車種名 | LD5 |
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クラス | B |
最高出力 | 300ps |
車体重量 | 1120kg |
パワーウェイトレシオ | 3.7 |
吸気形式 | ターボ |
駆動方式 | F4 |
入手金額 | |
0-100km/h加速 | xxx sec. |
最高速度 | 176km/h |
メモ | グループA草創期の伝説。 ランチア帝国最後の立役者 |
記事は編集中です。
概要
Bクラスに登場。クセのあるコーナリング特化のマシン。実車同様に他のマシンより小柄なボディを有し、短いホイールベースと狭いトレッドを生かした俊敏なコーナリングが自慢。反面安定感には乏しく、ラフな踏み込みでは却ってロスになることもしばしば。不安定さを細かい修正舵で常に補正する必要はあるが、決して遅いマシンというわけではなく、乗りこなせれば速い、いわばピーキーなマシンなのである。
元ネタ解説
ランチア・デルタHF インテグラーレ16Vエヴォルツィオーネ
デルタS4によるトイヴォネンの事故の翌年、1987年。グループA規定に合わせ、ランチアはマシン開発を進めていた。いや、正確には「この車で進めざるを得なかった」。そのマシンの名前はデルタHF 4WD。ランチアの手持ちの駒の中でラリー向きの四輪駆動マシンがこれしかなかったのである。デルタのデビューは1979年、すでに8年落ちの車両であったが、開発を続行。87年シーズン初戦からラリーでの活動を開始しつつ、熟成が十分でなかった部分はラリーに参戦しながら開発を進める体制を取った。
市販のデルタ最初のベースは先述のHF 4WD、ファミリーカーに167馬力を発揮するターボエンジン、および四駆システムを装備したスポーツモデルとなっている。その後、エンジンは185馬力を発揮し、ブリスターフェンダーで武装したHFインテグラーレが登場。さらにエンジンを16バルブ化したHFインテグラーレ16v、3ナンバーボディを獲得して戦闘力アップを図った16vエヴォルツィオーネと進化した。この後16vエヴォルツィオーネⅡも発売されるが、ラリーへの投入はされなかった。本作に収録されているのは、スペックから考えると実戦投入された中での最終型である16vエヴォルツィオーネのグループA仕様であるが、ヘッドライトやボディのスリムさは初期型のHF 4WDに近いように思える。
迎えた初戦、モンテカルロ。ランチアはワークスドライバーとして前年王者のJ.カンクネン、前年のアルゼンチンで初優勝を決めた期待のイタリア人ドライバーであるM.ビアシオン、そして長年ランチア/フィアットワークスで戦い続けるベテランのM.アレンという名だたる顔ぶれを揃えてラリーに挑む。アレンは前年のサンレモラリーのリザルト無効裁定を不服として欠場してしまうが、ビアシオンが1位、カンクネンが1分差で2位につけラリーのランチアの健在ぶりをアピールしてみせた。その後もポルトガル、アクロポリス、オリンパスを制覇し、第9戦アルゼンチンにおいて早くもマニュファクチャラーズタイトルの獲得を決める。この間、第5戦ツール・ド・コルスからカーボンプロペラシャフトの採用で軽量化に成功し、シーズン内でも戦闘力を上げていく。このシーズン、ドライバーズタイトルの争奪戦は最終戦RACまでもつれ込んだが、最終的にはカンクネンがプジョーに乗っていた86年に引き続き優勝、2連覇を遂げた。
88年の第3戦ポルトガルからは、マシンをHF4WDからHFインテグラーレへと更新。ドライバーは昨シーズンと同じくビアシオン、アレンと、チームオーダーを巡ってランチアを離脱したカンクネンと入れ替わる形でM.エリクソンを招聘する。このうちビアシオンはランチア初のサファリラリー制覇、また第6戦アクロポリスと第7戦オリンパスも優勝し、この段階でマニュファクチャラーズタイトルの連覇が決定した。この年のドライバーズタイトルはビアシオンが獲得、見事両タイトルの連覇を成し遂げたのである。
89年、ランチアは昨シーズンのドライバーに加えてD.オリオールとも契約。モンテカルロ、ポルトガル、アクロポリス、アルゼンチンでデルタの1-2-3フィニッシュを決めるなど他を圧倒する大活躍を見せ、第8戦のアルゼンチンでまたも早々にマニュファクチャラーズタイトルを獲得。ところが、この辺りからランチア帝国の雲行きは怪しくなっていく。日本勢の出現であった。
1000湖ラリーに出場したギャランVR-4が、ついにデルタの連戦連勝に待ったをかけたのである。このギャランのドライバーは、前戦アルゼンチンでデルタを駆り首位を獲得したエリクソンであった。続くオーストラリア、今度はトヨタ勢のST165型セリカGT-FourがカンクネンとK.エリクソン(先のM.エリクソンとの血縁関係はない)のドライブで1-2フィニッシュを決める。これには絶対王者ランチアも黙っておらず、ニューマシンとしてシーズン末のラリー・サンレモにデルタHF16vを投入し、更なるハイパワー化を図る。最終的に、ビアシオンが16vを駆りなんとかドライバーズタイトルを防衛し、辛くも連覇を決めたのであった。
90年シーズン、ランチアはビアシオンとオリオールに加え、2年ぶりの復帰となるカンクネンを擁して4連覇に臨む。第3戦ポルトガルでは三菱勢、トヨタ勢のトラブルにより5位までを独占する大勝利を挙げる。その他のラリーも上位争いには食い込むが、ランチア以外にもフォード、マツダ、三菱、トヨタ、スバルと錚々たる顔ぶれの揃うシーズンとなり、1000湖ラリーではトヨタのC.サインツ.セナモールが優勝した一方でランチアはカンクネンが5位と、成績が振るわない結果となる。このシーズンの結果はマニュファクチャラーズタイトルの4連覇こそ決めたものの、ドライバーズタイトルはトヨタのサインツに奪われ、ここにランチアの牙城は崩されたのであった。
91年シーズンは序盤からトヨタ(というか、サインツ)に苦しめられる。サインツは序盤3戦で優勝、第4戦サファリでランチアのカンクネンに敗北するも続く第5戦ツール・ド・コルスで再び優勝し、戦いを優位に進めていく。続くアクロポリス、ランチアにトヨタ、フォード、三菱、マツダ、スバル、日産と7大ワークス揃い踏みとなったこのステージではカンクネンが今シーズン2度目の優勝。2位はサインツが獲得するもののビアシオン、オリオールがそれぞれ3位と4位に入賞し、まだまだランチアは現役であることを知らしめる。その波に乗ったのか、ニュージーランドとアルゼンチンではサインツに敗れつつもカンクネンが2位、そのほかのドライバーも上位に入賞、ランチアの逆襲が始まる。1000湖ではついにカンクネンが優勝し、オーストラリアでも連勝。前半には勢いに乗るも、後半になりイマイチ成績の振るわないサインツをポイントで追い詰める。迎えた第11戦サンレモ、ランチアのお膝元では昨年に引き続きオリオールが優勝し、なんとマニュファクチャラーズ5連覇を決定する。そしてこのシーズンではカンクネンがサインツを大逆転、ドライバーズタイトルも獲得するに至ったのであった。
92年、ランチアはワークスとしての活動を休止。しかしながらジョリークラブが準ワークスチームとしての体制を築き、引き続きマルティーニのスポンサーを得て活動を続ける。ニューマシンとしてデルタHFインテグラーレ16vエヴォルツィオーネを投入したランチアは、序盤2戦を連勝と好スタートを切った勢いに乗りオリオールがシーズン中盤を圧倒。参戦したラリーで5連勝と圧倒的な強さを見せつけ、6年連続10回目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得したのであった。しかしながらドライバーズタイトルは最終戦RACを目前にトヨタのサインツが124pts、ランチアはカンクネンが122pts、オリオールが121ptsと終盤までもつれ込む。RACラリーでは残念ながらカンクネンは3位、オリオールはリタイア、そしてサインツが優勝しドライバーズタイトルはサインツに奪い返されてしまったのである。
93年はあの宿敵(?)サインツが自身のスポンサーであるレプソルと、この年からトヨタのスポンサーとなったカストロールのバッティングを避ける形でトヨタを離れ、ランチアもといジョリークラブに移籍しシーズンを戦う。余談だが当のサインツはワークスデビュー当初から王者ランチアのワークスドライバーとして戦うことを夢見ていたのだそう。しかしながら資金援助が減少した影響で成績は振るわず。それでも果敢に戦うランチア勢は、サインツがアクロポリスでエスコートを駆るあのビアシオンに続いて2位を獲得。ポルトガルではA.アギーニが、地元サンレモではG.ピアネッツオーラが3位表彰台を獲得するも、もはやデルタに後発の日本勢と渡り合うだけの力が残されていないのは誰の目にも明らかであった。結局93年シーズンは入賞3回、最高位は2位という戦績に終わった。そして、ジョリークラブは翌シーズンより使用マシンをフォード・エスコートに変更することを発表。ここにデルタ、そしてランチアのラリー活動に終止符が打たれたのである。
グループA規定はそれまでのグループBとは異なり、大量生産車をベースとしていた。ホモロゲーション取得のためには年間5000台(のちに2500台)の生産が義務付けられていたのである。しかしそのレギュレーションにより僅か5年の間にマツダ323(87年スウェディッシュラリー優勝)、トヨタセリカ(90年、92年WRC制覇)、三菱ギャラン(91年アイボリーコースト優勝)→ランサー(96年WRC制覇)、スバルレガシィ(93年ニュージーランド優勝)→インプレッサ(95年WRC制覇)、日産パルサー(92年スウェーデン3位入賞)と、実に5つの日本メーカーが4WDターボマシンを引っ提げてランチアに挑んだ事になる。我々日本人にとっては夢のような時代だが、迎え撃つランチアにとっては異常事態である。当時のチームマネージャー、N.ロッソは「あの当時『一体日本ってどんな国なんだよ!』と冗談交じりに話したものだ」と語っていたが、確かに5000台もベース車、それもコンパクトで高性能な4WDターボマシンを作らないといけないグループAのマシンがわんこそばのように次から次へと登場したのだから無理もない。そしてランチアもそれに応えるように毎年アップデートを繰り返した。しかし彼は「それが出来たのも日本の皆さんのお陰なんだよ」と語る。イタリアにおいてデルタHFは、当時の日本のように矢継ぎ早には売ることができなかった。高性能な4WDスポーツは現地の人々にとっては実用車とは言い難く、需要が低かったからである。そんな状況にあったデルタだが、消費地を多い順に並べると地元イタリア、メカ好きのドイツに次いで3番目はなんとヨーロッパから遠く離れた日本だったのだという。ちなみにこの3ヶ国以外で4WDターボのデルタはほとんど売れていない。デルタHFがよく売れた日本では「デルタ・アッカエッフェ・インテグラーレ・エヴォルツィオーネ・ドゥエ・コレツィオーネ・エディツィオーネ・フィナーレ」と銘打たれたクッソ覚えにくい最終限定車も売られるほどであったからその人気は計り知れない。ホモロゲ取得のためにアップデートをしたいアバルトと、開発したところでどう販売するかに頭を悩ませるランチアには意見対立が絶えなかったようだが、遠く離れた日本に消費者が存在したことは開発の追い風となっていたようだ。更に彼は「しかも日本のランチアディーラーはWRCでライバルのマツダ資本と聞いて頭がおかしくなりそうだよ(笑)」とも語る。
ひっきりなしに新たなラリーウェポンを投入する日本勢に対し、ランチアは6年間ベース車輌を変えずに迎撃しなければならなかった。4WDターボがよく売れる特異な土壌で育ったマシンに対して、晩年に苦戦を強いられるのは当然のこととしか言いようがない。それに加え、自動車にとっての6年という歳月はあまりにも長く、デルタにとっては(基本設計の話ではあるが)WRCデビュー時ですでに8年落ち、つまり最大で14年後の技術を詰め込んだマシンを相手取らなければならなかったのである。それにもかかわらずデルタは6連覇を達成。その素性の良さは史上稀に見る傑作と評されるべきであろう。ランチア帝国の最後の栄光は、今なお燦然と輝き続けているのである。
デルタS4によるトイヴォネンの事故の翌年、1987年。グループA規定に合わせ、ランチアはマシン開発を進めていた。いや、正確には「この車で進めざるを得なかった」。そのマシンの名前はデルタHF 4WD。ランチアの手持ちの駒の中でラリー向きの四輪駆動マシンがこれしかなかったのである。デルタのデビューは1979年、すでに8年落ちの車両であったが、開発を続行。87年シーズン初戦からラリーでの活動を開始しつつ、熟成が十分でなかった部分はラリーに参戦しながら開発を進める体制を取った。
市販のデルタ最初のベースは先述のHF 4WD、ファミリーカーに167馬力を発揮するターボエンジン、および四駆システムを装備したスポーツモデルとなっている。その後、エンジンは185馬力を発揮し、ブリスターフェンダーで武装したHFインテグラーレが登場。さらにエンジンを16バルブ化したHFインテグラーレ16v、3ナンバーボディを獲得して戦闘力アップを図った16vエヴォルツィオーネと進化した。この後16vエヴォルツィオーネⅡも発売されるが、ラリーへの投入はされなかった。本作に収録されているのは、スペックから考えると実戦投入された中での最終型である16vエヴォルツィオーネのグループA仕様であるが、ヘッドライトやボディのスリムさは初期型のHF 4WDに近いように思える。
迎えた初戦、モンテカルロ。ランチアはワークスドライバーとして前年王者のJ.カンクネン、前年のアルゼンチンで初優勝を決めた期待のイタリア人ドライバーであるM.ビアシオン、そして長年ランチア/フィアットワークスで戦い続けるベテランのM.アレンという名だたる顔ぶれを揃えてラリーに挑む。アレンは前年のサンレモラリーのリザルト無効裁定を不服として欠場してしまうが、ビアシオンが1位、カンクネンが1分差で2位につけラリーのランチアの健在ぶりをアピールしてみせた。その後もポルトガル、アクロポリス、オリンパスを制覇し、第9戦アルゼンチンにおいて早くもマニュファクチャラーズタイトルの獲得を決める。この間、第5戦ツール・ド・コルスからカーボンプロペラシャフトの採用で軽量化に成功し、シーズン内でも戦闘力を上げていく。このシーズン、ドライバーズタイトルの争奪戦は最終戦RACまでもつれ込んだが、最終的にはカンクネンがプジョーに乗っていた86年に引き続き優勝、2連覇を遂げた。
88年の第3戦ポルトガルからは、マシンをHF4WDからHFインテグラーレへと更新。ドライバーは昨シーズンと同じくビアシオン、アレンと、チームオーダーを巡ってランチアを離脱したカンクネンと入れ替わる形でM.エリクソンを招聘する。このうちビアシオンはランチア初のサファリラリー制覇、また第6戦アクロポリスと第7戦オリンパスも優勝し、この段階でマニュファクチャラーズタイトルの連覇が決定した。この年のドライバーズタイトルはビアシオンが獲得、見事両タイトルの連覇を成し遂げたのである。
89年、ランチアは昨シーズンのドライバーに加えてD.オリオールとも契約。モンテカルロ、ポルトガル、アクロポリス、アルゼンチンでデルタの1-2-3フィニッシュを決めるなど他を圧倒する大活躍を見せ、第8戦のアルゼンチンでまたも早々にマニュファクチャラーズタイトルを獲得。ところが、この辺りからランチア帝国の雲行きは怪しくなっていく。日本勢の出現であった。
1000湖ラリーに出場したギャランVR-4が、ついにデルタの連戦連勝に待ったをかけたのである。このギャランのドライバーは、前戦アルゼンチンでデルタを駆り首位を獲得したエリクソンであった。続くオーストラリア、今度はトヨタ勢のST165型セリカGT-FourがカンクネンとK.エリクソン(先のM.エリクソンとの血縁関係はない)のドライブで1-2フィニッシュを決める。これには絶対王者ランチアも黙っておらず、ニューマシンとしてシーズン末のラリー・サンレモにデルタHF16vを投入し、更なるハイパワー化を図る。最終的に、ビアシオンが16vを駆りなんとかドライバーズタイトルを防衛し、辛くも連覇を決めたのであった。
90年シーズン、ランチアはビアシオンとオリオールに加え、2年ぶりの復帰となるカンクネンを擁して4連覇に臨む。第3戦ポルトガルでは三菱勢、トヨタ勢のトラブルにより5位までを独占する大勝利を挙げる。その他のラリーも上位争いには食い込むが、ランチア以外にもフォード、マツダ、三菱、トヨタ、スバルと錚々たる顔ぶれの揃うシーズンとなり、1000湖ラリーではトヨタのC.サインツ.セナモールが優勝した一方でランチアはカンクネンが5位と、成績が振るわない結果となる。このシーズンの結果はマニュファクチャラーズタイトルの4連覇こそ決めたものの、ドライバーズタイトルはトヨタのサインツに奪われ、ここにランチアの牙城は崩されたのであった。
91年シーズンは序盤からトヨタ(というか、サインツ)に苦しめられる。サインツは序盤3戦で優勝、第4戦サファリでランチアのカンクネンに敗北するも続く第5戦ツール・ド・コルスで再び優勝し、戦いを優位に進めていく。続くアクロポリス、ランチアにトヨタ、フォード、三菱、マツダ、スバル、日産と7大ワークス揃い踏みとなったこのステージではカンクネンが今シーズン2度目の優勝。2位はサインツが獲得するもののビアシオン、オリオールがそれぞれ3位と4位に入賞し、まだまだランチアは現役であることを知らしめる。その波に乗ったのか、ニュージーランドとアルゼンチンではサインツに敗れつつもカンクネンが2位、そのほかのドライバーも上位に入賞、ランチアの逆襲が始まる。1000湖ではついにカンクネンが優勝し、オーストラリアでも連勝。前半には勢いに乗るも、後半になりイマイチ成績の振るわないサインツをポイントで追い詰める。迎えた第11戦サンレモ、ランチアのお膝元では昨年に引き続きオリオールが優勝し、なんとマニュファクチャラーズ5連覇を決定する。そしてこのシーズンではカンクネンがサインツを大逆転、ドライバーズタイトルも獲得するに至ったのであった。
92年、ランチアはワークスとしての活動を休止。しかしながらジョリークラブが準ワークスチームとしての体制を築き、引き続きマルティーニのスポンサーを得て活動を続ける。ニューマシンとしてデルタHFインテグラーレ16vエヴォルツィオーネを投入したランチアは、序盤2戦を連勝と好スタートを切った勢いに乗りオリオールがシーズン中盤を圧倒。参戦したラリーで5連勝と圧倒的な強さを見せつけ、6年連続10回目のマニュファクチャラーズタイトルを獲得したのであった。しかしながらドライバーズタイトルは最終戦RACを目前にトヨタのサインツが124pts、ランチアはカンクネンが122pts、オリオールが121ptsと終盤までもつれ込む。RACラリーでは残念ながらカンクネンは3位、オリオールはリタイア、そしてサインツが優勝しドライバーズタイトルはサインツに奪い返されてしまったのである。
93年はあの宿敵(?)サインツが自身のスポンサーであるレプソルと、この年からトヨタのスポンサーとなったカストロールのバッティングを避ける形でトヨタを離れ、ランチアもといジョリークラブに移籍しシーズンを戦う。余談だが当のサインツはワークスデビュー当初から王者ランチアのワークスドライバーとして戦うことを夢見ていたのだそう。しかしながら資金援助が減少した影響で成績は振るわず。それでも果敢に戦うランチア勢は、サインツがアクロポリスでエスコートを駆るあのビアシオンに続いて2位を獲得。ポルトガルではA.アギーニが、地元サンレモではG.ピアネッツオーラが3位表彰台を獲得するも、もはやデルタに後発の日本勢と渡り合うだけの力が残されていないのは誰の目にも明らかであった。結局93年シーズンは入賞3回、最高位は2位という戦績に終わった。そして、ジョリークラブは翌シーズンより使用マシンをフォード・エスコートに変更することを発表。ここにデルタ、そしてランチアのラリー活動に終止符が打たれたのである。
グループA規定はそれまでのグループBとは異なり、大量生産車をベースとしていた。ホモロゲーション取得のためには年間5000台(のちに2500台)の生産が義務付けられていたのである。しかしそのレギュレーションにより僅か5年の間にマツダ323(87年スウェディッシュラリー優勝)、トヨタセリカ(90年、92年WRC制覇)、三菱ギャラン(91年アイボリーコースト優勝)→ランサー(96年WRC制覇)、スバルレガシィ(93年ニュージーランド優勝)→インプレッサ(95年WRC制覇)、日産パルサー(92年スウェーデン3位入賞)と、実に5つの日本メーカーが4WDターボマシンを引っ提げてランチアに挑んだ事になる。我々日本人にとっては夢のような時代だが、迎え撃つランチアにとっては異常事態である。当時のチームマネージャー、N.ロッソは「あの当時『一体日本ってどんな国なんだよ!』と冗談交じりに話したものだ」と語っていたが、確かに5000台もベース車、それもコンパクトで高性能な4WDターボマシンを作らないといけないグループAのマシンがわんこそばのように次から次へと登場したのだから無理もない。そしてランチアもそれに応えるように毎年アップデートを繰り返した。しかし彼は「それが出来たのも日本の皆さんのお陰なんだよ」と語る。イタリアにおいてデルタHFは、当時の日本のように矢継ぎ早には売ることができなかった。高性能な4WDスポーツは現地の人々にとっては実用車とは言い難く、需要が低かったからである。そんな状況にあったデルタだが、消費地を多い順に並べると地元イタリア、メカ好きのドイツに次いで3番目はなんとヨーロッパから遠く離れた日本だったのだという。ちなみにこの3ヶ国以外で4WDターボのデルタはほとんど売れていない。デルタHFがよく売れた日本では「デルタ・アッカエッフェ・インテグラーレ・エヴォルツィオーネ・ドゥエ・コレツィオーネ・エディツィオーネ・フィナーレ」と銘打たれた
ひっきりなしに新たなラリーウェポンを投入する日本勢に対し、ランチアは6年間ベース車輌を変えずに迎撃しなければならなかった。4WDターボがよく売れる特異な土壌で育ったマシンに対して、晩年に苦戦を強いられるのは当然のこととしか言いようがない。それに加え、自動車にとっての6年という歳月はあまりにも長く、デルタにとっては(基本設計の話ではあるが)WRCデビュー時ですでに8年落ち、つまり最大で14年後の技術を詰め込んだマシンを相手取らなければならなかったのである。それにもかかわらずデルタは6連覇を達成。その素性の良さは史上稀に見る傑作と評されるべきであろう。ランチア帝国の最後の栄光は、今なお燦然と輝き続けているのである。
ところで、この記事では仰々しく「最後の栄光」などと書いているが、もしかするとその記述は変わるかもしれない。およそ30年のブランクを経て、ランチアがついにラリー復帰を発表したのである。先述のランチアでの王者ビアシオンも開発に携わったイプシロンHFを、ラリー4部門のマシンとして投入するとのこと。25年のイタリア国内選手権のワンメイクカップ優勝者にERC参戦権を賞典として授与し、ファクトリーチームとして参戦する計画となっている。マシンの受注はすでに始まっており、納車待ちのユーザーも多いのだとか。今後はランチアもWRCに復帰するのか?ラリーの名門の動向には今後も目が離せない。
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