(投稿者:怨是)
――1944年7月20日、午後8時。
ランスロット隊の隊長アロイス・フュールケ大尉は、長い間使われなかった反省独房の、久しぶりの客となっていた。
久しく開かれなかった鉄の扉がようやく開かれた時の、あの据えた臭いが鼻腔にこびり付く。
そういえばかつての隊長――
アシュレイ・ゼクスフォルトも、親衛隊としての最後の一日をここで過ごしていたか。
無慈悲な国外追放処分により、彼は荒野へと放たれた。かつての恋人を守りきれなかった絶望感を抱えたまま。
あの日から長い月日が経ったが、最後までひどく寂しげな眼差しで遠くを眺めていた彼の事だ。未だに気に病んでいてもおかしくはない。
「……因果な話だぜ」
基本的にエントリヒ帝国の軍人はあまりに優秀すぎる人間が多く、反省独房の扉が開くのは極めて稀だった。
ゼクスフォルトの収監を最後に、およそ九ヵ月半にわたって収監者無しという利用状況である。
つまるところゼクスフォルトの次に収監されたのが、フュールケだった。
このまま彼と同じように帝都を、エントリヒを追い出されてしまうのだろうか。
名ばかりの軍事裁判を付和雷同で塗り固め、工場が部品を生産してそれを出荷するが如く二つ返事で追い出されてしまうのだろうか。
いっそコンテナにでも詰めて貨物列車で輸出するくらいのユーモラスな展開になってはくれないものか。
回想や馬鹿げた妄想で気を紛らわせたところで独房から出られる訳ではないが、こうでもしなければ気が滅入ってしまう。
耳を塞ぎでもしなければ、すぐにでもゼクスフォルトのすすり泣く声が聞こえてきてしまいそうだった。
「はァ……」
酒のひとつも出ないか。
通常の五割増程度は粗末な食事に、早起きするには困らないであろうコンクリートのベッド。
刑務所でももう少しまともな環境で生活できるのではないか。
「おい見張り番。出廷っていつだったっけ? 俺聞かされてないんだけど」
「おれも知らないよ。それより知ってるかい? 人生を上手く生きるコツは“他人を助けすぎない、物事を知り過ぎない”事なんだとよ」
「へぇ?」
微動だにしなかった見張り番は要領を得ない受け答えをしつつ、何やらことわざめいた妙な話を出してきた。
何にでも当てはまる、普遍的で退屈なことわざではないか。
そもそもいつ自分が他人を“助けすぎた”のか、フュールケには一向に理解できない。
「
ダリウス大隊が壊滅したのも、余計なおせっかいをしすぎたからさ。ツキが逃げちまうんだと。
てめぇの身を守る事だけを考えてれば、ひとまず足元がお留守になる事ぁないってな」
「なんだかなぁ。当たり前すぎてつまんねぇよ。それってお前が考えたの?」
「うんにゃ、ダチの受け売り。まぁおれは“驚いた! その通りだ!”と、心臓に雷落ちたみたいな気分だったね」
「心臓に雷。そいつぁすげぇや」
暇つぶしにはなるものの、不本意かつ、実に下らない話ではあった。
何も知らないくせにさも『お前は俺より頭がいい』とでも云いたげな彼と、これから話を続けねばならぬとは。
憂鬱極まる出来事を如何様にして名状すべきであるか。独房の鬱屈した空気のおかげで苛立ちは加速するばかりである。
「云っておくけど、俺は他人を助けすぎた事も、物事を知りすぎた事も無いぜ」
「でもこうして豚箱に放り込まれてるだろう」
「うるせェ。世の中の理不尽に巻き込まれただけだい」
「豚箱入りになる奴は決まってそういう事を云いやがるのさ」
「……そいつぁすげぇや」
フュールケはこの手の人間が苦手だった。
得てして正論には屁理屈で返し、揚げ足が高等テクニックか何かと勘違いして得意げに話を続ける。
周りの壁やら扉やらを蹴飛ばして遣りたくもなる。くたばれ豚野郎。
耳を塞ぎ目を瞑り、口を閉じて鼻でもつまんでしまおう。
「まぁ寝るよ。あんたも俺みたいなのと話してっとオツムが腐るぜ。おやすみ」
とっくのとうに腐ってるだろうけど、という言葉を飲み込みつつ、静かに視界を黒く塗り潰す。
妙な脱力感と共に、およそ二十秒程度で意識はどこかの穴に流れ込んでいってしまった。
同時刻、クラウス・ホルグマイヤーは街灯の無い真っ暗な道で車を走らせていた。
署長の自殺により統率を失った
秘密警察は、次の指導者が決まるまでの間は暫定政権として公安部隊による指示に従う事となった。
自殺の意図は遺書からすぐに読み取れた。
軍事正常化委員会――黒旗の蜂起による混乱や、それを防げなかった責任を皇室親衛隊の面々やあの
帝都栄光新聞社が執拗に追求したのだ。
前者はまだ理解できようものだったが、今まで一緒になって似たような真似をしていた帝都栄光新聞の連中がてのひらを返すとは。
全く以って理不尽は世にはばかり、消えることも叶わざる。ホルグマイヤーはその社会の不義に何度も嘆息した記憶があった。
が、所詮は別の組織だと考えれば呑み込めてしまう辺りは、やはりこの社会に飼い慣らされているのだなと自嘲する。
彼が何故、車を走らせているのか。
ひとえに彼の直属の上司からの指示である。
「売却じゃなくてレンタルってな」
いつかに行われた計画の後片付け、つまるところ売春宿へ赴き
シュヴェルテを買いなおし、皇室親衛隊へと返却するという仕事である。
当時パウル・マクレーヴィヒが担当していたシュヴェルテ暗殺の件が実は人身売買という形で達成されていた事には、流石に度肝を抜かれた。
エメリンスキー旅団や一部の輸送部隊を買収し、シュヴェルテというMAIDを娼婦として売春宿に売却していたのだ。
普通に殺すよりも金にはなる。その金の半分は取引相手、つまるところエメリンスキー旅団や輸送部隊へと流れ、もう半分がマクレーヴィヒの懐へ。
軍事正常化委員会の武装蜂起の陰に隠れてしまってはいるが、マクレーヴィヒのやりかたも充分に野蛮なものだ。
いくら手段を問わないとはいえ品性を疑う。国家の安定が秘密警察の最大目標ではなかったのか。
とはいえホルグマイヤーにとって、今回の仕事は都合が良かった。
延々と罪悪感に駆られて頭を抱え続けるよりは、未だ命の灯火を消されていない彼女に頭の一つでも下げたかった。
そして情報統制で殆ど何も知らないであろう彼女に、洗いざらい話すのである。
秘密警察の職務に対する不満を解消する方法としては、最善ではないだろうか。
もはや
一人で抗う若さなど残ってはいない。齢46歳の彼では、いささか歳をとりすぎていた。
そしてそれとは逆に、背負った業を降ろすには、若さが足りなかったのだ。
若き協力者を得るためにも、シュヴェルテの存在は必要不可欠ではないか。
「――着いた」
エントリヒ帝国と
ルインベルグ大公国の境にある辺鄙な町、ユーリカ。
二転三転で売却され、最終的にはここに行き着いたという情報がある。
“名状しがたき組織”とやらによる情報提供だそうだが、一応は皇室親衛隊の確かな筋らしく、上司も疑いの眼を向けていなかった。
ただ、具体的な位置までは把握していないという。このユーリカにも売春宿は山ほどある。
どの国とて同じだ。こういう商売が栄えているという事は、絶え間ない需要があるという事を如実に表している。
多くの男共は「いちいち眉をひそめるな。無菌培養なんていうのはガキの幻想さ」と云う。
ホルグマイヤーとてそれが理解できない訳ではない。ただ、やるにしても“やり方”というものは弁えるべきだと思っていた。
タダ同然の賃金で苛酷な労働を強いられる彼女らに、多くの経営者は何ら手当てを施さない。
少なからず例外が点在してはいるものの、未だに数多蔓延っている“標準的な経営”を、どうにかする事は出来ぬものか。
既に何度か、売春婦のストライキで無用な血が流される様子をホルグマイヤーは目の当たりにしている。そのような店が決して再び入り口の鍵を開ける事が無いのも、彼は知っていた。
暫しの逡巡の後、うらぶれたバーがぼろぼろのネオンを明滅させているところへと出くわす。
ははぁ。いかにもこの町の事情に精通していそうなバーではないか。長年の勘が、ホルグマイヤーの足を前へ前へと進める。
夜の闇で真っ黒になった石畳の上に停車させ、扉を開く。
「いらっしゃい」
扉を開ければ人懐っこい――というよりも人間観察が好きそうな――長身のバーテンダーの男がカウンターで微笑んでいた。
他の客はまばらで、煙草を吹かしていたり明日の予定を書き記しているであろう手帳と睨めっこしている者も居た。
今日が月曜日だという事を思い出した。流石に月曜日ともなれば、こういう客入りも納得できる。
「やぁ。ここは何時までやっている?」
「お客がいるなら朝までやってるよ。お宅、この町は初めてかい」
「ちょいと野暮用でね。友人に会いに行く途中で“美味しい店”にでも行こうと思って。
だが生憎俺も歳だから、ひとつ、精をつけとかんとな。それに初めて来る町だから目利きのいいあんちゃんから情報収集をしたいんだ」
半分は嘘だが、もう半分は本当である。
作戦目標であるシュヴェルテがこの町でどのような呼ばれ方をしているのかを知っておこう。
ついでに浮いた小遣いで美味い料理と煙草でも嗜んでやろうというのだ。幸いここは仕事仲間の監視も無い。
束の間の休息をのびのびと過ごせるというのは、中々に素晴らしい事ではないか。
「本日のオススメは鴨肉の炭火焼と、
フロレンツ風パスタ。このご時勢だからやけに質素だけど、味は保障するよ」
「ありがとう。そうだな……ミディアムレアのステーキと、シャトー・プジョーを頼む」
シャトー・プジョーは
エテルネ公国で作られている赤ワインであり、口当たりがまろやかで深みがある。
格付け外のワインではあるが方々で確かな評価を得ているとの事で、エントリヒ帝国内でもそこそこの知名度はあった。
バーテンダーは引き出しから紙を取り出し、鉛筆を片手に問いかける。
「1933年の奴だけどいいかい」
「それぐらいが丁度いい」
「あいよ。ステーキの味付けは?」
なみなみと注がれるワインを眺めつつ、あれやこれやと考える。
薄味すぎてもわざわざ頼む意味が薄いし、かといって色々付けすぎれば肉の味が活きない。
注ぎ終わったワインに口を付けながら思いついた回答は、当たり障りの無いものだった。
「そうだな……いや、ここはあんちゃんに任せるよ。なにぶん勝手がわからないうちにあれこれ注文をつけるのは好きじゃない」
「よぉし解った。俺のサイコパワーでお宅の好みの味を探り当ててやんよ」
サイコパワーとはまた古風なジョークだ。ルインベルグ、エントリヒ、ガリア辺りで1930年に流行したものだったか。
年代が近いと話も弾む。確かその当時の映画“インコの魔術師”でのフレーズだ。
そうと決まればホルグマイヤーもお決まりの返し方をするしかない。その映画の登場人物のセリフを少し替えつつ引用する。
「なるほどそれは大変だ。好みの女まで探り当てられたらたまったもんじゃないな。例えば俺は“少し変わった色の髪”が好きなんだがね。何色だと思う?」
映画の中でのセリフでは“少し変わった色の肌”だったか。
料理を待っている間に吹かしている煙草が、唾液を加速させる。嗚呼、懐かしい。
バーテンダーのほうも上機嫌で乗った。
「当ててやんよ。そいつぁ……青だ」
「大当たり。これはステーキの味も期待していいな」
ホルグマイヤーのこの返しも、映画の中のセリフで使われていたものだ。
映画を見た仕事仲間たちが毎日のように“これは~の味も期待していいな”と使っていたか。
その登場人物が何故“青い肌”を好んでいたかと云えば、悪い女に騙されて一文無しになったという苦い記憶があった故だ。
主人公の魔術師がその登場人物に料理を振舞いつつガールフレンドを紹介しようとした時のセリフが“好みの女まで~”である。
「っはは、当たり前よぅ。確かそこで場面が切り替わっちまうんだっけ。ン、お宅、変わった煙草を吸ってるんだね」
「料理が出来上がったら一本どうかな。お気に入りの銘柄なんだ」
「おぉ、ありがとさん。じゃあ食べ終わったら頂くよ」
ジューと肉の焼ける音と共に、煙が煙草の紫煙と交差する。
ミディアムレアだからすぐに出来上がる。
大きな白い皿に赤みがかった肉が乗っかり胡椒の振りかけられる様子を目にすると、ホルグマイヤーは煙草を灰皿に押し付けた。
「――お待たせ。付け合せはズッキーニ、ホウレン草とマッシュルームにジャガイモ。本当はトマトも入れるんだけど、今年は仕入先が潰れちゃってね」
「仕方ないさ。この世知辛いご時勢に万全を期待するのは贅沢というもんだ。それに肉の赤さを考えると、今のままでも充分サマになってる」
「嬉しい事云ってくれるじゃないの。チーズもサービスで付けたいくらいだ。それで、青い髪の女だったっけか」
よし来た。本題だ。このバーテンダーならあっさり決めてくれそうではないか。
有用な情報だったら、ワインボトルをもう一本買ってやろう。
「ああ。とびきりのいい女がいいな。酒が入るとついつい持て余すものだが、どうせなら良き出会いを大事にしたい」
「はっはっは! お盛んなこって!」
「下半身以外も生涯現役なら、世は事もなしと云うところなんだがな。ああ、そうだ。この写真の女みたいな。こういう女がいい」
「ドンピシャだ。こいつを知ってるよ。ちょいと待っててな。近くの淫売宿にちょうどその上玉が入ってきてな。伝票に地図を書くよ」
地図を描きながら、ホルグマイヤーとバーテンダーの話が弾む。
こういうひと時が仕事のたびに訪れれば、どれほど仕事が楽しくなるか。あとはシュヴェルテの回収時に後腐れさえ無ければ完璧だ。
「肌が白くて、みすぼらしさの欠片もねぇや。強いて云うなら昔の男の名前をうわ言みたいに呟くのが気が滅入るってね」
「昔の男、か」
シュヴェルテの担当官の名前は覚えている。アシュレイ・ゼクスフォルト元少佐。
写真で見た限りでは銀髪で青い瞳の端正な顔立ちで、彼女の美貌に釣り合う美男子であった。
実際に会う前に国外追放処分となり、その後は行方不明になったか。
「知り合いかい」
「いや。どんな男だったのか気になっただけだよ」
「そうかい。はい地図。ついでだから訊いてきてくれよ。俺もちょいと気になるね」
ありがとうと云って地図入り伝票を受け取る。
思えばホルグマイヤーはまともな地図を渡されたためしがなかった。
が、このバーテンダーの地図はマクレーヴィヒの粗雑なものよりも丁寧で解りやすい。
この正面の突き当たりの左角、売春宿の名前は“Valkyrjur”。
なるほど、ヴァルキューレの原語か。随分と冒涜的な。
「ああ。あと、その子にワインの差し入れがしたいな」
「そう云うかと思って」
バーテンダーがカウンターの下からさりげなくボトルを取り出す。
なるほど。リボンまで付けてある。しかも綺麗なダンボールを用意するとは。
「早いな。おいくら?」
「地図の裏に書いてあるよ」
めくれば確かに、料理代の下の部分に鉛筆で書き足されていた。
――ははぁ、五百マクス。あの映画のラストシーンの通りだ。
「問題ない。いい買い物になった。おおっといかんいかん。会計を済ませてしまったが、まだいてもいいかな。煙草を」
一本出した状態で箱を差し出し、ジッポライターに火をつける。
「ああ、そういえばそんな話もしていたね。ありがとう」
「お味のほうはどうかな」
“Sieg”……皇室親衛隊の科学部門が考案し、販売した煙草である。
金柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字勲章の作られた数をもとに設定した、12ミリのタール量。
黒い箱にエントリヒの国旗が記されたその箱は、戦意高揚を旨として作られた戦時下限定仕様というだけあって、手触りも豪華だった。
「うーん……確かに美味い。けど何だろうね。何とも云えねぇや」
「すまない、お口に合わなかったかな」
「いや、そうじゃないんだ。何と云うか、どうにも胸騒ぎのするような味だな、こりゃあ」
違いない。原産国は暗闘騒ぎで絶賛蠢き中のエントリヒ帝国だ。
かの国の石畳は人の瘴気が染み込みすぎている。
最終更新:2009年03月16日 01:09