仙人達である。
彼らは、戒律により村から出る事を禁じていた。
(これには前記の選民思想や穢れ意識などが作用していると思われる)
彼らは、戒律により村から出る事を禁じていた。
(これには前記の選民思想や穢れ意識などが作用していると思われる)
禁を破って村を捨てれば、必ずオヤシロ様が追ってきて祟りを成すと云う、
現在でも強く信じられている迷信は、前記の「望郷症」と捉える事もできる。
「帰巣性」と「望郷症」の関係が比例的であるならば、
祟りと云う大袈裟な表現はまさに「望郷症」及び「帰巣性」の強さを示すものである。
その「帰巣性」の強さ故に、下界を強く忌み嫌い閉鎖社会を形成したのではないだろうか。
(略)
ところが、明治以降の近年になって事情が一変した。
近代化の波が押し寄せ、村人の流出が始まったのである。
ここで、鬼が淵村の仙人の末裔達は、初めて己の「望郷症」の強さを知るのである。
現在でも強く信じられている迷信は、前記の「望郷症」と捉える事もできる。
「帰巣性」と「望郷症」の関係が比例的であるならば、
祟りと云う大袈裟な表現はまさに「望郷症」及び「帰巣性」の強さを示すものである。
その「帰巣性」の強さ故に、下界を強く忌み嫌い閉鎖社会を形成したのではないだろうか。
(略)
ところが、明治以降の近年になって事情が一変した。
近代化の波が押し寄せ、村人の流出が始まったのである。
ここで、鬼が淵村の仙人の末裔達は、初めて己の「望郷症」の強さを知るのである。
雛見沢住民は異常に「望郷症」が強かったのである。
やがてその「望郷症」を誰ともなく「オヤシロ様の祟り」と呼ぶようになった。
しかも、出稼ぎに出た誰かが、異境の地で祟りに遭い、変死したとの噂が流れると、
流出住民達は次々と村か、周辺の町に舞い戻ってくる事となる。
やがてその「望郷症」を誰ともなく「オヤシロ様の祟り」と呼ぶようになった。
しかも、出稼ぎに出た誰かが、異境の地で祟りに遭い、変死したとの噂が流れると、
流出住民達は次々と村か、周辺の町に舞い戻ってくる事となる。
この「望郷症」「帰巣性」の強さは、おそらく文化によるもの、即ち雛見沢独自の信仰である
オヤシロ様信仰により培われたと考えるのが妥当だろう。
彼らは生まれた時から無意識にオヤシロ様の戒律を刷り込まれ、
村を出る事に対し、無意識の内に罪を感じていたに違いない。
オヤシロ様信仰により培われたと考えるのが妥当だろう。
彼らは生まれた時から無意識にオヤシロ様の戒律を刷り込まれ、
村を出る事に対し、無意識の内に罪を感じていたに違いない。
その結果「望郷症」を「オヤシロ様の祟り」と捉えたのだろう。
オヤシロ様の戒律があるから「帰巣性」が強まったのか、
「望郷症」が強すぎるからオヤシロ様の戒律を作ったのか。
「望郷症」が強すぎるからオヤシロ様の戒律を作ったのか。
――卵が先か鶏が先かははっきりしない。
<「オヤシロ様の祟り」について>
明治の頃の、流出住民集団帰郷の際、帰郷者達のある異常現象の噂が流れた。
雛見沢を離れると、傷口から得体の知れないものが湧き出し体中を内側から食い尽くすと云うのである。
雛見沢を離れると、傷口から得体の知れないものが湧き出し体中を内側から食い尽くすと云うのである。
その帰郷者達の異常について、当時の古手神社の神主はそれこそ「オヤシロ様の祟り」の印と説いた。
当時の口伝によると、神主は不出である絵巻物を広げ、
その「虫湧き」が太古の昔から語り継がれていた事を示したらしい。
その「虫湧き」が太古の昔から語り継がれていた事を示したらしい。
何でも、鬼たちがやって来たという「鬼の国」は「死者の国」とも読み取れるらしく
死者の国の鬼たちは、常にその身には寄生する何かが棲み続けていると云うのである。
死者の国の鬼たちは、常にその身には寄生する何かが棲み続けていると云うのである。
その鬼たちの血を宿す彼らは、オヤシロ様の加護がある雛見沢では問題がないが、
異境の地で加護を失うと、鬼の血の中で眠っていた奇妙な存在が目覚め、
全身に溢れかえって、その身を食い尽くしてしまうというのだ。
異境の地で加護を失うと、鬼の血の中で眠っていた奇妙な存在が目覚め、
全身に溢れかえって、その身を食い尽くしてしまうというのだ。
しばらくの間、この異常現象はひどく恐れられ、仕事の都合で郷里を離れなければならない時には、
この「祟り」から許しを得る免罪符を神社に求めたという。
(略)
ここで、興味深いのは、異常現象の噂が流れる以前には、住民達はこれについて知らなかった点である。
私の刷り込まれた信仰が「望郷症」を「祟り」と認識させるという説と真っ向から対立する。
この「祟り」から許しを得る免罪符を神社に求めたという。
(略)
ここで、興味深いのは、異常現象の噂が流れる以前には、住民達はこれについて知らなかった点である。
私の刷り込まれた信仰が「望郷症」を「祟り」と認識させるという説と真っ向から対立する。
祟りを鵜呑みにした集団帰郷者達にある種の集団妄想が取り憑き、
それを神主が巧に信仰心へ誘導したと読み取るのが確かに自然ではあるのだが――。
それを神主が巧に信仰心へ誘導したと読み取るのが確かに自然ではあるのだが――。
偶然の集団妄想が、たまたま太古の絵巻物と一致しただけとするのは、どうにも腑に落ちない。
「オヤシロ様の祟り」を受けると何の予備知識が無くても傷口から何かが現れるのだろうか?
「オヤシロ様の祟り」を受けると何の予備知識が無くても傷口から何かが現れるのだろうか?
誰か「祟り」を私の目の前で受けてはくれないだろうか――是非観察してみたいものだ。
<「寄生虫」による宿主支配について>
集団帰郷者に起こった異常現象について考えたのだが、そもそも雛見沢の過度な「望郷症」が、
何らかの寄生虫による感染症とは考えられないだろうか。
何らかの寄生虫による感染症とは考えられないだろうか。
これは、彼らが傷口から湧き出す得体の知れないものをみたからと云う事ではなく、
そもそも彼らが文化(信仰)だと思っているものが、感染症と関連するのではないかと云う仮説である。
そもそも彼らが文化(信仰)だと思っているものが、感染症と関連するのではないかと云う仮説である。
感染症の多くは、寄生虫たちが望まず引き起こしているものである。
寄生虫にとって宿主は文字通りに宿である。
よって、彼らにとっての究極の寄生とは、宿主に気付かれない完全な共生であろう。
寄生虫にとって宿主は文字通りに宿である。
よって、彼らにとっての究極の寄生とは、宿主に気付かれない完全な共生であろう。
だが、寄生虫たちは時に、宿主を支配して自らの繁栄に利用しようとすることがある。
たとえば、中間宿主を経由して感染する寄生虫にみられる能力に、宿主の行動を支配して、
より上位の宿主にわざと補食させ、伝染しようとする試みが知られている。
たとえば、中間宿主を経由して感染する寄生虫にみられる能力に、宿主の行動を支配して、
より上位の宿主にわざと補食させ、伝染しようとする試みが知られている。
代表的な例では、蝸牛、蟻を中間宿主とし――(略)――伝染させる確率を向上させている。
また、不特定多数の宿主への無差別感染を目的とし――(略)――ちなみにこれは破傷風の事。
また、不特定多数の宿主への無差別感染を目的とし――(略)――ちなみにこれは破傷風の事。
このように、寄生虫には自らの繁栄の為に、宿主を支配する能力を宿すものも少なくない。
さて、これまで挙げたもののほとんどは、寄生虫たちがより繁栄し伝染していく為のものだが、
もっと単純に、彼らがより過ごしやすい環境を欲して宿主の行動を支配する事もあるのではないか。
ここで、かつて提唱した、鬼ヶ淵村住民の異常な「帰巣性」と「望郷症」を関連させられないかと思う。
つまり、雛見沢にはある種の寄生虫が蔓延していて、村人全てに寄生していると仮定する。
さて、これまで挙げたもののほとんどは、寄生虫たちがより繁栄し伝染していく為のものだが、
もっと単純に、彼らがより過ごしやすい環境を欲して宿主の行動を支配する事もあるのではないか。
ここで、かつて提唱した、鬼ヶ淵村住民の異常な「帰巣性」と「望郷症」を関連させられないかと思う。
つまり、雛見沢にはある種の寄生虫が蔓延していて、村人全てに寄生していると仮定する。
その寄生虫たちは、この雛見沢がもっとも居心地のよい環境であり、
宿主に対してこの地に留まり続けるように、強い「帰巣性」を与え、無視して土地を離れようとすると、
「望郷症」を引き起こして抵抗するのではないだろうか。
宿主に対してこの地に留まり続けるように、強い「帰巣性」を与え、無視して土地を離れようとすると、
「望郷症」を引き起こして抵抗するのではないだろうか。
寄生虫は名が示す通り、宿主に寄生しなければ生きていけない。
そんな彼らにとって、自分たちの過ごしやすい環境に、
宿主である人間が社会を形成して住み続ける事は都合がいいはずだ。
そんな彼らにとって、自分たちの過ごしやすい環境に、
宿主である人間が社会を形成して住み続ける事は都合がいいはずだ。
この宿主を自分たちの過ごしやすい土地に縛り付けようとする寄生虫の存在を仮定すると、
意外にもこれまでのナゾに説明がつけやすい。
意外にもこれまでのナゾに説明がつけやすい。
つまり、太古の鬼ヶ淵村の仙人達は、この寄生虫の存在を知っていた事になる。
だから、宿主である自分達が村を離れて生きていけない事を知っていて、俗世を嫌う文化を創った。
だから、宿主である自分達が村を離れて生きていけない事を知っていて、俗世を嫌う文化を創った。
それは近年のダム戦争の異常な盛り上がりも説明できる。
では、オヤシロ様の伝説で語られる、沼から湧き出した鬼とはつまり、
寄生虫の大量発生の事なのではないだろうか。
寄生虫の大量発生の事なのではないだろうか。
鬼たちが村を襲ったという記述は、おそらく末期の感染者の錯乱した行為を示すに違いない。