仏連=celto戦争

仏連=celto戦争


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仏連=celto戦争(フランス連邦=セントラル自由主義条約機構戦争、英:French Commonwealth of Nations-Central Liberal Treaty Organization War、統一暦155年 - 統一暦156年)は、カナダ〜大西洋地域を中心とする両機構間の戦争である。主要国のひとつ、スィヴェールヌィ諸島共和国(通称北連)がフランスの侵攻によって滅亡したことから、北連最終戦争とも呼ばれる。
仏連=celto戦争
        



        目次[非表示]
 1. 概要
 2. 背景
 3. 開戦
 4. 開戦後の経緯
  4-1. コルシカの悲劇とカナダ戦線
  4-2. ネルソン川の戦いとバルバドス島沖開戦
  4-3. 第一次ラブラドル海海戦
  4-4. チャーチル川の戦い~ブラッデン湖畔防衛戦~
  4-5. カナダ空戦とパタゴニア戦線
  4-6. パタゴニア大炎上
  4-7. 冬季攻勢とガリアの登場
  4-8. 防衛戦の崩壊
  4-9. 第二次ラブラドル海海戦
  4-10. 北連上陸作戦、ヴォルゴグラードの戦い
  4-11. トゥーラの戦い、ペトルツィエ防衛戦
  4-12. モスクワ遷都とカナダ戦線の再開
  4-13. ペトルツィエの降伏とイレイヤフ包囲戦
  4-14. イレイヤフ市街戦
  4-15. 北連脱出作戦の始動
  4-16. アルビアト地区の激戦
  4-17. アルビアト地区の陥落と北連脱出作戦の決行
  4-18. イレイヤフの降伏と北連の停電
  4-19. 北大西洋海戦とヴォールナの最期
 5. 終戦と講和
  5-1. アムステルダム和平交渉
  5-2. アムステルダム条約の調印
 6. 影響
 7. 関連項目
 8. 参考文献
第二次ラブラドル海海戦
パリ講和会議
戦争:仏連=celto戦争戦争
年月日:統一暦155年8月 - 統一暦156年6月
場所:カナダ、パタゴニア、大西洋
結果:仏連の勝利、北連の滅亡
交戦勢力
フランス帝国(帝政シェラルド)
スティーブ=クラフアリア同盟連邦
エルドランド立憲王国
イットリカン民主主義国
指導者・指揮官
アレクサンドル1世
スティーブ大統領
n
提督

 概要

仏連がceltoを攻撃する形で始まった本戦争だが、背景にはフランスの「全機構と戦ってみたい」という野望があったと言われる(?)勝利したフランスだが、手にした北連諸島は脱出作戦の経緯にて原発が停止され、死の大地となってしまっていた。
継承戦争時にcelto影響下に置かれていたコルシカ島の奪還のため侵攻したフランスは、配下の機構フランス連邦を率いceltoとの全面戦争に突入した。橋頭保となる北米エルドランド領からイットリカンへ侵攻した仏連軍はカナダに重厚な防衛戦を敷いていたイットリカン軍や援軍アラスカ軍などをを少しずつ押し上げていき、冬季の奇襲攻撃と巨大戦艦ガリアの対地砲撃によって戦線を突破した。海上ではクラフタリアからの亡命海軍将校モンタルバン提督を司令官に据えた仏連海軍が世界最強と謳われるcelto海軍相手に一進一退の攻防を繰り広げ、遂に第二次ラブラドル海海戦にて決定的勝利を掴んだ。背景にはフランスによってけしかけられたクラフタリア南部のテロ国家パタゴニア頭脳王国による都市や港湾へのテロ攻撃によるクラフタリアの出遅れがあったが、ヴァルキア、クラフティンらも加わった報復攻撃によってパタゴニア本土は大炎上とも呼ばれる被害を受けた。
制海権を握った仏連軍はイットリカン首都イレイヤフに突入、同時に北連上陸作戦を開始した。かつてレグルス帝国をはじめ、多くの上陸をその劣悪な気候と地形と防衛線とで跳ね返してきた北連だが、仏連軍のダリュイ元帥は都市への難民流し込み作戦によって機能を麻痺させ勝利した。また熾烈なイレイヤフ市街戦を被害を出しつつも制したが、背後で進行していた北連脱出作戦が決行されると、クラフタリアの巨大空母ファーランドによって残存北連人が強行輸送されだした。
阻止せんとした仏連海軍の猛攻を北連総旗艦ヴォールナの身を挺した足止めで凌ぎきると、主要人口を退避させた北連はインフラの要である原発を停止させた。これにより占領地の維持と捕虜や難民の保障に甚大なコストを要するようになった仏連は講和に同調するに至った。
仲裁国ヴァルキアの首都アムステルダムにて講和条約が締結され、仏連の勝利で幕を閉じた。
画像の説明

 背景

仏連=OFC戦争にてOFCを下し、FAMOTにも優位に立ったフランス連邦は、遂に宿敵celtoとの対決へ臨んだ。第二次低地戦争、フランス継承戦争と辛酸を舐めさせられ、国内の共和主義者の撲滅、コルシカ島の奪還、なにより皇太子爆殺の復讐と、理由をあげれば枚挙にいとまがなかった。フランスは対FAMOT戦争におけるグリーンランド上陸演習作戦や連邦構成国エルドランドとの合同演習などで練度を上げ、またcelto諸国への海賊行為で挑発した。
一方でceltoとしては長年の宿敵OFCを下したフランス連邦はいまや最大の脅威であり、ガリア級を始めとしたフランス連邦海軍戦力の増強によって海上の優勢も絶対ではなくなっていた。そのためクラフタリア、イットリカンを中心に陸空軍の増強が図られ、フランス連邦との決戦が避けられないことを覚悟していた。
統一暦000年、フランス連邦軍は続々とエルドランドに集結を開始した。同時にコロンビアやパタゴニア頭脳王国でも動員が始まり、フランス連邦の侵攻が近いことを察したcelto諸国は、抗議を行いつつ対抗して戦時体制へ移行する準備を始めようとした。しかし民主主義、自由経済陣営であるが故に、国民の一部は開戦に反対し、初動で遅れを取った。
前仏皇帝がお尻を撃たれ死去したことで仏継承戦争が起こった。

 開戦

コルシカ問題とアムステルダム会談

000年、フランスは大軍をエルドランド領内に展開した状態で、コルシカ問題を取り上げた。フランスは「celto占領下の」コルシカの返還を要求したが、celto側はコルシカは主権国家であり占領下ではないと拒絶した。緊張が高まる中、両陣営と関係の深いヴァルキア王国がCELTOが勝てば北海協商の白紙化、フランスが勝てば事実上対立しているパタゴニア陣営が調子づくことへの危機感から、嫌々ながら仲裁に乗り出し、アムステルダムで会談が開かれた。しかし纏まるはずもなく、それどころかフランス代表ドルバーニャは頑なにフランス語しか話そうとせず、celto側代表も母国語しか話さなかったため意思の疎通さえできていなかったとも言われる。そして、会談中にもフランスの攻勢はエスカレート。コルシカを海上封鎖し、遂に陸軍部隊を上陸させた。これをceltoは侵略行為と断定し、会談を打ち切り宣戦布告を行った。フランス側もコルシカ島住民の反撃をcelto軍の攻撃とし、宣戦布告。ここに仏連=celto戦争が開戦した。
エルドランド領内に続々と大砲を運び込む仏軍

 開戦後の経緯

コルシカの悲劇とカナダ戦線

コルシカ島での戦いはコルシカ軍と駐留celto軍とが共闘し、剣俊な地形も併せよく抵抗し、フランス軍を苦戦させた。しかし戦力の劣勢はいかんともしがたく、また元フランス領とは思えないほど容赦のない戦艦の砲撃や空爆により防衛陣地は攻略されていき、首都アジャクシオも陥落した。コルシカ共和国政府はボルト=ベッキオに遷都し抵抗を続けた。コルシカ共和国は劣勢となる中で次第に民主勢力、コルシカを独立王国としたい王党派や元貴族、また社会主義者などの間で内紛が発生し、組織的抵抗が失われた。その中でコルシカ議会はcelto駐留軍へ感謝と撤退の要請を伝えた。もはや臨時首都も風前の灯火であり、駐留軍はプラティエはじめ要人と共に航空機でコルシカを脱出。程なくして臨時首都も陥落し、コルシカ全島がフランス軍の下に占領された。
フランス軍はコルシカ島民を反乱勢力とみなし、本土の民主派勢力への見せしめとして苛烈な占領政策を行った。破壊や略奪、共和主義者と分かれば暴行や銃殺されることもあった。コルシカ攻略を任されたフランス第6軍司令官ウダンクール元帥は共和主義者の財産没収を命じ、共和国政府から派遣された各市長や有力者は捕らえられると銃殺刑に処された。こうした有様はcelto人従軍記者によって広く伝えられ、瞬く間に世界中に広がった。とりわけアジャクシオの破壊は凄まじく、反乱の象徴とされた市はあらゆる略奪が行われた後にその名を皇帝アレクサンドルによって""アレクサンドリア""と改められた。こうした蛮行を知ったcelto本国の国民は恐怖し、なにより憤った。ようやく戦争への支持は確かなものとなり、celto諸国はフランス連邦との全面戦争、そして現在前線となっているイットリカンへの支援に総力を挙げることとなった。
一方カナダ戦線では、仏連軍とイットリカン軍との熾烈な戦いが繰り広げられていた。celto内でもタカ派で専制を目の敵にしているイットリカンは早々に大軍を結集し、仏連軍の侵攻に備えていた。オールバニー川を越えた仏連軍はアキミスキ島の砲台の北連軍を攻撃した。北連軍は内湾に戦艦を配置し、砲撃で仏連軍や橋を砲撃し足止めしたが、嵐の夜にフランス工兵が架橋を強行し、夜襲をかけると砲台は陥落した。北連戦艦は内湾から撤退せざるを得ず、仏連軍はオンタリオ地域における進軍の安全を確保した。
コルシカ共和政府に協力した市民は弾圧された
 

ネルソン川の戦いとバルバドス島沖開戦

コルシカ島での戦いはコルシカ軍と駐留celto軍とが共闘し、剣俊な地形も併せよく抵抗し、フランス軍を苦戦させた。しかし戦力の劣勢はいかんともしがたく、また元フランス領とは思えないほど容赦のない戦艦の砲撃や空爆により防衛陣地は攻略されていき、首都アジャクシオも陥落した。コルシカ共和国政府はボルト=ベッキオに遷都し抵抗を続けた。コルシカ共和国は劣勢となる中で次第に民主勢力、コルシカを独立王国としたい王党派や元貴族、また社会主義者などの間で内紛が発生し、組織的抵抗が失われた。その中でコルシカ議会はcelto駐留軍へ感謝と撤退の要請を伝えた。もはや臨時首都も風前の灯火であり、駐留軍はプラティエはじめ要人と共に航空機でコルシカを脱出。程なくして臨時首都も陥落し、コルシカ全島がフランス軍の下に占領された。
フランス軍はコルシカ島民を反乱勢力とみなし、本土の民主派勢力への見せしめとして苛烈な占領政策を行った。破壊や略奪、共和主義者と分かれば暴行や銃殺されることもあった。コルシカ攻略を任されたフランス第6軍司令官ウダンクール元帥は共和主義者の財産没収を命じ、共和国政府から派遣された各市長や有力者は捕らえられると銃殺刑に処された。こうした有様はcelto人従軍記者によって広く伝えられ、瞬く間に世界中に広がった。とりわけアジャクシオの破壊は凄まじく、反乱の象徴とされた市はあらゆる略奪が行われた後にその名を皇帝アレクサンドルによって""アレクサンドリア""と改められた。こうした蛮行を知ったcelto本国の国民は恐怖し、なにより憤った。ようやく戦争への支持は確かなものとなり、celto諸国はフランス連邦との全面戦争、そして現在前線となっているイットリカンへの支援に総力を挙げることとなった。
一方カナダ戦線では、仏連軍とイットリカン軍との熾烈な戦いが繰り広げられていた。celto内でもタカ派で専制を目の敵にしているイットリカンは早々に大軍を結集し、仏連軍の侵攻に備えていた。オールバニー川を越えた仏連軍はアキミスキ島の砲台の北連軍を攻撃した。北連軍は内湾に戦艦を配置し、砲撃で仏連軍や橋を砲撃し足止めしたが、嵐の夜にフランス工兵が架橋を強行し、夜襲をかけると砲台は陥落した。北連戦艦は内湾から撤退せざるを得ず、仏連軍はオンタリオ地域における進軍の安全を確保した。
前線を視察するフランス皇帝
 

第一次ラブラドル海海戦

翌月にはブランシア提督の地中海艦隊が大西洋艦隊に合流し、仏連海軍は総力で大西洋の制海権奪取へ向け出撃した。この頃ラブラドル海~エルドランド=北連海峡では、北連とイットリカンの海軍の他celto艦隊への合流を妨害するために、仏連海軍の小型艇や潜水艦、機雷の敷設といった作戦が行われていた。封鎖は決して完全ではなかったが、彼らは艦隊行動は阻害されたため、仕方なくハドソン湾に艦隊を展開し、沿岸襲撃や対地攻撃に勤しんでいた。これが地味に仏連軍を悩ませていたため、仏連は北大西洋~ハドソン湾にかけてのcelto海軍の撃滅を狙った。
ハリファックスを出港した仏連艦隊は、フランスのシャルルマーニュ級やエルドランドのスピリット級といった大型戦艦を中心とした艦隊であった。対抗して北連のヴォールナ級などが出撃し、ラブラドル海で迎え撃った。北連=イットリ艦隊は有利な隊列で戦闘に入ることができたが、前哨戦として妨害海域の突破戦があったため消耗があった。フランス戦艦を数隻撃破する戦果を上げたものの、次第に劣勢に。途中仏連旗艦シャルルマーニュと北連旗艦ヴォールナとの一騎打ちが発生し、壮絶な打ち合いの末紙一重でシャルルマーニュがヴォールナを撤退に追い込んだ。旗艦の喪失で指揮の乱れた艦隊は危機に陥った。
このピンチに間一髪、クラフタリア、クラフティン艦艇からなる機動艦隊が援軍に到着した。これは艦隊の一部であり、ファーランドと少数の高速護衛艦隊であった。突然の大空襲に仏連艦隊は大慌て。対艦攻撃でいくつかの艦艇を喪失すると、ハリファックスへ撤退した。celto海軍は勝利を収めた。もとより援軍は想定していた仏連艦隊だが、航行速度から各個撃破は充分に間に合う計算だった。しかしファーランドはネザー旗艦を過剰稼働させ、限界を超えた速度で随伴可能な護衛艦のみを連れやってきたのだった。とはいえ単艦でも充分な航空戦力を持ち、仏連艦隊に経戦を諦めさせるには充分だった。ただし限界突破のツケは大きく、旗艦が故障してしまったファーランドは大艦隊に曳航されクラフタリアの専用ドックへ帰還した。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。ミサイル攻撃を行うファーランド
 

チャーチル川の戦い~ブラッデン湖畔防衛戦~

首都が国境すぐにあるイットリカンにとって、チャーチル川は最終防衛線のようなものだった。ネルソン川の戦いの間にも工事は進み、強固な防衛線が構築されていた。前線に到着し、これを視察したアレクサンドル帝は攻略に必要な犠牲を想定し顔をしかめたという。かくして激戦チャーチル川の戦いが始まった。仏連軍の攻勢はイットリカン兵を着実に削ったものの、兵数では仏連軍をも凌ぐイットリカン軍は直ぐに傷を塞ぎ、仏連軍はいたずらに消耗を重ねた。業を煮やしたアレクサンドル帝は、自ら兵を率いわずかに薄いブラッデン湖畔へ大攻勢をしかけた。あまりの火力にイットリカン軍は耐え切れず防衛線を崩し、突破を許してしまう。対岸に橋頭保を築いたが、直ぐに予備軍の猛攻撃に遭い川へ叩き落されてしまった。アレクサンドル帝はびしょぬれになりながら口惜しさに敵軍を睨みつけると、そこにはショートパンツ旗が翻っていた。アラスカ軍が前線に本格到着した。
本陣へ戻ったびしょぬれのアレクサンドル帝は、しかし同地への再攻勢を命令した。正面の戦力はアラスカ軍によって厚くなっていたが、やはり異なる軍の境目は弱点であり、連携の不備を狙った。第7軍、第5軍を中心とした第二次攻勢が始まった。激戦の節目は突然に訪れた。アラスカ軍は前線で司教が聖ショーパン旗を振り回し味方を鼓舞していたが、フランス第33師団のドイツ人選抜歩兵が狙撃によってこの旗を撃ち抜いた。ショックを受けたアラスカ兵はパニックに陥り、この隙を逃さず第7軍は総攻撃。キトレッジ師団が一角を切り崩し再び橋頭保を築くとそこからベルナール将軍の騎兵軍団が突撃しさらに傷を広げた。イットリカン軍はなんとかアラスカ軍を支援しながら戦線を下げ、仏連軍はブラッデン湖まで左翼の戦線を押し上げた。アレクサンドル帝はこの戦果を喜び、さらに浸透し片翼包囲を狙ったが、この年は例年より早く降雪が確認された。カナダの冬は嵐のように訪れるとエルドランド将軍が忠言し、止む無く攻勢は停止された。最終的に仏連軍はマック湖~チャーチル川の戦線で冬営に入り、冬季休戦状態となった。
画像の説明
 

カナダ空戦とパタゴニア戦線

冬の間も戦争は続く。積雪と海峡の凍結によって陸海軍の活動が縮小され、その余力もあって空軍の衝突は活性化していた。カナダ空域では仏連とceltoの様々な航空機が飛び交い、激戦を繰り広げた。戦況はやや仏連空軍優勢といった程度で一進一退が続いており、カナダ諸国の都市は爆撃にも曝された。しかし北連は殆どのインフラが地下にあり爆撃の被害は殆ど無く、エルドランドは一方的に消耗した。
仏連は冬季休戦の間にクラフタリアやクラフティンなどの南米勢の援軍がカナダ戦線に加わることを嫌い、これの妨害を先兵のパタゴニアにやらせることにした。ある冬晴れの日、クラフタリア首都セントラルシティと南部リオ・ガレゴス市で大規模なテロが発生した。国内が混乱する中、パタゴニア軍は聖戦を称し国境を突破、クラフタリア領へ侵攻した。パニックを起こしたリオ・ガレゴス市民はこぞって市を脱出し、国道で北上しようとしたため大渋滞が発生、クラフタリア軍は展開が遅れてしまった。市に突入したパタゴニア軍だが、その兵士はレグルス軍残党やゴロツキ、犯罪者などの集団であり、規律もなにもなく暴れまわった。市に残された弱者は略奪に遭い、殺された。勢いづいたパタゴニア軍首脳はマイラの資金で開発したミサイルをさらにセントラルシティに打ち込むべくリオ・ガレゴスに運び込もうとした。しかし、輸送車は突然ミサイル攻撃を受け木端微塵に。これは南米で警戒監視していたヴァルキア潜水艦と偶然倉国に寄港していた艦隊からの攻撃によるものだった。南米に展開していたヴァルキア工作員の手助けもあり侵攻は食い止められ、クラフタリア、クラフティン軍が到着した。彼らはパタゴニア軍と交戦したが、先述のとおり練度は低く、次々と撃破した。次第にリオ・ガレゴスで暴れていたパタゴニア兵は次々と投降し、戦時国際法に基づく捕虜としての扱いを要求したが、クラフタリアにとっては只のテロリストであったため、あっけなく銃殺されていった。
しかし、海戦においては、クラフタリア海軍はパタゴニア主力艦艇をつぶすことにこそ成功したものの、数隻の取り逃したミサイル艇が港湾攻撃に成功し、後の艦隊行動に支障をきたす事態となってしまった。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。冬季休戦中も上空では空戦が続いていた
 

パタゴニア大炎上

)ヴァルキアはこの際にパタゴニア解体を目論み、クラフタリア=クラフティン連合軍へ援軍を送り侵攻の準備を整えていたが、ここで待ったがかかってしまった。フランスはヴァルキア軍のパタゴニア本土攻撃は両国の開戦に繋がると脅しをかけ、舞羅帝国もまた参戦をチラつかせた。仏連との総力戦の最中に敵を増やすわけにもいかず、陸軍による侵攻は中止された。クラクラ連合軍は、代わって空軍や海軍艦艇からのミサイル攻撃が行われることとなり、どうせならと徹底的な出撃が決定した。またヴァルキア軍も敵対するマイラへの間接的な嫌がらせを目論み通商破壊に精を出した。
後にパタゴニア大炎上とも呼ばれる徹底的な空襲は、文字通りパタゴニアを徹底的に焼き尽くした。クラフタリア=クラフティン空軍の全力出撃による報復空爆はひと月に渡って続き、ヴァルキア艦隊と航空機からのミサイルと爆弾の嵐は主要施設を破壊し尽くした。パタゴニアはぺんぺん草も生えない有様であり、経戦能力は失われた。民間人にも犠牲者が出ており、フランスはこれを抗議したが、お前が言うな状態であり、パタゴニア王国も国際的にはテロリスト集団程度にしか認識されていないためスルーされた。
さて同時に外交交渉はとりあえず続けられており、アムステルダムではパタゴニアのテロ行為についてcelto代表が仏連代表を非難し、仏連代表はトゥナンが勝手にやったことと我関せず。逆にパタゴニア大炎上について非難するという無為な応酬を繰り広げていた。仕方がないのでヴァルキア国王ヨーゼフは彼らをアムステルダム美術館に案内し、そこではほのぼのとした芸術鑑賞会が開かれた。ほのぼのとしていなかったのでヨーゼフは胃痛になってしまった。
パタゴニア軍の侵攻を阻止した刃国戦艦フリングホルニ号
 

冬季攻勢とガリアの登場

"この日も降雪は続き、視界の優れない中でイットリカン軍の歩哨くんは退屈していた。春の泥濘を勘案すれば五月までは本格的な攻勢は見込めず、チャーチル川防衛線には弛緩した空気が蔓延していた。仏連軍の冬季大攻勢は、こうした隙を衝いたものだった。奇襲的に始まった大攻勢はcelto連合軍にとって完全に想定外であり、対応は後手に後手を重ねた。仏連軍は突出したブラッデン湖畔の前線に精鋭中の精鋭を集結させ、悪天候の中とは思えない組織的な攻撃で防衛線を突破し浸透していった。彼らはフランス最強の古参近衛兵やスイス人近衛兵、冬に慣れているエルドランド人選抜兵やロシア遠征を生き残った選抜兵からなっており、雪の中では使い物にならない機甲戦力や火砲も伴わない歩兵火力のみによる浸透だった。歩兵戦に精通したフランスならではの作戦であり、チャーチル川防衛線の左翼はみるみる崩壊していった。
イットリカン参謀本部がこの攻勢を知らされたときにはかなり戦線は危険な状態となっていた。しかし彼らも意地を見せた。幸運にもイットリカンの精鋭部隊は休養のため冬の間予備として後方におり、これをロフトハウス湖沼群地帯に展開しなんとか攻勢を止めようとした。この試みは成功し、仏連軍攻勢部隊の快進撃は食い止められた。しかしエルドランド近衛兵はさらに北上を続けており、これの対処のためイットリカン予備軍の戦線も北へ伸びていった。止む無く参謀本部は戦線の整理のためチャーチル川防衛線の部隊を少しずつ右翼側へと移動させていったが、ここで悪夢のような仏連軍の攻撃が炸裂した。
突如としてハドソン湾に巨大な影が舞い降りた。フランスの巨大戦艦ガリアだった。悪天候により空軍の発見、対処が遅れている隙に、エルドランド上空を飛行しやってきた怪物は、チャーチル川防衛線の中央へ向け主砲の900mm波動砲を発射。強固な要塞は消し炭となり、移動中の部隊に甚大な被害を与えた。さらにこれによって部隊間の連携が寸断され、連絡も混乱。これに合わせ仏連軍は一斉攻勢をかけた。砲撃に伴い殆どのエネルギーを使い果たしたガリアは戦闘不能となり、撤退を開始した。これに気づいたイットリカン空中艦隊は出撃し、さらに完成したばかりの秘密兵器デモクラシー級戦艦も急いで出撃したが、尻尾を巻いて飛び去ったガリアを補足できず、エルドランド領内へ逃げ去った。なお主砲の発射には内臓エネルギーの殆どに加え、聖遺物を文字通り「消費」するため、たった一発撃つだけで無力化する上に非難轟々の教会への莫大なお布施を強いられる諸刃の剣である。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。仏の切り札、ガリア級戦艦
 

防衛戦の崩壊

"仏連軍の奇襲によって防衛線は崩壊し、celto軍は潰走していた。最北を突き進むエルドランド近衛兵は先んじて北の川(名称不詳)へ到達し、多くのcelto兵の渡河を阻止した。さらに積雪によりcelto連合軍は装備の放棄も余儀なくされた。冬季大攻勢における仏連軍の快進撃はイットリカン本土へと到達した。首都は目前である。
しかし、雪の中を突き進んだ仏連軍にとっては攻勢限界でもあった。首都イレイヤフはコルマンド川の対岸であり、大都市だった。補給もせず突進し続けていたため、止む無く仏連軍は攻勢を停止、春を待つこととなる。また、この冬季大攻勢での仏連軍の無茶は相当なもので、かなりの消耗が必要だった。フランス本土での徴税や挑発、徴兵は苛烈なものとなり、更なる経戦には専制のフランスといえども、納得が必要だった。そのため仏連軍はその攻撃目標を北連へとシフトさせていくこととなる。大義名分は""シャルル皇太子の復讐""だ。
イットリカン軍の消耗はそれ以上だった。多くの兵や装備を失い、このままでは経戦は困難である。しかし民主主義の尖兵たる自負を持つイットリカン人は祖国の危機に立ち上がり、こぞって兵役を志願した。さらに再び訪れた休戦期間にcelto諸国はイットリカンへレンドリースを行い、最後の防衛線であるコルマンド川で仏連軍の春季攻勢を食い止めるべく総力を挙げていた。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。防衛戦での戦死者
 

第二次ラブラドル海海戦

"春になり、ラブラドル海の流氷も落ち着きを見せた頃、仏連軍は北連攻撃のために再びラブラドル海へ出撃した。これはフランス海軍の全力出撃であり、仏連連合空軍も総出で支援した。celto連合艦隊も集結し、統一暦2世紀最大の海戦とも呼ばれる第二次ラブラドル海海戦が始まった。
両艦隊とも戦艦、空母問わず大量に繰り出し、シャルルマーニュ級やサン=ルイ級空母、カナダ級やラブクラフト級戦艦等、両陣営名だたる艦艇が名を連ねた。しかし、ヴォールナ級やファーランド級は修理中で出撃できず。要のラブクラフト級戦艦も部品工場がパタゴニアのテロで破壊されていたこと、港湾攻撃で港が使用不能だったことが致命的で、1隻の出撃にとどまった。代わって主力として出撃したのが、無事完成し配備が完了したイットリカン海軍の巨大戦艦デモクラシー級だった。両艦隊は海域狭しと巨大砲弾を打ち合い、従軍記者たちは「怪獣大決戦」だの「ラグナロク」だのと書き残し、この世のものとは思えない戦闘を伝えた。celto艦隊は奮戦し、開始早々突出してしまったシャルルマーニュ級三番艦は、デモクラシー級二隻の集中砲火を受けてあっけなく撃沈してしまった。その後も総出撃したシャルルマーニュ級4隻のうち3隻が撃破されるほどだった。一方でフランスの戦艦""エリック1世""はその砲撃で北連の戦艦""パリディスカヤ・コンムナ""を撃破し、続けてクラフタリアの戦艦カミロ・シエンフェゴスも討ち取りパリと息子の敵討ちを果たした。
celto艦隊は仏連艦隊の主力艦を着実に削っていったが、そのあまりフランス海軍の本当の脅威を見落としてしまった。フランスの無数のミサイル巡洋艦やミサイル駆逐艦、潜水艦などの補助艦戦力はミサイルの総攻撃で地道にcelto艦隊にダメージを重ねていた。気が付けばcelto艦隊は甚大な被害を受けており、遂に音を上げた。地上最弱とも謳われたフランス海軍は遂に地上最強に艦隊決戦で完全勝利したのである。第二次ラブラドル海海戦は仏連艦隊が勝者となった。この報道には前線のアレクサンドル帝だけでなく、老若男女問わず全てのフランス人が涙を流し歓喜し、祝杯を上げ、翌朝までフランス海軍とデ・モンタルバン、ブランシア両提督を湛える万歳が止まなかったという。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。パリディスカヤ=コンムナ号の炎上
 

北連上陸作戦、ヴォルゴグラードの戦い、

"ラブラドル海海戦を制し、制海権を握った仏連軍は、遂に北連上陸作戦を決行した。相手は難航不落の北連だが、フランスは先のグリーンランド上陸演習作戦やイットリカン戦線で経験を積んだ。北連方面軍総司令官はダリュイ元帥。目標はレニングラード市に定められた。損傷したシャルルマーニュから総旗艦を引き継いだ戦艦グランド・フランソワーズ以下艦隊からの支援攻撃で防御陣地を制圧し、仏連軍は続々と北連本土へ上陸した。場所は奇しくもかつてフランス海賊が襲撃し、スシ戦争の引き金となった海岸と同じ場所だった。
既にカナダ戦線への派兵、そして冬季大攻勢での損害によって消耗していた北連軍は、早々に郷土防衛隊も動員し徹底抗戦の構えを見せた。レニングラードは包囲戦の中で熾烈な市街戦に民間人まで参加し抵抗したが、海沿いのこの都市は仏連艦隊からの容赦ない砲撃に曝され、陥落した。仏連軍はキエフ、イカルイトと攻略し、ヴォルゴグラードでは戦力を結集させた北連軍との決戦が発生した。北連軍は得意の地形を生かした防衛戦と撤退時のインフラ破壊で次の冬まで凌ごうとしたが、海上から補給を受けられる仏連軍は容赦ない攻撃を加え、特に北連の地形を苦としないスイス人部隊やエルドランド選抜兵はグリーンランドやカナダ戦線でも鍛えられており、北連軍の防御陣地を攻略していった。劣勢となった北連軍は後方トゥーラへ後退。ここは低地戦争時にエルドランド軍を撃退した鉄壁の防御陣地があった。首都ペルトツィエや主要軍港バイロト泊地を守る最終防衛線でもあり、北連軍はあらゆる占領を結集させ排水の陣の覚悟で迎え撃った。
かつてレグルス軍やエルドランド軍を苦しめ、退却に追い込んだものは寒さだけでなく、占領地のパルチザンの活躍もあった。彼らは平時から鍛えられており、経験も積んでいたパルチザンのプロフェッショナルだ。彼らはこれまでのようにトラップ、奇襲、暗殺とあらゆる手段でフランス兵を殺害し、捕虜とした者は市民に売り渡され酷い拷問を受け殺された。しかし、今回の仏連軍はこれまでの敵軍と違い、戦力にも補給にも余力があったため徹底的な報復を行った。パルチザンの犠牲となったフランス兵1人につき北連市民10人が殺害されたとされ、潜伏していると思われる地区には容赦ない砲撃が加えられ、都市は破壊された。このような破壊を伴う報復はかつての敵は現地インフラに依存せざるをえないため行わなかった。家を失い発生した難民はトゥーラやペトルツィエになだれ込んだ。北連には他に住める場所が無かったためだ。
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トゥーラの戦い、ペトルツィエ防衛戦

想定外の難民の大量襲来によってトゥーラ防衛軍の補給は逼迫していた。それでも勇敢に戦う北連兵と強固な防衛陣地は仏連軍の攻勢を一度は跳ね返した。しかしその間に仏連軍は即背面まで進軍し、トゥーラを包囲した。昼夜問わずの砲爆撃が降り注ぎ、補給が完全に立たれたトゥーラは、ただでさえ備蓄の乏しく、生産手段も限られる食料品から不足していき、次第に抵抗は弱まった。しかしある日、突如ペトルツィエ市へ至る国道が包囲から外れた。トゥーラの軍の余力を使えば脱出は可能である。ペトルツィエの軍と合流し、立てこもれば冬まで持つかもしれない…焦燥したトゥーラの市民や兵卒たちはそう考えた。しかし参謀本部にとっては、これが仏連軍が意図的に用意した、地獄への切符であることを見通した。既にペトルツィエも難民で供給が逼迫しており、ここでトゥーラからの兵士や市民を受け入れれば、パンクするのは目に見えていた。トゥーラの軍上層部は説得にあたったが、市民の撤退要請が暴動寸前まで激化し、止む無く嵐の夜に脱出作戦を行った。当然仏連軍は見て見ぬふりをし、無事にペトルツィエへ撤退が完了した。地下都市ペトルツィエは道という道にまで難民で溢れかえり、兵士への配給も日に日に減っていった。
仏連軍はペトルツィエを包囲し、トゥーラも占領を目指し一斉攻勢をかけた。殿に残ったわずかな北連軍は玉砕覚悟で抵抗し、最後まで仏連軍を苦しめ消耗させた。さらに最期には突入した仏連軍兵士を自爆によって道連れにした。こうした抵抗は敵であるダリュイ元帥をして「祖国のため最後まで戦う、勇敢な兵士達だった」と言わしめた。トゥーラは陥落した。
ペトルツィエ包囲戦が始まった。しかし攻撃は一切せず、むしろ捕虜を解放し、市に入るよう促す程だった。目減りしていく備蓄にペトルツィエが憔悴していく一方で、仏連軍陣地では本土からわざわざシェフを連れてきて美味しい料理を振る舞った。これは捕虜たちにも食べさせた上で解放させ、ペトルツィエへ送り返した。ダリュイはペトルツィエは放置し、デボン島、エルズミール島の攻略を目指し仏連軍を動かした。
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モスクワ遷都とカナダ戦線の再開

仏連軍のデボン島、エルズミール島への上陸作戦が始まった。島民や郷土防衛隊の兵士たちはバフィン本島の惨状を知り、なんとしても上陸を阻止せんと沿岸へ繰り出した。そこにアラスカ軍を中心としたcelto諸国の援軍が加わり、必死に抵抗した。またcelto空軍が立て直し、ペトルツィエへの空輸も目指した全力出撃を行った。これによって仏連空軍に対し航空優勢を得ると上陸作戦は難航し、第一次デボン島上陸作戦を失敗に追い込んだ。しかし、仏連軍が北連自慢の対空陣地を修理し我が物とすると、これがcelto空軍へ牙を剥いた。首都の防空機能は伊達ではなく、仏連空軍は航空優勢を取り戻し、第二次上陸作戦をアシストした。ダリュイ自ら前線に赴き指揮を執り行われた上陸作戦はなんとか上陸地点の確保に成功し、バイロトで鹵獲した北連のミサイルも余すところなく防衛陣地に打ち込んでこれを突破した。仏連軍は続々とデボン島へ上陸し島を占領した。celto連合軍はエルズミール島へ後退した。
カナダ戦線では雪解け水の泥濘もなくなり、ようやく仏連軍の攻勢が再開した。アレクサンドル帝も冬の間はフランスに帰り内政や戦争への理解を求める政務に励んでいたが、攻勢再開に伴い前線へ帰還した。攻撃目標であるイットリカン首都イレイヤフはコルマンド川の三角地帯に築かれた都市であり、天然の要害に守られおり、また川沿いにはレンドリースで戦力を立て直したイットリカンやアラスカ軍の防衛線が築かれていた。一方で仏連軍もエルドランドや占領したイットリカンの工業地帯で生産した兵器や仏連全体でさらに徴兵した兵士によって戦力を増強し、攻勢に備えていた。仏連軍は中島を目標に激しい準備砲撃と選抜兵の突撃を行い、三度目の攻勢でこれを占領した。この島に築かれた仏連軍の砲兵陣地は即席のものとしては今戦争最大規模のものであり、対岸の防衛陣地を二方向から苛烈に砲撃した。
こうして仏連軍の目がカナダ戦線に向いている間に、ペトルツィエの北連首脳は西部モスクワ市への脱出と遷都を試みた。夜間に隠し地下水路からこっそり潜水艦で脱出し、無事モスクワへの首脳部と首都機能の脱出に成功した北連はモスクワを臨時首都に定めた。
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ペトルツィエの降伏とイレイヤフ包囲戦

モスクワ遷都を知ったペトルツィエに残された人々はショックを受け、パニックを起こすものもあった。それでも暴動が起きなかったのは、単に飢えて気力が無かったためだった。既に子供や老人から餓死者が広がっていたペトルツィエは限界だった。celtoの連絡員が降伏に抵抗し続けていたが、彼が餓死したことで、市長は降伏を宣言した。ダリュイは降伏を受け入れ、仏連軍はペトルツィエを占領した。ダリュイは飢えに苦しむ彼らをなんとか救おうと務めたが、アレクサンドル帝はこれを許可しなかった。兵士は捕虜とし、残る民間人は全て輸送船でビクトリア島へと送り付けられた。食料も持たされず解放された難民は各々徒歩でビクトリア島の諸都市へ向かったが、道中落伍者が多発し、死の行進と呼ばれフランスとアレクサンドル帝は激しく批判された。仏連軍の補給事情に彼らを養うことが不可能だったことは事実ではある。かくしてバフィン島全域が仏連軍の占領下となった。
また、デボン島とエルズミール島との海峡は非常に狭く、防衛には不向きだった。仏連軍はエルズミール島へ上陸し、侵攻していった。グレイクハーバーやミンスクが陥落し、北連参謀本部はcelto統合参謀本部と掛け合い、残る戦力は分散せず、エリザベス島に結集させることで同意した。エルズミール島のcelto戦力はエリザベス島へと撤退していき、残された都市は破壊を恐れ早々に降伏した。
中島と対岸からの猛攻撃はイットリカン軍の防衛陣地を破壊し、そのたびにイットリカン軍はなんとか補修し抵抗を続けていたが、工業地帯を喪失していたために次第に補修が追い付かなくなっていた。仏連軍は今戦争最長となる三日間に渡る準備砲撃を同地に加え、その後精鋭を集め総攻撃を行った。遂に防衛線は突破され、仏連機甲部隊が浸透していった。川を越えての退却が間に合わなかった部隊はイレイヤフへ逃げ込み、残余は仏連軍の追撃に遭いながら北へ西へ退却した。仏連軍はこの突破で北はディオンヌ湖、西はタティナイ湖まで占領域を広げ、イレイヤフ市を包囲下に置いた。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。議事堂上、燃える北連旗
 

イレイヤフ市街戦

イレイヤフ市を包囲した仏連軍だが、再度の防衛線構築を嫌い追撃と占領地の拡大を優先し、市への攻撃が本格化するのは暫くした後だった。その間に市は退却してきた軍人を中心に防備が強化され、市民兵は組織化され訓練を受け防衛戦に参加した。また予め体の弱い子供や老人、病人などはcelto軍の助けの元組織的に疎開できており、備蓄もあった。トゥーラやペトルツィエ以上の、今戦争最大の包囲戦、市街戦が始まった。仏連軍が市壁を砲撃し、一部を崩し乗り込めば、イレイヤフ防衛軍はその内側に家屋をバリケードで繋いだ第二防壁を築き、屋根の上から狙撃、砲撃、投石、果ては市民は鍋を投げつけ、煮えた油をかけて抗戦した。仏連軍はたまらず退却したが、こんどは坑道を掘っての盛大な爆破で第二防壁を破壊した。無数の砲撃で瓦礫と化した外周の市街区では、あらゆる建物に兵士が潜み、狙撃や迫撃砲、トラップなどあらゆる手段で仏連兵を殺傷し、仏連軍は対抗して徹底した空爆や砲撃で潜伏可能な場所を破壊し、さらにゲスクリン、バヤールといった市街戦用に開発された歩兵戦闘車の機銃掃射で念入りに制圧を進めた。
イットリカン議会はこの期に及んでも脱出せず、市民に徹底抗戦を呼びかけるどころか、議員たちは率先して最前線へ向かった。また、一機のクラフタリア航空機が到着し、次期イレイヤフ防衛軍司令官に着任したある男がやってきた。クラフタリア軍中将、元フランス元帥ジョゼフ・ウジョアだ。彼は共和主義者としてクラフタリアに亡命し、クラフタリア軍に入っていたが、今戦争の初期においてはフランス人故に危険視され閑職にあった。そこで彼は一連隊長からやり直すと言い、フランス系クラフタリア人や同じく亡命した部下達を率いカナダ戦線に身を投じていた。彼らは時にcelto諸国の軍人よりも勇敢に闘い、戦死していった。ウジョア自身も何度も重傷を負いながら前線で戦い続け、こうした献身はcelto諸国におけるフランス系住民や移民の地位回復に一役買っていた。そして何より彼自身の評価を高め、クラフタリア軍は遂に彼を一共和主義者、一クラフタリア市民として正式に陸軍中将位を授与し、この度イレイヤフ防衛軍司令官に任じられていた。着任当初の防衛戦は、仏連軍がルーシ帝国に倣った槍機戦術を導入したことで劣勢となっていたが、ウジョアは防衛軍の組織を改革し、戦術を伝え体制を立て直した。仏連軍の犠牲が増加したことを訝しんだアレクサンドル帝はこのことを知るとなぜか喜び、対抗して自身も前線司令官として未だ敵兵がそこらに潜むようなイレイヤフへ乗り込んだ。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。戦後回収された監視カメラが撮影した市街戦の様子
 

北連脱出作戦の始動

イレイヤフ市の激戦が続くころ、モスクワに逃れた北連首脳部はある計画を立てていた。北連脱出計画、すなわち北連本土から総撤退し、軍隊を伴いクラフタリアで亡命政権を樹立、本土は発電所はじめ全インフラを破壊するという全域焦土作戦だった。仏連軍に与える打撃は計り知れないが、北連は発電所の電力が無ければただの凍土であり、生存さえ不可能である。この作戦の実行は、すなわち北連の消滅さえ意味した。さらに残る住民の脱出計画は困難であり、仏連占領下の住民や捕虜は見捨てることになる。しかし、北連国土の2/3を占めるバフィン島やエルズミール島ら主要地域を喪失した以上、本土失陥は時間の問題であり、覚悟は決まっていた。なにより、「仏連占領下の住民や捕虜は見捨てることになる」というのが重要だった。すなわち彼らの生命は仏連の補給にのしかかることとなり、トゥーラやペトルツィエでの難民攻撃のカウンターが可能かもしれなかった。それを狙ったcelto統合参謀本部の要望もあり、計画は実行へ向け進められた。こうしてあらゆる北連人、北連軍人の脱出が始まった。彼らは当初、夜間に潜水艦や民間商船、漁船に紛れ少しずつアラスカやイットリカン西部へ脱出していったが、それでは遅々として進まず、埒が明かなかった。また、再び訪れた流氷が道をふさいだ。この年は太平洋方面の流氷が異常に発生や南下が早く、大西洋ルートでの脱出、すなわち仏連艦隊の突破が必要になってしまった。輸送は一度で大量に、かつ迅速に行う必要があり、celto統合参謀本部は復活したファーランド級を使い、一気に輸送してしまう計画を立てた。輸送艦隊、ヴォールナ級を中心とした足止め・護衛艦隊、さらに仏連海軍を引き付ける陽動艦隊の三つの艦隊が用意された。
イレイヤフの市街戦は激化の一途を辿っていた。市街の破壊は1/3に及び、軍民問わず両軍に大きな被害が出ていた。仏連軍は再び冬がくる前にイレイヤフを陥落させる必要があり、それは遠い未来のことではなかった。アレクサンドル帝はあまりの夏の短さに歯噛みした。
激戦は英雄を生む。イットリカン軍の狙撃兵ナヌークは、配備されたアルビアト地区で、実に150人の仏連兵を射殺しエースと呼ばれた。この地区は背後に兵器工場を抱え、市の要地のひとつだった。ウジョアはこの地に精鋭を集め、死守を命じていた。次第に仏連兵はアルビアトを「白い悪魔の棲む地」と呼び恐れた。アレクサンドル帝はこの地への総攻撃を命令した。さらに自ら危険極まりない前線に立ち指揮を執り、兵士の士気を高めた。また、エースは仏連軍にもいた。今戦争で狙撃兵として頭角を現し、「86人と1パンツ」の戦果を上げていたフランツ・クラーベ曹長である。二人の名スナイパーの戦いは、今戦争最大の市街戦における激戦、「アルビアトの戦い」の代名詞となった。
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アルビアト地区の激戦

仏連軍はアルビアト地区へ空爆、砲撃を行ったが、既に瓦礫である地区にはこれ以上の効果はあまりない。やはり歩兵の突入による占領は不可欠だった。アレクサンドル帝は前線にいたジデンローヴ第1軍を呼び戻し、彼らを攻撃の主軸とした。第1軍はアルビアト地区へ突入した。
少しでも頭を出せば、すかさず狙撃される場にあって、さすがにアレクサンドル帝も立ち入らず射程外から指揮を執った。日頃から敵軍よりおっかないジデンローヴ元帥にしごかれている第1軍兵士達は冷静に建物一つひとつ制圧を進めていくが、あらゆる地理を知り尽くした現地出身者からなるイットリカン精鋭兵は的確に奇襲を繰り返し第1軍兵士を斃していった。また、市民の志願兵たちは爆弾や火炎瓶を抱えて戦車へ突撃し、命と引き換えに多くの仏連戦力を道連れに撃破した。アルビアトの戦いに従軍した記者は、「ここが地獄である」と書き残した。
戦闘の中で成長するのがフランス軍である。第二次欧州大戦で伝説となった父の才覚を継ぐジデンローヴ元帥は、次第にその指揮に尋常ならざる冴えを見せ始めた。イットリカン軍の攻撃によって錯綜する情勢、情報を、安全のために離れた場所から的確に束ね、精確な判断を下し、命令を与えた。モイソ、ブルイエ、グルニエの各師団長もよく応え、兵士たちも死を恐れず戦った。近衛兵を除いて、第1軍とジデンローヴのフランス最強の名声は確かなものとなっていく。遂にアルビアトの1/3が制圧された。しかし、ウジョアのベテランの意地、イットリカン兵の祖国防衛の意地も負けていない。彼らは兵器工場地区へとつながる中央の道路だけは決して渡さなかった。ナヌークはこの大通りを見通すビルの一角に潜み、着々とスコアを重ねていた。このビルは工場地区で繁盛したコーヒー・ハウス・チェーンの本社ビルだった。イットリカンの労働者たちは、このコーヒー・ハウスで心身を癒し、政治議論に花を咲かせた。イットリカンの護ってきた民主主義の象徴であった。
クラーベがこのビルに狙いを定めたのは、""自分ならここに潜む""という直観故だった。離れた別のビルから狙いを定め、ナヌークもこれに気づき、両者は向き合った。激戦の最中において、突然の静寂が訪れたと、現地にいた兵士は語った。そして、「一発の銃声」が響いた。両者の引き金を引くタイミングは、完全に一致したのである。クラーベの弾はナヌークの喉を撃ち抜いた。致命傷だった。一方でナヌークの弾はクラーベの胸に命中した。しかし、彼の胸ポケットには十字架のネックレスが入っており、これが僅かに弾道を動脈から逸らし、後送されるも一命をとりとめていた。戦争の直前に、クラーベはカトリックに改宗していた。
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アルビアト地区の陥落と北連脱出作戦の決行

エースの死が象徴となり、糸が切れたようにイットリカンの防衛線は崩れだし、遂にフランス機甲部隊は中央道の突入、突破に成功した。仏連軍は工場地区に突入し、これを占領した。イレイヤフ防衛軍は武器弾薬の供給を断たれ、絶体絶命となった。議員たちも殆どが戦死するか、自身への配給を市民へ回すよう断り、餓死するかしていた。市民も気丈に振る舞っていたが、昼夜問わず続く戦闘音と食料不足による栄養失調でやつれていた。ウジョアは限界を感じていた。
既に仏連軍はクイーン・エリザベス諸島を占領し、アレクサンドル諸島と勝手に改め、さらにビクトリア島にも上陸していた。北連に残された時間は少なく、その上流氷によって海峡が閉ざされてしまっては元も子もない。遂に北連脱出作戦は実行に移された。
初めに陽動艦隊が出撃、大西洋を横断しリスボン沖まで進出した。仏連ははじめ本土強襲かと疑い、驚いて艦隊を差し向けた。第二次ラブラドル海海戦の消耗が激しく、戦力の限られた仏連海軍はそのために北大西洋からも戦力を抽出せざるを得ず、まんまと陽動に釣られる形となった。陽動艦隊の任務はできるだけ多くの仏連艦を引き付け、足止めすることである。そのため戦闘が長引くよう巧みに後退、妨害を繰り返した。こうした特殊作戦においては、経験に勝るcelto海軍にはるかに分があり、仏連艦隊を指揮した若造ブランシアは翻弄された。
クラフタリアからファーランド級を中心とした輸送艦隊が出航した。艦隊が北大西洋に差し掛かると、仏連艦隊総司令官デ・モンタルバン提督はこれに気づき偵察機を送った。しかし、その報告は提督を混乱させた。一切の艦載機が確認できないというのである。訝しみつつも残る艦隊を差し向けようとしたが、突如北方から別の艦隊が現れた。ヴォールナ級を中心とした護衛艦隊である。彼らは気づかれないように北極海側からグリーンランドを迂回してきていた。モンタルバンはどちらの対処を優先するか迫られたが、やはりファーランドは艦載機が一切なく艦隊に戦闘能力が見られないこと、目的が不明なことがあって、護衛艦隊の方へ砲列を向けた。北大西洋海戦、北連脱出作戦が始まった。
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イレイヤフの降伏と北連の停電

護衛艦隊は仏連艦隊と激突した。北連軍艦の多くはバイロト泊地の占領と共に仏連軍に鹵獲されており、戦力は乏しかったものの、後の無い彼らは死に物狂いで戦い、気迫で仏連艦隊を圧倒した。また、モンタルバンは敵の行動と目的が意味不明であったために逡巡し、行動に決定打が欠けていた。
輸送艦隊がモスクワに到着したとの報が、一隻の小型艇と共にイレイヤフに届いた。既に防衛戦は限界を迎えていたイレイヤフの残る議員と市民たちは、ウジョア司令官以下celto兵に最大の感謝と撤退の要請を伝えた。彼らは何度も拒絶したが、説得の末に遂に折れた。小型艇に乗り込みイレイヤフを離れたウジョアとcelto兵たちは、いつまでも小さくなっていくイレイヤフを見つめていたという。経戦を望まない者や衰弱した者を地下シェルターへ非難させ、残ったイットリカン兵や議員、市民たちは、一人でも多くの民主主義の敵を打倒すために、各々武器や爆薬を手に最期の戦いへ赴いた。仏連軍は残る都心部へ突入した。防衛軍は限られた銃を手に戦い、斃されればそれを拾って市民が戦い、弾が無くなれば爆弾を抱えて突撃した。あらゆる方向に潜む敵に対し、ジデンローヴ指揮下の仏連軍も一歩も引かずに応戦した。様々な増加装甲を施された戦車が砲撃で潜伏地を破壊し、機銃掃射で兵士をなぎ倒し、撃破されれば鹵獲されないよう火を放って自決した。激戦は北米一栄えた大都市イレイヤフの都心部は次々と破壊されていった。仏連軍の先鋒機甲部隊は、遂に国会議事堂へとたどりついた。防衛軍は全ての戦闘の停止を命じ、議員の最後の生き残りが白旗を持って現れた。両軍に壮絶な犠牲者の出たイレイヤフ市街戦は、遂に市の降伏を以て、仏連軍の勝利に終わった。
イレイヤフの陥落を乗り込んだファーランドで知ったウジョアは、血が出るほど強く唇を嚙み締めたという。かくして北連の民間人、軍人、celto兵などあらゆる人を乗せられるだけ乗せたファーランドはじめ輸送部隊は、モスクワ港を離れた。同時に人の棲めない環境だった北連の地を長年支えてきた原子力発電所の破壊作戦が実行された。北連潜水艦から発射されたSLBMは、これまで最高機密として完全に秘匿されてきた発電所を破壊した。北連の全てのインフラが機能を停止した。突然の事態にアレクサンドル帝もダリュイ元帥も混乱した。
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北大西洋海戦とヴォールナの最期

モンタルバン提督は停電の報を受け、ようやく事態を把握した。軍隊が残っていれば国家は抵抗を続けることが可能であり、北連を降伏させるためにも、なんとしても大脱出を阻止しなければならなかった。民間人も同乗していようが関係なかった。艦載機を全て下ろし甲板まで一杯に人間を積み込んだファーランド級など、攻撃できればただの的である。モンタルバンは直ちに別動隊を向けようとしたが、北連艦隊が間に割り込んで妨害した。仏連艦隊は敵旗艦ヴォールナへ狙いを定め斉射したが、ヴォールナは倒れず。反撃で焦って隊列を乱した仏連艦を撃破していった。
海戦を通じて、旗艦ヴォールナは夥しい砲弾、ミサイルの雨をその身に受けながら、決して倒れなかった。二度のラブラドル海海戦において失態を演じ、祖国を危険に晒したことを乗組員すべてが後悔しており、二度と引かないという覚悟は、確かに船体にも宿っていた。反撃によるスコアは今戦争における単艦のスコアのトップを記録した。業を煮やしたモンタルバンの下に、遂に最終兵器、巨大戦艦ガリアがやってきた。155mm四連装砲の斉射がヴォールナに浴びせられた。司令塔内にいても耳をつんざくほどの轟音が響いた。ヴォールナのレーダーマストや主砲は吹き飛んでいたが、それでも倒れず副砲で反撃を続けた。こうしている間にもファーランドはみるみる遠くへ去っていく。遂にモンタルバンはガリアの主砲、900mm波動砲の発射、それも臨界稼働での使用を決めた。リミッターが解除され、超巨大戦艦ガリアを機動させる全原子炉がフル稼働し、艦内のあらゆる電力が供給を断たれ、艦首の主砲へ集められていく。核となる聖遺物には、整地エルサレムから略奪…もとい回収した特上のものが使用された。かくして発射後の航行能力さえ投じ、艦首がひしゃげる程のエネルギーを収束した全力の波動砲がヴォールナを貫いた。視界を失う程の眩い光が辺りを包み、弾道は遠く離れたヴォールナの艦上から目視できるほどだった。そして視界が回復したころ…そこには未だ沈まぬヴォールナの姿があった。船体中央に風穴が空いていたが、物理法則さえ無視して立ちはだかり続けた。既に砲は失われ、対空機銃の斉射が仏連戦艦の装甲をノックする音だけが抵抗の意思を伝えていた。ガリアは行動不能となり、残る仏連艦はヴォールナへ砲撃を浴びせ続けた。
モンタルバンは作戦を中止した。ファーランドは既に追いつけない距離まで離れていた。砲撃は止み、それでも倒れなかったヴォールナが、遂に音を立てて沈み始めた。全ての仏連艦乗組員は、誰に命じられるでもなく、沈みゆくヴォールナへ「敬礼」の姿勢を取っていた。北連の本土と象徴が沈んだ日だった。
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 終戦と講和

アムステルダム和平交渉

アムステルダムで続いていた交渉は、イレイヤフの陥落時には、仏連代表は小躍りする程の上機嫌でcelto代表を煽っていた。仏連が出していた条件は苛烈極まりなく、莫大な賠償金をはじめ機構軍の解散、関税に関する不平等条約、仏連との交戦権の剥奪、イットリカンのエルドランドへの併合などに及び、到底受け入れられないものだった。そのためアレクサンドル帝は「地の果てまで征服する」と言い放った。戦況を見れば劣勢は明らかで、陸軍の中核を担うイットリカンが半壊している現状、否定できるものでもなかった。
とはいえフランスもかなり兵、資源ともに消耗していた。一年以上続く戦争による過酷な徴税は国民を苦しめ、働き手をとられた農村は収穫を落としていた。当初は再びロシアから輸入すればよいとアレクサンドル帝は考えていたが、ユークバニアがルーシ帝国へと変わったことで、これを支援するフランスとユークバニアを支援していたシランナとの関係が悪化し、バルト海経由での食料輸入の目途が立たなくなっていた。勿論戦費によって金もなかった。
こうした交渉の風向きは、北連脱出作戦の成功によって、急転換を迎えた。仏連軍は北連全土を占領したものの、インフラを喪失した北連での占領活動は仏連の補給に莫大な負荷をかけていた。さらに問題となったのが、残存北連人の存在だった。いかに大脱出したとはいえ、その数には限りがあり、当時の仏連占領下の北連市民を合わせて、相当数が北連に残留していた。そして、インフラを完全に喪失した今、彼らは自立して生存することは不可能であり、その補給問題がさらに仏連軍にのしかかっていた。アレクサンドル帝は何度も見捨てようとしたが、流石に大反対にあいできなかった。celto諸国に押し付けようと交渉したが、これは拒否された。非人道的だと自覚しつつも、仏連の補給を圧迫し続け外交カードに使おうとしたのだった。しかし、季節は秋。もうすぐで過酷な冬がやってくる。そうなれば、インフラの無い北連人は大量凍死、最悪全滅もあり得た。両陣営の間で、北連人の生命を使ったチキンレースが始まった。
アムステルダムを闊歩するフランス皇帝
 

アムステルダム条約の調印

この年最初の降雪が確認された。止む無く仏連軍は攻勢を停止し、冬営の準備に入った。防御陣地が築かれ、占領地の維持に努めた。しかし、散発的な残存イットリカン軍、アラスカ軍らの反撃の前に、各地で苦戦が見られた。伸び切った補給線、より過酷になっていく地形や寒さ、徴収兵の練度の低さ…様々な要因が、仏連軍の攻勢限界を示していた。さらに、帰国したアレクサンドル帝はかなりの非難を浴びた。いかに戦勝という名声があれど、この過酷な戦時体制が二年も続くことには反感も凄まじく、教会からも二度にわたるガリア主砲の使用について厳しい突き上げをくらい、献金でなだめようにも戦費が嵩んで国庫は底をつきかけていた。食料問題や周辺国へのヘイト等、問題は山積みであることを実感し、冬が来る前に戦争を終わらせるべきだと考えるようになっていた。また、イレイヤフを落としたことで修理可能なドックを失ったと考えられていたイットリカンのデモクラシー級戦艦だが、クラフタリアのラブクラフト級戦艦用ドックがcelto総出で緊急改装され、デモクラシー級二隻全てが補修を受けられているという情報をスパイが掴み、彼らの出撃前にケリをつけるべきだという意見も海軍省から出ていた。
アムステルダム交渉は一気に妥協点の探り合いへと進展した。先述したような仏連の事情は勿論、celto側としても、流石に北連人を見殺しにして凍死させてしまうのは、あまりに醜聞が悪かった。交渉は難航しつつも粘り強く進められ、その間アレクサンドル帝はアムステルダムを観光して回り、美女をナンパして遊んでいた。争点となった北連人の処遇については、celtoが資金を全負担することで、仏連軍が責任持ってcelto各国に送り届けることが決まった。なお一部の北連人はたくましくも現地に留まることを選んだという。その後、北連全土は仏連に割譲され、フランスとエルドランドとで分割された。また、賠償金については莫大な額に上り、celtoという機構でもってしてもとても払いきれる金額ではなかった。そのため、いくつかの島や軍港などが抵当として割譲ないし租借され、仏連は各地に拠点を獲得した。そのほかにも捕虜交換や拘束されていたパタゴニア人の解放などが取り決められ、最後に関税に関する不平等条約の締結について確認され、両代表はアムステルダム和平条約に調印した。
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見出し

・戦闘の停止と占領地からの撤退、〇年間の停戦期間の設定(破るべきもの
・北連全土のフランス、エルドランドへの割譲(氷しかない
・移住を希望する北連人のcelto諸国への仏連軍による移送、celtoの費用の支払い
・賠償金支払い及び抵当としての領土割譲(島とか港とか?
・捕虜交換とパタゴニア人の解放
・関税に関する不平等条約の締結(破るべきもの
・etc…
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 影響

本文
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 関連項目

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最終更新:2022年01月08日 14:31