ヌーク社会主義連邦共和国

建国から1254日が経過!!

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更新情報

2024/5/19 連邦院の項目に党首を追加
2024/3/19 著名な企業・組織・団体などにヌーク国有鉄道を追加
2024/2/18 軍備に蒸気機関車ニヴァーデンを追加
2024/1/31 ニュースを更新
2023/12/3 ニュースを更新・外交関係を更新

過去の更新

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2023/11/26 著名な人物・偉人にフレゼリク十世、ヨハネス・T・イェンセンを、軍備にニールセンMk.3-B、軍事用トラック派生型を追加
2023/11/15 軍備にフレゼリク級弩級戦艦フレゼリクを追加
2023/11/13 軍備に装甲艦カンゲルルススアークを追加
2023/11/12 軍備に装甲巡洋艦ヤコブ・クリステンセンを追加
2023/11/11 ニュースを更新
2023/11/5 情報に首相の欄を追加
2023/11/3 軍備にニールセンMk.1を追加
2023/11/2 軍備にシデン実験歩兵戦闘車と、トゥーレL3を追加
2023/10/30 外交関係にソビエト共産主義共和国連邦を追加
2023/10/28 著名な事件・出来事の項目を追加
2023/10/27 著名な企業、組織、団体などにノード社を追加
2023/10/27 著名な人物・偉人の項目を追加


概要

ヌーク社会主義連邦共和国(英:Socialist Federal Republic of Nuuk)とは、北極海と北大西洋の間に位置する連邦共和制国家。首都はゴットホープ。
国土の大半は世界最大の島であるグリーンランドであり、その他にフェロー諸島、実効支配はしていないもののスヴァールバル諸島などの海外領土も保有している。

その広大さに反し居住可能な土地は狭く、グリーンランド島内陸部は万年吹雪と積雪に覆われており、人口の80%以上が沿岸部の比較的温暖な地域に住んでいる。
近年では温暖化の影響もあり、内陸部でも資源開発が進んでいるものの、農業に適した土地はほぼないので食料自給率は壊滅的。
共産党独裁時代には不足していた食料を東側陣営より輸入していたものの、現在は主に南北アメリカ大陸からの輸入に依存している状態である。

政治的および外交的には穏健な社会主義国として知られており、一定の言論の自由は認められているものの、検閲や規制も依然として存在する。
これは1930年代〜1970年代の苛烈な独裁政権に対する反省と、当時に崩壊したヌーク経済の回復を狙ったもので、そのため独裁政権を支援していた東側陣営からは距離を置き西側自由主義陣営に近づく独自の外交政策を取っている。

軍事的には主に海軍・空軍に注力しているものの、現与党の民進労働党の方針により軍事予算を削減する方向へ舵を切っており、近年では大きな発展や拡張は見られない。
陸軍は特に疎かとなっており、これに対し前政権を支持する退役軍人や将校からの反発が強まっている。

元々革命によって成立した国であり、建国初期は東側諸国と密接に協力し世界革命を成し遂げるという強硬な理想を掲げていたものの、前述の通り40年間の独裁時代の間にその熱は冷め切っており、世論は平和主義的な方向へと傾いている。
しかし一方で内戦の残党であるスヴァールバル亡命政府への侵攻を求める声も大きく、国民も議会も和解派と強硬派で二分されている状況である。
アヴァンナータ自治共和国のイヌイット族など、分離独立や自治権の拡大を求める問題も多くあり、政情不安とまでは行かないものの安定はしていない、微妙な状態と言えるだろう。

スヴァールバル亡命政府

前述の通り、現在のスヴァールバル諸島は表向きはスヴァールバル州の一部として連邦に組み込まれているものの、実際は内戦時に戦火を逃れた王家や上流階級が支配する亡命政府に実効支配されている。
この亡命状態は1923年5月のユリアーネホープの戦いにて、王家がグリーンランド島を脱出して以降100年以上に渡って続いており、現在でもオルデンブルグ家をトップとする立憲君主制を掲げ、彼らがグレーンランド王国の正当政府であると主張している。

一方で議会や市民は過去に暴君を産み出した王室に対する不信感を募らせており、近年では王政を捨て、ヌーク・コミューン政府との和解・再統合を求める共和派派閥が人気を集めている。
とはいえ現国王のフレゼリク十世はこの動きに猛反発し、自分が生きている間はアカとの取引など認めないとの忠告を出したこともあり、現在では再統合の試みはなされていない。


今の状況を国民精神風に言うと・・・・

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名前 効果 説明
まやかし社会主義 消費財工場+10%、生産効率上限-10%、安定度-5% 現在のヌーク経済システムは、資本主義と共産主義の中間に位置する。どっちつかずな統制は市場を混乱させ、中途半端な自由は経済の管理を難しくしている。
赤軍独裁の記憶 徴兵可能人口-5%、師団指揮統制率-10%、師団攻撃-20%、師団防御-10%、戦車全般生産コスト+10%、軍需工場建設効率-10%、戦争協力度-20%、動員法コスト+25%、日毎の全体社会主義支持率-0.02、日毎の急進的社会主義支持率-0.02 赤軍独裁はこの国に大きな爪痕を残した。現政権も国民も、二度とこの悲劇が起こることを望んでおらず、軍部への信頼は皆無に近い。
スヴァールバルの残党 安定度-5%、戦争協力度+5%、日毎の政治力コスト+0.20 1923年に成立したスヴァールバル亡命政府は、当時よりヌーク政府の正当性を揺らしている。現代に残る君主制国家は亡命政府側を支援しており、融和ムードに入ったとはいえ油断できない存在であるのは確かだ。
イヌイット民族主義者 安定度-10%、非中核州でのレジスタンス増加+10%、資源採掘効率-5%、(この国民精神はイットリカンの支援によって効果が変動する) 13世紀の大北伐時代以降、イヌイットとノース人の関係は険悪なまま続いていた。その対立は今でも変わらず、北部の過激派はヌークの産業施設や資源採掘場を攻撃し、気候の激しい地域に逃げて摘発を難しくしている。
未採掘の資源 資源採掘効率-10%、研究速度-5% 赤軍独裁時代の影響で、この国の産業技術は遅れている。今の技術力では内陸部に眠る膨大な資源は採掘できず、外国の支援を借りるほかない。
食糧問題 毎月の人口-10% グリーンランド島の厳しい気候は、大規模農業を困難にしている。
北極海の富 造船所効率+15%、輸送艦建造コスト-20% 古くから漁業に注力してきた我が国にとって、造船技術は死活問題だった。
ゲノピュグ 民需工場建設効率+5%、インフラ建設効率+10% ゲノピュグとはデンマーク語で「再開発」、「再構築」の意味で、赤軍独裁政権によって破壊されたヌーク産業の復活のため、労働党政権が打ち出した政策。広大なグリーンランドの大地にはインフラが必要不可欠であり、高速道路や鉄道への投資が重要課題である。

NBC NEWS

2024/1/31 ソビエト=ヌーク相互友好条約が締結!! 先日未明、ヌーク政府はソビエト共産主義共和国連邦との相互友好条約を締結したと発表しました。新ソ連大統領オットー・ジェルジンスキー氏は1月19日にゴットホープに到着。イェンセン首相との会談を経て、条約の締結と両国の関係強化に合意しました。ソビエト=ヌーク相互友好条約は経済的・軍事的協力条約を包括したものであり、具体的な内容としては二国間の関税引き下げ、ヌークにおける林業及び鉱業への大規模投資と、それを達成するためのヌーク・新ソ合併国営企業の設立、アンミサリク州における通称保護の名目の新ソ軍事基地の設置、そして新ソ軍とヌ連軍による対テロ合同軍事演習の実施などが挙げられます。新ソ連はかねてより我が国の産業に投資を行っていたこともあり、今回の条約は二国間の関係を更に強化するものとなりました。しかし一方で、現在進行中のパインランド危機における新ソ連の対応もあり、国内からは一部批判の声も見受けられます。
2024/1/14 ぬいぬい王女、パインランドの実態について告発 数週間前にパインランド人民共和国から脱出したぬいぬい王女が、亡命先のトラキア=ローマ帝国にて記者会見を開きました。会見の内容は主にパインランドにて行われている残虐行為の告発であり、パインランド政府による人民の監視、虐殺、強制労働などの人権侵害が明らかとなりました。また、現地に残る王党派パルチザンにより、パインランドでの極秘核ミサイル基地建設計画も暴露されました。これに対しイェンセン首相は「これが事実だとすれば由々しき事態であり、パインランドはこのような前時代的抑圧行為を止めなければならない。ヌーク政府としては遺憾の意を表せざるを得ないだろう」とコメント。政治上の理由からパインランド問題に対して沈黙を貫いてきた政府ですが、ここに来てようやく口を開いた形となりました。しかし、かねてよりパインランドの人権侵害行為を批判していた進捗党及び労働党左派からは「今更すぎる」「批判するのが遅い」といった声が上がっており、今回の一件で世論も反パインランド一色となったため、そのパインランドと関係を強化したイェンセン首相は更に厳しい立場に追い込まれることとなりました。
2023/12/3 ヌーク=北極諸島テロ等相互防止条約が締結!! 本日未明、イェンセン首相はゴットホープにて北極諸島同盟の首脳らと会談し、テロリズムや反政府勢力に対する相互協力協定、『ヌーク=北極諸島テロ等相互防止条約』を締結したと発表しました。会談には統合国家ファントムからはハイドロジェン首相、アパルト遠征国からは科品雄三国務代表、北クリーニングラードからは首相不在のためM-9999共和国評議員が参加し、終始和やかなムードで行われました。元々北極諸島三国とは隣国ということもあり、かねてより友好関係を築いていましたが、昨今の世界情勢やガルシア連邦における大規模テロ事件などを鑑みて、こうした反政府勢力へ団結して立ち向かう必要があるとの見解を共有。警察組織強化や治安維持のための相互武器援助が約束されました。条約締結を主導したイェンセン首相の目的としては、選挙のためのアピールと近年活動が活発化しているイヌイット民族解放戦線に対する牽制であると思われますが、一方でその背後にいるイットリカンを刺激するのを避けるためか、あくまで『テロ組織全般への共同対処であり、特定の団体や組織を攻撃する意図はない』としています。
2023/11/11 パインランド人民共和国と国交樹立!! 先日未明、ヨハネス・T・イェンセン首相はパインランド人民共和国国家主席、パイン味シログミ同志と会談し、国交樹立と友好関係の確立を宣言しました。イェンセン首相は11月10日にパインランド首都パラマリボを訪問。その後シログミ主席の案内の元本部庁舎で対談を行い、政治的及び文化的な両国民の結束、国際情勢への流動的な共同対処などの意見を交換し、見解の一致に至った。対談は終始和やかなムードで行われ、帰還後のイェンセン首相は記者会見にて「素晴らしい会談だった。今後もパインランドとの協力関係は誠意を持って維持していく」と述べました。この訪問の目的について専門家は、連邦院選挙が近づくなか大した成果を挙げられていない首相の外交的アピールだろうと語っており、「良くも悪くも平凡といった印象が拭えないイェンセン首相にしてはインパクトのある成果だ」とも述べました。一方で一部政府内及び世論には強権的な独裁国家であるパインランドの協力を憂慮する声も多く、社会進捗党党首ヴィゴ・アウグスト氏は「この国を自由主義から遠のかせ、赤軍独裁時代へ逆行する一歩へと成りかねない行為だ。進捗党としてはパインランドにおける政治の透明性には疑問を持たざるを得ず、同じ人権意識を共有できているとは思えない」と、遺憾の意を表明しました。
2023/10/13 スカーレット王国、友邦新ソビエト社会主義共和国に宣戦布告!! 各国の報道官によりますと、先日未明スカーレット王国が新ソビエト社会主義共和国に宣戦布告。スカーレット王国の外交官は記者会見で、「我々はいかなる関係悪化行動を取っておらず、一方的に攻撃を仕掛けてきたのは新ソの方だ」と説明。一方、新ソ側はこれを明確に否定、徹底抗戦の構えを見せたとのことです。これに対し中東のソビエト共産主義共和国連邦、ロシア中部の大エンダー社会主義共和国、南イタリアのガルシア連邦などが同盟に基づき新ソ連側として参戦。スカーレット王国側にはカイガン帝国、帝政長岡皇国等の帝国主義国家などが参戦し、事態は全面戦争へと発展しました。重要な貿易パートナーである新ソ連を攻撃したことに対し、政府はスカーレット王国への非難を表明したものの、過激派勢力の台頭や世論の反戦機運を考慮したのか明確なスタンスは明らかにしませんでした。これに対し一部からは「腰抜け外交」との非難の声も上がっています。
2023/10/6 北クリーニングラード、統合国家ファントム、新ソとの貿易協定を締結! 本日未明、当局は上記の三国との貿易協定と締結したことを発表しました。詳細は明らかになっていませんが、現時点で発表されている情報によると、三国ともに概ね食料の輸入と海産物の輸出で合意。輸出入はゴットホープ人民貿易商会を通し行われ、当社社長ギオルグ・ミキルセンによると数週間後にも取引が開始するとのことです。またこの件に関して労働党と統一ヌーク労働組合連合の間で協議があった模様ですが、労働党は自国産業の保護と厳格な価格調整を約束。両党は合意に達したものの、後援組織であるヌーク漁業組合連合はこれに難色を示し、幹部の一人であるイェルネ氏は「海洋資源輸出の拡大は価格高騰を招き、ヌーク市場を混乱させるだけだ」と労働党を非難。組織としての声明は出されていないものの、漁業組合連合の保護主義的な思想が強く出る結果となりました。

過去ニュース

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2022/1/29 ミラーハウスの虐殺!! 先制攻撃が失敗した後の蒼星軍は指揮系統や士気などが一気に瓦解し、遂には重要都市、ミラーハウスの占領を許しました。アラスカ人民前進委員会側にとってはここを周辺都市への攻撃に用いる一大拠点となり、特に鉄道で直接つながっている蒼星第二の都市、フェアバンクスが次のターゲットになると見られています。現地住民によりますと、占領されたミラーハウスでは虐殺や略奪が相次いでおり、国際社会からの非難を浴びる形となりました。この事実についてヌーク政府は「大変恥ずべき行為だ、ミラーハウス市民のご冥福をお祈りするとともに、この紛争がいち早く終結することを望んでいる。」と声明を出した一方で、蒼星連邦への援助には「現時点ではコメントできない」と言及を避けました。これに対しネットでは「いつもの腰抜け孤立主義」「隣国を見殺しにするのか」などと批判が相次いでいます。
2022/1/28 SNSにてアラスカ人民前進国建国宣言!!本格的な内戦へ 政府軍の初撃を見事に粉砕したアラスカ人民前進委員会は28日、SNSにて自らを正当な蒼星政府と主張し、アラスカ人民前進国の建国を宣言しました。各地での敗北の報に混乱していた蒼星軍司令部の隙をついた形となり、これによって勢いづけられた委員会との激しい戦闘が予想されます。
2022/1/28 人民前進委員会、蒼星全土へ侵攻!! 先日行われた爆破テロへの報復として、アラスか人民前進委員会の殲滅作戦を開始した蒼星政府軍でしたが、つい先ほど政府の発表により、委員会側の拠点全てへの攻撃に失敗したことが明らかになりました。現在蒼星各地の政府軍はそれぞれ最寄りの軍事基地への撤退を続けていますが、委員会側の追撃で数千人以上の死亡が報告されています。また現地部隊によりますと、委員会側は「見たことのない武器」を使用してきたらしく、その中にはレグルスやルークリア製の兵器も含まれていることが分かっています。これに対し蒼星政府は「レグルスなどのファシスト国家が秘密裏に支援していたのではないか」との懸念を強めています。
2022/1/27 蒼星にて爆破テロ!!各国要人複数名が死亡!! つい先ほど、新型空母の就役式典が行われていた蒼星連邦キナイ市にて大規模なテロが行われました。地元のメディアによりますと、襲撃部隊は現地の警察や海兵隊の尽力によって撤退したものの、空母は大破し沈没。多数の各国要人が爆発により亡くなりました。この犯行はファシスト系テロ組織のアラスカ人民前進委員会によるものであることが明らかになっており、数か月前に行われた蒼星政府による拠点制圧作戦への報復である模様です。これに対し蒼星政府側は断固とした対処を宣言し、軍事力による人民前進委員会の排除を決定。CELTO=フランス連邦戦争の傷跡から復活を遂げ始めた北米に新たな戦火が燃え上がることとなりますが、蒼星の問題に詳しい専門家によりますと「蒼星の動員による北米の不安定化を懸念するものも多くいますが、人民前進委員会側にはまともな軍備はなく、あくまでもテロ部隊はボディーガードのような私設部隊です。政府軍とは圧倒的な戦力差がありますので、この紛争が蒼星全体に影響を及ぼすことはほとんどないと言っていいでしょう。」と語りました。
2021/12/11 AC-25 スノーレパードが公開!! 政府は11日、豪雪地帯での運用を目的とした歩兵戦闘車、スノーレパードの情報を公開しました。この車両はおよそ5年前には配備が開始されていましたが、積極的な情報公開は技術漏洩などの観点からあまり行っていませんでした。ですが今になってなぜ方針をを変えたのかについては、国民の気をそらしたいのではないか、と専門家たちの間で労働党の汚職疑惑と関連付ける見解が見受けられます。


情報

国名 ヌーク社会主義連邦共和国
通称 ヌ連、ヌーク
略号 NUK
人口 約481万8000人
首都 ゴットホープ
公用語 指定なし
主要民族 北方系ゲルマン、イヌイット
主要文化 ノース、カラーリット
政体 議会制社会民主主義
首相 ヨハネス・T・イェンセン


政治スライダー
社会主義--■----資本主義
独裁的 ----■-- 民主的
計画経済--■----自由経済
孤立主義--■----介入主義
ハト派 --■---- タカ派
安定的 ---■--- 不安定
開放社会 ----■-- 閉鎖社会


行政


番号 名前 特筆事項
1 ノード準州
2 トゥーレ州
3 クリスチャニア準州
4 アヴァンナータ自治共和国 イヌイット民族の自治共和国
5 中央グリーンランド準州
6 スコルズビスーン州
7 エッダーコッパネー州
8 ススコアビスンド州
9 アンミサリク州
10 カンゲルルススアーク州
11 ゴットホープ州 首都がある
12 フォークスホープ州 旧フレデリックホープ及びカールスホープ
13 シデン州
14 ディスコ州 旧メド・ウーアヌ州
15 カップデン州
16 スヴァールバル州 実効支配はされていない


産業

主要産業は漁業。
特に鯨肉や鯨油、アザラシ肉などの海獣は世界トップクラスの漁獲量を誇る。
その他にも貝類、エビやカニなどの甲殻類、鱈やカレイなど寒冷地域の魚などが取れ、ヌ連における主要な輸出品となっている。

陸では林業が盛んな他鉱物資源も豊富であり、鉄、金、亜鉛、銅、石炭、石油などが多く算出される。
だが、高度な採掘技術を必要とするウランなどは技術不足により採掘することができず、内陸部では気候が激しいこともあって未採掘の資源が数多く残っている。

工業に関しては軽工業も重工業もそれなりには発展しているが、せいぜい中堅国〜中小国程度。ただ、造船業に関しては長年の伝統もあってか大国並みであり、年間何千隻もの貨物船や旅客船、砕氷船や自家用ヨットなどが建造、輸出されている。また、造船業ほどではないが航空機産業も目を見張り、ノード社を筆頭に数多くの民間航空機製造会社がヌークに本社を構えている。陸はからっきしである。

各地域ごとの方針

地域   印象   要注意国家   関心度
欧州 不当政府を支持している君主主義者が跋扈してるので警戒 なし 高 --■---- 低
北米 近いし、民族的に対立してるイヌイットが大量にいるので警戒 なし 高 -■----- 低
南米 自由主義陣営に近づきたいので関心は高い なし 高 -■----- 低
アフリカ 関わりなし なし 高 ------■ 低
アジア あんまり関わりなし なし 高 ------■ 低
ロシア 同じ社会主義国が大勢いるので関心は高い なし 高 -■----- 低
オーストラリア 軍事大国が怖い なし 高 ------■ 低
世界 THE第三世界ですのでよろしくお願いします なし 高 ---■--- 低


外交関係

国家 関係 印象 簡単な関係解説
北クリーニングラード 貿易パートナー 親愛 足りない食料の主な輸入先。赤軍独裁終結後、いち早く貿易を持ちかけてきた上イデオロギーも似通っているので、こちら側からの印象はかなり良い。
イットリカン民主主義国 ライバル 超最悪 お互い建国期の時からずっと敵対してる国。民族的に対立しているイヌイットの根城であり、多数のイヌイット民族主義者が向こうに亡命している。更にこちらで活動している過激派も支援しており、まさしく不倶戴天の敵。絶対に許すな。
新ソビエト社会主義共和国 貿易パートナー 良好 足りない食料の輸入先その2。寒冷地では醸造できないワインなどを輸入しており、その新ソ産ワインはヌークで大人気。関係はかなり良好と言える。
統合国家ファントム 貿易パートナー 親愛 足りない食料の輸入先その3。隣国かつ北クリーニングラードと同じ北極諸島同盟に加盟していることもあり、関係は良好である。
ソビエト共産主義共和国連邦 資源採掘支援 良好 同じ穏健社会主義の同志。ヌークの技術力では採れない内陸部の資源や鉱物などの採掘支援を行ってくれている。政治的な理由で彼らの所属する第五インターナショナルには加盟できていないが、それ以外の繋がりは深い友好国である。
アパルト遠征国 親愛 条約締結国 ヌーク=北極諸島テロ等相互防止条約を共に締結した北極の隣人。クリーニングラード、ファントムとは違い直接の貿易は行われていなかったものの、上記の二国を通した貿易や民間レベルでの友好関係が元々築かれていた。そのため現在でもこちらからの印象は良好である。

組織 関係 印象 簡単な関係解説
北極諸島同盟 対テロリズム協力国 良好 真隣にある北極諸島国の連合。過激化してきたイヌイット民族解放戦線や他のテロ組織への対処のため、ヌーク主導の元共同対処条約を締結した友好的組織である。要は半同盟関係であり、正式な防衛協定は結んでいないものの、それに近い状態となっている。



歴史

前史

ヌーク連邦の起源は10世紀のヴァイキング全盛期にまで遡る。
グリーンランド島には10世紀以前にも居住者や文化は存在していたが、ほぼ全てが数世紀の定住の後滅びたか、もしくは別の場所へ移住したことが考古学的資料から判明している。
しかしその詳細は未だ詳しく把握されておらず、後述する内戦時代に多数の遺跡が破壊あるいは放棄されたため、研究が困難な状態である。

グリーンランド島は西暦981年、アイスランドより出港した「赤毛のエイリーク」により初めてヴァイキングに発見された。グリーンランドという名称は彼によって名付けられたもので、この由来は植民を促すための宣伝の意味も込められていたと後にエイリークの書記に書かれている。
一方で誇大宣伝というわけでもなく、島の大半が氷河に包まれているとはいえ実際にグリーンランド南部には大規模な植林が見られており、そこに上陸したエイリークは他の地域も同じような木々に恵まれていると推測した模様である。

この発見後、エイリークはアイスランドへ帰還しグリーンランドへの植民者を募集。
最初の移民船団は40隻以上にものぼると見られており、現在のゴットホープ付近に大規模な定住地を築いた。その後エイリークは自らをトップとする王国を立ち上げ、このエイリークのヴァイキング王国は以降400年以上に渡ってこの地を支配することとなる。これを古代グレーンランド王国と呼ぶ場合もある。

このヴァイキング統治時代は概ね安定していたようであり、1000年頃にはエイリークの息子レイフ・エリクソンが北米に到達しヴィンランド植民地を、その後すぐにもう一人の息子ソルヴァルドがカナダ北部の北極諸島に植民地を築いた。
どちらの植民地も先住民との確執がありすぐに放棄されることとなったが、その後もグリーンランドを拠点に多数のヴァイキングが北米海岸を襲撃し、富を得ていたと言われている。

エイリークの死後は彼の子孫たちがグリーンランドを引き継いだものの、1100年頃に襲来した大寒波の影響もあり、古代グレーンランド王国は徐々に衰退の一途を辿っていった。
なお、この間に北極諸島からイヌイット族が寒波を逃れるためにグリーンランドに移住しており、以後南部のノース人と北部のイヌイットは数世紀に渡って対立することとなる。

ノルウェーによる征服とデンマークのよる統治

1280年頃、古代グレーンランド王国はノルウェーによる侵略を受け、支配下に置かれた。
しかし本国との距離もあり基本的には自治が行われており、ユリアーネホープ、ゴットホープなどが本国との貿易拠点として成長していった。
1380年にはノルウェー王国がデンマーク王国の支配下となったため、グリーンランドの支配権もデンマークへと移されたものの、自治の方針は変わらず大した反対も起こらなかった。

この頃にはノース人によるイヌイット族の討伐が行われており、本国との貿易により力をつけたノース人側が終始優位に立ったものの、イヌイット側は北部の気候の激しい土地に逃げ続け、追ってくるノース人たちを襲撃して苦しめた。これを大北伐時代と言う。

大北伐時代にはイヌイット族の打倒のため、グリーンランドのノース人は強固な団結を見せた。一説によるとこの頃に現在のグリーンランド民族のアイデンティティが生まれたと言われている。
しかし14世紀および15世紀に入ると、イヌイット側が内陸部の不毛な土地へ逃げ込んだためも征服する価値がなくなり、なし崩し的に大北伐時代も終わりを告げた。

その後は特に大きな衝突もなく、数世紀ほどの平和が島全体で保たれた。(度々交易路への襲撃などはあったものの、大北伐時代と比べると比較的小規模だった。)
また、この頃にはデンマーク本国からの関心も高まっており、追加の移住者や商人の来訪、1771年にはデンマーク王政府による王立グレーンランド貿易会社(現在のゴットホープ人民貿易商会、及びロイヤル・スヴァールバル社)の設立など、経済面では黄金期を迎えることとなる。
また、文化的にも数多くの芸術家や作家などが生まれたことから、この時代を北極ルネサンスと呼ぶ学者もいる。

しかし19世紀に入ると本国デンマークでの戦争や経済危機に伴い、グリーンランド経済も徐々に衰退していくこととなる。更に本国の過剰な税金や搾取なども大きな問題となり、欧州におけるナショナリズムの興隆もありこの頃からグリーンランド市民の間で反デンマーク感情が渦巻いていった。
1823年にはその不満が最高潮に達し独立の機運が高まったものの、デンマーク側からの妥協として対等な同君連合国家、デンマーク=ノルウェー=グレーンランド王国(クリスチャニア連合)を形成し、その構成国の一つ「グレーンランド立憲王国」(地理的な“グリーンランド”とは違い、こちらは“グレーンランド”とデンマーク語読みであることが多い)として自治権を拡大することで反デンマーク感情は一旦宥められる。

しかし実際にはグレーンランド側の権力はノルウェーや本国に比べると大幅に制限されており、本国議会でグレーンランド側の提案が蔑ろにされることも少なくなかった。
このことから市民の不満は再び膨れ上がることとなり、この火種が後のグレーンランド独立戦争に繋がっていく。

グレーンランド独立戦争/北極海戦争


1886年11月、デンマーク本国で恐慌が発生。それ以前にもデンマーク経済は不振な状態が続いていたものの、直近の戦争での敗北により一気に急落。これに対しデンマーク政府は損失の穴埋めのため、同君連合下のノルウェー及びグレーンランドに多大な増税を強いた。
だが、比較的安定を保っていたノルウェー経済とは裏腹に、グレーンランドの経済は寒波の影響もあり元々不振気味だった。
これに本国からの増税が加わったことで、ギリギリ保てていた経済状態が崩壊。
ゴットホープの街は失業者で溢れ返り、当然その元凶であるデンマークに対する感情も過去最悪なまでに悪化した。

12月にはグレーンランドの代表議員が本国議会で増税の撤回を求めたものの、デンマーク側は却下し、逆にゴットホープ、ユリアーネホープなどの主要都市に1000人以上の兵を駐屯させるという恐喝じみた行為に出る。
更に当時のデンマーク王フレデリク7世から直々の警告を受けたこともあり、代表議員は自ら要請を撤回。
しかしこれを聞いた市民の怒りは頂点に達し、デンマーク軍の駐屯するゴットホープ港の前では連日反デンマークデモが行われた。グレーンランド政府も本国に対して遺憾の意を表明したものの、本国政府は強硬な立場を維持し続け、緊張は日に日に膨れ上がっていった。

そんな中1887年2月、抗議運動の続くゴットホープ港にて、酔っ払ったデンマーク兵が市民に向かって発砲する事件が起こる(ゴットホープ事件)。民衆はパニックに陥りつつも怒り狂い、これを見たハンス・ニールセン率いるグレーンランド政府独立派は今しかないと行動を決意。
本国から監視の任務を受けていた政府要人などを拘束し、緊急臨時国会を開催したハンスは独立反対派の意見を無視して、グレーンランド王国の独立を宣言。
それと同時に兼ねてより準備していた計画に基づき、忠実なグレーンランド兵と蜂起した民兵にゴットホープ港への攻撃を指示。グレーンランド独立戦争の火蓋が切られた。


別名北極海戦争とも呼ばれるこの戦争は、距離の関係上戦闘の大半を海上戦闘が占めた。
数少ない陸上戦は開戦当初のゴットホープとユリアーネホープで発生し、内二つとも後の海上戦で活躍することとなる艦船を奪取するための重要な戦いだった。

初の戦闘は前述の通りゴットホープで行われ、突然の襲撃に対処できなかった駐屯デンマーク軍は瞬く間に崩れ、数時間の抵抗の後降伏した。
首都から敵軍を排除できただけでなく、戦闘を素早く終わらせたことにより、グレーンランド側は港に停泊していたデンマーク海軍の艦船約10隻を奪取することに成功する。

一方、南西部のユリアーネホープでは開戦の連絡が遅れたことにより奇襲が失敗。
防衛陣地を固めたデンマーク軍と民兵の間で膠着状態に陥っていた。
これに対処するためグレーンランド側は奪取したての艦船を早速投入。
ユリアーネホープ港を包囲し、デンマーク軍の退路を塞ぎ、そこに停泊していた艦船も奪取しようと目論む。
結果的にこの作戦は功を奏し、数週間の籠城戦の末補給も切れて海上砲撃も受け続けたデンマーク軍は降伏。目的の艦船数隻は自沈工作によって失ったものの、6隻ほど確保することにも成功する。

これによりグリーンランドからデンマーク軍の陸上戦力が殲滅され、戦争の舞台は北大西洋に移ってゆく。
元々保有していた艦船4隻と奪取した艦船約16隻、合計20隻ほどの海上戦力を確保したグレーンランド側であったが、デンマーク海軍には大きく数で劣り、戦力差は絶望的だった。
しかし、多くが旧式艦で構成されていたデンマーク海軍に対し、比較的新しいグリーンランド海軍は単体性能で勝り、加えて奪取した艦船はどれも新造で優秀なものばかりだった。
これはデンマーク側が海軍の増強を図り、その一環としてグレーンランドに最新の造船施設を建てていたためであり、デンマーク側からすれば金を注ぎ込んで建てた造船所と軍艦がそっくりそのまま敵に渡ってしまうという最悪の結果となった。

ともかく、数は劣れど質で勝るグレーンランド海軍はデンマーク主力艦隊との交戦は避け、小規模な哨戒部隊や商船の護衛艦隊などの各個撃破を狙った。
この作戦は元デンマーク海軍の英雄でありグレーンランド出身の提督、ヤコブ・クリステンセンの指揮により概ね成功を収め、グレーンランド海軍はデンマーク海軍とその貿易船を次々と撃破していった。
特に成果を上げたのはユリアーネホープ港にて奪取した新造の防護巡洋艦イオニアであり、当時としては破格の性能と航続距離、船長の優秀さと何より伝説的とも評される豪運によりデンマーク海軍を沈め回り、その脅威は「北極海の悪魔」とまで呼ばれるほどだった。

そのまま勢いに乗ったグレーンランド側はデンマークにプレッシャーを与えるため、ノルウェー領スヴァールバルへ上陸。この上陸戦では互いの主力海上戦力がぶつかり合うこととなったが、ここでもグレーンランド海軍はデンマーク主力艦隊を撃破。とは言え無傷とまではいかず、2隻喪失、3隻大破とやや痛み分けのような形での決着だったが、上陸自体は成功し占領も成功。

ここで商戦襲撃による疲弊と主力艦隊の敗北、戦前より続く経済恐慌と他国の脅威、何より戦争が泥沼化してきたことにより、とうとうデンマーク側が折れ講和を要請。
講和会議では概ねグレーンランド独立の保証と戦争終盤に奪取したノルウェー領スヴァールバルの割譲で合意し、1888年5月、戦争は終結。
デンマーク王の従兄弟であるフレゼリク8世(フリードリヒ・ヴィルヘルムから改名)を王に据えるグレーンランド王国が誕生し、グリーンランドは約600年ぶりの独立を達成した。

独立と北部開拓時代

少なくない犠牲を払いつつもなんとか独立を果たしたグレーンランド王国だが問題は山積みであり、行政区分の整理や経済の回復が急務となった。
特にイヌイットの住む北部では度重なる反乱で管理が上手くいっておらず、デンマークの支配下にある頃は重要性もなかったが故に事実上独立状態となっていた。しかし1888年7月、新生グレーンランド軍が北部の都市トゥーレ(現在のカーナーク)に進駐。周辺地域を再び支配下に置いたりと管理の強化を進め、1890年代後半には独立後のゴタゴタもあらかた片付いた。

1900年代に入ると、グレーンランドは経済の更なる回復と成長を求め、世界各国から入植者を募集。広大な土地と豊富な埋蔵資源、少ない人口と独立時に支援を行った国々との友好関係などを利用したこの計画は、結果的に多数の油田や鉱山が見つかったりと成功を収めた。
他にも人口はかなり増え、市民の生活水準は跳ね上がり、文化的にも技術的にも大きな進歩を遂げるなど、グレーンランドは黄金時代を迎えることとなる。

しかしその経済成長も1910年代後半には鈍り始め、更にイヌイットと植民者たちとの衝突が相次いで徐々に政情が不安定化。それに拍車をかけるように、王室では国王フレゼリク8世の浪費癖や強権的な姿勢が問題に。元々デンマークと同じ王家だったこともあって市民からの人気は乏しく、その上高齢で悪癖が悪化し始めたことで王室に対する批判が相次いだ。
これが後の内戦の火種となる。

2月革命

1920年1月、グリーンランド島に数百年に一度の大寒波が襲来。
港は全て凍り漁業は不可能に、地方の工場や工房などは部品が凍り付いてストップ、畑はほとんど枯れ果てるなど、グレーンランドの産業は総じて大打撃を受けた。
それに伴う社会不安や貧困、飢餓や失業など様々な要因が重なり、1920年3月には恐慌が発生。上がる一方だった経済成長率も急落し、奇しくも独立戦争時と同じ、街に失業者が溢れかえる光景がグレーンランド各地で見られた。

しかし政府は一部の上流階級を支援するのみでロクな対応をせず、国王の配慮に欠けた発言もあり市民の怒りは膨れ上がる一方だった。国内では現体制に失望した市民たちの間で過激主義が跋扈し、共産主義者や国粋主義者、無政府主義者やイヌイット民族主義者などがここぞとばかりに勢力を拡大していった。

そして1923年2月、首都ゴットホープで労働者がストを宣言。それに呼応するように各地でストライキやゼネスト、労働環境の改善を求める抗議運動などが活発化。政府は対応に追われることとなる。しかしそれだけでは終わらず、ゴットホープでは一部のデモ隊が暴徒化。暴力の波はみるみる拡大し、もはや警察の手では追えない事態へと発展していた。
これに対し政府は、国王の強い進言もあり国軍を動員し鎮圧することを決意。
だが、この決定が政府内にいた内通者に新聞を通じて拡散され、他の抗議運動をも刺激してしまう。
結果、1923年2月21日、ゴットホープの共産主義系抗議団体が一斉蜂起。数日後にはグレーンランド中のありとあらゆる都市で反乱が起き、同時期鎮圧に向かった部隊も反旗を翻したため政府機能は一月もたたずして崩壊。グレーンランド内戦の火蓋が切られた。

グレーンランド内戦

内戦初期の様相はかなり複雑かつ凄惨であり、詳細は説明しきれないが大まかな要点だけまとめていくと、首都は共産主義/社会主義勢力のゴットホープ・コミューンが、南西部では旧政府及び王党派が、南東では王政を排除し民主的な共和国を打ち立てようとする共和派が、東部ではファシスト勢力、地方軍閥、無政府主義、その他の過激思想勢力などが乱立して地域を占領。北部でも少し後にイヌイット民族主義者の反乱が起き、初めは南西部一帯を支配していた旧政府も遅れて蜂起した追加の社会主義勢力に西部沿岸を乗っ取られたりと、グレーンランドは混沌と化してしまう。

戦況はどこも一進一退だが、人口と産業が集中している西部を抑え、瓦解した旧政府軍を次々と撃破していくコミューンがやや有利な状況だった。
1923年4月には西部の海岸線はほとんどコミューンに握られ、西側からはアカが、東側からは様々な過激勢力が押し寄せてくる旧政府は、最後の港湾都市ユリアーネホープから王党派が先んじて安全を確保していたスヴァールバルへ脱出を決意。
しかしそう簡単に事は進まず、想定よりも遥かに速い進軍速度で襲来したコミューン軍がユリアーネホープを包囲。この内戦の大きな転換点となるユリアーネホープ包囲戦では、双方死力を尽くした戦いとなったものの、最終的には王家と旧政府は出港まで持ち堪え、その後の海上での追撃戦もギリギリ振り切り脱出に成功する。後に「大脱出」として知られるこの戦いでは、退役間近の英雄艦、イオニアが再び活躍。何発も砲撃を受けながらも最後まで沈む事なく王家の船を護衛し続け、無事にスヴァールバルへ送り届けた。この出来事がきっかけでイオニアは王家より艦でありながら勲章を授与され、現在でも半ば神格化されてロングイェールビーン港(スヴァールバルの都市)に保管されている。

一方、最後の最後で全ての元凶である王家を取り逃したコミューン側は士気が大幅に低下し、以降の内戦が泥沼状態に陥る要因となってしまった。
後に独裁政権を築くカール・クリステンセン元帥は「ユリアーネホープだ、そこで全てが拗れた。あそこで王家の首を取っていれば、内戦は1年も立たずして終わっていただろう」と語っている。

とは言え、南西部を掌握したコミューンに対抗できる勢力はもはや存在せず、その後の内戦は泥沼化しつつも徐々に徐々にコミューンが占領地を広げていく形となった。
1925年1月には膠着打開を狙い、ゴットホープ・コミューンは北部のイヌイット反乱と一時的に同盟を組むこととなる。この時コミューン側はイヌイット中心の社会主義系独立国家の設立を約束したものの、内戦中にコミューン勢力が拡大していくとともに同盟の対等性は失われ、その約束は後に反故にされた。

とはいえひとまず協力体制を整えたコミューンだったが、戦況打開の目処は立たなかった。
その上この頃になると内戦は、グリーンランドの厳しい気候で消耗した全勢力が終わる気配のない内戦で同胞を殺し続けるという地獄のような状態となっていた。
特に内陸部では飢えと豪雪から精神が壊れてしまう兵士が後を絶えず、更に酷いところでは人肉食が蔓延することもあった。
現在でも内陸部のある地域では、雪の中から冷凍保存された死体がいくつも掘り出され、そこから発生するメタンガスなどが環境汚染の原因となっている。

しかし1928年7月にはようやく戦況が動き始め、南東部の共和派がコミューンに屈服。
コミューンの脅威を間近に感じた他勢力は一時的に反共同盟を結成したものの、一度崩れた天秤は元に戻らず、10月には地方軍閥の一つが降伏。11月には無政府主義勢力が瓦解し、1929年1月には最後の反共勢力であるファシストが降伏。
一部の残党や北東の奥地に逃げこんだ超過激派勢力を除き、グリーンランド島はコミューンによって統一され、グレーンランド社会主義連邦共和国が成立。約6年間続いた内戦も終結した。


赤軍独裁時代

多大な犠牲を払いつつも内戦に勝利した社会主義勢力だったが、共産性の違いを巡って内部紛争が勃発。対立の軸となったのは最初期にゴットホープで蜂起したゴットホープ・コミューンが主体のマルクス=レーニン主義者達と、遅れて西部の沿岸都市で蜂起した西グレーンランド漁業組合連合のサンディカリスト達であり、この両派閥の対立により行政改革や経済改善は遅々として進まず、内戦の勝利したにも関わらずグレーンランドの荒廃は進んでいった。

この対立関係が続いた1929年5月、痺れを切らしたグレーンランド赤軍、及びそれを率いるカール・クリステンセン元帥一派によるクーデターが発生。密かに影響力を拡大し、赤軍の大半を支配下に置いていたカール元帥はコミューン政府を解体。新たに自身を最高指導者とする軍部独裁政権を成立させた。
その後カールは自身に反対する政治家、活動家、将校などを相次いで粛清。自身の権力を盤石にした後に、「帝国主義者の負の遺産を取り除く摘出手術」と称した大改革、スターレ・レフォーム(デンマーク語で大改革)を実施。直属の赤軍に命じてグレーンランド中の王国時代の城や建造物、文化遺産などを破壊させた。そして1929年8月、カールはスターレ・レフォームの一環として、国名をグレーンランドから「ヌーク社会主義共和国連邦」へと変更。ヌークとはカラーリット(イヌイット族の一つ)語で「半島」という意味の言葉であるが、これはイヌイット族の不満を必要以上に上げないためのパフォーマンスであると言われている。
更には秘密警察も設立し、国民の生活の監視と政敵の排除を徹底。長きに渡る赤軍独裁時代が幕を開けた。

とはいえ、赤軍独裁最初期の頃はカールの評判は悪くなく、むしろ無能な政府の対立を終わらせた英雄として祭り上げる声も少なくなかった。
そこで1930年1月、国内の支配を固めたカールは次に、独立の約束を保留していたイヌイットとの交渉に乗り出した。
カールが国名をイヌイット語のものに変えたのを見て、イヌイットとの対談は和やかなムードで進み、最終的にはイヌイット民族を主体とする国家、アヴァンナータ社会主義共和国を設立することで合意。しかしカールはその直後、アヴァンナータ社会主義共和国がヌーク連邦への加盟を表明したと一方的に宣言。
実質的に約束を反故にしたカールにイヌイット側の交渉者も怒りを露わにしたものの、今やヌ連とイヌイット反乱軍の兵力は雲泥の差であり、反抗したところで勝てないと悟っていた。
そのためイヌイットたちが死力を尽くして勝ち取ったアヴァンナータ社会主義共和国は、表向きは自主的にヌ連に組み込まれることとなった。

こうしてイヌイットの問題を強引に解決したカールは、今度はスヴァールバル亡命政府の打倒に乗り出した。
しかし陸続きで容易に脅せるイヌイットとは違い、亡命政府は海を隔てた向こう側であり、しかも社会主義国の成立に反対した列強諸国がスヴァールバル政府を支援したため、侵攻計画は頓挫することとなる。
その後もカールは亡命政府を「邪悪な帝国主義者」と罵り、軍拡を重ねたものの、最後までスヴァールバルに侵攻する事はなかった。

外交的な失敗を経験したカールは、名誉挽回のため1937年にインターナショナルに加盟。
積極的に国外情勢に関与し始め、東側諸国との足並みを揃えてゆくこととなる。
しかし、その一方で絶え間ない軍拡により国庫は底を突きかけており、経済面も碌な改革を一切行っていなかったため、ヌーク経済は崩壊の一途を辿っていくこととなる。

1946年にはクーデター未遂事件があったものの、秘密警察により未然に阻止され、これを受けてカールはより一層強権的に弾圧するようになっていった。
また、その間にも軍拡は進み、東側諸国で進んでいる宇宙開発にまで手を回し出した影響で国民の負担は更に増大。抑圧されてるとはいえ、政権への反発は強まっていった。
その影響もあり赤軍独裁末期のカールはパラノイアを発症し、自らの側近ですら粛清するような暴君と化していたが、そのような状況の中1960年に脳梗塞で倒れ、死亡した。享年82歳。

カールの死については現在でも議論が行われており、本当に自然死だったのか、反抗勢力に毒を盛られたのか、真相は明らかになっていない。
彼の死後はカール政権下の参謀総長が後を継いだものの、もはや国民の不満と怒りは抑え込むことができず、かつ赤軍も政府の制御から外れ始めたことで、旧ゴットホープ・コミューン系勢力、旧西グレーンランド漁業組合連合系勢力が連合を組んでクーデターを実行。

1960年9月、もはや側近らにすら見限られていた赤軍独裁政権はあっけなく崩壊し、穏健な社会主義勢力が政権の座を奪取した。

現在のヌーク社会主義連邦共和国

その後、新しく成立した政権は独裁時代への反省として、政治の民主化を宣言。
その言葉通りに改革は進み、1967年には初の選挙が行われた。現在と比べると制限や腐敗がかなり多かった第一回選挙だが、概ね問題なく進み1967年10月、ヌークにて初の人民に選ばれた政権が誕生した。

新たに成立した政権は旧両派閥の連立であり、軍縮、融和外交、経済の自由化など、独裁時代とは真逆の方針を掲げた。
特に外交方針は大きく転換し、今まで独裁政権を支援していた東側諸国からは距離を置き、自由主義陣営に近づく中立的な立場を取るようになっていった。
イヌイット問題に関しても進展があり、1982年にはアヴァンナータ社会主義共和国が自治共和国に格上げされ、イヌイット国内移動を制限する法律も緩和。
しかし未だ民族間の対立は解消されず、近年ではイットリカン民主主義国によるイヌイット民族主義過激派の支援もあり、ノース人のイヌイット民族に対する悪感情は増える一方である。

経済に関しては自由化が進んでいるものの、中途半端に進んだ改革の影響で産業が非効率的になってしまっており、更なる改革で資本主義に移行するのか、それとも差し戻して社会主義体制を維持するのか、連邦院の議論の槍玉に上がっている。

スヴァールバル亡命政府との関係は比較的良好。
双方の国民は暴君を経験した経緯からか、すでにヌーク側は共産主義に、スヴァールバル側は君主制に失望しており、平和的再合併が現実味を帯びてきている状況である。

連邦院

ヌーク連邦全体を統括する連邦政府の議会、各共和国の州や自治州、地方などから議員が選出される実質的な上院議会。選挙は行われるが、活動は社会主義系政党に限られている。

党名 党首 イデオロギー 亡命政府への見解 イヌイット民族解放戦線への対応 政治理念など 与党or野党 議席(total 178)
民進労働党 ヨハネス・T・イェンセン 穏健社会主義 和解派 中立派 この国が平和ならそれでいい 与党 92
統一ヌーク労働組合連合 アグナー・フィンセン サンディカリスズム 和解派 強硬派 労働党さあ・・・輸入とかいいから自国産業優先して? 与党 12
社会進捗党 ヴィゴ・アウグスト 社会民主主義 和解派 融和派 労働党さあ・・・もっと改革進めようぜ? 野党 49
人民党 オーレ・クリストファー・クリステンセン 急進的社会主義 強硬派 強硬派 共産主義こそユートピアだ!!暴力革命こそが正義!!スヴァールバルの帝国主義者を潰せ!!万国の労働者よ、団結せよ!! 野党 21
偉大なるエイリーク・祖国大同盟 ニルス・グルントヴィ 全体社会主義 超強硬派 超強硬派 少数民族?世界情勢?知ったことか!!軍拡軍拡軍拡!!迫害迫害迫害!!ノース文化こそ至上!! 野党 3
イヌイット社会党 アラン・イガルック・アティクタラーク 穏健社会主義 どうでもいい 同胞よ・・・流石にやりすぎ 独立させろ!!自治権拡大!!! 野党 1

著名な企業、組織、団体など

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ヌーク漁業組合連合

ヌークの漁業関係の労働者によって設立された、漁業の円滑化と労働環境の保証を目的とした労働組合連合。過去にゴットホープ・コミューンとしのぎを削った西グレーンランド漁業組合連合の後継組織であり、今では労働党と連立を組む統一ヌーク労働組合連合の後援組織でもある。
西グレーンランド漁業組合連合の頃は過激な論調が目立ち、強硬なサンディカリズムを掲げていたものの、現在は政権の中でも労働党に次ぐ穏健派で、スヴァールバル政府との融和も前向きに考えている組織。
経済的にもヌーク主要産業の核といっても過言ではないが、一方で保護主義的な側面があり、自国産業の衰退を恐れて外国からの輸入や企業の参入には慎重な立場を示している。
労働党にとっては人民党や祖国大同盟などの過激主義者たちに対抗する強力な味方であると共に、そのような側面が改革の足枷になっている状態である。

ゴットホープ人民貿易商会

貿易などの円滑化と活発化を目的とした、ヌークで一二を争うほどの規模を誇る国営企業。母体となったのは1771年に設立された王立グレーンランド貿易会社であり、その後内戦勃発に伴いグリーンランドに残った人民貿易商会と、スヴァールバル側に亡命したロイヤル・スヴァールバル社に分裂し、社会主義政権の影響下に置かれた方は社名を変え、政府直轄の国営企業として生まれ変わった。
しかし赤軍独裁政権下では腐敗や汚職が相次ぎ業績が悪化。政権が交代してもその体質は変わらず、長い間公的資金を吸い続ける金食い虫として扱われていた。
だが、1975年のゲノピュグ政策の実行に伴いとうとう政府のメスが入り、腐敗した上層部は一掃され政府主導の元経営の立て直しが行われた。
紆余曲折あって業績改善に成功した人民貿易商会は、1988年には36年ぶりの黒字化を達成。
現在では経済の自由化に伴い、半ば民営企業としてヌ連の経済に貢献している。

ヌーク放送協会(NBC)

1981年に発足したヌ連の国営放送事業。赤軍独裁時代に利用されていたラジオプロパガンダ放送局が前進となっており、一度は解体されたもののゲノピュグ政策を進めていた労働党政権がその報道インフラに目をつけ、再建。赤軍独裁崩壊後に作られた臨時ラジオ放送協会とも合併し、国内唯一の報道機関となった。
現在では放送法の変更により他の民営企業が台頭してきたため、電波の独占は出来なくなったものの国民からの人気は高く、今でも迅速かつ正確な報道によりヌークで二番目の視聴者数を誇る。
また、一番最初に政府機関からの発表があるのもこの局なので、何か大きな決定などがあった場合はNBCをつけるのがヌーク国民の基本となっている。

イヌイット民族解放戦線

主に北部や中央部で活動するイヌイット民族主義過激派のテロ組織。名前にもある通りイヌイット民族からなる独立国家の成立を目指しており、グリーンランド島からの全ノース人の排除および“処分”を掲げている危険思想の持ち主たちである。
母体となったのは、1920年代初頭にノース人の支配からの脱却を目指して結成されたイヌイット諸部族連合であり、当時もテロなどの暴力的行為を支持する者はいたが、概ね理性を保ち平和独立を目指す組織だった。
だが1923年にグレーンランド内戦が勃発してからは、これを好機と見て武装蜂起を開始。イヌイット反乱として内戦に加わった。
内戦ではニコラス・サヴィカターク将軍の卓越した指揮の下、地の利を活かしたゲリラ戦で隣接するコミューン軍を撃退し続け、最終的に独立を約束させたものの、その約束は戦後カール政権により反故にされる。それに憤慨した過激派や民兵たちが分離し、誕生したのがイヌイット民族解放戦線である。
現在は徹底的な捜査、摘発により多くのメンバーが捕らえられているが、近年ではイットリカン民主主義国の支援もあり再び勢力を伸ばし始めている油断ならない組織である。

ノード社

1910年に誕生したヌ連の軽航空機メーカー。過去には軍用航空機生産の中核を担い、現在でも民間用飛行機の製造・販売を手がけている国内有数の企業である。
名前の由来はグリーンランド北方の地、ノードであり、いずれはそんな僻地でも飛行機を飛ばせるようにと言う意味を込めて名付けられた。当時のグレーンランド王国海軍の支援も受けて国産飛行機の研究・開発に取り組んだノード社は、1912年にグレーンランド初の国産飛行機、ノードA0を開発した。性能はお粗末なものだったとはいえ、飛行にはちゃんと成功したので軍部からの反応はかなり良く、支援が続けられることに。その後もノードシリーズの発展や別タイプの開発を進め、1917年には後にグレーンランド内戦で大活躍するノードB-23、及びB-24を開発した。
その1929年の内戦終結後も国営企業として存続し、赤軍独裁政権の元引き続き軍用航空機研究を進めていた。この頃に開発した航空機としては、赤軍独裁時代の主力戦闘機となるフロギーシリーズなどが挙げられる。また、赤軍独裁末期には新たな分野を開拓しようとオスプレイ型輸送機バーミウトを開発したが、軽航空機のノウハウは活かしきれず微妙な性能となってしまった。
赤軍独裁終結後はゲノピュグ政策に基づき再び民営化。そこから現在に至るまで軍用航空機生産は行なっておらず、代わりに農薬散布機や軽旅客機などの民間用航空機に注力している。
今でこそ軍事分野で陰の薄いノード社だが、過去にはヌーク空軍の代名詞とも言える存在だったのは間違いないだろう。

ヌーク国有鉄道(NNJ)

ヌ連国内の鉄道を管理・運営している国営企業。略称及び通称はNNJ(Nuuk Nationale Jernbaner)。
母体となったのは1890年にそれまで独立していた地方鉄道会社を統合・合併して誕生したグレーンランド王有鉄道(GKJ:Grønlands Kongelige Jernbaner)であり、当時鉄道文化が盛んだったグリーンランドの発展に大きく寄与した。
しかし1910年代に入ると、鉄道文化を支えていた北部開拓時代が終わり始めたことにより収支が悪化。鉄道バブル絶頂期に無茶な路線拡大を重ねていたこともあり、1920年代には破綻寸前にまで追い込まれてしまう。
その巨額の負債から政府も動かざるをえず、当時のグレーンランド議会ではGKJを半民営企業として再生させる案が上がっていたものの、グレーンランド内戦の勃発によってそれどころではなくなってしまう。
その後、内戦終結後のカール政権下で改めて立て直しが行われることとなり、王国時代の遺産を断ち切るという名目の元一旦GKJは解体。負債の一部をスターレ・レフォームの一環で売却した貴族や王族の土地・所有物で返済し、同時にGKJの路線網や経営体制を引き継いだNNJが新たに設立された。
その後は特に大きな問題もなく、GKJ時代の反省を活かした政府の適度なテコ入れにより比較的安定していたものの、2000年代初頭に第二次アグナー政権による「新ゲノピュグ」政策の一環として民営化が検討され始めた。
しかしその過程で赤軍独裁時代の癒着問題や裏金問題など、安定の裏に隠されていた真実が明るみに出てしまい、結局今日に至るまで民営化の目処は立っていない。
このNNJ民営化問題は旧来のやり方を支持する保守層と変化を求めるリベラル層の間で議論の槍玉となっており、選挙の行方を左右する重要な課題として残っている。

著名な人物・偉人

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赤毛のエイリーク

ヨーロッパ人として初めてグリーンランドに上陸した史実にも存在するヴァイキング。本名はエイリーク・ソルヴァルズソン。
彼の生い立ちの詳細は判明していないが、一説によると950年ごろにノルウェー南西部のヤーレンで生まれたとされる。しかしそのわずか10年後に父親が殺人の罪でノルウェーを追放されたため、一家でアイスランドへと移住することとなった。アイスランドに移住した彼は農場経営をして生活していたが、ある時先住者の豪族とトラブルを起こし、アイスランドからも追放されることとなる。
こうして行くあてのなくなった彼は、まだ見ぬ新天地を発見しようとアイスランドの更に西を目指して航海をはじめ、グリーンランドを発見するに至った。
歴史の部分でも語った通り、彼はそこに入植者を引き連れて領地を建設し、交易を通して植民地を成長させていった。このことから優れた経営手腕と人身掌握術、カリスマを持っていたことが伺われる。
彼の死後は息子のレイフ・エリクソンが領地を引き継ぎ、以後ノルウェーに征服されるまでの間この領地は代々彼の子孫により支配されていった。

ハンス・ニールセン

グレーンランド王国議会第16代首相、及びグレーンランド独立運動の中心人物。
1835年にゴットホープにて生まれ、同じく政治家であった父親の教育のもと成長し、1853年にはイギリスのオックスフォード大学へ留学。そこでナショナリズムや民族自決といった概念を学び、後の独立思想の礎を築いていった。

卒業後はグレーンランドへ戻り、しばらくは弁護士として活動していたものの、1867年には王国議会議員に転身。自由主義的な傾向の強い進捗党に所属していた。
1885年には首相に就任。大胆な改革と話術で人々の支持を掴んだ。
この頃になるとニールセンは独立の思想を全面的に押し出すようになり、再三本国議員からの注意を受けつつもグレーンランド王国の独立を主張していった。
そんな中、歴史の項目にもある通りデンマーク兵士がグレーンランド市民を射殺するゴットホープ事件が勃発。この機を逃すまいとニールセンは志を共にしていた他議員らと共に臨時国会を招集。保守派の反対を無視してグレーンランド王国の独立を宣言した。

独立戦争中は国王がいなかったため、実質的な最高指導者となっていたが、戦争が終結した後は君主制存続の問題に直面。自由主義者であったニールセンは君主の再来に反対していたものの、保守派議員の根強い反対もあり、結局は妥協してデンマーク王の従兄弟、フレゼリク8世を国王として受け入れることに同意した。
その後も新生グレーンランド王国議会の元政治活動を続けていたが、1892年に持病の肺炎が悪化し死亡。57歳という若さで命を落とした。

ヤコブ・クリステンセン

元デンマーク王立海軍提督、及びグレーンランド王立海軍元帥。独立戦争の英雄とも呼ばれる人物。
1829年にフレデリックホープ(後のフォークスホープ)で生まれた彼は、幼少期からかなり粗暴で暴力的だったと言われている。成人してからもその性格は変わらず、デンマーク本土での士官学校ではグリーンランド訛りをバカにされて逆上し、取っ組み合いになることがしばしばあった。

しかし1845年にはその性格も落ち着き始め、正式に提督に就任してからは多少苛烈な命令を出す程度におさまった。実戦では非常に卓越した状況判断能力と指揮力を発揮しており、当時のデンマーク海軍で最も優秀な提督だったと言われている。そのため出世は確実かと思われたが、1887年にグレーンランド独立戦争が勃発。ヤコブは郷土愛からデンマーク海軍を脱退し、秘密裏にグリーンランドに渡ってグレーンランド側の提督として戦った。
結果、独立戦争は彼の活躍もありグレーンランド側の勝利に終わる。
これによりヤコブは海軍から勲章を授けられ、市民の間では「独立戦争の英雄」として讃えられた。(なお、ヤコブ自身は過剰な名声を嫌っていたらしく、「勲章だけで十分だ」と時折ニールセンに漏らしていたと言う)
その後も引き続きグレーンランド海軍に所属し続けたが、老化も鑑みて1894年に引退。
余生は故郷フレデリックホープで息子の世話をしつつ平和に暮らしていたが、1915年に階段から転げ落ちて死亡。享年86歳。

余談ではあるが、共に独立戦争を戦い抜いたハンス・ニールセンとは友人関係であり、度々二人だけで飲みに出かけに行くこともあった。
そのためニールセンの死を聞いた際は目に見えて憔悴していたと言う。

カール・クリステンセン

元グレーンランド王立陸軍中将、元ゴットホープ陸海軍事人民委員会議長、及びヌーク赤軍大元帥。赤軍独裁時代と呼ばれる独裁政権を築いた張本人であり、独立の英雄ヤコブ・クリステンセンの息子である。

カールは1878年、当時父のヤコブがデンマーク海軍に所属していたため、デンマークの首都コペンハーゲンにて産まれる。幼少期のカールは父に似ずとても寡黙であったらしく、常に両親のそばにいるような子だったという。当時何より興味を示したのは軍隊であり、本人の口からも常に父親に憧れていたと語られている。そのためコペンハーゲンの士官学校に入るため勉学を重ねていたが、1887年にグレーンランド独立戦争の勃発に伴い、父と共にグリーンランドへ移住。
カールはそこで戦争でいない父親の代わりに母親に勉学を教えてもらい、自由主義的な思想を持つ母親の影響を強く受けていった。
父ヤコブが終戦と共に帰ってきてからは、保守的な彼と思想の違いでよく口論になっていたらしく、しばしば図書館などで勉強をしていたという。後の社会主義思想はここで共産主義系新聞などを読んで培った。
その後、父とは違い陸軍に入隊したカールは、訓練で優秀な成績を収め、1914年には中将にまで昇進。しかしその直後に父ヤコブが他界してしまい、対立していたとはいえ父親のことは愛していたカールは悲しみに暮れたという。だが、同時に自分を縛るものがなくなったことでより一層社会主義思想にのめり込んで行った。この頃に彼は社会主義系新聞にて、著書『神への聖戦』を発表している。

1923年のグレーンランド内戦では、自身の思想に基づき同志の部下兵士達を率いてコミューン政府に合流。実質的に赤軍の最高司令官である陸海軍事人民委員会議長に就任し、コミューン、組合連合と共に内戦を主導した。
だが父親ほど軍事の才能に秀でていたわけではなく、無謀な突撃を繰り返させたり、ユリアーネホープ包囲戦でも王家を取り逃してしまったりとどちらかといえば軍事的失敗が目立っていため、1925年以降は議長補佐に降格された。
内戦終結後はそれに対する復讐もあり、カールは自身に忠実な兵士や将校を引き連れてクーデターを実行。政府が内部分裂していたこともありクーデターは成功し、カールはグレーンランドの全支配権を手にした。
その後は歴史の項目でも説明した個人崇拝や監視を徹底する軍部独裁政権のトップ、赤軍大元帥としてグレーンランド改めヌーク社会主義連邦共和国を支配していたが、1960年に脳梗塞で倒れ、死亡した。

ニコラス・サヴィカターク

元イヌイット反乱軍指導者、及びイヌイット民族解放戦線初代議長。
1889年に北部のイヌイット支配地域で誕生したイヌイット人。名前の“ニコラス”の部分はグレーンランドにて働くためのデーン語名であり、後にノース人への憎悪から放棄している。
当時のイヌイット民族はグリーンランド北部にて様々な部族に分裂しており、その隙をつく形でグレーンランド王国が再支配を固めていた。サヴィカタークはその最中に産まれたため、イヌイットの集落とは違うノース人社会に興味を抱くようになって行く。この頃には多くのイヌイット人が文明社会に適応するため、南部に移住し出稼ぎをしていた時代だったため、サヴィカタークも1909年にグリーンランド中西部の都市ソルシデンに移住した。

だが、彼を待っていたのはノース人による苛烈な差別だった。バスに乗車拒否されるのはしょっちゅうで、街ゆく若者に罵られることもしばしば。役所ではわざと書類を間違えられたり、慣れないデーン語をバカにされたりと、散々な目に遭ったという。
この頃にサヴィカタークはノース人への憎悪と敵意を抱き始め、かつ外側からイヌイット文化に触れることでイヌイット人としてのアイデンティティを形成していった。
そんな中1923年にグレーンランド内戦が勃発。これに乗じて争いあっていたイヌイット部族は団結し、イヌイット諸部族連合を結成。ノース人への反乱を開始した。
サヴィカタークはこれに参加するため故郷へ戻り、ソルシデンで軍事学を学んでいたこともあり反乱軍の最高司令官(正確にはそのような階級はなかったので、それに準ずるもの)に任命される。
かくしてノース人への反抗を開始したサヴィカタークは、北上してくるコミューン軍を地の利を活かしたゲリラ戦で次々と撃退。海上戦力の脆弱さからディスコ島こそ失うが、それ以外では数で勝るはずのコミューン軍を悉く撤退に追い込むなど、目覚ましい活躍を見せた。

その活躍もあり1925年にコミューン軍とイヌイット反乱は和平条約を締結。独立を約束して一時的な同盟関係となった。
サヴィカタークはこの和平に反対していたものの、結局は和解主義者のイヌイット諸部族連合大族長、プゥートゥーグークに説得され、渋々コミューンと共に他勢力と戦うこととなる。
だが、1930年にコミューン改めヌ連はこの条約を実質的に破棄。これに怒り狂ったサヴィカタークはイヌイット反乱軍過激派をまとめ上げ、イヌイット民族解放戦線を結成。国家も土地も持たずにノース人への反抗を続けることを宣言した。
だが、ここまでの過労が祟ったのか、その僅か3年後に突然倒れてしまう。
まともな医療器具も揃っていない中昏睡状態で7ヶ月もの間生き延びたが、1934年に44歳という若さで亡くなった。

カナンギアック・プゥートゥーグーク

ウマナック族族長、及びイヌイット諸部族連合大族長。名前はグリーンランドのイヌイットの言語であるカラーリット語なので、プゥトゥグーク、プートゥグークなど表記揺れが多い。
プゥートゥーグークの生い立ちの詳細は判明しておらず、1851年に沿岸のイヌイット族定住地にて産まれたこと、幼少期から優れたリーダーとしての才能を発揮していたことなどが断片的に分かっているが、逆に言えばそれだけである。

成人した後の彼は父親の死に伴い、グリーンランド中西部の地、ウマナックを中心に住むウマナック族の族長に就任。元々温和で戦いを好まない性格だったため、周辺部族との関係強化に乗り出した。
一方、グリーンランド島南部ではグレーンランド独立戦争が勃発。ノース人支配地域に近かったこともあり、情報を迅速に手に入れることができていた彼は、グレーンランド側の勝利がイヌイット諸部族に影響を及ぼすのではと憂慮していたが、その予感は的中し、グレーンランド王国は1888年のトゥーレ進駐にて最北部のイヌイット部族を一掃。着実にグレーンランド島全域の支配に乗り出していた。

これに対しプゥートゥーグークは周辺部族に対しイヌイット民族の団結を求めたが、彼の呼びかけは聞き入れられることはなく、多くの部族がノース人の従属化に置かれるか、国外から来た入植者たちに殲滅されていった。
そんな中ウマナック族はプゥートゥーグークの巧みな交渉術もあって、領土は削られつつも独立を保つことができていた。しかしその延命もそろそろ限界か、と思われた1923年、グレーンランド内戦が勃発。
これが最後のチャンスだと悟ったプゥートゥーグークは再びイヌイット諸部族の団結を呼びかけ、周辺部族もノース人の脅威を目の当たりにした今同意。こうしてイヌイット諸部族連合、及びイヌイット反乱軍が結成された。

発足者であるプゥートゥーグークは他族長との交渉の末、イヌイット民族全てをまとめ上げる最高指導者、大族長に。そのまま全イヌイット民族の団結と独立を宣言し、内戦へ参戦した。
このイヌイット反乱はサヴィカタークの指揮もあって順調に進み、1925年には南部で戦い続けていたコミューンが和平を要請。これに対しサヴィカタークを含む連合内の過激派は罠であるとして反対したが、ノース人との完全な対立ではなく和解を求めていたプゥートゥーグークは彼らを説得して和平に合意。かくしてイヌイット民族国家の独立が約束された。
だが、前述の通りこの約束はカール大元帥により反故にされ、これまでの努力は全て水の泡となってしまう。

死力を尽くした勝ち取った独立が一瞬で崩れ去ったことにプゥートゥーグークはショックを受けていたが、同時に戦力差から反抗は無意味だとも理解していた。
そして1930年、全てを諦めたプゥートゥーグークはヌ連=イヌイット友好条約に調印。せめて自治権だけでも保証しようとした苦渋の決断だった。
だが、当然他のイヌイット人たちがこれで納得するはずがなく、過激派がイヌイット民族解放戦線を結成。プゥートゥーグークは「悪魔と取引した」として彼らに目をつけられ、1934年、奇しくもサヴィカタークの死と同じ年に憔悴し切ったところを暗殺され、死亡した。享年83歳。

クリスチャン・フレゼリク十世

現オルデンブルグ家家長及び現グレーンランド国王、あるいはグレーンランド王国請求者。
2023年現在は77歳で、妻は死亡。息子が二人、娘が一人いる。

「グリーンランド島の正統なる支配者」を称しているものの、ヌーク国内では反政府組織の首領といった扱いであり、この主張を認めているのはスヴァールバル亡命政府と、欧州の数少ない君主制国家に限る。

フレゼリク十世は1946年にスヴァールバル諸島にて生まれ、以降の77年間をそこで過ごしてきた。
当時よりスヴァールバル諸島はグレーンランド内戦時に亡命した王党派の旧政府に支配されていたため、フレゼリク十世は幼い頃から反社会主義、反革命思想を徹底的に教育されてきたため、現在でも非常に保守的で反動的な言動が目立つ。
特に過激な王政復古論者であった当時の摂政の影響を強く受けており、たびたび「我が島はあの薄汚いアカ達によって汚されてしまった」「あの地に再び返り咲き、偉大なる血統をもって人民らを導くのが我が使命である」といった趣旨の発言をし、和解を目指す両政府の悩みの種となっている。

政治的には1960年に父フレゼリク九世が崩御した隙を突いて行われた議会改革により、国王はその権限を著しく制限されたため、あまり政治の表舞台に出てくることはない、
とはいえそのことについて記者会見や外国への来賓などの場でぽつぽつと不満を語ることはある。

一方、今年で77歳を迎えるフレゼリク十世ではあるが、高齢による体調の悪化が進んでおり、会見の場でも咳き込むことが多くなっている。
本人は「至って健康である」と積極的な入院を拒否しているが、寿命が近いのは明らかであり、12歳の後継者アレックスを巡って亡命政府内で共和派と王党派の派閥争いが激化している状況である。


ヨハネス・T・イェンセン

現ヌーク社会主義連邦共和国首相および民進労働党党首。68歳(2023年現在)。
フルネームはヨハネス・フォン・トリアー・イェンセン。過去には労政党(赤軍独裁終結後のゴットホープ・コミューン系列の党。政治的指向の違いから後に労働党と進捗党に分裂した。)政権下で上院議員を務めており、その後も一貫して労働党に所属し続けたベテラン政治家である。

イェンセンは没落貴族の両親の元、赤軍独裁末期の1955年に生まれる。
幼少期は赤軍独裁崩壊後の混乱期だったこともあり、たびたび持ち物を盗まれたり誘拐されかけたりしたようで、この経験が後に「人は貧しさでこんなにも変わる。皆が豊かならこんなことは起こらないんじゃないか」と、経済を改善するための政治活動へ繋がっていった。

その思想を元に1970年代にはシデン大学で経済学を学んだイェンセンは、1971年に労政党に入党。議員になるべく奮闘したのだが、1974年選挙では惨敗。1979年選挙ではあと一歩のところまで漕ぎ着けるも、数十票差で惜しくも敗れたりと苦難が続いた。
しかし1984年選挙にてとうとうススコアビスンド州より当選し、念願の上院議員となった。

続く1989年選挙でも労政党の分裂というトラブルがあったものの再当選を果たし、以降は継続的に上院議員を務め、労働党の重鎮として活躍していくこととなる。
国内治安維持管理委員会会長(警察庁のようなもの)を務めていた1999年には4.21ゴットホープ国際空港テロ事件における真摯な対応が評価され、この頃にはたびたび次期首相に名前が上がるようになっていた。
しかし右派にも左派にも振り切らない中立的なスタンスが災いして労働党内の権力争いに勝ちきれず、2010年代までは首相の座を逃し続けていたものの、2019年の連邦議員選挙および労働党党首交代の際にとうとう首相に就任。
その後は落ち込み始めていた景気回復を公約として掲げていたが、2023年に至っても大した成果を上げられていない上、国内問題に注力するあまり外交、軍事が疎かになっているとの指摘を受けるなど、もっぱら批判の目立つようになってしまった。

2024年選挙でも続投の意思を固めているイェンセン首相だが、アピールできる成果がない今、国際情勢の変化次第では非常に危うい立場にいると言えるだろう。



著名な事件・出来事

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シオラパルクの虐殺

1892年に起きた、グレーンランド王国軍が北方の土地シオラパルクにてイヌイット部族を虐殺した事件。

1888年のトゥーレ進駐より、グリーンランド島全域の完全支配に乗り出したグレーンランド王国は、これまでは手付かずだった北方への圧力を強め出していた。これにより北部に住むイヌイット部族たちは、グレーンランドの圧力に屈するか、反抗して北部から叩き出すかの二択を迫られることとなる。多くの部族はグレーンランド軍の強大さに恐れをなし、従属の道を選んだものの、後者のやり方を取ったのが当時シオラパルク(トゥーレのすぐ北西)に定住していたパルク族だった。彼らは自分たちの領地のすぐそばに進駐したグレーンランド軍を快く思っておらず、好戦的な族長の指示もありトゥーレのグレーンランド軍駐屯地へ襲撃を開始。この襲撃は夜間に行われたため、対応しきれなかったグレーンランド軍は混乱し、数名が死亡。食料も一部盗まれた上に、厩舎を焼かれるなどの醜態を晒した。だが、これに対して当時のトゥーレ進駐軍を率いていたアレクサンドル・ゲーゼ将軍は「面子を潰された」と怒り狂い、報復としてパルク族の「徹底排除」を指示。
そして数日後、500人ほどの兵士がシオラパルクへ侵攻し、パルク族定住地を襲撃。圧倒的な兵力差にパルク族は戦う間もなく蹂躙され、調子に乗ったグレーンランド兵は集落を燃やし尽くし、女子供も見境なく殺害。
結果、パルク族は壊滅し、シオラパルクには焼け焦げた集落の跡と首のない死体だけが転がっていたと言う。

しかし、当時のグレーンランド政府は国のイメージを傷つけるとしてこの事件を隠蔽。誰一人として生き残りがいなかったこともあり、長らく白日の元に晒されなかった。
1978年に事件の詳細が明らかになって以降、ヌーク政府は公式に謝罪を表明したが、一方で「これは当時の将軍が独断でやったことで、グレーンランド政府及び我々ヌーク政府の関与は一切ない」とも説明しており、多くの波紋を呼んだ。

なお、これの報復と称して1958年にはエタ(北部の都市、シオラパルクの北西)にて、イヌイット民族解放戦線による死者十数名の襲撃事件が起きている。

4.21ゴットホープ国際空港テロ事件

1999年4月21日に起きた、イヌイット民族解放戦線による大規模テロ事件。
首謀者は当組織の幹部であったティヴィ・アウパルクトゥクと、その部下数名のイヌイット人。
事件の発端は1999年3月に、当時のヌーク首相アグナー・レーンが4月に外遊することを表明したことに始まる。この時安全保障上の理由から正確な日程や便などは公表されなかったものの、セキュリティが杜撰だったこともあり警備計画が流出。イヌイット民族解放戦線はこの情報を盗み出すことに成功する。

そして事件当日の4月21日、アグナー首相がゴットホープ国際空港に到着。しかしその二時間後、第二ターミナル26番ゲートにて乗客数名が体調不良を訴え始めた。当初はただの風邪として対応されていたものの、待機中のキャビンアテンダントや空港スタッフら数十名が相次いで倒れ、同じターミナル内にいたアグナー首相も突然咳き込み出し気を失った。
ここで空港内に毒ガスが散布されていることが発覚。空港スタッフやアグナー首相のSPらは警察特殊部隊の派遣を要請したが、既に毒ガスの影響はターミナル全体にまで広がり、死者まで出始めていた。
空港内の人々には避難命令が出されたが、ここでティヴィ率いるイヌイット民族解放戦線のテロ部隊がターミナル内へ侵入。一般人数名や昏睡しているアグナー首相を拘束し、外にあった四機の民間機に連行した。その直後警察特殊部隊が空港に到着。パニックに陥る人々を外へ誘導しつつ、テロリストの立て篭もる民間機を全て包囲。アグナー首相含む一般人の解放を要求したが、ティヴィらは逆に4つの飛行機に爆弾を仕掛けたと脅し、イヌイット民族国家の成立とグリーンランド島からの全ノース人の退去を要求した。
そのまま膠着状態が続いたが、事件発生から四時間後、ついに特殊部隊が飛行機内に突入。爆弾はブラフであり実際には存在しなかったものの、ティヴィ含めたテロリストたちは小型手榴弾を携帯していたため、それを使い周囲を巻き込み自爆。アグナー首相は重症を負いつつも生き残ったが、毒ガスの被害者含めて100名以上もの人々が命を落とした。

この一件によりイヌイット民族解放戦線は国際的に糾弾され、ヌーク政府も断固とした対応を取ることを宣言。セキュリティの強化や犯罪対策などに力を入れ始め、本格的に組織壊滅に乗り出したが、現在では組織の大幅な弱体化も相まってこうした対策は再び疎かになりつつある。



軍備

地形上珍兵器と呼ばれる類のものが多く、全体的に小型。低コストで量産をコンセプトに作られてるため、軍事的には弱小そのものだが地の利を活かしての防衛が主体なので要塞線を用意すれば問題ないという政府の指向で予算はあまり割り当てられてない。


連邦陸軍

+ ...
厳しい地形という側面からか特異な車両が多い。
また大型車両はめったにない、あったとしても使われることはあまりない。

陸軍兵器・火器など

S-155榴弾砲

シンプルな野戦砲、大戦前の産物なので射程距離も威力も非常に弱い。
流石に新型は存在するが、未だにこいつが配備されている師団もあり、軍部の陸軍軽視の姿勢が伺える。

補給車両

アタミック歩兵戦車

シンプルな歩兵戦車。最低限の攻撃性能は備わっているがあくまでメインは輸送任務。
その長い車体にはチェストや人員を詰め込めるスペースが存在し、(トラックと比べれば)厚い装甲でしっかり保護する優れもの。ただ自衛性能はあるとはいったものの、その武装はFC機銃たった一つなので、相手の主力戦車にぶち当たってしまえば終わりである。一応その状況を想定して緊急脱出機能が備え付けられているが・・・・・・
訓練でもうまく動作したのを見たことがないとある将校は語っている。

軍事用トラック


シンプルなトラック。特筆して語ることはない、何から何まで普通のトラックである。
一応使い勝手はいいようで、中古でよく民間用に出回っている。

軍事用トラック(屋根なし)


屋根を取っ払った。それだけ。

軍事用トラック(対空砲搭載)


屋根を取っ払ったところに中型対空砲を搭載したもの。
意外と安定性があるらしい。

装甲車

シデン実験歩兵戦闘車

1920年代初頭にグレーンランド王立陸軍により開発された謎の装甲車。
他国の装甲車や戦車などに影響されて作ったものだが、肝心の運転席が脆く狙われやすい上に、農業用トラクターのエンジンをそのまま流用しているので絶望的に遅いという欠陥だらけの車両である。とはいえあくまで実験用車両であったため、この車両を用いて機械化歩兵の有用性について研究していたものの、昨今のネットの一部では数ある珍兵器の一つとして数えられている。

AC-25スノーレパード歩兵戦闘車

奇抜な外見が目に付くスノーモービル型の輸送兼戦闘車両。
豪雪地帯での運用を前提とされており、主な任務は軽輸送任務や偵察、戦闘支援など多岐に渡る。武装はFC機銃一基のみであり、当初はTNTキャノンを搭載しようと検討したものの断念した。雪上でのスピードはそこそこ止まりではあるが、特化されて設計されただけあって多少の積雪は完全に無視できる馬力を備えている。問題点はそのサイズ、予想を遥かに超えて大型化してしまったその機体は装甲車にしてはコストが高く狙われやすいため、現在ではあまり運用されていない車両である。


AC-89スーパースノーレパード


上記のスノーレパードの改造版、任務内容や武装は変わらない。
が、動力に関しては何から何まで魔改造されており、旧スノーレパードはキャタピラで動いていたがスーパースノーレパードは後部に取り付けられたジェットエンジンが動力。
ジャンボジェット機に使われているものをそっくりそのまま(調整などはされてはいるが)持ってきた形で、単純にその推進力で車体を動かしている。
元々この構想は冷戦期に軍部によって考えられたが、当時は技術的に不可能ということで断念、キャタピラ式で妥協した。しかしロマンを追い求める軍部はその後も諦めず研究を続け、現在になってようやく構想通りのスノーレパードが完成するに至ったのである。
その最高速度は整地で時速500kmを超えるが、無論豪雪地帯でそのような速度を出せるわけもなく、出せたとしても速すぎて制御が利かないため通常は時速100~300km程度に抑えている。
これでも旧スノーレパードと比べて格段に速い上、ジェットエンジンそのものの熱で雪を溶かすこともできるため利便性は高い。
ただし重大な問題点として燃料費とコストが凄まじく高いのと、そもそもここまで速度を上げる必要性がないことが指摘され、結局夢の音速装甲車は不要の長物と化した。


ウィリー軽偵察装甲車

都市部での運用を想定したオーソドックスな装甲車。
前述のスノーレパードとは違い小回りと機動性を重視しており、整地速度は時速100kmを超える。反面武装はFC機銃一基のみとかなり弱い、故に名前通り偵察任務を前提としており、前線で運用するにしても大量配備が必須。我が国では暴動鎮圧用に車両上部の機銃を放水砲に取り換えたものが出回っており、治安維持に大きく貢献している。また、その安さから他国への輸出も期待される将来性の高い車両である。


ウィリーMk.2

単純にウィリーの改造版。
武装や性能に違いはないが、後部スペースがやや広くなっており初代に比べて若干輸送任務などに長ける。



軽戦車

ニールセンMk.1


我が国で二番目(キャタピラ型としては一番目)に開発された大戦前戦車。名前の由来は独立戦争の指導者、ハンス・ニールセン。
1910年代後半にグレーンランド陸軍兵器開発部門によって開発されたこの車両は、基本的には当時の他国戦車の見様見真似であり、設計コンセプトも同じく敵の塹壕を強引に突破するためのものだった。
そのため我が国初の戦車であるハーラル・タンクとは違い、駆動機構はちゃんとキャタピラ式であり、車両上部には工兵用の資材を載せられる場所が完備されている。
武装に関しては側面に機関銃が二基だけと今の基準でみるとかなり貧弱だが、未だ歩兵戦闘がメインだった当時はこれだけでもかなりの脅威であった。もちろん装甲も厚く、軽い地雷原などは無理やり突破できるが、かわりに速度に難があり当時の他国戦車と比べても圧倒的に遅い。それでも当時の基準では優秀な方だったので、以後陸軍はこの車両を起点に戦車開発を発展させていくこととなる。


サカック豆戦車 Type-1

見た目から分かる通り軽量化の境地に至った戦車。
装甲はペラペラ、武装はFC機関銃のみとまるで役に立たない。
とはいえタイマンで相手の主力戦車とやりあうなど言語道断なので、基本は対歩兵での集団運用。最大の強みであるサイズとコストはなんとたったの5×10ブロック、防護用の鉄柵を外せばたったの3×10に!!もちろんスーパー玉出並みに激安なので、ほぼ無限に作れる。


サカック豆戦車 Type-2

初代サカックの改良版、流石にFC機銃一基は弱すぎだと判断されたのか、超小型旧式TNTキャノンを搭載。ようやく一ブロックでも削れる攻撃力を得たものの、サイズがサイズ、装薬数はたった4なので本当に目の前の敵にしか当たらない。しかし前述の通り最大の強みは数の暴力、超低コストは未だ健在、一時期は作りすぎて乗る兵士の方が足りなくなったことも。

中戦車

ニールセンMk.3-B

1937年にヌーク連邦陸軍により開発された軽~中戦車。
1910年代に作られたニールセンMk.1の発展形であり、少し大型化した履帯とシンプルな砲塔が特徴。
この砲塔は当時の旧式艦船用砲塔をそっくりそのままのっけたものであり、回転はできないもののそこそこな威力を誇った。
実戦での成果は当時のヌ連自体があまり戦争をしていなかったこともあり控えめだが、軽い海外派遣任務や他国への援助車両といった形で活躍していた記録が残っている。
その後は赤軍独裁時代の大軍拡もあり、次々と新型戦車が開発されていったため1944年に退役。現在では博物館に数台保存されており、一般向けに展示されている。

重戦車

特殊車両

ハーラル・タンク

大戦期に開発された我が国最初の戦車、現在のものとは似ても似つかない非常に特異な形状であり、バランスも悪く攻撃力も低い。側面についてある巨大な車輪と後部にある安定用の補助輪で動き、車体前方にはFC機関銃が、下部には多目的投下機が用意されている。
当初はこれで塹壕を超え、多目的投下機で物資などの補給を行うマルチタスク要員としての活躍が期待されたが、実戦の結果全く使えなかった。そのため売り込む予定だった列強たちには輸入を拒否され、開発も研究も停止した。


連邦海軍

+ ...
島国故に超重要・・・・なのだが政府が軍事予算をケチっているのであまり配備されてない。
それでも空軍に次ぐ規模を誇るのだが、あくまで設定上であり、実際に建造した軍艦はかなり少ない。

後方支援任務用艦船

調査船ルンド号

北極海あたりの短期調査任務用の小型船、製造元が民間向けにも販売しているが、一部は連邦海軍に回っている。戦闘能力はない(画像のように無理やり機関銃を足すことはできる)が、4名が快適に過ごせる設備が揃っている。また多少ながら砕氷機能も備わっており、小さな流氷なら無視して航海ができる。

小型船(フリゲート、駆逐艦など)

装甲艦カンゲルルススアーク


1878年に建造された沿岸防衛用の装甲艦/装甲コルベット。名前の由来はグリーンランド西部の町、カンゲルルススアーク。
船体は大きくも小さくもなく標準的といったサイズで、三本の煙突が後ろに偏っているというややアンバランスな見た目をしている。
武装はもともと小型機関銃四基のみだったのだが、1905年に行われた近代化改修にて二基の対艦砲が追加された。なお、射界を広くとるために甲板を削って無理やり設置したため、見た目が少し歪になってしまっている。
当初はデンマーク海軍に所属していた本艦だったが、竣工の10年後にグレーンランド独立戦争が勃発したため、ゴットホープ港にてグレーンランド側が回収し運用。上々な戦果を上げた。
その後はグレーンランドに平和な時代が訪れたため、近代化改修を受けつつドックに籠っていたが、1923年のグレーンランド内戦にてコミューン軍が奪取。そのままユリアーネホープ包囲戦に投入されるも、速度の遅さから旧政府軍の砲撃を受け続け、あえあく轟沈した。


中型船(軽巡洋艦など)

防護巡洋艦イオニア

正確には連邦海軍ではなくスヴァールバル亡命政府海軍に所属している1900年代の旧式艦。
武装はFC機銃4基、旧式対艦キャノン二基(もう二基増設予定)、旧式対空砲一基。
煙突とその形状からも分かるように大戦前の蒸気船であり、まさにオンボロ以外の何物でもない。現役時代は主に遠方偵察任務に徹し、長い航続距離と優秀な性能から最新鋭の戦力だったが今となっては時代遅れ。
だが、過去にはグレーンランドを独立へと導き、内戦では退役間近だったのにも関わらず王家の脱出に多大な貢献を果たしたことで、王家より「永久名誉艦」の称号を授与された。
そんな伝説的な活躍もあって両海軍の間ではアイドル的存在。
現在はスヴァールバル諸島のロングイェールビーン港にて保管され、一般向けに展示されている。

ヤコブ級装甲巡洋艦ヤコブ・クリステンセン



1907年8月に建造され、1923年3月までグレーンランド王立海軍に所属していた装甲巡洋艦。名前の由来は独立戦争の英雄、ヤコブ・クリステンセン提督。
主に船団護衛や通商破壊などを目的として作られた艦であるため、速度が他の装甲巡洋艦に比べて速いといった特徴がある。
それに加えて武装に関しては対艦砲と簡易機関銃がそれぞれ四基備え付けられており、火力も申し分なく、当時としてはかなり優秀な部類だった。しかし、建造当初のグレーンランド王国は平和な黄金時代であり、後に作られた同型艦は国外に売却されたもののこの艦自体の活躍の場はほぼなかった。そのため本来は1923年に退役+処分される予定だったが、その直前にグレーンランド内戦が勃発。ヤコブ・クリステンセンは旧政府海軍に回収され、内戦の転換点となるユリアーネホープ包囲戦に投入された。その後の海上追撃戦でもコミューン艦隊から王家の避難船を護衛し続けたものの、スヴァールバル到着直前で氷山に激突し、船体が破損。そのまま放棄され沈没した。


大型船(重巡、空母、戦艦など)

フレゼリク級弩級戦艦フレゼリク/メンネスカー


1916年に建造され、1956年までヌーク連邦海軍に所属していた弩級戦艦。名前の由来は初代グレーンランド王フレゼリク8世だったが、後にメンネスカー(デンマーク語で人民)に改名されている。
我が国初の国産弩級戦艦であり、全長200mを超える当時保有していた艦をどれも上回る巨体が特徴。
近代戦艦の設計が洗練された頃に作られた艦なので、装甲はかなり厚く旧式船の砲では歯が立たない硬さを誇る。更に前方と後方にそれぞれ二基搭載された対艦砲は貫通力に優れ、中央部に二基の旧式砲塔、四基の対空機関銃なども備わっており、火力の面でも盤石と言えた。
ただ、致命的な欠陥として異常なまでの速度の遅さと命中率の低さがあり、これはハナから実戦的な活躍を期待されておらず、国家の威信のためだけに作られたからであり、見た目とカタログスペックだけ豪華にしようとした結果だった。
そのため1918年から1923年まではできるだけ訓練にも出さないよう、張り子の虎としてドックで眠らされていたが、内戦勃発と共にコミューン軍に奪取された本艦はユリアーネホープ包囲戦及びその後の海上追撃戦に参加。初めて実戦に投入されたものの、自慢の装甲は逃げる相手に意味をなさず、速度の遅さから大半の敵艦を逃し、超火力の砲撃は30年前の旧式艦にすら避けられる始末だった。その後は特に戦場にでることもなく、近代化改修を受けつつ1956年まで連邦海軍に所属していたが、この惨めな戦果から現在ではネットを中心に「木造艦にすら負けた弩級戦艦の恥」などとネタにされている


特殊艦船

水上機動砲台ディスコ

一人用の機動砲台、水上をモーターボートのように駆け巡る、武装はFC機銃一基のみ。
これを艦船と呼んでいいのかは不明だが、とにかく見た目からも分かる通り軽量化を突き詰めた砲台であり、もちろんコストも安い。が、それだけではなく見た目に反して操作が非常に簡単、そのため沿岸警備隊と警察はこれを好んで使っており、水上の警備任務には確実といっていいほど毎回使われる。ちなみに性能はそれほどよくない。


連邦空軍

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(比較的ではあるが)一番まとも。そこそこ数が揃っているが、やはり旧式の機体が多く目立つ。

偵察機

ノードB-23

1917年に航空機メーカーのノード社で開発された偵察・軽爆撃任務用の木造複葉機。
当時にしてはかなりの高性能かつ安価で大量生産ができる我が国最優秀機体であり、列強などにも売り込まれ世界各地の空を飛びまわっていた。終戦後にも配備や購入は相次いだが、時代の流れには勝てず1942年を最後に軍での配備は終了。元々あった在庫は民間に流れ、一部は博物館に保管されている。

ノードB-24



B-24の単純な改良版、変更点は前輪が少し伸びたことで離陸の安定性が向上したことと、TNT投下機構が追加された。

戦闘機

攻撃機

爆撃機

トゥーレL3


1923年にノード社により開発された偵察・戦闘用複葉飛行艇。
ほかの飛行艇と比べるとやや大きめの双翼に、薄っぺらくコンパクトな艇体で構成されており、前方に二基、後部に一基のエンジンが存在する。
後部には武装として機関銃が備え付けられている他、艇体下部には爆弾投下用のハッチが設けられており、これを使い敵を高高度から爆撃するのが設計コンセプト。
しかし実戦での成果はというと、巨大な翼の影響で撃墜率が高い上に、肝心の爆弾が着水時に湿って使用不能になるアクシデントが多発するなど、かなりの問題児だった。
当初は列強に売り込む予定だった本機だが、グレーンランド内戦の勃発により急遽実践投入され、そのポンコツっぷりにものの数年で見限られた。そのため1925年以降はその立場をより安価で優秀なノードB-23シリーズに取って代わられ、ほとんどの機体が倉庫番と化した。

フロギー Mk.1

旧式の軽爆撃機、我が国兵器に共通するところだがやはりその機体サイズが目を見張る。
そして残念ながら性能も見た目通りであり、武装はシンプルなTNT投下機構のみ。
あまり爆撃範囲も広くなく、局所的な運用ならば使えるがいまいちパンチが弱い機体。
が、この後継機が全てを変える大躍進を果たす。ちなみに名前のフロギーは後継機の愛称から逆算して変更された、変更前の名前はオーデンセ。

ポイズンダートフロッグ (フロギー Mk.2)

配備数とコスト、サイズを考慮すると恐らく連邦空軍最強の機体。
見た目はオリジナルのフロギーと全く変わっていないが、注目すべきは武装。
新しい爆撃機構には我が国独自の拡散システムを導入しており、これを用いることでTNTが広範囲に拡散し、爆撃範囲が大幅に広がるメリットがある。集弾性はもちろん落ちるが、それを上回る破壊力を持つ。唯一の欠点が拡散させるためのTNT量が甚大なこと、が、そこは我が国の豊富な資源で補えるため現時点では最も有能な爆撃機。
そのシステムの利便性から形を変えて様々な空軍機に流用されており、その影響力の高さがうかがえる。名前のポイズンダートフロッグ(英語でヤドクガエル)はこの小さい機体から甚大な被害をもたらすところから取られている。


ラジウム重爆撃機

我が国初の重爆撃機。その見た目からも分かる通り、高高度からの絨毯爆撃を主要任務とする。その巨体も相まってかなりの爆撃力を誇り、武装は単純なTNTドロッパーではあるが村を半壊させるぐらいには十分拡散する。また機体後部には乗組員用の居住スペースが存在し、普段は6人程度、最大まで詰め込めば12人以上は余裕で運べる。またその搭載量の多さから輸送機として改造されたものも存在し、本当に一部ではあるが民間にも利用されるバラエティに富んだ一品。欠点としてはやはりその莫大なコストと維持費、そして時代遅れになり始めた性能でろう。とはいえ空軍は新型重爆撃機を時間がかかるとの一点張りで開発しようとしないため、今後しばらくはまだ現役なのだろう。

ヘリコプター

輸送機

バーミウト

オスプレイ型の輸送機。主な任務はヘリでは搭載量が少なすぎるが、飛行機では危険すぎる入り組んだ地形への補給・空挺作戦援護である。機内はかなり広く、両翼に備え付けられているFC機銃の機構を外せばさらにスペースが広がる。


特殊航空機

ピトフーイ無人対地攻撃ドローン

世界でも珍しい毒をもつ鳥、ピトフーイから取られた名前をもつ無人対地攻撃ドローン、ドローンとは言っても機体はかなり大きい。武装は前述のフロギーmk.2に搭載されている拡散爆撃機構、それを四方それぞれに備え付けており、とてつもない破壊力を誇る。これだけでも有用性があるが、最大の特徴は何より無人かつ完全自動であること。マイクラ内では無線や電波という概念は存在しないため、ホッパーを使った時限装置を機体上部に組み込んでいる。これによりタイマーさえセットすればどこでも遠隔で高高度爆撃が可能になるため、現在では積極的に研究・改良がおこなわれているが、欠点としてはコストが莫大なのと前述の通り時限式なため精密爆撃が一切行えないことなどが挙げられる、技術の進歩が待たれる注目の機体である。

オーデンセ無人攻撃機

フロギーの旧名を襲名した我が国初の無人攻撃機。前述のピトフーイにも搭載されている時限型自動操作システムを初めて搭載したのはこいつ、性能は拡散システムを流用してるだけあってまあまあ。破壊力こそピトフーイに劣るが、航続距離は圧倒的に長く遠方爆撃任務に多く利用される。欠点はピトフーイと同じくコスト、それに加えてこの機体は自動操作システム開発段階の試作機だったので、たまに誤作動を起こす致命的な欠陥がある。それでも現在は改良を重ね、我が国の誇る無人機二機の片割れとして各地の監視任務で活躍している。



その他

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鉄道

装甲列車クリスチャニア

特に語ることはない装甲列車。対パルチザンやゲリラを想定しており、先頭車両にはFC機銃が側面にそれぞれ3基ずつ搭載、さらに貨車を挟むように所々対空砲車両や移動ヘリポートなどが備え付けられている。その強固な防御力もあって訓練では優秀な結果を残したが、そもそも我が国は島に籠って防衛するという信念上、パルチザンなど遭遇するはずもない。つまり完全に不要の長物。一応首相要人などの移動に使われる場合もあるが、本来の用途とはかけ離れてしまっている。

蒸気機関車ニヴァーデン


軍備ではないが一応ここに記載。
1890年代から1910年代にかけて、グリーンランド各地で運用されていた旅客および貨物用蒸気機関車。名前の由来はデンマーク語で「新天地」。
当時のグレーンランド王国(ヌ連の前身)は広大な北部を開拓するための入植者を募っており、その方針の一環として鉄道の建設を推し進めていた。しかし、元々島国で鉄道建設のノウハウがなかったのに加え、北部の劣悪な地形と気候のため計画は難航。機関車そのものも南部でちらほらと使われていた旧式車両では急勾配や猛吹雪に対応できず、全く使い物にならなかった。そこで1890年にグレーンランド王有鉄道によって開発されたのがこのニィヴァーデン号。海外の技術を多く取り入れたこの車両は寒さや雪に強く、北部の悪地形でも難なく走ることができたため、この車両の走る北部鉄道路線は利用者が殺到。数年前にトゥーレ近郊で金山が見つかっていたこともあり、この車両の開発を皮切りに北部開拓時代が本格的に始まった。
全盛期の1900年代には南部でも運用され始め、「この島にニィヴァーデンが走らない鉄道はない」と言われるほどの人気っぷりだった。
しかし、北部開拓時代が終わりを迎えるとともに鉄道需要も減っていき、1920年代には旧式化したこともあり形式上は引退。だが、一部の地域では金銭的に新型車両に交換する余裕がないため、そのままニィヴァーデンが運用されていた場所もあり、結局最後のニィヴァーデンが運航を停止したのは1950年代になってからだった。

貨物蒸気機関車GKJ200


上記のニヴァーデンでは馬力の足りない大量貨物輸送や急勾配などに対応するために作られた貨物特化の蒸気機関車。




外交窓口

  • 大日本王国の者です。よければ同盟結びませんか。 -- Hiro大佐 (2021-12-05 10:50:23)
  • 通商同盟からなら、いいですよ〜 -- matutake (2021-12-05 11:15:33)
  • 我が国は食料自給率が崩壊してるので、そちらの豊富な食糧を輸入できると助かります -- matutake (2021-12-05 11:16:19)
  • 了解です。後、Discordやってますか。 -- Hiro大佐 (2021-12-05 11:56:52)
  • やっております -- matutake (2021-12-05 20:41:49)
  • そちらの方ではsalmonという名前で活動しております -- matutake (2021-12-06 00:56:09)
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最終更新:2024年10月07日 16:20