先日、わたしの仕えていた旦那様が亡くなりました。
旦那様は高齢ではありましたが、老衰でも心臓を悪くしたわけでもなく、不運にも交通事故で亡くなりました。
旦那様は奥様を早くに亡くし、たったひとりのご子息もオックスフォードから遠く離れたエディンバラにて暮らしておりましたので、旦那様が先祖代々から受け継がれた大きな屋敷にひとりで住まわれておりました。
とはいえ、広い屋敷を1人で管理するのは不可能ですので、住み込みの執事とメイドが数名おり掃除や身の回りの世話を行っておりました。
わたし、ステラ・フォスターもそのひとりでした。
旦那様の葬儀はご子息によって慎ましく執り行われました。
しかしご子息に旦那様の屋敷を引き継ぐ気はなく、すでにかなり古くなっていた建物はとり壊し、土地も売り払われることになったのです。
つまり、わたしたちはお払い箱となってしまったわけです。
100年前のイギリスならともかく、現代のイギリスにおいてはメイドというものの必要性はかなり薄まっています。
女性が社会へ出るようになり、貧富の格差もなくなり、ライフスタイルの変わった現代ではメイドを雇う家は少ないのです。
わたしが仕えていた旦那様のように、財力があり、よほど大きな屋敷を持っている方しか必要としておりませんでした。
そして、いきなり寄る辺のなくなったわたしたちでしたが、皆がみな途方に暮れているわけではありませんでした。
何十年もずっと旦那様に仕えていた執事は旦那様と同じくらいの高齢だったので、これを機に隠居をするそうです。
わたしを含め3人いたメイドは、ひとりは長年交際していた恋人と結婚するそうで、もうひとりは旦那様が亡くなる前から田舎に帰ることを考えていたようです。
残るわたしただひとりが、途方に暮れていたというわけです。
後日、わたしはオックスフォードの職業紹介所を訪れました。
パソコンの画面をスクロールし、メイドの仕事を探しますがめぼしいものは見つかりませんでした。
メイドの需要そのものがほとんどなく、あっても住み込みでない通いのものか、怪しい雰囲気のものしかありません。
ため息をついてわたしは席を立ち職業紹介所から外へとぼとぼと出て行きました。
一緒に働いていたメイドのひとりと同じように、田舎に帰るという選択肢がわたしになかったわけではありません。
わたしは高校を卒業した後、都会での生活にあこがれて住み込みで出来る仕事を探し、メイドの仕事を見つけました。
それから6年、ついこの間までメイドとして働き続けていました。
都会での生活は思っていたほど良いものではありませんでした。
しかしその反面、メイドという仕事をするにつれ、その仕事に魅力を感じるようになっていったのです。
歴史的にも世間的にも胸を張って誇れる仕事というわけではないのかもしれませんが、
亡くなった旦那様の笑顔はわたしにとって何よりも大切なものだったのです。
都会に残っていたいという気持ちではなく、メイドを続けたい。
その気持ちで私は田舎に帰りたくはなかったのです。
「仕事は見つかったかい?」
唐突に声をかけられ振り向くと、そこには自転車にまたがったクラークの姿がありました。
「あんたの主人が亡くなっても、息子はあんたを雇ってくれなかったんだってな」
「仕方のないことです。ご子息のお宅では家事は奥様がやっておりますし、メイドを必要としておりませんもの」
「それでも、オックスフォードを離れるつもりはないのか?」
「ええ、しばらくはまだメイドを続けようと思っていますから」
「そうか、それなら俺も嬉しいよ」
「まあ……ふふっ」
クラークは食料品の配達の仕事をしており、勤めていたお屋敷にも配達によく来ていました。
真面目に仕事をし、優しく、そしてよく笑う方でした。
クラークが配達に来ることがわたしの毎日の楽しみとなっていたのです。
正直に申し上げますと、私はクラークに好意を抱いておりました。
クラークはわたしがお屋敷に勤めていたときと同じ笑顔を見せてくれて、わたしはとても嬉しく思いました。
「実は……メイドの仕事について心当たりがあって、それをあんたに話そうと思っていたんだ」
「…………えっ!?」
わたしは思わず驚き、手で口をおさえました。
「『サー・ヘクター・ギボンズ』を知っているか?」
「あ……はい。“騎士”の称号を受けた若い方だと新聞で読んだことがあります」
「そのギボンズ卿だが……どうやら屋敷でひとり暮らしなんだそうだ」
「そうなんですか? よくご存知なんですね」
「若くして騎士の称号を得るくらいだから名を上げたかなりの人物であることは確かだが、古くからの名家というわけでもない。つまりは成り上がりということだ」
「はあ……」
「だから……屋敷を持っていても、それを維持する使用人がまだいないそうなんだ」
「でも、求人にはありませんでしたよ」
「うーん……よくわからないが、とにかく使用人がいて困ることはないだろう。あたってみる価値はあるんじゃないかと思ってね」
「…………」
私はしばらく悩みました。求人を出してもいないにもかかわらず見ず知らずの人を雇ってくれるのか、あまりにも不躾ではないのか。
しかし、このまま求人を頼りに探し続けても望みのものはずっと見つからないかもしれない。
何よりクラークがわたしのために持ちかけてくれたことでした。私は不安を抱えながらもギボンズ卿を訪ねることに決めたのです。
「ありがとう、クラークさん。わたし行ってみることにします
「……そうか! それじゃあ雇ってくれることを祈ってるよ。そうしたら、また俺が食材を運びにいくから」
クラークは白い歯を見せて笑い、自転車で走り去っていきました。
翌日、わたしはオックスフォード大学から北の方角にあるバンベリー・ロードのギボンズ卿のお屋敷へ行きました。
想像していたよりも大きな三階建てのお屋敷で、庭もとても広いのですが手入れが行き届いているとは言えませんでした。
わたしは緊張しながら門の前のチャイムを鳴らしました。
しかし、インターホンのスピーカーから声がすることもなく、お屋敷から誰かが出てくる気配もありませんでした。
もう一度チャイムを鳴らしますが、返事はありません。
考えてみれば求人を出していたわけでもなければアポイントをとったわけでもないので、ギボンズ卿がお屋敷にいるとは限らないのです。
しかし誰も出てこないところを見ると、たしかに執事やメイドは雇っていないようでした。
だからといってあきらめて帰るつもりはありませんでした。
せっかくクラークがわたしのために見つけてくれたチャンスなのです。
失礼は承知の上で、せめてギボンズ卿とお話するまではここで待つことにわたしは決めました。
じっと立っているわたしを通り過ぎる人たちがちらちらとこちらを見ていました。
バンベリー・ロードは高級住宅街です。そこを通る人もこのあたりに住む位の高い人たちでした。
わたしも外行きの一番いい洋服を着てきましたが、それでも道路に立ち続けるわたしの姿はこの通りの中で浮いていました。
ずっと立っていると脚が疲れてきました。
お屋敷の門は道路のすぐそばに面しておりましたので、座り込めば歩道をふさいでしまうことになります。
日が傾いても、お屋敷には誰も帰ってきません。
空が暗くなり始めると人通りも少なくなり、わたしはたまらず座り込んでしまいました。
もう通り過ぎる人の視線さえも気にならなくなるほど疲れていました。
わたしはじっと座り込み寒さに身を縮こませながらギボンズ卿が帰ってくるのを待っていました。
気がつくと、視線の先には木の板に覆われた天井がありました。
わたしは横になっていたベッドから起き上がるとそこが部屋の中であることがわかりました。
しかしわたしのすんでいる仮住まいの部屋ではないようです。
部屋は6帖ほどの広さで、ベッドとそばにあるランプしかありませんでした。
わたしは道路で立っていたときと同じ洋服を着ていましたが、靴は履いておらず裸足でした。
わたしはベッドから降りると、ドアをあけて部屋の外へ出ました。
そこは薄暗い廊下でした。壁には等間隔にランプがつけられていましたが明かりはついていませんでした。
廊下の奥のほうにかすかに明かりの洩れる部屋がありましたのでわたしはそこへ近づいていきました。
ゆっくり、ゆっくりと廊下を歩いていくと、廊下に積もる埃が足の裏につくのを感じました。
そっとその部屋をのぞきますと、そこは書斎でした。部屋の壁を覆うように本棚が並んでおり、
中央の机にはランプとノートパソコンが1台おいてありました。
「お気づきになりましたか」
背後から声が聞こえ、わたしは振り返りました。
そこには長身の男性が立っており、手にはティーカップをひとつ持っていました。
男性はわたしを横切り、部屋の中へと入って机の椅子に座りました。
ランプに顔が照らされると、その男性はわたしがお会いしたかったギボンズ卿であることがわかりました。
ギボンズ卿はパソコンの画面を眺めながら話しはじめました。
「家の前で見慣れぬ女性が倒れていると近所の方より連絡がありまして」
ギボンズ卿の声色は印象よりも冷たく感じました。
「急遽帰宅したところ、門の前であなたが眠っていたのを見つけました」
「えっ!?」
わたしは自分の顔が熱くなるのを感じました。
「ですので私が家の中へ運び、空き部屋のベッドに寝かせたというわけです」
「…………」
「具合はいかがですか?」
「……申し訳ございませんでした、ご迷惑をおかけして……」
わたしは深く頭を下げました。
情けなくもわたしは道路で座り込むうちに眠ってしまい、雇っていただくようお願いするはずだったギボンズ卿に介抱されてしまったというわけなのです。
「大事がないようでしたらお引き取り願います」
ギボンズ卿は冷たい声のまま、そう話しました。
声が冷たかったのは当然だったのかもしれません。
わたしが大変な迷惑をかけてしまったのですから。
「…………」
しかしわたしはそこから動きませんでした。
わたしの目的をあきらめたくなかったのです。
非常に勝手な振る舞いではありますが。
ギボンズ卿は眺めていたパソコンからうつむくわたしのほうへ顔を向けました。
「……もしかして、あそこにずっと立っていたのは私に用があったからなのかな?」
「…………はい、左様でございます」
「でしたら後日改めて来なさい。連絡も約束もしていない方と話すつもりはありません」
「…………」
「……まだ何かあるんですか?」
自身の行動を深く後悔し、今すぐ泣き出しそうになっていたわたしは勇気を振り絞って言いました。
「…………ここで、働かせてください」
「……はい?」
「お願いいたします。メイドとして、わたしをここで働かせてください」
このお願いをするには最悪のタイミングでした。
後日出直し、改めてお話しするのが筋だとこのときのわたしも思っていました。
しかしここで帰ってしまったら、もうずっとギボンズ卿に会うことはできないのではないかと思ったのです。
わたしの、心からの必死なお願いをギボンズ卿にいたしました。
「結構です。私は必要としていませんので」
考えるそぶりすら見せず、ギボンズ卿は即答しました。
紅茶を一口飲んだあと、椅子から立ち上がり廊下へ出て行きました。
「玄関へ案内します。もうお帰りください」
ギボンズ卿自らにそう促されてしまえば、もう立ち止まったままでいることはできませんでした。
「はい……あっ」
歩き出そうとした瞬間、わたしは床に転んでしまいました。
「……大丈夫ですか?」
「も、申し訳ございません。ずっと立っていたので足が動かなくなってしまったようで……」
「困りましたね……仕方ありません、今迎えを呼びます」
本当は転んだのはわざとでした。
これほどまで必死だったことはこれまでの人生の中では経験がありません。
しかしそれでも、ギボンズ卿に迎えを呼ばれてしまったらもうそれに従うほかはありません。
そのとき突然、ギボンズ卿のポケットで携帯電話の着信音が鳴りました。
「…………何だ?」
ギボンズ卿は電話をとって離れていきました。
「…………、…………! ……、………………」
ギボンズ卿は話し終えて携帯電話を閉じると、慌ただしく外出の準備をし始めました。
「すまないが、急に出かけなくてはならなくなった。家を空けたままあなたを帰すわけにはいかないので、
さっきの部屋に今日は泊まってくれ。帰ってもらうのは明日の朝だ」
「……! はい、かしこまりました旦那様」
「…………」
思わず、「旦那様」と言ってしまいあわてて頭を下げましたが、ギボンズ卿は黙ったまま出て行かれました。
たったひとり、お屋敷に取り残されてしまったわたしでしたが、
もちろんギボンズ卿の仰せの通りにお休みすることなど考えておりませんでした。
もう恥をかいてしまったのですから、ここで開き直って
ギボンズ卿に、このお屋敷にはわたしが必要であると思わせましょう。
そうわたしは決意いたしました。
わたしはまず、お屋敷のすべての部屋を見て回りました。
もちろん、プライベートを侵害してはなりませんので、あくまで見るだけです。
扉を開いてあかりを点け、ざっと見回します。
まずは3階から見てみましたが、3階にある部屋は全く使っていないどころか
家具のひとつもありませんでした。
こちらにはほとんど足を踏み入れていないようで、廊下にはくもの巣まではっていました。
先ほどわたしが眠っていた小部屋とギボンズ卿の書斎は2階にありました。
そのほかにも部屋はいくつかありましたが、家具や棚はいくつかあるものの、数週間も足を踏み入れていない様子でした。
ギボンズ卿の寝室も2階にありましたが、ここはさすがにきれいに整理されておりました。
1階へ下りますと、階段のある玄関ホールは物こそ少ないものの、品よく整えられております。
しかし端からは見えない隙間や物の陰にはほこりがたまっています。
天井のシャンデリアも埃をかぶっており、鈍い光を漏らしています。
1階にはほかにキッチンやリビングといった生活スペースがありましたが、
リビングはほとんど使われた形跡がなく、キッチンにも紅茶のセットとケトルがあるだけで、
冷蔵庫には食材がほとんどありませんでした。
どうやらギボンズ卿は普段は外出していることが多く、
お屋敷ではほとんど書斎と寝室しか使っていないようです。
「…………よしっ!」
わたしは意気込んで洋服の袖をまくり、埃のかぶったホウキを手に取りました。
翌日、ギボンズ卿が帰宅なされたのは朝の8時前でございました。
リビングのソファでウトウトとしていたわたしは玄関の扉が開く音を聴いてぱっと立ち上がりました。
すぐにギボンズ卿を出迎えに玄関へと参ります。
「お帰りなさいませ」
「…………」
ギボンズ卿のお顔を見ると目の下が黒くなっており、疲れたご様子でいらっしゃいました。
深く礼をするわたしを見て、ギボンズ卿は何もおっしゃいませんでした。
ただわたしの横を通り過ぎてそのまま2階の寝室へと向かわれました。
しかし、すぐさま階段を降りてこられました。
それもとても驚かれたご様子で。
わたしは振り向きギボンズ卿ににっこりと笑いかけました。
ギボンズ卿が驚かれたのも当然です。
いままで埃が新雪のように積もっていた廊下の床が見違えるほどの輝きを放っていたのですから。
ギボンズ卿はそのままあわただしくリビングの方へ向かわれました。
そこでギボンズ卿がご覧になったのはまるでモデルハウスのように完璧に整えられたリビングとキッチンでした。
棚に並べられたグラスや銀食器はすべてくもりひとつなく、新品同様に磨かれております。
ギボンズ卿は背を向けていたわたしのほうへ振り返られました。
その表情は困惑と不審、わずかの憤りも表れていたでしょうか。
わたしは、ギボンズ卿が昨晩出かけてからお帰りになるまでに、
お屋敷すべての掃除をいたしました。
なんとしても、わたしの本気の気持ちをお伝えしたく、無礼を承知で行動したのです。
ギボンズ卿はゆっくりとした口調でわたしに向かって話されました。
「いったい、どういうおつもりなんですか」
その声には明らかに怒りが込められていました。
「どうしても、ここで働かせていただきたく存じます。まことに勝手ながら、それを行動で示させていただきました。
どうか少しでもお気に召しましたならば……わたしをそばに置いてくださいませ」
改めて、お願いを致しました。
わたしに出来うる限りのことをして。
たとえ恥の上塗りになるとしても、後悔だけはしたくなかったのです。
ですが、ギボンズ卿の返答は冷たいものでした。
「あなたのメイドとしての技量や、この屋敷に必要であるかどうかではないのです。私は他人に生活を脅かされるのが嫌いなだけなのです」
「…………」
「帰りなさい。約束通り、朝のうちに出て行っていただきます」
わたしは顔を下に向けたまま、動くことができませんでした。
きっと今ギボンズ卿の顔を見たら泣き出してしまいそうだから。
かといって、このまま言う通りに出ていくこともしたくありませんでした。
「さあ、どうぞ」
ギボンズ卿はリビングの扉を開けてわたしを促しています。
もう、あきらめるほかありませんでした。
リビングを出て、玄関に向かいました。
上を見上げると、わたしが時間をかけて念入りに磨いたシャンデリアが輝いておりました。
玄関の扉のそばに傘のない傘立てと靴を入れる四角い棚がありました。
倉庫で見つけた青磁の花瓶に綺麗な蘭をさして棚の上に飾ったならば、どれほどすてきなことかと掃除をしているときに思ったものでした。
ですが、それももう叶いません。
扉をあけると、強い朝の陽射しがわたしを照らしつけます。
徹夜で掃除をしたわたしにはとても眩しいものでした。
屋敷の中のほうへ振り返ると、すでにギボンズ卿の姿はありませんでした。
わたしを見送らず、おそらくはキッチンで紅茶を淹れようとしているのでしょう。
庭の石畳を歩きながら、腰まで伸びた雑草を横目で眺めました。
よく見ると道路に面したフェンスの内側にレンガで仕切られた花壇があるのがわかりました。
きっと庭の手入れもして花壇を花でいっぱいにしたら、道行く人や訪れた人の心を癒してくれたでしょう。
急に涙がこぼれそうになりました。
なんだかとても悲しく、悔しくてたまりませんでした。
わたしが柵の扉に手をかけたときでした。
「待ちたまえ!」
ギボンズ卿の声が後ろから聞こえました。
わたしは涙がひくまで背を向けたまま立ち、しばらくしてから振り返りました。
するとギボンズ卿は屋敷から出て、ぼうぼうの雑草の中に通った石畳のところまで出てきていらっしゃいました。
「あのコゼーの中の紅茶は君が淹れたものか?」
ギボンズ卿はそうわたしに問いかけました。
その表情はさきほどまでの不機嫌さを残してはいたものの、ギボンズ卿のおっしゃった、紅茶への興味のほうが強く表れておりました。
「……はい、左様でございます」
わたしは掃除のほかにもうひとつ、やっていたことがございました。
きっとお疲れになって帰ってくるギボンズ卿のために紅茶を淹れていたのです。
キッチンを整理していたときにわたしは戸棚の中にたくさんの茶葉の缶があるのを見つけました。
おそらくギボンズ卿は紅茶に強いこだわりをもっているのだとわたしは思いました。
つまりわたしがギボンズ卿のために紅茶を淹れたのは、わたしが必要だとギボンズ卿に思わせるためのひとつの作戦でもあったのです。
ギボンズ卿はおっしゃいました。
「……君の淹れた紅茶、戸棚の紅茶の缶から、いくつかの茶葉をミックスしてつくったものだろう」
「ミックス」とは、ダージリンやセイロンなど産地の違う茶葉をいくつか混ぜ合わせて味を変えるものです。
紅茶愛好家はよくその日ごとに茶葉をミックスして味の変化を楽しむといいます。
そしてギボンズ卿もよく茶葉をミックスして淹れているとキッチンをみてわかりました。
「わたしもよくそうやって、いちばん好みの味を探しているが……」
「…………」
「はっきり言って、きみの淹れた紅茶ほどの味を出せたことがない」
わたしはなるべく表情をかえずにじっとギボンズ卿の目を見ておりました。
ギボンズ卿の眼差しはさきほどまでの冷たさからわずかにやわらいでいるように感じました。
「きょう初めて私の持つ茶葉を見たきみが、なぜあの味を出せたのだ」
「…………」
「教えてくれ、何故だ」
ここが勝負どころだと、わたしは覚悟を決めました。
「……それをお教えすることは、できません」
「……」
「前の旦那様によく……紅茶の手ほどきをしていただきました。わたしの技術は、そこで得たものです」
わたしはギボンズ卿から目をそらさず、震える手をきゅっと握って話し続けました。
「それが、わたしの能力です。わたしをお雇いただけたなら、わたしは旦那様のために毎日紅茶を淹れさせていただきます」
「…………そうか」
ギボンズ卿はそう一言だけ言うと、わたしに背を向けてお屋敷のほうへ向かわれました。
わたしはそれに向かって深く礼をいたしました。
お別れのつもりで。
「……来たまえ」
わたしは耳を疑い、おもわずきょとんとした表情を浮かべて頭をあげました。
ギボンズ卿はお屋敷の扉を開けてお待ちになっておりました。
「早く来たまえ」
再びギボンズ卿がそうおっしゃいますと、わたしははっとして思わず駆け足でギボンズ卿のもとへ向かいました。
靴で石畳をカツカツとならし、生い茂った雑草がざわついております。
ギボンズ卿はリビングでさきほど私を帰そうとしたときと同じようにして、わたしをお屋敷の中へ促しておりました。
わたしがお屋敷の玄関に入ると、ギボンズ卿は扉を閉めて話しだしました。
「仕方ない……そこまで言うのなら、きみを『お茶汲み』として雇うことにする」
「…………!!」
「『メイド』としてではない、きみの紅茶の技術をすべて学んだならば、ここを出て行ってもらう。それでいいね」
ギボンズ卿のおっしゃっていることが、信じられませんでした。
半ばあきらめておりましたが、わたしはここで働くことができるのです。
嬉しくて、嬉しくてたまりませんでした。
「はいっ……! 旦那様!」
「メイドではないのだ、『旦那様』はやめてくれたまえ」
「では……『ご主人様』?」
「…………わかった。……旦那様でいい」
こうして、わたしはギボンズ卿のお屋敷で働くこととなったのです。
「ここまでが、わたしがここで働くようになった経緯でございます」
「…………」
「紅茶のおかわりはいかがですか? 『脚蛮醤』様」
――俺、『脚蛮醤』はディザスターでのある作戦について打ち合わせをするために、初めてギボンズ卿の屋敷を訪れた。
表の顔は“騎士”の称号を受けた有力者であるから、このような屋敷を持っていることはおかしいことではなかったが、
門のチャイムを鳴らした時、まさかメイドが出迎えるとまでは思わなかった。
しかし、この女性は何の疑いもせずにこの俺を招き入れた。
「旦那様を訪れるかたはめったにいらっしゃらない」と彼女は話した。
そして俺を庭のテーブルに案内し、紅茶を用意して嬉しそうに歓迎したのだった。
「突然でしたので、こんな簡単なものしかご用意できませんでしたが、どうぞおくつろぎください」
そう言って彼女はティーバッグのひもをフタからぶらさげたポットを持ってきた。
しかしカップを用意するのを忘れてあわてて屋敷へ戻った。
その様子には、ディザスターの人間におおよそ備わっている暗黒の精神は微塵も感じられなかった。
毒が入っているのではと疑った紅茶は、彼女が先に飲んだ。
(もしかしてこの女性は、ギボンズ卿の正体を知らないのではないか)
そう思い、彼女がここでメイドをするに至った経緯を訊いたのだった。
「ステラ、といいましたか?」
「はい」
「あなたのお話で、あなたがここにいる理由がわかりました。あのおと……ギボンズ卿は気まぐれでそういうことをする方なのです」
「気まぐれ、ですか。ふふ……そうかもしれませんね」
嫌味にも聞こえるはずだったが、彼女は微笑んでいた。
「しかし、気まぐれだとしてもよっぽどでない限りそのようなことはしない。かつて歩けなくなったサーカスのスター芸人を復活させたこともありましたが……」
「ああ、旦那様が援助なさったサーカス団のことですね」
「あなたの場合は『紅茶』だったわけですが……どうしてあなたは、初めて目にした茶葉でギボンズ卿を納得させる味を作ることができたのですか?」
「…………」
「仮に最初うまくいったとしても……あなたは同じかそれ以上の味を作り続けなければならない。ですがあなたはもう1年以上いらっしゃるのでしょう?」
「……はい、時がたつのは早いものです」
「失礼ながら……まだ若いあなたに、そこまで技術があるとは思えない」
「…………」
彼女は少し黙り、考え込んでいる様子だった。
開いているのか、閉じているのかわからない目を下に向けて。
「……旦那様には内緒にしてくださいね」
「ん?」
「今あなたの召し上がっている紅茶こそが……わたしがギボンズ卿に淹れたものと同じ紅茶でございます」
「……!!」
そんなばかな。
だって、この紅茶は……彼女が急いで用意したもの。
それに、市販の「ティーバッグ」で淹れたものだ。
「……それでも結構、高級なほうなんですけれども」
「あなたは……ティーバッグの紅茶で、ギボンズ卿を納得させたということなのかッ!?」
「ティーバッグと言っても、けっこうばかにできませんよ? あとは旦那様がお持ちの紅茶の缶からひとつまみだけ茶葉を加えて香りを変えたりいたします」
「…………ッ!」
驚きのあまり何も言うことができない。
おそらくはこの女性はギボンズ卿の正体を知らない。
そうであったとしても、ここまで肝が据わっているのであれば確かにギボンズ卿のメイドにはふさわしいのかもしれない。
(ギボンズ卿には言えないな……言ったらきっと、この女は殺される……)
「どうかいたしましたか?」
「いえ、あなたはなかなか根性のすわった女性のようだ」
「まあ……ありがとうございます」
――だが、俺はあることに気づいた。
ここはあくまでギボンズ卿の「表の顔」としての屋敷だ。
とはいえ、ギボンズ卿の裏の顔を知る……特にディザスターの中に、この屋敷を知っているものがいてもおかしくはない。
だが彼女はそんなある意味危険な場所にいながらも平然とメイドの仕事をし続けている。
ギボンズ卿の正体を知らないのだから、ディザスターの者は来たことがないということかもしれないが……。
「ちょっとお聞きしたいのだが」
「はい……ってわたしが話してばかりですね」
「あなたがここに来てから今まで、何か恐ろしい出来事は起こりませんでしたか?」
「…………」
俺が質問を投げかけると、彼女の表情が曇りだした。
顔を下に向けて、微笑みが消えうせた。
「……たったひとつ」
「…………」
「たったひとつ、恐ろしく悲しい出来事が起こりました」
「それは……?」
「その前に、わたしがここで働き始めた頃のお話をいたしましょう。その出来事はそれからすぐに起こったことでしたから……」
わたしの部屋は、わたしがギボンズ卿に運ばれて寝かされていた部屋をそのままあてがわれました。
ギボンズ卿……旦那様はお屋敷を留守にしていることが多く、住み込みのほうが都合がよいとのことでした。
わたしも前のお屋敷を出た後のアパートは一時的なものでしたので、かえって住み込みで安心いたしました。
引越しの荷物はボストンバッグひとつで済みましたが、旦那様はそれを見て大層驚かれておりました。
「年頃の女性が、何故それだけしか荷物が無いのだ……」
実は前のお屋敷で働いていたときも住み込みだったため自分で持っている家具などはなく、私物はほとんど洋服類のみだったのです。
そしてお屋敷を出た後は就職活動のために必要最低限のものを残してあとはすべて売りに出し、当面の生活費としていたのです。
当初思っていたよりは早く仕事に就くことができましたので、貯金はありましたが私物は少ないままでした。
「門の前でずっと待っていたと聞いたときに気づくべきだったが……きみは外見に似合わず変なところがあるようだ」
しかし、そう話す旦那様の目にはもう冷たさはありませんでした。
「お茶汲み」として淹れた最初の紅茶を飲みながら、わたしと旦那様は雇用の契約を交わしたのでした。
住み込みなので、わたしの食費や光熱費等はすべて旦那様が負担し、その他に給料を払うと旦那様はおっしゃいました。
もちろんわたしは「お茶汲み」だけするつもりはなく、お屋敷でできるだけのことはするつもりでおりました。
それでもなお、お給料はいらないと旦那様にはお話ししましたが、それを聞いて旦那様は目をしかめてこうおっしゃいました。
「きみには社会人としてのプライドはないのか? 雇い主は雇った者に対し正当な給料を払わなければならない。
きみはわたしが無理やり連れてきたわけでもないし、奴隷として買ったわけでもないし、きみは奉公に来たわけでもない。
きみの熱意を受けて、そしてきみの紅茶の技術のために、わたしが、きみを雇ったのだ」
わたしはとてもうれしく、また涙が出そうになりました。
旦那様は「お茶汲み」と言ったけれど、わたしはまたここでメイドとして誇りある仕事ができる。
ここまで頑張ってよかったと、こころから思いました。
はじめはお屋敷の手入ればかりをしておりました。
最初の夜に徹夜で掃除をしたとはいえ、お屋敷にはまだまだ手直ししなければならないところがたくさんございました。
客間のカーテンは破れたままになっており、レースカーテンは汚れていたり黄ばんでいたりしたものがほとんどでした。
暖炉には灰が溜まりに溜まっており、使うとそこらじゅう灰だらけにしてしまいそうなほどでした。
外壁の汚れもひどく本来なら業者を呼んでやってもらわなければならないほどでしたが、果樹園でつかうような大きな脚立を使って掃除いたしました。
その間も、本来の仕事である「お茶汲み」はきっちりと行っておりました。
旦那様が帰ってくる時間はまちまちでしたがわたしはすぐに紅茶の用意をしなくてはなりませんでした。
……と言っても、わたしの用意する紅茶はテイーバッグを使うものでしたので、気をつけることといったらそのティーバッグを見つからないように処分することだけでしたが。
はじめ旦那様は「紅茶の技術を学ぶ」と話しておりましたが、旦那様がわたしが紅茶を淹れる様子を観察するようなことはございませんでした。
そして旦那様は紅茶を飲むとあとは書斎で仕事をするか、あるいはまたすぐに外出するかのいずれかでした。
旦那様は1週間のうち半分くらいはお屋敷でお休みになるのですが、お食事だけはお屋敷でお召し上がりにはなりませんでした。
当然、わたしは旦那様がいらっしゃるときは用意するつもりでいるのですが、それだけははっきりと断られてしまうのです。
旦那様はわたしがお屋敷の手入れをすることには何も言わず、修繕にどうしてもかかるお金も負担してくださいましたが、
そのお食事のことだけが、どうしても残念でなりませんでした。
きっと、まだわたしのことを信用してくださらないようなのです。
わたしはいつも、ひとりでさびしく食事をしておりました。
わたしがここへ来てから1ヶ月ほど経った頃、お屋敷の中の手入れがだいたい終わり、わたしは庭の手入れを本格的に始めました。
はじめはこの庭は花壇と芝生の境もわからないほど雑草が生い茂り、道路沿いの柵にも蔦が巻きついておりました。
雑草だけははじめにある程度短く刈っておいていたのですが、芝生も新しくする必要がありましたし、花壇の土も入れ変えなくてはなりませんでした。
前のお屋敷にいたときは専属の庭師の方がおりましたので、庭仕事の経験はまったくといっていいほどなく、非常に苦労しました。
笠の大きな日よけの帽子をかぶり、軍手をつけて作業を始めました。
庭仕事を始めてから数日後、わたしはある方と再会したのです。
「やあ、ステラ」
わたしを呼ぶ声が聞こえて、わたしは立ち上がってその声のしたほうに振り返りました。
柵の向こうの道路にはクラークが立っておりました。
ギボンズ卿のお屋敷のことを教えてくれたクラークは1ヶ月前に会った時と変わらず眩しい笑顔を見せてくれました。
「……クラークさん!」
「仕事に就くことができたんだ、よかった」
わたしはクラークに深くお辞儀をしました。
「あなたのおかげです。あなたが、ここのことを教えてくださったおかげでわたしは……」
「いいや、俺はただ思いつきで言っただけさ。ギボンズ卿にお願いしたのは君自身なんだから」
「いえ……あなたには感謝しております」
「そうだ、あのとき俺が言ったことを覚えているかい?」
あのときクラークが言ったこと……それをわたしは覚えておりました。
「ステラ、きみがここで働くことができたなら俺が食料品を配達してやるって」
「ええ……もちろん存じております。ですが……」
「ん? あ、もしかして別の業者が来ているのか?」
「いいえ、そうではないのです。ですが、旦那様はお屋敷でお食事を召し上がりにならないのです」
「……そりゃ、変わった旦那様だな」
「食料品はわたしひとりぶんで十分ですし、多くは必要ないのです。
ご厚意はありがたいのですが、少量の食料品のためにあなたに遠くから来てもらうのは申し訳なくて……」
「そうか……それじゃあ仕方ないな」
「ごめんなさい、クラークさん」
そしてクラークはわたしに手を振りながら去って行きました。
久しぶりにクラークに会えた喜びとともに、クラークの恩に報いることができないもどかしさがわたしの心に募りました。
その日は、空が夕焼けで紅くなりはじめた頃に旦那様が帰ってこられました。
いつものように紅茶を淹れて、テーブルで新聞を読む旦那様の向かいに座りました。
「旦那様、ご相談があります」
「……珍しいね、君から相談なんて」
「はい……あの……」
わたしは少し言いごもり、旦那様は新聞からわたしのほうへ顔を向けました。
「あの……食料品の配達を、頼みたいのです」
「……そんなことかね?」
「…………はい」
「だが食料品といっても、ほとんどはきみが食べるものだ。別に何を買ってもかまわないが……今迄のように外へ買い出しに行くのはいけないのか?」
「ええ、その、買い出しに出ている時間をお屋敷の手入れにあてられたら、ずいぶんとはかどりますから」
旦那様はわたしの顔をみたまま、少し考え込んでいるようでした。
あるいはわたしの言ったことを疑っているのかもしれません。
「……きみはいつも屋敷にこもってばかりだ。買い出しにも出なくなったら、きみは他人と関わることがほとんどなくなってしまうのではないのかね?」
「それは構いません。……旦那様のお役に立てるのであれば」
「……だが、だめだ。わたしは極力、誰もこの屋敷には入れたくないのだよ」
「…………」
「本来、きみも例外ではない。……だが事実、きみの働きには助けられている。だからこそ居てもらっているのだ」
旦那様の口調は穏やかではありましたが、わたしの提案を聞き入るつもりがないことがはっきりと伝わってまいりました。
それでもわたしは食い下がりました。
「旦那様、わたしが得意なのは紅茶だけではございません。お料理も……得意なのです。
わたしの母に教えてもらったコロッケやビーフシチューを、ぜひ旦那様にもお召し上がりいただきたいのです」
「…………」
「きっと一度でも召し上がっていただけたなら気に入られると思います。そしてこれからはお屋敷で一緒にお食事を……」
「くどい!」
突然、旦那様は立ち上がり怒りをあらわにしました。
わたしは驚いて紅茶をテーブルにこぼしてしまいました。
ですが旦那様はそれにかまわず、つづけました。
「私がきみをここに置いている理由をもう一度考えたまえ。言ったはずだ、私は他人に生活を脅かされるのが嫌いだと」
「…………!」
「食料品の配達を来させろ? 食事を一緒にしてくれ? 立場をわきまえろ、それ以上言うのならここから出ていってもらう」
わたしを見下ろす旦那様の顔をわたしは見ることができませんでした。
とんでもないことを申し上げてしまった。
わたしにできることは、ただ謝ることだけでした。
「申し訳ございませんでした。もうこのようなことはお話しいたしません……!」
「…………」
「申し訳ございません、申し訳ございません、お許しくださいませ……」
旦那様は黙ったままお屋敷を出て行かれました。
その晩、わたしは泣きながら紅茶をこぼしたテーブルと床を掃除しました。
それから2週間、旦那様はいっさいわたしと口をきかなくなりました。
わたしが紅茶を用意するといつも一言でも感想を言ってくれたものでしたが、あれからはずっと紅茶を飲んでもなにもおっしゃってくださりません。
心なしか、旦那様が帰ってくる日も少なくなったように思います。
きっと旦那様のわたしに対する信用はほとんどなくなってしまったのでしょう。
前のお屋敷で働いていた時は旦那様の笑顔が支えになっておりましたが、今の旦那様は目も合わせてくださいません。
すべてはわたしに原因があったことなのですが、はじめてこの仕事をつらいと思い始めました。
そんなある日のこと、お屋敷の掃除をしていたときにチャイムが鳴り、わたしはお屋敷の外の門まで向かいました。
門を開けると、そこにはクラークが大きな紙袋を抱えて立っておりました。
「クラークさん……」
「やあステラ……あれ、元気ないな」
クラークは心配そうにわたしの顔を眺めたので、わたしは恥ずかしくなり思わず顔を伏せてしまいました。
「いえ、そんなことはございません」
「そうか……」
「あの、ごめんなさい。旦那様にお願いしたんですけれども……やはり配達していただくことはできませんでした」
「……まあ、仕方ないよ。流通が発達した今のご時世、この仕事も必要とされなくなっているからな。当然のことさ」
クラークはさびしそうにそう呟きました。
「ところで今日はさ、これを届けに来たんだ」
そう言ってクラークは抱えていた大きな紙袋の中をわたしに見せてくださいました。
中にはたくさんのジャガイモやニンジンなどの野菜が詰まっておりました。
「でも、配達は……」
「違う違う、たくさん仕入れがあって余りそうだったからさ、貰ってもらおうと思って持ってきたんだ」
「そんな……いえ、いただくわけにはまいりません」
「遠慮するなって、ほら中まで運ぶから入れてくれないか」
「……ありがとうございます。でも、わたしがお運びしますから……」
「でも重いからさ、俺がもってってあげるから」
クラークの親切がわたしのこころに強く刺さります。
これほどまでによくしてもらっているのに、わたしがクラークにできることは何もないのですから。
「……ごめんなさい。お屋敷にはだれも入れるなと旦那様から強く言われているのです」
「なに、どうせ今いないんだろ? かまわないさ」
「……ごめんなさい!!」
わたしは語気強く、拒みました。
はっとしてクラークの顔を見ますと、困ったご様子でいらっしゃいました。
クラークは黙って目を伏せてため息をつきました。
「クラークさん……ごめんなさい」
「……いや、仕方ないさ。旦那様の命令だからな」
「…………」
少しの沈黙が流れたあと、クラークは話しだしました。
「なあステラ、仕事は楽しいか?」
「……え?」
その質問は唐突ではありましたが、わたしの今の心の迷いを突くものでした。
「前にきみと会ったとき、きみはほんとうに生き生きとしていた。前のお屋敷の時と同じように」
「…………」
「だが今のきみはそうではない。まるできみの旦那様に縛りつけられているようだ、このお屋敷にね」
わたしはそれを否定することができませんでした。
クラークの言うとおり、ここへ来た頃の私ならば胸をはって仕事に誇りを持っていることを伝えられましたが、今はその自信がありません。
わたしは最近考えるようになっていたのです。
本来のメイドの仕事とは、このようなものではないのかと。
旦那様の生活を脅かしてはならないのなら、こうなるのが自然ではないのかと。
きつい仕打ちに耐えながら給料をもらうのがメイドなのではないかと。
「……ステラ、お願いがある」
クラークは紙袋を足元において、話しました。
「近く、俺は大きな仕事をすることになっている。成功すればかなりの報酬が出るんだ」
「…………?」
「ステラ、その仕事が成功したならば、またきみを訪れる」
「……どういう、ことですか?」
クラークは大きく息を吸い込み、強い眼差しでわたしを見つめて言いました。
「…………俺と結婚してくれないか」
その言葉は、暗く淀んでいたわたしの心を照らすものでした。
これまでわたしを支えてくれたクラークが、わたしに結婚を申し込んできたのです。
目の奥が熱くなり、すぐにも抱きつきたい想いでおりました。
しかし、そうしなかったのは心の中に未練が残っていたからです。
「すぐに応えてくれなくていい、きみの仕事のこともある」
「…………」
「しかしどうか、俺に対しわずかでも想いがあるのなら、考えてくれないか」
「……わかりました」
「俺はきみをメイドではなく、妻として迎えたいんだ」
そしてクラークは去って行きました。
こちらを振り返らず、それでいて毅然とクラークは歩いておりました。
その背中を、わたしはじっと見つめておりました。
わたしの未練はもちろん、この仕事についてのことでした。
高校を卒業してからずっと、メイドとして働き続けておりました。
前のお屋敷でメイドのやりがいを知り、ギボンズ卿を訪れて自分で説得しメイドとなりました。
そして今は……つらい日々を過ごしております。
つらい時にクラークがあのように言ってくれたことは、運命であるように感じました。
しかし、わたしはこのメイドという仕事を突き詰めていない気がするのです。
もしこのままメイドをやめてしまったら、クラークの妻になったならば、幸せになるかもしれない。
でも、わたしのこれまでのメイドとしての日々は無駄になってしまうのです。
それからわたしは毎日、悩み続けました。
旦那様はまだ口をきいてくださいません。
そして5日程過ぎた雨の日の夜……その時はやってまいりました。
恐ろしく、悲しい出来事が起こった日です。
夜11時すぎ、強い雨が降っているにも関わらず、旦那様は外出しようとしておりました。
わたしは傘を持って玄関で旦那様が来るのを待っておりました。
旦那様が2階から降りてくると、わたしの手から傘を奪い取るようにして取り、急いで出て行かれました。
おそらくは朝まで帰ってこないだろうと思いましたので、わたしは2階の自室へ向かおうと階段に向かいました。
そこで、玄関の鍵をかけ忘れたことに気づき、ふたたび玄関へ向かいました。
すると玄関の扉が突然開き、誰かが中に入ってきました。
はじめは旦那様が忘れ物をしたと思ったのですが、それは違いました。
その人は上下黒のジャージを着て、大きなバッグをもっておりました。
強盗が押し入ったと、わたしは叫びそうになりましたが、その前に男がわたしに呼びかけたのです。
「ステラ!」
聞き覚えのある声がして、わたしはその男の顔をよく見ました。
「……クラークさん!」
「もう眠っていたと思ったが……しまったな」
間違いなく、その人はクラークでした。
しかしクラークが突然お屋敷にきた理由が、わたしにはわかりませんでした。
「……ステラ、安心してくれ。悪いようにはしない」
そうは言うものの、明らかにクラークは焦っておりました。
わたしは不意にクラークが話していたことを思い出しました。
「クラークさん……あなたの言っていた『大きな仕事』って……!」
「…………」
クラークは応えませんでした。
しかし、間違いはないようでした。
「こうなったら仕方ない……いや、かえって都合がいい」
「……どういうこと、ですか?」
わたしは、あれほど優しかったクラークが恐ろしくてたまりませんでした。
表情はいつものクラークなのに、怖くて、そして悲しくて。
「ステラ、俺は嘘はつかない。この仕事が成功したらきみと結婚したいんだ。そしてこれはきみのためでもある……」
「何を……おっしゃっているのですか」
「ギボンズ卿の資産を奪って、一緒に逃げよう。きみが協力してくれたなら、きっと上手くいく。メイドなんて仕事もしなくて済むんだ」
「…………え」
クラークはそう言ってやさしくわたしに微笑みかけました。
しかし、その目の奥に光は見出せませんでした。
そしてクラークがもたらした、わたしの心にさしていた光も消えうせてしまいました。
「さあ、案内してくれ。どこにある? 金に換えられそうなものは……。屋敷の手入れをしていたきみなら知っているはずだ」
クラークがわたしに詰め寄ってきました。
怖くて怖くてたまりませんでした。
しかし、それに耐えることができたのは、あとになって思えばわたしが「メイド」だったからでした。
メイドについて悩んでいたからこそ、わたしはクラークに話すことができたのでしょう。
「クラークさん……あなたははじめから、こうするおつもりだったのですね」
「ステラ、何を……」
「あなたがわたしにここで働くようすすめたのも……ここに配達に来ると言ったのも……」
「…………」
「今にして思えば、あなたがお野菜を持ってお屋敷に運ぼうとしたのも、このお屋敷の中を見るためだったのですね……」
「……ステラ、違うんだ。俺はそう指示されて」
「でもあなたは! わたしの心を裏切った!!」
感情の趣くまま、わたしは叫びました。
「わたしはあなたの恩に報いたかった。あなたのために、あなたの配達の仕事のために、旦那様にお願いした。
それで旦那様に嫌われても……あなたのためを思えば、わたしは耐えられた。でもあなたは!」
「ステラ! 俺がきみを想う気持ちはほんとうだ! それに、つらそうなきみを救ってやりたいと俺は思ってるんだ!!」
ついに感情が堰を切って、わたしはクラークに言いました。
「わたしはメイドに誇りをもっているんだ! このまま、あなたの言う通りにして旦那様を裏切ったら、わたしはわたしでなくなってしまう!!」
「ステラ!! きみは俺を愛しているんじゃないのか!!」
「わたしの誇りある仕事をばかにするあなたなんて、これっぽっちも好きじゃない!!」
そのときでした。玄関ホールを照らすシャンデリアの光がいっそう強くなったのです。
想いが猛り、そのように感じられたのかもしれませんが、たしかに光が強くなったように思います。
「…………!」
クラークの表情から微笑みが消えうせ、あきらかな敵意をわたしに向けておりました。
いつのまにか手にはナイフを持っており、シャンデリアの光がその刃に反射して輝いておりました。
しかし、そこから奇妙なことが起こったのです。
必死の覚悟でクラークに想いをぶつけたのですが、クラークの反応はありませんでした。
わたしをにらみつけてナイフを持ったまま、全く動かなかったのです。
「ス……テラ………何が……起こっている……」
「…………?」
「動かな……い……体が……っ」
クラークはなぜか、自分の意志では動けないようでした。
私の言葉に、それほど迫力があったのかは定かではありませんが、わたしにとっても奇妙でした。
クラークは今にもそのナイフをわたしに突き立てようとばかりの形相でしたが、ピクリとも動かないのです。
「ステラ……ステラステラステラステラァァーーーーッッ!!」
そのとき、クラークが開けた玄関の扉のむこうで、1台の車が庭に入ってくるのが見えました。
そして、そのヘッドライトが玄関ホールの中を照らした瞬間、クラークは突然わたしに飛びかかってきたのです。
わたしはそこで、気を失いました。
消えゆく視界の中、天井を仰いで倒れる私の眼には宙に浮遊するシャンデリアがあったように思いますが、きっとまぼろしだったのでしょう。
わたしが目をさましたとき、目の前には見慣れた天井がありました。
わたしはいつのまにかお屋敷の自室のベッドに寝ていたようです。
そしてそばには旦那様が……ギボンズ卿が椅子に座っていらっしゃいました。
「旦那様…………!」
「私が外出してしばらく歩くと、車が猛スピードで通り過ぎて行った。急にいやな予感がして戻ってきたらきみが玄関で倒れていた」
「では、クラークは……!」
「やはり、きみの知人だったのか?」
「あっ……」
わたしはまずいことを言ったと思い、視線をそらしました。
しかし旦那様はいつか見せてくれた穏やかな表情で話し続けました。
「強盗グループはもういなくなった。だが、多少荒らされた程度で、大したものは盗まれていない」
「ごめんなさい、旦那様……わたしは、わたしは……」
わたしは嗚咽して旦那様に謝りました。
旦那様の不在の中、お屋敷を守れなかったのですから。
「きみは前にも思ったとおり変な女性だ。強盗に協力して私の資産の多くを奪うこともできただろうに、それどころかきみは無防備で立ち向かったのだろう」
「…………」
「きみが気を失ってしまったから、彼らは金目のものの場所がわからず、まともに探すこともできないまま私が戻る前にいなくなったのだ。
……感謝するよ、きみはりっぱに私の留守を守ってくれた」
「だ、旦那様……」
「きみという人間にはほんとうに呆れかえる……だが、そんな勇気と誇りをもった人間は私は嫌いではない」
優しく声をかけてくださる旦那様の言葉がわたしの心に深く沁みました。
しかしそれだけに……自分の未熟さが悔しくてたまらなかったのです。
「旦那様、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした……わたしは、未熟者でございます」
「…………」
「もう十分……自分の能力を見極めることができました。そしてお願いなのですが……」
わたしはここで決心をしておりました。
きっと旦那様のやさしい言葉は最後のねぎらいの言葉だったのでしょう。
この仕事に対する未練を残さないためにかけてくださったのです。
わたしは……この仕事を辞めるつもりでおりました。
わたしの言葉を遮るように、旦那様はおっしゃいました。
「ステラ・フォスター、きみを解雇する」
旦那様は毅然とそう話し、わたしはそれを受け入れました。
ですが、旦那様の考えは違ったようでした。
「きみは……コロッケやビーフシチューが得意だと言っていたな」
「はい…………?」
「食事をつくるのは『お茶汲み』の仕事ではない」
「…………」
「さて、無職のステラ・フォスター。再就職先の相談なんだが……私の屋敷で働かないか?」
わたしは、目頭があつくなる想いがいたしました。
今日何度涙を流したかわかりませんが、はじめての温かい涙でした。
「『メイド』として……私の屋敷を守ってくれ」
ステラ・フォスターの話が終わったころ、ティーポットの紅茶は空になっていた。
夕焼けの空の下で紅茶を飲み続けるには、いささか寒くなりはじめていた。
「……それから、わたしは正式にメイドとしてこちらで働くことになり、旦那様がいらっしゃるときにはお食事を共にさせていただいております」
「…………そうか」
「旦那様はお食事中は何もおっしゃいませんが……ふふ、食べ残したことは一度もございません」
「……俺もいつか、食べてみたいものだ」
「まあ! よろしければいつでもいらしてください」
「できればギボンズ卿のいないときがいいがな(あの男と食事をする空気に耐えられそうにない)」
「ふふ……」
やはり奇妙な男だ。
俺の知る限りあの男は冷酷そのものだが……
ごくまれに突拍子もない行動に出たりもする。
サーカスのスター、ドナルド・ハーディンを円盤に復帰させたり、
正体を隠したままメイドを雇ったり……。
考えてみれば、俺があの男の下で働くようになったのも、ヤツの「気まぐれ」なのか。
「ああ、そろそろ帰っていらっしゃいますよ」
「紅茶、御馳走になった」
「くれぐれも紅茶のことは内緒にしてくださいね」
そう言って彼女はポットのティーバッグを指で持ち上げて微笑んだ。
(……さすがにあの男はもう気づいているんじゃないのか? 彼女はそうは思っていないようだが)
門の外でクラクションが鳴る。
道路に停まっている黒塗りの車の運転席にギボンズ卿がいた。
「あら、すぐに出掛けられるのですね……」
「ああ、事態が深刻だと話していたからなぁ」
「え……?」
「あ……な、なんでもないです!」
あぶないところだった、ギボンズ卿の正体を彼女は知るべきではない。
知ってしまったら危険にさらされるということもあるが……
(彼女は、俺やサーカスのスターとは異なった出会い方をしている……その意味することは非常に興味深いことだ)
俺は門から道路へ出て車に乗った。
ギボンズ卿はすぐに車を発進させて屋敷から離れた。
車内でギボンズ卿が俺に問いかけた。
「聞いたかね? 彼女のことを」
「……ええ」
「彼女は……無自覚のスタンド使いだ」
「やはり、そうですか」
彼女の、ステラの話していた強盗が押し入った時の出来事だ。
彼女の感情の昂りと共にホールの光が強くなって、強盗は動けなくなった。
気迫に圧倒されたにしては、動けない時間が長すぎる。
「実はそのとき、私は屋敷の中にいたのだ」
ギボンズ卿はそう話した。
ステラの話では、ギボンズ卿は強盗が逃げた後に戻ったはずだが……何を考えていたのか、ギボンズ卿はステラと強盗のやりとりを見ていたらしい。
「そのとき、確かに見た。天井に吊り下げられたシャンデリアのほかにもう一つ、クラゲのような浮遊するシャンデリアを」
「それがステラのスタンドヴィジョン……」
「おそらくはクラゲのシャンデリアの放つ光を受けた者は、動けなくなる。
そして車のヘッドライトで強盗が動けるようになったのを見ると、シャンデリアの光よりも強い光を当てられれば効果はかき消される」
「……そこで彼女は気を失ったと言っていましたね」
「…………実際のところは、私が『フリーズ・フレイム』の能力によって彼女の意識を『凍結』させたのだ」
「彼女を守るためにですか……あれ? ということは押し入った強盗は……」
「無論……きみの考えている通りだ」
「強盗するところを間違えましたね……お気の毒に」
「いや、強盗の実行犯……クラークという男を裏で操っていたのはディザスターの人間だった。あとから車で庭にはいってきたのがそれだった。
……といっても私の資産目当てのチンピラ並みの末端構成員だったがね」
「…………なるほど」
空は完全に暗くなり、車は山道にさしかかった。
これから向かう作戦場所はもうすぐだった。
「……サー・ギボンズ、あなたに聞きたい」
「何かね」
「彼女を……ステラを雇ったのは何故ですか」
「彼女も言っただろう、紅茶の技術を得るためだ」
「そうではない、強盗の押し入ったあとのことだ」
「…………」
珍しく、ギボンズ卿はすぐに応えなかった。
表情はいつもの通り隙を与えないものだったが、答えを決めかねているようにも見えた。
「『スタンド使いはスタンド使いにひかれあう』……」
「…………」
「彼女がスタンド使いだとわかったあのとき、この出会いも何かの運命だと感じた。だから気まぐれに雇っただけだ……」
それは違う、と俺は思った。
『スタンド使いはスタンド使いにひかれあう』、この言葉は間違いではない。
俺がギボンズ卿と出会ったこと、ドナルド・ハーディンと出会ったこと。
トーナメントという場、ディザスターという組織にきっかけはあったにせよ、
俺やドナルド・ハーディンは『スタンド使い』としてギボンズ卿に出会った。
だがステラは違う。
二人の出会いに、スタンドは介在していない。
たまたま、後でスタンド使いだとわかったというだけだ。
ギボンズ卿が「出会いも何かの運命だと感じた」のなら、それはスタンド使いとしての運命ではない。
それは……人としての運命だ。
俺はそう思う……。
「私の正体は……彼女にはくれぐれも内緒にしておいてくれよ」
それは、もちろんだ。
俺はこの運命に興味がある。
ステラ・フォスターがサー・ギボンズに「人として」もたらすものは何か……俺はそれを見たい。
『くれぐれも紅茶のことは内緒にしてくださいね』
彼女が言った言葉をふいに思い出す。
きっと、ギボンズ卿はティーバッグのことなど気づいているはずだ。
1年も同じ紅茶を飲み続けていればさすがにバレるだろう。
ならばギボンズ卿が彼女を屋敷に置いている理由も何かあるに違いない……。
「そういえばジャン、きみは彼女の淹れた紅茶を飲んだか?」
「え゛っ……? は、はい」
思わず声がうわずった。
「……なかなかの味だっただろう。あれだけはどうしても彼女にはかなわないのだ」
(な……何ィィッ!!? 気づいてないのか!!?)
「スタンド」と「紅茶」……奇しくも双方の秘密を俺は握ってしまった。
(絶対に言うわけにはいかない……特に紅茶のほうは)
道のむこうに照明のついた倉庫が見えてくる。
取引はおそらく決裂し、またも多くの血が流されるのだろう。
明日をも知れぬ場所に身を置く俺だが、尚更死ぬわけにはいかなくなった。
運命を見届ける使命を俺は与えられたような気がしたから。
【騎士と紅茶と、シャンデリア】 おわり
出演トーナメントキャラ
No.4861 | |
【スタンド名】 | フリーズ・フレイム |
【本体】 | サー・ヘクター・ギボンズ |
【能力】 | 殴ったものの時間を「凍結」させる |
No.5291 | |
【スタンド名】 | ポラリス |
【本体】 | ステラ・フォスター |
【能力】 | スタンドの提げているシャンデリアに照らされた者を硬直させる |
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