事象龍とは


「事象龍――それ自体が分類種に分けられる存在。
 自然・感情・概念など、世界を構成する事象が、生物として最高種である龍の形を取ったもの。全知全能にして不滅、事象との融合を果たし、神として崇められることも多い。
 彼らを生物としてみるか否かは議論が分かれているが、事象そのものではなく、事象の御遣いと見られることが一般的である。
 その証拠に事象龍は不滅であっても不老不死ではない。年月その他何らかの事情や敵対存在の手にて事象龍が死ぬことがある、と伝承では伝えられている。
 実際にそのような事が起こった報告はないため、真実は不明であるものの、その場合事象がまた新しい事象龍を生み出すものと思われる。
 不滅であり不死ではないというのは、現象としては永遠であったとしても個としての存在は一龍にしか過ぎないということを.....................」
                          魔物生態辞典 第3版 より抜粋






事象龍

「暁」「黄昏」「原初」「蒼」「月」の図



自然


感情


理念


現象


その他




事象存在

 事象より現出してそれを司る事象龍とは異なり、既存の生命・物質から事象を司る存在へと「成り上がった」もの達。
 総じて龍以外の姿をとり、格としては事象龍の下に位置される。
 なお、勇者魔同盟についてはそれぞれの項目を参照のこと。



龍の騎士


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事象龍についての考察

1)事象龍。言わずと知れた、世に遍く事象の具現した存在たちである。
 彼ら(ここでは彼ら、とする)は通常、『アニマ』と呼ばれる特異な物質で構成される。
 これは、正確には物質と呼ぶのが正しいのかさえ筆者には解らない。
 と、言うのもこの物質は所謂経験値、と呼ばれる魂の欠片の一種であるからだ。

 また、アニマ、とは各々の生物種に取り込まれる前の魂の欠片である、と一般には理解される。
 まず、このアニマと言う要素は、様々な宗教によれば普遍的に世界のあらゆる場所にある。
 生物種に取り込まれるか、その精神の影響を受ける事で様々な色、言い換えれば
特質を得る事ができ、対象を殺害することで一般的に摂取することもできる。
 そうなったアニマを通常は魂の欠片、あるいは経験値と呼ぶのである。

 それは例えば冒険者達の戦いにおいて活用される。
 より抽象的に言えば、魂の欠片の量はその生物の種としての階位を示すのである。
 その意味で、この世界は一種巨大なヒエラルキーを作り出している、といえるだろう。

 だが、幾ら多量の魂の欠片を保持する固体と言えども、結局の所、物体的な体を持つ点で、
制約を受けうるし、純粋に精神のみの存在も有り得ない。
 なぜならば、彼らの精神は事象龍達の存在よりも遥かに脆いからである。
 事象龍達は、魂の欠片そのものが形をとっている点で、それらとは大きく異なる。
 器と水の関係を思い浮かべていただければいいだろう。
 事象龍に成る程の量を注ぎ込むのは、一固体の精神では不可能なのだ。

 その原因が量的な物によるのか質的な物によるのかは定かでは無いが、
ともかく、純粋に『アニマ』で構成されていると言う点が彼らを種としての
一つの大きな特徴である、と言える。

 (筆者:エスト=アルキエ 魔物考察学研究員)



 事象龍が司る事象、その意義の分類というものは、完成を見る事が極めて困難な作業である。
 どのくらい複雑で困難かと言うと、それを詳しく述べようとするだけで数冊の報告書が出来上がってしまうほどだ。
 詰まる所、これは全く終わりの無い作業であり、この辞典に記した事象の分類も便宜的な意味合いが極めて強い事をここに断っておく。

 (筆者:リカナディア=アーキィ 魔物生態研究所所長/魔物生態辞典第12版・事象龍の項目に於ける編者コメントより)



 なぜ龍なのか。
 事象存在はその大半が龍の姿を模している。わずかな例外は存在するものの、それは極少数であり、圧倒的多数が龍という姿で確認されている。そのことについて、私は一つの疑問を諸君らに投げかける。
 なぜ龍なのか、と。
 事象とそれ以外の「交渉役」、あるいは「意志の発露」としての形ならば、何も龍の形である必要はない。利便性から言うのならば魔王たちのように人型であればいい。交渉、交流をするのならば、この大陸の半数を占める人類と同じ直立二足歩行型であるべきなのだ。我々は見知らぬものには恐怖を覚えるが、それが自身に近い姿形をしていれば、たとえ素性が知れなくとも心のどこかで信頼してしまう生き物なのだから。
 つまるところ、彼らは交渉、交流、あるいは接触を望んではいない。あくまでも対等でありながらも一方的な関係を、彼らは望んでいるというのだろうか。
 しかし、この仮定はある事実によって覆される。事象龍のうち、幾数かは人型を取り得ることが確認されている。蒼のいんぺらんさしかり、黄金の聖騎士?しかり。彼ら、彼女らの方から意志の疎通を望み人型をとる場合がある。
 では、なぜ、龍なのか。
 ひょっとすると、彼らが望んだのではなく。
 彼らは望まれただけなのでは――――――――――

 (筆者:ハロウド=グドバイ 魔物生態学者)


 事象龍信仰に関する覚書。

 通常、事象龍と呼ばれる存在は、その信者を省みない。
 何故なら、彼らにとって我々は余りにちっぽけな存在であるからだ。
 極稀に、恩寵を受ける者もいるが、これは例外中の例外であろう。
 その僅かな事例とて、詳細に調べれば、恩寵と言うよりは利用である、という印象を抱かざるを得ない。
 神の姿を見ることが出来るのは死者のみ、と言う事だろうか。

 それはある意味で言えば我々人類に、己の傲慢さを思い起こさせる事実かもしれない。
 彼らは路傍の石ころにも、偉大なる王にも平等なのであろう。




 事象龍と少女

 記録に残る多くの事象龍は少女の姿をとったとされる。
 代表的な例で言えば蒼のインペランサ、白雷のグラニエス等である。
 彼らが何故少女の姿をとるかは推測することしか出来ないが、
 一説に、ももっちと同様に人とコンタクトを取るのに最も適した
 姿だからと言われている。
 そして数々の伝承から考えるに、それらの龍の策は大いに成功していると
 言えよう。



 事象分化論について

 さて、宗教経典や『アグナストリア』に記されている者から、
 殆ど人には知られぬ者達まで、一口で事象龍と言っても様々である事は確かであるが、
 これまでに調査が及んだ所によれば、殆ど同じ権能を持っていながら、
あるいは既に他の事象龍が担うところのものを、自らの役割とする龍が少なくない。
 これは何故であろうか。
 私が用意できる回答は幾つかある。
 一つには、同じ事象龍を指し示しながら、それを見た地域によって呼び名が異なる、
と言うものであり、
もう一つは事象分化論、つまり、大本となる事象龍から権能を託され
別の龍が生まれたのではないか、と言う推測である。

 学会においては、今のところ前者が有力ではあるが、興味深い考察であるので
少々事象分化論についての紹介と雑感を交えたいと思う。
 まず、これが一種の統一論である所は異論が無いだろう。
 Aと言う事象龍より、その力の一部から分化したBと言う事象龍が生まれる、
というのは既に述べたが、これはそも暁のトランギドールと白雷のグラニエスの
関係に対する、通説への批判から考えだされた論である。
 残念ながら、現在では白雷が観測できなくなった事からお蔵入りとはなったが、
これは(通常の概念とは異なるとは言え)事象龍もまた、一個の生物である、と言う
根本定義を補完すると言う役割を果たしえた。

 そも、かくの如き曖昧な存在に対する考察は単なる学者の慰みと言う向きが
無いでは無いが、それでも宗教関係者や多くの者にとっては重大な関心事であり、
それ故に、味も素っ気も無いと言える現在の通説とは対立を鮮明にしている。

 が、そもそも観測例があまりに少ない事象龍と言う種に対しては、
結論を出すにしても、人魔大戦(仮)?以前の数少ない資料の積み重ねによって
答えを導かざるを得ず、どうしても歴史学・神学的色彩を帯びる、と言う指摘は
あながち間違いでもないだろう。



 事象統一論について

 時折耳にされる方も居られるかも知れないが、事象統一論、と言う考え方がある。
 それは大きく分けて二通りに大分されるだろう。
 即ち、一個の事象龍を中心として他の全ての事象龍をその下位に置くという考え方と、
今一つは、事象龍はそもそも我々にとって
観測し難い根源から現れる力の表れに過ぎないと言う考えである。

 前者であれば、恐らくは今も各国で見られる様な
『主神』を定める程度の役割を果たす事だろう。
 何故ならば、これはある種の権威付けとでも言おうか、それそのものを見たなら
単に事象龍と呼ばれる数多の龍達の間の序列を定めるだけに過ぎないからだ。
 その副産物は兎も角、我々自身にとっての分類論に過ぎない、と見る事もできる。

 後者については少々説明を含みたいと思う。
 そもそも事象龍とは我々自身が知覚する所の現象の具体であり、
一種の知覚できる形而上の生物と一般的に定義される。
 魔法や数々の理論は彼らを元とした物が少なく無いのだから、ご理解頂けると思う。

 だが、これらは同時に我々が実体として知覚できる時点で
既に形而下の存在であるとも言える。
 現象の具体とはこのような意味である。
 つまり、概念=存在であるのが彼らなのだ。
 これが両方向の物である事は少なくとも現存している事象龍については当てはまろう。

 しかし、一方で、例えば私が隣にある本に目を移したとする。
 そこにあるのは本と呼ばれる物体であり形而上として本を含む。
 例えその他に多数の認識による他の定義はあるとしても本は即ち本であろう。
 天地がひっくり返ってもそれが変わる事は無い。

 所で、先ほど事象龍とは形而上の概念がそのままの形で、
認識できる具体を取った物と述べた。
 然るに、本来であれば『本』の事象龍も存在する事になる。
 だが、私はその様な事象龍を寡聞にして聞かない。
 他の概念にしてもそうだ。
 人が認識しうる限りに置いて概念は有限ではあるが、
とりも直さず多数在る事は事実である。

 事象龍とは概念の具体であると述べるならば、概念の数だけ事象龍が居り、
そうであるならば無数の龍によって地上は埋め尽くされていなければならない。
 しかし現実はそうでない。

 それは何故だろう。
 一つには、概念と等しい存在であるが故に、
法則に基づいてしか行動が出来ないのではあるまいか。
 極めてマクロ的な視点を持つのならば、
特に栗鼠などの居ない木の林檎が枝から落ちる様子を思い浮かべて頂きたい。
 林檎は枝から千切れた時点で落下を開始する。途中で鳥や人に捕まえられたとしても、
千切れた瞬間に落下し始める事は変わらない。
 これと同様に、ある因果の因が始まった時点で
果としての事象龍が現れる、と言う訳である。
 最も、この場合ならば、単純な事象などは時と所を選ばなくなるとも言える。
 マッチは何処ででも擦る事が出来よう。

 今一つには、事象が必要とする魂の欠片の総量が足りない、と言う説である。
 この事は『アニマ』の有限・無限に関する論争とも関連してくると言えよう。
 この仮説には、前述のアニマ有限論を前提とする。
 だからこそ大量のアニマでもって体を構成せざるを得ない事象龍は、
おのずとその数が限定されるのである。
 計測が不可能である以上、これ以上の考察も又不可能であろう。

 さて。
 事象龍とは概念が具体化したとされる生物である。
 思うに、彼らは何故その様な姿をとる事が出来るのだろうか。
 例えば河を見る。水が流れている。
 しかしそれらはある日突然『こう流れる事が己の概念だ』と言って龍の姿はとらない。
 それは単に概念が事象龍として結実する機会を得ていないだけかもしれない。
 だが、因果の結果として現れるのだとしても、その顕現のプロセスとして、
何らかの法則性が含まれる事は否めないだろう。
 来たるべくして来る、と言う言葉はある意味何一つ語っては居ない。
 私が知りたいのは因果の間における法則のつながりである。

 ……思うに。
 事象龍が顕現するに当たっては、超形而上的な何者かの作用があるのでは無いか?
 彼らの様に限定的な権能では無く、もっと根本的で、もっと力強い何者かが、
彼らの行いをして由し、としているのでは無いか?

 しかし私はこのように考えていくと、どうにも居心地が悪くなって仕方が無いのだ。
 まるで今の世界そのものが、本来のそれとは違うように思えてならなくなる。

 (筆者:フリードリヒ=ツァール=トリストラム?/遺稿集第一巻より)



 事象位階論

 事象分化論から生じた議論で、いわば現在確認されている事象に位階を付け、分類しようと言う試みである。
 魔法で言う所の四大要素と関連付けて捕らえようと言う学派が主流であるが、
近年、極東との交流が盛んとなり彼らの用いる独自の魔法体系の適用を行おうとする者も多い。



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最終更新:2013年04月23日 01:31