"ヴァルキューレ"

目次

物語に暗い影を落とすフリッカ ~ ヴォータンとの関係と彼女の復讐

  • このオペラについて語るなら、まずフリッカについて述べなければならない。彼女の出番は《ラインの黄金》に比べて格段に少なく、二幕の一場面に登場するのみで、名前が出てくるのもわずか数回である。しかし、それでいてこの劇全体を動かす強力な鍵を持った人物なのだ。あるいは、フリッカは《指環》全体で真の悪役としての地位も持っているかもしれない。
  • 一見フリッカは裏切られた妻であり、哀れな境遇にいるように感じる。二幕で彼女がヒステリックにわめきたてる内容も嘘ではない。ジークムントとジークリンデが近親相姦であるのは事実だし、ジークリンデが夫ある身だというのも確かだ。しかし彼女は口では<結婚の神聖>とか<世界の秩序を守るため>と言いながら、実際のところ夫への復讐しか念頭にない。フリッカは結婚の女神としての立場をかさに着てヴォータンをやり込めるのだが、台本を読むかぎり、ほんとうは近親相姦でも不倫でもどうでもいいのではないかと思えてくる。
  • ヴォータンとフリッカの夫婦は《ラインの黄金》の時から登場するが、その時点で二人の仲はすでに冷え切っていた。ヴォータンは知の女神エールダとの間にブリュンヒルデが、人間の女性との間にジークムントとジークリンデの双子、またほかの八人のヴァルキューレも誰か別の女性との間に生まれているようだが、正妻フリッカとは一人も子どもをつくっていない。これはヴァーグナーの思いつきであるようだ。ちょっと話が逸れるが、原作となる北欧神話ではフリッカとヴォータンとの間にはバルドルという息子が生まれている。バルドルはヴァーグナーのオペラには登場せず、そのエピソード(悪者に急所を突かれ、死んでしまう)のみが《神々の黄昏》のモデルになっているが、ここでは深入りしないでおく。大事なのは、ヴァーグナーがあえて真の夫婦であるヴォータンとフリッカの間に子どもをつくらせなかったということだ。ヴォータンの子どもがたくさん登場しながら、フリッカの子が一人もいない状況を描くことで、二人の不仲を強調しているのである。
  • 二人の仲が悪いのはヴォータンせいばかりではなく、むしろフリッカのあさましい性格に原因があるだろう。《ラインの黄金》の状況を見れば、彼女はなかなか強欲だ。ヴァルハル城を欲しがったのはもともとフリッカであるから、前作でのあの騒動も結局は彼女の責任であるし、黄金の話を聞くと、またもや所有欲を発揮させたりもしている。また、オペラを観るうえで常に目につくのは、彼女がいつも小言ばかり言っている点だ。はっきり言ってフリッカは嫉妬深く、文句屋で、夫を尻に敷く<ガミガミ女>なのだ。これではどんなに愛情深い夫でも我慢できるはずがない。
  • それでも《ラインの黄金》ではまだフリッカの性格も大目に見ることができるのだが、《ヴァルキューレ》では悪魔に魂を売ったかのような冷酷さで登場する。夫の不倫相手の子どもを憎らしく思うのは仕方がないとしても、無理やり息子を殺させるのはあんまりである。ヴォータンはフリッカを疎ましく思いながらも、その恐ろしさをある程度は分かっていたのだろう。フリッカの歌にはこんな一節がある。

でもあなたはまだ少しは妻を恐れていますわ、
あのヴァルキューレの子たちに
希望の子ブリュンヒルデにすら、
わたくしに従うよう命令しているのが何よりの証拠。

  • ヴォータンは子どもたちが妻に尽くしているかぎりは、ひどいことをされずに済むと信じていたようだ。たぶんフリッカはいつか徹底的に復讐しようと構えていたに違いない。昼も夜もヴォータンをつけまわしている、と言うフリッカは現代のストーカーをも連想させる恐ろしさだ。彼女はフンディングを憐れんだわけでも、ヴェルズングの兄妹の違法行為(?)を本気で怒ったわけでもない。これらの事実は、単にそれまで決して得られなかった復讐の理由づけ、正当化に利用しただけだ。ヴォータンが最も愛する息子を殺させ、夫が悲嘆にくれるのを見て、溜飲を下げること。これがこの物語での彼女の目的である。そして卑怯極まりない方法でフリッカはそれを果たしたのだ。
  • どうして私がこんな解釈をしているかというと、フリッカの要求そのものも犯罪と思えるからだ。仮に双子の恋愛や不倫の訴えのすべてを妥当と見なすとしても、彼女のとった処置もまた公平ではない。決闘は争いごととはいえ、ある程度の公平さは保たれるべきなのに、彼女は無理やりジークムントの剣を取りあげさせた。フリッカがほんとうに正義を重んじるのなら、もっと別の方法を提案したはずである。ノートゥングには必勝の力があり、ごく普通の槍を使うフンディングに対して不平等だと考えるなら、フンディングにも力のある武器を与えるか、ジークムントにごくふつうの剣を渡して戦わせればよかっただけのことだ。不倫や近親相姦の罪に関しては双子を召喚し、裁判という手を打つこともできただろう。
  • 間違いなく、このオペラはフリッカの復讐という暗い想念をバックに描かれているのだ。

ヴォータンの悲痛 ~ 大切な子どもたちを失う父親の思い

  • ではヴォータンはなぜ妻に刃向かうことができなかったのだろうか? 彼は契約と戦いの神で、現代風に言うならグループのリーダーである。しかし、《ラインの黄金》でも《ヴァルキューレ》でも妻にはまったく頭が上がらないようだ。彼は大嫌いなフリッカから逃げ回ることはしても、捕まってしまうとまったく言い返すことができなくなる人物(?)らしい。特に《ヴァルキューレ》では戦の神らしからぬ気弱な面も見せている。第二幕のモノローグで語っているように、ヴォータンはかつて《ラインの黄金》で奪った指環とその呪いのことを気にしており、世界が呪いで狂ってしまう前にジークムントの力を借りて指環をラインに返すつもりでいた。しかし、この計画はフリッカの復讐心のためにあら捜しをされ、無に帰してしまう。
  • ところで、いくらフリッカに急所を突かれたとはいえ、あっさりと ー もちろん身を切られるような苦しみを味わってはいるが - 息子を殺すことに同意してしまうのはちょっと変に思う人もいるかもしれない。ここでは台本の行間から読み取れるものを探りながら、その理由を考えてみたい。-先の項でもちょっと述べたが、ヴォータンははっきりと妻の恐ろしさを知っていただろう。仮にフンディングとの戦いでジークムントを勝たせることができたとしても、彼女の復讐が終わらないことは予想がついたはずだ。ジークムントがフリッカに咎められるじゅうぶんな理由をつくってしまった以上、どこまでも命を狙われ、あるいは虐待を受ける可能性があった。もともと剣以外はまったく何の引きたてもせずに育てたのだから - しかも指環を乙女に返すためにはそれは絶対に必要なことだった ー フリッカから付け狙われるたびにとんでいって助けるわけにもいかない。つまり、永遠にジークムントを守ることができないことが彼には分かっていたのだ。気の毒にもヴォータンは実にめずらしい、悲劇的な状況に追い込まれてしまったのだ。
  • これと同じことはブリュンヒルデを絶縁したことにも言える。彼女を追放したのは、ブリュンヒルデが命令に背いたからではない。彼女がフリッカの意志に反する行いをし、ジークムントを守ったためだ。ヴォータンは妻が娘にまで何かするのではないかと恐れたにちがいない。彼は一度ブリュンヒルデを<軽率>と呼ぶが、これは彼女が自分の行いがどんな結果を及ぼすか考えていなかったことに対する非難である。

おまえを罰するのは私ではない。
罰はおまえ自身が作り出してしまったのだ。

  • これはヴォータンがブリュンヒルデに罰を言い渡す時に言った言葉だが、これは追放という処置を彼自身が適当な罰として下したわけではないことをよく裏づけている。何と、ブリュンヒルデの運命までがフリッカに左右されているのだ!
  • 真の意味ではブリュンヒルデの受けた処置は罰ではなく、父親が与えた保護である。ヴォータンはブリュンヒルデを絶縁することで自分に関係ない者とし、フリッカが彼女に復讐するのを防いだのである。彼女が誇り高き神々の一族を去り、ごく普通の家庭に人間の女として暮らしているのを見れば、フリッカがいじめる気遣いはない。しかし、もしヴァルハルに残っていれば、ヴォータンが思いも及ばないような虐待を加えるかもしれないのだ。
  • 結局、全能の神であるはずのヴォータンは腹黒いフリッカのせいで、たった一日のうちに最愛の息子と最愛の娘の両方を失う羽目になったのである。現実に置き換えて考えると、背筋が凍るような残酷さだ。音楽はこの悲劇がアルベリヒの呪いと関係していることを教えてくれる。ヴォータンは権力に目が眩んでアルベリヒから無理やり指環を奪ったが、その呪いを受けて、自分が死ぬのではなく、愛する者と別れて悲嘆に暮れるという最悪の事態に陥ったのだ。

崇高な愛情を見せるジークムントとジークリンデ ~ 魂の結びつきがこの世の関係にもたらした悲劇

  • ジークムントとジークリンデは《指環》四作の中で最も強い愛情を感じさせるカップルだ。双子の恋愛なので、本来ちょっと奇異に感じるはずのものなのだが、実際には異常な雰囲気はまったくなく、健全に思えるから不思議だ。近親婚では必ずと言って奇形が生まれるというが、二人の子どもであるジークフリートは次作で分かるようにたくましく立派に育っているので、めずらしい。この事実や本作で描かれる二人の愛情を見ていると、彼らは本来夫婦になるべき間柄であり、あまりにも強すぎる愛情が二人を双子として生まれさせたのではないかと考えてしまう。否定する者がいるかどうかは別として、私たちは必ずこの世に生まれてくる前にどのような家族関係になるかだいたい約束するそうだ。必ずあの世で決めたとおりの関係になれるとばかりは限らないのだが、まさにジークムントとジークリンデの場合は<決めていない家族関係>になってしまったのではないか。
  • 二人は出会ってすぐ惹かれ合い、そのあとはどうしても互いに離れようとしない。ジークムントはヴァルハルに行っても(ほんとうに彼がヴァルハルに行ったとは考えにくいし、フリッカのことを考えれば行く予定になっていたとも考えにくい。彼をヴァルハルに連れて行こうとしたのはブリュンヒルデのせめてもの心遣いであったのかもしれない。)ジークリンデといっしょになれないとわかると、あわや心中を図りそうになる。一方ジークリンデもジークムントが亡くなると、強く死を望み、子どものことを思ってやっと踏みとどまる。しかし次作で分かるが、彼女はジークフリートを産み落とすとそのままジークムントの待つあの世へと去ってしまう。二人は途中生き別れていたが、その間はどちらも不幸のどん底で過ごしている。彼らにとっては互いになくてはならないものであり、片時も離れたくないほど愛し合っている。あの世から生まれてくる時もわずかでも離れることに耐えられず、この世の結婚に差しさわりがあることも忘れて、同時に生を享けてしまったのではないだろうか?-ジークムントはヴァーグナーの描くヒーローたちの中でも最も誠実で、深刻な部類に属する。ジークムントと肩を並べられるのはトリスタンくらいだろうか。トリスタンが疑うことを知らない無邪気な青年だったのに対し、ジークムントは常に敵に囲まれていたせいで他人を信じることができない。トリスタンは素直で嘘をつけない性質だが、ジークムントはかなり意固地な面があり、身を守るために嘘の名を名乗ったりもする(第一幕)。何より決定的な違いは、トリスタンがちょっと甘えん坊であるのに対してジークムントはすべてが敵という状況を生きてきただけあって、非常に頼もしい。しかし愛に一途で、そのためなら生命を捨てることも厭わないという点で二人はまさにそっくりなのだ。彼らは二人とも個人の幸せを大事にし、信念を決して曲げないタイプだ。

おまえは若くてきれいな格好でやってきたが、
冷たくていじわるな女だ!
ばかにするしかできないなら、とっとと出て行け!

  • これは二幕でジークムントがブリュンヒルデに向かって浴びせる言葉だが、かなり気性が激しい性質であることを感じさせる。ジークムントはかっとなると暴言を吐いてしまう一面があるのかもしれない。しかしこれもまた彼の魅力であり、その強い信念ゆえにブリュンヒルデを感動させる。ジークムントは権力に何の関心もない、愛情だけを尊ぶ人物で、欲にまみれた男が多く登場する《指環》の中でも貴重な存在だ。彼がジークリンデと別れることを拒み、剣を振り上げる場面はまれに見る愛情と悲劇性でブリュンヒルデでなくても心を打たれる。
  • 一方、ジークリンデもジークムントにそっくり(何も双子のせいではないと思うが・・・)だが、彼ほど猜疑心は強くないようだ。控えめだが意志は強く、必要な時は果敢な行動に出ることもある。彼女は純潔を重んじる女性でもあり、過去にフンディングから無理やりレイプされてそのまま結婚したことをひどく恥じている。第二幕ではほとんど狂乱に近い状態で過去のことばかり悔やみ、ジークムントにふさわしくないのではないかと悩んでいる。やはりジークリンデも生涯の間、一度も世界支配の指環について知ることはなく、愛だけを見つめて命を終えた。物語とは関係ないが、ジークリンデは《ヴァルキューレ》の登場人物中、唯一全幕に出てくる人でもある。ジークムントとフンディングは第二幕で退場し、他の人物はだいたい二幕以降からしか姿を現さないからだ。
  • 彼らは純真な愛に生きたにもかかわらず、父親の過ちのために知らぬうちに呪いに巻き込まれ、悲劇を味わう。しかし、《指環》の登場人物で最も尊敬に値する二人だ。

ブリュンヒルデの憧れ ~ 陽気なヴァルキューレが描く理想の夫の姿

  • さて、このオペラのタイトルになっている主人公ブリュンヒルデだ。彼女の心理の変化、多彩な性格などについてはしばしば取り上げられ、この難役ぶりを取り上げる文章は多い。そこで、今回は次作《ジークフリート》にもつながる伏線として、陽気なヴァルキューレとして育った彼女が夫に求めるものを考えてみたい。
  • そもそも彼女はなかなか誇り高く、戦場で活躍するのを良しとして、結婚など考えていなかったようである。いや、これはもしかしたらヴァルキューレ全員がそうなのかもしれない。しかしジークムントのジークリンデへの愛に触れると、かなり考えが変わったようだ。

彼のために尽くすことしかできないと感じ、
勝利であろうと死であろうと分かち合いたいと、
これこそが自分の使命と確信したの!

  • ブリュンヒルデは三幕でこう言ってヴォータンに自分の気持ちを訴える。彼女がジークムントの愛情を見て憧れを抱いたことがよくわかるせりふだ。ヴォータンに自分の夫の条件を必死で訴えている場面を見ると、ブリュンヒルデは臆病者が一番嫌いなようだ。彼女はジークフリートを夫にしてほしいことをほのめかすが、これは彼がヴェルズング族だからという以外の意味もあるように思う。つまり勇敢であるだけでなく、ジークムントにそっくりであることを期待しているのではないか。ブリュンヒルデが眠りにつく時に夢見たものは、ジークムントのように雄々しく、細やかで強い愛情で包み込んでくれる男性だっただろう。さて、ジークフリートはその願いを叶えることはできたのか・・・。それはまたいずれ分かるだろう。

善なのか、悪なのか ~ 宿敵フンディングや臆病なヴァルキューレたち

  • フンディングについては「悪だ」という意見と「敵役ではあってもちゃんとした人間だ」という見解がある。どちらなのかは演出家の解釈によっても違うし、演じるバス歌手のイメージによっても変わってくるのだが、純粋に台本からのみ判断するなら私は間違いなく悪人だと思う。

ママ!ママ!私、怖いわ。
あの人たちは親切でもないし、危険そうよ!
真っ黒な煙…息が詰まりそう…
ああ、炎よ!こっちに来るわ!
家が焼けてる!兄さん、助けて!

  • ジークリンデが夢うつつに子ども時代のことを思い出している場面だが、いくら敵だからとはいえ、男たちが留守の間に女だけの家に火を放つとは卑怯である。しかもジークムントの回想によれば、母親を殴り殺し、あげくには少女だったジークリンデを連れ去って無理やり妻にしている。第一幕での態度を見てもジークリンデを大切にしているとは到底言えず、虐待とまではいかないにしても、かなり威圧的だ。ヴォータンも言っているとおり、とても神聖とは思えない結婚である。
  • この一族はどう見ても卑怯である。ジークムントが第一幕で語る<愛のない結婚を強いられた娘>も結局この一族だったようだが、彼女も自分で頼んでおいて、いざとなると騒ぎ立ててジークムントに感謝もしなかったらしい。この一件のためにジークムントは武器を失い、傷だらけになって幕が上がるわけだが、本来ジークムントが責められるいわれはないはずだ。放火の件といい、この娘の事件といい、他人をひどい目に遭わせてばかりの一族としか言いようがない。決闘を申し込むにしても、礼儀正しい紳士なら自分の武器を貸してやるはずであり、この点でもフンディングは明らかに悪質だ。
  • さて、フンディングは二幕の決闘で不正な勝利を収めるのだが、ヴォータンが「行け!」と言うと、なぜかばったりと倒れて死んでしまう。彼の死をヴォータンの責任にする向きもあるようだが、私はそうではないと思う。ヴォータンにはフンディングを殺すつもりなど毛頭なかったはずだ。ヴォータンはたしかに悪事を働く一面はあるが決して殺人者ではない。フンディングはさんざん悪事を働いたあげく、ついには不正の勝利を収め、善良な人々を深く傷つけた。ヴォータンは息子の死に打ちひしがれ、その声には無念が込められているが、ヴォータンのその感情をつくりだしたのはフリッカとフンディングである。「行け!」という言葉は(ヴォータンの無意識のうちに)フンディングの放った死の一撃をはね返すものであったと考えるほうが妥当だ。簡単に言えば、彼の死は誰の責任でもなく、自分の悪事の報いだったのだ。フンディングの死はあっけないが、彼が倒れる時に響く低音の強い一音はぞっとするほど不気味だ。
  • ところで、私はブリュンヒルデを除く八人のヴァルキューレたちも決して善人とは考えていない。フンディングと同じ項目に入れ込んだのはそのためだ。悪人とまではいかないかもしれないが、彼女たちは何よりもわが身大事の集団なのだ。ブリュンヒルデが馬を貸してくれと頼んでも、誰一人協力する者はなく、あげくの果てには「助けるつもりはない」と言い放つ。ヴォータンは、

めそめそ、うるさい!女々しい集団だ!
そんなやわに育てた覚えはないぞ。

  • と怒るが、実際ヴォータンが本気で怒っていたのはブリュンヒルデではなく、この八人だったのではないかとも考えられる。これにはじゅうぶんな裏づけがあって、彼女たちが出て行ってブリュンヒルデと二人になった時にはぶっきらぼうではあっても怒った口調ではないからだ。もう一つの証拠としては、ブリュンヒルデをすごい勢いで追ってきているわりにはジークリンデが無事に逃れていくまでは決して岩山にたどり着かない点を挙げられる。ヴォータンの乗っている馬はものすごくスピードを出せるらしいので、ほんとうならブリュンヒルデが岩山に着くよりずっと早く捕まえることだってできたはずなのだ。いくらオペラだからといっても、第三幕での彼の登場はあまりにもタイミングが良すぎる。
  • そもそもヴォータン一人ではフリッカに対抗できなくても、ヴァルキューレが全員で結束し、過去に連れてきた英雄たちの手を借りればジークムントの命は簡単に助けられ、ブリュンヒルデも人間界に追いやらずに済んだだろう。もちろんヴォータンは口が裂けてもヴァルキューレたちにそんなことを頼めないが、彼女たちが全員で自発的に行動すればフリッカも文句は言えない。しかし、彼女たちはヴォータンの心を理解せず、女々しくもヴェルズングとブリュンヒルデの両方を見捨てた。ヴォータンが歯がゆくなったとしても不思議はない。
  • ブリュンヒルデの罰を聞かされた時も、一度は彼女をかばおうとするが、ヴォータンが彼女たちを試すような発言をするとあっさりと逃げていってしまう。結局、ヴァルキューレたちは口ではたいそうなことを言っても、まったく中身のない集団なのだ。

映像と録音

DVD

"ヴァルキューレ"

  • ブーレーズ/バイロイト祝祭管弦楽団、シェロー演出
    1980年の収録。時代を19世紀に移したことで当初は物議をかもしたパトリス・シェローの演出だが、現在では屈指の名作として数えられている。彼の演出はかなりリアルに状況描写を行っている。たとえば冒頭で倒れ込むジークムントの疲労はジークリンデが介抱する細かいしぐさや、照明をジークムントの顔に当てて高熱を発しているように見せて描き出す。二幕で兄妹が逃げてくるシーンでは二人とも服が裂けてぼろぼろになり、茨の中を走ってきたことを暗示するし、フリッカは花嫁衣裳のような純白のドレスで登場し、色仕掛けで欲求を通そうとする。フンディングは常に無言の大勢の男たちを連れて行動するが、ジークムントが不正な方法で殺されると、この手下たちまでがショックを受けて主人であるはずのフンディングを置いて去っていく。ヴォータンが長いモノローグのはじめに眼帯を取り、フリッカのために犠牲にした片目を無念そうに鏡に映すシーンも印象的だ。ところどころ残酷すぎる描写もあるが、舞台背景もかなり豪華で、細かい部分にまで目が行き届いており、最近のわけのわからない読み替えとは一線を画している。
    歌手陣も豪華で息をのむほどだ。ペーター・ホフマンのジークムントは猜疑心の塊になり、すっかり心を閉ざしてしまった青年。台本から読み取れるよりもっと疑い深く、初めのうちはジークリンデに対してさえ、あからさまに探りを入れる。ブリュンヒルデが勝利を約束してもまったく信じず、戦いの場にブリュンヒルデが現れて初めて本気だったことに気づく。一方でジークリンデに対しては細やかで優しい愛情を示し、この役の感情豊かな性格を見事に描き出している。ジャニーヌ・アルトマイアのジークリンデも美しい。二人は輝かしいほど若々しく、まさに理想のジークムントとジークリンデだ。ドナルド・マッキンタイアのヴォータンは心理的なもろさを巧みに描き出して、激しく葛藤する愛情深い父親にぴったり。最後の告別のシーンでは気品ある優しい声と演技力を生かして感動的だ。グィネス・ジョーンズも兄妹と助けようと必死になるブリュンヒルデにふさわしい。彼女がジークムントの自殺を止めようとするシーンは迫力がある。悪役のハンナ・シュヴァルツとマッティ・サルミネンも適役だ。シュヴァルツのフリッカは少しも品格を失わないが、ヘビのように邪悪で、サルミネンは不気味でぞっとするような暴君。ヴァルキューレの一員としてガブリエーレ・シュナウトが出演しているが、彼女はのちにブリュンヒルデも歌ったそうなので、ファンにとってはこれも嬉しいかもしれない。同音源のCDもかつては出ていたが、演技派(もちろん歌唱も最高だが)の歌手たちとシェローの名演出を楽しめるDVDのほうが感動する。この作品の映像として第一にお勧めしたい貴重な記録だ。
"ヴァルキューレ"

  • バレンボイム/バイロイト祝祭管弦楽団、クプファー演出
    1992年の収録。クプファーは先のシェローとは異なり時代を限定せず、レーザー光線を要所要所に用いながら、未来と過去が手をつなぐような架空の時代で物語を繰り広げていく。クプファーの演出は無駄な道具類をいっさい排除したようなシンプルなもので、徹底的に人物の動きにだけ注目させる。フンディングが帰ってきた時に窓ガラスがすべて凍りつき、ジークリンデの恐怖を表現する心理描写は見事だ。フンディングの館はほぼ黒ずくめで邪悪さを強調し、ト書きでドアが大きく開くシーンでは館が姿を消し、愛し合う二人だけが広々とした遠くまで見渡せる空間に移動する。眠りに落ちたブリュンヒルデは炎で作られた立方体に封じ込められ、彼女が多次元の世界から三次元のこの世に住みかを移したことを視覚的に訴えるのも素晴らしい。クプファーのコンセプトではブリュンヒルデとヴォータンは暗黙の内にユートピアを築く計画を立て、ブリュンヒルデがそれをこの世で実行するために人間として生まれ変わることになっている。シェローに比べるとクプファーはこのオペラに追加要素を与えているが、少しも本質から離れることなく、とても面白い。また残酷な描写もまったくないので安心して観ていられる。先のシェロー版と合わせて、ぜひ観ていただきたい記録だ。
    兄妹を演じるのはポール・エルミングとナディーヌ・セクンデだが、エルミングはまったくのミスキャストで、ほとんどこの役をコメディ化してしまっている。冒頭で逃げ込んでくる時もまるで泥棒そっくりだし、最初からジークリンデに色目を使い、不幸をもたらすのを恐れていったん飛び出そうとする時も、引き留めてもらうのを期待しているのがはっきりと分かるありさま。二幕でブリュンヒルデと語り合っている時も表情が滑稽すぎて、吹き出さずにはいられない。しかし声はホフマンよりも安定しているので、単純に音のみで聞くだけなら(表現力は期待できないが)聴きやすい。セクンデはちょっと声を振り絞るような歌い方だが、迫真の演技を見せてくれる。しかし、この盤での魅力はジョン・トムリンソン演じるヴォータンだ。ふつうのヴォータンよりも十歳以上は若く、一般的なイメージとはまったく違う。朗々とした声を響かせながら舞台を駆けまわり、文字通りジャンプする。どんなに怒っても台本にあるような恐ろしさは感じないが、彼の歌いだす悲哀や喜びは間違いなく本物だ。この若々しく前向きなヴォータン像はトムリンソン自ら作り上げたのだそうだ。一般的なヴォータンしか受け入れない向きは気になるかもしれないが、私は最高のヴォータンだと評価したい。第二幕最後の「行け!」は悲痛の叫びとして大声で叫んでいるのも印象的だ。アン・エヴァンズはあまり知られていないソプラノだが、完璧に近いブリュンヒルデを演じている。彼女の歌で特筆すべきは発声の美しさだ。多くのヴァーグナー・ソプラノは声量で押しまくり、時として聞きづらいことさえあるのだが、エヴァンズにはそうしたことがまったくない。澄んだきれいな声で、力強く優しいブリュンヒルデを演じている。演技の上でも細やかな表情の変化が素晴らしく、ブリュンヒルデ歌手としてあまり取り上げられないのがふしぎなほどだ。少し光沢のある生地で作られたブルーのトレンチコートを羽織り、透明の槍と楯(このクプファー版では、すべて武器は透明でできている)を手に、長い髪を垂らしたエヴァンズは誰よりも人間味にあふれたヴァルキューレだ。マティアス・ヘレのフンディングはやたらと乱暴な行動をとるばかりで迫力に欠けるが、リンダ・フィニー演じるフリッカはまさに悪魔。黒ずくめの衣装と紫のアイシャドウという格好のせいもあるが、耳だけで聞いても邪悪さがにじみ出ている。ここでもヴァルキューレの一員に目を引く歌手がいて、エヴァ・ヨハンソンがゲルヒルデを歌っている。シェロー版と同じくCDもあり、こちらは耳だけで聴くものとしてもおすすめだ。

CD

"ヴァルキューレ"

  • ヤノフスキ/ドレスデン・シュターツカペレ
    非常に特徴ある演奏というわけにはいかないが、ジークフリート・イェルザレムが歌うジークムントが聴ける唯一のCDとしては貴重だ。ただし私自身は、彼の声はジークフリート向きだと思う。彼のジークムントは表現力には何の文句もつけられないが、雰囲気そのものがどうしても収まり悪いのだ。イェルザレムの声は深みがあり、明るさと輝かしさが特徴だが、この資質がジークムントと相いれないのだろう。シェロー版でジークリンデを演じたジャニーヌ・アルトマイアがここではブリュンヒルデにまわっているが、彼女もこの役にはあまり似合わないようだ。テオ・アダムはヴォータン役として定評あるのだが、声が冷たく、マッキンタイアの温かみのある役作りやトムリンソンの堂々たる懐の広い歌唱に慣れている私には受け入れがたい。ジェシー・ノーマンはジークリンデとしてはあまりに若々しさに欠けるのではないだろうか。クルト・モルはしばしばフンディングにキャスティングされるが、あまりに優しすぎてイメージ違いだ。もっともフンディングを善人と解釈するのなら彼はぴったりかもしれないが。というわけで、紹介したわりにあまり肯定的でない評価になってしまったが、注目に値する名盤であることは間違いない。
"ヴァルキューレ"

  • ハイティンク/バイエルン交響楽団
    この指揮者の演奏は澄んだ美しい響きが特徴だ。ここでジークムントを歌うライナー・ゴルトベルクはしわがれたような、ちょっと変わった声だが、中音域に独特の魅力がある歌手だ。すばらしいと絶賛することはできないが、かといってどうしようもなく似合わないというほどでもない、ということで標準的なジークムントだろうか。シェリル・ステューダーがジークリンデを歌っていて、こちらも迫力はないが、安心して聴いていられるレベル。ヴォータンはジェームズ・モリスで、深みには欠けるものの優しい父親の雰囲気は出ているだろう。マッティ・サルミネンのフンディングは声だけでも恐ろしい。エヴァ・マルトンのブリュンヒルデが若々しくなく、威圧的にすら感じるので、あまり好みではない(演技力のある歌手なので映像ならきっと素晴らしいだろう)が、全体としてはごく普通の水準には達している演奏だろう。
  • 以上、セッション録音から気に入ったCDを挙げたが、やはり最高の音源はと聞かれたら、映像の項で紹介した二つの同一音源版をお勧めしたい。歌手のレベルが圧倒的に違うし、特にバレンボイム指揮の演奏は極端な悲鳴も少なく、聴きやすい声の人が多いので、初めてこのオペラを聴く方もじっくりと楽しめるだろう。

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© Maria Fujioka
最終更新:2019年12月14日 08:13