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・理想のキスをしてもらったーより、「ニール・ローウェルは夕日に照らされて躊躇いながら、首に啄むような悲しいキスをするでしょう」
・公式SSを読んでいなくても全く問題はありませんが、読めばアハ体験が楽しめます

茜色の風景




 世界は茜色に染まっていた。
 目の前に広がるのは緑の裾と、その先に続く小麦畑だ。少し視線を転じれば、小さな民家が見える。その全てが少し下にあるのは、自分が小高い丘の上にいるからだ。そのどれもが、鮮やかな茜に染まり、輝いている。絵画というにはあまりにも色は鮮烈で、光は遠い。そして、絵画でないことと同じくらいに、現実感がない。
 知らない場所だ、とマイケルは思う。だが、それを不安に感じることはない。この世界に、悪意は存在しない。あったとしてもそれは地平線の遥か彼方、手の届かない遠い場所だ。そしてそれ以上に、背後から自分を抱き込む腕が、何よりも自分を守ろうとすることを知っていた。
 誰かに、マイケルは後ろから抱き込まれている。腰を下ろした身体は、同じように地面に座り込んだ誰かの脚の間に挟まれ、自分のものではない腕が、胸の前で自然に交差されている。そのことにも、マイケルは違和感を覚えない。マイケルよりもずっと大きな、成人した男の腕と脚を持つこの相手を、マイケルは知っているからだ。
 マイケルは振り返らない。振り返れば、この温かな腕が消えてしまうことを、マイケルは理解している。腕だけではない。背を支える硬い身体も、茜に染まったこの優しい景色も、何もかもが一瞬で失われてしまうだろう。これは、夢だ。そのことを、マイケルは知っている。現実に、こんな美しい景色はない。こんなに優しく温かで、胸を掻き毟りたくなるほどに切ない景色は、存在しない。これは、誰かの記憶の中だけに残された、今はもう手の届くことのない景色だ。
 マイケルを抱きしめる誰かは、口を閉ざしたまま微動だにしない。恐らくは、この茜色の源を眺めているのだろう。目が沁みるほどに赤い夕日は、今まさに大地にその端を触れさせようとしている。熟れ過ぎた果実が、蕩けたその実を地面に落とすかのようだ。その様は酷く穏やかで、同時に泣きたいほど残酷だ。時間は止まらず、物事は常に前に進み続ける。マイケルが振り返らずとも、あの夕日が全て隠れたとき、この夢は終わる。誰に教えられた訳でもないそのことを、やはりマイケルは知っていた。
 マイケルもまた、口を開かない。振り向くことと声を出すことは、この夢では同義だ。相手に何かを働きかけた時点で、この夢は終わる。今はまだ、マイケルは相手に触れることができない。現在の相手を、マイケルは知らない。自分を認められるまでは、知ってもいけない。できるのはただこうやって、かつて与えられた温もりを思い出し、蘇らせることだけだ。だから、相手はただあの頃のように抱き締めてはくれても、決して答えてはくれない。
 だからこそマイケルは何も言わず、ただ力を抜いて身体を預けた。こめかみよりも少し後ろの辺りに、相手の顎が当たる。硬い感触に、それでも不快感は覚えなかった。ただひたすらに、触れる全てを愛しいと思う。
 沈黙したままの二人の視線の先で、夕日はゆっくりと落ちていく。少しずつ赤みが強くなり、光が和らいでいく。見えはしないが、背後からは菫と濃紺をした宵闇が迫ってきているのだろう。星も、幾つか輝き始めているかもしれない。その全てが、マイケルには遠い。空だけではない。眩しい夕陽も、茜に輝く小麦畑も、穏やかな緑の裾野も、何もかもが遠い。後ろから抱き締めてくる相手と、触れ合う個所から伝わる体温だけが、鮮明だ。自分が相手に会いたがっているのか、どう思っているのかさえ、輪郭が溶けて曖昧になってしまっている。今はただ、この心地よい体温に包まれていたかった。或いは、そこまで思考を溶かさなければ、留まっていられなかったのかもしれない。それほどに、茜色の光景はどこまでも穏やかで、切なかった。
 ふと、背後の相手が動いた。相変わらずマイケルを抱き竦めたまま、躊躇うような気配を見せる。そして、ゆっくりと顔を伏せた。ついばむような柔らかさで、唇がマイケルの項に触れた。その行為に、情欲の色はない。その代わり、何にも勝る切実さで、強い祈りが込められている。
 幸せであるように。マイケルが、どうか幸せであるように。
 その途端、何も感じていなかったはずの胸が、唐突に感情で弾けた。喉が詰まり、目の奥が急激に熱くなる。何かを思う間もなく、頬を熱い液体が流れた。吐き出した息が引きつって、奇妙な音を立てる。会いたい。寂しい。愛している。それでも、会えない。今はまだ、与えられるだけの子供でしかないから。遠く離れた今でさえ、彼はこんなにも自分の幸せを強く祈ってくれているから。与えられたものと同じかそれ以上を返せるようになるまで、会いに行くことはしないと自分で決めた。それでも時々、こうして無性に会いたくて仕方がなくなる。どうしようもないほど、それこそ、こんな夢まで見るほどに。
 耐えきれずに、マイケルは勢いよく振り向いた。その瞬間、全ての温度と色が遠ざかっていく。背に感じていた胸板も、回されていた温かな腕も、あの美しい夕日の丘も、全てが渦を巻いて消え去っていく。わかっていて、マイケルは振り向き、遠ざかる全てを心から惜しんだ。わかっていても振り向かずにはいられないほど、彼に会いたかった。
 遠ざかる茜の渦に向けて、マイケルは手を伸ばした。そして、戒めるようにその手を強く握り締めた。今はまだ、会えない。マイケルには、為すべきことがある。遠ざかる彼を引き止め、抱き締め返せるだけの成長を、マイケルは遂げなければならない。どれほど時間がかかろうと、成し遂げてみせると決めたのだ。与えてばかりで受け取ろうとしない、寂しがり屋の彼と共にいる為に。
 渦は消え、意識が浮上する感覚があった。夢が終わり、新たな一日を迎えようとしている。それを理解して、マイケルは目を閉じた。身を縛る思慕も寂寞も、今は必要ではない。ただひとつ、首筋に落とされた祝福だけを覚えていれば、それで良かった。





最終更新:2011年06月12日 03:29