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十仏戦争(じゅうふつせんそう、英:French-Jusshria War、147年 - 147年)は、大清帝国を保護するフランス王国が、大清領回復を名分に十洲の寧波租界へ侵攻したことをきっかけに、両国の間で行われた戦争である。戦争名について、通例では戦勝国であるフランス王国が先にくるが、特に日本語表記において、きわめて語感が悪いため十仏戦争と表記されることが多い。 | 十仏戦争 | ||||
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目次[非表示] 1. 概要 2. 背景 2-1. フランスの大清支配 2-2. 十洲=らずべりぃ軍のエルサルバドル侵攻 3. 開戦 4. 開戦後の経緯 4-1. 両国艦隊の動向 4-2. 日本海海戦 4-3. 寧波会戦 4-4. 上海会戦 4-5. フランス軍の再侵攻 5. 終戦と講和 6. 評価 7. 関連項目 8. 参考文献 |
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。上海会戦 | ![]() | |||
戦争:戦争 | |||||
年月日:2021年02月08日 - 2021年02月13日 | |||||
場所:中国、日本海など | |||||
結果:フランス王国の勝利 | |||||
交戦勢力 | |||||
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フランス王国(シェラルド) | ![]() |
十洲連合王国 | ||
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大清帝国 | ||||
指導者・指揮官 | |||||
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エリック8世 | ![]() |
煕寿太后 | ||
フランソワ・ベルシカラー | 十洲総司令官 | ||||
フィリップ・フォンシニョン | 十洲現地指揮官 | ||||
ジェレミー・ランツァウ | 十洲海軍提督 | ||||
投入戦力 | |||||
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43,340人 | ![]() |
0,000人 | ||
軍艦全38隻 | 軍艦0隻 | ||||
損害 | |||||
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死者・負傷者12,358人 | ![]() |
死者・負傷者0,000人 | ||
捕虜6,114人 | 捕虜0,000人 | ||||
概要 | |||||
らずべりぃ内戦に派兵した連合国のうち、十洲連合王国は舞羅帝国、トンガ帝国と媋朝継承戦争を戦い、アルタグラシア条約によって復活した媋朝らずべりぃ王国の後見的立場を得た。147年、十洲とらずべりいは共同で、中華社会主義共和国連邦がフランス(シェラルド王国)によって滅ぼされて以降主権が曖昧であったらずべりいの旧領エルサルバドルへ侵攻した。フランスは傀儡の大清帝国が旧中華利権を引き継ぐべきと抗議した。 同年に十洲で摂政政が立つと、太后が権力を握り鎖国政策を行った。外交的に孤立した十洲に対し、フランスはエルサルバドル侵攻の意趣返しとして、十洲の中華租界寧波へ侵攻、十洲の守備隊を破り占領した。フランスは寧波、エルサルバドルの返還を要求する最後通牒を送り、十洲はこれを破棄し両国は開戦した。 中華戦争の損傷そのままの寧波は対艦防御が全くできず、十洲は陸海の連携で寧波を奪還した。さらに日本海海戦でフランスのバルチック艦隊を壊滅させる大戦果をあげると、戦況は十洲へ大きく傾いた。しかし、余勢を駆って大清領上海へ侵攻すると、ベルシカラー元帥の指揮するフランスの援軍の反撃にあい返り討ちにあった。追撃を受けた十洲軍は寧波でも敗北し、フランスが再び寧波を奪取した。 上海、寧波での消耗は小国の十洲にとり重症であった。降伏した十洲はフランスとパリ講和会議でパリ条約を締結し、寧波、エルサルバドルの返還と多額の賠償金を受け入れ終戦した。 |
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背景 | |||||
フランスの大清支配 |
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十洲=らずべりぃ軍のエルサルバドル侵攻 らずべりぃ内戦で中米へ出兵し、利権を得ていた諸国のうち、十洲王国は旧らずべりぃ王家媋朝との婚姻を結んでいた国内アイヌ系貴族を通じ、同家の再統一事業の支援を通じた中米支配政策に邁進していた。142年に発生した媋朝継承戦争では、らずべりぃ王位継承権を持つ媋家親王三名による王位継承戦争において、それぞれを支援する十洲王国、トンガ帝国、舞羅帝国とが介入し、143年のアルタグラシア講和会議によって、3親王領による連合体制での統一政権が誕生した。一方、南パナマを占領したフランス王国は、同地にイェリング朝の分家ブルゴーニュ家から王をたて、パナマ王国を建国し傀儡支配していた。フランスもまた中米支配を目指したが、唯一隣接する北パナマを同盟機構celtoの蒼星連邦に抑えられたことで身動きが取れずにいた。 147年、媋朝らずべりぃ連合王国は十洲連合王国軍と共同で、旧領回復の名分でエルサルバドルを占領、実行支配した。同地は内戦時に中華社会主義共和国連邦が占領しており、その後フランスによる中華戦争および大清帝政復古の際に中華軍は撤退、空白地帯となっていた。フランスは中華社会主義共和国連邦の版図を傀儡支配下に置いた大清帝国の正統な領土と主張し、エルサルバドルの利権は大清に帰属するとし抗議したが、フランス本国がレグルス戦争に忙殺されていたことで、媋朝らずべりぃ王国と支援する十洲王国はエルサルバドル支配を強行し両国は対立を深めた。パナマ王アンリの父親で、フランス・ライン方面軍司令官を務めるブルゴーニュ公シャルルはパナマへの大規模派兵を上奏したが、フランス王兼神聖ローマ皇帝エリックはむしろ、若手参謀シャンベリの提案した対十洲戦案を気に入っていた。これはパナマ-大清間のシーレーン上で最大の障害となる十洲に対し、十洲のエルサルバドル占領の意趣返しのように、十洲租界寧波へ、連合国への租界を定めた北京条約の無効を宣言し侵攻する、というものであった。とはいえ、十洲王国は神聖ローマ帝国構成国スミトラント王国をはじめ、各国から多くの駐留軍を引き出しており、特に海軍戦力に不安を残すフランスとって、安易に手を出せる国ではなかった。 |
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開戦 | |||||
145年に十洲国王が崩御し、息子の壬礼王が即位すると、まだ幼い王に代わり、大叔母である煕寿太后による垂簾聴政、すなわち摂政政治が行われるようになった。煕寿太后は依然より外国嫌いで知られており、摂政に就くやいなや、国内に駐留している外国軍をつぎつぎと追い出していった。こうして十洲国政は煕寿太后の下で排外主義的な傾向を強めていき、多くの欧州諸国との外交パイプを失い、孤立を深めていった。こうした動きを腹心の大清帝国大元帥ベルシカラーより報されたフランス皇帝エリックはこれを好機とみて、大清帝国に駐留しているフランス軍のフォンシニョン将軍に命じ、十洲租界寧波に進軍させた。 フランス軍は夜間のうちに十洲の紹興市の要塞を奇襲攻撃無力化させると、寧波市を包囲した。十洲の守備隊はフランス軍の電撃戦に抵抗できず、たちまち敗走し沿岸砲台に追い詰められた。十洲海軍は慌てて出撃し、敗走兵の半数ほどの収容には成功したが、残る半数は戦死か捕虜となり、寧波租界は占領された。十洲王国は大使館を通じフランスへ抗議し、さらに同盟国や友好条約を結ぶ各国へ支援を求めたが、垂簾聴政によって十洲を追い出された各国は中立を宣言し不干渉を決め込んだ。フランスおよび大清帝国は十洲王国に対し北京条約の無効を宣言し、女春朝支配下のエルサルバドルの返還を要求する最後通牒を突き付けた。十洲は不利な状況に追い込まれていたが、大権を握る煕寿太后の対外強硬路線に異を唱えられえる者がおらず、この最後通牒も突っぱね動員を開始した。フランスおよび大清帝国は正式に十洲へ宣戦布告し、十仏戦争がはじまった。 |
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。開戦を宣言する十洲王 | ||||
開戦後の経緯 | |||||
両国艦隊の動向 壬礼王及び煕寿太后は連名で戦時を宣言し、〇〇を海軍提督に任じ寧波奪還のため攻撃を命じた。フランスは遠く、海軍の支援が来るまでの間、寧波を占領しているフォンシニョン将軍は奪取した寧波砲台を利用した防衛を計画していたが、これは十洲軍が租借後すぐに中米の戦争にかかりきりとなったことで修復、改修がされていなかった。アテの外れたフォンシニョン師団は、瓦礫同然の要塞と旧式の中華製沿岸砲で十洲艦隊と交戦しなければならなかった。十洲砲艦は象山湾、杭州湾に入り込み砲台のフランス軍陣地を破壊し、はては銭塘江を俎上し杭州市を砲撃した。特に砲艦恵庭が放った砲弾は火薬庫に命中、大爆発を起こしフランス軍300が死傷する大戦果をあげた。 一方でフランスでは、予想外の寧波の惨状と、報告に上がる十洲海軍の精強ぶりに対し、大慌てで艦隊の援軍派遣計画が作られていた。当初は青島港に駐留していた艦艇と大清水軍とで充分と考えられていたためである。しかし、肝心のフランス主力艦隊たる大西洋艦隊も地中海艦隊も、先のレグルス戦争のドーバー海戦で撃滅されており、出撃は不可能だった。参謀部は急遽奇跡的に実働状態にあったフレンスブルクのフランス・バルト艦隊(バルチック艦隊)に出撃を命じた。提督にはランツァウ公が任ぜられた。バルチック艦隊は一度パナマに寄港し補給を受け、日本海へ向かった。 十洲にとってはバルチック艦隊がどのルートを通るのか、これを見極めることが課題であった。すなわち、十州本土か、寧波か、ということである。当初十州は、バルチック艦隊は青島の艦隊と合流を企図していると考えていた。しかし媋朝らずべりぃ王国から十洲政府の勅命を受けパナマ王国へ送り出されていた間謀〇〇は、バルチック艦隊の運河通行の際にフランス大使館で開かれた舞踏会に侵入し、見事酔っぱらったランツァウ公が口を滑らせ、裏を掻いた本土奇襲攻撃を計画しているとの情報を手にした。十洲海軍は艦隊を釧路沖に展開し、万全の状態で待ち受けた。 一方のフランス・バルチック艦隊といえば、参謀本部から下された航行ルートの命令書に反し、仏領ポリネシアへ南下した。後にランツァウは補給に問題があったため、と報告したが、実際にはポリネシアの愛人に会いにいったらしい。兎も角一度大きく南に逸れたバルチック艦隊はその後案の定迷子になり、「予定より大きく南へそれてしまったため、止む無く黄海へ入り青島艦隊と合流する」選択を取ったが、大きく風に流され、通過したそこは対馬沖の海峡であった。バルチック艦隊日本海に現るの報は十洲を大いに混乱させ、艦隊も大慌てで旋回し日本海へ向かった。 |
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日本海海戦 12日、間違いに気づいたバルチック艦隊は旋回し再び対馬に差し掛かったが、のんびりと旋回している最中、ここで十洲艦隊が追い付いた。十洲艦隊の先頭部隊がバルチック艦隊隊列の横っ腹に猛砲撃を浴びせると、即面を取られたバルチック艦隊は大混乱の中戦闘を開始した。バルチック艦隊は旗艦ル・アーブル号をはじめ、新型艦中心の編成であったものの、主力艦が多く速度に劣った。一方で十洲艦は機動力に優れ、次々とバルチック艦隊隊列の死角に滑り込むと、集中砲火で各個撃破していった。十洲艦隊はアイヌ人提督〇〇指揮の下、正確な砲撃と滑るような機動でバルチック艦隊の各艦を分断し、反撃の隙を与えず始末していった。 ル・アーブル号は反撃で十洲駆逐艦の一隻を撃破したが、戦果はそのぐらいで、最早劣勢は覆らなかった。ル=アーブル号ではランツァウ公自ら甲板にあがり指揮を執ったが、途中十洲戦艦屈斜路の砲弾の破片をくらい、両足を失う致命傷を負った。その後も襖桶から指揮を執り続けるも遂に絶命し、バルチック艦隊は統率を失い崩壊した。最後尾の防護巡洋艦ロシュフォール号は旋回前に戦闘が始まったため、戦況劣勢となると的中突破を図り突撃、見事成功するも逃走先のウラジオストク港で入港拒否をくらい、あえなく投降し艦長ボンデュー共々拿捕されてしまった。日暮れには戦闘は終結した。バルチック艦隊はわずか2隻が青島へ逃げ込んだほかは全滅し、殆どの水兵と共に日本海の藻屑となった。 十洲はこの勝利に大いに湧き、提督〇〇を国民的英雄と称えた。希望を見出した十洲軍は、寧波の奪還に動き出した。フランス皇帝エリックはこのとき参謀本部で若手士官相手に軍艦模型を用いた演習ごっこを展開、いかに勝利が確実かを自慢していたというが、敗北の報を受けると、すべての模型を叩き壊して塞ぎ込んでしまったという。 |
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寧波会戦 日本海海戦を制しフリーハンドを得た十洲艦隊は、ふたたび内湾や河川へ入り猛砲撃を加えた。この中で補給さえままならなくなり、もはや瓦礫どころか更地と言えるほどに崩壊した寧波砲台から、フランス軍指揮官フォンシニョン将軍は再三本国や大清へ支援要請を行っていた。しかし、肝心のバルチック艦隊は壊滅し、援軍のベルシカラー元帥麾下のフランス軍もまた、近年まれにみる大雪に阻まれ、予定より大きく遅れて南下している最中だった。当初は援軍は大清=フランスの連合軍の予定であったが、大清国内では、十洲の日本海会戦大勝利をうけ、十洲を解放者とみなした中華人が反乱を起こしており、大清正規軍はこれの対処に当たらなければならなかった。 これを好機とみた十洲軍は寧波の奪還へ、本土から陸軍部隊を派遣し、艦隊の支援の下寧波に上陸し、総攻撃を開始した。フォンシニョン師団はなんとかわずかに残った砲と瓦礫とで防御陣地を構築し待ち構えたが、肝心の兵たちは夜通し続く海上からの砲撃で疲弊しきっており、中には市街だった石くれの中からなんとか戦利品をせしめようと奔走するものもいるほどであり、統率が失われていた。銃剣を構えなだれ込んだ十洲兵はフランス兵を蹴散らしていった。 フォンシニョンはこの時間で残る側近の精鋭兵を纏めると後退し、梅山島、大榭島に強固な防御陣地を築いた。この陣地は寧波租界の突き出た半島部にあり、勢いのままに突入した十洲兵たちは、島からの十字砲火を受け大損害を出した。しかし、指揮官の十州陸軍中将〇〇は機会を逃さんと短期決戦を望んだこと、また陸軍と対立する海軍にこれ以上手柄を挙げさせたくなかったことから、再三突撃による突破を図った。残存フォンシニョン師団は死に物狂いで抵抗し、最後までこれを跳ねのけた。半島は十州兵とフランス兵の死体の山ができていた。 この事態を受けて〇〇中将が更迭されると、後任の〇〇は海軍へ支援を要請し、両島へ四方八方から砲撃を浴びせながら突撃すると、損害を出しながらも遂に砲台に十洲旗を掲げた。フォンシニョンは降伏し、十州は全砲台を奪取、寧波租界を完全に回復し寧波会戦に勝利した。この報を受けたフランス皇帝エリックは、とうとう発狂するように怒り出し、参謀本部で将校たちと酔っ払い、全裸で取っ組み合いのケンカをしたという。 |
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上海会戦 日本海海戦に続き寧波会戦にも勝利したことは、十州国民をこれ以上ない程に熱狂させた。軍部は損害を出しながらも責任を果たしたことに安堵していたが、次第に十洲国民は大清領への反転攻勢を望むようになった。この勝利を自らの権力の基盤固めに利用したい煕寿太后は参謀部に攻勢計画の作成を命じた。十洲軍総司令官〇〇は寧波会戦ひとつとっての被害の大きさを鑑み頭を抱えたが、しかし実直な彼は仕事とあらばと計画を立案した。目標は上海の占領。そのために障害となるのは杭州要塞の存在だが、これを攻略せんとすれば寧波会戦の再現となり、もとより動員兵力に乏しい十洲軍にとって命とりになりかねない。そこでこれを迂回し、太湖向こうの朝日皇国租界まで打通、上海を包囲し孤立させる作戦を取った。このときベルシカラーは豪雪で行軍不能となった兵を置き去りにし、歴戦の古参兵のみを率い強行軍で南下していた。ベルシカラー軍は本陣は杭州要塞に置き、銭塘江での防衛を計画し川沿いに展開した。 〇〇は渡河地点に富春川の中洲のある地点、東洲を選定した。対岸には山地があり、見つかりにくくもあったためだ。十州軍は先ず新沙村に砲台を築くと、そこから支援を受け一斉に東洲へ、そして白鶴村へ渡った。この迂回作戦は正しかったが、陽動を行わなかったために、杭州要塞対岸が静かなことからベルシカラーは迂回を看過した。さらに架橋作業及び渡河は夜間のうちに行われる手筈であったが、吹雪のため作業が度々中止され、完了する頃には日の出を迎えてしまっていた。橋頭保を築くための十洲軍先遣隊は、日の出とともに満洲人軽騎兵の襲撃を受けた。これを見た渡河中の部隊は一時パニックに陥りかけたが、山に囲まれた地形が功を奏し、砲台からの支援もあってなんとか先遣隊は持ち場の死守に成功した。司令官○○はこの時点で渡河を中断し上へ攻勢中止を訴えたが聞き入れられず、時間を浪費した上で再渡河した。ベルシカラーは兵を集結し、下楊村とその脇の街道の交差部、現地で浦頭とよばれる地点を確保し陣地化し、その中心に本軍を置く形で布陣した。十洲軍からすると下楊村は小川と土手に守られ強固であったため、右翼の浦頭へ兵力を集中しての突破を図った。十洲軍の全力攻撃はフランス右翼を大いに圧迫せしめたが、しかし寧波のそれとは違い、イベリア戦線で鍛えられた歴戦のフランス古参兵は崩れなかった。十洲司令官○○は正面突破を困難と判断し迂回機動を試みたが、積雪のせいで足が鈍く、騎兵戦力にも乏しいため叶わなかった。また、下楊村の砲兵陣地からの砲撃による消耗も無視できないものであり、十洲軍は再三部隊を投入しこれを奪取せんと試みたが、やはり小川と土手沿いに配置された銃列に阻まれ押し戻された。十洲軍の疲弊がピークに達したころ、ベルシカラーはこれを見逃さず予備砲兵を投入し猛砲撃を浴びせ十州隊列にほころびを作ると、満州騎兵隊を突撃させた。十州軍の中央は瞬く間に突破され、軍全体にパニックが広がり敗走が始まった。○○は予備兵を投入しなんとか規律を維持しようと試みたが、不幸にも足を滑らせ転倒、頭を打ち気絶してしまった。統率を失った十州兵は雪の中で追撃を受け夥しい損害を出した。さらに橋が砲撃によって破壊されると、逃げ場を失った十州兵は次々と富春川へと飛び込んだ。ベルシカラーは殲滅を確信したが、しかし北海道育ちの十州兵は元気に真冬の川を泳いで渡ってしまったので、大変たまげたという。司令官〇〇も川へ投げ落とされたことで目を覚まし、やはり元気に泳いで対岸へ戻ると、軍の立て直しを図った。 |
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フランス軍の再侵攻 上海会戦で戦力や装備の大部分を喪失し、十州軍司令官○○は経戦困難を理由に停戦交渉を上奏したが、なまじ日本海海戦、寧波会戦と大勝したことで国民が熱狂し、その手前メンツを守りたい朝廷は〇〇を解任した。さらにフランスからの和平交渉の使節に対し、捕らえて冬のオホーツクへ沈めてしまった。フランスは激怒しベルシカラーに寧波進軍を命じた。ベルシカラー軍は上海会戦後に大清帝国軍の増援を加え数を倍以上に増やしていたのに対し、敗残十洲軍は兵どころか装備も殆どを遺棄したままであった。しかし後任の司令官は経戦派の〇〇であり、紹興で意気揚々とフランス軍へ突撃し大敗を喫し彼自身も戦死してしまった。結局元の〇〇が司令官に復帰すると、曽女我江沿いに防衛線を築いたが、最早大砲はたったの二門しか残っておらず、対岸からの猛砲撃の中で再び敗走した。しかし、この中で十洲軍の殿を務めた第〇〇アイヌ人連隊は雪中をスキーで機動し弓で狙撃、追撃するフランス兵を数多く仕留め大戦果を挙げた。 アイヌ人連隊の活躍で多くの十洲兵が寧波へ逃れたが、彼らはパニックの中の敗走であり、最早規律は失われていた。司令官〇〇は敗走中三度川に落ち、遂にカゼを引いてしまった。〇日、フランス軍が砲兵の支援の下寧波市を奪還すると、死守命令が出ていたにも限らず、押し出されるように十洲兵は半島の砲台へ逃げだした。彼らは軍艦に回収され本土へ逃れようと、我先にと港へ駆け込んだ。その最、十洲本土から経戦のため送られ、上海会戦での喪失の補填となるはずであった砲弾薬の集積所で失火し大爆発が発生、停泊していた十州艦艇にも引火し港一帯が吹き飛ぶ大惨事が発生した。後にベルシカラーはエリック宛に「これ程の大爆発は我が軍歴で初めてみた」と書き記し、戦況視察のため戦艦に乗り込み寧波沖に訪れていた煕寿太后は、これを見て経戦を諦めたという。フランス軍は寧波全域を再占領し、十州朝廷はフランスの使者を受け入れた。 |
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終戦と講和 | |||||
翌月、パリで講和会議が開催されることが決定し、十洲外務卿〇〇が全権大使としてフランスへ向かうこととなった。しかし、このときフランスにまともな軍船が残っていなかったため、特例として十洲艦隊が〇〇を連れて行った。ブレスト市長フランソワ・ダルニエは、「倒したはずの国の艦隊が講和会議にやってくるのは不思議な気分だった」と懐述している。 講和条約では十洲王国に対し、最後通牒の通り大清帝国へのエルサルバドル及び寧波の返還、そして戦費の保証として賠償金が課された。賠償額については、フランスにとりバルチック艦隊壊滅の損害額はかなりの額に上り、主にその補填を求めて、十洲にとってはかなりの額を要求したが、十洲はこれを飲まざるを得なかった。余談だが、十洲特使○○の護衛として同行した十洲兵に対し、エリック帝はフランス領スイス出身の親衛隊員と北海寒中水泳対決をさせたが、十洲兵が勝ったので大変悔しそうにしていたという。 |
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評価 | |||||
戦勝国こそフランスであるが、十洲王国の、圧倒的な国力差を覆しての日本海海戦での勝利は今なお伝説的な勝利として語り継がれており、極東地域における民族主義の拠り所とさえなっている。勿論フランスでは真逆の評価であり、戦死したランツァウ公の邸宅の壁には暫く投糞が絶えなかったし、ポリネシアの愛人と、その間にできた娘には一切の遺族年金が支払われなかった。その一方でベルシカラー元帥の活躍をはじめ、フランス陸軍の精強ぶりは再評価されており、それぞれ陸軍国、海軍国としての特色が現れた戦争であった。 戦後、フランスでは日本海海戦の大敗北をひとつの切欠として、悪名高い帝国強制徴募法が施行され、後の第4次欧州大戦へと繋がっていく。君主制国家はしばしば君主やその後見人の意向で政治情勢や外交状況、はては戦況までが様変わりするものだ。今戦争で十洲が陥った苦境を、次は偉大な皇帝陛下の尻に宿った爆弾が引き起こそうとしていた。 敗戦国となった十洲では、長期の不作による物価の高騰や、天然痘の拡大などといった国内問題からなる民衆の不満を、諸外国への強硬な姿勢で覆い隠そうとする煕寿太后の国粋主義扇動的な政策が限界を迎え、更に中米や中国での利権を失い、賠償金支払いのために増税を行うといった噂が流布されたため(実際には行われなかった)民衆の不満が爆発し、辛丑倭乱―後の北海民国建国宣言につながる―や、千島・道東アイヌ貴族の王国離脱宣言など、平取朝時代の終わりを迎える引き金となっていく。 また、このときパリ講和会議から欽差官が持ち帰ったパリの写真やフランス土産に、煕寿太后はひどく心酔し、国庫疲弊の最中にも関わらず欧州から多くの美術品を買い求めたという。これが後に、太后が亡命先として欧州を選んだ遠因となったとも言われている。 |
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関連項目 | |||||
● 上海条約 ● 媋朝継承戦争 | |||||
参考文献 | |||||
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