再会の夜 3
「こっちだ」
腕を引いて歩き出すと、マイケルは大人しくついてきた。狭い家だ、部屋から部屋までの移動に時間がかかることもない。扉を開けて中に入ると、少し緊張した面持ちで、マイケルが後に続いた。興味深そうにきょろきょろと中を見回しているのが、少しおかしい。
「何だよ、そんなに珍しいものでもあるか?」
子供に倣って、ニールも自室をちらりと見遣った。ベッドが一つ、ライティングデスクと揃いの椅子が一つ、それから本棚にクローゼット。そこそこに整頓されているように見えるが、それはニールが片付けが得意だからという訳ではなく、単に物が少ないからだろう。どこにでもありそうな、ごくありふれた部屋だ。電気をつけていないため、月明かりだけに照らされた部屋は、輪郭がぼんやりと闇に溶けて、どこか曖昧に見える。
「そういう訳じゃないけどさ。……ニールの部屋って、初めてだから」
頬を染めながら、マイケルが少し怒ったような表情で答えた。そういえば、学校で会っていた時はいつも図書館で、マイケルがニールの部屋を訪れたことはなかった。たとえあったとしても、あの寮は仮初の宿でしかなかったし、私物の持ち込み自体ほとんど認められていない。マイケルがニールのプライベートな空間に立ち入るのは、これが本当に初めてなのだ。
自覚してしまえば、若干気恥ずかしい。それを隠すように、ニールは口の端を持ち上げて見せた。
「見ててそう楽しいもんでもねえだろ。……それより、ほら、来いよ」
耳元で熱を込めて囁き、キスをする。部屋に意識を奪われていたのか、マイケルの目が驚いたかのように瞠られ、耳朶の色が濃くなった。相変わらずの初心さが、本当に可愛い。
「ぁ、ふ」
吐息の合間に声を漏らしながら、舌を絡め合い、吸い上げる。マイケルのキスに技巧はない。あるのはただ懸命さと、いじらしいまでにひたむきに向けられる思慕だ。それだけで、ニールは十分に煽られる。
夢中になっているマイケルに応えながら、ニールは片手を伸ばし、扉をそっと閉めた。そのまま、ゆっくりとベッドの方に誘導する。その間も水音は絶えず、互いの吐息は荒さを増した。
ベッドの端が、ふくらはぎに当たる。まずはマイケルを座らせようと、ニールはマイケルの腰に腕を回した。いかに成長したとはいえ、特に性に関して、相手はまだほんの子供なのだ。前回が随分とイレギュラーな展開だったこともあり、子供にとって、抱かれる立場になるのはこれが初めてのはずだ。怖がらせないよう、できる限りゆっくりと優しくしてやりたい。
そんなことを考えていると、不意にマイケルが体重をかけてきた。キスに溺れるあまりにベッドの存在に気づかないまま、ニールを求めて前に乗り出してきたのだ。バランスを取ろうにも、足はベッドに押し止められている。
「うおっ」
「わっ」
重心が後ろにずれ、ニールはマイケルもろともベッドに倒れ込んだ。勢いよく下敷きになった所為で肺が圧迫され、潰れた声とともに呼気が飛び出した。
「ご、ごめん、ニール。大丈夫か?」
マイケルが慌てて上体を浮かせた。その間に、強制的に押し出された酸素を補給して、呼吸を落ち着かせる。少しばかり文句を言ってやりたい気もするが、これも相手が必死に求めてきたからだと思えば、まあ悪くはない。少なくとも、自分が子供を押し潰してしまうよりは、ずっとましだろう。
「おいおい、そんなにがっつくなって――」
子供を宥めようと笑いかける。そうして、ニールは思わず息を呑んだ。
マイケルの顔が、すぐ目の前まで迫っていた。一応は押し倒された形になるのだから、そのこと自体に不思議はない。トパーズの色をした瞳が、今はほんのりと青みがかって見えるのは、部屋が夜の帳に包まれているからだ。その双眸の奥で、抑え切れない情欲が牙を剥いている。子供の目ではない。これは、捕食者の目だ。数年前の夜よりも更に剣呑さを増した目が、ニールの顔を覗き込んでいる。
その目を、ニールは綺麗だと思う。ただ同時に、非常に嫌な予感がする。既視感、といった方が正しいかもしれない。体勢も表情も、何もかもがあの夜の再現だ。位置を入れ変えようにも、マイケルがしっかりと上に乗っている所為で、思うように身動きが取れない。
これは、もしかしてひょっとすると、そういうことなのだろうか。
「おい、マイケル」
動揺を隠しきれない呼びかけに、子供は答えなかった。それどころか、ニールの言葉さえ、口付けを仕掛けて呑み込んでしまう。くぐもった声が互いの喉を鳴らし、粘膜越しに伝わった。その隙に、子供の手が身体の間に忍びこみ、ニールのジャケットのボタンを外す。その下にあるのは、ローマンカラーのベストとシャツだ。どちらも普通の衣服に比べれば、格段にボタンの数が多い。それに焦れたのか、子供は上の幾つかだけを外すと、むき出しになった首筋に食らいついた。甘噛みした後を、熱い舌がぬるりと這う。硬い歯と滑らかな舌の感触に、ニールの背筋がぞくりと震えた。
「ちょっと待てマイケル、待てって!」
思わず叫び、マイケルの肩に手をかける。そのまま力を込めると、実に不満そうな表情でマイケルが身体を起こした。ニールの方が膂力に優れているからだと思いたいが、体格差がかなり埋まってきている現状を考えると、マイケルが譲歩して退いたのだろう。
「もう、何だよ。いい雰囲気なのに」
「何だよもクソもあるか! まさかとは思うが、またお前がするつもりじゃねえだろうな」
「そうだけど?」
人の腹の上に乗り、淫靡な熱に浮かされた目をしているくせに、奇妙に邪気のない顔で首を傾げる。その仕草がやはり可愛らしく、ニールは思わず抜けそうになった気を慌てて引き締めた。
「そうだけど、じゃねえっての。あのなあ、前にも言った気がするが、俺の方が――」
「年齢は無理だけど、身長なら随分追い付いた。経験だって、前の分があるだけ条件が良くなってるだろ。そもそも、あの時は許してくれたのに、なんで今更駄目なんだよ」
言おうとした台詞のことごとくを先に撃破され、ニールは言葉に詰まった。駄目な理由など決まっている。この可愛がっている子供に色々なことをされるのが、凄まじくいたたまれないのだ。子供に求められたあの日まで、ニールは誰かの足を開かせたことは多々あっても、足を開く立場に回ったことは一度もない。ニールに限らず、大抵の男は死ぬまでないだろう。学生時代は嫌な記憶もあるにはあるが、それでもこの子供に求められるまでは、あらゆる意味でノーマルな性生活を送ってきたのだ。正直な話、自分が鼻にかかった高い声を上げるところを想像するだけで、かなりげんなりとする。
「……お前な、俺の歳わかってんのか? じきに三十だぞ、三十。そんなごつくてでかい男に突っ込んで、楽しい訳がねえだろ」
方向性を変えて説得を続ける。マイケルは相変わらず上に乗ったまま、じとりとニールを睨んだ。
「じゃあ聞くけど、ニールは十年後はもう僕とセックスする気がないのか?」
「は? そんな訳ねえだろ、何言って」
そこではたと気付いて、慌てて口を閉じた。記憶が正しければ、マイケルは今年十九歳になるはずだ。十年後には、今のニールと同じ歳になる。そのマイケルを抱くことに抵抗がないなら、年齢を理由に今伸ばされている手を拒むのは、矛盾でしかない。
苦虫を噛み潰したかのようなニールとは対照的に、マイケルは途端に上機嫌になって、ニールの額に唇を落とした。
「だろ? 年齢なんて関係ない。何歳になろうと僕はニールにキスしたいし、たくさん触りたい。ニールが好きだから」
焦点が合わないほどに近づいたマイケルの顔が、笑う。その顔は大人びていて、それでもやはり子供だ。迂回することを知らず真っ直ぐにぶつかってくる性分も、何もかもが純真で、愛おしさしか覚えない。
答えに詰まって黙り込むニールに、マイケルは強い視線を向けていたが、やがてふとそれを伏せた。
「……駄目かな。どうしてもニールが嫌なら、止めるよ」
口元に寂しげな微笑が浮かぶ。それを目にして、ニールは片手で目を覆うと、肺が空になるほどに深く息を吐いた。頭の中の自分が、諦め顔で両手を上げているのがわかる。こんな顔をされて、こんなことを言われて、勝算があると思う方が間違いだった。否、数年前の夜に子供の手を跳ね退けられなかった時点で、既に勝負は決していたのだろう。重症だとわかってはいるが、治せる見込みも治すつもりもないのだから、手の施しようがない。
「……この利かん坊が」
目を覆っていた手で、ニールはマイケルの頭を引き寄せた。元よりほとんど無いに等しかった距離が、完全にゼロになる。再び大きく見開かれたトパーズに小さく笑いながら、ニールは柔らかく唇を食んだ。そして、両腕をマイケルの首裏に回し、全身の力を抜いた。
「ニール?」
恐る恐るといった様子で、マイケルが顔を覗き込んでくる。何かを言う気にもなれず、ニールはマイケルの頬に唇を押しつけた。抱き込んだ頭は、体格の割に小さい。後頭部を撫でれば、黄金色の巻き毛が指に絡みついてくる。柔らかいそれが指の間をすり抜ける感触が心地よく、何度も梳いた。
マイケルはしばらく困惑顔でニールを見ていたが、やがておずおずと手を伸ばした。むき出しになった鎖骨をなぞり、唇を這わせる。それでも先ほどまでの勢いがないのは、ニールが合意したかどうかの確信がまだ持てないのだろう。遠慮がちな愛撫に若干のおかしさと焦れったさを覚えて、ニールは皮肉げに笑った。
「あんまりもたもたしてると、俺が食っちまうぞ」
「それは嫌だ」
即答され、軽く噴き出す。反応が気に食わなかったのか、子供は拗ねた目でニールを睨むと、抗議するように鎖骨に歯を立てた。痛みはない。ただ、噛まれた場所から、じわじわと性質の悪い熱が波紋状に広がっていく。
ニールが抵抗しなくなったことで余裕が出たのか、マイケルの指が改めてニールのベストにかかった。一つ一つ丁寧に、どこかおぼつかない手つきでボタンを外していく。他人のボタンというのは、案外に外しにくいものだ。それを知っているから、シャツのボタンぐらいは自分で外そうと手をかけた。そして、至極不満そうな目で睨まれた。
「何だよ」
「僕が外す」
「はあ? なんでまた」
聖職者の衣服は、基本的に露出度とボタンの数が反比例する。カソックほどではないが、ニールの着ているベストやシャツも、マイケルの服に比べれば格段にボタンの数が多い。袖を通し始めたばかりの頃は、どうしてこうも面倒なつくりになっているのかと不平を零していたものだ。慣れた今でさえそう感じているのに、他人の衣服を脱がすという経験などまずないだろう子供には、ただの苦行でしかないだろう。
怪訝に眉を顰めるニールを、マイケルは真剣な表情で見つめ返した。
「貴方の全てに触れたいんだ。服も、身体も、何もかも」
思わず言葉が出なかった。一拍置いて、耳の裏の熱が凄まじい勢いで上昇する。妙な呻き声を上げそうになり、ニールは慌てて口を閉ざした。自分が言えば鳥肌が立つか笑い転げるかの二択でしかない台詞が、この子供の口から出たと言うだけで、こうも熱を掻き立てる言葉に変わる。これを惚れた弱みと呼ばずして何と呼ぶのか。あまりの手軽さに、自分のことながら呆れて仕方がない。
「お願い、ニール」
顎先に唇を落としながら、マイケルが上目づかいに強請る。ニールは小さく唸り、小さく息を吐きながら両手をベッドに下ろした。
「……これでいいんだろ、これで」
「うん!」
マイケルの顔が、薄闇の中でもはっきりと嬉しげに輝いた。その様子に、ニールはもう一度溜息を吐いた。こんな顔を見せられたら、どんなにいたたまれないことでも結局は許してしまいそうな自分に、心底辟易したのだ。その一方で、子供の反応を可愛らしいと思うことには一点の迷いもないのだから、どうしようもない。
最終更新:2011年06月10日 22:56