「領域展開 」
周囲を闇に包まれたその瞬間、イヴ・マーブルもまた領域を展開し、彼女は見知らぬ敵対者に身構えた。
飾り気のない黒いタンクトップと羽織った白衣、フィールドワーク用のモスグリーンのカーゴパンツ、そしてカーキの編み上げブーツに身を包んだ彼女の姿を、一発で“生物学者”と見抜けるものはそう多くないだろう。白衣を着た奇妙な衛生兵──そんなところだ。
彼女の領域は自室であり、彼女の研究用のラボでもある。彼女の背後にはメディカルチェック用のベッドと、プライベートルームへ繋がるドアがあった。
彼女の領域は自室であり、彼女の研究用のラボでもある。彼女の背後にはメディカルチェック用のベッドと、プライベートルームへ繋がるドアがあった。
『おはようございます、博士 。メディカルスキャンを実施しますか?』
ラボの管理を補佐するAIの合成音声は毎度変わらない文句だけを吐き出してくる。
「結構だ」
空間の半分は敵の領域の風景を映し出している。砂を敷き詰められた乾いた地面、周囲を取り囲む石造りのフィールドと、山並みのように広がっている客席。歴史の資料で読んだ、かつてSOL3にあったコロセウムという史跡のそれによく似ていた。自然に吹く風が彼女の白衣の裾を弄ぶ。
『空調の異常を検知。エアロックの状態を確認中』
LEDライトの人工的な光で無機質に照らされたラボと、天を開放され自然光の降り注ぐコロセウム。両者の光の温度さえも、決して混じり合うことはない。
「イヴ・マーブル、18ポイント。死因は薬剤投与による自死」
低く呟いても対の領域の主は姿を見せない。イヴはすぐ動けるよう戦闘態勢をとり、敵の襲来に備える。
そして、地響きのような音が一つ、大地と彼女の小さな体を震わせた。
ここが仮に見た目通りコロセウムに似た建造物であるなら、奴隷による闘技を見世物とする場であるはずだ。ならば敵は落ち窪んだ影の向こうから現れ出でる。そう確信し、イヴは闇の中に目を凝らす。
程なくして見えた敵の姿に、
そして、地響きのような音が一つ、大地と彼女の小さな体を震わせた。
ここが仮に見た目通りコロセウムに似た建造物であるなら、奴隷による闘技を見世物とする場であるはずだ。ならば敵は落ち窪んだ影の向こうから現れ出でる。そう確信し、イヴは闇の中に目を凝らす。
程なくして見えた敵の姿に、
「……デカいな」
さしものイヴも呟かずにはいられなかった。
「オ前、人間カ」
現れたのは明らかに人ではない怪物──身長5mはあろうかという青い肌の巨人であった。
「そうだ。お前と同じ死者で、お前を殺すものだ」
「俺ヲ、殺ス。出来ナイ。オ前、小サイ」
「俺ヲ、殺ス。出来ナイ。オ前、小サイ」
声に嘲りの色がない。巨人は事実の確認として、イヴでは自分に対して勝ち目がないことを告げている。その判断はイヴからしても正しいと思えるものだった。
巨人はその巨体を支えるべく全身の筋肉が怒張している。死者となって向上した膂力であっても、この“山”を切り崩すのは容易でないだろう。まして敵はその巨体に見合う武器として、身の丈と同じほどの巨大な棍棒を所持している。157cmしかないイヴとは体格差の時点で勝負がついている、と言っても何らおかしくない。
巨人はその巨体を支えるべく全身の筋肉が怒張している。死者となって向上した膂力であっても、この“山”を切り崩すのは容易でないだろう。まして敵はその巨体に見合う武器として、身の丈と同じほどの巨大な棍棒を所持している。157cmしかないイヴとは体格差の時点で勝負がついている、と言っても何らおかしくない。
「俺ハ、セグナキス。オーガ、全テ、砕ク」
「オーガ……。空想上のクリーチャーか。惜しいな、生きている内に出会いたかった」
「オーガ……。空想上のクリーチャーか。惜しいな、生きている内に出会いたかった」
学者として興味を抱くものの、“復活”という目的より優先するものではなく、あくまで相手は1ポイントに変わる“敵”。イヴの認識は少しも揺るがない。
「分カッタ、覚悟アル。女、殺ス」
少しも態度を変えず、一歩も退く姿勢を見せないイヴに対し、セグナキスもまた相手を殺すべきと判断し棍棒を肩に担いだ。
睨み合いは長く続かない。イヴが口火を切った。
睨み合いは長く続かない。イヴが口火を切った。
「闘士なんだろう。来い、先に打たせてやる」
思いもよらない言葉に困惑が生じるが、逡巡のみでそれを捨て去り、セグナキスが一歩を踏み出した。強く大地を踏みしめ一直線に迫る彼を、イヴは油断なく待ち構える。
「オオオッ!」
全身を叩く咆哮。必死の一撃が天から下る。
しかしその一撃は非常に単純でもあった。開戦を告げ、相手に敬意を表するためのパフォーマンスとしての攻撃。セグナキスなりの礼であり、同時に「これで死ぬような相手はいらない」という線引き。
轟音と振動が世界を叩いた。イヴの周囲にあったコンテナや実験機材がガタガタと激しく揺れる。
しかしその一撃は非常に単純でもあった。開戦を告げ、相手に敬意を表するためのパフォーマンスとしての攻撃。セグナキスなりの礼であり、同時に「これで死ぬような相手はいらない」という線引き。
轟音と振動が世界を叩いた。イヴの周囲にあったコンテナや実験機材がガタガタと激しく揺れる。
『異常な振動を検知。博士、ご無事ですか』
「無事だ。それと『黙れ』。……見た目通りのパワーだな」
「フン」
「無事だ。それと『黙れ』。……見た目通りのパワーだな」
「フン」
土煙の中から現れたイヴは、数mに渡り放射状に砕け、陥没した地面を見下ろし呟く。
瞬間。風を切る音よりも早く、土煙を引き裂いて棍棒が薙ぎ払われた。
両者の距離は約5m。その隔たりは彼女の接近を許さない。
イヴは抗わずに全力で後ろへ跳んだ。宙に舞う彼女と、即座に次の狙いを定めるセグナキスの視線が交錯する。
瞬間。風を切る音よりも早く、土煙を引き裂いて棍棒が薙ぎ払われた。
両者の距離は約5m。その隔たりは彼女の接近を許さない。
イヴは抗わずに全力で後ろへ跳んだ。宙に舞う彼女と、即座に次の狙いを定めるセグナキスの視線が交錯する。
「死ネ」
セグナキスは空の左手を強く握り、砲丸のような拳を突き出した。
「チッ」
避けることは不可能。イヴは姿勢を変え、巨大な拳に足裏を添わせ、蹴り飛ばすようにして軌道をずらした。そのまま一回転し姿勢を整えて着地する。
「何ダ、今ノ力」
妙な感覚だった。奴隷闘士 として様々な同業を屠ってきたセグナキスにとって、肉体こそが最大の武器である。棍棒によらず徒手のみで破壊してきた相手も枚挙に暇がない。その力が自身の1/3ほどの大きさしかない女にいなされたのだ。明らかに尋常ではない。肉体的に強くなった死者同士の戦いとは言え、流石に違和感を覚えないほどセグナキスは愚かではなかった。
「……オ前、重イカ?」
「答える義務はない」
「答える義務はない」
言うが早いか、今度はイヴが駆け出した。否、駆けると言うより、跳ぶのに近い。静止状態から脚力だけで跳び出し、矢のような勢いでセグナキスに迫る。
「ダガ──」
羽虫でも払うかのように棍棒が振るわれた。しかし彼女の足は止まらない。得物などまるで見えていないかのように、自分から突っ込んでいく。
「足場どうも」
衝突の瞬間、そう呟いて、イヴは棍棒に足を掛けた。一瞬の出来事。タイミングを外せば即座に熟れ落ちた果実のようになるところを、彼女は何の躊躇いも恐怖も見せず、それを蹴って高く宙へ舞い上がる。
その刹那、棍棒は僅かながら“しなった”。セグナキス同様数トンは下らない物体が、小さな女の脚力一つで曲げられたのである。だがそんな異常に向き合う暇もない。
その刹那、棍棒は僅かながら“しなった”。セグナキス同様数トンは下らない物体が、小さな女の脚力一つで曲げられたのである。だがそんな異常に向き合う暇もない。
「ヒットは私がもらうぞ」
セグナキスは驚愕する。女の姿が、文字通りの“目の前”にあったからだ。
反射的に左手で顔を庇うのと、イヴの蹴りが炸裂するのは同時の事だった。
切り欠かれた巨木が自重で倒れ行く時のような、メキメキという音がセグナキスの掌から鳴っていた。
反射的に左手で顔を庇うのと、イヴの蹴りが炸裂するのは同時の事だった。
切り欠かれた巨木が自重で倒れ行く時のような、メキメキという音がセグナキスの掌から鳴っていた。
「ッ……!?」
骨が砕けたのを直感で悟る。いや、そんなことは重要ではない。今理解しなければいけないのは、目の前の小さな女がそれを成したという理解不能の事実である。
一方で、地面に降り立ったイヴは。自分の爪先を地面にとんとんと叩き付けていた。その素軽い動きには、巨人の骨を蹴り砕くほどの力や重さがあるようには見えない。
しかし何か、重さを誤魔化すことのできる魔法のような力があるのだとしたら。
一方で、地面に降り立ったイヴは。自分の爪先を地面にとんとんと叩き付けていた。その素軽い動きには、巨人の骨を蹴り砕くほどの力や重さがあるようには見えない。
しかし何か、重さを誤魔化すことのできる魔法のような力があるのだとしたら。
「──存在ノ、調節カ」
「素晴らしい。ますます殺すのが惜しくなってきた」
「素晴らしい。ますます殺すのが惜しくなってきた」
声の調子に僅かに喜色が滲む。答え合わせをするように地面に右足を叩き付けると、巨槌で穿ったかの如く、大地に二つ目のクレーターができあがった。
「推測通りだ。私の体重は300kgある。即ち、骨と筋肉の密度が常人のそれとは違うということだ。普段は自重を消すために存在を希薄化している」
死者が自分の手の内を晒すことは、存在の輪郭を強固にして力を増す確実な手段の一つである。イヴが“異様な体質”を開示するたび、彼女の重量と共に世界に掛ける比重 が増していく──セグナキスが感じたのは、決して思い違いではない。
「無駄。潰レテ、死ヌ」
だが、いくら相手が異常な生き物であったところで、闘士は戦いをやめることなど許されない。生き延びたければ戦って殺すだけであり、それは死してなお変わらない。オーガ、セグナキスの本気が解放される。
「砕ク」
瞬きの間に、棍棒がイヴの眼前に“在った”。動き出しも見えない神速の一撃。
「────」
意識を置いて反射的に跳ね上がった彼女の右腕がそれを受ける。
肉が潰れる水音と骨が砕ける硬質な音が響き渡るも、それすら容易く置き去って、すでに追撃が迫っている。今度は全身が右腕と同じことになるはずのその一撃。
肉が潰れる水音と骨が砕ける硬質な音が響き渡るも、それすら容易く置き去って、すでに追撃が迫っている。今度は全身が右腕と同じことになるはずのその一撃。
「許可する」
そう告げた瞬間、今度はイヴの“両腕”が跳ね、奪命の一撃を弾き上げた。
「ナニ──」
砕けたはずの腕が、多少の傷はあれど元の形に戻っている。基本的に、領域内での負傷は領域の外に出なければ回復しない。砕けた腕を直すことは不可能だ。
それに、理外から迫った一撃目を受けた時の動作も説明がつかない。剛性──体組織の密度はともかく、速さ──反応速度は『反射的に防いだ』程度でどうにかなるものではないはずだ。
それに、理外から迫った一撃目を受けた時の動作も説明がつかない。剛性──体組織の密度はともかく、速さ──反応速度は『反射的に防いだ』程度でどうにかなるものではないはずだ。
「何者ダ、オ前」
「使いたくなかったが仕方ない。──『ムシ』」
「使いたくなかったが仕方ない。──『ムシ』」
彼女が白衣を脱ぎ、苦虫を嚙み潰したように、吐き捨てるように呟いた途端の事だった。
ぶちり、と。繊維を無理やりに引き千切る音が明朗に響いた。イヴの、脊髄から。
一拍置いて、鉄錆の臭いと共に、三つの鋭い爪を備えた二本の巨大な触腕が、腰から蛇のようにしなる太い尾が現れた。それらはまるで、外へ現れ出でたことを歓喜するかのように震えている。六本の腕・脚となったイヴは言葉通りの『虫』のようなシルエットに変貌した。
ぶちり、と。繊維を無理やりに引き千切る音が明朗に響いた。イヴの、脊髄から。
一拍置いて、鉄錆の臭いと共に、三つの鋭い爪を備えた二本の巨大な触腕が、腰から蛇のようにしなる太い尾が現れた。それらはまるで、外へ現れ出でたことを歓喜するかのように震えている。六本の腕・脚となったイヴは言葉通りの『虫』のようなシルエットに変貌した。
「ワーム……!?」
「武装 :腕 。攻撃を許可する」
「
セグナキスは状況の変化を感じ取り、再度攻撃に打って出た。後手に回ればこの異常な女──あるいは理解不能の生命に殺される、その可能性が像を結び始めている。敵を打ち砕き、その可能性を消し去るために、もう止まってはいられない。
「死ネッ、死ネッ、死ネェッ!!」
剛腕から放たれる隙間のない連打。単純ゆえに対処のしようがなく、数多の敵対者を大地の染みに変えてきたそれが、イヴに迫る。
「死にたくなければあがけよ、クソムシ」
彼女もまた、退くなど言語道断と示すように前へと打って出、連打の中心へと身を投じる。彼女自身の防御はない。それを担当するのは彼女とは独立して動く二本の腕だ。
「コイツは私に寄生した宇宙生物でな。分類を澄ませる前だったので、名前がない」
自身は回避しながらの前進に専念し、暴力の雨の中をゆっくりと進んでいくイヴは、己の輪郭をより強固に描き出すために、ぽつりぽつりと己の“真実”を語る。
「コイツに骨と筋肉、及び複数の神経への侵食を許していることに気付いた私は、脳を奪われる前に脳を停止させて死に、コイツの私ごとの処分を選択した。『薬剤投与による自死』がそれにあたる」
“死”の詳細を語るごとに、彼女の存在が強まっていく。
現在、両者の距離はおよそ3m。セグナキスは腕を伸ばせば触れられる距離である。
現在、両者の距離はおよそ3m。セグナキスは腕を伸ばせば触れられる距離である。
「オオオオッ!!」
彼は左手を伸ばし、右からも棍棒で横殴りに襲う。両手で挟み潰すようにした攻撃だが、
「武装 :脚 」
脊髄から更に左右二対、計四本の複腕が出現し、触腕含めた六本の腕がセグナキスの両腕を受け止めた。二本の腕と、六本腕の力比べが拮抗する。
「グッ……!!」
「だが忌々しいことに私とコイツの関係は死んでも繋がっていた。成長に十分な栄養を得られなかったことによる衰弱死……そんなところだろう。私の体内で死にやがったせいで、死んでも居座ってやがる」
「だが忌々しいことに私とコイツの関係は死んでも繋がっていた。成長に十分な栄養を得られなかったことによる衰弱死……そんなところだろう。私の体内で死にやがったせいで、死んでも居座ってやがる」
寄生生物の“死”への言及を持って六本腕の筋力がさらに向上する。それはついに拮抗を破り、セグナキスの丸太のような腕を地面に押さえ込んでしまった。
「馬鹿ナッ」
「打て」
「打て」
ゆらりと持ち上がった尻尾が、既に骨を砕いているセグナキスの左手を強く打ち据えた。
「グガアアアッ!!」
大砲でも打ち込まれたような衝撃と鈍い痛みが迸り、左腕が大きく弾かれる。
「領域は死の風景。つまりコイツにとっての領域とは『私』だ。一つの肉体を共有し合う二つの死者、それが私とコイツ──『クソムシ』の共生関係だ」
「怪物 ガァ……ッ!」
彼は砕けた中手骨をも無理やり握り込んで拳を固めた。イヴの“存在”は既にセグナキスを大きく上回っている。何としてでも、少しでも傷を与え、イニシアティブを奪わなければ勝ち目はない。
「クソムシ、右手に集中」
イヴは“クソムシ”の右腕三本と尾を体内に戻し、その分の力を全て右腕に集中させた。従軍経験で鍛え上げられているとはいえ、筋骨隆々の男の腕ほど逞しくはない彼女の腕は、しかし見た目に反して鉄塊すら砕くほどの密度と重量を誇り、同時に“生きた領域”としての桁違いの強度を集中させた肉の槌と化している。
「イイ加減ニ、死ネ!!」
「こっちの台詞だ」
「こっちの台詞だ」
果たして、勝負は分かり切っていた。拳と拳が激突した瞬間、打ち勝ったのは小さな女の拳。衝撃は余すことなくセグナキスの肉と骨を蹂躙し、左腕が微塵と弾け飛ぶ。
「アアアアッッッッ────」
耳をつんざく絶叫に顔をしかめたイヴは、戦いを終わらせるべく詰めの一手にかかる。
「押さえてろ」
イヴの手に、自死に使用したアンプルと銃型の注射器が出現する。現実であれば巨体のセグナキスを殺すのに有効な量とは言えないが、これは現在“致命攻撃”を付与されたものだ。「これを投与して死んだ」というイヴの因果が、全く同じ効果を他者にも強要する。
致命攻撃の準備が完了し、うずくまる彼に最期の言葉をかける。
致命攻撃の準備が完了し、うずくまる彼に最期の言葉をかける。
「最期に言い残すことはないのか、闘士」
「オ前、タチ……怪物 。オレ、以上、ノ……」
「つまらない遺言だな。奴隷は最期まで奴隷らしく縛られたままか」
「ナ、ニ」
「いや。這い蹲ってくたばるのがお似合いだと言った」
「オ前、タチ……
「つまらない遺言だな。奴隷は最期まで奴隷らしく縛られたままか」
「ナ、ニ」
「いや。這い蹲ってくたばるのがお似合いだと言った」
弱者への侮蔑を込めて呟いた瞬間、クソムシの腕を通じて激しい振動が感知された。侮辱されたセグナキスが、怒りのままに拘束を跳ね飛ばして再び立ち上がったのだ。
「舐メルナァァッ!!」
背筋が震えたのは恐怖からではない。そこに宿るムシが、本能から身を捩って笑っていた──二人の間に明確な意思疎通の手段は乏しいが、少なくともイヴはそう確信した。原始的な攻撃衝動が獲物を前に目を輝かせ、暴れさせろと騒いでいる。
首筋を手で押さえ、告げる。
首筋を手で押さえ、告げる。
「──いいぞ、クソムシ。出ろ」
力の解放が許可された。歓喜の振動がイヴの脊髄から我先にと外へ飛び出していく。
肉が引き絞られ、脊椎の節々が無理やりこじ開けられる濡れた軋み音。 出現したのは、もはや生物学的分類を拒絶する“純粋な殺意の塊”。
そして彼女の背後には六本腕の『虫』の如き生命体がその真の姿を表していた。長い尾で自重を完璧に支え、蛇のように上体を起こし、力を誇示するかのように全ての腕を開放する。
肉が引き絞られ、脊椎の節々が無理やりこじ開けられる濡れた軋み音。 出現したのは、もはや生物学的分類を拒絶する“純粋な殺意の塊”。
そして彼女の背後には六本腕の『虫』の如き生命体がその真の姿を表していた。長い尾で自重を完璧に支え、蛇のように上体を起こし、力を誇示するかのように全ての腕を開放する。
「ギシャアアアアアッ──」
歓喜に歌うように、獲物をあざ笑うように、無垢な子供のように、怪物が吠える。
それらは全て、クソムシと繋がる“接続糸”を通して、イヴの骨や脊髄、神経をも震わせる。
クソムシの侵し得ない彼女の精神は、その感情全てを唾棄すべきものとしていた。
それらは全て、クソムシと繋がる“接続糸”を通して、イヴの骨や脊髄、神経をも震わせる。
クソムシの侵し得ない彼女の精神は、その感情全てを唾棄すべきものとしていた。
「気味悪イ、ワームメ! 殺シテヤル!!」
セグナキスは残された右の拳でクソムシに殴りかかる。威力より命中を重視しての連打は先程棍棒を振るっていた時のそれよりも更に早い。左腕を砕かれた痛覚を無視するためでもある高速の連撃を、しかしクソムシはあざ笑うようにゆらゆらとかわし、隙があれば爪を突き刺し、肉を抉っていた。血を浴びるごとに、悦楽に酔いしれるように攻撃は苛烈になっていく。
「ギィィィィッ!」
接近の隙を窺いつつ、右腕が削られていく様を見やったイヴの脳裏に違和感が過る。
(待て。奴の武器はどこへ行った?)
身の丈と同じ巨大な棍棒がどこにもない。それを手放してまでの拳打──それに気付いた直後、彼女の頭上に巨大な影が落ちた。
「上か……!」
立ち上がる瞬間に真上へ投擲していた棍棒が、重力に引かれてイヴの元に落下していた。
腕を削られても一歩も退かない攻撃の意味は、彼女たちを一か所に留めておくための時間稼ぎ。勝利して領域が消えれば全ての負傷は無かったことになる。例え四肢をもがれても、殺して勝ちさえすればいい。それが死者の戦い方だ。
腕を削られても一歩も退かない攻撃の意味は、彼女たちを一か所に留めておくための時間稼ぎ。勝利して領域が消えれば全ての負傷は無かったことになる。例え四肢をもがれても、殺して勝ちさえすればいい。それが死者の戦い方だ。
「私を守れ、馬鹿ムシ野郎──!」
蹂躙を愉しんでいたクソムシもようやく迫る危機に気付く。しかしセグナキスの拳も止まらない。右腕が巻き込まれて潰れることも織り込み済み、拳か武器か、どちらかが敵対者を殺し切れば問題ない。
同時攻撃が迫る。時間はない。
イヴは咄嗟にその場にしゃがみこみ、その頭上を覆うように位置したクソムシが六本の腕を畳み、空を向く。選んだのは棍棒からの防御──だけでなく。獰猛な本能はあくまで攻撃を選択していた。
同時攻撃が迫る。時間はない。
イヴは咄嗟にその場にしゃがみこみ、その頭上を覆うように位置したクソムシが六本の腕を畳み、空を向く。選んだのは棍棒からの防御──だけでなく。獰猛な本能はあくまで攻撃を選択していた。
「シャアアアッ!!」
クソムシは六本の腕でただ棍棒を受け止めるのみならず、尾から腕までを一つのバネのように扱い、全身の力でそれの軌道を捻じ曲げてみせた。その先にあるのは、セグナキスの拳。
棍棒と腕がぶつかり合い軌道が狂う。どちらもイヴに届くことなく、
棍棒と腕がぶつかり合い軌道が狂う。どちらもイヴに届くことなく、
「────」
凄まじい衝撃音が響き、セグナキスの唯一残った右腕は、自身の棍棒の下敷きとなっていた。
「フシャアアア──」
うめき声も出ないセグナキスの腕を完全に破壊しようと、クソムシが再び攻撃を開始する、その刹那。
「終わりだ」
あくまで殺す事だけを目的としていたイヴは、クソムシの攻撃本能が牙を剥く瞬間を逃さない。一瞬で接近した彼女の注射器がセグナキスの肩に突き刺さり、劇的な一撃はなく、ただ炭酸の蓋を開けた時のような軽い排気音だけが響き、致死の薬剤の投与が完了した。
「オ前ッ、オ前、オ前──」
「すまない。私とコイツは肉体を共有するが、死者としては個別にカウントされている。コイツの殺しは私のポイントにならない。だから気を反らしてトドメは私が刺す必要があった。そのための不要な侮辱を詫びる」
「すまない。私とコイツは肉体を共有するが、死者としては個別にカウントされている。コイツの殺しは私のポイントにならない。だから気を反らしてトドメは私が刺す必要があった。そのための不要な侮辱を詫びる」
詫びたところで、侮辱の末に死に行く敵の目は冷たい。しかし彼女は恨みから逃げる気もなければ、必要以上に気負うこともない。必要な殺しに対する割り切りは既に済ませている。
何より、彼女には絶対に殺さなければならない宿敵がいる。文字通り、“宿った敵 ”が。
何より、彼女には絶対に殺さなければならない宿敵がいる。文字通り、“
「……私は必ず生き返る。このクソのようなムシを置き去りに、必ず」
静かに巨体が崩れ落ちる。死を決定づけたのはイヴの攻撃。よってポイントは彼女に加算された。
領域が消え去り、一度砕けた腕に残る傷痕は綺麗に消え去った。クソムシもイヴの肉体に戻り、後にはただ、静寂が残るのみ──否。
領域が消え去り、一度砕けた腕に残る傷痕は綺麗に消え去った。クソムシもイヴの肉体に戻り、後にはただ、静寂が残るのみ──否。
戦いの高揚を忘れられないとでも言うのか、あるいは本能の行くまで殺しを行えなかった駄々なのか、右手が激しく暴れ回った。彼女の意思を無視した動きに、イヴは極めて冷静に、されど怒りを持って対処する。
「──調子に乗るなよ。人様に間借りしたクソ以下のムシの分際で」
彼女はただ己の肉体を傷付けるためだけに神速で領域を再展開し、領域に付随するメスで自身の前腕を突き刺し、一気に右手まで刃を進めた。流れ出る血に温度はない。痛みはあるが、無視できる。
この不快・不愉快極まるムシに、主導権を与えることは断じて許されない。それは命を賭して未知の寄生生物の“誕生”を防いだ生前から一貫して、イヴ自身の使命であった。
「馬鹿なお前でも分かるよう、何度でも教えてやる。私は必ずお前を殺す。お前の復活など決して許さない。私はお前の物にはならない。お前が復活するくらいなら、もう一度死ぬ。少しでも長生きしたいなら、上手く私の機嫌を取れ、クソムシが──」
激しい怒りと覚悟を込めて、メスが右手を貫き、真の沈黙が両者に訪れた。
『博士。右前腕、及び右手に切創を検知。直ちに治療を開始しますか?』
「結構だ。私は『敵』に掛ける慈悲を持ち合わせていない」
「結構だ。私は『敵』に掛ける慈悲を持ち合わせていない」
ラボに一つ、舌打ちだけが冷たく響き渡った。
イヴ・マーブルと寄生生物の間に、情緒的な関係性は一切存在しない。あるとすれば生き返るために力を利用する“共生”の関係のみである。
イヴは寄生生物が持つ尋常ならざる破壊の力を敵の無力化に用い、己が100ポイントを稼ぐための兵器として使用する。寄生生物より早く復活に成功すれば、『遡って死の原因を消し去ることで復活する』法則性により、自らの死の遠因となった寄生自体をなかったことにできる。そのために彼女はなんとしても自分で100ポイントを稼がなければならない。
寄生生物──クソムシは本能の赴くままに戦い、壊し、蹂躙し、いかなる死者をも殺害する。復活のルールを理解しているかは定かではない。しかし、もしも制御から解き放たれた場合、先に100ポイントを獲得するのは間違いなくクソムシであろう。
同じ体を使う、二体の死者。しかし両者は永遠に相容れない。誰より近く、決して交わらないほど遠い、“宿敵”なのだ。