第二次低地戦争

第二次低地戦争


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第二次低地戦争(だいにじていちせんそう、英:Second Netherlands war、統一歴152年~)は、シェラルド帝国が率いるフランス連邦と、ヴァルキア王国及びこれを支援するcelto諸国との間で発生した戦争である。低地戦争(統一歴140年~)からの連続性が確認されるが、戦場は主にフランス北部や南北アメリカである。
第二次低地戦争
        



        目次[非表示]
 1. 概要
 2. 背景
  2-1. 第一次低地戦争
  2-2. バルニエ事変
 3. 開戦
 4. 開戦後の経緯~フランス戦線~
  4-1. リールの戦い
  4-2. フランス軍の欠陥
  4-3. セダンの戦い
  4-4. エリック帝を捕虜に
  4-5. 連合軍のパリ占領
  4-6. アルベルティーヌの決起
  4-7. リヨンの戦い
  4-8. オルレアンの戦い
  4-9. ランス奪回
  4-10. パリ撤退
 5. 開戦後の経緯~アメリカ戦線~
  5-1. ---
  5-2. ---
  5-3. ---
 6. 終戦と講和
 7. 影響
 8. 関連項目
 8. 参考文献
セダンの戦い
アミアン講和会議
戦争:第二次低地戦争
年月日:2021年07月00日 - 202108月00日
場所:フランス、南北アメリカ
結果:ヴァルキアの勝利、フランスの政変
交戦勢力
ヴァルキア王国
帝政シェラルド
クラフティン共和国
漢疆大公国
スティーブ・クラフタリア同盟連邦
エルドランド立憲王国
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 アラスカ連邦王国(蒼星)
クローネ・ドゥ・ローゼノワール王国
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 スィヴェールヌイ諸島共和国
ザーティエラ
イットリカン民主主義国
舞羅帝国
スミトラント連合王国 imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 神聖ラエリア帝国
シークヴァルド=アストリア聖国
北太平洋連合皇国
指導者・指揮官
ヨーゼフ・アンデルセン・グレイス
エリック1世
アンドリュー・タケウチ
アルベルティーヌ・ド・ローゼノワール
アルシオネ・R・シダーフィル2世
ナポレオン・バルニエ・ボナパルト
新庄 翼
漢疆大公国将軍
スティーブ・ペルソン(大統領)
エルドランド将軍
アンブローズ・ファラデー(陸軍大将)
シャルロッテⅠ世
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 アラスカ王マティアス フォン・シリングス
ギュスターヴ・ドゥ・ボワエルデュ卿
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 アイザック・カロン連邦王国軍大将
ザーティエラ君主
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 ドミトリー・プルシェンコ国家主席
ザーティエラ将軍
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 ホクレン将軍
舞羅君主
クリスティーヌ・ド・メニル大統領
舞羅将軍
ファブリス・ル・リゴ中将 imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 シャーナ・アルネア・エンテス・ラエリア.
スミトラント君主 imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 シャリク・ラエリア元帥
スミトラント将軍
アストリア君主
アストリア将軍
明彦皇王
桶谷泰秀 陸軍一将
戦力
ヴァルキア戦力
140,000
シェラルド軍
334,000
クラフティン陸軍
28,000
漢疆大公国
クラフタリア戦力
エルドランド戦力
86,000
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 アラスカ戦力
187,000
クローネ王立軍
33,600
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 ホクレン戦力
ザーティエラ戦力
イットリカン戦力
326,000
舞羅戦力
スミトラント戦力 imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 ラエリア軍
1,013,700
アストリア戦力
連合皇国戦力

 概要

本文
画像の説明

 背景

第一次低地戦争

本文
画像の説明
 

バルニエ事変

本文
画像の説明

 開戦

ブリュッセル交渉の決裂

統一歴150年に起きたバルニエ・ボナパルトによるベルギー侵入事件は、ブリュッセル条約によりヴァルキア新王ヨーゼフの承認と北海協商の再締結という形で和解した。しかし、このとき棚上げされた問題が残っていた。バルニエの身柄である。またフランスのエリック帝は表立ってヨーゼフ批判などはしなかったが、友人であった先王アーリンの子カスペルと親しく付き合っており、さらには対英独同盟の名目でブーローニュに大軍を集結させていた。統一歴152年、酒の席でエリック帝がカスペルへ「君こそ王に相応しいのに」と漏らしたことが伝わると、ヴァルキアはフランスの低地への野心は健在と捉えるようになった。
同年、ヴァルキアは古き同盟国であるクラフティン共和国から大規模な派兵を取り付ける。これを受け、フランスに首都占領の屈辱を受けたクラフタリア連邦はヴァルキアに接近した。大統領スティーブはフランス外務大臣プラティエを通じヨーゼフと会談の機会を掴み、ハーグ条約を締結し陸海空の大軍の派遣を成した。これは復讐心は勿論、再び本土を戦場にしないという利にもかなっていた。
プラティエはフランス外務大臣でありながら、クラフタリア大使時代以来熱狂的な共和主義者となっていた。彼は苦心して纏め上げたフランス=クラフタリア同盟をコケにされたことを屈辱をおぼえ、クラフタリアにフランスの絶対制を打倒させようと策謀していた。無謀なクラフタリア遠征が何故か偶然成功してしまっても諦めず、反仏国家の結集に努めた。彼は英独同盟とも接触し、ヴァルキアの保護とフランス皇帝の打倒を訴えた。こうしてヴァルキアを中心とした対仏大同盟が結成されつつあった。
こうしたヴァルキア勢力の拡大を警戒したフランス宰相ボナパルトは敵兵力が結集し切る前に手勢のブーローニュのイギリス方面軍で以てヴァルキアを撃破せんと上奏したが、エリック帝はこれを退けた。元来短気で勇猛なエリック帝だが、それでも頭の上がらない相手はいたのだ。フランスはこのころ、アラスカ戦争の敗戦や肥沃なロンバルディアの喪失などで折角好転した財政が再び悪化し始めていた。フランスは共産化からの王政復古という歴史を辿り、貴族や僧侶の権力は控え目であり、帝政の支持基盤はむしろ、覇権主義による経済圏の拡大や軍需産業によって利益を受けるブルジョワジーであった。彼らは前大戦以降エリック帝の能力の衰えを認識し、貴重な成果である北海協商の再締結からの上がりの護持に固執した。彼らの反対によって能動的な対ヴァルキア開戦は不可能になっていた。
さらに深刻なのがエリック帝の持病の悪化だった。持病とはすなわち「痔」である。前大戦期にも猛威を振るったこの病は、このとき再び悪化していた。そのためエリック帝は消極的になっていた。それどころか、皇帝代理人足りえるシャルル皇太子はもっと絶望的な状況にあった。アラスカ戦争トラキア戦線従軍時に見せていた性病による憔悴が進行し、床に臥せっていたのである。政治的な病、肉体的な病のふたつによって、フランスは機能不全に陥っていた。
フランス皇帝親子の醜聞は瞬く間にパリ中に広まり、間謀によってヴァルキア陣営(以下連合)へ伝わるところとなった。恐ろしいエリック帝のいない間に攻め込んでしまおうという機運が連合側では高まっていた。しかし、彼らは健全で真っ当な民主主義国家なため、開戦事由が必要だった。そこで、連合ではブリュッセルで交渉会議を開き、一芝居打とうということになった。連合代表はブリュッセルへ集い、ヴァルキアへの大軍集結に抗議していたフランス政府との交渉の機会を持とうということであった。こうしてフランス代表としてブリュッセルへやってきたのは、当然プラティエである。誠に残念ながら、交渉は決裂ということとなった。これを連合はフランスの領土的野心故とし、ヴァルキアを保護するため開戦しようというプロパガンダを展開し、世論を味方につけていった。
ここに至ってはフランス世論も開戦に傾き、エリック帝はお尻の痛みを我慢しながら、むしろ敵対勢力を一網打尽にする好機ととらえ、大陸軍の集結を始めた。エリック帝は戦えば勝てると思っていたし、全盛期ならそれも可能だったかもしれない。しかし、実際にはエリック帝はもうアラフィフで能力は衰え、痔で、大陸軍も前大戦の敗戦によって能力を落としていた。
ブリュッセル会談にて握手を交わすヨーゼフ王とプラティエ外務大臣

 開戦後の経緯

リールの戦い

統一歴152年春、ヴァルキアはバルニエの身柄引き渡しをはじめとする最後通牒を通達した。フランスはこれを拒否、両陣営は宣戦布告を送り合い、第二次低地戦争が開戦した。
未だ揃いきらぬフランスの前線を相手に、ヴァルキアに加え、クラフティン、クラフタリア、イットリカン、北連、アラスカらcelto連合陸軍は攻勢をかけた。連合軍総司令官は名目上はヴァルキア王ヨーゼフが務め、総参謀長にはヨーゼフたっての希望で駐刃クラフティン軍の司令官カスカベが任命された。celto連合軍は自慢の重厚な準備砲撃、統率の取れた航空支援の下で機構戦力がフランスになだれ込む…速攻のはずだったが、そこはフランス自慢の大陸軍。モブージュを守るデレッセル元帥は北連派遣軍を相手に強固に防衛しており、最大の戦闘となったリールの戦いでは、かつてバルニエの拠点があったためにヴァルキアは早期攻略を希望し、激しい砲撃や空爆の末にリール戦線担当のイットリカンの大軍が総攻撃を行った。フランス軍はマルシアル元帥麾下で中部第5軍が立ち向かった。北連軍と第五軍との戦闘は壮絶な市街戦も発生し、リールを荒廃させながらマルシアル元帥は苛烈に抵抗した。北部戦線にはヴァルキア、クラフティン派遣軍らからなる最大の兵力が向けられていた。これは手厚く防衛されていると予測されるパリ方面を迂回し、沿岸を早期攻略し、しかる後パリへ攻め入る作戦であった。しかし、この攻勢はボナパルト麾下のイギリス方面軍が駆け付け押し戻しに成功した。
初期攻勢を凌いだフランスのエリック帝は反抗を狙い、お尻の痛みをおして激戦のリールへ向かった。混戦の横合いから殴りつけようとランスを発ち、これに気づいたイットリカン軍は陽動のためバランシエンヌへ攻勢をかけたが、ボーボワール将軍によって阻まれた。㋃16日のリールの戦いでは、フランス軍主力を率いるエリック帝とマルシアル元帥との友情トレーニング発生…もとい協力プレーによってイットリカン軍はリール市から追い出され、一時は国境線の向こうへ追いやられるかに思われた。celto連合軍総司令部のカスカベ参謀長は北方の主力から部隊を回し、なんとか抵抗戦力の集結まで時間を稼ごうとした。北方からヴァルキア=クラフティン軍の援軍が南下すると、フランス軍もレイエ川方面へ戦線を向け撃破しようと対峙した。このタイミングでイットリカン軍は反撃に転じ、わずかに戦線を押し戻した。このとき再びイットリカン方面の戦線を立て直しにきたエリック帝に対し、名もなきイットリカン兵士の放った銃弾が尻に直撃した。エリック帝は後送され、マルシアル元帥が指揮を引き継いだものの攻勢は停止された。
画像の説明
 

フランス軍の欠陥

5月も半ばになると、celto連合軍は焦りはじめていた。北部軍による突破に失敗し、戦線が膠着しており、このままではフランス軍が際限なく援軍を送り込み、兵力の優位を失うおそれがあった。しかし、これは杞憂に終わった。フランス軍は終結し増えるどころか、むしろ徐々にその数を減らし、明らかに各軍間の連携も杜撰になっていった。5月20日には北連派遣軍はモブージュを陥落させた。デレッセル元帥は退却もなく降伏し、捕虜となった。フランス元帥の降伏は大問題のはずだった…
この頃フランス軍に起きていた問題とは、エリック帝の指揮不能に伴う指揮系統の崩壊だった。リールの戦いでエリック帝が尻に受けた銃創は、それ自体は軽傷ではあった。しかし、エリック帝は大変な痔を抱えていたのである。この二つの災害は化学反応を引き起こし、このときエリック帝のお尻は、さながら末期レグルスだった。さらに間の悪いことに、長年右腕腕としてフランス軍参謀長を務めていたシシグノン元帥が高齢を理由に退職しており、後任となったウールップ元帥は野戦指揮官としては一流でも参謀としての能力はいまいちだった。彼はエリック帝から指揮を継いだが、能力不足に加え、前線の元帥たちは反発し命令を聞かなくなった。その上前大戦から続く戦争と混乱により軍組織そのものがガタガタになっており、徴兵も昨日せず消耗分の補充もろくに間に合っていなかった。それでも持ちこたえたのは、ひとえに元帥たちの能力とフランス兵の強さによるものだった。
均衡は破られた。6月に入ると、英独同盟が動員を完了し、本格参戦した。矢面に立ったルクセンブルク女公爵ツェツィーリエは抵抗を試みたが、所詮ルクセンブルクなので引きつぶされた。これに対し、フランス軍はフィッツカラルド第7軍、そしてパリ防衛の戦力だったジデンローヴ第1軍までなりふり構わず投入し、彼らは英独同盟の攻勢をティオンビルの戦いで押し返した。しかし、フィッツカラルド元帥は戦線維持の命令を無視し、ルクセンブルクへ突撃した。第四次欧州大戦でフランス軍を裏切りスミトラント軍に入っていたブランシェ元帥は、かつての同僚をよーっく識っていた。フィッツカラルドはルクセンブルク女公爵ツェツィーリエにお熱だったのだ。ちょっとルクセンブルク前方の守りを薄くしたところ、フィッツカラルドは飛びつきルクセンブルクを解放した。勿論戦線からは大きく突出している。アストリアがベルギー方面から回した援軍によってあっさりとジデンローヴ第1軍との連携を切り離し、フィッツカラルド第7軍はルクセンブルクに閉じ込められてしまった。
画像の説明

セダンの戦い

英独同盟の作戦勝ちによって、ジデンローヴ第1軍は支援なく同盟軍に立ち向かっていた。また、モブージュが陥落したことでマルシアル第5軍はやや北方に押し込まれ、これらの中央部はフランス軍戦線の穴となっていた。これを好機と捉えたアラスカ派遣軍はマース川へ向け攻勢をかけた。フランス軍はジデンローヴ第1軍からモイソ将軍の師団を引き抜き防衛にあたったが、このままでは両軍共倒れは時間の問題だった。エリック帝はお尻の激痛を押して出撃した。皇帝近衛兵も投入した。しかし、目標はアラスカ軍ではなく、英独同盟軍を先に撃破する作戦に出た。エリック帝はジデンローヴ元帥と合流すると、英独同盟軍へ猛攻をかけた。ジデンローヴ軍は近衛兵の援護の元でスミトラント=スウェーデン軍を撃破し、エリック帝もアストリア軍へ突撃し、打ち破った。とはいえ、アストリア軍は早々に退却判断し、あんまりにもお尻の痛いエリック帝はこれを追撃する元気がなかった。
返す刀でフランス軍はアラスカ軍へ攻撃した。ルクセンブルクから解放されたフィッツカラルド第7軍も加わり、大軍となったフランス軍主力の猛攻に曝されたアラスカ軍だが、エリック帝のおぞましいほどのお尻の痛みによる消極性をもってしても、これを単独の寡兵で凌ぎ切ったのである。このときのアラスカ軍兵の士気はジデンローヴ元帥曰く「狂信者のそれ」と言わしめていた。復讐心ではこうはならない。彼らはヴァルキア・ネーデルラントで天啓を得ていたのだ。余談だが、オランダ人は男女共に最も平均身長が高いと言われている。では、ヴァルキア人は…アラスカ兵はグンバツなホットパンツヴァルキアガールの歓待によって士気が天元突破していた。さしもの古参近衛兵でさえ慄いたというほどの勇敢さを示し、貴重な時間を稼いだのである。これにより、組織だって撤退したアストリア軍が立て直し、再び前進しフランス軍の側面を取った。これによりルクセンブルクで孤立し疲弊していたフィッツカラルド第7軍はたまらず敗走し、フランス軍は絶対絶命に陥った。エリック帝は逆転にかけ、近衛騎兵を連れアラスカ軍の本陣へ突撃した。あれ…なんか前回も見たな…
エリック帝は一か八かの突撃を決意し、近衛騎兵と共に敵陣、アラスカ軍司令部へ突撃した。アラスカ軍の陣地を突破し、いよいよ司令部の本陣へ迫った。エリック帝は近衛騎兵とともに司令官へ突撃した。絶体絶命の折、司令部に掲げていた、先の戦争で聖遺物に認定された、王妃が着ていたショートパンツが風に飛ばされ、たまたまエリック帝の愛馬メトラッハの目を覆った。メトラッハは驚き暴れ、エリック帝は振り落とされた。司令官は九死に一生を得たのだ。さらに警備兵が集まってくると、近衛騎兵隊長アティサーリ将軍はエリック帝を拾い撤退…できなかった。落馬のショックでエリック帝のお尻は遂に崩壊した。その場でうずくまることしかできなかった。エリック帝は捕虜になってしまった
画像の説明

エリック帝を捕虜に

セダンの戦いによってフランス軍の前線は崩れ、中部の北連軍、アラスカ軍、英独同盟軍などは一斉に大きく戦線を押し上げた。北部ではボナパルト軍、マルシアル軍が抵抗していたが、これも北連軍がマルシアル軍の側面を取ったことで、時間の問題だった。そのため、両軍はパリから切り離されることをおそれカレー方面を放棄し、アミアンまで後退した。
皇帝虜囚の報は瞬く間にcelto連合軍に広まることとなり、身柄が留め置かれたアラスカ軍前線司令部メジエールにはヴァルキア王ヨーゼフはじめ各国首脳が集結した。彼らは会談の場をもった。ヨーゼフ王はエリック帝に対し、講和を促す融和的な戦後交渉をもちかけた。ヴァルキアの立場としては、フランスの低地侵攻さえ諦めさせることができれば充分であり、再びcelto連合軍や英独同盟軍などの全面的な支援を得られる保証もなく、戦前の北海協商を軸とした友好関係の再構築を望んでいた。この草案はメジエール案として、今後のヴァルキアの和平交渉の基礎となった。しかし、これを受ける肝心のエリック帝は、虜囚の屈辱を受けてなお堂々とフランス皇帝たらんとし、どっかと椅子に掛け会談に臨んだことで、さらに痔を悪化させ遂に倒れてしまった。仕方なく連合軍総司令部はフランス政府に皇帝の容態を伝え、和平交渉を求めた。
パリでは予定通り皇太子シャルルが皇帝代理として戦争指揮を引き継いだ。しかし彼も性病で入院中だったため、代理の代理として、前線にいるボナパルトの次席となる外務大臣プラティエに全権を委任した。プラティエはクラフタリアと内通していたため、講和は秒読みとなった。
パリへ砲撃を行うフィデル・カストロ級戦艦カミロ・シエンフェゴス

フランス皇帝と皇太子死亡

パリ市民は未だ皇太子の下で反抗が可能との世論を形成しており、彼らを和平に合意させるため、プラティエはパリ空爆を計画した。ヴァルキアは国内の報復感情の消化も兼ねてこれを受け、クラフタリア艦上攻撃機による防空施設破壊の後速やかにヴァルキア・クラフティン連合空軍はパリ上空へ出撃し、爆撃機の大軍によって軍事施設などを焼き払った。但し内通により人的被害は最小限に留められた。これらは確実にパリ市民へ恐怖を与え、効果は覿面だった。しかしここで誤算が生じた。一部のヴァルキアパイロットが復讐心から独断で住宅地への爆撃を行い、市民に被害が出たことで、世論が抗戦へ振り戻ってしまった。慌てたプラティエとcelto連合総司令部は、ダメ押しの一撃として、かつてスィヴェールヌイ=シェラルド戦争でパリを降伏させた砲撃作戦を立案し、砲撃を行う艦艇として北連戦艦パリディスカヤ=コンムナⅡ及びクラフタリア戦艦カミロ・シエンフェゴスに白羽の矢を立てた。なお、カミロ・シエンフェゴスはかつてパリを砲撃した初代パリディスカヤ=コンムナを改造したものであった。このうちパリディスカヤ=コンムナⅡは3発のロケット推進弾を放ち、二発は正確に軍事施設を破壊した。しかし、最後の一発はロケットが不具合を生じ、目標から大きくそれてしまった。砲弾はフラフラと市街地へと流れていき…なんとパリ市立大学病院の一角へ直撃、吹き飛ばしてしまった。死亡した入院患者一覧の中に、ある名前が載った。皇太子シャルル・ド・イェリング。
さらに、メジエールで痔の絶望的な悪化で寝たきりとなり憔悴し切っていたエリック帝は、愛する息子の死を知らされると失意し、そのまま昏睡状態に陥った。収集がつかなくなるため、celto軍総司令部医療班は必死で治療にあたるも、歴戦の古傷から合併症も多発し、遂に統一歴152年7月、希代の皇帝エリックは死去した。死因は痔であった。
皇帝が虜囚先で死去し、皇太子が病院ごと吹き飛ばされたことで、パリの対celto感情は最悪へと振り切れた。一応大戦果とはいえ、外交的には最大のチョンボをやらかし、プラティエとcelto連合は真っ青になった。もう仕方がないのでプラティエは集めていた民主派勢力を共和主義者のウジョア元帥の下で蜂起させ、クーデターを決行した。ウジョアは行政府テュルイリーを占領し、陸軍大臣バルニエ・ボナパルトを逮捕した。プラティエは臨時政府首相の座に就き、立憲制を敷くため国王にエリック帝よりエルサレム王に任命されていた親戚のプロヴァンス伯を選定した。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。交渉相手たる皇帝、皇太子の死去に胃痛を患うヨーゼフ王

連合軍のパリ占領

政変により北部ボナパルト・マルシアル軍は停戦協定を結び、celto連合軍、英独同盟軍は続々とパリへ入城した。プラティエは一応よそよしく振る舞った。勝利者として凱旋門をくぐったヨーゼフ王は一連の予期せぬ失敗による胃痛もどこえやらといった笑顔で、ヴァルキア王たる正当性も示すこととなった。英独同盟軍将校は、こんなに早くまたパリに来るとは思わなかったと言い、クラフタリア兵は雪辱を晴らした喜びに震えていた。パリ市民は深刻な敵意を向けており暴動寸前の状況だったが、戦争事態はこれ以上ない完敗であったために辛うじて決起には至らなかった。
講和会議がテュルイリー宮殿で開催され、プラティエは諸々の交渉を進めていった。ヴァルキアとはバルニエの引き渡しや低地への不可侵、国境の非武装、ヨーゼフ王の承認、さらにはルクセンブルクの割譲まで譲歩し、融和の姿勢を見せた。クラフタリアもこれに態度を軟化させ、クラフタリア戦争の賠償支払いをプラティエが申し出ると、完済後の再同盟締結まで決定した。連合各国はプロヴァンス伯のフランス皇帝就任を承認し、フランス帝国は親celto的な立憲君主制国家としての歩みを始めた。
画像の説明

アルベルティーヌの決起

統一歴152年8月、プロヴァンス伯兼エルサレム王ボードゥアンはエルサレム軍と共に南仏に上陸し、パリへ向かった。celto連合軍首脳や英独同盟はパリに留まり、条約へのサインと戴冠式を見届ける予定だった。ボードゥアンはリヨンで休息を取った。
リヨンが包囲された。この報を受けたパリのプラティエ政府と連合軍は騒然となった。誰が何のために?戦争は終わったものと考えていた連合軍は直ぐに遅れる戦力の用意はなかった。パリも政情不安定であり、フランス軍も動かせない。程なくしてリヨンの戦いは終結、市は陥落し、逃げたボードゥアンは追撃戦によってエルサレム軍諸共殲滅された。リヨンからパリへ送られた声明文にはこう記されていた。「正当なフランス皇帝位は我にあり アルベルティーヌ=デボルト・ド・ローゼノワール」。誰だお前!?となる者も多くいた。当然である。彼女はローゼノワール王国の王妹であり、フランス元皇太子クリスチャンに政略結婚で嫁いできていたが、未成年で婚約者の段階でクリスチャンはアナトリアで反乱を起こし廃嫡され、今度は帰国せず弟のシャルル皇太子の婚約者となっていた16歳の少女であった。勿論皇帝位を主張する正当性などなにもない。なにもないが、リヨンの顛末が詳細となるにつれ、これが単なる狂人と片付けるわけにもいかなくなった。
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リヨンの戦い

リヨン市に留まったボードゥアンに対し、ロワール川を越え、フランス軍部隊が攻撃を仕掛けた。完全な奇襲であり、慌てて布陣したが苦戦を強いられた。それでも歴戦のエルサレム兵を従えるボードゥアンは次第に形成を逆転させたが、司令官たるアルベルティーナは堂々たるたたずまいで一歩も引かなかった。身辺警護に実家から連れてきたローゼノワール人親衛兵の支援でなんとか戦線を維持していると、南から更なる援軍の大軍がやってきた。彼らは大清からやってきた遠征軍であり、指揮官はベルシカラー元帥。ベルシカラーはアルベルティーヌと組んでいた。
アルベルティーヌは不遇な境遇にも屈しない強い女性だった。彼女はプラティエとボードゥアンの立憲体制に反抗し絶対制を掲げ決起した。午後になるとエルサレム軍の戦列は崩れだし、ボードゥアンは撤退し、パリの連合軍に支援を求めようとした。しかし、これをフランス近衛兵が阻んだ。北から退路を塞ぐように攻めた彼らは、フランスでなく皇帝個人に忠誠を誓っていたためプラティエの新政府に従わず、アティサーリ将軍の下でフランス軍に抵抗していた。アティサーリは前線に立つアルベルティーヌの覚悟を認め、近衛兵は彼女の下に降った。近衛騎兵の攻撃によってエルサレム軍は殲滅され、ボードゥアンも戦死した。敵対する後継者候補を抹殺し、アルベルティーヌは改めてフランス皇帝即位の意を示し、パリへ攻めあがった。
画像の説明

オルレアンの戦い

連合軍の戦争準備が整う間に、アルベルティーヌ軍はロワール川を北上しヌヴェールを勢力下に置いた。次なる目標はオルレアン。迎え撃つ連合軍も軍を進め、ロワール川に沿って対峙した。連合軍には新政府に従うフランス軍も加わり大軍だったが、なまじアルベルティーヌには滅茶苦茶な数のいる大清軍が加わり、連合軍の数的優位はそれほどでもなくなった。戦闘は激戦となった。アルベルティーヌは近衛兵の攻撃で一時川を越えたが、対峙したアラスカ軍がめちゃくちゃな攻撃で押し戻した。オルレアン市では壮絶な市街戦となり、町を廃墟にするような勢いで両軍の砲弾が飛び交った。戦力的に余裕のある連合軍はじっくりと町を守り切れば、基盤のないアルベルティーヌ軍は息切れするため、勝利を確実とすることができた。
戦闘が続く中、もう一人の男が動いた。ボナパルト将軍が西に進みランスを攻撃したのだ。ランスが落ちれば後方が断たれるだけでなく、戴冠を許してしまう。ボナパルトはさらなる野心のため、アルベルティーヌに着くことを選んだ。彼はフランス帝位請求権を持つ皇太子を掲げ、トラキア軍が侵攻してくることへの警戒を名目に手元に兵力を残し待機していた。その戦力で以てランスを攻撃、ランスを守るはエリック帝の親友マルシアル元帥だった。フランスの絶対帝政を支持するボナパルトと、立憲制に移行してもあくまでイェリング朝に拘るマルシアルとの戦いは、この内戦を象徴する戦いだった。この戦いは、ボナパルトの戦術が一歩上回った。若く野心に燃えるボナパルトに対し、友を失い気力の落ちたマルシアルは後手を重ねた。マルシアルは撤退し、ランスはボナパルト軍が占領した。
ランスの陥落によって、連合軍は本拠たるヴァルキアから孤立してしまう危険が生まれた。さらに、パリでは急務となるボードゥアンの後任の選出においてプラティエ=クラフタリア間を中心にもめていた。候補者がエリック帝の姉の子であるトラキア皇太子か、パタゴニア政府に担がれているブルゴーニュ親王の子アンリくらいしかイェリング朝の系譜がいなかったためだ。当然、トラキアとの同君連合など論外であり、クラフタリアにとってアンリの即位は到底認められなかった。ボードゥアンの戦死は致命傷だった。こうした内輪揉めによって連合軍の指揮系統が混乱し、オルレアン戦線の現場は後退の機を逃すわけにはいかず、後退を開始した。オルレアンの戦いは結果的にアルベルティーヌが勝利した。
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ランス奪回

パリの連合軍総司令部は会議を開いた。主題はパリから撤退するかどうか、である。このころ、エルサレムからボードゥアンとエルサレム軍を引き抜き、これが殲滅されたことでエルサレムはがら空きとなり、隙を衝いてレグルスの後継を自認するアッシリア戦線がイスラエル全域を占領、奪還してしまった。これを新政府の不祥事と捉えた市民は不信感を募らせ、駐留が長期化した連合軍への反感もあり、市内は反政府暴動が多発した。連合軍兵士の報復によってパリの各所で火の手があがり、パリは燃えていた。また、長期化した遠征戦争によって連合軍各国の財政はひっ迫し始め、北米戦線も芳しくなく、和平の機運も高まっていた。余裕のあるうちに北東を突破し後退し体制を立て直すか、リスクを覚悟でパリで抵抗するか…会議はなかなか進展しなかった。
オルレアンが攻略されたことで、アルベルティーヌの次の目標はパリだと思い込んでいた連合軍だが、アルベルティーヌはパリを無視してランスへ向かった。道中でちゃっかりアヴィニョン教皇を拉致していたアルベルティーヌは、ランス大聖堂で戴冠式を執り行った。立憲体制下で教会権力が制限されることを恐れた教皇はアルベルティーヌに降った。それでも女性のローマ皇帝即位は禁忌である。適当に夫を娶り皇帝に立ててはどうか、ボナパルト将軍なんてうってつけじゃないですか、ヴァルキア貴族で家格も申し分ないし…しかし、アルベルティーヌは教皇を締め上げ無理やりフランス皇帝に即位した。彼女はソフィア女王に憧れており、その前例があったためにフランス人は女帝に抵抗もなかった。教皇クレメンスはアヴィニョンに帰国後、白い目で見られたという。
目標を見誤り即位を許し、正統性を与えてしまった大失態に対し、連合軍では責任の押し付け合いが始まりグダグダに拍車をかけた。アルベルティーヌは総力をあげてパリへ進軍し、最大にして最後の決戦が始まろうとしていた。
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パリの戦い

連合軍は出撃し、アルベルティーヌ軍はマルヌ川の南岸、ボナパルト軍は北岸を進軍し、連合軍へ攻撃を行った。パリの戦いが始まった。南のオルレアンからはベルシカラー麾下の大清軍団が攻勢をかけ、アルベルティーヌ陣営はパリを包囲するように機動した。連合軍はセーヌ=シエーヌ川ラインを南方防衛線とし、東方のボナパルト軍へ戦力を集中させ各個撃破を狙った。ランス戴冠の功労者として宰相の地位を賜っていたボナパルトは総司令官代理の地位も預かり、連合軍に迫る勢いのフランス総軍を指揮し、連合軍を圧迫した。ここにはローゼノワール王国軍も援軍に加わり、ソアソン、コンピエーニュを奪回するなど優勢に進めた。一方で連合軍もル・アーブルを占領すると、アストリア本土からセーヌ川に第二補給線を構築し、増援や物資を送り込み盛り返していった。
連合軍には秘策があった。ボナパルトの兄バルニエの身柄を拘束していたため、彼を人質にボナパルトへ降伏を迫った。しかし、バルニエの保護者はエリック帝であって、ボナパルトは兄のせいで祖国を追われたことで恨んでさえおり、アルベルティーヌはバルニエに興味がなかった。作戦は失敗した。
パリ戦線は連合軍の奮闘により安定していたものの、あまりにパリ防衛にリソースを集中させたことで、アミアン、カレー方面の守りが疎かになり、ジデンローヴ元帥の攻撃で劣勢となっていた。連合軍兵士たちは、アミアンが陥落しヴァルキア本土と寸断される危険があることや、背後のパリで市民が続々と蜂起していることで恐怖をおぼえ、士気が低下した。ここに至ってはやむを得ず、連合軍総司令官たるヨーゼフ王はパリからの撤退を決断した。
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パリ撤退

屈辱的なパリ撤退が決まると、蜂起した市民たちに対し、連合軍は報復として苛烈な弾圧を行い、兵士達は町を破壊し略奪し始めた。戦利品を抱え、連合軍はルーアン、アミアンへと後退し始めた。退却後、置き土産にパリには無数の爆弾が投下され、発生した火災はパリの1/3を焼き尽くした。ボナパルトは追撃し退却を阻止しようとアミアンを攻めたが、アラスカ軍の奮闘によって阻止された。
この時点では連合軍の占領地はセーヌ川以東のノルマンディー、ソンム、パ=ド=カレー、そして英独同盟占領下のアルザス・ロレーヌ地域である。連合軍は制海権を活かしブルターニュやボルドーへ上陸作戦も仕掛けていたが、これはフランスの同盟国ザーティエラがアルベルティーヌを正当なフランス皇帝と認め、同盟参戦したことより、撃退されていた。西部の守りをザーティエラに委任したことで、東部に全力を投入できたこともアルベルティーヌの勝利に繋がっていた。
アルベルティーヌはパリに凱旋した。市民は急いで瓦礫を片付け、不格好ながらも皇帝を歓待した。当初こそ戦傷者、ロシア女などと罵られたアルベルティーヌだが、一連の勝利と連合軍からパリを取り戻したことで支持されるようになり、凱旋した彼女の堂々たる振る舞いを目の当たりにした市民は完全に受け入れたのであった。なにより、アルベルティーヌは美人だった(1d100=82)。なおプラティエは連合軍には追従せず姿をくらまし、パリに潜伏した。
パリからの後退は連合軍にとって必要な選択だった。しかし、連合国の市民たちは、これを激しく非難した。また、戦争も長引き、和平の機運も高まっていた。そこにアルベルティーヌからの使者が訪れた。
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 終戦と講和

アミアンの和約

連合軍総司令部を訪れたのは、アルベルティーヌの使者で、彼女のフランス語の教育係だったド=ルール子爵だった。彼の持ち込んだものはアルベルティーヌ側の講和条件だった。パリの損害や長引く本土での戦争、経済の混乱、政治的内戦の集結…アルベルティーヌは和平を望んだ。内容は概ねプラティエ案を踏襲しており、非武装はないもののヴァルキアとの融和は認め、バルニエもそのままお持ち帰り頂く旨記されていた。ルクセンブルクは中立化、ヨーゼフ体制も全面的に支持するという内容だった。低地への野心はエリック帝の個人的な野心であり、アルベルティーヌはそれを継承しなかった。また、連合各国に対しては、自身のフランス及びフランス連邦各国の皇帝即位を認めれば、賠償金の支払いも受け入るとした。
連合にとっては、ヴァルキアの保護という戦争目標は達成され、戦線もフランス優位に転じたにも関わらずの連合優位な和平提案には飛びつかざるを得なかった。なにより、長引く遠征戦争、や北米戦線での損害が戦争疲弊を蓄積させ、さらにアルベルティーヌがちゃっかりこの草案を連合各国の本国におもらししたことで世論がこれを飲むよう圧力をかけだした。ヨーゼフ王はこれを承認し、休戦に合意した。
改めてアミアン講和会議が開かれ、アルベルティーヌ自らボナパルトを伴い会議に参列した。彼女を初めて目にする者も多くいた。ヨーゼフ王はたいそう驚いたという。王侯貴族間の交流によって、依然の彼女は勿論、先帝ソフィアも知る彼は、アルベルティーヌが血の繋がりを持たないにも関わらず、確かにソフィア帝の面影を継いでいたと感じた。それは他ならぬ、フランス皇帝たるに相応しい覇気であった。各国代表がサインし、正式にアミアン講和条約が締結された。
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 評価

フランス皇帝エリックは大戦敗北後、アナトリア戦争を経て復活した。しかし、政治的能力も軍事的能力も衰え、さらに再現なく続いた戦争は、国家や軍隊の立て直しを妨げた。燃えカスを無理やり燃やして走り続けたエリックは、遂に今戦争で限界を迎えた。四度目の骨折もとい痔の爆発は希代の軍人皇帝でも再起できなかった。繰り返し記すが、死因は痔である。また、不幸なことに皇太子も死亡し、イェリング朝本家は断絶した。血統としてはエリックの姉シルビアがトラキア・ノビリオル朝に嫁ぎ、皇太子エウドクシアが継いでいる。また、分家たる親王家ブルゴーニュ=イェリング家が前大戦の裏切りによりお家取りつぶしとなったとはいえ、パタゴニア政府のお飾りのアンリとして存続してはいる。しかし何れも継承権は剥奪されており、フランスにおけるノルマン王朝イェリング家の歴史は幕を下ろした。代わってフランス皇帝位を乗っ取ったのは、まさかのバルトのローゼノワール王国から嫁入りしたお姫様、アルベルティーヌだった。彼女はイェリング朝の縁戚でもなければフランス人でもない。10歳でフランス皇太子クリスチャンと婚約を結びパリにやってきたが、クリスチャンは廃嫡され、スライドして婚約したシャルルは性病を患った末に爆死した。あんまりである。そうした境遇が彼女を覚醒させたのかもしれない。姉のローゼノワール女王シャルロッテはこれを聞いてたまげたという。彼女は対刃関係を除き、エリック帝の絶対主義、帝国主義路線を継承し、クラフタリアを利用しフランスを立憲制から共和制へと移行させようとしたプラティエの対立候補となった。プラティエはインテリやブルジョワ層を味方につけていたが、エリック帝体制の下で恩恵を受けていた大陸軍軍人や保守的な貴族層はアルベルティーヌを支持し、大清の利益にかなうと判断したベルシカラー元帥や己の野心のために動いたボナパルトなど主要な軍人を味方につけたことで、内戦を制し対連合戦をも優位に進め、見事フランス皇帝の地位を手に入れた。戦功第一位のボナパルトはアルベルティーヌ政権にて宰相の地位を得て、国政を取り仕切った。特に崩壊した軍政の立て直しに取り組み、エリック帝の個人的才能と勢いに任せきりであった大陸軍を組織的な軍隊へと作り変えていった。
アルベルティーヌが後世「ソフィア帝の再来」と恐れられたのは、他ならぬ覇権主義路線の継承にあった。ヴェルサイユ憲章の制定によってフランス連邦の体制を明文化し、エルドランド王、大清皇帝を兼任した。さらに再建したフランス軍の力で以て、フランスの威信を取り戻すべく、かつて辛酸を嘗めさせられた超大国への挑戦を狙っていた…
ヴァルキアは戦争目標を達成し、連合の、そして戦勝国の盟主としての栄誉も得た。これはヨーゼフ王体制の強固さを示すことにもなり、戦中に起きた右派の暴走においては、これを責任追及し徹底的に締め上げることで抑え込み、国内の安定化に成功した。また、新たにフランス皇帝となったアルベルティーヌはエリック帝の個人的な野心下にあったバルニエ、ベルギー双方と確執がなく、融和が可能だった。両国は北海協商の下に再び相互協力的な友好国の道を進むこととなった。捕虜としてヴァルキアへ連れ帰ったバルニエの行く末は…ここではあえて語るまい。
もう一つの主要国とも言えるクラフタリアは、パリを占領し、燃やし、セントラル・シティの復讐を果たした。新旧両大陸で戦い、双方で勝利者となったことで、大西洋に冠たる組織の盟主、そして海洋大国としての威信を示した。しかし、プラティエと組んでのフランス共和化計画は失敗、トリコロール・プランは継続されることとなり、またアルベルティーヌの覇権主義はエルドランド=大清=フランス間を結ぶ大西洋~太平洋の覇権の獲得であり、クラフタリアとの対立は続いた。
北連は内戦を抱えながらフランス戦線でも戦果を挙げ、展開能力の優秀さを示した。また、スシ戦争に続き戦艦でパリを吹っ飛ばした。今回のパリディスカヤ=コンムナ号はそれどころかフランス皇太子を吹き飛ばし、武勲艦として叙勲されることとなった。パリファイアホクレンである。
連合軍勲功第一位は間違いなくアラスカだった。クリティカル効果で士気が以上に高かったアラスカ兵は連合軍からも恐れられ、それどころか連合軍兵士の中ではショートパンツ教が広まる始末だった。各戦闘で健闘し、フランス皇帝エリックを捕虜としたことでアラスカ軍の名声は高まった。余談だが、フランツ・クラーベはセダンの戦いでジデンローヴ元帥指揮化で戦っている。
クラフティンは一貫してヴァルキア軍と行動を共にし、戦功自体は揃って控え目だが、両国の友好を示した。また、パリ爆撃の栄誉も得た。アミアン条約では、今後もクラフティン軍がヴァルキアに駐留することをアルベルティーヌは平和的に認めた。両国の友好関係はさらに継続されるだろう。
イットリカン軍は新旧両大陸の戦線で陸戦兵力の主力を務め、陸軍国家としての存在感を示した。それ故にフランス戦線では兵力の必要な敵軍の多い戦線に投入されがちで目立った戦果がなかったのが残念だ。一方でエルドランドとは陸戦の最前線として容赦なくその力を発揮した。
スミトラント、アストリアの英独同盟は戦争から利益を得ることはなかったが、宿敵フランスの足を引っ張ったこと、それにより英独同盟の有効性を示したことで満足だった。アストリアはセダンの戦いなどで戦果もあげ、大陸派兵の経験値を稼いだ。両国は戦後もフランスへの敵対を継続した。
大清は温州攻防戦で活躍し、フランス派兵でも存在感を示した。アルベルティーヌが内戦~連合戦と戦い抜くことができたのは、ひとえに大清のマンパワーによって兵力を互角に持ち込めたがためである。そのためアルベルティーヌは大清に深く感謝し、その扱いはエリック帝時代より格段に優遇された。両軍の本格的な連携は今回が初めてであり、成功例を掴んだことで、アルベルティーヌは大清を起点とした太平洋進出に意欲的になった。大清は戦後、アルベルティーヌを正式に皇帝に迎え、フランスと同君連合体制に移行、大清連邦となった。フランス軍と大清軍の協力体制も強化され、アルベルティーヌは大清を宝石と呼び愛した。
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最終更新:2023年08月09日 12:19