"メリー・ウィドウ"

目次

訳者より

  • ドイツ語のオペレッタでは絶大な人気を誇る作品ですが、このサイトでは15年近く誰にも手をつけられることなく放置されていました。まあ掲載されていたテキストで突然登場人物がスペイン語で喋り出したり、他に参照する情報源が見つけられない中で相当な数の欠落や誤植があったりと物理的に取り組むハードルも高かったのですが、まずはスペイン語のテキストからオリジナルの独-西対訳のpdf(なんとコスタリカかどこか中南米のサイト)を探し出し、また一番このリブレットに近いと思われるガーディナー盤のブックレットなどを参照しつつ何とか訳せる状態にしてみました。
  • ところが今度は日本語訳のハードルにぶつかります。普通台詞部分の膨大なオペレッタにあってはこのメリー・ウィドウ、それほどテキストの量は多くはないのですがとにかく日本語のセレクションが大変です。単純な直訳ではこの物語の味を完全に殺してしまいかねませんので言葉の吟味にたいへんな時間を要し、私としてもこればかりやっていた訳ではありませんが3年越しくらいの作業となってしまいました。まだ原詞の誤植もだいぶ残っているように思いますし、十分に納得いく日本語の選定ができているわけではないですが、とりあえず暫定版としてアップすることとします。けっこう誤訳もあると思いますが、あえて物語の雰囲気から誤訳と知りつつ残しているところもあります。音楽を聴かずに日本語訳を通して眺めるだけでも、この物語の楽しさがお伝えできれば成功ということでご笑覧ください…
  • 私がまだ学生の時分、1979年のウィーン・フォルクスオーパーの初来日公演をNHK教育TVで見て(この時の放映はたしか「こうもり」どこか別の民放でメリーウィドウも見れた記憶が…)オペレッタの魅力に目覚めて、その後の再来日の機会にはなけなしのバイト代を注ぎ込んで見に行く中、この演目にもドはまりしたということもあり、まだ他の誰にも手を出されないうちに自分の世界観で日本語訳を作れたのはラッキーでした。
  • 特にこのメリー・ウィドウ、入手できる日本語対訳がほぼすべて1915年生まれの音楽学者・渡辺護氏の手になるもののみと言っても過言でない時期が長く続いており、年寄り世代に属する私にとってもちょっと古めかしさをどうしても感じるものになってしまっています。学者先生のお堅い訳は、意味は正確なのでしょうが喜劇としては感情移入し難い味気ないものになっているように思います。もうひとつだけ私が参照できたのは1982年のフォルクスオーパー来日公演のライブ録音にある寺崎裕則氏・谷本維都子氏の対訳。これはこの盤そのものが今や入手困難でしょうし、この舞台を実際に目にした人でないとちょっとついていけないのではというノリにはかなり抵抗のある崩した訳(従って対訳にはなっていない)でした。
  • 訳すにあたり一番苦心したのは主役ダニロの語り、登場の時のスチャラカ官僚ぶりを見せるアリアや、昔の恋人ハンナに想い悶えるモノローグなどの場面での一人称は「俺」が一番しっくりくるのでそれを選び、さりとて外交官としてパリの人たちなどと話す時には「私」にしないと傍若無人に見えてしまうのでその使い分け、またかつての恋人ハンナに対する呼びかけも公式な雰囲気の「あなた」と、もう少し親密な「君」とをシチュエーションに応じて使い分けてみました。ドイツ語でも相手への呼びかけはSie(あなた)とDu(君)の使い分けは絶妙になされており、それも参考にしながら考えてみました。他の登場人物はこのダニロほど屈折してはいませんが、くるくると変化する状況の中、みな本音と建前とをうまく使い分けながら物語を動かして行く様をどういうワーディングで紡いでいこうか というのはなかなかに難しいところです。本当のところは知らないですが、翻訳劇の台本ってこんな風に考えて作るんだろうな というのが垣間見えてなかなかに得難い体験ではありました。

録音について

  • オペレッタの宿命で、ドイツ語圏でないとやはり原語上演は難しいということでしょう。アメリカやイギリスなどの英語圏ではもっぱら英語台本による英語での上演というのが当然でもあり、結果としてかなりの数の録音やAVソフトも英語上演版となります。YouTube などでも英語上演の版がたくさん上がっていて、おやっと思うような大物歌手が登場していることもありこれはこれで楽しめます。
  • オリジナルのドイツ語版では、私が聴けた一番古いのが1950年の放送録音(W.シュテファン指揮ハンブルク放送管)、ベームやクレンペラーにも愛された夭折の名ソプラノ、エルフリーデ・トレチェル(1913-1958)のハンナにルドルフ・ショック(1915-1986)のダニロの絶妙なコンビ。歌唱スタイルや音はさすがに古くなりましたがなかなかの聴きごたえ。まだ若いアンネリーゼ・ローテンベルガー(1926-2010)がヴァランシェンヌを演じているのも可愛い。放送録音なのでやたらと台詞のパートが長いのがマイナス点でしょうか(台詞部分は別の俳優が演じているようで、聴き取れなくても雰囲気で楽しめますが)。それとこの盤で特筆すべきは今はほとんど取り上げられない8分ほどかかる序曲を作曲者自身が指揮したチューリッヒ・トーンハレ管の演奏(1946)で収録しているところでしょう。色んな意味で歴史的な録音だと思います。
  • 引き続いては1955年のオットー・アッカーマン指揮フィルハーモニア管のEMI録音。エリーザベト・シュヴァルツコップ(1915-2006)のハンナにエーリッヒ・クンツ(1909-1995)のダニロの強力コンビ、ではあるのですがどうもこの録音、私は好きになれません。主人公二人が歌うよりも語る演技に凝り過ぎているために、オッサンとオバサン 熟年同士の色恋沙汰 という感じになってどうも感情移入が難しいのです。変な策を弄さずに二人とも歌うことに力を入れてくれればもっと素敵な録音になったのに。アッカーマンの音楽づくりも美しいおとぎ話を紡ぎ出そうという流麗なものであっただけにかなりのミスマッチ感が拭えません。演技派キャストを起用したのが裏目に出てしまったと言いましょうか…
  • 1958年にはオペレッタ作曲家として知られたロベルト・シュトルツがウィーン国立歌劇場のオケを振った強力盤が出ています。ハンナ役にヒルデ・ギューデン(1917-1988)を起用して彼女の歌声は実に素敵なのですが(可愛くてチャーミングなハンナ役としては1・2を争うと思う)、他の役が今となっては忘れられた歌手ばかりになってしまった感があって今や聴くことが極めて困難な幻の録音となっています。ただ、ダニロ役のペル・グルンデン(1922-2011)、スウェーデン出身のテナーですがウィーンのフォルクスオパーでのキャリアも長く私の耳にはけっこう良い役者に聴こえます。まあギューデンのパワーに押されてはいますが、声の質としては良く溶け合って悪くなく、歌だけでなくセリフ回しもコケティッシュで愛らしいギューデンの相手役としては彼のような優男タイプの方が良く似合っているところも。ヴァランシェンヌ役のエミー・ローゼ (1914-1987)はベテランの味で見事なサポート。第2幕幕切れのハンナとの掛け合いのところなど惚れ惚れします。彼女はシュヴァルツコップ旧盤でもヴァランシェンヌ役でしたがギューデンとの録音の方が相性が良い感じ。カミーユ役のヴァルデマール・クメント(1929-2015)は若さもあるのでしょうがちょっとミスキャスト。この役に必要なリリック感がほとんど感じられない気負った歌唱が全体のアンサンブルの中では少々浮いてしまいました。といいつつこの盤、全体的に私には好評価です。もっと広く聴かれてもいいのに。
  • 1962年にはロヴロ・フォン・マタチッチ指揮フィルハーモニア管の大変有名な盤が録音されました。シュヴァルツコップ再登場で今度の相手役はエーベルハルト・ヴェヒター(1929-1992)。アッカーマン盤ほどの語り重視ではありませんがこの盤も音楽を聴かせるよりは物語を楽しんでもらうスタンスが強く出た盤です。全体的にバリトン歌手のダニロ役には私は辛口評価ですが、ヴェヒタ―の第2幕エンディング「王子と王女の物語」での語りも交えた「泣き」の演技は見事です。シュヴァルツコップはいつもの知的なよく考え抜かれた歌声ですがそれが私にはどうもハンナという純情な女性には似合わないような気がして好きになれません。ニコライ・ゲッダ(1925-2017)のカミーユとハニ―・シュテファニク(1927-2010)のヴァランシェンヌは絶妙。私が聴いた中でもベストコンビではないかと思います。それだけに第1幕の2つのデュエットのうちの1つが省略されていて聴けないのが残念です。
  • 1965年シュトルツ指揮の再録音はベルリン交響楽団と。オケと合唱はウィーンの旧録音には負けますが、ソリスト4人のオペレッタらしいバランスの良さと楽しい展開のノリが実に良いです。シュトルツの指揮は旧録音でも感じたことですがオペレッタのくるくる変わる情緒に緩急自在につけた見事なもの。特に第2幕のフィナーレはどちらの盤も見事です。新盤はハンナにマルギット・シュラム(1935-1996)、ダニロにルドルフ・ショック(1915-1986)、60年代オペレッタの女王の名を馳せたシュラムの可愛らしくも新鮮な歌にベテランのショックの至芸、主役二人が絡む部分はどれも素晴らしいです。脇を固めるのもドロテア・クリスト(1940-)のヴァランシェンヌ、ジェリー・J・ジェニングスのカミーユに加え、ベンノ・クッシェ(1916-2010)のツェータ男爵、フェリー・グルーバー(1926-2004)のニエグースとオペレッタの名脇役を擁して万全。オペレッタとしての「メリー・ウィドウ」を楽しむのならこの盤に止めを刺すと言い切ってもよいくらい素敵な盤です。残念ながら入手は今や困難で、特にリブレットの入手は絶望的ではないかと。これだけの歴史的遺産が忘れ去られて行くのは本当に残念です。
  • ここまでがPDで動画対訳に使えそうな録音群。ですがリブレット入手可能なものは多くなく、台詞部分だけでなく歌の部分にまでかなり手が入っていたりするのがオペレッタの常ですのでなかなか制作は難しそう。
  • 引き続いては1972年のカラヤン・ベルリンフィルにエリザベス・ハーウッド(1938-1990)のハンナにルネ・コロ(1937-)のダニロ、テレサ・ストラータス(1938-)のヴァランシェンヌ、ヴェルナー・ホルヴェーク(1936-2007)のカミーユとオペラ界の美声を揃えたリリカルな録音。しかしこれはもはやオペレッタの範疇を越えた何か別物になってしまいました。けっこう台本ではメロドラマ風に歌の間に語りを入れているのですがその大部分をカットし、ひたすら歌とオーケストラを磨き上げる、もはやこの表現ではオペレッタの物語は成立しないところまで来てしまっています。もちろんこれはこれで音楽表現のあり方としてはアリだとは思いますが、ここで語られ、歌われている物語の行方はどこに、と思うとちょっとやるせなさが募ります。
  • 1980年のハインツ・ワルベルク指揮ミュンヘン放送管他の録音はもうひたすらヘルマン・プライ(1929-1998)のダニロ役に止めを刺します。バリトンのダニロ役は私は好みませんが、これほどのはまり役で説得力ある歌声はそうはないかと。ちょっと気の強そうな硬質の声のハンナ役のエッダ・モーザー(1938-)との掛け合いも絶妙です。またヘレン・ドナート(1940-)のヴァランシェンヌにジークフリート・イェルザレム(1940-)のカミーユもリリカルな味わいでなかなかです。オペラスタイルの録音であれば私はカラヤン盤よりも歌手がとにかく好演のこちらをより好みます。
  • 最後に1994年のエリオット・ガーディナー指揮ウィーンフィル盤、とにかく速いテンポで音楽のカットなしにCD1枚に収めてしまったことも快挙ですが、この録音の素晴らしいのはメロドラマ部分に書かれた語られる台詞をすべて忠実に拾ってくれていること。そればかりでなく今回翻訳したWikiのリブレットとほとんど地の対話部分も同じです。取り上げたリブレットがオリジナルのものかどうかは分からないのですが、少なくともこの対訳をそのまま追いかけて楽しめるのは唯一このガーディナー盤でした。となれば歌手にも歌だけでなく臨場感のある演技をお願いしたいところ。ハンナ役のシェリル・スチューダー(1955-)、ヴァランシェンヌ役のバーバラ・ボニー(1956-)の女声人は万全。役になり切った歌と演技は惚れ惚れします。残念ながら男声2人、ダニロ役のボー・スコウフス(1974-)とカミーユ役のライナー・トロスト(1966-)はまだこの録音当時若かったからでしょうか、歌は素晴らしいのですが演技が今一。もう少し経験を摘んでから出たならもっと素晴らしかっただろうにと悔やまれるところです。あとキャスティングで面白いのは通常コミカルなバリトンを充てるツェータ男爵役にブリン・ターフェル(1965-)を起用していること。彼が歌に芝居に大活躍する第2幕後半はとても引き締まった魅力的なものとなりました。ということでオペレッタスタイルの魅力に溢れたシュトルツの新旧両盤に惹かれながらも、歌詞を訳しながら聴いたたくさんの録音の中のベストはこのガーディナー盤。次点が歌手の役づくりがあまりにみんな見事なワルベルク盤という結論になりました。いずれも動画対訳にはしばらく(永遠に?)使えないのが残念ですが… 参考:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Merry_Widow_discography

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@ 藤井宏行
最終更新:2025年05月02日 07:03