車種名 | LRS |
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クラス | C |
最高出力 | 240ps |
車体重量 | 850kg |
パワーウェイトレシオ | 3.5 |
吸気形式 | 自然吸気 |
駆動方式 | MR |
入手金額 | |
0-100km/h加速 | xxx sec. |
最高速度 | xxx km/h |
メモ | その目的は、勝利のみ。 異形のハンドリングマシン |
記事は編集中です。
概要
元ネタ解説
ランチア・ストラトスHF


フルヴィアでの勝利をキッカケにラリーでの栄光への第一歩を踏み出したランチア。そんなランチアが生み出した次なるマシンがこのストラトスである。
原型はイタリアのカロツェリア、ベルトーネが製作したショーカー「ストラトスHFゼロ」。この車のミドシップレイアウトを生かしつつ、ランチアが欲していたラリーウェポンとして生まれたのがストラトスであった。ホモロゲーション取得もなかなかに独創的で、グループ3のホモロゲを取得した車両からドライブトレインのみを流用し、グループ3マシンの改造車としてグループ4のホモロゲを取得してしまったのである。
エンジンはフェラーリ・ディーノ246GTに搭載されていた2.4LのV6エンジン。フルヴィアのV4ではスペック不足、かといって131の直4では重すぎる。ランチアとしてエンジンを新規に開発できるほどの資金はないという状況下での決断であった。オリジナルのディーノと比較すると、ストラトス用のものはラリー向けとして中回転域でのパワーを重視する仕様にチューンされており、ディーノよりも最高出力は5馬力低い。
この車の特徴として、そのホイールベースの短さが挙げられよう。軽自動車並みとも表されるその長さ、僅か2180mm。参考までに同じWRCに参戦した軽自動車のヴィヴィオが2310mm、よりスポーツ色の強い現行コペンは2230mm。ABCトリオと比較してもAZ-1が2235mm、ビートが2280mm、カプチーノが2060mmと、軽自動車とさほど変わらないどころかそれらより短い方なのである。ホイールベースが短いということは即ち回頭性に優れる=コーナリングマシンということなのだが、裏返せば非常にピーキーな特性ということ。ラリードライバーたちはこの車を乗りこなすのに非常に苦戦していたようで「全部コーナーだったらいいのにと思ったくらい」という言葉が残るほどである。当時の写真を見てみると、極端なアンダーステアやオーバーステアの写真が目立つ。当時のドライバーは「ターンインする時には積極的な荷重移動が求められるが、向きが変わってすぐにアクセルオンするとオーバーステアとなる。フロントが入ったら1度パーシャルで我慢しないといけない。コーナー出口が見えたらアクセルを踏むが早過ぎると今度はアンダーステアになる」と語っている。また「ドライバーが外から見ると最高にワクワクする外見だが、ホコリや水が入るしフロントガラスが湾曲してるせいで夜は映り込みが激しくコーナーの見切りにもコツが必要。走り出す前から『ラリーカーなのになんで?』と思う事もあった」とも付け加えていた。
そんなストラトスに合わせて専用のタイヤが開発・供給された。それが現在にも名を残す「ピレリ P7」である。タイヤの特性としては前後方向、つまり縦のグリップを重視した設計となっているのが一番の特徴であった。これは高い旋回性能を持つストラトスでは横方向のグリップはドライバーが対応でき、また小回りが利くためそもそも横方向のグリップがそこまで求められないという特性に合わせたものとなっている。「横のグリップはドライバーが何とか出来る、だが縦のグリップはタイヤに頼るしかない。だからピレリの高性能タイヤは縦方向を重視する」と当時のピレリでモータースポーツを担当していたメッザノッテは語っている。彼が現場で作ったと云われるP7のデザインは、スリックタイヤをベースにした現代のインターミディエイト的なものであった。特徴的な杉綾模様もそうである。それまでのタイヤには縦溝が無かったが、このデザインによって特にウェット性能が劇的に良くなった。因みにその後のフラッグシップ「P ZERO」はフェラーリF40の純正タイヤとして注目されたが、このタイヤも源流はWRCである。実はグループBのデルタS4に先行装着されていたのである。
さて、肝心のラリーの成績であるが、この車の活躍はあまりにも華々しい。ホモロゲ取得直後の74年ラリー・サンレモに出場したストラトスは、フルヴィアの時代からランチアのドライバーとして戦っていたS.ムナーリのドライブで見事優勝。さらにその後僅か4戦にしてタイトル獲得を決めてしまう。これには他のメーカーも黙っておらずマシン開発を加速させるも、ストラトスはグラベル、ターマックを問わず高い戦闘力を発揮し他の追随を許さなかった。結果として74年、75年、76年のWRC3連覇という輝かしい記録を残すに至った。
しかしながら、親会社のフィアットは市販イメージの結びつきにくいストラトスでのラリー参戦を取りやめ、131アバルトでのラリー参戦にシフトしてしまう。それでもランチアはストラトスでの参戦を続け、ワークスとしては78年、M.A.アレンの運転によりラリー・サンレモで最後の優勝を果たす。プライベーターとしてはB.ダルニッシュが81年ツール・ド・コルスにて優勝しており、これがストラトスによる最後の優勝となった。このことから、ストラトスの戦闘力は長きに渡って上位争いをできるほどのポテンシャルを秘めていたことが窺える。このマシンは、ランチアが送り出したラリー界に名を残す名車中の名車である。
原型はイタリアのカロツェリア、ベルトーネが製作したショーカー「ストラトスHFゼロ」。この車のミドシップレイアウトを生かしつつ、ランチアが欲していたラリーウェポンとして生まれたのがストラトスであった。ホモロゲーション取得もなかなかに独創的で、グループ3のホモロゲを取得した車両からドライブトレインのみを流用し、グループ3マシンの改造車としてグループ4のホモロゲを取得してしまったのである。
エンジンはフェラーリ・ディーノ246GTに搭載されていた2.4LのV6エンジン。フルヴィアのV4ではスペック不足、かといって131の直4では重すぎる。ランチアとしてエンジンを新規に開発できるほどの資金はないという状況下での決断であった。オリジナルのディーノと比較すると、ストラトス用のものはラリー向けとして中回転域でのパワーを重視する仕様にチューンされており、ディーノよりも最高出力は5馬力低い。
この車の特徴として、そのホイールベースの短さが挙げられよう。軽自動車並みとも表されるその長さ、僅か2180mm。参考までに同じWRCに参戦した軽自動車のヴィヴィオが2310mm、よりスポーツ色の強い現行コペンは2230mm。ABCトリオと比較してもAZ-1が2235mm、ビートが2280mm、カプチーノが2060mmと、軽自動車とさほど変わらないどころかそれらより短い方なのである。ホイールベースが短いということは即ち回頭性に優れる=コーナリングマシンということなのだが、裏返せば非常にピーキーな特性ということ。ラリードライバーたちはこの車を乗りこなすのに非常に苦戦していたようで「全部コーナーだったらいいのにと思ったくらい」という言葉が残るほどである。当時の写真を見てみると、極端なアンダーステアやオーバーステアの写真が目立つ。当時のドライバーは「ターンインする時には積極的な荷重移動が求められるが、向きが変わってすぐにアクセルオンするとオーバーステアとなる。フロントが入ったら1度パーシャルで我慢しないといけない。コーナー出口が見えたらアクセルを踏むが早過ぎると今度はアンダーステアになる」と語っている。また「ドライバーが外から見ると最高にワクワクする外見だが、ホコリや水が入るしフロントガラスが湾曲してるせいで夜は映り込みが激しくコーナーの見切りにもコツが必要。走り出す前から『ラリーカーなのになんで?』と思う事もあった」とも付け加えていた。
そんなストラトスに合わせて専用のタイヤが開発・供給された。それが現在にも名を残す「ピレリ P7」である。タイヤの特性としては前後方向、つまり縦のグリップを重視した設計となっているのが一番の特徴であった。これは高い旋回性能を持つストラトスでは横方向のグリップはドライバーが対応でき、また小回りが利くためそもそも横方向のグリップがそこまで求められないという特性に合わせたものとなっている。「横のグリップはドライバーが何とか出来る、だが縦のグリップはタイヤに頼るしかない。だからピレリの高性能タイヤは縦方向を重視する」と当時のピレリでモータースポーツを担当していたメッザノッテは語っている。彼が現場で作ったと云われるP7のデザインは、スリックタイヤをベースにした現代のインターミディエイト的なものであった。特徴的な杉綾模様もそうである。それまでのタイヤには縦溝が無かったが、このデザインによって特にウェット性能が劇的に良くなった。因みにその後のフラッグシップ「P ZERO」はフェラーリF40の純正タイヤとして注目されたが、このタイヤも源流はWRCである。実はグループBのデルタS4に先行装着されていたのである。
さて、肝心のラリーの成績であるが、この車の活躍はあまりにも華々しい。ホモロゲ取得直後の74年ラリー・サンレモに出場したストラトスは、フルヴィアの時代からランチアのドライバーとして戦っていたS.ムナーリのドライブで見事優勝。さらにその後僅か4戦にしてタイトル獲得を決めてしまう。これには他のメーカーも黙っておらずマシン開発を加速させるも、ストラトスはグラベル、ターマックを問わず高い戦闘力を発揮し他の追随を許さなかった。結果として74年、75年、76年のWRC3連覇という輝かしい記録を残すに至った。
しかしながら、親会社のフィアットは市販イメージの結びつきにくいストラトスでのラリー参戦を取りやめ、131アバルトでのラリー参戦にシフトしてしまう。それでもランチアはストラトスでの参戦を続け、ワークスとしては78年、M.A.アレンの運転によりラリー・サンレモで最後の優勝を果たす。プライベーターとしてはB.ダルニッシュが81年ツール・ド・コルスにて優勝しており、これがストラトスによる最後の優勝となった。このことから、ストラトスの戦闘力は長きに渡って上位争いをできるほどのポテンシャルを秘めていたことが窺える。このマシンは、ランチアが送り出したラリー界に名を残す名車中の名車である。
ストラトスの伝説は、やがてグループBへと規定が移行して益々激化する戦いの中、四駆勢が台頭するフィールドでMR勢最後の優勝を果たしたマシンの開発へと繋がっていくこととなる。