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メディテラネア=フランス戦争

メディテラネア=フランス戦争


imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 この項目ではメディテラネア=フランス戦争について説明しています。そのほかの企画については過去企画を参照してください。                            




System=例:ダイス、話し合い、麻雀、将棋


メディテラネア=フランス戦争(めでぃてらねあふらんすせんそう、英:Mediterranea French war、統一歴163年 - 統一歴164年)は、帝政シェラルド(フランス帝国)のメディテラネア諸侯連合への侵攻をきっかけに、全世界へ波及した大戦である。
メディテラネア=フランス戦争
        



        目次[非表示]
 1. 概要
 2. 背景
 3. 開戦
 4. 開戦後の経緯
  4-1. ル・テリエ侯爵領への侵攻
  4-2. 国境の戦闘
  4-3. アレッサンドリアの戦い
  4-4. チッタ・エテールナ協定とリガ協定
  4-5. アンアンモの参戦とカルパティア攻勢
  4-6. フランスの二枚舌外交と新大陸への波及
  4-7. インカ、コロンビアの戦争
  4-8. celtoの対仏参戦と極東戦線
  4-9. イタリア、ドイツ戦線の推移
  4-10. ルーシーの大攻勢
  4-11. フランスへの反攻
  4-12. ピエモンテ包囲戦
  4-13. まだ
 5. 終戦と講和
 6. 影響
 7. 関連項目
 8. 参考文献
ニュルンベルク四皇帝会戦
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。ケープタウン講和会議
戦争:戦争
年月日:統一歴163年(2022/07/06) - 統一歴164年(2022/08/00)
場所:ヨーロッパ、中東、南北アメリカ、太平洋、インド等
結果:メディテラネアの防衛成功、ラテン同盟の成立
交戦勢力
メディテラネア諸侯連合帝国
帝政シェラルド(フランス)
共和国
帝国
指導者・指揮官
大統領
皇帝
指揮官
提督

 概要

あらすじ

フランス摂政アルベルティーヌは保身のためメディテラネアへ侵攻。しかし攻勢は失敗し、逆に世界中の反仏国によりフランス連邦各国は攻撃される事態となる。フランスは少しでも敵を減らすべく外交に奔走し、敵の目を別の目標へ向けさせた。これはさらなる戦争を発生させ、実質的な世界大戦へと発展した。
こうした状況は敵味方の勢力図を入り乱れさせ、新大陸においてインカ(メディテラネアの同盟国)とコロンビア(フランス連邦加盟国)共闘を発生させた。また、フランスではアルベルティーヌが失脚し、エリック2世が親政を開始するなど、政変もあってフランス=メディテラネア間は和解した。
フランスは追い詰められいくらかの領土割譲により和平に至ったが、反仏連合諸国は最終的に足を引っ張りあい、同士討ちにさえ至ったため、国際情勢はおおきく変化した。また、戦中にフランスは隣国ラインラントと同君連合を発足させている。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。大まかな勢力図。赤は仏連およびその味方、青はメディテラネアおよび"仏連の敵"であるが、戦争中に勢力図は二転三転しており、この限りではない。また、黄色と水色はOFCと5Iの戦争にあたる。

 背景

アルベルティーヌのイタリア侵攻計画

エリック帝の死後、度重なる戦争と政変を経たフランスでは、未亡人アルベルティーヌ皇后が権力を握り、アナトリア系イェリング家から迎えた養子のエリック二世を擁立、摂政として政権を運営した。しかし、フランスを大国たらしめた軍部は、「ロシア女」を事実上の君主とすることを良しとせず、冠仏戦争やインド戦争においては独断専行を繰り返していた。続くラエリア戦争も成果を得られず、アルベルティーヌの支持基盤は脆弱だった。
窮地を脱すべく、アルベルティーヌはイタリアのメディテラネア侵攻を計画する。エリック二世の名の下にローマ""奪還""を成功させれば、皇太后の地位も盤石なものとなると考えたためだ。このとき、フランスは多くの敵を抱えていた。celto、ofc、第五インター等名だたる組織がフランスへの敵対を表明しており、イタリア侵攻はたちまち対仏大同盟が組織されることが予想された。陸軍大臣ベルシカラーなどは反対したものの、軍部でも古くからエリック1世へ仕えた遺臣と、死後に昇進した将軍たちとの間に確執があり、アルベルティーヌは反乱分子となり得る遺臣たちを各地へ左遷させていたため、パリの勢力争いはアルベルティーヌ派が勝利した。このときエリック2世は元服前。全権を擁す摂政アルベルティーヌはメディテラネア侵攻を決定し、ベルシカラーは辞任した。
アルベルティーヌと即位当時のエリック2世

 開戦

ル・テリエ侯爵領への侵攻

イタリア半島は長く戦乱の中心地であった。半島戦争やシチリア戦争、欧州大戦においても、聖都ローマを巡り周辺国が介入を繰り返した。このときも東のビザンツ皇帝エウドクシアや、北のスミトラント皇帝フリードリヒ=アウグスト、そしてフランス皇帝らが、自らこそローマの後継者であると、イタリアの領有を欲していた。当のメディテラネアは、難しい外交を迫られた。最終的に南のサルデーニャ王国との連帯を選択し、イタリア独自の勢力を構築した。
アルベルティーヌはこうした外交情勢は有利に働くと考えた。フランスの侵攻に対し、ビザンツやドイツを味方に引き入れ、彼らの軍隊を駐留させることは、彼らがその領土的野心をあらわにした際、あまりに大きいリスクと成り得るためだった。得意の電撃戦でローマを陥落せしめれば、戦争は短期に決着すると目論んだ。
フランス軍はメディテラネアへの侵入を開始した。フランク帝国、神聖ローマ帝国に連なる西方皇帝位はフランス皇帝の元にあり、""フランス領ローマ""での戴冠式のための進軍であるとし、宣戦布告は行わなかった。侵入を受けたル・テリエ侯爵領の守備隊はフランス軍へ発砲、これを受けアルベルティーヌはメディテラネアへ宣戦布告し、イタリアでの戦争が始まった。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。フランスの最新主力戦車。数は少なかった。

 開戦後の経緯

国境の戦闘

電撃戦を目論んだアルベルティーヌだが、しかしうまくはいかなかった。原因はル・テリエ侯爵領軍の健闘と、フランス側指揮官の無能である。フランスの有力な将軍たちはエリック帝の支持者であり、アルベルティーヌとは折り合いが悪かった。彼らを信用しないアルベルティーヌは、自らの手の者の経歴に箔を付け、軍部の有力者とせんとした。母国ローゼノワールの貴族であり、親戚筋にあたるレヴァル伯にメディテラネア侵攻軍の指揮を執らせた。しかし彼は軍事的には素人で、正面突撃を繰り返し、繰り返し失敗した。また、山岳や川、各地の要塞を突破する知恵もなく、いたずらに兵と時間を浪費し、電撃戦ははやくも頓挫した。
奇襲を受けたメディテラネア側では、急ぎ動員が開始されるとともに支援者となる国家の策定が始まった。援軍を得るまで耐えねばならない守備隊にとって、司令官たるプレディエーリ伯の存在は心強いものだった。前線で防衛戦の指揮を執り、兵は勿論、農民たちも進んで塹壕を掘り、家屋を木材に変え、バリケードを建設した。こうした努力により、寡兵でフランスの攻勢をはじき返したのだった。前線にはエトルシアなどから援軍が送られてきた。
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アレッサンドリアの戦い

レヴァル伯が四度目の突撃を命じたとき、フランス兵はこれを拒否。レヴァル伯は「流れ弾」に当たり戦死した。補佐についていたモラン将軍が指揮を継ぎ、崩壊しかけていたフランス軍の統制を回復させた。折悪くフランス軍を弱体とみたプレディエーリ伯は、防衛に有利となる戦線の整理のため、部分的に攻勢を実施。モランはこれを跳ね返し、崩れたメディテラネア守備隊へ反攻をかけ防衛線を突破した。
フランス軍はポー川下流のピエモンテ州へ進出するも、ここでモランは進軍を停止した。守備隊が稼いだ貴重な時間により、メディテラネア軍は動員を完了。対岸には各諸侯の旗が翻り、義勇兵の援軍も到着していた。フランス軍は増援を得て再び攻撃を開始。アレッサンドリアの戦いと呼ばれる激戦の末、同市の占領に成功した。さらにジェノヴァを包囲したが、このころメディテラネア軍総司令官ラーナ伯が前線で指揮を執り始め、組織的にポー川対岸へ退却し、損害は軽微だった。
フランス軍は北上し、モンフェラートを狙った。ここを奪取し、トリノ方面のメディテラネア軍を分断する作戦だった。しかし、ラーナ伯は、アレッサンドリアの戦いの時点からカウンターを計画していた。遮蔽されたポー川対岸には、トラキア、スミトラントからの多くの援軍が到着していた。モンフェラートにはプレディエーリ伯がフランス軍を引き込むような戦闘を展開し、フランス軍の戦線が伸びきったところで、ラーナ伯率いるメディテラネア連合軍主力は一気に攻勢に出、アレッサンドリアを奪還しフランス軍戦線を分断した。ラーナ伯はさらなる戦果拡大を狙ったが、統一された司令部を持たないがために足並みが乱れ、ジェノヴァの解囲もままならないまま反撃は終わってしまった。フランス側も増援を連れて駆け付けたマルシアル元帥が司令官を引き継ぎ、戦線を巧みに整理した。
画像の説明
 

チッタ・エテールナ協定とリガ協定

トラキア、スミトラント両国は、フランスと敵対するceltoの仲裁で、メディテラネア首都チッタ・エテールナで協定を結んでいた。第一次対仏大同盟とも解釈されるこの協定により、各々の野心は兎も角、一時反フランスのための共同戦線が成立した。彼らの援軍もあり、メディテラネアはフランス軍との戦線を膠着へ持ち込んだ。防衛困難と判断され、トリノは放棄されたものの、アレッサンドリアを中心とした戦線は強固な塹壕が形成された、しかしジェノヴァはフランス軍が包囲し、海上から補給が可能とはいえ、厳しい砲撃に晒された。ラーナ伯は指揮権をロマーニャ大公へ引き継ぎ、自身は海路ジェノヴァへ入り、守備隊を指揮した。
短期決戦に失敗し、アルベルティーヌは苦境に立たされた。彼女は膠着状態を打破すべく、トラキア、スミトラント両国の本国へ攻撃を加え、イタリアへの援軍を減らす作戦を思いついた。スミトラントへはフランス軍が攻撃すればよい。トラキア本国への攻撃は、同盟国ルーシー帝国がその任を受け持った。アルベルティーヌはロシア語を話すローゼノワール王国出身であり、ルーシー帝国とよい関係を築いていた。帝政復古の内戦で支援を受けた恩を返すべく、ルーシー皇帝ニコライ三世は喜んで参戦に合意し、ローゼノワール王国と三国でリガ協定を締結。両国は連合へ宣戦布告した。これ以降、メディテラネア側となる連合側と、フランス側となる仏連側との戦争となっていく。
なお、モレラの爆撃隊はフランス軍が弾薬庫に使用していた修道院を爆撃し、木端微塵にしてしまった。背後には新興宗教の過激派の存在があると見られ、国際的非難を受けた。
画像の説明
 

アンアンモの参戦とカルパティア攻勢

既にビザンツ連合の下参戦していたモレラだが、独自路線の標榜と国内の反動勢力への対処等で本格参戦を望まず、代わりに「アンアンモ」と呼ばれる三国同盟の同盟国を戦争へ誘った。フランス憎しで一致する安勢国(変換が面倒なので以下アイルランド)とイベリアはこれを受諾、フランスへ宣戦布告した。アイルランドは海上からメディテラネアへ援軍を送り、イベリアはピレネーのフランス軍守備隊を攻撃した。瞬く間に三正面作戦となったフランスのアルベルティーヌは大いに慌てふためき、スミトラントへの攻勢を準備していたジデンローヴ元帥へただちに攻勢を命令する。準備不足ながらラインラント連邦に通行券を得、スミトラントへ攻撃を開始したフランス軍だが、伸びきった補給、長らく続いた海上封鎖から来る物資不足、兵力不足等もあり、突破には至らなかった。むしろ無謀な戦争でいたずらに兵力を消耗したくないジデンローヴ元帥と、無理に攻め返さなくても、放っておけばどんどん立場が悪くなるフランスを相手取るスミトラント双方の意図が合致し、不自然なほど静かな戦線となっていた。  一方でトラキアへ侵攻したルーシー帝国は大戦果を挙げていた。内戦で精鋭を喪失し、その質を味方として戦っていたトラキアは誰よりも知っていた。それが仇となった。フランス支援の下軍制改革を進めたルーシー帝国軍は、その数も質もトラキアの国境守備隊を圧倒し、本土へ攻め込んだ。トラキアは慌てイタリア派遣部隊も一部呼び戻し、なんとかドナウ川で食い止めた。特にベオグラードの戦いは壮絶であったが、セルビア軍司令官ネコスキー将軍の巧みな指揮が実を結んだ。
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フランスの二枚舌外交と新大陸への波及

ルーシー帝国軍がカルパティアでの攻勢を成功させたことで、同国を敵視する第五インターのシランナや月ノ谷らは対ルーシー戦争を計画。国境線への軍隊の配備を始めた。さらにフランスとの戦争に敗れ、シナイ半島を奪われていたハクィルタフ(長いので以下エジプト)王国は、OFCを率い奪還のための戦争を計画した。こうした動きを察知したフランス外務大臣メゾンは、一挙に解決するべくシナイ半島、アリーシへ向かった。同市はメゾンと関係の深いアラブ人共産主義者の地下組織の拠点であり、メゾンは彼らとアリーシ協定を締結。同地に共産主義国家の樹立を認めた。さらにクリミア戦争の講和会議で友誼を得た月ノ谷の閣僚を通じて、戦利品であったスエズ運河の株式の半分を第五インターへ売却した。同時に彼はエジプトに対し、中立を約束する代わりにシナイ半島を無償で返還するアレクサンドリア条約を締結した。
この卑劣な二枚舌外交の成果により、エジプト軍はただちに生まれたてのシナイ・コミューンを反乱軍と見なし侵攻を開始。支援者の第五インター各国はシナイ、そして何よりスエズ運河の利権を守るため援軍を派兵。OFCと第五インターは戦争状態となり、対フランス、対ルーシーどころではなくなってしまった。
危機を脱したかに思われたフランスだが、火の手は他所から上がった。直前の対ラエリア戦争で占領したルイジアナへ、ラエリア軍が停戦を破棄し侵攻を開始した。これには同じDICE所属国であるアラスカも加わり、アルベルティーヌは慌てて仏連加盟国であるエルドランド、コロンビア両軍を動員しこれに対処した。戦争は欧州から新大陸へ波及した。
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インカ、コロンビアの戦争

フランスを敵視するceltoは当初、メディテラネアを支援すべく対仏参戦を計画していたが、同時期に友好的な組織第五インターがOFCと開戦してしまい、双方との開戦はさすがに負担が大きいという理由で、物資や義勇兵での支援にとどめていた。そんな折、盟主クラフタリアは行動を起こした。メディテラネアと同盟を結ぶインカ帝国は、仏連国コロンビアと国境を接していたため、開戦当初より戦闘が起きていた。脳国家や組織内内戦により、新大陸地域における主導権が揺らいでいたクラフタリアは、この機に乗じてインカの帝政を打倒し、民主主義政権を樹立し自陣営に引き込まんと、インカへ侵攻を開始した。窮地に陥ったインカはコロンビア・メデジンでコロンビア総督カニザレスと会談し、停戦と対クラフタリアにおける共闘を定めたメデジン協定を締結する。コロンビア軍はインカ軍と共同でクラフタリア軍の侵攻を食い止めるべく防衛戦を開始した。
コロンビア軍がインカへ移動した隙をつき、ルイジアナのフランス軍を駆逐したラエリア=アラスカ軍は、パナマ奪取のためコロンビアへ侵攻を開始した。コロンビア軍はゲリラ戦でこれに対抗。森林部に仕掛けたトラップによりラエリア=アラスカ兵のおしりの処女を奪っていくも、数的劣勢により次第に押し込まれた。ただし海上では劣勢であり、コロンビアやアナトリアの私掠船、フランスの潜水艦などに苦しめられた。また、パタゴニア大使館を通じ舞羅帝国と共闘。義勇軍を迎え入れた。
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celtoの対仏参戦と極東戦線

コロンビア戦線で活躍していた私掠船や潜水艦は、当初こそ狙いを絞っていたものの、欧州での膠着状態が続くにつれ、この原因となるceltoからの物資支援を断ち切るため、作戦範囲を拡大させていった。アルベルティーヌは彼らにcelto船籍への無制限通商破壊作戦を命令し、多くの軍船、民間船が、良くて略奪、悪ければ撃沈された。これに怒ったceltoは当然対仏宣戦布告。イットリカン軍は北米戦争での恨みを晴らすべくエルドランドへ侵攻した。イットリカン軍は、いつ開戦してもいいように、長らく国境で軍備を整えていた。彼らは解き放たれた瞬間、大軍でエルドランドへ踏み込んだ。とはいえ折悪く季節は冬。いくつかの川を越え、戦線は停止した。celto統合海軍はふたたび北海へ展開。イギリス海峡でフランス艦隊と戦闘し、これを敗走させた。
さらに、太平洋を回りアジア方面でも戦争が起こった。カンタルシア帝国がフランスへ宣戦布告し、フランス領西ベンガルへ上陸した。戦果がインド亜大陸へと拡大したことで、この戦争は世界大戦と呼ばれるようになる。カンタルシア軍はコルカタへ上陸したが、同地を守るフランス・東洋方面軍司令官ボナパルトにコルカタの戦いで敗北する。ボナパルトは撤退し損ねた遠征軍司令官〇〇を捕虜とし、勝手に彼と秘密協定を結んだ。フランスが対仏連にかかりきりとなっている今、カンタルシアはラティアンスを攻めるべきと説得し、本国もこれに乗った。コルカタ条約が締結され、フランスとカンタルシアは同盟を締結。カンタルシアはラティアンスへ宣戦布告した。フランス東洋方面軍の支援を受けたカンタルシア軍はラティアンスとの海戦に勝利し、上陸に成功した。
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イタリア、ドイツ戦線の推移

イタリアの戦線は大きな進展がないまま、両陣営が犠牲者を積み上げていた。メディテラネアへはアンアンモやceltoの援軍がやってきたが、統一司令部を持たないため連携がとれず、効果的な反撃ができていなかった。一方のフランスも再現なく増える敵を前に、攻勢計画の実施は再三見送られた。
開戦から一年たったころ、フランスの戦費調達のための増税に反発し、ニースに住むイタリア系住民が反乱を起こし、これに乗じアイルランド軍が同市を占領した。これに呼応し、連合側ではようやくメディテラネアのロマーニャ大公の下に統一司令部を設け、ミラノに拠点を置いた。組織的な反攻が行われ、たまらずフランス軍は後退。アスティやトリノが奪還され、ジェノヴァも一年ぶりに開放された。
同じころ、シナイ半島でのOFCと第五インターとの戦闘は、共産主義同志の主導権争いを背景に、エジプト軍が優位に進めていた。この戦闘が終われば、第五インターの勢力がルーシーへ向く可能性がある。フランスのアルベルティーヌは、ルーシーとともに最大の攻勢計画を実施した。フランスは上陸に備え配備していた戦力をすべてライン方面へ回し、エルベ川の戦いと呼ばれる攻勢をかけた。しかしこの計画はスパイによって筒抜けであり、スミトラント軍は的確な戦力配置と反撃でしのぎ切り、さらに海路で北方に機動したスウェーデン軍によって北部のフィッツカラルド元帥の軍を撃破し、側面を圧迫した
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ルーシーの大攻勢

ルーシー帝国もまた、ドナウ川全域で最大の攻勢を実施。激戦の末ベオグラードは陥落し、ブルガリアでも前線を突破した。首都アンドロニコポリス(ソフィア)まで50kmまで迫るも、皇帝は首都に留まり、国民と兵を鼓舞した。首都へ至る峠には皇帝親衛隊とともに皇配アタナシウス公が立ちふさがり、ルーシー軍もまた近衛機甲師団を投入し突破を図った。激戦の中、いくつかの迂回路が突破されつつも、貴重な時間を稼ぐことに成功。南方ではエジプト軍がシナイ半島全域を回復し、ダマスカス条約が結ばれOFC=第五インター間の戦争が終結した。時間切れであった。トラキアへの攻勢のため、ルーシー=月ノ谷間の国境はがら空き同然であり、直ちに攻勢を中止し再配置の必要に迫られ、駐露フランス大使も同意しルーシーは攻勢が行えるだけの戦力を配備できなくなった。ただし、一部の部隊はバルト海経由でフランス統帥下に入り戦い続け、国境にはなお多くの砲兵を配備しトラキアや第五へ圧力をかけ続けた。第五インターは好機を逃し、連戦を避けるため対ロ開戦は取りやめた。フランス側の攻勢作戦は失敗した。
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フランスへの反攻

孤立したフランスへ、連合軍は総攻撃を行った。スペインは戦線をアドゥール川へ押し上げ、バイヨンヌを包囲。さらに大西洋から河川を遡りボルドーを砲撃した。メディテラネア軍は連合の支援の下でコルシカ島を占領、陸でもフランス軍を国境の向こうへ押し返し、部分攻勢でニースのアイルランド軍と握手を果たした。イギリス海峡を支配するcelto海軍はノルマンディーへの大規模上陸作戦を計画し、イタリアでの反攻に合わせて実行に移された。沿岸の守備隊はほとんどおらず、イットリカン兵を中心とした旧大陸派遣軍は上陸に成功。アルベルティーヌは追加徴兵や退役兵の呼び戻しを行い、なんとかノルマンディー地方で食い止めた。新大陸ではラエリア=アラスカ軍はパナマ運河へと到達し、運河を挟んでの激しい砲撃戦が行われていた。
このころ、フランス東洋方面軍司令官ボナパルト元帥は、陸軍大臣に復帰したベルシカラーの要請でマルセイユに帰還していた。ラティアンスへの共同上陸作戦の成功は数少ない今戦争での成功した軍事作戦であり、国内世論は彼の期間を待望。アルベルティーヌも無視できなかった。ボナパルトはインドから連れてきた少ない精鋭を率いスイスへ向かった。
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ピエモンテ包囲戦

スイスに入ったボナパルトは精強なスイス兵を雇い入れ、手持ちの兵とともにアルプスを越えた。フランス本土へ攻勢をかけていたイタリアの連合軍にとって、北からの攻撃は晴天の霹靂であり、ボナパルトはほとんどがら空きのミラノを占領した。呼応するようにマルシアル元帥率いるイタリア方面軍も、組織的交代で温存した兵力を全力で投入。前線を突破しリグリア地方を電撃的に占領していった。ピエモンテの連合軍主力はたちまち包囲の危機に晒された。今にも南北から伸びる輪は閉じようとしている。メディテラネア軍はせめて支援に来た連合軍を逃がすべく、決死の覚悟で殿軍となり、フランス軍の足止めへ向かった。激闘の末、連合軍は辛うじてパルマへ後退に成功。しかし、ロマーニャ大公麾下のメディテラネア主力はピエモンテにて包囲された。
フランス・イタリア方面軍はボナパルトが指揮を執り、包囲下のメディテラネア軍を圧迫。包囲網の突破を図るも失敗したメディテラネア軍はトリノへ逃げ込んだ。長期の包囲戦も覚悟したロマーニャ大公だが、彼の下にボナパルトが一人で現れた。トリノ会談と呼ばれる話し合いの末、メディテラネア軍は武器を所持したままヴェリチェルカ辺境伯領への退却が許され、イタリア方面軍もまた、メディテラネアから撤退していった。
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エリック2世の親政開始

戦争も二年目を終えようとしているころ、アルベルティーヌは久々となるイタリアからの朗報に歓喜していた。しかし喜びもつかの間。スミトラント軍がしびれを切らし、通行権を拒否し続けるラインラントへ宣戦布告し侵攻を開始した。さらにアイルランド軍がブルターニュへ上陸し、あまり関係のよくないcelto軍は、予定を早めさらなる攻勢をかけてきた。最前線のイットリカン軍はパリ西方40km地点まで迫り、焦ったアルベルティーヌは皇帝エリック2世を連れてリヨンへ逃げようとした。しかし、皇帝がいるはずのテュルイリーの居室にその姿はなく、代わりにボナパルト元帥と数名の部下がマスケットを向けて待っていた。エリック2世はこの日誕生日を迎え15歳となり、継承法に基づき摂政の保護を外れ親政が可能となる。ボナパルトは「皇帝誘拐未遂」でアルベルティーヌを捕らえ、フランス全土へ皇帝より預かった勅令を発した。エリック2世の治世の始まりである。
件の皇帝陛下はといえば、意気揚々とパリへ迫るcelto軍へ、自ら近衛兵を率い襲撃していた。そもそもアルベルティーヌへ皇帝を連れてパリを離れるように説得していたのは、イットリカンのスパイであり、パリ一番乗りのための工作であった。それもあって油断しきっていたところへ、フランス古参近衛騎兵が突撃を行い、見事に前線司令官を打ち取った。アルベルティーヌの目を盗み、フランス最高の元帥とも謳われたベルシカラー直々に教育を受けていた少年は、その才能をいかんなく発揮。「皇帝」を取り戻したフランス軍はようやく士気を取り戻し、ノルマンディーで戦ったクラフタリア将官は「まるで脳を取り戻した肉体のよう」と書き残している。
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ナント、ハンブルクの戦い

ナントを包囲したアイルランド軍は、celto軍が北へ退却していくのを見て、早期のナント確保のため総攻撃を行った。このときナント城の守備隊司令官はエリック帝(1世のほう)の庶子とされるトゥアル将軍であった。彼は母がブルターニュ貴族であったため、民衆を味方につけるため勝手にブルターニュ公を名乗りアイルランド人への徹底抗戦を呼びかけた。FAMOT戦争などで外国人の侵略を受けた彼らは、とりわけアイルランドの共和主義者を憎んだ。占領地では暴動を起こし、ナントへ突入したアイルランド軍へは武器を取って立ち向かった。最終的にアイルランド軍はナントを制圧しトゥアル将軍を拘束したが、その過程で三万から四万と言われるブルターニュ人の犠牲者が出た。
エリック2世はランスで正式に「フランス王」に即位し、そこからアイルランド軍の攻撃を「ナントの虐殺」と喧伝。フランス国民は連合軍へ敵意を抱き、西方の戦線へは市民兵がこぞって志願した。同じころ、スミトラント軍がラインラントへ侵入を始めると、ラインラント軍は侵攻を止めるべく展開し、フランス軍へ支援を要請した。ジデンローヴ元帥が軍を率いハノーファーへ入ると、ハンブルクのラインラント軍と共同で戦線の構築にあたった。スミトラント軍は各個撃破を狙いハンブルクを攻撃した。ハンブルクの戦いは、瞬く間に決着がついた。戦車を持たないラインラント軍はスミトラント軍の起動戦に対応できず、野戦軍は包囲殲滅され、リューネブルクやローテンブルクは陥落。首都ハンブルクも包囲された。予想外の瞬殺はハノーファーのジデンローヴ元帥を孤立させ、浸透したこれを包囲しつつヴェーザー川まで到達した。
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インカ、パナマ戦線

クラフタリア海軍はインカ攻略のため無数の砲撃を行い、港湾都市リマは炎に包まれた。石造りの建造物群は砲撃の余波で倒壊し、多くの民間人死傷者を出した。クラフタリア軍は何度か上陸戦も行い、上陸軍はアレキパの戦いでアタワルパ帝自ら率いるインカ軍主力を破った。しかし、これ以降インカ軍は山間に潜み、クラフタリア軍の補給部隊を狙い襲撃を行うようになった。アリャスラ峠の戦いでは、銃を持たないインカ軍がクラフタリア軍を敗走させ、全世界へ衝撃を与えた。クラフタリア軍は報復に各都市へ爆撃を行い、現地では「怪鳥伝説」として語られた。インカと同盟を結び友好関係にあるメディテラネアは、国内のクラフタリア義勇兵を率いる将軍を通じ戦争停止を求め抗議した。また現地に派遣されていた小艦隊は、提督の独断でクラフタリア艦隊へ奇襲を実行。油断していたクラフタリア補給艦隊を沈め撤退へ追い込む一因となった。舞羅帝国からも多くの義勇軍が送られ、クラフタリア軍を激しく攻撃した。国内世論の反対もあり、クラフタリア軍は撤収を開始したが、舞羅の介入もあり、せめてインカが脳国家へ落ちないよう、手術可能な病院施設を破壊していった。当然多くの犠牲者が出たため、非人道的な作戦として世界から避難されることとなった。
インカの戦争が落ち着いたため、コロンビア軍はラエリア=アラスカ軍への対処に向かった。パナマ市は辛うじて耐えていたものの風前の灯火であり、首都メデジンも復讐に燃えるラエリア軍の航空隊により空爆を受け、燃えていた。コロンビアはあらたに徴兵した援軍を、総督カニザレス自ら率いパナマの救援に向かった。この軍にはインカの精鋭部隊が援軍に来ていた。ラエリア=アラスカ軍は海上戦力をパナマ湾へ終結させ、陸海からの総攻撃でパナマの陥落を狙った。総攻撃予定の前日、コロンビアの秘蔵の小型艦や潜水艦の艦隊がパナマ湾へ突撃し、艦隊を混乱させた。とはいえ数も少なく、一隻、また一隻と撃沈されていった。しかしこの特攻は時間を稼ぎ、なにより注意力を奪った。日暮れごろにはるか太平洋の向こうからフランス東洋艦隊が到着。パナマ湾のラエリア=アラスカ艦隊へ攻撃を加えた。湾内に閉じ込められた艦隊は東洋艦隊に撃破されていった。脱出にこそ成功したものの、パナマへの攻撃は中止された。
画像の説明
 

フランス=ラインラント同君連合

戦争は三年目に突入した。フランスはヴァルキア軍と共同でラインラントの救援作戦を実施した。両軍はビーレフェルトの戦いでスミトラントを撃退し、さらに猛攻でブレーメンを奪回した。スミトラント軍はハンブルクのラインラント軍の脱出は防ぐべく戦線を整理したが、これよりも早くフランス軍の先頭部隊は機動していた。すでにフランス軍はかなりの長距離を行軍しており、補給もままならなかったが、先頭を駆けるのが皇帝とあってはついていかざるを得なかった。
ハンブルクで戦闘が始まった。市内は冬の包囲を耐え抜き、すでに疲弊していたが、エリック2世がとりわけ解放に熱心なのはほかに理由があるようだった。ほとんど砲撃もしないまま、エリック2世は近衛兵とともに包囲へ突撃した。これがかえって奇襲的効果を生み、一部を敗走させた。突出した皇帝の部隊を包囲せんとスミトラント軍は機動したが、これはハノーファーのジデンローヴ軍に防がれた。スミトラント軍は北方の戦線をエルベ川まで後退させ、フランス軍はハンブルクの救出に成功した。エリック2世は先頭で市に入り、ラインラント女帝自らの歓待を受けた。エリック2世はなんとその場で求婚し、ラインラント女帝は困惑しながらもなぜかこれを受けた。突然の仏聖の連合に世界は困惑した。二人はハンブルクからアーヘンに移動し、アーヘン大聖堂で結婚式を挙げた。また同地で共同皇帝としてフランス帝国が自称していたフランク・ローマ皇帝への即位を行った。
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対仏連合の不和

イタリア戦線は、フランス軍の圧力がなくなったことで、連合軍は内部分裂を始めていた。トラキアやceltoは積極的な攻勢を望んだが、本土が守れればよいメディテラネアやその同盟国軍は反攻を望まなかった。外交工作でフランス=ラインラント連合を成立させたボナパルトは、チッタ=エテールナにて秘密会談を行い、フランス内のイタリア人多数派地域であるニース、サヴォイア、またコルシカを割譲し、さらに賠償金支払いによってメディテラネアと和平を結び、戦後""ラテン同盟""を結び友好国となる提案を出していた。メディテラネア諸侯は対応が二つに割れ、今や国内に大量に駐留している外国軍との兼ね合いもあり、混乱状態にあった。
アーヘンの即位式を受け、ついにトラキアがしびれを切らした。トラキアは連合軍からの離脱を宣言し、独自にプロヴァンスへ侵攻を開始した。これにメディテラネアは反発し補給を打ち切ったため、トラキア軍は駐留する軍事力を背景に御用商人を脅しあげたり、村落から強制徴発をおこなったりしたため、両国の関係は極めて険悪となった。さらにフランス憎しのイットリカン軍やクラフタリア軍などが続いて連合を離脱し、コルシカ島の占領など独自の軍事行動を開始したため、メディテラネアは急速に反連合へ傾いていった。
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新大陸の終戦

パナマで戦闘を続けていたラエリア=アラスカ軍とコロンビア=インカ連合軍だが、ラエリア=アラスカ軍は海軍の致命的な敗戦によって、次第に補給が厳しくなっていた。最後の総攻撃としてパナマの戦いが起こり、ラエリア=アラスカ軍は市内への突入に成功。壮絶な市街戦によって、双方に甚大な被害が出た。最終的にラエリア=アラスカ軍は戦闘に勝利し市を占領したが、これ以上の損害は許容できない局面にあった。カルタヘナで会談が開かれ、コロンビアの賠償金支払いによって停戦協定が結ばれた。ラエリア=アラスカ軍は最大の目標であるパナマの併合はかなわなかったが、第二の目標は達成したため、おおむね満足し撤退した。その目標とはコロンビア産麻薬の撲滅であり、戦争の砲撃爆撃によってコロンビアの農園は壊滅的な被害を受けていた。
一方でイットリカンとエルドランドの戦線だが、こちらは開戦以来特に進展がなかった。両軍は国境線でにらみ合い、苛烈は砲撃と爆撃を繰り返していた。その結果、もとより湿地帯であったところがホクレン最終戦争により耕され、さらに今戦争で耕されたことで、戦車さえまったく進めないほどの泥濘と化していた。湿気がたまり両軍には疫病も蔓延し、不毛な戦争に疲れ事実上の停戦状態となっていた。イットリカン軍は対フランスに集中することにした。新大陸での戦闘が終結へ向かったことは、主戦場たる欧州での戦争の終結へ影響を与えた。
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ル・マンの戦い

イットリカン軍を中心としたcelto統合派遣軍は、ふたたびノルマンディーへ上陸、同地を占領した。しかし、隣接するアイルランド軍とは非常に折り合いが悪く、度々暴力沙汰が起こり、緊張が走っていた。その後celto軍はアイルランド軍の占領地拡大を塞ぐように南下し、ル・マン市を占領しようとしたところ、ドイツから戻ってきたエリック2世率いるフランス軍と激突した。前回の反省から、十分な戦力を揃えていたcelto軍はフランス主力の大軍と互角に戦った。若いエリック2世の拙攻を跳ね返し、手痛い反撃を加え、ついにこれを打ち破った。フランス軍はパリ方面へ退却した。
退却の際、フランス軍はブルターニュのアイルランド軍へ誤報を流した。フランス軍が戦闘に勝利し、北へ退却するcelto軍を追撃していると思い込んだアイルランド軍は、孤立し各個撃破されることを恐れ、戦闘後の疲弊したフランス軍を補足し叩こうと攻勢に出た。celto軍は背後からアイルランド軍の奇襲を受ける形となり、足止めを受けるどころか大損害を被った。誤解が解けたころにはフランス軍はボナパルト元帥率いる別部隊でノルマンディーを奪還しており、逃げ道を失ったcelto軍は、ブルターニュから撤退するためアイルランド軍と交渉した。アイルランド軍の司令官はこの失態を隠蔽するため、ボナパルト元帥の提案(工作)を受けた。両国は口裏を合わせ、フランス軍単独でcelto軍を包囲殲滅したと公表することにした。また、この秘密交渉でアイルランドへブルターニュ半島の割譲を認めたことが決め手となった。孤立し包囲されたcelto軍は決死の突破を図るも、連戦の疲弊や物資をかなり消費していたこともあり、次第に追い詰められ全滅した。多くが捕虜となり、この敗戦が切っ掛けとなりceltoはこの戦争からの撤退を図るようになった。
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ケープタウン講和会議とニュルンベルク四皇帝会戦

このころ、フランス外相メゾンの呼びかけで和平へ向けた交渉が始まっており、仲裁にはいずれの係争国家とも政治的、地理的に離れたネストニアが名乗りを挙げた。ケープ・タウンでは各国代表が集い交渉が行われたが、あまりに膨大な参加国間での調整は絶望的であった。
フランス=ラインラント同君連合の成立を白紙へ戻すべく、スミトラントはトラキアの援軍を加え、ラインラントへ大規模攻勢を行った。同時に北フランスのceltoやアイルランド軍へ攻勢を要請していたが、先のル・マンの戦いによって彼らは期待に応えられなかった。しかし外交工作に成功し、ラインラントの諸邦のひとつバイエルンはフランスの間接的支配へ反発し離反。スミトラント=トラキア連合軍へ加わった。この動きを捕らえたエリック2世は主力軍を現地へ強行軍で急行させ、両軍は交通の結節点ニュルンベルクで激突した。フランス軍は二手に分かれ、合流前に各個撃破を狙った。エリック2世は寡兵でバイエルン軍を急襲し敗走させたが、スミトラント軍への攻撃を命じられたフィッツカラルド元帥は軍の大半を預けられながらもスミトラント軍相手に勝ちきれず、むしろ突出し、追いついたトラキア軍と挟み撃ちにされてしまった。
フランス軍のピンチに、今度はラインラント軍が女皇直々に率いられ到着した。スミトラント、トラキア軍もまた皇帝が指揮を執ったため、この戦いは四帝会戦とも呼ばれる。激戦はしばらく続き、犠牲者の数はフランス側の方が多かったものの、最終的にニュルンベルクは守られた。フランス本土ではcelto軍を片付けたボナパルト元帥が援軍としてシュトゥットガルトまで来ており、スミトラント=トラキア軍は作戦を中止、撤退した。なお、この戦いにフランス側で参加したヴァルキア軍はトラキア軍を叩き、陰毛野郎と因縁の決戦を行っている。トラキア軍は夏の生い茂った草原に足を取られ機動力を失い、ヴァルキア軍の大砲によって大きな被害を受けている。
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ヴァラキアの参戦とトリノ条約

ニュルンベルク会戦の結果、メディテラネアは明確にフランス陣営へ寝返った。発信源はわからないが、こんな誤報が新大陸に流れた。ヴァラキア帝国は隣国インカの領土を狙っていたが、同盟国エトルシアがインカの同盟国メディテラネアを支援していたため、機会を伺っていた。誤報を真に受け、メディテラネアとceltoの共闘関係が白紙化されたと判断したヴァラキアは、クラフタリアからの侵攻の傷が冷めやらぬインカへ侵攻を開始した。これには事実上の同盟関係まで進展していたコロンビアがインカ側で参戦し、両陣営の戦闘となった。これには名前が紛らわしいことに怒ったヴァルキア王国がインカ側で支援を表明している。ヴァラキア軍はペルー地域全域を占領するほどの快進撃をみせたが、戦前に友好の証として送った核爆弾が火を噴いた。追い詰められたアタワルパ帝は核が何か知らなかったが、ヤケクソでボタンを押したところ、ヴァラキア軍主力がまとめて吹き飛んだ。以降皇帝は神の炎を操るとされ、神格化された。
クラフタリア、ヴァラキアと立て続けに同盟国が侵攻を受けたことで、メディテラネアは完全に連合を見限り、フランスとトリノ条約を締結。コルシカ島とニース、サヴォイ両地域の割譲と賠償を得、両国は和平を結んだ。国内の連合軍には退去を命じ、これには従う国もあれば、反発する国もあった。特にトラキア軍は占領したニースからの退去を拒否したため、メディテラネア軍はこれを攻撃した。しかしトラキア軍はこれを撃退し、結局終戦まで占領し続けることとなる。
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メディテラネアの離反を防ぐため、celto軍はクーデターを画策する。駐留する派遣軍を首都チッタ・エテールナ(ローマ)へ終結させ、共和派支援の名目で攻撃を開始した。陸海からの激しい攻撃に晒されたローマは、しかし歴史的な強固な城壁でこれに耐えた。近郊ではメディテラネア軍との戦闘が始まった。celto艦隊の支援によってメディテラネア軍はおおいに苦しめられたが、これまでずっとマルセイユに引きこもっていたフランス艦隊がついに出撃し、celto艦隊を攻撃した。最終的に蹴散らされてしまったものの、この間にメディテラネア軍はcelto軍を後退させた。celto軍はナポリからの脱出を図り、占領を目指した。しかし、celtoと潜在的に敵対関係にある月ノ谷軍が妨害を行った。彼らはナポリへ大量の「観光客」を送り込み、現地人と交流していた。街道はごった返し、突入したcelto軍は退去を迫るも拒否。次第に突発的な発砲から戦闘に発展した。「観光客」らは護身用の銃火器で交戦。celto軍を町から追い出した。第五インターと敵対したくないという上層部の意向によりcelto軍は見捨てられた。メディテラネアとフランスの連合軍に包囲され、投降した。
ようやく手の空いたフランス軍はコロンビアへ派兵し、メディテラネアもインカ支援のため派兵した。両軍は南米でヴァラキア軍とたたかい、これを国境まで押し戻した。ヴァラキアは戦争継続を断念した。また極東での戦争も決着がつき、すべての戦争が終結した。
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 終戦と講和

ケープタウン講和条約

全勢力が合意に至り、ケープタウン講和条約が締結された。発端となるフランスは、メディテラネアへコルシカ島とサヴォイアを割譲。当初予定されていたニースはトラキア軍が占領し続けたため、そのままトラキアが獲得した。また、アイルランドと結んだ秘密条約であるトゥール条約が履行され、ブルターニュ半島がアイルランドへ割譲された。多くを失ったが、それ以上にラインラントとの同君連合が国際的に承認され、結果的には大きく版図を広げた。
メディテラネアは多くの勢力にふりまわされながらも、最終的に領地を獲得した。戦後フランスとメディテラネアはラテン君主同盟を結び、インカ帝国とも結びつきを強めた。インカ帝国は戦争で国土が荒れたが、戦後北のコロンビアはじめ仏連と国交が開かれたことで、銀の輸出などで莫大な利益を獲得し、復興が進んだ。
celtoは直前の機構内内戦の影響が影を落とし、組織的な行動がとれず後手を踏んだ。戦後はフランスの勢力が拡大したこともあり、第五インターとの共闘路線を深化させていく。これに対抗する形で、ブルターニュの獲得で多少敵対関係が和らいだアイルランドや、ソ連憎しのモレラなどはフランスとの関係改善が見られた。
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最終更新:2022年08月31日 19:35