車種名 | 41S |
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クラス | R4 |
最高出力 | 550ps |
車体重量 | 1100kg |
パワーウェイトレシオ | 2.0 |
吸気形式 | ターボ |
駆動方式 | F4 |
入手金額 | |
0-100km/h加速 | 2.90sec. |
最高速度 | 204km/h |
メモ | その時、歴史は動いた。 進化を遂げたクワトロ |
概要
クラス二番目のパワーを有するパワフルなエンジンが、ヘビーな車体をグイグイと加速させる。その加速感はランキングで猛威を振るうFR2を凌ぐほど。上り坂ではそのパワーを活かし、他のマシンを寄せ付けない。反面、コーナーではフロントヘビーの影響か少々もたつきやすい一面もある。古典的な4WDのセオリーに則って、素早く向きを変えてできるだけ早く加速に入る、そんな走り方との相性が良いだろう。パワーを生かした走りが得意な人にはRR5とともにおすすめの一台だ。
元ネタ解説
昨日までの定説が覆され、今日の常識となる。歴史はこうして作られる。モータースポーツの世界においてもそれは然りである。例えばストラトスはミドシップのラリーウェポンとして当時最強の座を恣にし、コーナリングマシンの基礎を築いた。グループBではミドシップの4WDでなければ勝てない、という潮流を作ったのはプジョー205T16であり、ランチアやフォードがそれに追従した。グループAでほぼ市販車ベースのマシンが主役となってから、2Lターボの4WDという競技車のパッケージングを確立したのはランチア・デルタである。このようにラリーのカテゴリごとにその潮流を作ったマシンは多くあれど、カテゴリの壁を超えてラリー史そのものを動かしたマシンとしてその名声を今日に轟かせる車はそうそういない。「ラリーに持ち込むなら4WD」という今日の常識を作り出した偉大なマシン、それがアウディ・クワトロである。
それまでは4WDといえば悪路走破用に採用されるのが一般的なシステムであった。しかし、当時の四輪駆動の常識を覆し幅広い路面でパワーを余すことなく伝え、ハイパフォーマンスを実現するフルタイム4WDスポーツカーとして成功を収めたのがクワトロである。ベースは最早太古の遺物と言っても過言ではない軍用車、イルティス。しかし、クワトロは侮れない走行性能を発揮していた。現在までアウディの四輪駆動の呼称として「クワトロ」の名は生きており、車種名と四駆システム名の区別のために初代クワトロをUr-クワトロと表記する向きもある。アウディ・ジャパンはこのクワトロを「オリジナル・クワトロ」と表記している。
このUr-クワトロは81年からWRCに出場。レギュレーション変更によって四駆が解禁されてからの参戦であった(*1)が、「4WD機構は構造も複雑で重量が嵩むだけ」という当時のラリーの常識をまたも覆し、デビュー戦のモンテカルロではたった14kmのSS1で2位をほぼ1分引き離すという高性能ぶりを披露。残念ながら結果はリタイア(*2)となったが、四輪駆動の絶大なトラクションを見せつける格好となった。また、同年のサンレモでは女傑M.ムートンが元モトクロス選手であるコドライバーのF.ポンスと共にWRC史上初となる女性ドライバーの優勝、また女性クルーによる優勝を記録。その圧倒的な戦闘力を知らしめた。82年はムートンがFRマシンであるアスコナ400を駆るオペルのW.ロールとドライバーズタイトルを争う。最終的にはトラブルによるリタイアで年間チャンピオンを惜しくも逃してしまったが、2位となり大健闘。この時ロールは「クワトロなら猿でも勝てる」などと発言しているが、彼によれば「四駆システムに頼るアウディに向けた発言であったが、メディアの男vs女という構図の煽りを受けてムートンに向けられたものと解釈されてしまった」とのこと。こう釈明しつつも後年ロールはムートンを傷つけてしまったことに対し謝罪している。ともあれ、そのような言葉が残る程にはクワトロの四駆システムが優れていたのは明らかだろう。
83年、Ur-クワトロはグループB仕様へ改修を施され、H.ミッコラがドライバーズタイトルを獲得。この流れに乗り、アウディはさらに高性能なマシンの開発を行う。これがスポーツクワトロ。先述のUr-クワトロよりショートホイールベース化を行ってハンドリング面を改善するはずが、わずか2204mmにすぎないホイールベース(*3)では却って不安定になってしまった。最終的にハンドリング面ではUr-クワトロより不利になってしまい、これを受けてアウディはUr-クワトロとスポーツクワトロ2世代の体制で出走。残念ながらこのモデルは84年のラリー・コートジボワールでの1勝のみに留まってしまっている。
そこで生まれたのが、本作収録のスポーツクワトロS1-エボリューション2である。スポーツクワトロを改修し、軽量化と重量配分の見直しを行い85年のラリー・アルゼンチンから投入された。エンジンは2.1Lの20バルブ直列5気筒ターボ。KKK製ターボとアンチラグシステムを搭載し、シフトノブにクラッチセンサーを持つ6速のセミATを介して四輪を駆動する。最高出力は実に550馬力を発揮。ケブラーなどの軽量素材を用いて、重量は1200kgを実現した。メカのインパクトもさることながら、なりふり構わない巨大なエアロパーツと、5気筒エンジンの荒削りなサウンドもまた当時のラリーファンたちの人気を博したようだ。
85年サンレモラリーでは、ランチアから移籍してきたロールがWRCでS1-E2による悲願の初優勝。しかし、ライバルである205T16やデルタS4、RS200がミドシップ4WDを採用する一方でクワトロはフロントエンジンであり、重量バランスを改善したとはいえハンドリング面が不利であることは否めなかった。その結果として、このマシンはWRCでは目立った戦績を残すには至らなかった。そして86年いっぱいでグループBでの競技は終了してしまったため、クワトロは登場時のインパクトとは裏腹にあまり活躍できずにその役目を終えたのであった。アウディはS1の改修モデルとしてミッドシップレイアウトを採用した「ミッドシップ・クワトロ RS001(*4)」を、さらに来たるグループS規定のために小さなCカーとでも言うべき「RS002」という1トンのボディに700馬力のエンジンを搭載、ミッドシップ四駆を採用する化け物マシンを開発していたようだが、残念ながら規定自体の終了によってこれらのマシンの実戦投入は叶わなかった。(*5)
ところが、スポーツクワトロの伝説は思わぬ形で開花し、身を結ぶこととなる。
アメリカ、パイクスピーク。毎年独立記念日前後に開催されるパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムにクワトロが姿を現したのは85年のこと。先述の女性ドライバー、ムートンとサンレモを制覇したロールがタッグを組んで参戦した。当時のパイクスピークはアメリカ人のためのイベントという雰囲気が色濃く残されており、アウディワークスはほぼアウェーと言ってもいい状況であった。しかし、このマシンは一味違う。大柄なアメリカンV8と比較すれば圧倒的に小さく、排気量も2Lに過ぎないものの500馬力を叩き出す四輪駆動の怪物なのだから。ムートンはパワステが故障していたにも関わらずクワトロをねじ伏せ続け、終始派手なドリフトと共にけたたましい砂埃を巻き上げながら疾走、地元の人気ドライバーたちを蹴散らして見事に優勝した。この優勝は女性として初、そして今のところ唯一の女性による優勝として記録されている。女性ドライバーということもあって地元のファンたちはその圧倒的な走りに度肝を抜かれたという。このことに対しレーシングドライバーであり大会の常連でもあったB.アンサーは「私の国で生意気な」と憤慨したようだが、ムートンは「下りで勝負してもいい」と応酬した。標高差の大きいこの場所でそんなことをすれば、酸素濃度の違いから下るうちにマシンパワーはどんどん大きくなり、扱いきれなくなれば最悪転落死の危険すらある。アンサーは結局この勝負を受けなかったが、これは賢明な判断と言えるだろう。そんなアンサー自身も86年にはワークスマシンに近いエアロを纏ったトリコロールカラーのクワトロを駆り、前年のムートンの記録を上回って優勝、雪辱を果たした。翌87年、600馬力にまでチューンナップされたクワトロS1-E2は、巨大なフロントウィングを装備したド派手なエアロを纏ってまたもコロラドに現れた。このマシンを運転したのはロール。同じくWRCドライバーのA.バタネンが駆る同じくグループBマシンベースのプジョー・205T16の猛追を7秒差で振り切り、大会新記録をまたも樹立して優勝。3連覇という快挙を成し遂げた。
現在まで続く「ラリーといえば4WD」の常識を作ったラリーカー、クワトロ。ラリー界に新たな風を送り込んだこの車の活躍は、歴史のターニングポイントとして色褪せることなく後世に語り継がれることだろう。