教養主義の束縛を受けないクラシック音楽のエンターテイメントが成立していた大正~昭和初期の浅草オペラの時代に実はG&S作品はオッフェンバックの諸作品と並んでいくつか取り上げられていて、「HMS.ピナフォー(女王陛下の軍艦エプロン号)」や「ペンザンスの海賊」など彼らの初期の傑作は日本語で上演があったようですが、この「ミカド」は題材が題材だけにこの時代に取り上げることはできず、日本での上演は戦後からとなります。とはいえ1948年から1984年にかけては長門美保歌劇団がけっこうな頻度で日本語上演を行っていて、知る人ぞ知る人気演目になっていたようではありました。その後も舞台となっている「ティティプー」の語源であると言われている秩父で何回か上演されていたり、あるいは2017年のびわ湖ホール・新国立劇場での公演など細々とは紹介されてはいるものの、いまひとつメジャーにはなり切れていない印象です。まあ私もまだこの作品の日本語翻訳上演は生では見たことがないので、本当に魅力的なプロダクションが今まで日本で作られたかどうかというところは何とも判断できないところがあります。野上彰の天才的な日本語歌詞のおかげで生き延びた「メリー・ウィドウ」のように歌の魅力を最大限に引き出す力も要りますし、このコメディでは歌ばかりでなく対話の部分もきっちりと盛り上げなければならない。しかもこの上質のブリティッシュ・コメディの元祖のようなG&Sの世界観は、それをしっかりと理解した演者によってしか具現化できないのだろうなとも感じます。1970年代日本で大人気を博した伝説的なイギリスのTVコメディ番組「モンティ・パイソン(私はかなりこのG&Sの影響下にあるように思えていて The Lumberjack Song などもろにG&Sの世界観のように聞こえます)」が、日本語吹き替えの名優たち(山田康雄・納谷悟朗・広川太一郎・飯塚昭三・青野武ら)による見事な声の演技によって日本でのTV放映が成り立っていたように、音楽や台本だけでなくてパフォーマーの力も決して無視できないというところもあるのでしょう。
1992年にはBuxton Opera Houseでサリヴァン生誕150年を記念した公演がありました。その十年前に解散してしまったドイリーカートカンパニーのミカドのオマージュとして、ドイリーカートでの伝統的な演出をベースに、様々な工夫を織り込んだ結構斬新な公演です。試みのいくつかは残念ながらスベッてしまったようですが、けっこう物語に隠された伏線への新たな気付きなどもあってこの新演出なかなか興味深いところ。いくつかの小ネタは実に巧いです。歌手たちの水準も高く歌も演技も素晴らしい。これはぜひご覧頂くと良いのではと思いました。特にココ役の Fenton Gray はお見事。コメディアンが本業でもここまで凄い演技はそうはできまいと思いました。
英国本土から離れて他の英語圏へ 特筆すべき公演が多いのはオーストラリアでした。1975年のアデレード公演、基本はドイリーカートのオーセンティックな舞台と演出ながら、より衣装とか所作とかを日本っぽさを強調していますものの、それが絶妙にポイントを外して可笑しみが増している上に、演者たちのテンションが異常に高いのが独特の魅力を醸し出している公演。ココ役の Dennis Olsen という人が本職のコメディアンかと思うくらいサービス精神旺盛に色々仕掛けてくれていますし、他の演者も強烈な人ばかり。「ミカド」の演出としてはひとつの極北ではないかと思います。ある意味必見です。
アメリカ合衆国はかなりたくさんのプロダクションが見られますが、特にここで言及すべきは2019年のニューヨーク、ブロンクスのオペラカンパニーのプロダクション、色々な人種が混在して住んでいるため、PC(Political Correctness)に敏感なこの国では、オール白人のキャストが顔を黄色く塗って珍妙な東洋人の演技をすることが今や強く忌避されることが増えていますので、思い切って舞台をジャパンではない現代のどこか別の国と読み替えるばかりでなく、台本にあるジャパンに関連する言葉をことごとく置き換えて舞台設定を完全に変えてしまっているのです。冒頭に出て来るジャパンの貴人たちはテティプーに駐在するニューヨークタイムスの特派員たちに(いろんな人種・年齢のダイバーシティを保持)、ピシュ・タシュはその現地エージェントの記者でしょうか。ヤム・ヤムたちを先導してくる女学生たちも(歌の英語が聞き取れなかったので姿からの創造ですが)現地の女性記者たちといった風情。いや「最高執行卿」とここでも呼ばれているココでさえ出で立ちはマスメディアのエグゼクティブ。彼らの言葉の権力で人はいくらでも処刑できる となれば現代に生まれ変わった見事なギルバート流の皮肉ですね。ココの「処刑リスト」の歌でも歌の最中に後ろのスクリーンに出て来るのはアメリカ政界のお歴々。2019年と言えばあの壮絶な大統領選挙のあった前年ではありますね。ミカドはここではロシア語訛りの英語を喋る何やらかの国のリーダーを思わせる恰幅の良い初老の男性。搭乗前の「ミヤサマ」もメロディはそのままですがスクリーンにはツィッターの小鳥が飛んでITを駆使した記者会見の雰囲気です。彼がI'm emperor of XXで何と歌っているのかは残念ながら聞き取れず。また彼の歌う「刑罰をその罪にフィットさせよう」という歌も背後のスクリーンに何やらアメリカの時事問題を示すような画像が多数現れましたが私にはよく分かりませんでした。この作品が内包していた有色人種の差別問題はうまいこと解決できましたが、あんまり直近の世相の揶揄や批判を前面に押し出し過ぎると陳腐化も速いのではという危惧も感じてしまうのでした。ジャパンの代わりにロシアを揶揄していては結局また世界情勢が変われば台本の書き換えが必要となる、この傑作を未来に残すアプローチとしてはやはりシドニーのオペラハウスのプロダクションのように「どこにもない国」の描写を徹底するしかないかな ということを思ってしまいました。
YouTubeで全容は見ることができないのですが、1966年にはコメディアンのグルーチョ・マルクスがココを演じた映画がアメリカで撮影されています。この映画でプー・バ役を演じたのがスタンリー・ホロウェイ。あの「マイ・フェア・レディ」でイライザの飲んだくれの父親アルフレード・ドゥーリトルを演じた人ですね。これもいつかは見てみたいものです。ブロードウェイでは1938年 シカゴのオール黒人の劇団が swing mikado という作品をswingスタイルで(舞台もジャパンからトロピカルアイランドに変更している)。1939年にも同じようなコンセプトでThe hot Mikadoがオールアフロアメリカンキャストでよりジャズ色を強く出した舞台が上演されているようです。こちらはWikiによれば1939年の舞台画像が見られるようです(サイレントで音が出ないのが残念)。このプロダクションはHot Mikadoとして1986にワシントン・DCでリバイバルされ、いくつかの映像がYouTubeで見られました。全然別物の音楽世界が繰り広げられていますがこれはこれで面白い。同じようなコンセプトがイギリスでは1975年に Black Mikado として上演の記録があります。またWeb上ではほとんど情報が得られなかったのですが、1985年ロンドンのQueen Elizabeth Hallで、2019ブロンクスのような同時代に舞台を置き換えた MetroPolitan Mikado or The Town Of Mitsubishi が上演されています(猪瀬直樹さんの大著「ミカドの肖像」で触れられていたことで知りました。Website Louise Gold によれば、当時実在の人物をモデルとした役作りが行われたのだそうで、鉄の女マーガレット・サッチャーはカティシャ、労働党党首だったニール・キノックがプー・バ、当時サッチャーと対立していたロンドンカウンシルの議長であったケン・リビングストンがプライム・ミカドにそれぞれなぞらえられています。)これも今となっては1980年代の時代制約を越えられず陳腐化して忘れ去られてしまったというところでしょうか。