Chapter 4-2 : 零下の轍

(投稿者:怨是)


 過去を顧みれば顧みるほど、巨大な影が俺を圧殺しようとして来る。
 影の中心には、いつもお前が居た。いつもお前は、怨めしげな眼差しで俺を見つめていた。

 俺が夢の中で走って逃げれば逃げるほど、影はますます大きくなり、そのうち空を覆い尽くした。
 空から降りしきる真っ黒な大粒の雨に当たると、皮膚が焼けるように痛かった。
 そうして最後には、俺の身体の右半分が、お前の大剣に叩き潰された。
 気が付くと、お前が生まれる前に既に失った筈の、俺の右目と右腕を、お前は抱えていた。
 お前は涙を流して何かを叫んでいたが、俺は何も聞こえなかった。

 毎晩、この悪夢で目が覚める。

 どうか、許してくれ。俺の記憶(ジークフリート)
 俺はただ、お前を恐れているだけなんだ。




 皇室親衛隊営舎前の道路を、数台の車が走る。
 全て、国際対G連合統合司令部(G-GHQ)のものだ。
 ヴォルフ・フォン・シュナイダーは、先頭車両の助手席から後続車両の様子を眺めていた。

「次は右へ。第三駐車場に誘導しろ」

「は」

「……」

 段取りは決まっている。
 一旦、全ての車を第三駐車場に停めて必要な手続きを済ませ、その後に一台だけで営舎裏手の直通道路から皇室へと向かうというものだ。

「謁見、か」

 本来は政治的な用件であれば宰相府に会えば事足りるので、謁見は予定に入れていなかった。だが、他でもないエントリヒ皇帝から「折角だから寄って行け」とG-GHQに手紙が送られてきた為に上司からも謁見を勧められ、急遽予定に組み込み、早めに到着させた。宰相府は融通が利かない。一分でも会議に遅れようものなら、それが例え謁見が理由であったとしても叱責は免れられない。そういった理由で、ヴォルフはあまり気が進まなかった。

 それに、皇室親衛隊側から「勝手を知った古巣だ。案内用車両を付けるのは失礼に当たるだろう」などという理由で、案内用車両を外されてしまった。その後直ぐに問い質した所によると、自力で案内しろという意味らしく、案内用車両もとい“監視用車両”の代わりとして、こちらに見えない範囲で監視を付けるとの事だった。
 事実、横を見やると狙撃銃の濃密な圧迫感が、あらゆる場所から感じられる。倉庫の窓から、木々の奥から、そして遥か遠くの建物から。
 どう考えても歓迎されているとは云い難いこの状況下で、更に謁見までこなさねばならない。それらがヴォルフの繊細な神経に膨大な負荷を強いた。既に失って久しい右腕と右目の付近が、じりじりと痛む。

「シュナイダー大佐。不躾な質問で恐縮なのですが……」

 運転手がおずおずと、こちらに視線を遣る。

「何だ」

「皇室親衛隊は、大佐のかつての古巣でしたよね」

「ああ」

「この組織は、いつも外来者に対してこのような対応を?」

 どうやら運転手は、先程ヴォルフが訝しげな表情で親衛隊に問い質している様子を見ていたらしい。
 ヴォルフはどのように返答すべきか解らなかった。親衛隊の運営形態は彼が身を置いていた頃とは随分と異なっている。特に、軍事正常化委員会――黒旗による武装蜂起、そしてそれを鎮圧してからはかなり構造改革を推し進めたという。
 いずれにせよヴォルフにとって古巣は古巣、過去は過去であり、もはやその仔細について語る舌を持つつもりは無かった。過去と云う影を覗き込めば、ただでさえ陰鬱な自分の面持ちが、より一層、暗く凍て付く。

「余計な事は考えるな。その先の十字路は直進だ。――いや、止まれ」


 腰まである金髪を纏めた房を風に揺らしながら、黒い服に銀の鎧で身を包んだMAIDがこちらの車へと駆け寄ってきた。
 以前とは服装が幾らか変わっているが、ヴォルフはこのMAIDに見覚えがある。ギーレン・ジ・エントリヒ宰相の近衛兵、そして尖兵として生まれたMAID、スィルトネートだ。
 彼女は車の進路から僅かに身を逸らしながら、それでいて真横には立たず、斜め前から一礼した。

「お話はうかがっております。宰相府直属MAIDのスィルトネートと申します。お久しぶりです、ヴォルフ・フォン・シュナイダー大佐。この度はセントグラールより遠路遥々とこの皇室親衛隊本営にご足労いただき、」

「――前口上はいい。用件を云え」

「その、我々の案内用車両が一台も付いておりません故、事情を伺いに参りました」

 スィルトネートのその言葉に、ヴォルフは疑念を覚えた。
 宰相府と云えば、親衛隊長官テオバルト・ベルクマンが緊密な連携を取っている筈である。ところが、G-GHQという世界中のMAIDを統括する組織からの来訪について、スィルトネートに何ら連絡が為されていないとは。
 一年前にヴォルフが親衛隊を抜ける頃には、既に皇帝派と宰相派の派閥争いも熾烈を極めていたが、ついに火の粉が外来者へ及ぶようになったのだろうか。

「親衛隊側で“案内はしない”という話が出ていた筈だが」

「え? ……おかしいですね。普段ならどなたがいらしても、最低でも一台は付けるのですけど……」

 比較的実直な部類であるスィルトネートのこの表情から、すぐに確信できた。
 彼女は、G-GHQからの来訪があるという事以外は何一つ知らされていない。

「一つ、忠告しておく」

 ヴォルフはこれ以上の会話は無駄だと判断し、目の前で視線を落として考え込む彼女の意識を、こちらに向けさせる。

「は、はい?」

「あまり狙撃兵連中の機嫌を損ねないほうがいい」

「……――!」

 ヴォルフの予想に違わず、スィルトネートは周囲を取巻く殺気の群れに気付いていなかった。
 彼女はぎょっとした表情で辺りを見回し、それから車の側面へ回り、少しだけ声のトーンを下げる。

「なるほど、これなら案内用車両は確かに不要ですが、しかし一体どうして、このような……!」

「詮索は無用だ。早く持ち場に戻れ」

「り、了解――失礼致します!」

 彼女は駆け足で去って行く。進路上から居なくなった事を確認し、ヴォルフは運転手に再び「出せ」と合図した。
 営舎前道路が不気味なほどに静まり返っている事に、今更ながら気付く。帝都の商店街などでは祭りと見紛う程に――実際、ジークフリートの誕生日はエントリヒ国民にとっては祭りのようなものだが――賑わっているのに対し、車の窓を開けても営舎の中から乱痴気騒ぎや笑い声なども聞こえて来ない。
 運転手がこの沈黙に耐えかねたのか、ふと口を開いた。

「スィルトネートでしたっけ。可愛い子でしたね」

「相手はMAIDだ。余計な感情を抱くな」

「いえ、何かに熱中すると周りが見えなくなる子って、MAIDでなくとも可愛いものだという意味でですよ。私達も、若い頃はああだったのかと思うと、何だか急に懐かしくなってきませんか? 大佐もそういう時代があったでしょうし」

 ヴォルフは黙るしかなかった。
 過去は過去だ。もしも顧みれば、胸中を巣食う闇が「お前が疎んじられていない時が、一瞬でもあっただろうか」と、嘲る。自身の撒き散らした心の破片が心臓を穴だらけにしてしまったせいで、守る為の壁も、癒す為の雨も、何ら効果を為さない。増して、これで外からの砂塵に身を晒そうものなら、神経は襤褸(ぼろ)切れのようにズタズタになるに違いない。過去も、他者も、ヴォルフの心を殺さんと雷鳴の槍を構えている。故に、黙るほかに自衛手段は無いのだ。
 過去を思い出すまいと念じれば念じるほど、口元が苦々しげに固く結ばれて行くのが自分でも解る。

「……」

「申し訳ございません。もしかして、この種の話はお嫌いでしたか」

「運転に集中しろ」

 遠慮がちに横目で覗き込んできた運転手に、押し殺した声で命令する。
 たったそれだけの抵抗しか出来ないが、それもまた、ヴォルフの矜持によって選択肢が狭められた結果だった。
 返答に窮するような話題を振ったこの運転手を、糾弾する事も出来たかもしれない。しかし、いたずらに自らの苦悩を打ち明けて、これからも共に仕事をするであろう同僚から憐憫の視線を受けるのは耐え難い苦痛を伴う。そのような選択を、ヴォルフは望まなかった。
 少し間を置いて、運転手は「了解」とだけ返答した。

 車と云う空間を共有しつつも、ヴォルフはあくまで独りであろうとした。運転手もようやくそれを察したのか、目的地の第三駐車場へ辿り着くまでの数分間、一言も会話を交わそうとしなかった。

「到着です。お忘れ物にご注意ください」

 運転手は柔和な口調でそう述べると、微笑を浮かべたまま黙り込んだ。
 ――それでいい。もはや語るまい。
 ヴォルフは黙したまま車のドアを開け、荷物を取り出す。
 G-GHQからの補給物資と、決して派手とは云えない包装紙に包まれた箱を、左手に持つ。




 補給物資と、包装紙に包まれた箱を共有倉庫の係員に渡したヴォルフは、謁見の間に足を運んだ。

「おぉ、ヴォルフよ。此度はよくぞ参られた」

 数年ぶりに入った謁見の間は、絢爛な装飾や真紅の絨毯に彩られながらも、少し寒々しい色をしていた。それもその筈で、エントリヒ皇帝はわざわざ他の者を外へ出し、あまつさえ自ら扉の鍵までかけ、一対一での対話が出来る状態を作り上げていたのだ。
 玉座に座り直した皇帝に、ヴォルフはこの時の為に作成した皇帝用の報告書を手渡した。

「これは」

 皇帝の大樹の根のような手が、報告書を掴む。
 彫りの深い顔立ちの奥にある双眸が、ヴォルフを射竦めた。

「あまり時間は取れぬ為、報告書と云う形を取らせて頂きました。ご無礼をお許しください」

「何、構わぬ。多忙を極める毎日を過ごしておるからな。……どれ、報告書には後で目を通しておくとして、久々の再会だ。少し身の上話でも聞かせてはくれぬか」

「詳細はまだ申し上げられませんが、近年目撃例が増加しているプロトファスマの対策を」

 ヴォルフはそこまで云って、沈黙する。
 その沈黙を長く感じたらしい皇帝は、呆気にとられたようにこちらを見つめてきた。まるで、「たったそれだけか」と問わんばかりに。
 彼は息子のギーレン宰相と不仲で、その所為かどうにも寂しがり屋の気質があるらしく、もの悲しげな苦笑を浮かべていた。

「仕事の話はその辺りで良い。もっと別の、例えばその……今朝見た夢や、どこそこのレストランが美味しかったとか、身近な同僚の恋にまつわる話などの、そういった気軽な話はあるかのう」

「それを申し上げられる立場に、私はおりません」

 仕事詰めでそれどころではなかった。むしろ、日々の生活の事など忘れ去ってしまいたかった。
 まして“例の悪夢”についてなど、口が裂けても語りたくない。

「ヴォルフよ、あまり水臭い事を申してくれるでない。そなたがまだ幼かった頃は、ギーレンとよく中庭で遊んでおったろうに」

「……過去は、過去です。ギーレン宰相と中庭で駆け回っていたあの“ヴォルフの坊や”は、もう陛下の御前にはおりません。今現在の私はご覧の通り、国際対G連合統合司令部所属という肩書きを持つだけの一介の兵士。どうか……どうか、ご理解を」

 右腕、正確にはその付け根が熱を帯び始めた。口の中が乾き、身体中に脂汗が湧き出てくる。語る側に立つ事がこうも辛いとは。
 ヴォルフは自らの首を掻き毟りたくなる衝動を何とか抑え、泳いだ左目の視線を皇帝へと向け直した。

「ううむ……そこまで申すなら仕方あるまいて……。では、次はワシのほうから話す。政治的な近況だ。ワシはギーレン程には政治について明るくないが、この話題のほうがそなたも気が楽であろう」

 正直な所、ヴォルフにとってはそれが一番助かる。
 皇帝が政治に関わる近況を口にするのならば、ヴォルフは聞き手に徹し、組織の立場から所見を述べるだけで良い。あくまでG-GHQという組織としての範疇を逸脱しない程度に留めてさえいれば、どのような意見であろうとヴォルフは叱責を受けずに済む。
 ヴォルフのその安堵が、皇帝には「自分の話に興味を持った」と映ったのか、皇帝は幾らか表情を和らげて口を開く。

「実は、V2ロケットを用いての帝都破壊作戦が何者かによって企てられているとの噂が、ワシの側近の間で実しやかに流れておる。誕生日にかこつけてジークをザハーラより連れ戻したのは、そういった企てへの牽制も兼ねておるのだ」

「軍事正常化委員会による作戦という可能性も考慮して、ですか」

 これで良い。質問をするだけで良いのだ。検証するという名目で何かしらの質問事項を相手に提示する、その作業がどれほど楽か。
 後は待っていれば、ほぼ自動的に答えが返って来る。それだけで会話が廻ってくれる。

「うむ……彼奴らの口からは一言も出てはおらなんだが、もしも彼奴らが本当に画策していたとしたら、ジークを帝都に置いていると知れば手出しはできまい。……ただ、プロトファスマの手によるものだとすれば、話は別となる。ジークをこの帝都に置いたとて、攻撃の手を緩めはせぬだろう」

「では、プロトファスマだった場合の対策は」

「防空飛行隊の統括部門に報らせてある。事の次第によっては周辺国にも増援を依頼するやもしれん。あくまで若い頃の経験則だが、いずれの場合に於いても、恐らくはロケットを陽動に用い、その間に本隊を脇から向かわせるであろう。プロトファスマ率いるGが帝都に現れたとあらば、到底、この国の戦力では足らぬ」

 皇帝の見解は間違いではない。プロトファスマ、つまりGを相手取る以上は、国境と云う枠を取り払ってでも戦力を充実させねば勝ち目は無い。国家主義の軍隊や、少数精鋭を気取る時代ではないのだ。今は。

「ギーレンは国外にこの問題が波及する事を恐れて内密にしてきたが……万一という事もある。念の為、そなたにも伝えておこうと思ってな……」

 そう云って、皇帝も懐から折り畳まれた書類を取り出し、ヴォルフの左手に握らせる。
 ヴォルフは手の震えを悟られまいと、ゆっくりとその書類を引き寄せた。

「……これは?」

「プロトファスマと、黒旗に関するそれぞれの報告書の写しを部下に取らせておいた。会議で配布されるものよりも細かく書かれておる筈だ。持って行くが良い」

「御厚意、痛み入ります。……失礼、中身を少し拝見させて頂いても宜しいでしょうか」

「構わぬよ。片手では見辛かろう。手伝おうか」

「いえ……」

 結構です、と云おうとして口を噤む。
 眼前の皇帝の手が、遠慮がちに距離を開けていたのを見てしまったからだ。皇帝は、こちらの考えを見抜いていたのか。
 ヴォルフは焦心を誤魔化すようにして、書類へと目を落とす。片手でページをめくるのは慣れている。幸い、内容は簡潔に纏められていた為に、立ち読みでもすぐに飲み込めた。

「軍事正常化委員会の復活と、彼らによる303作戦糾弾の流れ……ですか」

「プロトファスマが本格的に動き始めたこの時に、彼奴らが騒ぎ立てる事によって世相を乱されては困る。あの作戦は、個々人の罪として背負って行くべき作戦であろうに……」

 303作戦。その単語が、ヴォルフの憂鬱な心境に拍車を掛けた。
 国家の威信という伝説に目が眩んだ者どもがMAIDを死に追いやった血の海の記録であり、右目と右腕を失った、許されざる罪の記憶。それが、ヴォルフにとっての303作戦だった。事の顛末に至っては、今はとても思い出す気にはなれない。黒々と凍り付いた記憶を氷解させるだけの強さが、今の自分には無い。深呼吸して、それらを脳裏の奥へと沈める。
 黒旗が――否、かつての国防陸軍参謀本部がどのような理由で、このエントリヒ帝国の忘却の彼方へと葬り去られかけた記録を再び世に出そうとしたかはよく解らない。だが、彼らは当事者などではないのだ。それに303作戦の残した教訓は、今日において暗々裏のうちに生かされている。今ここでかつての関係者達を詰責するのは、害こそあれど何ら利益は生み出さない筈だ。
 そこまで考えを纏めると、ヴォルフは重々しい調子で頷いた。

「……解りました。彼らについては引き続きG-GHQのほうでも監視を強化するよう、上層部に打診しておきます」

「すまんのう……ワシが彼奴らの蔓延を許したばかりに、ここまで事態が発展してしまった」

「もしも性急に事を進めたならば、更なる軋轢は免れませんでした。陛下の選択は一国家の主の対応として、決して誤りではなかったかと」

 気休めを云うのが精一杯だ。今更、いたずらに皇帝を責め立てる事に何の意味が在ろうか。
 一介の軍人風情にそのような真似は到底できようもなく、また、皇帝とて自らの過ちを自認している。
 それにヴォルフは、会話を長引かせるよりも、一刻も早くここから立ち去りたかった。

「では、私はこれにて」

 帝国式の手を掲げる敬礼ではなく、額の端に指を当てるという各国共通の敬礼を行い、足早に踵を返す。
 が、半歩ほど足を踏み出したところで「……のう、ヴォルフよ」と、皇帝が声をかけてきた為に、もう一度振り向く事になった。

「……」

「ジークは半年前、あのライールブルクの戦場で、帝都に向けて放たれた列車砲を止めてのけた。それでも、そなたは、ジークを軟弱だと見るか?」

 以前、ヴォルフが彼女を「軟弱だ」と云ったのは、ある種の方便だった。MAIDが恋愛に耽溺した時、甚大な被害を及ぼす危険性がある。それを防ぐ為であり、同時に、彼女を遠ざける為の方便でもあった。
 ヴォルフは言葉を選び、一つ一つ、慎重に返答を構築する。そうして出来た云い逃れ、云い訳を、少しずつ喉から搾り出した。

「ジークフリートの件については……もはや、私の関知すべき事柄ではありません。賞賛を得られたとて、それをどう受け止めるかは彼女次第かと」

 確かにジークは強くなった。プロパガンダによる鍍金(メッキ)など不要なほどに、目覚しい成長を遂げた。力加減を学び、然るべき場面で然るべき力を振るう事が出来るようになった。
 だが、それ故にヴォルフの目には彼女がより一層おぞましく映った。

「実の所、ワシもジークがあれをどう受け止めておるかは知らぬのだ。のう、ヴォルフよ……今一度、会うて話をしてみるつもりは無いか? きっと、ジークもそれを望んでおる。折良く誕生日が目前に控えておるのだし、かつての教育担当官の縁もある。もう少しゆっくりして行ってはくれぬか」

 冗談ではない。どの面を下げてジークフリートに会えば良いのか。
 彼女の事について自分はもうこれ以上触れたくないし、他人に触れられたくもない。

「戦場は冷酷です。我々を待ってはくれません」

 ヴォルフは、今度はぴしゃりと断った。

「それも、そうだのう……いつか戦線が安定した時、また足を運ばれよ。その時は、腰を据えてゆっくりと話そう」

「では、失礼致します」

 皇帝はただ、ただ、無言のまま見送った。もう呼び止められる事は無い。
 書類ケースを床に置き、扉を後ろ手に閉める。目を瞑り、二度とこの場へ足を踏み入れない事を何度も願いながら。



「――待たれよ、シュナイダー公」

 皇帝とはまた別の、聞き覚えのある声が横合いからかけられ、ヴォルフは床に置いたままだった書類ケースを急いで拾い直す。
 視線を上げると、すらりとした痩躯に親衛隊制服姿の老人が佇んでいた。

「わしだ。覚えておるか?」

 無論、ヴォルフは覚えている。
 ――皇室親衛隊所属、ヨハネス・フォン・ハーネルシュタイン名誉上級大将。書類上は退役軍人として扱われているが、今も現職同様の立場で、部下の教育や管理などを行っている。
 1943年10月頃にG-GHQへの転属志願の申請をする為にヴォルフが書類を持って回った将官のうちの一人だったが、彼はその当時、丁度何かの用事で留守にしていたので、会う事は叶わなかった。

「ハーネルシュタイン大将ですか。ご無沙汰しております」

「こうして顔を合わせるのも、貴公の士官学校卒業の折以来だったか。今では貴公もすっかり出世した……時の流れとは実に早いものだな」

「……すぐに会議がありますので、ご用件がお有りでしたら手短に願います」

「そう焦るな。会議なんぞ、わしの方から話を付けておいてくれるわい。して、本題だが……もう一度、この皇室親衛隊にてジークフリートと共に歩んではくれぬか。いや、所属はそのままで構わぬぞ。わしに、秘策が有るのだ」

「……」

 誕生日パーティに出席する以上に、無理難題だ。
 口を閉ざし、ハーネルシュタインの次の言葉を待つ。

「彼女は、孤独だ。親衛隊は既にいつでも貴公を迎え入れられるように準備を整えておる」

「営舎前道路に配備した狙撃兵達も、その“迎え入れる準備”の一つと?」

「狙撃? ふむ……何の話だかは解らぬが、大方、宰相府が仕組んだのだろう。何事も武力に訴える連中の考え付きそうな事だ。例えばあのホラーツ・フォン・ヴォルケン中将なんぞは、大した理由も無しに貴公を目の敵にしておったからな」

 皇帝派と宰相派、どちらでも在り得る。一方が他方を悪しき様に扱き下ろすのは、人間としては当然持っている感情だ。だからこそ、ヴォルフからすればこの老人の言動も信用に値しない。もしも宰相派の誰かが同じような事を云っても、やはりヴォルフは他方の可能性を疑う心づもりだった。

「この件は上層部に打診して置きましょう」

 無難な方便で場を流すと、ハーネルシュタインはヴォルフの長身を見上げるようにして、覗き込んできた。老齢で落ち窪んだ眼窩から、老いて尚、強い生命力と漲る意志を感じさせるような眼光が発せられている。

「頼んだぞ。……で、どうだ。宰相府の、斯様なまでに無礼で強硬なやり方は、正直好かぬ。彼奴らは強健な国家を作り上げるなどと大層な理想を掲げておるが、それは誇り高き精神を持ち合わせてこそ成就するものだろうて。そうは思わぬか? シュナイダー公」

「……単刀直入に用件をお伺いしますが、つまり、私に何をしろと仰るのです」

「わしは今年のはじめ、宰相府の台頭、そして黒旗の復活に備え、“正統エントリヒ主義帝都統一会議”という小組織を結成した。略称は“レンフェルク”で知られておる」

 1945年始に親衛隊内部にて、皇帝派のサークルが作られたという。それが、正統エントリヒ主義帝都統一会議らしい。構成員は親衛隊の他、国防三軍も加わっている。既に具体的な活動も幾つか行っているそうだが、それが何であったか。国民達が将校と政治について気軽に話せるような喫茶店を随所に建てた事くらいしか、ヴォルフは知らない。その集まりが、何か関係でもあるのだろうか。
 ハーネルシュタインは組織のパンフレットらしき紙を、ヴォルフの胸ポケットに挿した。

「貴公も噂程度は耳にした筈であろうが、ひいては、貴公もこれに参加して欲しい。参加すれば、ジークとの連絡が緊密に取れる。元教育担当官の貴公の事だ、かつての教え子の身を案ずる心は有ろう?」

「お断りします」

 ヴォルフは、ハーネルシュタインの長々とした説明を打ち切るようにして即答した。
 その上で、

「G-GHQは国際的な組織であり、構成員は特定国家に傾倒した姿勢を取ってはならぬよう規定されております」

 と、付け足した。意外に知られていないが、これは本当の事だ。国際組織である以上、贔屓をしてはならない。さもなくば国家間の連携はたちどころにガタガタになり、対G戦争の勝機を手放してしまうのは誰の目にも明らかだ。
 その列記とした事実を述べても尚、ハーネルシュタインは諦めの色を見せなかった。

「だがしかし、貴公はそれ以前に一人の人間ではないか」

「人間だから、何だと仰るのか……。では、失礼させて頂きます」

 人間であろうと何であろうと、駄目なものは駄目だ。何ゆえに、規律を冒してまでお前達に関わり続けねばならぬのか。
 書類ケースを持ち直し、足早に、ハーネルシュタインに背を向ける。


「待て、小僧、待たぬか!」

 彼が大声で咎めてきたので、ヴォルフは肩越しに視線を返して黙らせた。
 こういった所作が敵を作る原因なのは、自分でもよく解っている。が、今更これを直したところで、既に敵になってしまった者達から許しを得られる事は万に一つも有り得ず、また、こうなる前から、ヴォルフの周囲は敵で溢れ返っていた。結局の所、何も変わりはしないのだ。
 腕時計を見ると、会議の時間から三十分が経過していた。

 ふと、喉元にひんやりした感覚が突きつけられている事に気付き、急いで後ずさる。
 細い糸のようなものが西日を反射しているのが見え、視線でそのワイヤーを辿ると、見覚えの無いMAIDがこちらに剣を向けていた。ワイヤーは、剣先から伸びているようだった。

「――……MAIDか。何のつもりだ。道を開けろ」

「主が“待て”と申しましたので。貴方とて、もう片方の腕まで失いたくは無いでしょう? どうか、お待ちになってくださいませ」

 近頃とみに見られる、国家によって私物化されたMAIDの一体だろう。G-GHQにとって、最も大きな悩みの種だ。
 摘発しようにも、それによって連盟から脱退されれば大きな痛手を被るのはG-GHQであり、各国はいわゆるゴネ得の状況下にある。その為、警告文書を定期的に送りつける程度の対応が関の山だった。
 彼女もおそらく、そういった手合いによって生まれたのではないか。あのスィルトネートのように。

「良くやった、アドレーゼ。もう下がって良いぞ」

「かしこまりました、ご主人様。それではごゆっくりどうぞ……」

 何故なら、このMAID――アドレーゼと、ハーネルシュタインの両者間のやり取りは、私物化された戦力特有のものだ。彼に限らず何処の国にもこういった者はおり、それを思い出すだけで、ヴォルフをますます暗澹たる気持ちにさせた。
 アドレーゼを下がらせたハーネルシュタインはこちらを見据え、歩調を速めて歩み寄ってくる。

「シュナイダー公。話はまだ終わってはおらぬのだ」

「他に何の御用がおありでしょうか」

「誕生日の件だ。貴公は何故、パーティに参加せん」


 聞かれていたのか……。
 まず始めに、胸中でそう呟いた。この男は、ヴォルフと皇帝の会話を扉越しに聞いていたのだ。

「私にはG-GHQの業務がございます。参加は出来ないと先程、皇帝陛下にも申し上げたとおりです」

「その発言についてだ。自惚れるなよ、小僧。確かにわしは貴公の手腕を認める。G-GHQとは今後も良き関係を続けたいとも思っている。だが、それとこれとは話は別である! 陛下のご好意を無碍に断るとは、如何な了見だ。誕生日と云う名目で貴公がジークフリートに謝罪の言葉の一つでもかければ、貴公とジークの、こじれた仲を直すことも出来ようものを」

「……」

 閉口するヴォルフをよそに、ハーネルシュタインは尚も続ける。

「陛下もそれを見込んで、貴公に勧めたのだ。陛下は貴公の前でこそ穏和な態度であらせられたが、その内心は複雑だ。少なからず、貴公への怨みも抱えておられる。ジークフリートを殴った、あの一件についてな」

「ですが、今更ジークに合わせる顔がありません」

「それが会わずとも良いと断ずる理由にはなるまい。貴公は三十路半ばを超えて尚、その(ことわり)が解せぬのか」

「……心得ては、おりますが」

 一度視線を逸らし、それから声を殺して返答すると、ハーネルシュタインはいよいよ激昂したようだった。
 彼は色素が抜けて白くなった眉をぴくりと上げ、血色の良い肌を更に赤らめた。

「ならば何ゆえに拒む! あれから一年余りの歳月の間、皇室は貴公に良い感情は持たなかったが、謝罪の機会は認めてきた。むしろほとぼりの冷めた今こそ、あの頃よりも幾分か口の重さも取り払われているであろうに、何ゆえに拒むのかッ!」

「……」

「……たった、一言で良いのだ。一目、彼女の前に姿を現し、たった一言の謝罪を述べるだけで、貴公の罪は赦される。それでも貴公は拒むと申すのか?」

「ジークフリートの前に私が姿を見せる事で、傷つけてしまいかねません。彼女は、そういうMAIDです」

「決め付けるでない。たかだか二年足らずの教育に携わっただけの貴公に、ジークの何が解るか」

「……」

 二年足らずで充分だ。少なくともハーネルシュタインよりはジークの精神構造を熟知しているという確信がある。恐怖の対象となっているからこそ、身を守る為に調べ上げてきた。そして、その行為に対する自責の念が今も尚、ヴォルフ自身の心を締め上げている。
 確かに、持論にはまだ不確定要素は多分にある。

「わしは陛下が若い頃から傍に仕え、陛下の御心を余すところ無く心得た。ジークフリートは陛下の、そして亡き軍神ブリュンヒルデの愛娘とも云えるMAID。なればこそ、御両名の御心は一心同体。貴公のような若造が訳知り顔で片付けるべき相手ではないのだ。シュナイダー公! 分際を弁えぬか」

 それでも、こんな男に、つらつらと語られるほど、安い持論ではない。

「娘である以前に、全てのMAIDはG-GHQの所有する戦力です」

「この期に及んでのたまうか……! ならば小僧、自分が何をしたのか解っておるのか。貴様はそのG-GHQに身を置く誇り高き騎士に体罰を加え、挙句に公的所有物であるなどと理由を付け、人格を否定したのだぞ」

 彼の言葉に、ヴォルフは喉が詰まった。人格を否定する……という文節に、覚えがある。とどのつまり、図星だ。
 理由はどうあれ、ジークフリートを恐怖するあまり、遠ざけてきた。少なからず罪悪感はあるが、しかし、どのようにすべきか、ヴォルフは解らなくなってしまった。
 ヴォルフは、冷や汗がかすかに背中を濡らすのを感じ取りながら、矢継ぎ早に弁解する。

「私は、“人とMAIDはみだりに距離を縮めるべからず”の原則に従い、MAIDとしての自覚に欠けていた彼女を教育したまでであり、私が気に病んでいるのは、その教育の際に不適切な暴力を用いたという一点のみです」

 本当はジークに関するあらゆる事柄について、毎晩悪夢にうなされる程に負い目を感じていたが、ヴォルフは焦燥感の赴くままに綺麗事を並べた。表情筋がすっかり退化しているのが幸いして、相手に焦りを悟らせずに済んだ。
 ――が、それがかえってハーネルシュタインの癪に障ったらしい。彼は、ヴォルフの失った右腕の付け根を力一杯に掴む。万力で締められるような痛みに、右腕の骨が悲鳴を上げた。

「わしは、それが自惚れだと云っておるのだ!」

「……現時点で私が申し上げられる事は、もう何もございません。その件についてはまた、日を改めてお聞きします。それでは、会議がありますので」

 一刻も早く、ここから消えねば。
 右腕を掴んでいたハーネルシュタインの手を払い除け、今度は一度、周囲を見回してから踵を返す。やや駆け足気味に立ち去る最中、彼の諭すような声音がこの背を何度も突き刺した。

「もはやその足を止めるまい。だが聞け、シュナイダー公。ブリュンヒルデがジークに教えた以上の事を、貴公が何か一つでも教える事ができたか? 教えた事と云えば、戦場の歩き方……そして、人との壁の作り方だけだ。貴公がジークの顔を殴った時、あの時ジークの流した涙を、見なかったとは云わせぬぞ」

「……」

 ――見たよ。毎晩悪夢の中であの涙に身体を焼かれるほどに、強烈に焼き付いているとも。もしもあの時見ていなかったなら、幾らか気は楽だったろうに。
 顧みたところで、背後のハーネルシュタインがヴォルフの“過失”を糾弾しているというこの現実は変わらない。それも、解りきっていた。

「ヴォルフ・フォン・シュナイダーよ、ゆめゆめ忘れるでないぞ! 貴公はあまりにも長くジークフリートの心を煩わせすぎた。貴公はジークフリートの教育に携わった事に対する自覚があまりにも足りなかったのだ! 然様な者だから、部下に強姦などされたのである!」

 徐々に遠くなって行く声が、最後までヴォルフの鼓膜にこびり付いた。
 ジークフリートの心を煩わせてしまっているのは、事実に違いない。だからこそヴォルフは、補給物資と一緒に誕生日プレゼント――ただし、匿名で――を紛れ込ませ、良心の呵責とどうにか決着をつけようと試みた。
 結局は、それも叶わないだろう。黙したままでは、誰も理解してはくれない。しかしまた、口を開く事に伴う責任とも、板挟みになっている。

「くそ……!」

 ヴォルフは緩慢に歩きながら、先程ハーネルシュタインに掴まれたせいでじりじりと痛む右腕の付け根を、書類ケースを持ったままの左手で押さえた。
 会議はとっくに中腹に差し掛かる時刻になっていたが、ヴォルフはもう、走る気力など微塵も残ってはいなかった。




最終更新:2010年01月18日 01:14
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。