本編、二度目の反省室入りシーン。
この命ひとつ
覗き窓の蓋が、硬質な音を立てて落ちる。ニールは一つ息を吐くと、踵を返して歩き出した。
覗き窓が閉まったのは、ニールが蓋から手を離したからだ。あの小部屋と外を繋ぐ唯一のものが閉じたのは、ニール自身の意思に他ならない。それでも、一歩足を進め、小部屋から離れていく度に、あの部屋が隔離されたことに対して、おぞましいまでの苛立ちがこみ上げてくる。反省室という名の小さな独房を、これほどまでに疎ましいものだと思ったことはない。やがてあの部屋にも迫りくるだろう深い闇を、これほどまでに憎んだことはない。
あの扉の向こうには、ニールの大切な子供がいる。
関わり始めたきっかけは、ただの同情だった。自分が誰かに憐れみを覚えられるほど大層な立場の人間ではないことは、うんざりするほど身に染みている。それでも、かつての自分を彷彿とさせるような境遇に置かれ、怒りと憎しみに神経をすり減らす子供を目にしたときに感じた憐憫の情は、少なくとも今の感情よりは遥かに真っ当だったはずだ。
子供は天使のような顔をしているくせにかなりの意地っ張りで、こちらの忠告を無視するような可愛げのない子供だった。そして、それ以上に可愛くて仕方のない子供だった。日に日に濃度を増す信頼の色も、言葉とは裏腹にはっきりと好意を伝えてくる大きな目も、照れ隠しにきつく引き結ばれた唇も、全てが愛おしかった。そんな子供を弟のように思っていたのは、事実だ。否、今でもそう思っている。
だが、そんな穏やかだったはずの交流は、いつの間にか形を変えていた。子供の目が訴える好意はやがて激しさを増し、いつの間にか恋情に変貌していた。子供が自覚する前に、ニールはそれに気付いた。かつて最低の人間だった時分、幾度か買った女が、ふとした瞬間にこんな目をしていたことがあった。牧師としての務めに励んでいたとき、敬虔な信者のひとりである若い娘が、全く同じ目を向けてきたこともある。どちらも享受するには重すぎて、ニールは逃げた。彼女たちに限らず、誰かからの愛を受け入れる資格のある人間では、自分はなかったのだ。おそらくは、今でも。
「クソが」
子供に聞こえないよう、ニールは小声で吐き捨てた。それだけで激情を抑えられるはずもなく、足音が荒く響かないよう苦心する。
こうして心配に身を焼いている今も、ニールは子供との接し方を掴みあぐねている。子供の思慕は素直に嬉しい。この世に戒めという概念が存在しなければ、とうに抱き寄せて口づけている。それに抵抗をまるで覚えないぐらいには、自分はあの子供を愛しているのだ。まだ弟のような感覚が大勢を占めているにしても、やはりその行為自体に嫌悪感はない。生い立ちの影響か、神に仕える職にある者としては異端と称して問題がないほど、欲望に大らかな自覚はある。
同時に、やはり彼は牧師だった。しなやかに枝葉を伸ばす若木を、正しい方向に導く役目があった。そして子供は、ニールが想いに応えるには、あまりにも清らか過ぎた。惚れた腫れたのひとつさえ知らない、あまりに無垢な子供だった。好意が募りに募って、それでもまだ自覚すらできないような、幼すぎる存在だった。
何より、ニールの信じる神は、彼らの間に愛が芽生えることを罪だと宣告していた。神だけではない。この世界自体が、同性愛を許していないのだ。
だからニールは、一度は子供を突き放した。自分で自分を殴り倒したくなるほど横柄な態度と冷酷な言葉で、子供から距離を取るように仕向けた。だがそれも、子供の純真な強さの前には無駄だった。あれほどの仕打ちを受けてなお、子供は今もニールを守ろうとしている。冷たい独房に自ら閉じこもり、幻覚と幻聴にひとり苦しみながら。ただひたすら、悪魔の予言を成就させないために。ニールを殺さない、ただそれだけのために。
「クソが」
もう一度、ニールは低く唸った。今でも、子供の悲痛な叫び声が耳の中で木霊している。来るな。離れろ。お願いだから、ニール。血を吐くような引き攣れた声。蘇る度に、噛みしめた奥歯が軋んだ音を立てる。これは、憎悪だ。彼の大切な子供を苛む悪魔への、そして「守る」と言いながら子供の苦しみを和らげることすらできない無力な自分への、紛れもない憎悪だ。
力を込めすぎて白くなった拳の中で、爪が掌を突き破ろうとしている。それに構うこともなく俯いていると、不意に穏やかな声がかけられた。
「ニール」
思わず顔を跳ね上げれば、ラザラス神父の姿がそこにあった。深い皺の刻まれた口元が、柔和な笑みを形作る。
「君にもこれが必要でしょう。おそらくは長丁場になりますから」
言葉と共に手渡されたのは、温かそうなキルトだった。心身ともに衰弱している子供を、世辞にも環境がいいとは言えない反省室に放置する訳にもいかない。そのため、意固地な子供が眠ってから、ラザラス神父の部屋に運ぶ手はずになっている。そのためにも、ニールは反省室からさほど離れていない廊下で、子供の寝息が聞こえてくるのを待つつもりだった。
「ありがとうございます」
頭を下げ、キルトを肩にかける。冬の夜の廊下は冷え切って、元より寒さに弱いニールにはキルト一枚だけではとても足りない。ラザラス神父とて、程度の差はあれ寒いことには変わりないだろう。石畳から忍び寄る冷気にぶるりと小さく体を震わせて、ニールは老神父を見た。
「ここは冷えます。俺がマイケルを運びますから、ラザラス神父はお部屋でお待ちになっては」
「おや、あまり年寄り扱いをしないで下さい。これでも若い人にはまだまだ負けませんよ」
おどけた様子で老神父は笑った。白に近い灰色の眉が穏やかに下がる。その下にある目が、緩やかに細められた。
「――ニール、彼は大丈夫です。主と私たちとの三人がかりで守っているのですから。主をひとりとお数えするのは、いささかならず抵抗がありますが」
優しく肩を叩かれる。自覚していた以上にそこが緊張に強張っていたことを知って、ニールは驚いた。そして、大きく息を吐いた。
「……はい」
温かい手に励まされて、ほんの少しだけ苛立ちが和らいだ。同時に、あの子供はそんな些細な慰めすら受けられないのだと歯噛みする。それでも、気の昂りはどうにか抑えきれる程度に静まってくれた。自分への苛立ちなど、そんな小さなことに構ってはいられない。子供を苦しみから解き放つためにも、彼は氷よりも冷静に物事に対処しなければならなかった。その過程で自分の身に何が起ころうと、正直なところ彼にはどうでもよかった。あの子供が悲しむのは目に見えているから、最後の手段であるにしても。
――この命ひとつ。こんなものであの大切な子供を助けられるのであれば、この身体を八つ裂きにされようと構わない。
ニールはもう一度息を吐いた。反省室からは、まだ微かに物音が聞こえてくる。少しでも穏やかな眠りが子供に訪れるよう、彼は祈った。
最終更新:2011年05月19日 21:51