三面鏡の少女 70
その瞬間まで、彼女の精神と身体を支配していたのは恐怖だった
過去に植え付けられた絶望的状況の心的外傷は、無意識のうちにその原因である悪意ある都市伝説を倒す事に向けられていた
だが、いざその心的外傷と全く同じものに襲われた時
かつて付けられた古傷を、全く同じ方法で抉られた時
刻み込まれた恐怖と絶望は明確に蘇り、積み重ねてきた克己心を嘲笑うかのように突き崩した
恐怖の中で思う事はただ一つ
過去に植え付けられた絶望的状況の心的外傷は、無意識のうちにその原因である悪意ある都市伝説を倒す事に向けられていた
だが、いざその心的外傷と全く同じものに襲われた時
かつて付けられた古傷を、全く同じ方法で抉られた時
刻み込まれた恐怖と絶望は明確に蘇り、積み重ねてきた克己心を嘲笑うかのように突き崩した
恐怖の中で思う事はただ一つ
誰か、助けて
ただそれだけで
過去に彼女を助けてくれたあの黒服は、無残な動く骸となり果て
彼女自身がその手で止めを刺した
もう誰も助けてくれる者は居ない
そのはずだったのに
「繰ちゃんっ!!」
聞こえてきたその声に、繰の胸の内で何かが跳ね上がる
冷たい床の感触が離れ、身体を包み込む優しい温かさ
「せん……せ……」
「もう、大丈夫だよ」
目隠しと猿轡を外されて、頭を撫でてくれた
助かったのだという実感で心が満たされ安堵した、その瞬間
それまで恐怖と混乱で押さえ込まれていた感覚が、全身に染み込むように広がっていく
腕の、足の拘束を解かれ身体が自由になったものの、それ以上に熱に浮かされたように身体の自由が利かなかった
これが普通の女性なら、身体の火照りを鎮めるべく即座に行動に移っていただろう
だがこの宮定繰、性的興奮と性行為を関連付ける知識が欠如していた
発散される事無く内側でぐるぐると堂々巡りを繰り返す性的興奮は既に臨界点に達している
「ザン様……『ドリスの土』を」
水に溶くなどして服用する『ドリスの土』
小瓶に入ったそれを繰の口元まで運ぶものの、薄く開いているだけの口元を伝いぽたぽたと流れ落ちてしまう
「繰ちゃん、これを飲めば楽になるから。頑張って」
そう声を掛けても既に反応は鈍く、ぼんやりとした目で見詰め返すだけ
このままでは彼女が『壊れ』てしまう
そう悟ったディランは小瓶の中身を自らの口に含むと、繰に唇を重ねて呼吸の妨げにならないようにゆっくりと流し込む
口腔内の水分に反応し、繰の喉がこくりと動いた
「ん……」
焦点が合わずにぼんやりとしていた目に、生気が戻る
そっと唇を離し、安堵の表情で胸を撫で下ろすディラン
「先生……」
繰は切なげな声を上げて、一度離れたディランの唇を追うように
背中へと手を回し、自ら飛び込むようにもう一度その唇を重ね合わせた
「あれ、治ってない?」
ディランが思わず取り落とした小瓶をザンが確認するが、それは間違いなく『ドリスの土』を溶かした水を入れた瓶である
そもそもこれでディランが受けた女郎蜘蛛の毒を浄化したのだ、間違っているはずは無い
というか繰の身体はすっかり元に戻っている
淫魔の気に中てられた折の性的興奮が呼び水になり、思春期なりの性的欲求不満が爆発しただけである
危機的状況の自分を助けてくれた親密な異性の口付けが、たった一つの性的欲求不満の捌け口と認識され、本能的に『もっと』と身体が反応してしまったのだ
だが、当然ながら身体の状態は正常に戻り、愛欲に溺れたいという淫気は全力ダッシュで戻ってきた正気に勢いをつけたドロップキックで吹っ飛ばされる
ぱちんとスイッチが入ったようにいつもの思考に戻った繰は、唇を重ね合ったまま心臓から脳天までがちりちりと熱されていく感覚に襲われた
先程までとは全く違う、首から上の穴という穴から湯気でも噴き出しそうな、そんな熱が繰の頭を茹らせる
乱暴に跳ね除けるわけにもいかずあたふたとしているディラン
どうしたものかと考えあぐねているザン
封印された硝子箱の中で目を覆い、後ろを向いて丸くなっている菊花
それらの姿を一通り確認した後
スイッチを入れるように正気を取り戻した繰は、ブレーカーが落ちるかのようにそのままかくんと気絶していた
過去に彼女を助けてくれたあの黒服は、無残な動く骸となり果て
彼女自身がその手で止めを刺した
もう誰も助けてくれる者は居ない
そのはずだったのに
「繰ちゃんっ!!」
聞こえてきたその声に、繰の胸の内で何かが跳ね上がる
冷たい床の感触が離れ、身体を包み込む優しい温かさ
「せん……せ……」
「もう、大丈夫だよ」
目隠しと猿轡を外されて、頭を撫でてくれた
助かったのだという実感で心が満たされ安堵した、その瞬間
それまで恐怖と混乱で押さえ込まれていた感覚が、全身に染み込むように広がっていく
腕の、足の拘束を解かれ身体が自由になったものの、それ以上に熱に浮かされたように身体の自由が利かなかった
これが普通の女性なら、身体の火照りを鎮めるべく即座に行動に移っていただろう
だがこの宮定繰、性的興奮と性行為を関連付ける知識が欠如していた
発散される事無く内側でぐるぐると堂々巡りを繰り返す性的興奮は既に臨界点に達している
「ザン様……『ドリスの土』を」
水に溶くなどして服用する『ドリスの土』
小瓶に入ったそれを繰の口元まで運ぶものの、薄く開いているだけの口元を伝いぽたぽたと流れ落ちてしまう
「繰ちゃん、これを飲めば楽になるから。頑張って」
そう声を掛けても既に反応は鈍く、ぼんやりとした目で見詰め返すだけ
このままでは彼女が『壊れ』てしまう
そう悟ったディランは小瓶の中身を自らの口に含むと、繰に唇を重ねて呼吸の妨げにならないようにゆっくりと流し込む
口腔内の水分に反応し、繰の喉がこくりと動いた
「ん……」
焦点が合わずにぼんやりとしていた目に、生気が戻る
そっと唇を離し、安堵の表情で胸を撫で下ろすディラン
「先生……」
繰は切なげな声を上げて、一度離れたディランの唇を追うように
背中へと手を回し、自ら飛び込むようにもう一度その唇を重ね合わせた
「あれ、治ってない?」
ディランが思わず取り落とした小瓶をザンが確認するが、それは間違いなく『ドリスの土』を溶かした水を入れた瓶である
そもそもこれでディランが受けた女郎蜘蛛の毒を浄化したのだ、間違っているはずは無い
というか繰の身体はすっかり元に戻っている
淫魔の気に中てられた折の性的興奮が呼び水になり、思春期なりの性的欲求不満が爆発しただけである
危機的状況の自分を助けてくれた親密な異性の口付けが、たった一つの性的欲求不満の捌け口と認識され、本能的に『もっと』と身体が反応してしまったのだ
だが、当然ながら身体の状態は正常に戻り、愛欲に溺れたいという淫気は全力ダッシュで戻ってきた正気に勢いをつけたドロップキックで吹っ飛ばされる
ぱちんとスイッチが入ったようにいつもの思考に戻った繰は、唇を重ね合ったまま心臓から脳天までがちりちりと熱されていく感覚に襲われた
先程までとは全く違う、首から上の穴という穴から湯気でも噴き出しそうな、そんな熱が繰の頭を茹らせる
乱暴に跳ね除けるわけにもいかずあたふたとしているディラン
どうしたものかと考えあぐねているザン
封印された硝子箱の中で目を覆い、後ろを向いて丸くなっている菊花
それらの姿を一通り確認した後
スイッチを入れるように正気を取り戻した繰は、ブレーカーが落ちるかのようにそのままかくんと気絶していた
―――
ディラン達が『人が消えるブティック』の隠し部屋から出ると、その空間は砂の城が波に攫われるように消滅していく
「そういえば、この子も出してあげないとな」
ザンの操る闇が、菊花を閉じ込めている硝子箱の天蓋をぞるりと飲み込む
はずだったのだが
「あれ?」
闇は硝子箱の表面を滑るように撫でるだけで、飲み込む事が出来なかった
「都市伝説が引き起こす事象そのものを受け付けない? そんな無茶な技術があるはずが」
硝子箱の表面を軽く叩いてみるが、叩いているという感触すら無いほどに衝撃を吸収されているように感じる
硝子箱に貼り付けられているお札のようなものに触れようとするが、まるで映像でしかないかのように質感すら無く触れる事が出来ない
「うーん……とりあえずディランちゃんの部屋に行こう。その子も休ませないといけないし」
「そうですね。繰ちゃんの部屋に勝手に上がり込むわけにもいかないですし」
単にザンがディランの部屋に上がり込みたいだけでもあるのだが、実際にやらなければいけない事、考えなければいけない事は色々あるのだ
「申し訳ありません、色々とご迷惑をお掛けして」
「迷惑だなんて水臭い、俺とディランちゃんの仲じゃない」
一連のトラブルなど気にした様子も無く、和やかな様子のザン
空気が読めないのもたまには気遣いになる事もあるのだった
「そういえば、この子も出してあげないとな」
ザンの操る闇が、菊花を閉じ込めている硝子箱の天蓋をぞるりと飲み込む
はずだったのだが
「あれ?」
闇は硝子箱の表面を滑るように撫でるだけで、飲み込む事が出来なかった
「都市伝説が引き起こす事象そのものを受け付けない? そんな無茶な技術があるはずが」
硝子箱の表面を軽く叩いてみるが、叩いているという感触すら無いほどに衝撃を吸収されているように感じる
硝子箱に貼り付けられているお札のようなものに触れようとするが、まるで映像でしかないかのように質感すら無く触れる事が出来ない
「うーん……とりあえずディランちゃんの部屋に行こう。その子も休ませないといけないし」
「そうですね。繰ちゃんの部屋に勝手に上がり込むわけにもいかないですし」
単にザンがディランの部屋に上がり込みたいだけでもあるのだが、実際にやらなければいけない事、考えなければいけない事は色々あるのだ
「申し訳ありません、色々とご迷惑をお掛けして」
「迷惑だなんて水臭い、俺とディランちゃんの仲じゃない」
一連のトラブルなど気にした様子も無く、和やかな様子のザン
空気が読めないのもたまには気遣いになる事もあるのだった
―――
《お掛けになった電話番号は、ただいま通話が出来ない状態になっております。番号をご確認の上――》
スピーカーから流れる音声に、その場に居た一同には「やはり」といった空気が満ち満ちていた
「あ、やられたなこりゃ。だからあの町はやめとけって言ったのに」
「まーベテランがたまーに潜り込んで軽く攫っていく程度なら良いんですがね」
「新人は恐いもの知らずだにゃー」
「まあ契約者や都市伝説は高く売れますから」
「それでもあの町の連中、身内が攫われたら地の果てでも異空間でも追ってくるから性質が悪い」
「新人ニハ荷ガ重カタネ。攫ッテ隠シテ処分スルマデガ誘拐ヨ」
「流した先が見つかるならともかく、攫った事が突き止められるようではやはり三流という事ですか」
「はいはーい、皆はこういう事の無いようにねー。縦横の繋がりとか助け合いとか義理とか人情とか、僕らの組織にゃ無いからねー。自己責任だよー」
「そういやあの町の『チェーンメール』っぽいのが、なんか俺らの事探ってるけど放っておいていいの?」
「ああ、なんか僕らとは関係無い事件みたいだし放っておいたら? 気になるなら攫って売っても良いけど」
「電子戦専門の連中は、なんとかってゲームに夢中みたいだし無理じゃないですか?」
「それじゃま気にするだけ無駄だね、放置放置。それじゃま今日はこんなとこで。お疲れ様ー」
「ういす、お疲れー」
「お疲れ様でした」
「おつかれさまにゃー」
「ではまたいずれ」
「再見ネ」
各々が勝手気ままにその場から一人、また一人と文字通りの意味で姿を消す
残された会議室はしんと静まり返っており
「あれ、今この部屋誰か使ってなかった?」
「んな予定入ってないけど? それより早く準備しないと会議始まるぞ」
そのビルの会議室の、本来の持ち主である会社の社員達が、慌ただしく資料を運び込み椅子や机を整えていく
人攫い達の会合の痕跡を無くすかのように
スピーカーから流れる音声に、その場に居た一同には「やはり」といった空気が満ち満ちていた
「あ、やられたなこりゃ。だからあの町はやめとけって言ったのに」
「まーベテランがたまーに潜り込んで軽く攫っていく程度なら良いんですがね」
「新人は恐いもの知らずだにゃー」
「まあ契約者や都市伝説は高く売れますから」
「それでもあの町の連中、身内が攫われたら地の果てでも異空間でも追ってくるから性質が悪い」
「新人ニハ荷ガ重カタネ。攫ッテ隠シテ処分スルマデガ誘拐ヨ」
「流した先が見つかるならともかく、攫った事が突き止められるようではやはり三流という事ですか」
「はいはーい、皆はこういう事の無いようにねー。縦横の繋がりとか助け合いとか義理とか人情とか、僕らの組織にゃ無いからねー。自己責任だよー」
「そういやあの町の『チェーンメール』っぽいのが、なんか俺らの事探ってるけど放っておいていいの?」
「ああ、なんか僕らとは関係無い事件みたいだし放っておいたら? 気になるなら攫って売っても良いけど」
「電子戦専門の連中は、なんとかってゲームに夢中みたいだし無理じゃないですか?」
「それじゃま気にするだけ無駄だね、放置放置。それじゃま今日はこんなとこで。お疲れ様ー」
「ういす、お疲れー」
「お疲れ様でした」
「おつかれさまにゃー」
「ではまたいずれ」
「再見ネ」
各々が勝手気ままにその場から一人、また一人と文字通りの意味で姿を消す
残された会議室はしんと静まり返っており
「あれ、今この部屋誰か使ってなかった?」
「んな予定入ってないけど? それより早く準備しないと会議始まるぞ」
そのビルの会議室の、本来の持ち主である会社の社員達が、慌ただしく資料を運び込み椅子や机を整えていく
人攫い達の会合の痕跡を無くすかのように