Previous→デッドマンズ:ハロー・ワールド
スクラップ再生場に迷い込んだのかと思うほど、金属同士を打ち付け合う音が強く響いていた。よくよく聞き分けると音は二つ。澄んだ高い音と、くぐもった低い音が交互に響いている。その違いには聞き覚えがあった。
「そこ」はごつごつとした岩肌が剥き出しになった谷間の道の中途だ。戦術学的に言えば「隘路 」。周囲は薄暗く、漂う霧のせいで余計に視界が悪い。わずかな光が東の方角から差し込んでいるため、夜明け前の朝霧なのだろう。しかし音の発生源だけは凄まじい勢いで大気が撹拌 されるため、少し近付けばその正体を知ることができた。
「そこ」はごつごつとした岩肌が剥き出しになった谷間の道の中途だ。戦術学的に言えば「
二本の剣を振るうベルフリートと、大楯と重たいハンマーを軽々と使いこなすガリアス。
真剣な表情の二人が、互いの矛を本気で交え合っている、今までに一度も見たことのない光景。
「……夢、か」
そのすべてを観る前に、シオンは目覚めた。窓の外に目を向けると、ちょうど夢で見たのと同じように、未だ昇り切っていない太陽のかすかな光が、東の空から差し込んでいる。
夢。記憶・情報の処理が作り出した脳内の幻想。定義上はそういうものだ。今しがた観ていた夢は、あくまで日常的な訓練からシオンの脳がシミュレートしたものなのだろう。
しかし、それで片付けるには夢はあまりに鮮明だった。未だ他者と本気で殺し合う様を見せたことのない二人が、互いの実力をぶつけ合う際の様子や表情など、二人との訓練だけを基に出力できるはずがない。何より、シオンは死後も含めての生涯で一度たりとも夢に観た光景──霧深い隘路になど行ったことがない。情報処理の産物なのだとすれば、まず土台自体が存在しないのだ。
夢。記憶・情報の処理が作り出した脳内の幻想。定義上はそういうものだ。今しがた観ていた夢は、あくまで日常的な訓練からシオンの脳がシミュレートしたものなのだろう。
しかし、それで片付けるには夢はあまりに鮮明だった。未だ他者と本気で殺し合う様を見せたことのない二人が、互いの実力をぶつけ合う際の様子や表情など、二人との訓練だけを基に出力できるはずがない。何より、シオンは死後も含めての生涯で一度たりとも夢に観た光景──霧深い隘路になど行ったことがない。情報処理の産物なのだとすれば、まず土台自体が存在しないのだ。
(私が見たものは……夢、なのか?)
知りたい。この世界に慣れることを優先して後回しにしてきた、仲間たちのことを。ベルフリートの事、ガリアスの事、アーサーの事、ミーナの事を。
皆の目が覚めるまではまだ時間がある。珍しく一番早く目覚めることになったシオンは、日が昇るまでの時間を、仲間たちを想いながら一人静かに待ち続けた。
皆の目が覚めるまではまだ時間がある。珍しく一番早く目覚めることになったシオンは、日が昇るまでの時間を、仲間たちを想いながら一人静かに待ち続けた。
「ほう。そんな『夢』を見たのか。ほうほう」
弟子の話を聞いたベルフリートは愉快そうに自分の顎を撫でた。
昼下がりの穏やかな時間が流れる食堂。全員が集う場で、今日もシオンの発言に皆が注目している。
昼下がりの穏やかな時間が流れる食堂。全員が集う場で、今日もシオンの発言に皆が注目している。
「事実か?」
「うん? 私が語っても面白くはあるまい。そこの堅物に聞くのはどうだ」
「うん? 私が語っても面白くはあるまい。そこの堅物に聞くのはどうだ」
普段の威厳ある佇まいから仲間をからかう好々爺 へ、ベルフリートは珍しく表情を緩ませている。彼はどうやら最古参の友人に自分から喋らせるのが好きでたまらないようだ。
「おい、ベル」
「いいじゃないですか、昔話など減るものでもありませんし。私は既に知った話ですが、ガリアスさんから聞くのも面白そうだ」
「ならお前も語れ。日頃シオンから話を聞いてばかりだろうが」
「別に構いませんよぉ。まっ、大したことないのですけど!」
「そう言えば私たち、シオンに昔話をしてあげたことも無かったのね。何でもお話ししていたような気分だったわ」
「ははは、仲良きことは美しきかな。折角だ、今日の茶会は我々の昔話を『新入り』に語り聞かせてやるとしよう」
「いいじゃないですか、昔話など減るものでもありませんし。私は既に知った話ですが、ガリアスさんから聞くのも面白そうだ」
「ならお前も語れ。日頃シオンから話を聞いてばかりだろうが」
「別に構いませんよぉ。まっ、大したことないのですけど!」
「そう言えば私たち、シオンに昔話をしてあげたことも無かったのね。何でもお話ししていたような気分だったわ」
「ははは、仲良きことは美しきかな。折角だ、今日の茶会は我々の昔話を『新入り』に語り聞かせてやるとしよう」
ベルフリートは渋面のガリアスを楽しそうに眺め、机を二度打った。
今日はベルフリートが紅茶を振る舞い、穏やかな茶会が始まった。
「さて。お二人のお話の前に、私から済ませてしまいましょうか。何せ大して面白みもない話なので。お茶が冷める前に話し終えてしまいたい」
口火を切ったアーサーは、使い込まれた革の装丁 の手帳を取り出し、ぺらりと表紙をめくった。恐らくはこの世界で最初に使い切ったものなのだろう。面白みがないと自虐しつつも、筆記の内容を目が追う様子は確かな愛着を感じさせる。
「私は19世紀末のイギリスに生まれました──」
19世紀末、イギリスで生を受ける。蔵書家の父を持ち、幼い頃から本に触れて育った。本を収集する父の影響を受け、「知の収集」自体と、知識を連綿と受け継いできた歴史や考古学に強い興味を示す。2大キャンパスの内ケンブリッジ大学へと進み、そこで考古学に打ち込んだ。
31歳、1920年代に中近東の発掘・調査隊に同行。イギリスで書物や蒐集品 に触れているだけでは感じ取れない「本当の空気」を知るための参加だった。
歴史を紐解き、過去と現在を照らし合わせてひたすらに砂を掘る。それすら古代との繋がりを感じさせ、アーサーは全く苦にすることが無かった。調査隊のメンバーとの学術的談義も、常に彼の心に好奇心の薪をくべ続けてくれた。
やがて隊は遺跡の発掘に成功する。これを「諦めなかった者たちに天が授けたご褒美」などと美辞麗句 で飾る歴史作家もいるだろうが、彼にとってそれは情報の継承と正確な計算の賜物であり、天の采配などは一つとしてない。人間の知性が紡いだ素晴らしき歴史の一部としての成果が、彼にとってどれほど喜ばしいことかを言葉で表現するのは難しい。敢えて書き記すとすれば、遺跡の出土の翌日、彼は初めて二日酔いで現場に現れた。
出土から数日、ついに地下空間への入り口が見つかる。内部へと進入した調査隊の前にあったのは、古代の粘土板文書を収めた広大な「図書館」。外交、法律、宗教儀礼、神話など、当時の生活にまつわる事物が事細かに収蔵された空間は、アーサーにとってはどんな黄金にも勝る「宝の山」だった。彼はすっかり魅了され、古文書の読解に時間を費やすようになった。
しかし夢のような日々も長くは続かなかった。盗賊に襲われ……だとか、遺跡を守る秘められた一族がいて……だとか、そのようなスペクタクルがあったわけではない。もっと単純であっけなく、ある日突然遺跡が崩落し、アーサーは瓦礫の下敷きになって死んだのである。それも逃げ遅れたのではなく、自ら古文書に覆い被さったために、だ。
後悔はしていない。数日後か、数週間後か、はたまた数年後かは不明だが、紀元前の遺跡に近代人の死体が遺っているというのも、それはそれで歴史の繋がりを感じて面白いことになるだろう。できればその発見の場に居合わせてみたかった、というのが後悔かもしれない。
「……すごいな。よくそこまで、自分の死をポジティブに語れる」
「ハハハ。人の生きた時間は全てが歴史の一部となるのですから、それこそ私にとっては面白い話です。特に、死んでから客観的に振り返ることができたものですから、私にとっては『私』すら調査の対象だったわけですねぇ」
「死後の状態に興味を持って調査するのはいいが、法則も知らない内に死ぬところだったろう、お前。自分の領地に殺される前に、たまたま俺が通り掛かってなければどうなっていたことか」
「感謝してます、感謝してますよガリアスさん。お陰でこうして知識の収集を継続できている。本当にありがとうございます。以上、私の話はここで終わりです。ね、大して面白みもなかったでしょう」
「ハハハ。人の生きた時間は全てが歴史の一部となるのですから、それこそ私にとっては面白い話です。特に、死んでから客観的に振り返ることができたものですから、私にとっては『私』すら調査の対象だったわけですねぇ」
「死後の状態に興味を持って調査するのはいいが、法則も知らない内に死ぬところだったろう、お前。自分の領地に殺される前に、たまたま俺が通り掛かってなければどうなっていたことか」
「感謝してます、感謝してますよガリアスさん。お陰でこうして知識の収集を継続できている。本当にありがとうございます。以上、私の話はここで終わりです。ね、大して面白みもなかったでしょう」
喋り切ったアーサーは紅茶で喉を潤し、『お次をどうぞ』と小首を傾げてミーナに目配せした。
彼女が目を覚ますのは、いつも太陽が顔を覗き込むよりも早くのことでした。
「お父さん、お母さん、おはよう」
「おおミーナ、おはよう。今日も早いな。もう少し寝てていいんだぞ」
「ううん、大丈夫よ。何かお手伝いできることはない?」
「ありがとうねぇ。そうしたら、朝ごはんのふかし芋を潰してもらえる?」
「うん!」
「おおミーナ、おはよう。今日も早いな。もう少し寝てていいんだぞ」
「ううん、大丈夫よ。何かお手伝いできることはない?」
「ありがとうねぇ。そうしたら、朝ごはんのふかし芋を潰してもらえる?」
「うん!」
家族の手伝いを通じて、ミーナ・チェルニーの一日は始まります。
「ほらみんな、朝よ! 起きてちょうだい!」
5人きょうだいの長女であるミーナは、妹や弟を起こすのが日課でした。朝から元気いっぱいなミーナと違って、下の子たちはまだまだ眠たそうに目をこすっています。
「ん~……おはよう、おねえちゃん……」
「おはよう、ジョイ! 一番に起きられた子には、朝ごはんおまけしてくれるわ」
「うん……ふわぁ」
「ふふ。さあ、顔を洗ってきちゃって! 美味しい朝ごはんが待ってるんだから」
「おはよう、ジョイ! 一番に起きられた子には、朝ごはんおまけしてくれるわ」
「うん……ふわぁ」
「ふふ。さあ、顔を洗ってきちゃって! 美味しい朝ごはんが待ってるんだから」
末っ子の頭を撫でて両親の待つ居間へと送り出すと、彼女に抱き着く影が一つ。
「ちょっとフラウ! まだ夢の中かしら?」
「ううん……ミーナぁ、髪の毛とかして……」
「もう10歳でしょう! しゃんとなさい!」
「ううん……ミーナぁ、髪の毛とかして……」
「もう10歳でしょう! しゃんとなさい!」
甘えたがりなきょうだいの面倒をいっぺんに見るのは大変です。けれどミーナはそんなところも含めて家族を愛していました。だって彼女は「お姉ちゃん」なのですから。
「父よ、あなたの慈しみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、私たちの心と体を支える糧としてください。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン」
「アーメン」
「アーメン」
食前のお祈りを済ませて、家族みんな揃っての朝食の時間になりました。ライ麦のパン、ジャガイモのミルク粥風スープ、シェーブル チーズ、ハーブティーが並び、食卓を彩っています。
「クリス、ジョイに渡して」
「あーっママずるい! ジョイのスープ、僕より多いよ!」
「最初に起きてきた子にご褒美よ。欲しかったらあなたもしっかりなさい」
「そうだぞクリス。お前も8つだ、そろそろお寝坊さんじゃあ困るな」
「むぅー」
「パパの言う通り。クリスってば本当にお子さまなんだから」
「なんだよー。アイラだってジョイより遅かったじゃん」
「でも文句言ってないでしょ。だからいいの」
「アイラ? お姉さんぶりたいならもう少しミーナを見習いなさい」
「あはははは! ママの言う通りだぞ、アイラ」
「あーっママずるい! ジョイのスープ、僕より多いよ!」
「最初に起きてきた子にご褒美よ。欲しかったらあなたもしっかりなさい」
「そうだぞクリス。お前も8つだ、そろそろお寝坊さんじゃあ困るな」
「むぅー」
「パパの言う通り。クリスってば本当にお子さまなんだから」
「なんだよー。アイラだってジョイより遅かったじゃん」
「でも文句言ってないでしょ。だからいいの」
「アイラ? お姉さんぶりたいならもう少しミーナを見習いなさい」
「あはははは! ママの言う通りだぞ、アイラ」
家族の暖かい団欒 の時間は、いつだってミーナを幸せな気持ちにしてくれました。
青空に太陽がまぶしく輝いています。村の皆が働き出すのと同じころに、ミーナも洗濯物かごを抱えて村の外にある川を目指します。洗濯物はきっとよく乾くでしょう。
その前に、村のみんなの顔を見るため、広場に寄っていくのがミーナの決まりでした。
その前に、村のみんなの顔を見るため、広場に寄っていくのがミーナの決まりでした。
「ようミーナ。おはようさん。今日は洗濯かい、精が出るねえ」
「ケーニヒさん、おはようございます。これから木を切りに行くのかしら?」
「んにゃ、今日は薪割りだな。冬の前にたっぷり準備しとかないと」
「責任重大じゃない! 頑張ってね」
「ケーニヒさん、おはようございます。これから木を切りに行くのかしら?」
「んにゃ、今日は薪割りだな。冬の前にたっぷり準備しとかないと」
「責任重大じゃない! 頑張ってね」
木こりのケーニヒおじさんに別れを告げると、今度は羊の鳴き声が聞こえてきました。声の方を見ればこちらに向かってくる一頭の子羊と、その後を追ってくる女性が一人。羊飼いのマルティナおばさんです。
「あーっミーナ! すまない、その子をなだめてくれるかい!」
「任せて!」
「任せて!」
ミーナはすぐにしゃがみこんで、子羊と目線の高さを合わせ、両腕を広げました。するとどうでしょう。不思議なことに、一生懸命に走っていた羊は速度を落とし、彼女の腕の中に飛び込んだのです。
「きゃっ」
「ミーナ! 大丈夫かい!?」
「ミーナ! 大丈夫かい!?」
後ろへ倒れ込んでしまったミーナを心配してマルティナが駆け寄ると、彼女は子羊に鼻の頭をこすりつけられている所でした。くすぐったそうに微笑むミーナは子羊の額と自分の額をくっつけ、優しく語り掛けます。
「よしよし、元気な子ね。だけどもう柵の中に戻る時間よ」
頭を撫でてやって子羊が安心したところで、マルティナににこりと微笑みかけます。今度は彼女がその腕の中に子羊を抱える番でした。
「ほら、大人しくするんだよ。……ありがとう、助かったよミーナ。あんたは本当に動物に懐かれるねぇ」
「お役に立ててよかったわ! ね、また今度、様子を見に行ってもいいかしら?」
「ハハッ。うちには羊と犬しかいないけど、それで良けりゃあいつでもおいで」
「お役に立ててよかったわ! ね、また今度、様子を見に行ってもいいかしら?」
「ハハッ。うちには羊と犬しかいないけど、それで良けりゃあいつでもおいで」
腕の中の子羊に悪戦苦闘しながら来た道を戻るマルティナおばさんを見送って、ミーナも本来の自分の仕事に戻ります。
川へ向かう道すがら、年下の子供も、大きな大人たちも、彼女に挨拶と暖かい言葉をかけてくれました。この小さな村ではみんなが家族なのです。ミーナは14歳、大人と子供の境界線上の女の子ですが、既に村のみんなの間では「頼りになるしっかり者」として評判でした。
川へ向かう道すがら、年下の子供も、大きな大人たちも、彼女に挨拶と暖かい言葉をかけてくれました。この小さな村ではみんなが家族なのです。ミーナは14歳、大人と子供の境界線上の女の子ですが、既に村のみんなの間では「頼りになるしっかり者」として評判でした。
川では洗濯をしている女性が何人かいました。
「みなさんこんにちは! 今日はいいお洗濯日和ね!」
「ハァイミーナ、遅かったのね。もうアイラが来てるわよ」
「ハァイミーナ、遅かったのね。もうアイラが来てるわよ」
妹の姿を探すと、少し離れた野原で綺麗な花々を摘んでいるところでした。
「あら、背中が汚れてるわ。なにかあったの?」
「マルティナおばさんのとこから子羊が逃げ出しちゃったの。そのお手伝い」
「まあ……、本当に働き者ねぇ。うちの子はそろそろ4つになるけど、ミーナみたいな子に育つかしら?」
「うーん、それは分からないけど……うんと大事にしてあげて。私は毎日パパが抱き締めて、ママがおやすみのキスをしてくれたもの」
「そうそう。心を離しさえしなければ、子供はまっすぐ大きくなるわよ。それに何かあれば私たちがいるじゃない。村の皆が見守ってるわ」
「マルティナおばさんのとこから子羊が逃げ出しちゃったの。そのお手伝い」
「まあ……、本当に働き者ねぇ。うちの子はそろそろ4つになるけど、ミーナみたいな子に育つかしら?」
「うーん、それは分からないけど……うんと大事にしてあげて。私は毎日パパが抱き締めて、ママがおやすみのキスをしてくれたもの」
「そうそう。心を離しさえしなければ、子供はまっすぐ大きくなるわよ。それに何かあれば私たちがいるじゃない。村の皆が見守ってるわ」
ミーナはうんうんと頷きました。彼女は何もひとりでにしっかり者になったわけではありません。パパとママがいて、頼りになる大人の姿をたくさん目にして、それからきょうだいが生まれてきて。たくさんの人のお陰で、ミーナは大きくなったのです。
それからみんなで歌を歌いながら洗濯をしました。それからまた世間話に戻った時に、一人が少し真剣な表情でみんなに言いました。
それからみんなで歌を歌いながら洗濯をしました。それからまた世間話に戻った時に、一人が少し真剣な表情でみんなに言いました。
「子供と言えば、病気には気をつけなさいよ。都の方で流行り病が広まってるって、商人が教えてくれたわ」
「本当? きょうだいたちにも手洗いをしっかりさせないといけないわね」
「本当? きょうだいたちにも手洗いをしっかりさせないといけないわね」
怖いものが近付いてくるように、風が、草原をざわりと揺らしました。
お昼を過ぎて空が少しずつ赤らみ始める頃、洗濯物を吊るし終えたミーナは両親を迎えに村の外れに向かいました。その道中にある小高い丘に登って、村を眺めながらお祈りをするのがミーナの日課です。神様に聞こえるよう、少しでも高いところで。
「今日はジョイが一番早く起きられました。昨日と同じように見えても、少しずつ成長しているんですね。末っ子のあの子が成長するのを見守れて、私は幸せです」
「クリスはまだ甘えたがりだけど、パパやママと一緒に畑で働いています。あの子が長男として、家族の代表に相応しく立派になれますように」
「フラウの髪は今日もとっても綺麗でした。お家でジョイの面倒を見てくれるようになって、とっても助かってるの。あの子がとっても素敵な女性になれますように」
「アイラは意地っ張りなだけなんです。今日だってちゃんとお洗濯を手伝ってくれて、本当は家族が大好きで、いいお姉ちゃんになろうと頑張っています。だから神様も、見守ってあげてください」
「パパとママはこれからも元気でしょうか? 二人が元気なら、私はそれ以上何も必要ありません。どうか二人が長生きできますように」
「どうか、私の家族と、村の皆に、これからも、たくさんの幸せがありますように」
夜の空は冴え渡り、月と星の灯りが空にきらきらと物語を描き出しています。屋根裏部屋の小窓から眺める小さな夜空には、雄大な物語が広がっていました。
ミーナはジョイのまだ小さな手を取って、星々を指先でなぞらせます。
ミーナはジョイのまだ小さな手を取って、星々を指先でなぞらせます。
「あれがアンドロメダ座。アンドロメダはとても美しいお姫様なの。だけどお父さんとお母さんのせいで海の怪物に食べられちゃいそうになるのよ」
「ええっ、そんなのひどいよ!」
「だけどね、そこに英雄ペルセウスが現れたの。ペルセウスはメドゥーサの首を掲げて、海の怪物を石に変えてしまったわ。そうしてアンドロメダはペルセウスに助け出されて、二人は結婚して幸せに暮らしました」
「ええっ、そんなのひどいよ!」
「だけどね、そこに英雄ペルセウスが現れたの。ペルセウスはメドゥーサの首を掲げて、海の怪物を石に変えてしまったわ。そうしてアンドロメダはペルセウスに助け出されて、二人は結婚して幸せに暮らしました」
ぽんぽんと頭を撫でられたジョイは大きなあくびをしました。もうすぐ寝る時間です。
「お姉ちゃん、明日もお話聞かせてくれる……?」
「もちろん。だからベッドに入ったら神様にお祈りするのよ、明日も晴れますようにって」
「うん……」
「いい子ね。さ、寝る時間よ」
「もちろん。だからベッドに入ったら神様にお祈りするのよ、明日も晴れますようにって」
「うん……」
「いい子ね。さ、寝る時間よ」
かつてはミーナがママにしてもらったように、アイラに、フラウに、クリスに、そしてジョイに。屋根裏部屋は寝物語を通じて家族を繋ぐ、大切な場所でした。狭い部屋だけれど、その分家族の愛情がいっぱいに詰まった、大事な聖域でした。
そんな大事な場所を独り占めしてしまうのは心苦しいけれど、この家からみんなの温もりがなくなってしまう方がもっと苦しいから。だからミーナは屋根裏部屋に独りでいることを選びました。
15歳の春。ミーナは流行り病にかかり、床に臥せるようになってしまいました。
「パパ、ママ、自分を責めないで。私ならきっと大丈夫だから……」
最初は風邪のような症状が出ました。何日経っても熱が引かず、次第に肌があかぎれ、血が滲むようになりました。ミーナの小柄な体は、あっという間に包帯だらけになってしまいました。
家族はみなミーナの回復を祈りました。村の皆も祈ってくれました。お医者さんを呼んで、薬草を煎じて、薬を飲んで──けれど、症状は一向に良くなりませんでした。元気だったミーナは、日に日に弱っていきます。
家族はみなミーナの回復を祈りました。村の皆も祈ってくれました。お医者さんを呼んで、薬草を煎じて、薬を飲んで──けれど、症状は一向に良くなりませんでした。元気だったミーナは、日に日に弱っていきます。
それでも、彼女が自分の運命を呪ったことはありませんでした。
「この頃ね、クリスが一人で起きられるようになったの。あなたに甘えてたのね。フラウも自分で身だしなみを整えるようにし出したけど、やっぱりあなたが髪を整えてくれるのが一番だ、って……」
「なあんだ、みんな、しっかりしてるじゃない……。すぐに、自分でできるようになるわ」
「そうよ。みんな大きくなって手がかからなくなったら、今度はミーナの番。素敵な人と出会って、幸せな家族を……」
「なあんだ、みんな、しっかりしてるじゃない……。すぐに、自分でできるようになるわ」
「そうよ。みんな大きくなって手がかからなくなったら、今度はミーナの番。素敵な人と出会って、幸せな家族を……」
ママの瞳から願いと悲しみの混じった涙が一粒零れ落ちました。
「大丈夫よ……。みんなのお祈りは、きっと神様に届くわ……」
「……そうよね、ごめんなさい。ママにしてあげられることがあれば、何でも言って」
「ありがとう……。だったらそうね──みんなは、体調を崩したら駄目よ。元気でいてね……?」
「……そうよね、ごめんなさい。ママにしてあげられることがあれば、何でも言って」
「ありがとう……。だったらそうね──みんなは、体調を崩したら駄目よ。元気でいてね……?」
きっと病気になんか負けない。みんなのお祈りはきっと届く。きっと良くなる。みんなが自分を大切に想ってくれているから、ミーナの心に絶望はありませんでした。それどころか、彼女はいつも変わらず、大切な人たちのことを想い続けていました。
それがたとえ、最期の時でも。
「……んな、ありがと……。あとで、ちゃんと、てあらい、うがい……忘れないで、ね」
両親が、きょうだいたちが、村のみんなが、代わる代わるミーナの手を握り、天に念じました。誰もがこの少女に奇跡が降り注ぐことを願いました。それが神様にはひっきりなしに届くものだと分かっていても、聞き届けられることを願わずにはいられませんでした。
彼女が独り占めするようになってしまった屋根裏部屋に、たくさんの人の愛情が戻ってきました。それだけでミーナの心はいっぱいでした。
彼女が独り占めするようになってしまった屋根裏部屋に、たくさんの人の愛情が戻ってきました。それだけでミーナの心はいっぱいでした。
「パパ、ママ、どうかいつまでも元気でいてね。すぐに会いに来たら追い返しちゃうわ」
「アイラ。あなたならもう大丈夫。みんなのお姉ちゃんとして、家族を大事にしてね」
「フラウ。アイラを助けてあげて。大丈夫、私が教えたことを思い出して」
「クリス。いつまでも泣いてちゃだめよ。あなたは強い子、みんなを頼んだわ」
「ジョイ。たくさん食べて、遊んで、寝て、大きくなってね。いつも見守ってるから」
「村のみんなにも、たくさん、たくさん、幸せがありますように」
「私は、この村で、みんなの家族でいられて、幸せだったわ──」
ミーナは、夕暮れと共に、眠るように、息を引き取りました。
最期まで何かを呪うこともなく、たくさんの愛を抱きしめて、旅立ちました。
最期まで何かを呪うこともなく、たくさんの愛を抱きしめて、旅立ちました。
「これが、私がここに来る前のお話。聞いてくれてありがとう、シオン」
その笑顔は、少しだけ郷愁 を帯びていた。
初めて知る友の死に、シオンは自然と涙を流していた。感情の偽装機能などではない心からの涙が、彼女の能面のような頬を伝う。
ミーナの死に感じていることを言葉にするのはシオンにはまだ難しい。だから表情だっていつも通りで変わらない。だが、その内心を疑うものなど、ここにはいなかった。
ミーナの死に感じていることを言葉にするのはシオンにはまだ難しい。だから表情だっていつも通りで変わらない。だが、その内心を疑うものなど、ここにはいなかった。
「君は……」
演算を介さない無垢な言葉が口をついて出る。比較と相対化で物事を観がちなシオンでも、ミーナの口ぶりや仕草、表情から感じ取れるものはあった。
「幸せに、生きたんだな」
少し間の抜けた言葉に、ミーナは黙って頷いた。
この幸せが、暖かさが、何も持たない殺人者の手を取り、シオンという人間にしてくれたことを思い知って、また涙がこみ上げてくる。
「素敵な人たちと出会って。シオン、あなたと友達になれて。私、今も幸せよ」
しばらくの間、シオンの小さな嗚咽だけが、昼下がりの穏やかな空気と溶け合っていた。