訳者より

  • まあとにかく作品を聴いてみて下さい。以下説明が長くなって恐縮です。
  • ラフマニノフがスラヴ正教会音楽に着想して作曲した無伴奏混声合唱曲作品37(1915年作曲)です。ラフマニノフはこの作品を、モスクワ音楽院の教会音楽の先生スモレンスキーの思い出に捧げました。
  • 次に、各地の正教会HP等やCDの解説資料などから集めた各曲の様式・歌詞の引用元データを列挙します。この作品は序曲1.に続いて晩課の曲 (No. 2-6) と 早課の曲 (No. 7-15) からなる 2 部構成です。

    1. 序曲オリジナル曲、開会の祈り
    2. ギリシア・チャント(古い4調のメロディ、八調の原則、ビザンチン・チャントとは無関係)スラヴ正教会聖歌第103聖詠(詩篇104)アルト独唱者。
    3. オリジナル曲(第一カフィズマ(坐誦経)(聖詠1))(詩篇1)
    4. キエフ・チャント(ズナメニ・チャントの派生、八調)、(晩課中、神品が王門を通って至聖所に入る「聖入」の時に歌われる歌)イエルサリムの総主教ソフロニイによる聖歌「穏やかなる光(聖ソフロニイの祝文)」テノール独唱者。
    5. キエフ・チャント、(聖抱神者シメオンの祝文)ルカの聖福音(1ルカの福音書2シメオンの歌)テノール独唱者。この曲はラフマニノフが自身の葬儀で演奏して欲しいと希望を述べていたそうです。
    6. オリジナル曲ルカの聖福音(ルカの福音書1)
    7. ズナメニ・チャント(12世紀から続く最古の、最も完全なチャント、正典(カノン)的聖歌、八調。東方教会の「ビザンティン聖歌」から発し、ロシア正教会の奉神礼で歌われ、16世紀のモスクワで頂点に達している。)、朝の礼拝時に読む六つの聖詠(六段の聖詠:6つの詩篇)ルカの聖福音、聖詠50(ルカの福音書2-14、)
    8. ズナメニ・チャント、早課、ポリエレイ(多油祭)。聖詠134、135(詩篇134、135)
    9. ズナメニ・チャント、復活のトロパリ(讃詞、正教会の祝祭や聖人を称える祈りの詩と賛美歌)トーン5 汚れなき御方による。テノール独唱者。
    10. オリジナル曲、日曜晩課中のキリスト教徒の祈り
    11. オリジナル曲 聖母の歌 (参照: ルカ 1、46-55) 朝の祈りの終わり
    12. ズナメニ・チャント、偉大なるカノン(大詠頌)
    13. ズナメニ・チャント、(定規のトロパリ(正教会の祝祭や聖人を称える祈りの詩と賛美歌)、奇数調)
    14. ズナメニ・チャント、(定規のトロパリ(正教会の祝祭や聖人を称える祈りの詩と賛美歌)(偶数調)
    15. ギリシア・チャント 神の母へのコンタキオン(正教会と東方典礼カトリックの典礼の伝統で行われる賛美歌の一形態)解説「これは、626年8月7日に蛮族アヴァール人とササン朝ペルシア人の侵略からコンスタンティノープルを救ってくれたことに対する生神女への感謝の歌として書かれたものです。コンタキオンでは、神の母は「選ばれた司令官」、つまり戦い(戦争)で誰よりも優れた軍事指導者として歌われています。そのような表現は、神の母の執り成しのおかげで、コンスタンティノープルの住民が外国人との戦いで勝利しただけでなく、戦いなしで勝った可能性のある戦いを取り除いたという事実と関連しています。」
      https://azbyka.ru/molitvoslov/akafist-presvyatoj-bogorodice-s-kommentariyami.html#_ftnaref2などから翻訳引用。

  • 各曲データにある(第103聖詠(ローマ・カトリック詩篇104)) などの例で、聖書原典の巻数がずれる理由は、スラヴ正教会の聖書はBC3~AD1ごろアレクサンドリアで作られた七十人訳聖書(ギリシア語)を参照しているためのようです。ローマ・カトリックなど他の宗派が原典としているマソラ本文(ヘブライ語)より内容が少し多いそうです。
  • この作品は普通コンサートホールで演奏され、スラヴ正教会の奉神礼で使用されることはありません。聖堂で行われる正式の奉神礼では、司祭か輔祭と合唱隊(と会衆)の応答または合唱隊の歌が定められた形で進行していき、もっと複雑長大で、音楽は礼拝と一体です。
  • 徹夜祷(てつやとう)とは、スラヴ系正教会の奉神礼のうち、大晩課と早課と一時課を組み合わせた形式を持つ公祈祷で、主日(日曜日)の前晩(土曜日の晩)、祭日の前晩に行われる(教会暦は日没から一日を数えるため)祈祷です。スラヴ系正教会奉神礼の音楽要素が最も多彩なのは晩課と早課だそうです。
  • ラフマニノフは徹夜祷で使用される聖歌の歌詞の一部に作曲しました。歌詞は教会スラヴ語です。

教会スラヴ語

  • 教会スラヴ語(きょうかいスラヴご)とは、ギリシア正教が広まった地域で、古代教会スラヴ語が東・南スラヴ語世界に広がった後、各地の口語を反映して成立した文章語の総称で、現在でも各地のスラヴ正教会の奉神礼(典礼)で使われている言葉であり、同地域の古語でもあります。(その地域は現在のブルガリア、ポーランド、チェコ、スロバキア、ロシア、ベラルーシ、セルビア、モンテネグロ、ボスニアヘルツェゴビナ、北マケドニア、ウクライナ、スロベニア、クロアチアなど)
  • 聖歌の名称の大半はギリシア語起源です。

なぜギリシア語起源か

  • 古代におけるギリシア語のアテネ-イオニア方言(ヘロドトスが使った)→コイネー(共通の意味)→アレクサンダー大王によってオリエントに広がり公用語に→395年ローマ帝国の東西分裂西ローマ帝国公用語ラテン語東ローマ帝国公用語コイネーから出た中世ギリシア語→862~863年頃 モラヴィア王の要請により東ローマ皇帝がキリルとメフォディ兄弟を布教に派遣、文字を持たなかったスラヴ語の表記のためギリシア文字ヘブライ文字他を参考にグラゴール文字を開発し、ギリシア語の聖書を古代教会スラヴ語(古語文語)に翻訳・宣教。文字(グラゴル文字)と文語(古代教会スラヴ語)。→900年頃 キリルとメフォディらの弟子たち(オフリドのクリメントら)により、グラゴル文字からキリル文字開発、キリスト教文献を更に翻訳・宣教。キリル文字はスラヴ語・正教会圏に広まっていく。文字(キリル文字)、文語(教会スラヴ語)→現在でもスラヴ正教会の儀式用の言葉・文献に使用されている。
  • 教会スラヴ語で歌う際には、現代ロシア語のようにакатьせず、歌詞は書いてある通りに読みます。
  • 最近は各地の正教会がYouTubeで奉神礼をLIVE配信しているので、興味がある方は探して視聴してみてください。日本人にとって大変異国的で素晴らしい音楽を聴くことが出来ます。またラフマニノフの作品とどう違うかもお分かりいただけると思います。日本の各地のハリストス正教会ももちろん見学させてくれます。日本ハリストス正教会はスラヴ系の伝統を承継しており、徹夜祷を行っています(日本語です)。

翻訳に当たって

  • 翻訳に当たっては語順も含めてなるべく原文の通りに訳しました。天使名、人名、地名の読みは、ギリシア語原典から教会スラヴ語に転記したものを邦訳するため、日本で一般的に知られているローマ・カトリック、プロテスタントの訳語ではなく、日本の正教会の訳語を使用するようにしました。しかし、訳者自身は信徒ではないため、キリスト教原典の神学解釈として正しい邦訳は、下記の国会図書館リンクの資料をご参照ください。日本国内の正教会で実際の礼拝に使われる邦訳歌詞は、原典の解釈を間違えないよう先人が推敲して定めたものが厳格に守られるそうです(布教の過程で各国正教会の祈祷の言語としてその国の国語の古語が用いられることが多いそうです)。
  • また、奉神礼の日程・進行ティピコン(奉事例)については次のリンクをご参照ください。
  • ラフマニノフの宗教音楽作品は作品37の前に作品31聖金口イオアン聖体礼儀(1910年作曲)があります。他に有名な世俗作曲家の正教音楽作品では、チャイコフスキーの作品41聖金口イオアン聖体礼儀や、リムスキー・コルサコフ、ストラヴィンスキー、もともと教会音楽専門の作曲家だったものの国家体制が変わったが故に世俗の作曲家とならざるを得なかったチェスノコフらの作品などたくさんあるようです。社会主義体制下ではほぼ演奏されず、ソ連が崩壊して宗教が復権してからはしばしば演奏されるようになったようです。あちらのコンサートホールでは勿論、聖堂で正教徒が演奏する場合もあるようです。また、外国特に信徒数が多いアメリカなどのスラヴ正教会や信徒の間ではずっと忘れられてはいなかった様子です。
  • ソ連時代は宗教は禁止され宗教者は弾圧されていたものの、弾圧・破壊を免れた修道院などで修道僧が細々と伝統を守っていたようです。信徒たちもイコンを隠して拝んでいたと聞きます。スラヴ正教会の司教になるには、良い声を持っていて、素晴らしい歌を歌えることが大きな条件だという話も聞いたことがあります。
  • 1965年にアレクサンドル・スヴェシニコフ指揮ソ連国立アカデミー・ロシア合唱団によって録音されたこの作品の演奏が、ソ連時代を通じてペレストロイカ以前に許可された唯一の録音だったそうで、訳者の家にも白地に漢字で大きく「晩祷」と書かれたジャケットのレコードがありました。作品35鐘のレコードもありましたが、「晩祷」の方を強烈に記憶しています。
  • 翻訳に当たってWikipedia各該当記事と以下のサイトを助けにさせていただきました。

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@ chappi
最終更新:2023年03月17日 19:37