(投稿者:ししゃも)
先の事件で破壊された壁や外壁の修復が終わった、マイスターシャーレ教員宿舎の一室。ライサは自分の部屋で椅子に座っており、机の上で職務を行なっていた。高級な材木で作られた机には、ペン入れや綺麗に整理された書類が置かれている。綺麗に机が整頓されていることは、午前中にやるべき書類整理は終わったことを告げていた。
そんな机上に、一枚の書類が真ん中を陣取っている。達筆な楼蘭の文字で書かれた、『
アサガワ・シュトロハイヒ』の本名、朝川真美。
内容は、簡潔にこう書かれていた。辞職願、と。
事の発端は、喫茶店から……いや、あの事件から全ては始まっていたかもしれない、とライサは思う。
「何にせよ、寂しくなるな」
ライサは思わず独り言を漏らした。アサガワが此処を旅立ってから、三日は経った。彼女は今、船に揺られながら自分の故郷に向かっているだろう。もちろん、このご時世に船旅は危険だ。いつ何時、Gの脅威に襲われるかもしれないからだ。
ライサは道中に護衛のMAIDを付けようと提案した。腕利きのMAIDを派遣しようとしたが、アサガワの強い要望で二人のMAIDが抜擢された。里帰りといえども、アサガワには遊び心があるらしい。
彼女は護衛のMAIDに、
パラドックスと
ジョーヌを提案した。先の事件から、休む間も無く職務を果たしている二人を気遣ってだろうか。パラドックスはともかく、ジョーヌは二つ返事でOKを出したらしい。
「真美、君が此処に来たときも同じような季節だったな」
季節は2月に入っており、肌寒い風が外で吹いている。空は灰色の雲に覆われており、外でマラソンや演習に励む候補生、MAIDたちに厳しい寒さを与えているだろう。
朝川真美のこと、アサガワ・シュトロハイヒがマイスターシャーレにやってきたのは、ちょうどこの季節だった。
当初、アサガワに与えられた仕事は武装SSの教育教官だった。それも本人の強い要望によって。
そんな彼女が、どうしてMAIDの、あるいはパラドックスの担当教官になったのか。あの日を境にして、アサガワは変わったとライサは思う。
三年前の思い出を、ライサは回想した。
「きもちわるい」
数時間以上、船に揺られているジョーヌは、船上の手摺りに凭れかかると自分の心境を呟いた。肌寒い風に煽れている船の揺れは大きくないものの、船酔いをしたジョーヌにとって、それは重いボディブローと同類だった。均等に長さが整った前髪を何回もたくし上げながら、ジョーヌは気分を落ち着かせようと必死だった。とうとう胃が重くなってきたのか、ジョーヌは首に締めていたネクタイを急いで緩める。
「大丈夫ですか」
そんなジョーヌの隣に、一般的なMAID服を着たパラドックスが怪訝な目でジョーヌを見ていた。そんなパラドックスの腰まで届く長髪が、肌寒い潮風によって靡く。パラドックスは視線をジョーヌから離すと、前を向いた。手摺りの向こうには、海原が広がっている。
海上の真っ只中で船に揺られながら、パラドックスたちは
楼蘭皇国に向かっていた。アサガワ教官の護衛という建前で、楼蘭に休暇を取りに行くらしい。
最初はこの休暇に、パラドックスは反対していた。あの叛乱事件で怪我を負ったとはいえ、MAIDであるパラドックスの治癒力によって、傷は癒えている。さらに、特務SSという仕事がある以上、急を要する仕事が度々入ってくる。そんなことを放っておいて、休暇ましては楼蘭に行くなど論外だった。
しかし、事情を知ったパラドックスは、行かざるを得なかった。
一つは、アサガワ教官の護衛として。もう一つは、なぜ彼女が『マイスターシャーレの教官を辞職したのか』を聞き出すため。他の人がマイスターシャーレを辞めようが、MAIDという職務を放棄しようが構わない。
だが自分を育て上げ、周囲の人からも期待と信頼を寄せていたアサガワ教官が、全てを投げ捨てたのか。それをパラドックスは聞きたかった。
「なぜ、貴方は……」
「う~ん?何かぁ……ふぁあ……仰いましたか?」
パラドックスの独り言が耳に入ったジョーヌは、生あくびを繰り返しながら問いただす。
「いえ、何でもないです。それにしても、はしたないです」
「うるさいですわね~。そもそも、なんで貴方は船酔いしない?おかしいですわ、不公平ですわ!」
ジョーヌは癪に障ったのか、不機嫌そうな顔でパラドックスの胸を服の上から掴んだ。突然の出来事に、パラドックスは何も出来ず、妙な快感に襲われた。
「ええい、この!この!」
「やめな、さい、ジョーヌぅ!」
パラドックスは恥ずかしい声を挙げながら、じたばたと身体を動かした。
先の事件から、二人の仲は親密になっていたのは言うまでもあるまい。特務SSと
帝都防空飛行隊。全く異なる職種といえども、二人は暇を見つけては、色々と喋ったり、買い物へ出かけていたりする。前者はともかく、買い物はジョーヌの付き添いとなっているが。
「仲がいいな、二人は」
そんな二人の間を入っていく、女性の声。ジョーヌはパラドックスの胸から両手を離し、話しかけてきた女性の方へ顔を向ける。
「アサガワ教官……失礼、今は教官ではありませんでしたわ」
ジョーヌお得意の皮肉の矛先は、黒色のロングコートを羽織った、眼鏡をかけた女性……アサガワ・シュトロハイヒに向けられていた。ジョーヌとパラドックスが、楼蘭に向かう要因になった人物。
「いつも通り、教官でもいいさ」
アサガワは皮肉に対して怒ることもなく、平然とした態度をとっていた。いつも通りのアサガワ教官だ、とジョーヌの攻撃を乗り越えたパラドックスはそう思った。しかし、どこか雰囲気が違った。
「寒くないのか、二人は?サクリン島を出たとはいえ、極寒には変わりないのだからな」
アサガワはそう言うと、船上でたった二人っきりではしゃいでいるジョーヌとパラドックスは「そうでもない」といった表情をしている。
「それにしても、いよいよですわね。船酔いで何回、逃げ出そうと思ったことやら」
踵を返したジョーヌは前屈みになって、手摺りに重心を預けた。楼蘭へ物資を運ぶ補給船を使った、アサガワの里帰り。ルージア海、バルホルン島、ヴォ連の港町、サクリン島を経由した補給船はいよいよ楼蘭皇国へ向かっていた。
「すまないな、二人とも。私のワガママに付きあわせて貰って」
眼鏡のブリッジを押し上げたアサガワは詫びると、憂鬱な瞳で海上を見ていた。
訪れる静寂。パラドックスの耳に入るのは、波の音だけだった。
「ところで、教官。一ついいでしょうか」
「ん?どうした、パラドックス」
パラドックスは、アサガワに聞きたいことがあったことを思い出した。それは、この休養に関係することではなく、前々から気になっていたことだった。
「教官、目は悪くないですよね?」
「ああ、そうだが」
眼鏡をかけたアサガワの返事に、パラドックスは続けて。
「でしたら、なぜ眼鏡をかけているのですか?」
その一言に、ジョーヌも呆気に取られていた。確かに、アサガワは目が悪くは無い。普段も裸眼で前の仕事に励んでいた。しかし、たまにアサガワが眼鏡をかけていることにパラドックスは疑問に思っていた。ルナの暴走事件の時も、アサガワは眼鏡をかけていた。
「ああ、そうだったか。話していなかったな、この眼鏡について」
アサガワは急に思い立った口調で、かけていた眼鏡を右手で外した。すると彼女は、それをパラドックスに手渡すように差し出した。
「教官、何を?」
「百聞は一見にしかず、だ。これを掛けてみれば、自ずと分かるさ」
パラドックスはアサガワの顔を見ると、彼女はにっこりと微笑んでいた。進展するには、この眼鏡を掛けるしかない、とパラドックスは思った。
「では、失礼します」
一言断ったパラドックスは、アサガワから眼鏡を受け取る。彼女はそれを丁寧に扱って、自分の両耳に引っ掛けた。度が入っていることを想定して、パラドックスは一旦、目を閉じる。そして、瞼を開かせた。
「……ん?」
レンズ越しのアサガワは、くっきりと映っていた。むしろ、眼鏡を掛けていない時と同じ風景が広がっている。多少の違和感はあるものの、レンズに度が入っていないことがこれで分かった。
「これで分かっただろう。これは、伊達眼鏡だ。私は目が悪くないし、そもそも度が入った眼鏡なんて掛けないさ」
面食らったパラドックスに、アサガワはくすくすと笑った。アサガワは、パラドックスの顔に両手を伸ばし、眼鏡を取った。そしてそれを耳に引っ掛ける。
「でもどうして、伊達眼鏡なんか?」
「そうです、そうです」
ジョーヌはそう言うと、気を取り戻したパラドックスが首を縦に振った。
「話せば長くなる。それでもいいか?」
ロングコートのポケットから煙草が入った箱を、アサガワは取り出す。同じタイミングでジョーヌは、フライトジャケットのポケットからマッチ箱を取り出した。アサガワは口に紙煙草を咥えると、マッチを一本取り出したジョーヌは、箱のやすりを使って、火をつける。
火が消えないように注意を払ったジョーヌは、他愛無いマッチの火をアサガワが咥えている煙草の先端に近付けた。
「今から数年前になる。私は
エントリヒ帝国にやって来た。親戚のコネと、ライサの計らいで私がマイスターシャーレに来た時のことだ。あの時の私は……」
虚ろな表情で、火が灯った煙草を咥えたアサガワは海原を眺めていた。そして、口を開く。
「MAIDが大嫌いだった」
エントリヒ帝国 マイスターシャーレ教員宿舎 小会議室にて
「ふむ。特に私からは言うことは無いな。他の教官たちも、同意見だろう」
書類に書かれた文面を一通り見てから、椅子に背中を預けた
ホラーツ・フォン・ヴォルケンはそう言った。彼は手前に置かれた机に書類を置くと、車一台分離れた場所で直立不動になっている、楼蘭皇国の軍服を着た女性に視線を送った。金髪の、楼蘭人。ハーフというわけでもなく、れっきとした純血だろう。そんなアサガワ・シュトロハイヒを、ホラーツは見た。
「中々良い人材だろ、ホラーツ。ところで、アサガワ。君の配属される科についてだが……」
ホラーツから見て、右側の椅子。そこに座った妙齢の女性……ホラーツと同じマイスターシャーレの講師であるライサは、さも我が娘を自慢するかのような口素振りだった。
素性、身体能力、射撃、格闘……凡そ、兵に技術と能力を教える教官としてのスキルをアサガワが持っているのは間違いない、とホラーツは思う。しかし、そんな彼女に欠点があることをホラーツはとても残念に思っていた。
「はい。私が申したように、MAID基本科への配属は遠慮させてもらいます」
ライサの言葉に続いて、念を押すかのようにアサガワは口を開いた。ホラーツの残念に思っていたことは、それだった。
G戦役におけるMAIDの戦果はただの物差しでは計りきれないものとなっていた。
異質な能力を持つMAID。エターナルコアから発せられる未知のエネルギーによって、MAIDが手にした剣が劇的に強化される。それによって、堅牢なGの皮膚や外骨格を打ち砕くほどの力を得た。
彼女たちが使用する剣などの、原始的な武器を用いた戦術がMAIDを保有している軍隊で見直されているがホラーツの記憶に新しい。
もちろん、マイスターシャーレでもいち早く『剣術』における分野の強化を図っていた。しかし、MAID基本科はまだまだノウハウが少なく、漠然とした教育カリキュラムしか存在しなかった。
独自の文化を築く楼蘭皇国での『剣道』と呼ばれる武道。それを嗜んだアサガワに、ホラーツは彼女をMAID基本科に配属させようと思っていた。しかし、アサガワが『MAID』という存在に嫌悪感を持っているのを知ったのが、ほんの数時間前だった。
(まさに『宝の持ち腐れ』、か)
MAIDを育て上げることができる『逸材』に、ホラーツは口惜しい気持ちでいっぱいだった。もちろん、彼女の力量を発揮できる場面はMAID基本科以外でも、たくさんあるだろう。だが、需要と供給の問題でアサガワのようなポストはどちらかというと、MAID基本科に配属すべきだった。
「もちろんだとも。君は武装SS仕官の教官として、明後日から職務に励んで欲しい」
「かしこまりました。それでは、失礼します」
ホラーツの思惑とは裏腹に、ライサに敬礼を送ったアサガワはそう告げると、背筋を伸ばしたまま小会議室から立ち去る。それを最後まで見届けた彼は、ライサに聞こえるようなため息を吐いた。
「どうした、ホラーツ。悩み事はよくないぞ」
「分かっておるだろ。アサガワについてだ」
ホラーツはまた、息を吐いた。二回目のため息は、図々しい態度を取るライサに対してだった。一方のライサは、足を組むとテーブルに置かれているティーカップに手を伸ばした。
「確かに、私も一度は彼女をMAID教官として推薦しようとした。しかし……」
「妹が、MAIDか。MAIDという存在をそういう形で知ろうとは、酷なことだ」
言葉を詰まったライサを代弁するかのように、ホラーツはアサガワのことについて語り出した。アサガワの妹、朝川千早はGによる襲撃を受け、瀕死の重体を負った。それに目をつけた楼蘭皇国のMAID研究機関が彼女をMAIDという存在に転生させた。それまでは良かった。
だが彼女は、あるきっかけを元に生前の記憶……朝川千早としての記憶を取り戻した。MAIDとしての記憶と生前としての記憶が矛盾を引き起こし、千早は錯乱状態に陥った。施設から脱走し、あろうことか
朝川家から家宝の刀を強奪し、行方知れずとなった。
一番驚いたのは、アサガワ自身だろう。瀕死の重傷を負ったの妹が突如現れ、家宝を奪い去った。それから、アサガワはMAIDという存在の真実を知った。
MAIDが、死んだ人間あるいは瀕死になった者から作られているということを、世間は知っていない。人は皆、彼女らが超人的な能力を生まれつき持っている、特別な人間という認識をしていた。ホラーツもライサも、そう思っていた。しかし現実は非情で、真実を知った時の心境をホラーツは今でも覚えている。
「アサガワと、妹の確執は闇のように深い。それのせいで、アサガワはMAIDに対して嫌悪感を持っている」
ティーカップに口を離したライサは、小会議室に設けられた窓へ視線を送った。窓越しには、灰色のインクで塗られたキャンパスのような空が広がっている。まるで、アサガワの心境を表しているかのような錯覚に、ライサは陥る。
「ライサよ。なぜお前は、彼女を引き抜いた?」
ホラーツは、そう言うとライサは窓から視線を外す。彼女は、右手でずっと持っていたティーカップを覗き込んだ。
「私の趣味だよ」
ティーカップには、ミルクティーがまだ半分以上も残っていた。
続く
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最終更新:2010年04月16日 00:48