車種名 | LD4 |
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クラス | R4 |
最高出力 | 460ps |
車体重量 | 890kg |
パワーウェイトレシオ | 1.9 |
吸気形式 | ターボ |
駆動方式 | M4 |
入手金額 | |
0-100km/h加速 | 3.00sec. |
最高速度 | 205km/h |
メモ | その先にあるのは栄光か、悪夢か。 狂気の時代に生まれた悲劇の怪物 |
記事は編集中です。
概要
R4クラスに登場。圧倒的なパワーウェイトレシオから繰り出される軽快な動きが自慢。
パワーこそR4クラスとしては普通だが、最軽量の890kgという車体重量こそが武器。ただし、迂闊に踏むとすぐに破綻するし、車体の跳ねにも注意が必要だ。それだけのリスクを背負っていてもなお、コーナリングスピードの高さとパワー自慢の41Sをも凌駕する加速性能は魅力的。姿勢を安定させることさえできれば、その自慢の動力性能で他車の追随を許さない戦績を見せてくれるであろう。グループB末期の速さだけを追い求めたどこか危険な香りの漂うマシンである。じゃじゃ馬を手懐けることが好きなプレイヤー、コンマ0.1秒にこだわる上級者諸氏には是非ともこの車特有の危険と隣り合わせな速さを味わってもらいたい。いくらクラッシュしようとこれはゲームなので、安心して踏んでいこう。
パワーこそR4クラスとしては普通だが、最軽量の890kgという車体重量こそが武器。ただし、迂闊に踏むとすぐに破綻するし、車体の跳ねにも注意が必要だ。それだけのリスクを背負っていてもなお、コーナリングスピードの高さとパワー自慢の41Sをも凌駕する加速性能は魅力的。姿勢を安定させることさえできれば、その自慢の動力性能で他車の追随を許さない戦績を見せてくれるであろう。グループB末期の速さだけを追い求めたどこか危険な香りの漂うマシンである。じゃじゃ馬を手懐けることが好きなプレイヤー、コンマ0.1秒にこだわる上級者諸氏には是非ともこの車特有の危険と隣り合わせな速さを味わってもらいたい。いくらクラッシュしようとこれはゲームなので、安心して踏んでいこう。
元ネタ解説
ランチア・デルタS4


ランチアがラリー037に代わる新たなラリーカーとして開発したマシン。ランチアとしては初の四輪駆動マシンとなった。
アウディ・クワトロの出現により四駆化の波が押し寄せたラリーの世界。デビューイヤーの85年はグループBレギュレーションの4年目。ターボによるパワー競争に加え、プジョーが4WDのトラクションと回頭性を有するミッドシップ4WDという究極のシステムを送り出した。対するランチアは四駆のノウハウでは遅れている。そんな中で総力を上げて開発した名機ラリー037はパワーでは300馬力に過ぎず、450馬力以上と噂されたライバル達に対しては非力。ストラトスからの伝統だったミッドシップRWDレイアウトも最早時代遅れであった。そこでランチアはラリー037で参戦する傍ら、全く新しい4WDラリーカーの開発へと乗り出した。037の後継機を生み出す計画はS4プロジェクトと呼ばれた。「S4」とは「オーバーチャージド」を意味する「Sovralimentata」と「4WD」の組み合わせ。開発は遅れに遅れ、85年シーズンになってようやく投入されたのがこのランチア038、エッセ・クワトロ。つまりデルタS4である。ちなみに名前にこそデルタを冠するが、市販車との関係は皆無と言ってよい。
エンジンは1759ccの直列4気筒エンジン。この中途半端な数字は過給機係数1.4を乗じて1759*1.4=2463と、2500cc以下のクラスに出場するためである。このクラスに出走すると最低重量が2500cc以上のクラスの960kgから890kgへ緩和され、実に70kgのアドバンテージを得ることができる。そして組み合わされる過給機はアバルト製スーパーチャージャーとKKK製ターボチャージャー。低回転域ではスーパーチャージャー、高回転域ではターボを利用するツインチャージャーを採用しているのだ。こうする事でターボラグが解消され、リニアな特性を手に入れている。先代のラリー037をベースとした実験車両は二輪駆動に対してツインチャージャーで500馬力を発生させていたとされ、あまりのオーバーパワーに対し5速に入れた瞬間タイヤが破壊されてしまう有様であったという。最終的にこのエンジンはコンペティションモデルで600馬力ほどを発生させ、これをミッドシップにマウント。85年当時では最新と言えるビスカスカップリング方式のLSDを介して四輪を駆動する。ボディはケブラーのメインモノコックと前後に伸びたチューブラーフレーム、ダブルウィッシュボーンのサスペンションにアブソーバーは2本ずつ。当時耐久レースの華だったグループC顔負けの内容である。なお開発中にレギュレーションの変更があり、グラウンドエフェクトが禁止されたためスカート等の空力パーツが取り外された。幸いにも素の空力バランスに優れるため大きな変更は無かったが、もしグラウンドエフェクトが使用されていれば更にグループCのような構造だったであろう。勝つための装備だけを贅沢に全部載せし、それ以外を捨て去ったデルタS4。これに対抗できたのは怪物揃いのグループBマシンの中でも、ラリー界の風雲児クワトロすらも葬り去ったプジョー205T16だけだったと言われ、86年のWRCはランチアvsプジョーの様相を呈することとなる。
初期段階の加速力テストでは小さな飛行場の滑走路を使うのが当時の定番だったが、0-400m加速では8秒フラットをマーク。ちなみにこれは当時のドラッグレーサー並で、ベンチマークだった037が12秒フラットだった事を考えれば驚異的な数値である。なお、このタイムは現代基準でも十分に狂気と言える。何故なら現代の市販車の世界記録ですら8秒半ばであり、しかもそれは電気自動車の記録である。R35型GT-Rですらノーマルでは11秒、チューニングしても9秒と言われれば更に分かりやすいであろう。この狂気の塊とすら言える性能のマシンは乗りこなすのも相当難しいとされていたようで、ランチアの監督であったC.フィオリオによれば「S4の性能を100%発揮できたのはH.トイヴォネンだけ。M.アレンやM.ビアシオンでさえも60-80%がやっとだった」とのことである。そんなトイヴォネンも…
余談であるが、このエンジンを切る時は水温が75℃以上でないとプラグがカブるのだとか。またパワステの構造が独特なため、停止状態ではステアリングが非常に重たい。しかし少しでも動くとパワーアシストが動き出す。これはフロントドライブシャフトからパワステポンプの回転を拾うS4独特の構造によるもの。どこかで試乗する時には注意したい。試乗する機会があればの話だが。
アウディ・クワトロの出現により四駆化の波が押し寄せたラリーの世界。デビューイヤーの85年はグループBレギュレーションの4年目。ターボによるパワー競争に加え、プジョーが4WDのトラクションと回頭性を有するミッドシップ4WDという究極のシステムを送り出した。対するランチアは四駆のノウハウでは遅れている。そんな中で総力を上げて開発した名機ラリー037はパワーでは300馬力に過ぎず、450馬力以上と噂されたライバル達に対しては非力。ストラトスからの伝統だったミッドシップRWDレイアウトも最早時代遅れであった。そこでランチアはラリー037で参戦する傍ら、全く新しい4WDラリーカーの開発へと乗り出した。037の後継機を生み出す計画はS4プロジェクトと呼ばれた。「S4」とは「オーバーチャージド」を意味する「Sovralimentata」と「4WD」の組み合わせ。開発は遅れに遅れ、85年シーズンになってようやく投入されたのがこのランチア038、エッセ・クワトロ。つまりデルタS4である。ちなみに名前にこそデルタを冠するが、市販車との関係は皆無と言ってよい。
エンジンは1759ccの直列4気筒エンジン。この中途半端な数字は過給機係数1.4を乗じて1759*1.4=2463と、2500cc以下のクラスに出場するためである。このクラスに出走すると最低重量が2500cc以上のクラスの960kgから890kgへ緩和され、実に70kgのアドバンテージを得ることができる。そして組み合わされる過給機はアバルト製スーパーチャージャーとKKK製ターボチャージャー。低回転域ではスーパーチャージャー、高回転域ではターボを利用するツインチャージャーを採用しているのだ。こうする事でターボラグが解消され、リニアな特性を手に入れている。先代のラリー037をベースとした実験車両は二輪駆動に対してツインチャージャーで500馬力を発生させていたとされ、あまりのオーバーパワーに対し5速に入れた瞬間タイヤが破壊されてしまう有様であったという。最終的にこのエンジンはコンペティションモデルで600馬力ほどを発生させ、これをミッドシップにマウント。85年当時では最新と言えるビスカスカップリング方式のLSDを介して四輪を駆動する。ボディはケブラーのメインモノコックと前後に伸びたチューブラーフレーム、ダブルウィッシュボーンのサスペンションにアブソーバーは2本ずつ。当時耐久レースの華だったグループC顔負けの内容である。なお開発中にレギュレーションの変更があり、グラウンドエフェクトが禁止されたためスカート等の空力パーツが取り外された。幸いにも素の空力バランスに優れるため大きな変更は無かったが、もしグラウンドエフェクトが使用されていれば更にグループCのような構造だったであろう。勝つための装備だけを贅沢に全部載せし、それ以外を捨て去ったデルタS4。これに対抗できたのは怪物揃いのグループBマシンの中でも、ラリー界の風雲児クワトロすらも葬り去ったプジョー205T16だけだったと言われ、86年のWRCはランチアvsプジョーの様相を呈することとなる。
初期段階の加速力テストでは小さな飛行場の滑走路を使うのが当時の定番だったが、0-400m加速では8秒フラットをマーク。ちなみにこれは当時のドラッグレーサー並で、ベンチマークだった037が12秒フラットだった事を考えれば驚異的な数値である。なお、このタイムは現代基準でも十分に狂気と言える。何故なら現代の市販車の世界記録ですら8秒半ばであり、しかもそれは電気自動車の記録である。R35型GT-Rですらノーマルでは11秒、チューニングしても9秒と言われれば更に分かりやすいであろう。この狂気の塊とすら言える性能のマシンは乗りこなすのも相当難しいとされていたようで、ランチアの監督であったC.フィオリオによれば「S4の性能を100%発揮できたのはH.トイヴォネンだけ。M.アレンやM.ビアシオンでさえも60-80%がやっとだった」とのことである。そんなトイヴォネンも…
余談であるが、このエンジンを切る時は水温が75℃以上でないとプラグがカブるのだとか。またパワステの構造が独特なため、停止状態ではステアリングが非常に重たい。しかし少しでも動くとパワーアシストが動き出す。これはフロントドライブシャフトからパワステポンプの回転を拾うS4独特の構造によるもの。どこかで試乗する時には注意したい。試乗する機会があればの話だが。
WRCでは85年最終戦RACラリーにでデビュー。トイヴォネンのドライビングで見事デビューウィンを飾った。86年シーズンではモンテカルロで優勝、スウェーデンで2位と破竹の勢いで快進撃を続ける。ところが続く第三戦ポルトガル、フォードRS200が観客を巻き込んで多数の死傷者を出す大事故を起こし、全車自主リタイア。第四戦サファリラリーにはラリー037を投入した。
運命の分かれ目となったのは第五戦、ツール・ド・コルス。SS18においてトイヴォネンの乗るデルタがコースアウトし崖下へと転落し、運転席直下のアルミ製燃料タンクが破裂、爆発し炎上。ドライバーのトイヴォネンとコドライバーのS.クレストは脱出する間もなく帰らぬ人となってしまった(*1)。車体はケブラー樹脂製のボディをはじめ、軽量化のためとはいえ可燃性素材を多く採用していたことが災いしてことごとく焼き尽くされ、事故原因の特定が不可能なまでに損傷していたという。事故後に引き上げられたデルタS4はわずかにシャーシとサスペンションが残る程度だったとのこと。この事故はラリー界に大きな衝撃を与え、トイヴォネンの親友であったチームメイトのアレンも非常にショックを受けていたという。この一件が決定打となり、WRCは86年シーズンをもってグループBでの競技を終了することが決定されてしまった。
もう後がないデルタS4だが、それでも第八戦アルゼンチンでビアシアンが自身のキャリア初となる優勝を飾る。第11戦、ランチアのお膝元イタリアのサンレモではプジョー勢の全車失格もありアレンが優勝、チームメイトのD.チェラートとビアシオンもそれに続く形で1-2-3フィニッシュを遂げる。この勢いに乗ったアレンはRACラリーで2位を獲得、1ポイント差でプジョーのJ.カンクネンを逆転。最終戦オリンパスでもカンクネンを下し、見事大逆転の総合優勝……のはずだったが、プジョーがサンレモでの失格を不服としてFISAに控訴。この結果FISAはサンレモのリザルトを無効とし、結局この年のタイトルはカンクネンのものとなった。デルタS4はタイトル獲得の叶わぬままWRCでの役目を終えた。ランチアのマシンとしては唯一タイトルのない車両となっている。全シーズン通算での戦績は13戦6勝であった。そして、この戦績からファンの間でデルタS4はその後も活躍したがついにチャンピオンとなることはなかったアレンと共に「無冠の帝王」と呼ばれている。
グループBの終了後はパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム等に参加した。後継車としてランチアは上位カテゴリのグループS規定での競技のためのECV、ECV2というマシンを開発していたが、グループBの廃止によりグループS規定も立ち消えとなり、ECV以降のマシンは日の目を見ることなく終わった。
ツール・ド・コルスで犠牲となったトイヴォネンはこの車に対し「コースに留めるだけで精一杯。神経がおかしくなりそう」とコメントしていた。この車の性能は目を見張るものがあるが、一方でドライバーらへの配慮は全くされていなかったとも言える。またビアシオンは「工学的には間違ったコンセプトだと思う。競技性能のみを追求し、安全性は考慮されていなかった」と車そのものには否定的な見解を示ている。しかし、このように評されているのはあくまで安全面での話。ビアシオンは「強烈に魅惑的。最も感動を与えてくれた車は間違いなくS4だった。暴れ狂う馬を抑えつけ、支配するような喜びは何者にも代え難い」と続け、その魅力を評価する言葉を残している。狂気のグループB時代を象徴する1台、それがこのデルタS4という車であろう。
ドライバー、エンジニア、観客。皆が性能を追い求めるという狂気に取り憑かれた時代は、その技術と引き換えに多くの犠牲を生み、それを理由に廃止された。今日までに廃止されたカテゴリーを振り返っても、安全面を理由に廃止されたカテゴリーはグループBだけである。しかし、その狂気の時代はそこにしか存在し得ない輝きを放ち、今日のイベントでは当時の様々なマシンが元気に走る姿を見ることができる。この人気ぶりはまさしく、グループBがラリー史に残る伝説の1ページということを示しているだろう。
運命の分かれ目となったのは第五戦、ツール・ド・コルス。SS18においてトイヴォネンの乗るデルタがコースアウトし崖下へと転落し、運転席直下のアルミ製燃料タンクが破裂、爆発し炎上。ドライバーのトイヴォネンとコドライバーのS.クレストは脱出する間もなく帰らぬ人となってしまった(*1)。車体はケブラー樹脂製のボディをはじめ、軽量化のためとはいえ可燃性素材を多く採用していたことが災いしてことごとく焼き尽くされ、事故原因の特定が不可能なまでに損傷していたという。事故後に引き上げられたデルタS4はわずかにシャーシとサスペンションが残る程度だったとのこと。この事故はラリー界に大きな衝撃を与え、トイヴォネンの親友であったチームメイトのアレンも非常にショックを受けていたという。この一件が決定打となり、WRCは86年シーズンをもってグループBでの競技を終了することが決定されてしまった。
もう後がないデルタS4だが、それでも第八戦アルゼンチンでビアシアンが自身のキャリア初となる優勝を飾る。第11戦、ランチアのお膝元イタリアのサンレモではプジョー勢の全車失格もありアレンが優勝、チームメイトのD.チェラートとビアシオンもそれに続く形で1-2-3フィニッシュを遂げる。この勢いに乗ったアレンはRACラリーで2位を獲得、1ポイント差でプジョーのJ.カンクネンを逆転。最終戦オリンパスでもカンクネンを下し、見事大逆転の総合優勝……のはずだったが、プジョーがサンレモでの失格を不服としてFISAに控訴。この結果FISAはサンレモのリザルトを無効とし、結局この年のタイトルはカンクネンのものとなった。デルタS4はタイトル獲得の叶わぬままWRCでの役目を終えた。ランチアのマシンとしては唯一タイトルのない車両となっている。全シーズン通算での戦績は13戦6勝であった。そして、この戦績からファンの間でデルタS4はその後も活躍したがついにチャンピオンとなることはなかったアレンと共に「無冠の帝王」と呼ばれている。
グループBの終了後はパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム等に参加した。後継車としてランチアは上位カテゴリのグループS規定での競技のためのECV、ECV2というマシンを開発していたが、グループBの廃止によりグループS規定も立ち消えとなり、ECV以降のマシンは日の目を見ることなく終わった。
ツール・ド・コルスで犠牲となったトイヴォネンはこの車に対し「コースに留めるだけで精一杯。神経がおかしくなりそう」とコメントしていた。この車の性能は目を見張るものがあるが、一方でドライバーらへの配慮は全くされていなかったとも言える。またビアシオンは「工学的には間違ったコンセプトだと思う。競技性能のみを追求し、安全性は考慮されていなかった」と車そのものには否定的な見解を示ている。しかし、このように評されているのはあくまで安全面での話。ビアシオンは「強烈に魅惑的。最も感動を与えてくれた車は間違いなくS4だった。暴れ狂う馬を抑えつけ、支配するような喜びは何者にも代え難い」と続け、その魅力を評価する言葉を残している。狂気のグループB時代を象徴する1台、それがこのデルタS4という車であろう。
ドライバー、エンジニア、観客。皆が性能を追い求めるという狂気に取り憑かれた時代は、その技術と引き換えに多くの犠牲を生み、それを理由に廃止された。今日までに廃止されたカテゴリーを振り返っても、安全面を理由に廃止されたカテゴリーはグループBだけである。しかし、その狂気の時代はそこにしか存在し得ない輝きを放ち、今日のイベントでは当時の様々なマシンが元気に走る姿を見ることができる。この人気ぶりはまさしく、グループBがラリー史に残る伝説の1ページということを示しているだろう。
グループAへと規定が変わったWRC、ランチアは同じ名を冠するラリーカーを投入。ランチア帝国の伝説が幕を開けることとなる。