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再会の夜 2




 台所兼食堂の小さな部屋に向かうと、テーブルの上ではすでに料理が湯気を立てて待っていた。レンズ豆のスープに、トマトとチーズのパスタ。どちらも食欲を誘う匂いで、ニールの腹の虫をしきりに騒がせている。
「お、結構うまそうじゃねえか」
 思わず破顔すると、マイケルは少し耳朶を赤く染めて嬉しげに笑った。
「そうかな。料理なんて久しぶりだったから、ちょっと不安だったんだけど」
「これだけできれば上等だろ」
 ニール自身は、料理が嫌いではない。同年代の同性に比べれば、好きでもあるしよく作りもする方だ。この食糧難の時代、手に入る食材など限られているのだから、食事をおいしくするには自分で工夫するしかない。加えて、何事もどうせなら楽しもうとするのは、ローウェル家の人間の習性だ。厨房を預かる女性に比べればかなり大雑把とはいえ、そこそこのものを作れる自信はある。
 だというのに、客人であるマイケルに夕食の準備を頼んだのは、他ならないマイケル自身が立候補したからだ。いくら鄙びた場所にあるとはいえ、ニールには牧師としての務めがある。ならばその間に自分が用意しておく、と、止める隙もなくマイケルが台所に向かったのが、太陽もだいぶ高度を下げた頃の話だった。純粋に自分を気遣ってくれたということもあるのだろうが、実際のところは、暇を潰すために襲撃してきた近隣の住民たちの相手をするのに、いい加減疲れてきたという要素が大きいだろう。刺激や娯楽の少ない田舎では、見知らぬ人間が現れたというだけで十分に珍事だ。ニールもこの教会に赴任した当時は熱烈な攻勢を浴びた記憶があるから、逃げ込みたくなる心情はわからないでもない。
「そうだ。お前さんが引きこもった後、ミセス・エイムズからベリーの差し入れがあったんだよ。後でデザートにしようぜ」
 四軒先に住む老婦人の好奇心にきらめく目を思い出して、ニールは笑いを噛み殺しながら言った。途端に、マイケルが辟易した表情を浮かべる。
「歓迎してもらえるのは嬉しいんだけど、あれはさすがにきついな。一度にたくさん話しかけられたら、誰が何を言ってるのかわかる訳がない」
「まあまあ、一種の洗礼だと思っとけ。あれぐらいで参ってちゃ、卒業して執事になった後が楽しくて仕方ねえぞ」
「嫌なことを言うなよ、ニール」
 拗ねた顔をする子供に、ニールはとうとう堪え切れずに噴き出した。子供の目が一層不機嫌さを増す。
「笑うなよ!」
「悪い悪い」
「悪いって思ってないだろ、実は」
「お、バレたか?」
 片目を瞑ってみせると、マイケルは実に憤懣やるかたない表情で席に着いた。それでも、ニールが丁寧にありがとうと告げると、やや頬を染めて頷く。昼間に再会した時は随分と大人びたものだと思ったが、こうして二人きりになれば、反応の素直さはあの頃のままだ。或いは、あの会話は事前に何度か練習していたのかもしれない。どちらにせよ、ニールには目の前の相手がどうにも可愛らしく感じられて仕方がなかった。
 席に着き、祈りを捧げて十字を切る。アーメンの声が唱和し、小さな部屋に響いた。
 用意された食事はうまかった。スープに入っていた玉ねぎは大きさが不揃いで、パスタはやや茹ですぎの感があったが、それでもニールは十分に満足した。ひょっとすると、この子供が作ったものなら何でもうまく感じてしまうのかもしれないが、敢えて追及はしなかった。初めての食事で判断するには早すぎるし、実際にそうだとしても、ニールに何ら問題はない。精々が、自分の頭をおめでたいと呆れ返る程度だ。
「……どうかな。おいしい?」
 気づけば、マイケルが食事の手を止め、心配そうにこちらの口元を凝視していた。その仕草が、どうしようもなく可愛い。こみ上げる笑みを今度は隠しもせず、ニールは頷いた。
「最高」
「褒めすぎだ、馬鹿ニール」
 貶す言葉も、照れを含んでやんわりと丸い。嬉しげに頬を緩めて、再びフォークを口元に運ぶ。その動作が自然で美しいのは、家庭できちんと躾けられたからだろう。子供が、本当の意味で子供として愛情を与えられた証だ。それを思うと、ニールの頬も自然と緩む。
 ふとそこで、子供の白い頬に薄紅色の染みがついていることに、ニールは気付いた。パスタソースだ。隙のないテーブルマナーと、それを裏切るソースのはねが、少しおかしい。小さく笑うと、マイケルは赤く染まった目元のまま、不機嫌そうに睨んだ。
「今度は何だよ」
「いや、チビじゃなくなっても、お前さんはまだまだガキだなあと」
「はあ?」
「ここ、ソースついてるぞ」
 自分の頬を突いてみせる。慌ててマイケルが拭おうとするが、上手く取れていない。その様子にもう一度笑って、ニールは少し腰を浮かせた。普段は一人しか使わないテーブルは、さほど大きなものでもない。身を乗り出して手を伸ばせば、向かいに座る相手の頬になど簡単に届く。親指でやや強めに拭ってやると、マイケルはむずかるような唸り声を上げた。
「ほらよ」
 薄紅に汚れた指先を見せる。子供があまりに不貞腐れた表情を浮かべたもので、ニールは堪え切れずにもう一度笑った。そのまま、汚れを舐めとってしまおうと、指先を口元に運ぶ。
 そうしようとした矢先、手首を強い力で掴まれて、ニールは瞬いた。あの頃よりも長く骨ばった白い指が、ニールの手を握りしめていた。結構な力がこもっているのか、軽く引いた程度ではびくともしない。
「マイケル?」
 呼びかけると、子供の双眸が不穏な光を放ち、伏せられた。次の瞬間、温かく濡れた感触が指先を覆った。赤い舌が、ニールの親指を嬲っている。ぴちゃり、という湿った音が響いた。
「おい、マイケル」
 平静を装いはしたが、出た声はやや上ずっていた。感触にか音にか、心臓が酷く跳ねる。
 マイケルはそんな様子に頓着した様子もなく、舌をゆっくりと這わせた。関節を辿り、指の股を柔らかくなぞる。舌先はやがて人差し指に移ると、そのまま口の中に咥え込んだ。
「……ッ」
 ぬるついた熱い感触が指先を包み込む。人差し指は、五本の指の中で最も感覚の優れた指だ。その形を辿るように舌先が這い回り、爪の際を甘噛みされ、柔らかく吸われる。時折マイケルの零す息が濡れた箇所にかかり、一瞬の冷たさの後に更なる熱を生み出した。思わず指先が震え、逃げを打とうとする。その手を強く引きとめて、なおもマイケルは丹念にねぶり続けた。伏せられた目が、ちらりと上目づかいにニールを見る。清らかなはずのトパーズの双眸に、淫靡な光がちらちらと踊っていた。それを見たニールの体温が、加速度的に上昇した。ただ指先を弄られているだけだというのに、熱が僅かに凝り始めた気配がする。
 これは、まずい。
 この子供から離れてからというもの、ニールは女を抱くどころか、自分で処理をしたことすら一度もなかった。子供の想いに不実で返すしかできないのであれば、最後に残した言葉にだけはせめて誠実でありたかったのだ。この数年間、ニールは礼拝だけでなくいかなる祈りの時にも子供のことを真っ先に思い、衝動的な熱に駆られようと頑なに禁欲の誓いを守り続けてきた。その事実に関して、ニールは胸を張りこそすれ、後ろめたさを覚えることなど少しもない。
 だが、たかがこの程度の刺激で身体が昂りかけるほど溜まっているという現実に、凄まじい気恥ずかしさを覚えてしまうのも、また事実だった。最後だと思っていた数年前の夜で、ぎりぎりまで年長者の余裕を保とうとしていた自分を記憶しているだけに、一層羞恥が募る。あんな冗談めかした誓いの言葉など、相手はとうに覚えていないだろうから、尚更だ。
「ッ、そろそろいい加減に」
「ニール」
 誤魔化そうと張り上げた声は、マイケルの呼びかけによって簡単に遮られた。水音を立てて、窄められた唇が指先から離れる。ひやりとした外気の感触に、もう一度指が震えた。その手を握りしめたまま、マイケルは席を立った。テーブルを回り込み、再び腰を下ろしたニールの前に立つ。まるで、あの最後の夜に熱烈な告白を受けた時のようだ。違う点といえば、マイケルが膝をついて見上げているのではなく、中腰でニールを見下ろしていることだろう。すっかり大人びた顔立ちが、間近でほの暗い熱情を湛えている。
「僕はもう子供じゃない」
 声は決して大きくなかったが、鋭くニールの鼓膜を穿った。反射的に息を呑んだニールに、マイケルは顔を寄せた。唇を食まれ、熱い舌がその隙間をなぞる。催促されているのだと理解する前に、自然に口を開いていた。忍び込んでくる舌に自らも舌を絡ませ、強く吸い上げる。歯列をなぞり、尖らせた先で上顎をくすぐれば、くぐもった声が直接響いた。その声に、そして口内を蹂躙する温度に、くらりと眩暈がする。それでもまだ足りずに、掴まれていない方の腕で相手の腰を抱き寄せれば、こちらは首を拘束された。自然とマイケルの体がニールの足の間に入る形になるが、そんなことを気にする余裕もない。今はただ、目の前のこの温度が心地よくて、欲しい。
 角度を変え、僅かに離れた隙に荒く呼吸をしては、何度もキスを繰り返す。水音が直接脳を侵していくかのような錯覚に、熱はひたすらに上がる一方だ。言葉はなくとも、足りないという喚き声が互いに伝わってくる。その度に拘束する力が強くなり、その事実にさえ一層煽られた。
 何度目かの口付けの後、ようやく少し顔を離したマイケルが、乱れた息の中、悪戯っぽく笑った。
「それに、そう言うならニールだって子供だろ」
「は?」
「口の周り、汚してるぞ」
 そう言ってマイケルは、先ほどニールがやったのと同じように、ニールの口の周りを親指で擦った。そこについたのは、先ほどのキスで散々に溢れた二人分の唾液だ。それを見せつけるように、赤い舌が至近距離で舐め取っていく。その瞬間、これ以上ないほど頬が火照ったのを自覚した。口の周りを汚したことにも気付かずにキスに溺れていたことも、それを指で拭った上に眼前で舐め取る子供という視覚的に強烈な刺激も、何もかもがいたたまれない。
「お前なあ」
 思わず唸り声を上げると、マイケルは楽しそうに笑って足を動かした。片膝をニールの足の間にある僅かな座面に乗せ、不安定な身体を支える。偶然か故意か、膝頭がニールの熱を押し上げ、反射的に身体を強張らせた。指先への愛撫と呼吸を奪うかのようなキスとで、ニールの身体はかなり熱を帯びてきている。触れられれば、そこが硬くなり始めていることも簡単に知られてしまうだろう。
 案の定、押し上げた感覚でわかったらしく、マイケルの目が驚いたように瞬いた。
「え、ニール」
「それ以上言うな」
 何事かを言いかけた口を、鋭い語気でぴしゃりと封じた。だが、頬を赤くした情けない顔に、迫力があるはずもない。マイケルは戸惑いつつも頬を紅潮させて、ニールの下肢と顔をとを交互に見た。
「だって前に触った時は、腹立つぐらいずっと平気そうにしてたのに」
「うるせえな、溜まってるんだよ。悪いか」
「別に悪くないけどさ、あの時は普段から抜いてるみたいなこと言ってたじゃないか。なんでまた」
 そこまで言って、マイケルははたと口を閉じた。トパーズの目は相変わらず大きいが、以前のように零れ落ちそうなほどの印象はない。その目がゆっくりと瞠られ、恐る恐るといった態でニールの顔を覗いた。隠しきれない期待の色が、奥で揺らめいている。
「もしかして、本当にあの誓い立ててくれてたのか?」
「――ッ」
 興奮に少し掠れた問いかけに、覚えたのは絶大な羞恥と、それを上回る歓喜だった。こんなにも余裕がない自分が、凄まじく恥ずかしい。だがそれ以上に、あんな些細な言葉ですらこの子供が記憶していた事実が、どうしようもない熱を伴って身体を震わせた。
 覚えられていた。覚えていたのだ、この子供は。最後まで子供のように真っ直ぐにぶつかれず、茶化して書き残すことしかできなかった誓いの言葉を。否定はできない。する必要もない。かといって、素直に認めるのもどうにも気恥ずかしい。
「……くだらねえこと覚えてる暇があったら、もう少しためになる話でも詰め込みやがれ」
 結局、ニールにできたのは、視線を逸らして曖昧に唸ることだけだった。すぐ近くで、息を呑む音がする。頬に痛いほどの視線を感じるが、見返すことなどとてもできない。羞恥と欲情とで、いい加減身体が発火してしまいそうだ。
「ッ、ニール」
 首に回っていた手が、強引にニールの顔を仰向かせた。次の瞬間、唇に再び食らいつかれる。勢いづいてぶつかった歯が脳に響いて痛い。後頭部を鷲掴みにする手にも相当な力が入っているのか、きつく圧迫されている。その痛みさえ幸福だとしか感じられないのだから、重症だ。今の自分には、子供から受ける感覚のことごとくが、快楽に変換されてしまうのかもしれない。
「んぅ、……っは」
 息が切れたのか、マイケルが顔を離した。乱れた呼吸を互いに整えながら、ニールはマイケルを見た。双眸に浮かんでいた期待の色は、今やほの暗く激しい欲情に変質している。熱に浮かされ、今にも飛びかかりそうな獰猛さを秘めたこれは、雄の目だ。そしてそんな顔を、自分もこの子供に晒しているのだろうか。そう思うほどに、体温が上がる。もっと身近に、相手を感じたくなる。
「忘れるわけがないだろう、何度読み返したと思ってるんだ。貴方からの手紙は、一語だって」
 子供が言い終わる前に、今度はこちらから口付けた。それ以上聞くと、こちらの頭がどうにかなってしまいそうだ。懸命に絡んでくる舌がどうにも可愛らしく感じられて、思わず口元が緩んだ。応えながら、腰に回していた手でそっと背筋をなぞる。シャツ越しに、相手の身体が小さく跳ねたのがわかる。くつりと喉を鳴らすと、マイケルは拗ねた顔でニールを睨んだ。それだけでなく、膝でぐいぐいとニールの下肢を押してくる。直接に熱を煽られて、咄嗟に相手のシャツを強く掴んだ。
「ぁ、おいっ」
 身体が昂るのは、いい。どちらかといえば相手に翻弄されている感のある現状にはやや不満があるが、二度と会うことはないと思っていた愛しい相手との、数年ぶりの再会だ。触れ合えば熱が上がるのは男として正常で、ニール自身もそれは歓迎している。だが、ここは食堂だ。あるのは木のテーブルや椅子と硬い床だけで、このままなし崩しに事態が進めば、どちらかの背中が痛むことになる。ニールとしては、その被害に遭う立場は目の前の相手であってほしいと全力で思うが、子供の背が冷気と硬さとに苛まれるというのもあまり面白くない想像だ。数年前の夜、図書室の床で不本意ながら実践させられた身であるだけに、色々な意味でうろたえてしまう。
 すると、同じことを考えたのか、マイケルが少し緊張した表情で、ニールの顔を覗きこんだ。
「ニールの部屋に行きたい」
 熱を孕んだ顔が、それでもどこかはにかんで見えた。耳朶の赤さがほんのりと増したように見えるのも、気の所為ではないだろう。唐突に仕掛けてきた割には、こんなところで恥じらっているところが、昔の素直な性質を思い出させて面映ゆい。こちらまで釣られて赤くなってしまいそうだ。
 ニールはマイケルの身体を押すと、無言で椅子から立ち上がった。大きなトパーズの目が、期待と欲情をこめてニールを見ている。見上げているのでは、ない。ほんの一インチほどしか違わないのではないかと思えるほど、背丈の差は縮まっているのだ。それを目の前の子供は、ニールの言葉を忠実に守ったからだと言う。それが、離れている間もニールがこの子供と一緒にいたかのような錯覚を覚えさせて、たまらない。
 その時になってようやく、マイケルがまだ片手を掴んだままであることに気付いた。きつく締め付けられたままの手先は、やや痺れを覚え始めている。そしてそのことに、子供はまるで気付いていない。力の加減などに気が回らないほど、この子供は緊張しているのかもしれない。そう思った瞬間、ちろちろと身体の奥を焦がす熱とは別に、酷く温かい感情が胸に溢れて、ニールは小さく笑った。反対の手で、子供の強張った手をやんわりと解かせる。そこでようやく気付いたのか、マイケルは目に見えてうろたえた。
「ご、ごめん」
 マイケルは慌てて離れた後、今度は壊れ物を扱うかのような手つきで、握りしめていた手に触れた。手首が少し赤くなっていたが、時間が経てばすぐに消えるだろう。たとえくっきりと痕が残ったところで、ニールにとっては欠片も不快ではない。子供に求められている証だと思えば、いっそ幸福感さえ覚える。
 気にするなと言葉にする代わりに、ニールは軽くキスをした。子供が驚いたように目を瞠る。その仕草がやはり愛おしくて、笑みが零れた。







最終更新:2011年06月02日 12:47