「失われた10年」と宮澤喜一
「失われた10年」を別の角度から追ってみよう
バブル期の昭和61年(1986年)から63年(1988年)までの大蔵大臣は、親米・米国通で、国際金融に明るい、と自他共に認める宮沢喜一だった。
その宮沢が、バブル破裂後の平成3年(1991年)から平成5年(1993年)まで、首相の座にあった。
首相になる前、当時自民党内で権勢を誇った小沢一郎に、その事務所に呼び出されて、「首相になるための面接」を受けたと報道された。マスコミの関心は、天下国家の財政立て直し問題より、自民党の派閥領袖の権力争いという、今も昔も変らぬ政局話に仕立てた。マスコミは、問題を矮小化し、問題の焦点をぼかし、国民大衆をはぐらかす。
小沢一郎は、田中角栄の薫陶を受け、日本経済の高度成長時代を通じた自民党長期政権下で、バブル経済の背後で大活躍したであろうことは想像に難くない。湾岸戦争で100億ドルに、プラス30億ドルの追加協力金を、ほとんど独断で決定したのは、小沢一郎ではなかったか。そういう小沢の面接を受けて首相になった宮沢は、金融機関や企業が保有するバブル後の不良債権をどう処理するのか期待されたのだ。しかし、その一方で、
バブル当時の大蔵大臣、宮沢喜一の責任を追究する声はついぞ聞かれなかった。
平成10年(1998年)7月に誕生した小渕内閣で、行財政改革の難局処理に当る党内重鎮としての宮沢喜一が、大蔵大臣に招請された。
バブル発生当時の大蔵大臣が、何の政治責任を問われることなく、恥も外聞もなく、政権政党が当人を大蔵大臣に招請し、本人はその招請を受託した。
マスコミに批判の声はなかった。自民党と公明党の協力関係が公にされ、事実上の連立が始まったのはこの頃からだ。有識者と言われる人々も、何も感じるところはなかったようだ。マスコミから与えられるもの以上の情報をもたなくなった。言い方を変えて言えば、雑多な情報が錯綜するため、常に受け身の対応しかできなくなった世相の弊害だ。インテリジェンス性のない雑情報なのだ。
マスコミの最前線で取材する記者は、駆け出しが多いと聞く。そういう記者の集めた原稿記事をデスクと称する上司が、チェックをするのだろうが、原稿自体にインテリジェンス性が不足していれば、どのマスコミの記事も同じ傾向になる。情報収集と分析の能力が不足している。
今日の1000兆円の国債残高を前にしても、「95%が国内消化だから大丈夫」という楽観論を唱える識者が多いが、これも同じインテリジェンス性欠如の連鎖なのだ。
平成11年(1999年)3月に、大蔵省の「財政金融統計月報」が出た。この年、自民党(小渕総裁)と自由党(小沢代表)の連立政権がスタートしていた。
その平成11年版で、平成2年度末の金融機関の「貸出金」残高が、市場解放前(昭和55年)の120兆円が、平成2年度末で430兆円になっている数字が表示されていた。
その統計資料のそれまでの残高の計数表示は、5年毎の区間で表示されていたが、
昭和60年の数字は省力されているのだ。つまり、昭和56年から平成元年までの10年間の貸出金残高の推移が省略されていた。
宮沢が首相に就任したのは平成3年だから、平成2年版の統計月報で、昭和60年の残高がはっきり表示されていれば、
正にバブル最高潮の昭和61年から63年の大蔵大臣宮沢喜一の実績が際立って出てしまう。
「ちょっと具合が悪いのでは」と、官僚なら賢く立ち回らなければ、後から気が効かない奴だと、出世の道も断たれるであろう。それが、官僚に限らず、サラリーマン人生というものだ。
敢えて、昭和55年の次の5年区分の昭和60年をパスして、10年後の平成2年まで飛んだと言うわけではないか?
宮沢の立場を慮った古巣の大蔵官僚たちの知恵であろう。
宮沢元首相への助け船か、組織ぐるみのバブル隠しだった、と見なさざるを得ないではないか。
とにかく、その意図はどうであれ、その後、宮沢首相の平成3年から平成5年を含め、平成12年までに、経済破綻回避、緊急経済対策、景気刺激、景気浮揚等のいろいろな名目で赤字国債が乱発され、
平成2年度の国債残高168兆円は、平成12年度には381兆円になった。
首相経験者が大蔵大臣で再登場するのは、高橋是清に先例があった。高橋は、二・二六事件で陸軍反乱将校の凶弾に倒れ、国の為に犠牲になった。宮沢には、秀才、有能、文人、該博などその才能を称賛する美辞が贈られる。
しかし、政治世界で最高の地位を占めた割には、その印象が伴わない不思議な人であった。
「国の為に犠牲なったのではなく、むしろ、国民が犠牲になったようなものだ。
少なくとも、是清みたいに、日本銀行券の顔になることはない、絶対にない。平成13年(2001年)4月に、森内閣から小泉政権に替ったときも、宮沢は重鎮として大蔵大臣に留任し、「大蔵省」解体に立ち会った。宮沢には、バブルという日本経済を襲った災厄は、最後まで他人事だったのか、それとも内心その責任を感じていたが、自尊心からそれを口に出して言わなかっただけなのか?
大蔵という名称に感傷を抱き、その廃止には涙を呑んだ、と伝えるマスコミも報道も、最後まで、核心を外している。
「宮沢は、1年以上首相を務めた者に贈られる「大勲位菊花大綬章」受勲という最高の栄誉を辞退していたそうだ。やっぱり、本人だけは知っていた?
最終更新:2011年02月18日 14:48