序章
《カイタイ ~Abduction/Collapse~》
三日月と共に訪れた宵闇の気配に、街灯がぽつぽつと点り始めた頃。並ぶ家々から夕餉の香り漂ってくる道を並んで歩く二人連れがいた。
「はわわ~、はわわ~、今日はエリスちゃんのごっはん~♪」
「………お前なぁ………」
片や、上機嫌に鼻唄を口ずさみ、片や、疲れ切った様な声を漏らす。
鼻唄を口ずさんでいた方―――白い小袖に緋袴姿の娘は黒目がちの瞳を瞬き、長い黒髪を揺らして連れへと小首を傾げた。
「はわ、どーしたの? ひーらぎ」
「―――どーしたの? じゃねぇだろこの状況ッ!?」
疲れきった声を漏らした方―――ごくありふれたシャツとスラックスの上に、薄手のロングコートを羽織った青年は、茶髪の頭を振って叫ぶ。
青年はもともときつい眦を更に吊り上げ、連れを睨むと、
「こちとら任務から帰ってきたばっかでへろへろだっつーのに、道で会うなり『夕飯の買い出し付き合え』で、しかも買うもんが肉やら野菜やらデカいレジ袋一袋分に、一升瓶のしょうゆに味噌二箱、更に米10キロって鬼かお前!?」
しかもそれ全部持たせやがって!? と、怒りよりも悲哀を感じさせるニュアンスで叫んだ。その長身の背には米の袋が負われた赤子のように括り付けられ、両手からは重量感たっぷりのレジ袋がぶら下がっている。
言われた娘はさも心外、という風な様子で頬を膨らませた。
「なーによ、自分で食べる分は自分で持つのが当然でしょ~?」
「………は?」
きょとん、と目を見開いて固まる青年の眼前に、娘は指を突きつけて、
「エリスちゃんのご飯、柊も食べてくでしょ? 柊の食べる分も買い足したから、そんな量になっちゃったの」
娘が告げた名前は、彼女の家に同居している料理上手な少女の名。それがさも当然のように、青年を自宅の夕餉に招く―――否、言うまでもなく、来ると思っている言葉だった。
青年は一瞬惚けたように連れを見つめて―――はた、と気づいたように叫んだ。
「―――って、俺の分“も”ってことは、それ以外のも含みってことじゃねぇか、これ! 自分の食う分持つってことなら、俺が全部持つのはおかしいだろ!?」
「………ちぇっ………バレたか」
「舌打ちすんな!? せめて一個持てよ、一番軽いのでいいから!?」
娘は怒鳴る青年に不服そうな眼差しを向けて、
「えー、だってどれも重いしー……… そんなに持つのきついなら月衣に入れちゃえばいいじゃない。周りに人気もないし」
「―――あ」
告げられた言葉に、青年は再び虚を突かれたように目を見開いた。
月衣―――それは、世の常識を遮断し、無尽蔵とはいかずとも荷を収めることもできる個人結界。
世界に住まう大多数の人々が自覚なく保ち続ける、“常識”という名の“世界結界”。それを遮断し、“非常識”の力を纏う者に許す結界。
それを纏う人々は総じてこう称される―――夜闇の魔法使い(ナイトウィザード)、と。
彼らはその力でもって、世界の裏、世界の外から来る脅威―――エミュレイターから、人知れず世界を守っているのだ。
娘は古き陰陽師の血を引く巫女、赤羽くれは。青年は神をも殺せし力を宿す魔剣の主、柊蓮司。幼馴染同士であるこの二人は、それぞれ世界の危機に関わってきた名うてのウィザードである。
である、はずなのだが―――
「そうか、その手が! ってか、これまでの俺の労力は一体!?」
「まー、人がいるとこじゃ使えないしねぇ~」
片や悔しげに、片や能天気に、自身達の異能を日常生活に有効利用とするその様には、威厳もへったくれもない。
「まあ、確かにスーパー出てすぐの人ごみでしまうわけにもいかなかったけどよ………」
くれはの言葉にぶつぶつと呟きつつも、柊は両手の荷を自身の月衣に突っ込んだ。大衆スーパーのロゴの入ったレジ袋が虚空に溶けるように姿を消す。続いて、背に負った米も。
「さって、身軽になったし、さっさとお前んちでエリスの手料理―――」
言いながら、柊は軽い足取りで次の一歩を踏み出し―――その足を止める。
「―――はわっ………!」
その隣で、くれはも呻いて歩みを止めた。
一歩を踏み出した途端―――世界が一変していたから。
ただ、並ぶ家々の姿はそのままに。宵闇染める藍の空は、黄昏よりも暗き赤へ。細い爪痕の如き金の三日月は、巨大な真紅の満月へ。
「―――月匣!?」
険しい声が柊の口から漏れる。
月匣―――それは、世界の裏から来る侵略者、世界の外から来る破壊者が現れる時、紅い月の下に生み出される異界。
その異界の主は、果たして二人の前に姿を現した。
「―――私の世界にようこそ、柊蓮司」
紅い月を背に虚空に浮ぶは、癖のある赤毛に藍の瞳を持つ妙齢の女。均整の取れた豊満な肢体に、妖しくも艶かしい黒のドレスをまとって、歓迎の言葉を紡ぐ。
しかし―――その言葉とは裏腹に、その声は色濃い憎悪に染まっていた。
「一方的に名前知られてるって状況には慣れちゃいるが、歓迎してくれてるってんなら、自己紹介くらいしてくれてもいんじゃねぇのか?」
挑発とも取れるような言葉を、何の意図もないような無造作な声で投げつつ、柊は己の武器を月衣より引き抜く。
紅き宝玉を抱いた柄から伸びる、長大な白刃。―――かつての主の手にあって、己の死を望んだ大いなるものの命を絶ち、当代の主に手にあって、魔性と化した古き神を、絶望せし神の欠片を討った、まさに“神殺し”の名を冠すに相応しき魔剣。
くれはも、柊に倣って武器を構える。矢の代わりに呪符を番えた漆黒の弓、破魔弓。
くれはの呪ならば、虚空にある女を撃つ事も可能。しかし、それを知ってか知らずか、女は彼女に目もくれない。
ただ、憎悪にぎらついた瞳で柊を―――その手の刃を睨み据えながら、壮絶にして妖艶な笑みを浮かべて、彼の言葉に応えた。
「私はグロリア。―――古(いにしえ)の神を讃え謳うもの」
短いその自己紹介に、柊は嫌そうに眉をしかめ、くれはは驚いたように目を見開いて叫ぶ。
「古の神って………まさかルー=サイファーの―――」
「ウィザード風情があの方の御名を気安く口にするな!」
かつて柊が退けた、堕ちた古き神―――“金色の魔王”の名に、グロリアの纏う憎悪が吹き上がり―――と、そこで初めて魔性はくれはに気づいたように目を見開いた。
「あら―――余計なのがいるわね。………邪魔よ、貴女」
言って―――刹那、その姿が掻き消える。
「―――はわ!?」
「どこに―――くれはっ!」
相手の姿を見失って呻くくれはに、柊が叫ぶ。―――くれはの背後に転移した魔性の姿を見つけて。
同時に、片手で彼女の手を強く引き、その勢いのまま背後に突き飛ばすようにして、代わりに自身が魔性の方へと飛び込み―――
「―――ベストポジションよ、柊蓮司」
その眼前で、魔性が妖しく嗤った。瞬間、グロリアと柊の足元に一つの魔方陣が展開する。
「―――な!?」
柊が思わず漏らした驚愕の声。その声に対する他二人の反応は―――同時だった。
「――― 一緒に行きましょう? 救世の英雄さん」
魔性が嗤って、魔法陣から魔力の輝きを吹き上げるのと―――
「―――柊ッ!」
くれはが悲鳴のような声と共に身を翻し、魔法陣の中へと飛び込んだのは。
「小娘―――余計なことを―――!」
魔性が焦りと驚愕の声を上げる。瞬間、真っ直ぐに天へと伸びていた魔力の輝きが、いびつに歪んだ。
グロリアが展開した魔法陣の対象は自身と柊の二人。しかし、そこにくれはという三人目が飛び込んできたことで、魔法陣が異常をきたしたための現象。
「―――柊!」
「―――くれは!」
歪んだ魔力の渦の中、片や必死に相手を引きとめようと、片や何とか相手だけでもこの渦の中から突き出そうと、幼馴染二人は互いに手を伸ばし―――
「はわわ~、はわわ~、今日はエリスちゃんのごっはん~♪」
「………お前なぁ………」
片や、上機嫌に鼻唄を口ずさみ、片や、疲れ切った様な声を漏らす。
鼻唄を口ずさんでいた方―――白い小袖に緋袴姿の娘は黒目がちの瞳を瞬き、長い黒髪を揺らして連れへと小首を傾げた。
「はわ、どーしたの? ひーらぎ」
「―――どーしたの? じゃねぇだろこの状況ッ!?」
疲れきった声を漏らした方―――ごくありふれたシャツとスラックスの上に、薄手のロングコートを羽織った青年は、茶髪の頭を振って叫ぶ。
青年はもともときつい眦を更に吊り上げ、連れを睨むと、
「こちとら任務から帰ってきたばっかでへろへろだっつーのに、道で会うなり『夕飯の買い出し付き合え』で、しかも買うもんが肉やら野菜やらデカいレジ袋一袋分に、一升瓶のしょうゆに味噌二箱、更に米10キロって鬼かお前!?」
しかもそれ全部持たせやがって!? と、怒りよりも悲哀を感じさせるニュアンスで叫んだ。その長身の背には米の袋が負われた赤子のように括り付けられ、両手からは重量感たっぷりのレジ袋がぶら下がっている。
言われた娘はさも心外、という風な様子で頬を膨らませた。
「なーによ、自分で食べる分は自分で持つのが当然でしょ~?」
「………は?」
きょとん、と目を見開いて固まる青年の眼前に、娘は指を突きつけて、
「エリスちゃんのご飯、柊も食べてくでしょ? 柊の食べる分も買い足したから、そんな量になっちゃったの」
娘が告げた名前は、彼女の家に同居している料理上手な少女の名。それがさも当然のように、青年を自宅の夕餉に招く―――否、言うまでもなく、来ると思っている言葉だった。
青年は一瞬惚けたように連れを見つめて―――はた、と気づいたように叫んだ。
「―――って、俺の分“も”ってことは、それ以外のも含みってことじゃねぇか、これ! 自分の食う分持つってことなら、俺が全部持つのはおかしいだろ!?」
「………ちぇっ………バレたか」
「舌打ちすんな!? せめて一個持てよ、一番軽いのでいいから!?」
娘は怒鳴る青年に不服そうな眼差しを向けて、
「えー、だってどれも重いしー……… そんなに持つのきついなら月衣に入れちゃえばいいじゃない。周りに人気もないし」
「―――あ」
告げられた言葉に、青年は再び虚を突かれたように目を見開いた。
月衣―――それは、世の常識を遮断し、無尽蔵とはいかずとも荷を収めることもできる個人結界。
世界に住まう大多数の人々が自覚なく保ち続ける、“常識”という名の“世界結界”。それを遮断し、“非常識”の力を纏う者に許す結界。
それを纏う人々は総じてこう称される―――夜闇の魔法使い(ナイトウィザード)、と。
彼らはその力でもって、世界の裏、世界の外から来る脅威―――エミュレイターから、人知れず世界を守っているのだ。
娘は古き陰陽師の血を引く巫女、赤羽くれは。青年は神をも殺せし力を宿す魔剣の主、柊蓮司。幼馴染同士であるこの二人は、それぞれ世界の危機に関わってきた名うてのウィザードである。
である、はずなのだが―――
「そうか、その手が! ってか、これまでの俺の労力は一体!?」
「まー、人がいるとこじゃ使えないしねぇ~」
片や悔しげに、片や能天気に、自身達の異能を日常生活に有効利用とするその様には、威厳もへったくれもない。
「まあ、確かにスーパー出てすぐの人ごみでしまうわけにもいかなかったけどよ………」
くれはの言葉にぶつぶつと呟きつつも、柊は両手の荷を自身の月衣に突っ込んだ。大衆スーパーのロゴの入ったレジ袋が虚空に溶けるように姿を消す。続いて、背に負った米も。
「さって、身軽になったし、さっさとお前んちでエリスの手料理―――」
言いながら、柊は軽い足取りで次の一歩を踏み出し―――その足を止める。
「―――はわっ………!」
その隣で、くれはも呻いて歩みを止めた。
一歩を踏み出した途端―――世界が一変していたから。
ただ、並ぶ家々の姿はそのままに。宵闇染める藍の空は、黄昏よりも暗き赤へ。細い爪痕の如き金の三日月は、巨大な真紅の満月へ。
「―――月匣!?」
険しい声が柊の口から漏れる。
月匣―――それは、世界の裏から来る侵略者、世界の外から来る破壊者が現れる時、紅い月の下に生み出される異界。
その異界の主は、果たして二人の前に姿を現した。
「―――私の世界にようこそ、柊蓮司」
紅い月を背に虚空に浮ぶは、癖のある赤毛に藍の瞳を持つ妙齢の女。均整の取れた豊満な肢体に、妖しくも艶かしい黒のドレスをまとって、歓迎の言葉を紡ぐ。
しかし―――その言葉とは裏腹に、その声は色濃い憎悪に染まっていた。
「一方的に名前知られてるって状況には慣れちゃいるが、歓迎してくれてるってんなら、自己紹介くらいしてくれてもいんじゃねぇのか?」
挑発とも取れるような言葉を、何の意図もないような無造作な声で投げつつ、柊は己の武器を月衣より引き抜く。
紅き宝玉を抱いた柄から伸びる、長大な白刃。―――かつての主の手にあって、己の死を望んだ大いなるものの命を絶ち、当代の主に手にあって、魔性と化した古き神を、絶望せし神の欠片を討った、まさに“神殺し”の名を冠すに相応しき魔剣。
くれはも、柊に倣って武器を構える。矢の代わりに呪符を番えた漆黒の弓、破魔弓。
くれはの呪ならば、虚空にある女を撃つ事も可能。しかし、それを知ってか知らずか、女は彼女に目もくれない。
ただ、憎悪にぎらついた瞳で柊を―――その手の刃を睨み据えながら、壮絶にして妖艶な笑みを浮かべて、彼の言葉に応えた。
「私はグロリア。―――古(いにしえ)の神を讃え謳うもの」
短いその自己紹介に、柊は嫌そうに眉をしかめ、くれはは驚いたように目を見開いて叫ぶ。
「古の神って………まさかルー=サイファーの―――」
「ウィザード風情があの方の御名を気安く口にするな!」
かつて柊が退けた、堕ちた古き神―――“金色の魔王”の名に、グロリアの纏う憎悪が吹き上がり―――と、そこで初めて魔性はくれはに気づいたように目を見開いた。
「あら―――余計なのがいるわね。………邪魔よ、貴女」
言って―――刹那、その姿が掻き消える。
「―――はわ!?」
「どこに―――くれはっ!」
相手の姿を見失って呻くくれはに、柊が叫ぶ。―――くれはの背後に転移した魔性の姿を見つけて。
同時に、片手で彼女の手を強く引き、その勢いのまま背後に突き飛ばすようにして、代わりに自身が魔性の方へと飛び込み―――
「―――ベストポジションよ、柊蓮司」
その眼前で、魔性が妖しく嗤った。瞬間、グロリアと柊の足元に一つの魔方陣が展開する。
「―――な!?」
柊が思わず漏らした驚愕の声。その声に対する他二人の反応は―――同時だった。
「――― 一緒に行きましょう? 救世の英雄さん」
魔性が嗤って、魔法陣から魔力の輝きを吹き上げるのと―――
「―――柊ッ!」
くれはが悲鳴のような声と共に身を翻し、魔法陣の中へと飛び込んだのは。
「小娘―――余計なことを―――!」
魔性が焦りと驚愕の声を上げる。瞬間、真っ直ぐに天へと伸びていた魔力の輝きが、いびつに歪んだ。
グロリアが展開した魔法陣の対象は自身と柊の二人。しかし、そこにくれはという三人目が飛び込んできたことで、魔法陣が異常をきたしたための現象。
「―――柊!」
「―――くれは!」
歪んだ魔力の渦の中、片や必死に相手を引きとめようと、片や何とか相手だけでもこの渦の中から突き出そうと、幼馴染二人は互いに手を伸ばし―――
その手が互いに届くより早く―――歪んだ輝きは一点に収束し、消える。
後には、ただ―――細い金の月と街灯に照らされる、夜の道があるだけだった。
《アイガン ~Entreaty/wish love~》
気がつけば、柊は一人、ただ一面の闇の中にいた。
「―――ここ、どこだ………?」
どこかぼんやりとした意識のまま、柊は呟く。
「―――ここは、ファ・ディールの人間界と妖精界の境界だよ」
と、一人ごちた言葉に答える声があって、柊は慌ててそちらを見遣る。
闇の中に浮かぶ、天から射した細い陽だまりのような光の柱。その中に、一人の少年がいた。
年の頃は、柊より少し下―――十六、七ほどに見える。蜂蜜色、というのが相応しいような金髪の上に、赤い頭巾のような変わった帽子を被っている。小柄な体躯に軽装の鎧を纏っているが、特に武器を帯びているようには見えなかった。
清んだ空のような青の瞳を笑みの形に細め、少年は言う。
「こんにちは。夢から生まれた現(うつつ)の人」
「………は?」
よくわからない呼びかけに、柊は首を傾げる。
ああ、と少年はその様子に呟くと、笑みを困ったような苦笑に変えた。
「ごめん。訳わかんないよね、こんな呼び方。―――実を言うと、僕もよく分かってないし」
「って、なんだそりゃ!?」
思わず柊がツッコめば、少年は楽しそうに笑う。
「良いツッコみだなぁ、お兄さん。―――あ、怒らないで!」
露骨に不機嫌な顔になった柊に、少年は慌てて笑みを引っ込める。
「人と話すの久しぶりだから、嬉しくてちょっとふざけすぎちゃった。ごめんなさい」
「―――久しぶりって………」
しおらしく頭を下げての少年の言葉に、柊は先程までとは違う意味で眉を寄せる。
「お前、まさかずっとこんなとこに一人でいたのか?」
「ううん、ここじゃないよ。っていうか、ここに来ること自体初めてだし」
少年はそう首を振るが―――ここじゃない、というその言葉は、少年がここ以外のどこかでずっと一人だったのだと、暗に告げていた。
そのことに、痛ましげな色を見せる柊に、少年は柔らかく笑う。
「―――お兄さんは優しいね。………目つき恐いけど」
「一言余計だ!?」
少年の言葉に柊は反射のようにツッコんで―――それで、湿っぽい空気が消えた。
あはは、と少年は楽しげに笑うと、一転して真摯な表情を浮かべる。
「でも、僕の心配より、お兄さん自身の心配した方がいい。ここにあんまり長いこといると、良くないから」
「………そうなのか?」
そういわれても、柊にはぴんと来ない。確かに居心地の良い場所とは言い難いが、差し迫った危険は感じられなかった。だが、そもそもここがどういう場所だか分からないのだから、自身の感覚だけで判断するのは賢いとはいえない。
「結局、ここはどういうとこなんだ?」
「さっきも言った通り、ここはファ・ディールの人間界と妖精界の境界。………まあ、次元の狭間、って言った方がわかりやすいかな?」
少年が軽く首を傾げて言い直すのに、柊は小さく頷く。―――そもそも少年の告げる固有名詞が理解できないから、後者の言い方の方が、まだぴんと来る。
「で、ここはどっちでもあって、どっちでもない、カタチのないところ。アイマイなところ。―――だから、ここにずっといると、この場所に溶けてアイマイになっちゃうんだ。自分が何なのかわからなくなって、存在が消えてしまう」
「―――それは………確かにあぶねぇな………」
ぞっとしない、というように柊は呻いた。
「うん。だから、はやくここから出た方がいいよ」
「って、いわれてもよ、どうやったらここから出れるんだかわかんねぇし………」
少年に軽く言われて、柊は眉を寄せる。そもそも、どうしてここに来たのかもわからないのに―――そう、思って。
途端、気づいたその事実に、背筋が冷えた。
───もしかして、もう曖昧になってきてんのか? 俺―――
「かもしれない。だから、急いで」
柊の思考を読んだように少年は言い、手を差し伸べる。
柊はその手を見つめ、次いで少年の目を見た。少年が笑顔で頷くのを見て、その手を取る。
少年はその手を引いて、一歩下がった。柊は手を引かれるままに一歩踏み出し、少年が先程までいた光の柱の中に立つ。
「そこからなら、ここから出られるよ」
笑顔でそう言って、少年は手を離そうとし―――柊が、その手を握って止めた。
「待て。―――お前はどうなるんだ?」
険しい声で問う柊の視線は、少年の足元に向けられていた。
少年が立っているのは光の外―――全てを溶かすという闇の中。
少年は困ったように眉を垂れて、
「えと………手、離して?」
「―――答えろ」
でなければ離さないという柊の言葉に、少年はますます眉を垂れた。
「………そこに立てるのは、一人だけなんだよ」
「だから、代わりにお前がここに残るってか?―――ざけんな」
怒気すら孕んだ柊の声に、少年は泣きそうな顔になる。
「だって………それしか方法がない。ここからお兄さんを助けるためには、お兄さんに僕の場所を渡すしかないんだ。―――だから、離して」
「冗談じゃねぇ。消えるってわかってて、離せるか」
少年は泣きそうな顔のまま、必死に柊を睨むようにして、
「―――どうして!? 会ったばかりの他人だよ!? 見捨てていけばいいじゃない!」
「なら、お前はどうして自分が身代わりになってまで、初対面の俺を助けようとするんだ!?」
怒鳴るように返した柊の言葉に、少年は息を呑んだ。
痛いような沈黙の後―――困ったように、しどろもどろの様子で、言葉を紡ぐ。
「それは………それとこれとは、違う。お兄さんは唯一の希望だ。だから、助かってもらわないと困る。僕はもう役目を終えた―――ううん、もう役目を果たせない。役立たずとかけがえのない希望を比べたら、どっちが助かるべきかわかるでしょう?」
少年の必死の説得を、しかし柊はただ一言で切って捨てる。
「わかんねぇな。―――意地でもわかってやらねぇ、そんな理屈」
「お、お兄さん言ってることめちゃくちゃ………」
「うるせぇ! 俺はやる前から諦めんのが一番嫌いなんだよ!――― 一人しか立てねぇだ? 詰めりゃ二人でも立てるだろ!」
言うなり、少年の手を引いて、抱かえるような姿勢で立った。一人分のスペースの光に、二人が入る。
「無茶だよ! 前例がない! 何が起こるかわからないよ!?」
「上等じゃねぇか。確かめたことがねぇだけで、両方助かる可能性もあるってことだろ?」
腕の中でもがくようにして叫ぶ少年に、柊は不敵に笑って言い放つ。
少年は絶句して―――次いで、泣き笑いのように笑った。
「ほんと―――めちゃくちゃだよ、お兄さん」
瞬間―――光が辺りの闇を払うように広がって―――視界が白く染められた。
「―――ここ、どこだ………?」
どこかぼんやりとした意識のまま、柊は呟く。
「―――ここは、ファ・ディールの人間界と妖精界の境界だよ」
と、一人ごちた言葉に答える声があって、柊は慌ててそちらを見遣る。
闇の中に浮かぶ、天から射した細い陽だまりのような光の柱。その中に、一人の少年がいた。
年の頃は、柊より少し下―――十六、七ほどに見える。蜂蜜色、というのが相応しいような金髪の上に、赤い頭巾のような変わった帽子を被っている。小柄な体躯に軽装の鎧を纏っているが、特に武器を帯びているようには見えなかった。
清んだ空のような青の瞳を笑みの形に細め、少年は言う。
「こんにちは。夢から生まれた現(うつつ)の人」
「………は?」
よくわからない呼びかけに、柊は首を傾げる。
ああ、と少年はその様子に呟くと、笑みを困ったような苦笑に変えた。
「ごめん。訳わかんないよね、こんな呼び方。―――実を言うと、僕もよく分かってないし」
「って、なんだそりゃ!?」
思わず柊がツッコめば、少年は楽しそうに笑う。
「良いツッコみだなぁ、お兄さん。―――あ、怒らないで!」
露骨に不機嫌な顔になった柊に、少年は慌てて笑みを引っ込める。
「人と話すの久しぶりだから、嬉しくてちょっとふざけすぎちゃった。ごめんなさい」
「―――久しぶりって………」
しおらしく頭を下げての少年の言葉に、柊は先程までとは違う意味で眉を寄せる。
「お前、まさかずっとこんなとこに一人でいたのか?」
「ううん、ここじゃないよ。っていうか、ここに来ること自体初めてだし」
少年はそう首を振るが―――ここじゃない、というその言葉は、少年がここ以外のどこかでずっと一人だったのだと、暗に告げていた。
そのことに、痛ましげな色を見せる柊に、少年は柔らかく笑う。
「―――お兄さんは優しいね。………目つき恐いけど」
「一言余計だ!?」
少年の言葉に柊は反射のようにツッコんで―――それで、湿っぽい空気が消えた。
あはは、と少年は楽しげに笑うと、一転して真摯な表情を浮かべる。
「でも、僕の心配より、お兄さん自身の心配した方がいい。ここにあんまり長いこといると、良くないから」
「………そうなのか?」
そういわれても、柊にはぴんと来ない。確かに居心地の良い場所とは言い難いが、差し迫った危険は感じられなかった。だが、そもそもここがどういう場所だか分からないのだから、自身の感覚だけで判断するのは賢いとはいえない。
「結局、ここはどういうとこなんだ?」
「さっきも言った通り、ここはファ・ディールの人間界と妖精界の境界。………まあ、次元の狭間、って言った方がわかりやすいかな?」
少年が軽く首を傾げて言い直すのに、柊は小さく頷く。―――そもそも少年の告げる固有名詞が理解できないから、後者の言い方の方が、まだぴんと来る。
「で、ここはどっちでもあって、どっちでもない、カタチのないところ。アイマイなところ。―――だから、ここにずっといると、この場所に溶けてアイマイになっちゃうんだ。自分が何なのかわからなくなって、存在が消えてしまう」
「―――それは………確かにあぶねぇな………」
ぞっとしない、というように柊は呻いた。
「うん。だから、はやくここから出た方がいいよ」
「って、いわれてもよ、どうやったらここから出れるんだかわかんねぇし………」
少年に軽く言われて、柊は眉を寄せる。そもそも、どうしてここに来たのかもわからないのに―――そう、思って。
途端、気づいたその事実に、背筋が冷えた。
───もしかして、もう曖昧になってきてんのか? 俺―――
「かもしれない。だから、急いで」
柊の思考を読んだように少年は言い、手を差し伸べる。
柊はその手を見つめ、次いで少年の目を見た。少年が笑顔で頷くのを見て、その手を取る。
少年はその手を引いて、一歩下がった。柊は手を引かれるままに一歩踏み出し、少年が先程までいた光の柱の中に立つ。
「そこからなら、ここから出られるよ」
笑顔でそう言って、少年は手を離そうとし―――柊が、その手を握って止めた。
「待て。―――お前はどうなるんだ?」
険しい声で問う柊の視線は、少年の足元に向けられていた。
少年が立っているのは光の外―――全てを溶かすという闇の中。
少年は困ったように眉を垂れて、
「えと………手、離して?」
「―――答えろ」
でなければ離さないという柊の言葉に、少年はますます眉を垂れた。
「………そこに立てるのは、一人だけなんだよ」
「だから、代わりにお前がここに残るってか?―――ざけんな」
怒気すら孕んだ柊の声に、少年は泣きそうな顔になる。
「だって………それしか方法がない。ここからお兄さんを助けるためには、お兄さんに僕の場所を渡すしかないんだ。―――だから、離して」
「冗談じゃねぇ。消えるってわかってて、離せるか」
少年は泣きそうな顔のまま、必死に柊を睨むようにして、
「―――どうして!? 会ったばかりの他人だよ!? 見捨てていけばいいじゃない!」
「なら、お前はどうして自分が身代わりになってまで、初対面の俺を助けようとするんだ!?」
怒鳴るように返した柊の言葉に、少年は息を呑んだ。
痛いような沈黙の後―――困ったように、しどろもどろの様子で、言葉を紡ぐ。
「それは………それとこれとは、違う。お兄さんは唯一の希望だ。だから、助かってもらわないと困る。僕はもう役目を終えた―――ううん、もう役目を果たせない。役立たずとかけがえのない希望を比べたら、どっちが助かるべきかわかるでしょう?」
少年の必死の説得を、しかし柊はただ一言で切って捨てる。
「わかんねぇな。―――意地でもわかってやらねぇ、そんな理屈」
「お、お兄さん言ってることめちゃくちゃ………」
「うるせぇ! 俺はやる前から諦めんのが一番嫌いなんだよ!――― 一人しか立てねぇだ? 詰めりゃ二人でも立てるだろ!」
言うなり、少年の手を引いて、抱かえるような姿勢で立った。一人分のスペースの光に、二人が入る。
「無茶だよ! 前例がない! 何が起こるかわからないよ!?」
「上等じゃねぇか。確かめたことがねぇだけで、両方助かる可能性もあるってことだろ?」
腕の中でもがくようにして叫ぶ少年に、柊は不敵に笑って言い放つ。
少年は絶句して―――次いで、泣き笑いのように笑った。
「ほんと―――めちゃくちゃだよ、お兄さん」
瞬間―――光が辺りの闇を払うように広がって―――視界が白く染められた。
◇ ◆ ◇
墜ちていくような感覚の中、柊は不思議な光景を見た。
どこか悲しげな色の空に浮かぶ、巨大な樹。本来地中にあるべき根を宙に垂らし、葉を茂らせた枝が、きのこの笠のような輪郭を描いている。
どこか悲しげな色の空に浮かぶ、巨大な樹。本来地中にあるべき根を宙に垂らし、葉を茂らせた枝が、きのこの笠のような輪郭を描いている。
───彼方の世より来る、夢より生まれし現(うつつ)の子―――
と、遙か彼方から響いてくるように、耳元で囁くように、呼ばわる声があった。
知らない筈の、けれど不思議と懐かしいようなその声は、どこまでも慈愛に満ち、また深い悲哀を感じさせた。
知らない筈の、けれど不思議と懐かしいようなその声は、どこまでも慈愛に満ち、また深い悲哀を感じさせた。
───わたしを、求めてください―――
その声は願う。
───わたしは、愛です―――
その声は告げる。
───決して諦めない人の子よ。どうか、その心でこの世界を―――
その祈るような声を聞きながら―――柊の意識は浮上した。