パタゴニア社会主義党(英:Patagonia Socialist Party、スペイン:Partido Socialista de la Patagonia)は、パタゴニア社会主義共和国における与党、または革命を起こした政党である。パタゴニア独自の社会主義を掲げ、革命的研鑽と呼ばれる手法によりメディアを意識したアピールを行うことを得意としている。
パタゴニア社会主義党・国家指導部人事名簿 | |
国家指導部長 | アウレリオ・コルテス |
国家指導副部長 | アイダ・アマンダ |
国家指導部経済担当長 | ロレンソ・キッソス |
国家指導部評議会員 | アウレリオ・コルテス |
アイダ・アマンダ、ロレンソ・キッソス | |
アルフォンソ・スメラ、ヴェッサリアーノ・ペアリス | |
クラウディオ・マルコス、ボリバル・アクダマナス | |
クストディオ・エメリコ | |
パタゴニア社会主義党・国家人民中央委員会人事名簿 | |
国家人民中央委員会委員長 | アイダ・アマンダ |
国家人民中央委員会副委員長 | ポンシオ・ヘルダー |
国家人民中央委員会財務部長 | アンドレア・ネグレテ |
国家人民中央委員会倫理監査部長 | バシリオ・マシアス |
パタゴニア社会主義党・国家国防軍事委員会人事名簿 | |
国家国防軍事委員会委員長 | アルフォンソ・スメラ |
国家国防軍事委員会副委員長 | エリカ・アリアガ |
国家国防軍事委員会ブエノスアイレス軍事指導部部長 | ヴェッサリアーノ・ペアリス |
国家国防軍事委員会ブエノスアイレス軍事指導部副部長 | ウンベルト・ベネガス |
国家国防軍事委員会両委員会連絡部長 | バルタサール・パルマ |
パタゴニア社会主義党・人民裁判所人事名簿 | |
人民裁判所所官長 | ボリバル・アクダマナス |
人民裁判所副所官長 | マヌエラ・エスパルテロ |
人民裁判所裁判官 | ペピタ・フォンセカ、セフェリノ・テヘロ |
マリソル・ロケ、ルシアナ・セルバンテス | |
パタゴニア社会主義党・国家首席報道局人事名簿 | |
国家首席報道官 | アダルベルト・ドロテオ |
国家次席報道官 | ニコラオ・ポルティージョ |
国家予備報道官 | レオンシオ・ルイス |
パタゴニア社会主義党・国家人民協会人事名簿 | |
国家人民協会協会長 | クストディオ・エメリコ |
国家人民協会副協会長 | ナディア・ジェーペス |
国家人民協会人民指導部長 | カルリト・ペレイラ |
国家人民協会人民支援部長 | ベルナルダ・ソル |
国家人民協会人民管理部長 | アンブロシオ・マレス |
主要人物
アウレリオ・コルテス
年齢 | 52 |
役職 | 初代総理大臣/国家指導部長 |
履歴 | ニカラグア内戦従軍、革命軍首領、P.S.P創設者 |
概要
1968年、アルゼンチン・コルドバで生まれる。秀才で勉学がよくでき、また大人の政治サークルに通い詰めるなど政治に対する関心が人一倍あることが幼少期から確認できる。1984年、アメリカのイェール大学に入学し、そこで偶然ジョージ・オーウェル著「1984年」と出会い、反権力的思想に目覚めていく。その時に国籍をアメリカに移した。革命家気質だった彼は、ホームステイ先の友人とよく意見を交換し合い、その家の伝手で知り合った地元議員と懇意になり、本格的に政治の世界へと足を踏み入れていく。1988年、アメリカ合衆国大統領選挙では民主党側の広報としてコネチカット州を駆け回り、またその伝手で自分の名声を広めていった。それが問題で、イェール大学からは退学処分を言い渡されるが、司法闘争に持ち込み勝利を収め、またイェール大学をその年に卒業する。卒業後は民主党に入党し、小規模な地域の議員に当選したりするなどで名声を上げたが、1994年に自ら辞職。その後は革命戦士となり、米国にて革命演説を行うが、それが原因で連邦政府に目を付けられる。監視が窮屈になった彼は、2000年にアメリカを脱出しアルゼンチンへ帰郷する。再度国籍を取得し、またその時にパタゴニア社会主義党を結成した。最初は合法的かつ温和に社会主義革命を目指すべく活動していたが、政治腐敗が原因で過激派に転向。2010年から闘争を開始した。その後、2020年に革命が成功し、現在は国家指導者となっている。
アイダ・アマンダ
年齢 | 31 |
役職 | 初代国家指導副部長/初代国家人民中央委員会委員長 |
履歴 | 第一次パタゴニア戦役従軍 P.S.P創設メンバー |
概要
1989年、アルゼンチンの名家であった「アマンダ家」の長女として生を受ける。アルゼンチン・ブエノスアイレス出身。秀才でお嬢様気質があり、また家が裕福だったこともあって政財界の重鎮とのコネクションなどを形成するなど、商売気質も持ち合わせていた。2000年、親の遺産もあり飛び級でイギリス/オックスフォード大学に進学する。だが、年齢差によるいじめに耐えかねてわずか2年で中退。2005年、アルゼンチンへ帰国した際にアウレリオ・コルテスと出会う。アメリカの新進気鋭とまで言われた政治家に会い、一目で彼に魅了されそのまま政党「パタゴニア社会主義党」に入党。アマンダ家の父母や兄弟からの反発があったが、心を鬼にして彼らの亡命先を手配し、アマンダ家をアルゼンチンの外へ追い出した。その後、2010年の過激派路線転向により才覚を発揮。党内武装組織の司令官まで上り詰めたのち、革命後の党内役職整理(純化)にて初代国家指導副部長ならびに国家人民中央委員会委員長に就任した。現在は主に内政の処理監査を行っている。
アルフォンソ・スメラ
年齢 | 47 |
役職 | 国家指導部評議会員/初代国家国防軍事委員会委員長 |
履歴 | イエメン内戦従軍、第一次パタゴニア戦役従軍、P.S.P創設メンバー |
概要
1973年、アルゼンチン・カタマルカに農家の長男として誕生。昔からけんかっ早い性格で、当時その土地を仕切っていたギャングを自分たちのチームで叩きのめした挙句、それらを従えるなどのカリスマ性も発揮していた。1993年、たまたま出会った資産家から留学を勧められアラブのイエメンへ飛ぶ。その時、ちょうどイエメン内戦が勃発。その際、なし崩し的に反政府軍に与することになった。その時、反政府軍内で地位を向上させるために邪魔な司令官を暗殺したりする謀略も行い、内部司令官へとなる。その後、自身の身を案じ戦闘中に逃亡、エジプトを経由しアルゼンチンへ帰郷。その際、アウレリオと出会い以後パタゴニア社会主義党内の党内武装組織を統括する。革命後、国家国防軍事委員会が設置されそこの委員長に就任、自治軍と分離させて自身の立場を確立した。現在は対外的あるいは対内的な委員長兼軍司令官となっている。