"ミカド"

目次

訳者より

  • 劇の始まりの序曲から「宮様 宮様」のメロディーが物々しく鳴ることから、オペレッタの中でもキワモノ扱いされてか、そのクオリティの高さにも関わらず日本ではほとんど取り上げられることのないイギリスの誇るオペレッタ名コンビ、台本ウィリアム・ギルバート、作曲アーサー・サリヴァン(以下英国流にG&Sと略します)の最大のヒット作「ミカド」。ブリティッシュ・コメディの宝石のような台本の面白さもピカ一ですが、何より音楽が美しい。序曲でも「宮様 宮様」のあとにオーボエソロで流れる第2幕冒頭のヒロインの歌う歌などはオペラアリアの中でも指折りの旋律の魅力を持った曲だと思いますし、この曲ばかりでなく、コミカルなものからリリカルなものまで次から次へと流れて出て来るおもちゃ箱のような構成は聴く者を飽きさせません。とはいえドイツやフランスの「文化」に対する教養を涵養することを目的とした日本のクラシック受容の歴史の中ではやはり彼らの作品は一段下にどうしても見られてしまいますし、他方音楽や劇にエンターテイメントを求める人たちにはお堅いクラシックの出来損ないという先入観があるのでしょう。結局どちらの層にも見向きもされず、この珠玉のG&Sの作品群が日本で知られることなく埋もれているのはとても惜しいことです。
  • 教養主義の束縛を受けないクラシック音楽のエンターテイメントが成立していた大正~昭和初期の浅草オペラの時代に実はG&S作品はオッフェンバックの諸作品と並んでいくつか取り上げられていて、「HMS.ピナフォー(女王陛下の軍艦エプロン号)」や「ペンザンスの海賊」など彼らの初期の傑作は日本語で上演があったようですが、この「ミカド」は題材が題材だけにこの時代に取り上げることはできず、日本での上演は戦後からとなります。とはいえ1948年から1984年にかけては長門美保歌劇団がけっこうな頻度で日本語上演を行っていて、知る人ぞ知る人気演目になっていたようではありました。その後も舞台となっている「ティティプー」の語源であると言われている秩父で何回か上演されていたり、あるいは2017年のびわ湖ホール・新国立劇場での公演など細々とは紹介されてはいるものの、いまひとつメジャーにはなり切れていない印象です。まあ私もまだこの作品の日本語翻訳上演は生では見たことがないので、本当に魅力的なプロダクションが今まで日本で作られたかどうかというところは何とも判断できないところがあります。野上彰の天才的な日本語歌詞のおかげで生き延びた「メリー・ウィドウ」のように歌の魅力を最大限に引き出す力も要りますし、このコメディでは歌ばかりでなく対話の部分もきっちりと盛り上げなければならない。しかもこの上質のブリティッシュ・コメディの元祖のようなG&Sの世界観は、それをしっかりと理解した演者によってしか具現化できないのだろうなとも感じます。1970年代日本で大人気を博した伝説的なイギリスのTVコメディ番組「モンティ・パイソン(私はかなりこのG&Sの影響下にあるように思えていて The Lumberjack Song などもろにG&Sの世界観のように聞こえます)」が、日本語吹き替えの名優たち(山田康雄・納谷悟朗・広川太一郎・飯塚昭三・青野武ら)による見事な声の演技によって日本でのTV放映が成り立っていたように、音楽や台本だけでなくてパフォーマーの力も決して無視できないというところもあるのでしょう。
  • 私にはそんなパフォーマーたちを揃えることは無理ですが、YouTubeに公式・非公式合わせて膨大な数が上がっている「ミカド」の動画の字幕として少しでもこの世界観をお伝えする手助けができたらと思っています。幸いなことにG&S作品、台本のギルバートのパートが物凄く良く書けているので、今の時代の世相批判に合わなくなった部分以外は台詞の部分もほとんど手を入れずに上演されることが通例。従って大抵のYouTube動画でそのままこの字幕でお楽しみ頂けるかと思います。日本語字幕をちらちらと見ながら、まるで俳優たちが日本語でコメディを演じているように錯覚して頂ければこの試み大成功です。私も翻訳するというよりはこのG&Sの世界観を壊さないよう、改めて日本語の喜劇台本を作る感覚で今回は取り組みました。従って対訳が正確でない箇所も多々ありますし、自動翻訳で出て来た「変な」日本語を面白いのであえて残した箇所もあります。ギルバートの台本があえて「変な英語」を使うことによって重層的な笑いを追及しているところが結構な箇所ありますので、そういったニュアンスを私の力の及ぶ範囲で消さないように努めました。その際小谷野敦氏の愛情あふれる本邦初訳の台本は大いに今回参照させて頂きました。ありがとうございます。
  • 日本では中身をよくご存じないにも関わらず国辱モノという扱いで非難されている方も時折見受けますが、あくまでここで皮肉の対象となっているのは1880年代の英国社会。オッフェンバックの「地獄のオルフェ」が19世紀のフランスの上流階級を皮肉るためにギリシャ神話の世界を借りたように、ここでは見知らぬおとぎの国ジャパンを舞台としているのです。なので舞台や衣装、所作に日本的なリアリティを求めるのは無意味ですし、登場人物の名もナンキ・プーだのヤム・ヤムだの国籍不明のものばかり。どこか珍妙な異国で起きたひたすらナンセンスな物語と思って観るのが良いのでしょう。
  • その意味で私は訳でも「日本」という言葉は一切使わないようにしました。これは「ジャパン」という日本とは別のどこかのお伽の国のお話であるという意図です。G&S作品を専門的に上演していたドイリー・カート・カンパニーの手を離れてからは伝統的に行われていた東洋風の舞台を捨てた読み替え演出も多数出て来ており、これはこれで不思議な説得力があります。ただ、イギリス人が自分たちの国の格好で自分たちの文化スタイルを演じつつ、しかもジャパニーズを名乗るというのはかなりの倒錯と言えなくもありません。そんなところも合わせ、台本が全くダイアローグの部分が同一なのに時と時代を超えた様々な舞台スタイルが味わえるというのがこのオペレッタの魅力のひとつでもあります。

登場人物について

  • 第2幕からの登場になるジャパンのエンペラー「ミカド」(バスorバスバリトン)。劇中で皇太子のナンキ・プーから「一族のルシアス・ジュニアス・ブルータス(古代ローマの執政官で自分の息子を死刑にした)なもんだから」とあるようにかなり威圧感のある巨大な体躯の暴君、かと思いきや「刑罰をフィットさせるのだ その罪に」と歌うところではウキウキ軽やかにダンスを見せるお茶目さもあります。キャラ的には「キビシー」の絶叫に味があった財津一郎なんかがしっくり来る役どころです。一人称はさすがに「朕」はまずいので皇帝っぽく「余」にしました。
  • その息子で皇太子のナンキ・プー(テノール)、父が勝手に決めた婚約者カティシャが嫌で宮廷を逃げ出し「第2トロンボーン奏者」に身をやつしてティティプーの町に逃げます。この舞台での登場の時は更にしがない吟遊詩人に変装しています。典型的な優男タイプのテナーが演じることが多いですが、けっこう小ボケのネタを演じるシーンも多く演技力も重要です。このキャラ設定だと一人称は「ぼく」しかないですね。
  • しがない仕立屋(チープ・テイラー)でしたがミカドが定めた「いちゃつきの罪」で死刑を宣告され、それがなぜかあれよあれよという間に一般人が昇り詰める最高の官位である「最高執行卿」の地位を得たココ(コミックバリトン)。この人の演技力で舞台全体の成否が決まるという重要な役回り。吉本新喜劇のような肉体的なギャグも駆使してダイナミックに盛り上げるケースと、淡々と演じる中にじわりと笑いがにじみ出て来るような渋い演技をするケースと演じ方に2つの系統があるような気がします。初演前のキャラクターのスケッチ画を見ると死刑執行人の最高官位ということでマサカリ担いだ金太郎のような金太郎のような人物像。伝統的な演出ではそんな感じで刃物を振り回す危ない人のように描かれることがよくあり、志村けん演じた「変なオジサン」スタイルが似合ってるでしょうか。一人称はこの人はやはり「我輩」がいちばんしっくりと来ます。
  • そのココの下で膨大な役職を一手に引き受けるアダム以前の細胞核にまで一族の家系が遡れる高級貴族プー・バ(バリトン)、驚いたことに、Weblio辞書にPooh-Bahの項目が存在し、「一度に多くの役職を兼ねる人、尊大で無能な役職兼務者」とありました。無能かどうかには異論がありますが(これだけの数の役職をともかくこなしているわけですし)、まあプライドが極端に膨れ上がった初老のスノッブといったところでしょうか。第1幕で女学生たちにいじり倒されているところなどは胸がすきます。一人称は迷いましたが「わし」で。ただしミカドとか偉い人を前にしたときは「私」と使い分けるくらいの処世術は持っています。
  • 更に下っ端の貴族ピシュ・タシュ(バリトン)、小者感を出すために「拙者」と一人称はしてみました。第1幕で最高執行卿であるココが死刑執行に悩むときも、それは拙者の所管ではござらぬ と冷めているところが面白いです。
  • ココの後見を受けている女子学生3人娘ヤム・ヤム(ソプラノ)、ピッティ・シン(メゾ)、ピー・ボ(ソプラノまたはメゾ)。年齢的には18歳くらいのハイティーンの設定でしょうか。オペラ歌手で主役級の役を演じる人はけっこうそれなりの歳に達していることが多いので、どこまで設定年齢の若さの演技ができるかがこの役柄成功の鍵だと思うのですがこれがなかなかに難しい。セーラー服を着てとは言いませんがせめて「はいからさんが通る」の明治の女学生くらいの役作りが理想です。舞台で歌も演技もうまいのに声や所作がオバサンっぽいとやはり興醒めしてしまいます。まあ作り事の世界なのでここはやり切って欲しいものです。ヤム・ヤムにはヒロインらしい華が、ピッティ・シンはサブヒロインとして(けっこう出番が多いです)抜け目のなさと芯の強さを、ピー・ボは少女コミックでは鉄板の根暗な毒舌キャラといったところでしょうか。3人3様で面白いキャラクター設定。彼女たちの一人称はもちろん全員「あたし」にしました。
  • 第1幕の幕切れと第2幕も中盤からの登場とあまり舞台に出ている時間は多くないにも関わらずたいへん強烈な印象を残す年増の宮廷女官カティシャ(アルト)、第1幕ではコーラスと対峙して一歩も退かないパワーを示す必要がありますし、2幕で恋人?ナンキ・プーを失っての嘆きの歌はかなり本格的。そのあとの幸せいっぱいのデュエットは踊りながらココのギャグと掛け合うという、歌も演技もかなりのレベルが求められる難役です。それだけにやりがいもあるのでしょうか。皆生き生きと楽しそうに演じています。エキセントリックでド派手な衣装に、ここまでやるかという怪物メイクで忘れ難い印象を与えてくれる人も幾人も出会えました。ココとこのカティシャに人を得ると。この「ミカド」俄然面白くなります。この人の一人称は「わらわ」ですね。日本の時代劇っぽくなってしまうのはちょっとまずいのではありますが…

録音・映像について

  • DeccaやWernerに1950~1970年代にかけてのドイリー・カート劇団の歴史的な録音が多数ありますが、残念ながらどれも台詞部分をすべてカットした音楽ナンバーだけのもの。前に述べましたようにG&Sは台詞も入った物語の流れ全部あってこそ魅力が最大限に発揮されるところでもあり、ちょっと初めて聴く方にはお薦めしかねるところがあります。歌詞対訳付きの国内盤も出ていた、1980年代のベストメンバーを集めたマッケラス指揮のウエールズ・ナショナルオペラ盤(1991録音・Telarc)も音楽は素晴らしいのですが台詞なし。台詞付きのフルバージョンの録音は私の知る限り J. Lynn Thompson 指揮のオハイオ・ライトオペラ盤(2008 Albany)のみ。これも悪くないですがどうせなら台詞までフルに入った舞台を映像付きで楽しむのがまずはお薦めです。前述のようにG&S作品はギルバートの台本を尊重しているところがあって、ほとんどすべての映像においてここに訳しました台本通りの世界が広がっているのです。YouTubeにむちゃくちゃ多くの映像が上がっておりますのでより取り見取り。私もそんなにたくさん見れているわけではないのでごく一部のご紹介になりますがご参考にして頂ければと思います。ただどれが公式か非公式かも分かりませんのでリンクを張るのは遠慮させて頂きます。
  • 最初のご紹介は1939年の映画版。台詞も音楽もかなりのカットはありますが、なんとカラーで1時間を超える大作。冒頭に皇子ナンキ・プーが宮廷から逃げ出し、ティティプーの町でヤム・ヤムに出会うシーンが序曲のメロディに乗せて挿入され、オリジナルの舞台ではナンキ・プーによってなされる説明に代わって映像で最初に種明かしされています。テンポよく物語は流れて行きますし、当時のドイリーカート劇団の主力メンバーを集めた音楽も素晴らしく、また当時の映画の異国文化の表現スタイルを知るという意味でも興味深いです。ですが「ミカド」を鑑賞するという点ではあくまで2次創作としてオリジナルの舞台をいくつか見てから触れた方が良いように思います。かなり映画的演出によった舞台で本来の劇の持ち味がねじ曲がってしまっているところもありますので。
  • 1966年にはG&S作品上演の本家本元、ドイリーカート歌劇団による映画が作られています。映画的な作りでは1939年のものとも通じるのですが、普段上演している舞台の演出は大きく変えていないようなので、オーセンティックな「ミカド」の舞台を知る上では必見と言えましょう。なかでも1960~70年代にこの劇団でのココ役を務めて来たジョン・リードの派手さを抑えつつもおかしみのにじみ出て来る演技は圧巻。この役のひとつのスタンダードと言っても過言ではないでしょう。歌詞にも曲想にもそんなに笑える要素のないNo.22の柳の歌を大真面目に歌ってそれでもにじみ出て来る可笑しさは至芸です。他にも当時この劇団で活躍していたプー・バ役のケネス・スタンフォードやミカド役のドナルド・アダムス、カティシャ役のクリスティーネ・パーマーといった当たり役たちの演技を見ることもできて良いです。もうひとつ特筆すべき魅力はヘアスタイルやメイクの力もあるのでしょうが、3人娘(ヤム・ヤム:ヴァレリー・マスターソン、ピー・ボ:ポーリン・ウェルズ、ピッティ・シン:ペギー・アン・ジョーンズ)がみなカワイイ。ハイティーンの女の子たちがヤンチャに大人たちを手玉に取っている描写が(少し古い時代のスタイルとは言え)魅力的です。残念なのは音楽にかなりのカットがあること。収録時間の制約とはいえ非常に惜しいことです。
  • オーセンティックという点では1973年のBBCテレビ用に撮られた舞台。ギルバートの台本に何も足さず何も引かず(ほんの少しだけ台詞にアレンジしてるところもありますが)、演出も奇をてらわずにオーソドックスにこの脚本の魅力を引き出しています。ミカドという作品の本質を感じ取るにはこの映像はとても良いと思います。淡々と演じられるだけでブリティッシュ・コメディの毒がにじみ出て来るといいますか... 残念なのは no.19 のグリーがカットされているのと、淡々と演じるのが持ち味とは言いながら唯一この舞台で濃い演技が求められるカティシャ役にも美人で上品なメゾ、ヘザー・ベッグを充てているところ。もちろんこの舞台のスタイルから言うと決してミスキャストではないのですが、他の舞台の強烈なカティシャ役の女声たちに比べるとどうしても分の悪さは否めません。
  • オーセンティックから離れて、独自の演出で新しい「ミカド」像を描いたという点では1986年のジョナサン・ミラー演出のイングリッシュ・ナショナル・オペラ公演。舞台を1930年代イギリスのリゾートに置き換え、衣装も舞台装置もすべて英国趣味で統一しています。そうすると台本の「ジャパン」とか「ジャパニーズ」という台詞が浮いてしまいますが、ミラーは何を思ったのか、「ジャパン」を連想させる言葉が出て来たところで登場人物たちに吊り目の仕草をさせています(日本人はキツネのような釣り目をしているということか)。さすがにこんな演出は今はできないのでしょう。その後もこのミラー演出の舞台は再演されていますがこの表現は消えているようです。ミラー演出の初演版。1980年当時クラシックとポップスのクロスオーバー歌手として人気の合ったレスリー・ギャレットがヤム・ヤムを、そしてココ役には何と上で言及しました1970年代の革新的ブリッティシュコメディの金字塔「モンティ・パイソン」の歌って踊れる名コメディアン、エリック・アイドルを起用しているのが特筆されます。通常の舞台でも歌詞を一部差し換えて歌われる No.5a の処刑者のリストの歌は全編アイドルのオリジナル歌詞に差し替わっているものの他の部分はギルバートの台本に忠実で、そこに「モンティ・パイソン」で磨き上げた彼のギャグセンスを仕草や表情付けでうまく表現してくれているのが凄いです。歌手も全体的に水準が高く、特にカティシャ役のフェリシティ・パーマー、奇抜な衣装やメイクに頼ることなく、声と演技でエリック・アイドルと互角に張り合って舞台を引き締めるその力量はすばらしいです。
  • 1992年にはBuxton Opera Houseでサリヴァン生誕150年を記念した公演がありました。その十年前に解散してしまったドイリーカートカンパニーのミカドのオマージュとして、ドイリーカートでの伝統的な演出をベースに、様々な工夫を織り込んだ結構斬新な公演です。試みのいくつかは残念ながらスベッてしまったようですが、けっこう物語に隠された伏線への新たな気付きなどもあってこの新演出なかなか興味深いところ。いくつかの小ネタは実に巧いです。歌手たちの水準も高く歌も演技も素晴らしい。これはぜひご覧頂くと良いのではと思いました。特にココ役の Fenton Gray はお見事。コメディアンが本業でもここまで凄い演技はそうはできまいと思いました。
  • 英国本土から離れて他の英語圏へ 特筆すべき公演が多いのはオーストラリアでした。1975年のアデレード公演、基本はドイリーカートのオーセンティックな舞台と演出ながら、より衣装とか所作とかを日本っぽさを強調していますものの、それが絶妙にポイントを外して可笑しみが増している上に、演者たちのテンションが異常に高いのが独特の魅力を醸し出している公演。ココ役の Dennis Olsen という人が本職のコメディアンかと思うくらいサービス精神旺盛に色々仕掛けてくれていますし、他の演者も強烈な人ばかり。「ミカド」の演出としてはひとつの極北ではないかと思います。ある意味必見です。
  • もう少し落ち着いたところでは、シドニーのオペラハウスのプロダクションがいくつか見られます。こちらは伝統的な演出をベースにしながらも、からくり人形的な演出で視覚的な面白さも描き出しています。これもかなり水準の高い演奏でけっこう見ごたえありです。どうせ白人が演じるのならリアリティは完全に捨てて徹底的にお伽の世界にしてしまおうという姿勢はお見事。プッチーニのトゥーランドットの舞台が北京ということになっていますが実際の明や清帝国ではなく、まるでお伽の別世界になっているようなそんな感覚です。東洋とは全然関係ないですがこの舞台、お茶とか時計とか「不思議の国のアリス」の世界観を連想しました。そういえばあちらにも処刑大好きな王さまが出て来ましたよね。視覚的な楽しみも含めてけっこうお薦めです。
  • 同じく英語圏のカナダ。こちらはストラッドフォードという町でG&Sフェスティバルというのを過去開いていて そこでの1982年の「ミカド」が映像になっています。これは日本でもLDやDVDになっていましたのでご覧になられた方も多いのでは。ここのオペラカンパニー、とにかく元気が良くてキレの良いダンスをどのナンバーでも見せてくれます。「ミカド」はそれほどでもないのですが他のG&S作品ではダンスというのはとても重要な要素。ミュージカルへと繋がる躍動感を感じさせてこれもなかなかに素敵。ただミカドの様式感からはちょっと異質なパフォーマンスでしょうか。舞台で見るのならこのプロダクションが一番楽しめるとは思います。衣装がかなり日本のトラディションを踏襲していますので、これで徹底してミュージカルスタイルを貫くのはなかなかの違和感はありますが。ちょっと台詞にアドリブが多いですが、何回か繰り返して見ればここの対訳でも追えるでしょう。
  • アメリカ合衆国はかなりたくさんのプロダクションが見られますが、特にここで言及すべきは2019年のニューヨーク、ブロンクスのオペラカンパニーのプロダクション、色々な人種が混在して住んでいるため、PC(Political Correctness)に敏感なこの国では、オール白人のキャストが顔を黄色く塗って珍妙な東洋人の演技をすることが今や強く忌避されることが増えていますので、思い切って舞台をジャパンではない現代のどこか別の国と読み替えるばかりでなく、台本にあるジャパンに関連する言葉をことごとく置き換えて舞台設定を完全に変えてしまっているのです。冒頭に出て来るジャパンの貴人たちはテティプーに駐在するニューヨークタイムスの特派員たちに(いろんな人種・年齢のダイバーシティを保持)、ピシュ・タシュはその現地エージェントの記者でしょうか。ヤム・ヤムたちを先導してくる女学生たちも(歌の英語が聞き取れなかったので姿からの創造ですが)現地の女性記者たちといった風情。いや「最高執行卿」とここでも呼ばれているココでさえ出で立ちはマスメディアのエグゼクティブ。彼らの言葉の権力で人はいくらでも処刑できる となれば現代に生まれ変わった見事なギルバート流の皮肉ですね。ココの「処刑リスト」の歌でも歌の最中に後ろのスクリーンに出て来るのはアメリカ政界のお歴々。2019年と言えばあの壮絶な大統領選挙のあった前年ではありますね。ミカドはここではロシア語訛りの英語を喋る何やらかの国のリーダーを思わせる恰幅の良い初老の男性。搭乗前の「ミヤサマ」もメロディはそのままですがスクリーンにはツィッターの小鳥が飛んでITを駆使した記者会見の雰囲気です。彼がI'm emperor of XXで何と歌っているのかは残念ながら聞き取れず。また彼の歌う「刑罰をその罪にフィットさせよう」という歌も背後のスクリーンに何やらアメリカの時事問題を示すような画像が多数現れましたが私にはよく分かりませんでした。この作品が内包していた有色人種の差別問題はうまいこと解決できましたが、あんまり直近の世相の揶揄や批判を前面に押し出し過ぎると陳腐化も速いのではという危惧も感じてしまうのでした。ジャパンの代わりにロシアを揶揄していては結局また世界情勢が変われば台本の書き換えが必要となる、この傑作を未来に残すアプローチとしてはやはりシドニーのオペラハウスのプロダクションのように「どこにもない国」の描写を徹底するしかないかな ということを思ってしまいました。
  • YouTubeで全容は見ることができないのですが、1966年にはコメディアンのグルーチョ・マルクスがココを演じた映画がアメリカで撮影されています。この映画でプー・バ役を演じたのがスタンリー・ホロウェイ。あの「マイ・フェア・レディ」でイライザの飲んだくれの父親アルフレード・ドゥーリトルを演じた人ですね。これもいつかは見てみたいものです。ブロードウェイでは1938年 シカゴのオール黒人の劇団が swing mikado という作品をswingスタイルで(舞台もジャパンからトロピカルアイランドに変更している)。1939年にも同じようなコンセプトでThe hot Mikadoがオールアフロアメリカンキャストでよりジャズ色を強く出した舞台が上演されているようです。こちらはWikiによれば1939年の舞台画像が見られるようです(サイレントで音が出ないのが残念)。このプロダクションはHot Mikadoとして1986にワシントン・DCでリバイバルされ、いくつかの映像がYouTubeで見られました。全然別物の音楽世界が繰り広げられていますがこれはこれで面白い。同じようなコンセプトがイギリスでは1975年に Black Mikado として上演の記録があります。またWeb上ではほとんど情報が得られなかったのですが、1985年ロンドンのQueen Elizabeth Hallで、2019ブロンクスのような同時代に舞台を置き換えた MetroPolitan Mikado or The Town Of Mitsubishi が上演されています(猪瀬直樹さんの大著「ミカドの肖像」で触れられていたことで知りました。Website Louise Gold によれば、当時実在の人物をモデルとした役作りが行われたのだそうで、鉄の女マーガレット・サッチャーはカティシャ、労働党党首だったニール・キノックがプー・バ、当時サッチャーと対立していたロンドンカウンシルの議長であったケン・リビングストンがプライム・ミカドにそれぞれなぞらえられています。)これも今となっては1980年代の時代制約を越えられず陳腐化して忘れ去られてしまったというところでしょうか。
  • 1885年の初演から数年の間には様々な言語に翻訳されてヨーロッパじゅうで上演が広まったという「ミカド」ですが、YouTubeをざっと眺めても、ほとんど英語以外の上演記録というのは今となってはみられません。初演当時は珍妙なエキゾチシズムが妙にハマって爆発的に受けたということかと思いますが、珍奇さのフェーズが過ぎたらそんなに興味を惹かれなくなってしまったということでしょうか。中で唯一見つけたのが Sverdlovsk Musical Comedy Theatre (Ekaterinburg, Russia) のロシア語公演。耳で聞き取れるほどロシア語には堪能ではないですが結構オリジナルに忠実な舞台です。ミカドやカティシャ役の低声の魅力がなかなか。ナンキ・プーとヤム・ヤム役のビジュアルも良いですし、衣装など視覚的に面白い要素も多く(全体がジャパニーズアニメーションのよう)、この作品にハマった人には一見の価値があります。

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@ 藤井宏行
最終更新:2025年09月05日 07:20