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車種名 | EM6 |
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クラス | B |
最高出力 | 300ps |
車体重量 | 1230kg |
パワーウェイトレシオ | 4.1 |
吸気形式 | ターボ |
駆動方式 | F4 |
入手金額 | |
0-100km/h加速 | xxx sec. |
最高速度 | 219km/h |
メモ | ラリーのフォード、ここに在り。 日本車に真っ向勝負を挑んだ4WDホットハッチ |
記事は編集中です。
概要
Bクラスに登場。現状では実車がマイナーなこともあってかランキングで見かける頻度は少ない。一方で性能に関してはCT5に近いものがあり、全体のクセは安定感のないCT5といったところである。というのもこのマシン、足回りが貧弱。コーナーでの踏ん張りが効かないため、やや不利であることは認めざるを得ない。しかし、現状でも他のマシンに追い縋ることは可能であり、さらにセッティング機能が実装されればここから化ける可能性も十分にある。今後の活躍が最も期待できるマシンと言っても過言ではない。
元ネタ解説
フォード・エスコート RSコスワース
ランチア帝国に翳りが見え、日本車勢の黄金期に突入し始めていた1992年のこと。フォードは4ドアセダンのシエラRSでラリーに参戦していた。このマシンは1990年デビューの四輪駆動仕様で、全日本ツーリングカー選手権のGT500で活躍したものとは異なる。しかし、更なる戦闘力を確保したマシンを欲したフォードは、シエラのコンポーネンツの熟成を図り、そのメカニズムを詰め込んだ1台の車を送り出した。そのマシンこそ、エスコートRSコスワースである。ちなみにシエラも戦闘力が決して低かったというわけではなく、デビュー戦では当時はプライベーターだったC.マクレーがワークスを凌ぎ6位入賞。91年モンテカルロでは新人のF.デルクールがワークスドライバーとしてデビュー後の初戦であるにも関わらず、前年王者であるトヨタのC.サインツ.セナモールを上回るペースで快走して首位をキープするなど活躍を見せている。残念ながらこの後デルクールは最終SSゴール目前で足回りのトラブル、それに伴うタイヤのパンクに見舞われて3位に転落。泣きながら謝罪をするデルクールに対し、観客たちがその健闘を讃えたシーンは有名である。
エスコートに話を戻そう。エンジンはシエラから引き継がれた1993ccのコスワース製直列4気筒、YBD。これにギャレット製ターボを組み合わせて、最高出力は227馬力を発生させる。目を引くのはそのリアビューで、先代シエラRSとよく似た、ルーフから繋がっているような見た目の巨大な2段リアウィングが装備されている。この形状のウィングは国産車でもマツダ・ランティスのマツダスピード製エアロで採用されており、俗に「大鳥居」と言われていたとか。本来は3段にしたかったようで、ディスカバリーチャンネルの「名車再生」においてはスケッチを元にワンオフでウィングが製作され、ある意味で本来の姿を取り戻したエスコートがお披露目されている。グレードはパワーウィンドウなどを標準装備した「ラグジュアリー」と競技ベース「スタンダード」の2種。ランエボでいうところのGSRとRS、インプレッサならばSTiとSTi Type-RAといったところだろう。2Lターボ、4WD、大型セダンのメカニズムを小型車に押し込む手法など、極東生まれのラリーカーたちと非常に似ているが、同じ目的…WRCの制覇のために生まれたマシンならば、その生い立ちが似るのも頷ける。日本への正規輸入はされなかったが、並行輸入された個体が複数存在しているようだ。
WRCには93年シーズンから参戦。序盤からコンディション問わず安定した好成績を残し、この年のタイトルを獲得したトヨタを苦しめマニュファクチャラーズランキング2位を獲得。さらに期待の新人エース、デルクールがドライバーズランキングでも2位につける活躍を見せる。しかし94年以降、運営体制の急変やそれに伴うマシン開発の停滞が顕著となり、さらに94年モンテカルロで優勝したデルクールが友人のF40を運転中に事故を起こす。この影響でデルクールは脚を骨折し、戦線離脱。結果、96年までの戦績は7勝にとどまる。当時のフォードの運営体制はサインツやM.ビアシオンに批判されているようだ。しかし、エスコートはプライベーターにも愛用されるほどの性能を誇るマシンであり、93年サンレモでは純プライベーターのF.クニコが優勝。さらに94年1000湖では三菱時代以前のT.マキネンが優勝、96年モンテカルロ(*1)ではP.ベルナルディーニが優勝を遂げており、往年の名車デルタなきグループA黄金期の日本車にとって、脅威となりうるほぼ唯一のマシンと言っても過言ではなかったはずである。特に96年のモンテカルロではフォードを離脱したデルクールの駆るF2キットカー最強格の306Maxiが2位、A.シュヴァルツのセリカGT-Four(*2)が3位、全仏選手権を4回制覇したB.ベガンのインプレッサが4位と並いる強豪を抑えての優勝であり、いかにエスコートが優れた戦闘力を秘めていたかが窺えるだろう。
97年シーズンからはWRカー規定が導入されるが、予算も時間もなかったフォードはなんとこのエスコートをベースとすることを特例で認めてもらうように申請。これが認可され、新規マシン開発と引き換えに2年の猶予を得たフォードは、エスコートを改修してWRCに引き続き参戦する。リアウィングは1段のものに変更、インタークーラー搭載のためにフロントスポイラーも新規で開発。ターボはピークパワー重視から低中回転域でのトルクおよびレスポンス向上を狙い、ギャレットから我らが日本の石川播磨重工(IHI)製へと変更されている。
WRカーとして弱点を克服し生まれ変わったエスコートは、その戦闘力をこれでもかと発揮。ツール・ド・コルスではサインツがスバルのマクレーにわずか7秒差で2位につける。さらにアクロポリスではサインツ、そしてJ.カンクネンが1-2フィニッシュを決め、その後のインドネシアでも同じくサインツとカンクネンが1-2フィニッシュを決めた。予算不足によりパワー不足に悩まされながらも、マニュファクチャラーズランキングで2位につけ善戦する。
98年シーズン、エスコートは次期マシン開発への注力のために開発がストップ。しかし、古巣トヨタに戻ったサインツに代わってエースドライバーになったカンクネンが、コンスタントに表彰台を獲得し、熟成されたエスコートの実力を最後まで発揮し続けた。そしてタイムリミットの99年、フォードは新たなWRCマシンのフォーカスWRCを投入。エスコートはワークスマシンとしての座を譲り、その長い現役生活を終えた。
高性能4WDスポーツを持たないメーカーが次々とWRCへの参戦を取りやめて日本車の独擅場となる中にあって、最後まで4WDスポーツとして互角の戦いを演じたヨーロッパの刺客、それがエスコートRSコスワースであった。ワークスのシーズン優勝などといった華々しい成績こそ残せなかったものの、「ラリーのフォード」を復活させ、現在まで語り継がれる名車であることは疑いようもない事実である。
ランチア帝国に翳りが見え、日本車勢の黄金期に突入し始めていた1992年のこと。フォードは4ドアセダンのシエラRSでラリーに参戦していた。このマシンは1990年デビューの四輪駆動仕様で、全日本ツーリングカー選手権のGT500で活躍したものとは異なる。しかし、更なる戦闘力を確保したマシンを欲したフォードは、シエラのコンポーネンツの熟成を図り、そのメカニズムを詰め込んだ1台の車を送り出した。そのマシンこそ、エスコートRSコスワースである。ちなみにシエラも戦闘力が決して低かったというわけではなく、デビュー戦では当時はプライベーターだったC.マクレーがワークスを凌ぎ6位入賞。91年モンテカルロでは新人のF.デルクールがワークスドライバーとしてデビュー後の初戦であるにも関わらず、前年王者であるトヨタのC.サインツ.セナモールを上回るペースで快走して首位をキープするなど活躍を見せている。残念ながらこの後デルクールは最終SSゴール目前で足回りのトラブル、それに伴うタイヤのパンクに見舞われて3位に転落。泣きながら謝罪をするデルクールに対し、観客たちがその健闘を讃えたシーンは有名である。
エスコートに話を戻そう。エンジンはシエラから引き継がれた1993ccのコスワース製直列4気筒、YBD。これにギャレット製ターボを組み合わせて、最高出力は227馬力を発生させる。目を引くのはそのリアビューで、先代シエラRSとよく似た、ルーフから繋がっているような見た目の巨大な2段リアウィングが装備されている。この形状のウィングは国産車でもマツダ・ランティスのマツダスピード製エアロで採用されており、俗に「大鳥居」と言われていたとか。本来は3段にしたかったようで、ディスカバリーチャンネルの「名車再生」においてはスケッチを元にワンオフでウィングが製作され、ある意味で本来の姿を取り戻したエスコートがお披露目されている。グレードはパワーウィンドウなどを標準装備した「ラグジュアリー」と競技ベース「スタンダード」の2種。ランエボでいうところのGSRとRS、インプレッサならばSTiとSTi Type-RAといったところだろう。2Lターボ、4WD、大型セダンのメカニズムを小型車に押し込む手法など、極東生まれのラリーカーたちと非常に似ているが、同じ目的…WRCの制覇のために生まれたマシンならば、その生い立ちが似るのも頷ける。日本への正規輸入はされなかったが、並行輸入された個体が複数存在しているようだ。
WRCには93年シーズンから参戦。序盤からコンディション問わず安定した好成績を残し、この年のタイトルを獲得したトヨタを苦しめマニュファクチャラーズランキング2位を獲得。さらに期待の新人エース、デルクールがドライバーズランキングでも2位につける活躍を見せる。しかし94年以降、運営体制の急変やそれに伴うマシン開発の停滞が顕著となり、さらに94年モンテカルロで優勝したデルクールが友人のF40を運転中に事故を起こす。この影響でデルクールは脚を骨折し、戦線離脱。結果、96年までの戦績は7勝にとどまる。当時のフォードの運営体制はサインツやM.ビアシオンに批判されているようだ。しかし、エスコートはプライベーターにも愛用されるほどの性能を誇るマシンであり、93年サンレモでは純プライベーターのF.クニコが優勝。さらに94年1000湖では三菱時代以前のT.マキネンが優勝、96年モンテカルロ(*1)ではP.ベルナルディーニが優勝を遂げており、往年の名車デルタなきグループA黄金期の日本車にとって、脅威となりうるほぼ唯一のマシンと言っても過言ではなかったはずである。特に96年のモンテカルロではフォードを離脱したデルクールの駆るF2キットカー最強格の306Maxiが2位、A.シュヴァルツのセリカGT-Four(*2)が3位、全仏選手権を4回制覇したB.ベガンのインプレッサが4位と並いる強豪を抑えての優勝であり、いかにエスコートが優れた戦闘力を秘めていたかが窺えるだろう。
97年シーズンからはWRカー規定が導入されるが、予算も時間もなかったフォードはなんとこのエスコートをベースとすることを特例で認めてもらうように申請。これが認可され、新規マシン開発と引き換えに2年の猶予を得たフォードは、エスコートを改修してWRCに引き続き参戦する。リアウィングは1段のものに変更、インタークーラー搭載のためにフロントスポイラーも新規で開発。ターボはピークパワー重視から低中回転域でのトルクおよびレスポンス向上を狙い、ギャレットから我らが日本の石川播磨重工(IHI)製へと変更されている。
WRカーとして弱点を克服し生まれ変わったエスコートは、その戦闘力をこれでもかと発揮。ツール・ド・コルスではサインツがスバルのマクレーにわずか7秒差で2位につける。さらにアクロポリスではサインツ、そしてJ.カンクネンが1-2フィニッシュを決め、その後のインドネシアでも同じくサインツとカンクネンが1-2フィニッシュを決めた。予算不足によりパワー不足に悩まされながらも、マニュファクチャラーズランキングで2位につけ善戦する。
98年シーズン、エスコートは次期マシン開発への注力のために開発がストップ。しかし、古巣トヨタに戻ったサインツに代わってエースドライバーになったカンクネンが、コンスタントに表彰台を獲得し、熟成されたエスコートの実力を最後まで発揮し続けた。そしてタイムリミットの99年、フォードは新たなWRCマシンのフォーカスWRCを投入。エスコートはワークスマシンとしての座を譲り、その長い現役生活を終えた。
高性能4WDスポーツを持たないメーカーが次々とWRCへの参戦を取りやめて日本車の独擅場となる中にあって、最後まで4WDスポーツとして互角の戦いを演じたヨーロッパの刺客、それがエスコートRSコスワースであった。ワークスのシーズン優勝などといった華々しい成績こそ残せなかったものの、「ラリーのフォード」を復活させ、現在まで語り継がれる名車であることは疑いようもない事実である。
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