■1.はじめに



<目次>


■2.坂本多加雄『象徴天皇制度と日本の来歴』紹介と抜粋

象徴天皇制度と日本の来歴   ☆文庫本で復刊(2014年4月)  坂本多加雄(著)

<目次>
序章 相互理解とは何か
第1章 「選択する自己」から「物語る自己」へ
第2章 国家の来歴
第3章 戦後日本とその物語
第4章 日本国憲法とフランス革命の物語
第5章 近代日本における国家制度の形成過程
第6章 象徴天皇制度と日本国憲法第一条
第7章 近代国際社会と日本
終章 ふたたび相互理解について

★内容説明★
「戦後の来歴」に拘束され、近代以降の歴史を否定的に見る習慣が身についた日本人。しかし「戦後の来歴」自体、ひとつの物語にすぎない。国際社会で日本が演じた事柄や天皇の存在について、戦後五十年を経た今こそ、幕末以来の「国体」観念や「憲法」を中心に見直し、新たな物語を語るべきではないか。気鋭の政治思想史学者による「日本の来歴」探求の提唱。


▼1.第三章 戦後日本とその物語

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これまで、日本とは何かという問に対しては、様々な「日本文化論」や「日本人論」と称しうるようなタイプの議論が展開されてきた。
そして、その多くは、日本人の特性や、発想法法、集団の組織原理、あるいは、様々な文化遺産などを列挙して日本を明らかにしようとするものであった。
しかしながら、個人の場合と同様、このようなある種のアンケート方式による説明は、通時的に存在している日本の姿を明らかにするものでは必ずしもなかった。
実際、このような特性を様々に列挙してみたところで、たとえば、戦前と戦後の間における日本の変貌といったものを説得的に説明することはできないであろう。
かくして、日本とは「何者」かという問についても、日本の歴史を語ること、われわれの言葉で言えば、来歴を語ることが要請されることになるのである。

個人に関して、その来歴が問題になるのは、他者から自らの「何者」を問われる場合であり、さらに、不確実な事態を前にして、自分自身が、自らの「何者」であるかを確認しなければならない状況においてであった。
同様のことが、日本の来歴についても当てはまる。
数年前の、アメリカ合衆国から突如のごとく突きつけられた「日本異質論」は、日本が他国から「何者であるか」を問われた戦後初めての事例であった。
それ以降、湾岸戦争への参画やカンボジアPKO派遣という、これまでの日本が際会することのなかった事態をめぐって、自らにふさわしい行動のあり方が何であるのかが、当の日本自身にとって、にわかに切実な問題として登場してきたのである。

ただ、今日の日本が直面しているのは、新たに誕生した国家が、自らの来歴を新たに構想するというような状況ではなく、従来の少なからぬ人々が前提としてきた日本の来歴に対して、まず、どのような態度を取るべきであるかという問題であるように思われる。
戦後の来歴については、さしあたり、日本国憲法の理念とされた平和主義と民主主義を軸とする物語を思い浮かべればよいであろう。
そこでは、戦前までの日本が、非民主的な政体のもとにあって、対外的には、軍国主義的な侵略戦争の道を歩み、その目論見が失敗した結果、「国民主権」の実現と非武装の確立という新しい理想に目覚めて再出発したという「回心」の物語が語られていた。
湾岸戦争の際に、半世紀近くにわたる戦後の日本の「平和主義」の危機が叫ばれたり、ここ数年来の「戦争責任」・「戦後補償」をめぐる喧しい論議も、このような従来の来歴が改めて先鋭な意識の対象に上っていることのあらわれである。

先に、戦後のわれわれが前提としていた来歴が、あくまで物語であり、客観的な歴史そのものではないということを述べた。
そのことの意味は、この来歴には、特定の語り手がおり、そこには、その語り手の実践的な関心が投影されているということである。
このような物語は、誰によって語られたのであろうか。
今さら言うまでもないが、日本に対して極東国際軍事裁判を挙行し、日本国憲法の実質的制定者となった連合国軍司令部であるということになるであろう。

そこには、第二次大戦を「全体主義」に対する「民主主義」の戦いと定義することに対応して、日本を民主化し、軍隊の所持を禁止することで、日本が今後国際社会の中でトラブルメーカーたりえないようにするという実践的意図が働いていた。
国際社会は、本来、「平和を愛好する諸国民」によって構成されており、日本を含めて、旧枢軸国の勢力が台頭しない限り、世界の平和は維持されるという考え方が、その前提となっていたのである。
しかしながら、このような考え方が、およそ戦争勃発についての因果分析としては非常に不十分な見解の上に立脚しており、それこそ物語の域を出ないのは、自ずから明かであった。
実際、冷戦の開始とともに、当の連合国の中心にいたアメリカ自身が、このような物語を放棄して日本に再武装を要請することになったのである。

日本政府は、警察予備隊の設置でこれに応えたが、本格的な再軍備の要請に対しては、国力の欠乏のゆえに、これを拒否した。
しかしながら、これ以降、アメリカによって与えられた憲法の条文と、これまた、アメリカの要請によって設置されたところの、限定されたものとはいえ、「軍隊」の存在との矛盾に、他ならぬ日本人が苦しむという奇妙な光景が展開することなった。
にもかかわらず、これが、それほど奇妙なことと意識されなかったのは、マスコミや知識人を中心とする国民の少なからぬ部分において、このような他国によって語られた来歴に真剣に同化しようという傾向があったためである。
日本国憲法の平和条項が、日本側の発意によるとする説が熱心に支持されたり、アカデミズムの世界で、日本の平和主義の淵源を歴史的に探求するといった試みがなされたのは、そのあらわれである。
一般的に考えると、他人によって強要された物語を自分の物語として語るということは、個人の場合においても、自尊心を傷つけるものである。
従って、占領終結以降、「自主憲法制定」が一部の人々によって主張され続けたことも無理からぬところである。
にもかかわらず、このような主張よりも、新たな来歴を自己のものとするという傾向の方が優位を占めたのである。
それは何故であったか。

ひとつには、逆説的な言い方になるが、多くの人々の間に、自らの歴史において未曾有の犠牲を払ったうえでの敗北という事実を、合理的に納得したいという感情があったことである。
すなわち、何ら非難すべきでない行動を取ったにも関わらず、惨憺たる悲運に見舞われたとすれば、それは、この世が、なにか言いしれぬ根本的な不条理によって蔽われていることを意味する。
無論、現実の世界史の過程には、このような事例が、それこそ山のように満ち溢れている。
二十世紀に限定してみても、ナチス・ドイツは断罪されたが、ソ連支配下にあったユーラシア大陸に眠る数千万の人々に対してなされた犯罪については、決裁はおろか、その実態さえ十分に判明しないままである。
にもかかわらず、国際社会に参加して間がない日本人にとっては、こうした歴史的な悲運は初めての経験であり、どうしても受け容れがたいことであった。
この場合、もし、日本が不正な働きをしたことの罰として、このような経験を嘗めているのだと考えれば、少なくとも、この世は、ついには正しい正義が貫徹する場なのだと見做すことが可能になるわけである。
すなわち、日本人は、いわば、世界の合理性についての信念に固執したいという願望の代償として、過去の日本の側の不条理を受け容れたのである。

かくして、戦後の日本においては、自国の過去を糾弾する一方で、国際社会というものが、国内の市民社会以上に、正義が貫徹する倫理的に高い次元にあるものだとする一般通念が抱かれることになった。
日常生活においては、それなりにリアルな感覚で生きている人々が、こと国際関係を論じるとなると、不思議なほど「理想主義」的な観点から発言したりする傾向が見られるのはその一例である。

次に考慮すべきは、戦後の日本の来歴の根底にあった、民主主義と平和とを不可分のものとして捉える考え方が、連合国によって、単にその時点で打ち出されたものではなく、十八世紀以来、自由主義に立脚する国際政治観として、それなりの思想的伝統を持つものであったということである。
そこでは、戦争は、各国君主たちの個人的な名誉や栄光を追求するためになされるのであり、これに対して、民衆は本来平和愛好的であり、民衆が政治権力を獲得すれば、すなわち、各国で民主主義が達成されれば、世界の平和は自ずから招来されると考えられていた。
この考え方が、後にみるように、第一次大戦後、欧米諸国の新たな国際法観念に影響を与え、第二次大戦の連合国の共通のイデオロギーとして掲げられることになったのである。
そして、このような考え方が、そのまま「人類」を主体とする「世界の進歩」の来歴として語られうるものであったことは言うまでもない。

戦後の日本に課せられた来歴を積極的に受け容れようとした人々は、連合軍の実践的関心の向こう側に、そうした特定の国家という語り手を捨象した「世界の進歩」の来歴を読み取り、まさしく「人類」の名において、それを自らのものとしようとしたのである。
日本国憲法が、その実際の制定者が誰であれ、その内容が正しいのだから受け容れるべきであり、日本は、世界に先駆けて平和国家を実現しなければならないとする主張は、そのあらわれに他ならない。
その際、日本が「唯一の被爆国」であるということも、日本がそのような「特別の使命」を帯びていることの根拠であるように思われた。
このような人々にとって、冷戦開始以降の連合国、とりわけアメリカ合衆国の動きは、先に自らが提示したはずの日本国憲法にうたわれた輝かしい人類の理想を放棄して、国際社会の中にことさら対立を持ち込み、世界の進歩の大勢に逆行するものと映じた。
すなわち、アメリカが、一見して理想主義的な装いを保ちながら、実は、その利己的な国家利益に基づいた無節操な方針転換を行っているのではないかということへの反発が生じたのである。
そこには、また、アメリカ占領軍を日本に民主主義をもたらした「解放者」と捉えながらも、アメリカ軍がやはり、何と言っても強大な占領権力であるという実感から生まれる潜在的な敵愾心もあったように思われる。
そこから、たとえば、朝鮮戦争が韓国側によって開始されたという説が熱心に主張されてアメリカ批判の論拠となったり、また、冷戦の開始の原因をアメリカ側の対外政策に求める議論がいち早く紹介されて、多くの支持を集めたり、さらには、ベトナム戦争や、先年の湾岸戦争において、一部の日本人が日本国憲法の理念を掲げてアメリカ合衆国に抗議するという現象が見られることにもなったのである。

このようなアメリカへの批判を側面から主導する形で大きく登場してきたのが、もうひとつの「人類」を主体とする来歴であるマルクス主義的歴史観の影響であった。
マルクス主義による来歴の公定的解釈権は、当初ソ連が独占しており、戦前のコミンテルンによって発せられた様々な「日本に関するテーゼ」は、ソ連が以後に実現していくべき世界革命の物語の一環として、日本の来歴を位置づけるものであった。
戦後に復活した日本のマルクス主義においても、しばらく同様の事態が見られたが、やがて中国をはじめとして、他の社会主義国が誕生するに及んで、日本のマルクス主義の各党派は、マルクス主義的な日本の来歴の解釈を、それぞれの社会主義の模範とする国に仰ぐという状態が続き、やがて、「現存社会主義」のすべてに失望した人々の中から、新たなマルクス主義の解釈の試みがなされることにもなった。

しかしながら、このような様々なマルクス主義の各党派に共通していたのは、ひとつには、アメリカを「帝国主義国家」と見做して、これと戦うべきことを主張していたということ、そして、アメリカに追随する現存の日本国家やその社会体制を、社会主義革命のために打倒すべき存在と位置づけていたことである。
かくして、冷戦開始以降のアメリカを批判する平和と民主主義の来歴と、アメリカの政治社会体制よりも進んだ段階を志向すると称するマルクス主義の「人類」の来歴とが、後者が前者を主導する形で合流することになり、戦後日本の現存の政治社会体制を批判する言説の構造が成立することになったのである。

そして、このことが、戦後の様々な価値観や観念に特有の歪みをもたらすことになったのである。
たとえば、「人権」の擁護といった普遍的な観念が、もっぱら日本の政府与党や大企業、あるいはアメリカやその同盟国への批判の文脈でしか登場することが殆どなかったのもそのあらわれである。
自衛隊員の子弟の公立学校への通学が普段は人権を主張する人々によって妨げられるといった奇妙な現象が生じたり、かつて、大韓民国やフィリピンの人権状況が様々に非難されながら、北朝鮮やソ連などの共産圏の人権状況については、国家の制度が西側とはそもそも異なるといった理由にならない理由によって問題にされることがなかったことは、なお記憶に新たなところであろう。

かくして、こうした来歴のもと、日本人は、かつて、偏狭な「国家」観念の悪夢から目覚め、新しく、「人類」的立場において、世界に臨まねばならないという考え方が広がることになった。
すなわち、この新しい来歴においては、そこで相対的な意義しか持たない「国家」という観念が忌避され、「人間」とか、「市民」とか、「人民」とかいった「普遍的」な名において、日本のありうべき態度が語られることになった。
戦後の日本の来歴が持っているある種のコスモポリタンな性格はそこに由来し、また、戦後の人々を捉えた「国際連合」への過度な思い入れも、そのことと無関係ではない。

そこから、たとえば、国際社会において様々な問題が生じる度に、日本人の多くにおいて、当事者意識が稀薄なまま、それを日本という具体的国家の生存や利害と関連づけて理解するのではなく、あたかも高踏的な第三者のような立場で臨むといったような姿勢が生まれたのである。
湾岸戦争の際に、アメリカの「本当の意図」について倫理的見地から様々な批判が加えられたり、「国際貢献」といった本来他人の事業への協力を意味する言葉で日本の施柵が論じられたり、あるいは、隣国である北朝鮮の核疑惑をめぐって、もっぱら世界のNPT(核拡散防止)体制の維持といった観点のみが前面に出てくるのは、そのあらわれである。

戦後の日本が同化しようとした来歴の問題点は、それが、もともと他国によって語られたものであるという以上に、その内容が著しくリアリティを欠くという点にあった。
もとより、戦後の多くの人々の平和への願望は、実感に基づくものであった。
しかしながら、その上に織りなされた「平和と民主主義」をテーマとする「人類」の来歴は、本来、ある特定の歴史観に由来するものであり、そうした歴史観は、とりわけ二十世紀以降の現実の歴史を説明するものでもなければ、また、ある具体的な国家の過去の事蹟に一貫して言及していくような来歴でもなかった。
この点、たとえば、アメリカ合衆国のように、世界各地から流入した人々によって構成された国家の来歴の場合は、「人間」とか「人類」の名において、それを語ることは、一定のリアリティを持ち得るかもしれない。
もっとも、その場合でも、それは、アメリカという具体的な場を想定し、そこで生じた個々の事実に言及する限りで、あくまでアメリカ合衆国という国民国家の来歴に他ならない。

すなわち、世界には、「人類」の来歴を、真の意味で自らの来歴として語りうるような国民は存在せず、したがって、それは、一定の場において生起する個々の言及すべき具体的な事実を欠いたきわめて抽象的な人類史の見取図のようなものに留まるものであった。
比喩的に言えば、それは実在性を欠いた架空の理想的な人物の生涯を描いたフィクションのような存在に過ぎなかったのである。
この点は、戦後の日本において、「平和と民主主義」の物語と合流したマルクス主義というもうひとつの「人類」の来歴についても、ある程度当てはまる。
しかしながら、マルクス主義は、ソ連をはじめとする現実の行動主体たる国家の来歴に組み込まれ、世界史の舞台で、そうした見取図の一部が実際に演じられることで、単なるフィクションに留まらないリアリティを有していた。

このような戦後の来歴が日本に要請する行動が、かの非武装中立政策であった。
非武装が、「平和と民主主義」の歴史観についての十九四五年時点での連合国側の解釈、すなわち日本を世界のトラブルメーカーと見做す解釈に固執するところから生まれるものであり、平和主義の直接的帰結であり、中立が、国際社会における高踏的な第三者的立場を象徴するものであったことは、敢えて言うまでもないであろう。
しかしながら、それは政府与党の採用するところとならず、その結果、こうした来歴は、せいぜい、世界の現実に対する、「市民」としての、あるいは「人民」としての抗議の姿勢としてあらわれるしかなかった。
ただ、非武装中立政策が実行に移された場合、日本の将来は、より強力なリアリティを持ったマルクス主義の来歴の成就へと、具体的にいえば、マルクス主義的歴史観に立脚した他国が日本について想定する物語の実現へと組み込まれていった可能性が非常に大きい。

ところで、このような非武装中立の道を選択しなかった政府与党においても、本来「自主憲法制定」を党是としながらも、「平和と民主主義」の来歴の内容を真に受け容れるか否かということとは別に、その物語が要請する日本の国際社会でのあり方が、さしあたり、日本にとって有利であるとの判断が次第に大勢を占めることになった。
すなわち、政府与党とそれを支持する人々の間においては、一部では、戦前の失われた来歴への郷愁が抱かれながらも、全体としては、国家の来歴といったことに正面から取り組むことを避け、もっぱら当面の現実主義的な判断に依りつつ、戦後復興と経済成長に専念するという方向がとられることになったのである。

その際、「人類」の来歴は、そこから「理想主義」的要素が排除されてしまうと、単なる物質的欲望と生理的な意味での快・不快という基底レベルの「普遍性」に着目する「人間」の立場に転化することが容易であった。
すなわち、「人類」の来歴は、この意味での「人間」の立場に転換することで、戦後日本の経済活動への専念と平和主義的心情を側面から合理化することになったのである。
「経済的豊かさを享受したいと思うのは、人間に共通の感情である」。「自分や自分の家族が戦争の犠牲になるのは、誰にとっても忌まわしいことである。故に、他のあらゆることを無視しても戦争を避けねばならない」という論理がそれである。
このような「人間」の立場は、しかし、その都度現前してくる様々な基底レベルの衝動や喜怒哀楽の情が、人間一般に普遍的であることを説くのみであり、もはや、いかなる意味でも文化的・倫理的なレベルでの通時的な存在としての人間を根拠づけるようなものではない。

かくして、戦後の日本人は、こうした来歴の形骸化もしくは喪失のなかで、時に応じて噴出してくる、これもまた単なる自然的な同胞感情に過ぎないナショナリズムに身を委ねながら、それを日本という国家の来歴のなかに自覚的に昇華して語ることがないままに、かつての鎖国時代にも似た安穏な日々のうちに、それぞれの私的生活の充実にその関心を集中することになったのである。

ところが、湾岸戦争以降、次第に明らかになってきたのは、日本が、国際社会での軍事を含めた活動への不参加を表明する際に、「人類」を主体とする来歴をその「理由」として掲げ、「人間」としての立場を強調してみても、世界の国々が、必ずしも理解を示すものではないということであった。
その場合、そもそも重要なことは、先に述べたように、「平和と民主主義」というテーマは、それこそ「普遍的理念」として、世界の多くの国々で賛意を表明されることはあっても、その抽象性の故に、日本という特定の国家の長期にわたる事蹟を特徴づけるものとして受け止められる性格のものではなかったということであった。
しかも、戦後の日本の国家としての現実の軌跡を決定してきた政府与党とそれを支持してきた人々が、そうした「人類」の来歴に真の意味で内面から同化しているか否かも不明であった。
すなわち、戦後の日本の平和主義をいくら強調しても、日米安全保障条約という現実の国際政治の力学を決定するシステムのなかに現に位置している日本の姿が念頭に置かれて、要するに、日本は西側の大国の軍事的庇護のもとで、単に大規模な軍備を自前で調達する必要はなかったのだと解釈されるに留まったのである。

湾岸戦争は、また、世界の国々の人々が、単に「人間」の基底レベルの普遍性に立脚してのみ思考したり行動したりしているわけではないことも、明らかにした。
当時、夫が多国籍軍の一員として中東に派遣されることになったあるアメリカの婦人はインタヴューに答えて、「夫が戦場に派遣されることは、大変つらいけれども、イラクの犯した不正を放置することはできない」と語った。
このひとりの平凡なアメリカの主婦の言葉の中に、日本人と同様の「普遍的」な「平和主義」的心情が表明されながらも、それに重なり合うような形で「正義」の観念が影を落としていることは容易に見て取れる。
もとより、当時もしばしば議論されたように、国際社会において、「正義」とは何かということは容易に決着がつかない問題であろう。
しかしながら、ここで少なくとも明らかになったのは、「人間」としての普遍的な喜怒哀楽の感情をストレートに表明すれば、そのまま世界に受け容れられると考えるのは、日本人だけの思い込みだったのではないかということである。
確かに「平和」は誰にとっても望ましい。
しかし、「大いなる不正」のもとでの「平和」についても、そのようなことが無条件に言えるのか。
おそらく、ここから、人間の基底レベルの感情や反応を越えた真の思考が始まるのであり、湾岸戦争は、そのことを改めて告知するものだったのである

ここで改めて考えねばならないのは、従来のわが国で、非武装による「世界平和」の実現といった考え方が、何の留保もなく、直ちに「理想主義」とされてきたことについてである。
そのような主張に対して、「そうした理想は立派だが、現実には・・・」といった言説もまた、ステロタイプとして流通してきた。
問題は、果して、このような主張そのものが、無条件に「理想主義」と呼びうるものであるのかという点である。
もっとも、一切の侵害に対して、武力による抵抗を行うべきではないということが道徳的見地から積極的に主張される例は、日本では、必ずしも戦後に限られるわけではない。
明治期において、中江兆民は、その著『三酔人経綸問答』(明治二十年)のなかに、「元来人を殺すは悪事なり」という前提から、正当防衛の場合の暴力行使も禁止すべきことを導き出し、そうした考え方を国家全体の外交政策にも及ぼすべきことを主張する人物を登場させ、次のように語らせている。
「僕の意に於て我邦人が一兵を持せず一弾を帯びずして敵寇の手に斃れんことを望むは、全国民を化して一種生きたる道徳と為して後来社会の模範を垂れしむるが為めなり」。

湾岸戦争の際にも、これに似た発言がみられた。
しかしながら、日本が同盟国も持たず、周辺に巨大な帝国主義国家が控えていた時期における、こうした道徳的な「理想主義」の主張と、日本が実際の戦闘に直面したわけでもなく、単に多国籍軍への協力を求められ、それを機に、「戦争」をめぐる言葉のみが飛び交うようになった状況にさえ危機を感じて、そうした主張がなされるのとでは、現実に対する緊迫感の度合において、格段の開きがあるように思われる。
しかも、戦後の日本の「非武装中立論」は、多くの場合、現実に脅威は存在しないとか、あるいは、武装を行うことがかえって危機を招くといった観点からも唱えられていたのであり、実際、「非武装中立論」の方が「現実主義」的であるといった主張さえなされてきたのである。
その場合は、兆民の著書に登場する人物に見られるような道徳的な緊張感はきわめて希薄であったといってよい。

ところで、注目すべきは、兆民自身は、このような「非武装無抵抗論」の立場には必ずしも同調していなかったことである。
実際、兆民は、文明国であるための基準は「善く戦ふ」か否かにあると述べて、日本の大規模な対外遠征による富国強兵化を主張する別の人物を登場させ、「戦は勇を主とし勇は気を主とす、両軍将に合せんとす、気は狂するが如く勇は沸くが如し、是れ別天地なり是れ新境地なり、何の苦痛有らん哉」と語らせる。
すなわち、戦争が、人間のある欲求や感情にかなう面があることを指摘するのである。
無論、兆民は、必ずしも、この立場に同調するわけでもない。
実際の兆民の立場は、この著書に登場する、さらにもうひとりの人物によって代表されているように思われる。
すなわち、その人物は、はじめの二人の人物の見解を、いずれも現実には施し得ない極論として斥け、外交はもっぱら「和好」を旨として、いたずらに戦争に訴えることは避けるべきであるが、万が一侵略を受けた場合は、戦術的には、「防守」を主眼として戦うべきであるというのである。

今日、兆民のこの著作を通してわれわれが学ぶべきことは、戦争と平和の問題を論じる際に、国際社会の現実を考慮し、さらに、そうした現実のなかで、人間や国家にとって価値とされることが多様であることを視野に入れて、複眼的に物事を眺めねばならないということである。
すなわち、武力による抵抗を否定する考え方を、誰もが無条件に承認する絶対的な「理想」と決めてかかるのではなく、あくまで、人間にとって追求されるべき他の様々な価値との関連で、その意義を考慮しなければならないということである。

実際、他ならぬ湾岸戦争を舞台として、このことを改めて思わせるような事態が生じた。
すなわち、最近明らかにされたところによると、イラク軍がクウェートに侵攻した際、クウェート軍司令部は事前にそれを察知し、政府に対して緊急事態発令を求めたが、政府はその発令を拒否、また、実際に侵攻が開始された時点においても、政府は、「何もするな」、「撃つな」という命令を発するのみで、クウェート軍は、イラク軍による国土の蹂躙を単に座視するしかなかったというのである。
当時のクウェート政府首脳部は、イラクの侵攻なしとの周辺のアラブ諸国の見通しを過信し、また、イラクのフセイン大統領の「政治的圧力」に屈したのだとされているが、このようなクウェート政府の対応が、「イラクから、クウェートに戦意ないと受け取られた」という(『読売新聞』、平成七年五月一四日朝刊)。
おそらく、軍事的な抵抗の姿勢を示すこと自体が、攻撃を挑発すると考えられたようであるが、結果は裏目に出たのである。

こうしたクウェート政府の態度は、われわれに何を考えさせるであろうか。
このクウェート政府の例は、もちろん、兆民の登場人物のように、自覚的な道徳的意思のもとに無抵抗を指示したわけではない。
しかしながら、そのことは、なおのこと、戦後の非武装論が現実に貫徹された場合の事態について考えさせるものを持っている。
先にも述べたように、日本の非武装論は、武装することが、かえって危機を招くという「現実主義」的見地からも合理化されているからである。
無論、どの程度に武装を行い、どの程度に抵抗することが、実際に、その国の平和と安全を確保することになるのかについては、具体的な状況によって様々な可能性があり、一般的なことを言うのは困難である。
問題は、むしろ、実際に抵抗したり、その用意をすることが、かえって攻撃を招くことになるといった考えのみに基づいて施された政策が失敗した場合、それがどのような評価を受けるかということである。
当時の自国政府のこうした対応の仕方を明らかにしたクウェートの調査委員会は、今日、それを「怠慢の極み」と非難しているとのことである。
実際、当時のクウェートの「怠慢」は、政治的な「怯懦」と「愚鈍」以外の何物でもないとの印象は免れないであろう。
戦後の日本は、折りに触れては「平和国家」であることを主張しなければならないという思いに駆られてきた。
しかしながら、「平和」の理念のもとに、武力による抵抗を一切放棄することは、人間や国家が追求すべきだとされている他の価値に照らして、無条件に賞讃されるものでは必ずしもないのである。

それでは、当初から、道徳的見地に立って非武装無抵抗を国策として掲げていた場合に、こうした「怠慢」との評価は回避されうるであろうか。
その場合、そうした方針に対して一応の理解がなされたとしても、兆民の登場人物が期待したように、他の国がそれを「模範」として仰ぎ見るか否かは疑問である。
というのも、良心的兵役拒否は、いくつかの国で、個人の倫理としては容認されているが、それを国家全体の方針とするといったことは、おそらく、一般には殆ど見られないことであり、賞讃される前に、むしろ、何か異常な行為のように受け取られる可能性が高いからである。

もっとも、ここで、外国の評価は問題ではない、日本自身の理想として掲げればそれでよいのだという主張も成り立ちうるであろう。
この場合、それは、日本という国の精神的自閉化を示す以外の何ものでもないが、ただ、これまで、何故、日本のみが、そのような理想に立たねばならないのかという疑問に対しては、かの「唯一の被爆国」ということが掲げられるのが常であったようである。
すなわち、核兵器が登場した時代においては、通常の軍備は無効であり、戦争は直ちに核戦争となって、世界そのものの終末を意味するが故に、「平和」ということが何にもまして至上の価値となった、人類史上、最初の原爆の洗礼を受けた国である日本は、こうした新しい段階に入った時代において、他国に先駆けて、実験的な意味においても、「非武装」の理想を追求する「特別の使命」があると説かれてきたのである。

しかしながら、原爆投下という事実は、日本がそこから汲み取っていたような教訓を、果たして各国に対しても等しく伝達するものだったのであろうか。
確かに、原爆は、短時間のうちに通常兵器とは比較にならない程に巨大な被害を与え、被害者に対して、その後も永続的な苦痛を残すという点で、まことに残虐な兵器であり、そのことは、その直接的な被害者がまさしく身を持って理解したところである。
しかしながら、原爆を含めて、戦争による被害の全体の比較ということになると、日本より多大な被害を蒙った国々は多数存在しており、「唯一の被爆国」ということは、戦争の惨禍を経験したという点については、日本に必ずしも特別の地位を保障するわけではない。
また、原爆という兵器そのものの持つ特異性についても、各国は、必ずしも、戦後の日本が当然としたような認識を持つわけではなかったようである。

実際、アメリカの核戦略の専門家で、後に米ソ核軍縮交渉におけるアメリカ代表となるP. ニッツェは、敗戦直後に日本を訪れ、広島、長崎の被害の調査に従事したが、そこで彼の下した結論は、当時の日本人にとってまことに驚くべきことに、この程度の被害状況なら、核戦争は将来も十分に有り得るのではないかというものだったのである(P.H.Nitze, From Hiroshima to Glasnost, pp. 42-43)。
このような結論は、今日のわれわれにとっても、まことに非合理なもののように思われる。

しかしながら、こうした見解が、戦後のアメリカの世界戦略の中枢を担う人物によって現実に抱かれていたという事実は、戦後の日本の来歴の基盤をなすとも言える事実に関してさえも、他の国々は、そこから、日本人が自明と考えるような教訓を必ずしも引き出すものではなかったということを示すひとつの例と言えよう。
ちなみに、最近のスミソニアン博物館における原爆に関する展示をめぐるアメリカ国内の根強い批判や、原爆投下は、それがなければ、その後の戦闘でより巨大な被害が生じたと予想されるが故に正しい決定であり、それについて謝罪の必要はないとのアメリカ合衆国大統領の発言は、広島や長崎の問題が、日本人が当然と考えるような物語としては必ずしも受け止められてこなかったことを示唆するであろう。

もとより、アメリカ側のこのような論議は、日本の立場から、いかようにも批判できるし、批判しなければならないであろう。
原爆投下は、明瞭な戦争犯罪だからである。
にもかかわらず、そのこととは別に、少なくともここで考慮に入れねばならないのは、どうやら、日本に対する原爆の投下という事実は、核兵器による被害の巨大さや、それが有する人類史上における画期的意義を強調するだけでは、相手方に必ずしも大きな印象を与えることはなかったのではないかということである。
すなわち、そこでは、核兵器に対するストレートな恐怖や嫌悪の情の表明に留まらず、一方では、戦時国際法や国際社会の倫理のあり方、他方では、今日の核戦略を含め、戦争の捉え方への内在的理解に基づいた、より立ち入った議論が必要であったように思われる。

実際、改めて振り返ると、核兵器が存在するが故に、あらゆる戦争は究極的には核戦争に到達するのであり、武力を保持すること自体が無意味だとするのは、いささか短絡的な議論であった。
核保有国を含めて各国が核戦争に至らない範囲で武力行使を行い、自国の利害を貫徹させるという選択を取る余地がかなり大きな程度で残っていたのである。
そして、核兵器については、それが、実際には、使用し得ない兵器であることを認識しつつ、米ソ両国は、核軍縮の競争をやめることはなかった。
こうしたなかで継続された米ソの冷戦は、双方の核兵器の総量と、それぞれの兵器の技術水準、そしてその運用の仕方をもとに、実際にそれが使用された場合を互いにシミュレーションの上で予想し、そうした仮想的モデルのなかで、自己の優位の認識を相手方が受容するようなゲームとして戦われた。

すなわち、将棋の例で言えば、互いに相手の王を取ることが自分の王をも危うくする可能性があるが故に、実際に王手まで指すことを控えながら、相手の駒の数や配置、実際の運用を見つつ、それに応じて自分の駒を増やしたり配置したりし(柔軟対応戦略)、時に実際に金銀レベルの駒のやりとりを行い(代理国による限定的な通常戦争)、場合によっては、差し違えを覚悟しながら、わずかのチャンスを求めて王手まで指すような素振りを示す(瀬戸際戦略)ことで、現状維持、相対的優位、さらには、実際に王手に至る前に相手が先に投了することを期待するようなゲームだったのである。
冷戦の終了とは、ソ連が、ゲームを続行すれば、自分の王の詰みがより早いことを予想して途中で投了したことを意味する。
その意味で、もっぱら互いの仮想的な認識の上で勝敗を決するような、シンボルの上での戦争であり、見方によっては、「狂気のゲーム」と呼んでもよいものであった。
しかし、他面から言えば、それは、戦争とか戦略というものに新たな次元を開くものであったと言えよう。

これに対して、核廃絶の運動は、どのような論理に立っていたか。
それは、核戦争は、核兵器を用いて戦われる戦争であるが故に、核兵器が廃絶されれば核戦争はあり得ないという、定義上当然で、「1+2=3」という算術的命題の如く自明な論理の上に立っていた。
そして、こうした自明の論理のゆえに、核廃絶の運動は、自らの主張の正しさを疑うことはなかったのである。

にもかかわらず、核保有国、とりわけ、米ソは、あたかも、1+2という演算を行うことには同意しながら、4という誤った答えを執拗に繰り返す子供のように、核軍備競争をやめなかった。
そこから、実際には正しい答えを知りながら、何か特定の意図があって、ことさら誤りを繰り返しているのではないかと考えられたし、また、このような誤った答えを繰り返すのは、この子供の脳にどこか欠陥があるのではないかとさえ思われた。
「軍産複合体」が、人々の平和への願望にもかかわらず、自らの利益のために、こうした軍備競争を継続させているのだといった意見は、前者のような判断のあらわれである。
確かに、「軍産複合体」の存在ということも無視できない問題であったであろう。
また、核戦略が、どこか「狂気のゲーム」に似たものではないかという表現は、既に記したように、実際、根拠のないものではなく、その背景には、後者の比喩が意味を持つような局面があったのである。

しかしながら、より深く検討してみなければならなかったのは、米ソが表面上、1+2という演算には同意することで、3の答えを期待させながら、実際に行っていたのは、「1+2=3」ではなく、「1+2+5-4=4」といったより複雑な演算だったということである。
すなわち、両国は、1+2の後に実は+5-4といったより込み入ったことを行っており、しかも、目指す答えは、3=単なる平和ではなく、4=自国が好ましいと思う状況下での平和だったのではないだろうか。
そして、この3と4の相違ということも、やはり、完全に無視してよい問題ではなかったように思われる。
すなわち、核戦略の展開は、単なる非合理なものとして批判の対象となるに留まらず、そもそも平和とは何か、そして、平和とは、人間のどのような生のために存在するのかという、まさしく政治哲学や人間学的見地からの根本的な問を誘う性格のものだったのではなかろうか。

ともあれ、冷戦の終了や湾岸戦争以降の情勢は、戦後の日本が自明としていた来歴が、それほど当然のごとく世界から理解されるものではないことをますます明らかにしつつある。
そうしたなかで、今日の日本の一部では、従来の戦後の来歴の危機を感知して、その再構築を意図し、日本の過去の「悪事」を前面に出して、それを糾弾するという傾向が見られる。
しかしながら、このような動きは、関係する一部の国々において、その現実的利害関心から興味を寄せられても、今日の日本の国際社会における姿勢についての「理由」として十分に納得されることはないであろう。
というのも、かつて「侵略戦争」をした国であるが故に、今後の武力行使に関しても、再び同様の道を歩むかもしれないので自制しているといった説明は、およそ自己の責任能力をはじめから放棄した奇妙な言い分に聞こえるからである。
実際、昨年の村山首相に対するマレーシアのマハティール首相の発言に見られるように、もっぱらこのような形で日本の過去に言及することは、日本が積極的な対外活動を忌避するために設けた単なる遁辞とさえ、受け取られかねないのである。

このことの意味は、わが国が、従来の形骸化した「人類」や「人間」としての来歴をそのまま維持しながら、国際社会に臨むことは困難になりつつあるということである。
今日の「生活者大国」という言葉は、これまでの戦後の安穏な日々への郷愁を抱きながら、にもかかわらず、何らかの形で国家ということに言及しなければならなくなったという漠然たる思いを象徴するものである。
それでは、われわれは、どのような新たな来歴を構想すべきであろうか。
来歴が、将来の行動に向けての「理由」を語るものであるとすれば、それは、日本の国家としての今後の活動についての構想と不可分の関係に立つはずである。
ここでは、そのような実際の政策面について具体的に立ち入って検討する余裕はない。
そこで、以下、今後の日本の来歴を語る際に基本となるいくつかの問題について触れておこう。

日本の新たな来歴を語るに際して、まず重要なのは、戦前・戦後を通しての日本の国内の政治体制のあり方に見られる変化をどのように理解すべきか、すなわち、そこにみられる「不調和」を、何がしか「調和」を持った物語として語るためには、どのような「筋」が構想されうるかということである。
その点に関しては、戦後において確立されたとされる「国民主権」の原則をどのように理解すればよいかという問題が関わる。
そのためには、戦後の日本の来歴を規定したもうひとつの他国の物語を問題にしなければならないし、それは、さらに、日本近代の国家制度の歴史の検討と、それを踏まえた上での日本国憲法の再解釈を要請する。

次に重要なのは、近代の国際社会におけるこれまでの日本の行動やあり方を、どのように捉えるべきかということである。
そこでは、近代前半期までの日本の国際社会における歩みをより詳しく検討し、戦争責任・戦後責任といった問題に関しても、より立ち入った考察を加えねばならないであろう。
そして、この双方に関して、われわれが留意しなければならないのは、国際社会において、日本が、他国と比較できないような「独自」な存在であり、しかも、何らかの意味で他国より優越するといったことを弁証したり、そして、それ故に、何か特別の使命を帯びているといった前提に立つ必要はないということである。

戦前の「八紘一宇」とか、「アジア解放の盟主」とか、あるいは、戦後の世界に先駆けて「非武装中立」の「平和国家」を実現するといったテーマは、いずれも、日本に理想主義的な意味での「特別の使命」を表示するものであり、そこから、日本の来歴に、特別の「独自性」が要求されることになった。
この点では、「万世一系の皇統」の主張も、「唯一の被爆国」の強調も同様である。

「万世一系の皇統」は、『神皇正統記』に登場する観念であるが、とりわけ、江戸期において、隣国中国が王朝の交代おびただしく、それ故決して安定した統治が実現されないとする考え方をもとに、日本の優越性と独自性を強調すべく国学によって掲げられた観念であった。
この観念は、十九世紀初頭以来、とりわけ、水戸学などにおいて、日本を日本たらしめるための根本的な原理として継承され、それ以来、近代国家の道を歩み始めた日本の来歴の中心的テーマとなった。
今日においても、日本の来歴といったことに言及すると、ややもすれば、直ちにこのような水戸学の国体論などが想起され、警戒の念が抱かれるのが常である。
確かに、水戸学の国体論は、多くの有益な示唆を与えてくれる点で有力な学説であり、本書も随所でそれに言及するけれども、ただ、それは、あくまで「国体」についての一解釈であるということを念頭におくことが重要であり、そこで主張されていることを、ことごとく「国体」として受け容れる必要はないであろう。

水戸学の思想は、当時の状況への先鋭な対外的危機認識のなかで培われ、それゆえ、そこには、日本の「独自性」が過度に意識されねばならない状況が反映していた。
すなわち、それは、あたかも個人の場合における、ハイデガーの言う死への「先駆的決意」のもとであらわになるとされる「本来的存在」にも似たものであり、同様の状況は、昭和二十年の敗戦の際にも見られた。
すなわち、そこでは、日本の滅亡が意識されるなかで、ただ「国体の護持」ということのみが、日本の同一性を保証するものとして捉えられていたのである。

しかしながら、今日において、こうした先鋭な危機意識のなかで培われた「国体」の解釈論は、われわれの将来の来歴を構想する点で重要な示唆を与えるものではあるが、それを、他国と比較した場合の日本の「優越性」を弁証する物語として理解する必要はないであろう。
確かに、後に触れるように、皇室制度の伝統は、日本の憲法の意義を考察する際にも、決しておろそかにしえない問題であり、日本の同一性を考えるうえで、無視し得ない位置を占めている。
ただ、皇室制度そのものが、日本の優越性とか、あるいは、「特別の使命」といった観念と必然的に結び付いていると考える必要は必ずしもないであろう。
日本は、それ自身の伝統を帯びた君主を戴きながら、世界の他の多くのそれぞれの伝統を帯びた君主制の国家と並んで国際社会に参加していると考えればよいのである。

そもそも、日本の来歴は、他の国ではなく、日本という国に生じた個々の事実に言及する物語である限りで、いやおうなく「独自」である。
そして、日本の過去を眺めれば、「特別な使命」を果たしたといえるような局面が確かに存在している。
しかし、ここで留意すべきは、そのような「独自性」や、「特別の使命」は、どの国に関しても、それぞれの国がおかれた条件に応じて、ある程度言いうることではないかということである。
すなわち、多くの国々は、それぞれ「独自」の来歴を保ちながら、共通した一つの「近代国際社会」あるいは「近代文明」といった普遍的なカテゴリーに属していると考えることはできないであろうか。

敢えて日本の「独自」性といったことを、ことさらに重視したいという願望があるのは、古代以来、日本が諸外国の制度や文化を移入し、その一つ一つを取り出してみると、いずれも日本に固有のものであることを主張できないという認識によるものであろう。
とりわけ、十九世紀の半ば、欧米の文物や制度を本格的に移入をし始めた時期においては、こうした新しい事物を受け容れるということについては、様々な分野で抵抗があった。
そこから、日本独自の文化や制度といったことへ固執する傾向が生まれ、日本の「本来の伝統」の探求の試みがなされた。
「万世一系の皇統」の強調も、そうした試みのなかで育まれてきたものである。
しかしながら、近代化の道を歩み始めて一世紀半近くが経過した今日、われわれが眼前にしている欧米由来の制度や文物に対して、日本人のなかのどれだけの人々が真に違和感を抱いているであろうか。
問題は、日本が、海外から移入したものを、自己の物語のなかに、どのように位置づけるかということに関わるのである。

そもそも、制度や文化の学習や模倣ということは、世界史において、様々な時代や国々においてしばしば見られることである。
かのヨーロッパ諸国においても、キリスト教やギリシア・ローマの文明は、本来、異なった文明圏のものなのである。
にもかかわらず、まさしく、それを彼らの来歴の必須の要素をなすものとして語られていく過程で、彼ら自身のものとして定着しているのである。
個人の人生においても、自らの独自性や個性といったことに過度に固執するのは、少年期や青年期に特有の現象であるといってよい。
日本は、この問題についても、そろそろ、成熟した態度をとっても良い時期ではなかろうか。


▼2.第四章 日本国憲法とフランス革命の物語

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日本国憲法は、戦後の日本の来歴を方向づけたものであり、日本の新たな来歴を構想するにあたっても、この日本国憲法にどのような態度で臨むかということが大きく関係するのである。
もっとも、日本国憲法は、戦後の来歴そのものを過不足なく表現したものではない。
というよりは、むしろ、日本国憲法は、戦後の来歴から見ても、むしろ、正統ならざる継子のような扱いを受けているのである。
すなわち、日本国憲法は、まことに孤独で不幸な憲法なのである。
その意味は、それが真の護憲派を有していないという点に示されている。
このように言うことについては、若干の説明が必要であろう。
日本国憲法をめぐって「護憲派」と「改憲派」が存在してきたことは、改めていうまでもないであろう。
この区別は、たとえば、憲法第九条をめぐる対立を念頭におけば自明のことのように思われる。
しかしながら、この区別が、日本国憲法の他の条項についても問題になってきたことに改めて注意を向けると、とりわけ、護憲を主張する人々が果たして真の護憲派と称しうる存在であったのかということが、にわかに疑問となってくるのである。

右にいう条項とは、言うまでもなく、日本国憲法第一条である。
護憲派の多くは、果たして、日本国憲法第一条そのものを、その文言に即して、真に擁護しようとしているのであろうか。
彼らが本当に擁護しようとしているのは、日本国憲法第一条そのものではなく、彼らがそれを解釈する際にもっぱら依拠している特定の解釈理論であり、そして、その前提になっているある物語なのではなかろうか。
このことをうかがわせるのは、第一条についての戦後の通説的解釈である。
いまさら、詳しく述べるまでもないが、多くの通説的解釈においては、第一条の「主権の存する日本国民」の部分にのみもっぱら焦点が当てられ、同じ条項に登場する天皇の位置づけに関しては、「象徴に過ぎない」とか、「実質的な政治的権能を持たない」とかいったように、総じて消極的、否定的に解釈されるのみである。
従来の憲法教科書やその他のマスコミの論議に慣れ親しんだ感覚からすれば、「国民主権」が唱われている以上、この点は当然ではないかと考えられるかもしれない。

しかしながら、それでは、「国民主権」であるにもかかわらず、何故、「天皇」の存在が憲法上に明記されているのであろうか。
しかも、その行為が「国事行為」という形で、「国政」とは厳格に区別されながらも、広義の「統治」に関わるものとされているのは何故であろうか。
通常、この点については、憲法制定当時において、現実との「妥協」の結果として、天皇の制度が残されたためであり、それゆえ、日本国憲法は矛盾を抱えることになったのだと説かれているようである。

実際、多くの護憲派においては、天皇の存在やその行為について積極的な法的根拠を提示すること自体が、「国民主権」の原理を脅かすことになるとして、天皇の存在をいわば「無化」するような方向で憲法を運用すべきだと説くのが一般である。
すなわち、今日の護憲派の多くは、この天皇に関する文言に関しては、本来無意味ないし有害と考えているかのようであり、実際、天皇の地位が「国民の総意」に基づく以上、天皇の制度を将来において廃止するような改憲も可能であるとする説さえ存在しているのである。
とすれば、彼らは、本来の意味では改憲派ということになるのではなかろうか。

にもかかわらず、彼らがそのような方向での改憲を積極的に主張しないのは、彼らにとっての逆方向の改憲派の動きを警戒し、現在の憲法を、「国民主権」の物語を擁護するための「防波堤」と見做していること、そして、何よりも重要なことは、彼らにとってまことに不本意なことに、国民の多数が、天皇条項を廃止するような改憲に賛成しないであろうと見ているためである、
こうして、日本国憲法は、特定の政治目的のための一種の手段とさえ見做され、その全体について、真に擁護する護憲派を持たない孤独で不幸な憲法に留まり続けているのである。

ここにおいて、ひとつの問題が浮かび上がってくる。
そもそも、日本国憲法の草案を作成した占領軍司令部において、何故、天皇の制度を存続するような「妥協」がなされねばならなかったのであろうか。
言うまでもなく、それは、天皇の存在が当時の日本国民の意識に深く根を下ろしており、天皇の制度を廃止すれば、円滑な占領統治が不可能になるという認識によるものであった。
今日この点はどうか。
おそらく、一般国民において、天皇に対する意識は、敗戦直後とはかなり異なったものになっていると思われるが、天皇の存在を国制から完全に排除するということには、なお大きな抵抗が存在するのではないだろうか。
天皇の存在が、憲法上に明記されていることや、国事行為が定められていることの法的意義については、こうした、歴史的に培われた国民の天皇観念、さらには、それを受け継いだ形での今日の国民の多数の天皇についての意識をもとに、それなりの論理を構築することは可能であると思われる。
ところが、護憲派の多くは、こうした国民多数の意向にかかわらず、天皇制度については、潜在的に廃止を願望している。
その理由はどこにあるのか。

それは、言うまでもなく、本来の「国民主権」においては、君主の存在が認められないと考えているためである。
そのように考えられる根拠とは何か。
それは、「国民主権」ということが最初に打ち出されたのが、フランス革命の過程においてであり、そこでは、究極的には王政が打倒されたという事実をもっぱら重視するためである。
もとより、細かく見れば、「国民主権」がうたわれたフランスの1791年憲法においても、国王は行政権を保持する旨の規定があり、そのことの意味をより深いレベルで検討すれば、より豊かな知見が得られることが予想されるが、フランス革命の際の政治変動の最終的帰結を念頭に置き、フランス革命を、何よりも王権打倒の「革命」の物語として理解するために、「国民主権」と君主の存在は本質的に矛盾するという見解が導かれるのである。
すなわち、護憲派にとって何よりも重要なのは、日本国憲法の文言そのものではなく、18世紀末のフランスの政治変動を特徴づける「革命」の物語なのである。

こうした「革命」の物語が、日本国憲法の解釈に如何に大きな影を投げかけているかは、そもそも、日本国憲法の成立自体が、ある種の「革命」によるものだとする考え方が、戦後の正統な学説として広く通用してきたことにもうかがわれる。
その学説とは、宮沢俊義氏によって提唱された、かの有名な「八月十五日革命説」である。
この考え方によれば、日本国憲法は、形式的には、帝国憲法の改正規定に基づいて誕生したのだが、一般に、憲法というものは、自己の根本的な部分を占める原理を変更もしくは廃棄するような改正を予定しているはずはない。
しかるに、日本国憲法は、「国民主権」を掲げている点で、「天皇主権」に立つ帝国憲法とは、全く相容れない原理に立脚している。
そうだとすれば、日本国憲法は、帝国憲法から見て「違憲」の憲法であるということになり、帝国憲法の改正によって誕生したと見ることはできない。
すなわち、日本国憲法は、帝国憲法の連続のうえに位置づけることはできないのであり、ここに、国制上の断絶としての「革命」といった事態を想定しなければならないのである。

それでは、ここでの「革命」とは具体的には何か。
それは、日本国政府が、ポツダム宣言を受諾したことで、昭和20年8月15日以降に生じた事態を指す。
すなわち、ポツダム宣言は、戦後日本が軍国主義を清算すべきこと、「民主主義的傾向の復活強化」をすべきこと、基本的人権を尊重すべきことなどを要請している。
帝国憲法のもとでは、これらの事項を実現することは困難であり、しかも、ポツダム宣言は、こうした目的達成のためには、「日本国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらる」ことが必要であるとしている。
これは、すなわち、「国民主権」の原理の確立を述べているに他ならない。
すなわち、帝国憲法は、ポツダム宣言を受諾した時点において効力を失い、ここに「革命」が行われたというのである。

この「八月十五日革命説」に関しては、そもそも、ポツダム宣言が、将来の憲法改正を要請するものだったのか疑問であり、そのことと関連して、「民主主義的傾向の復活強化」という文言は、帝国憲法下においても、「民主主義的傾向」が存在していたことを前提にしているのではないか、また、「日本国民の自由に表明せる意思」という言葉の「日本国民」とは、Japanese People の翻訳であり、天皇と区別された「国民」ではなく、端的に「日本人」を意味し、日本人が外国の意思から「自由に」そこで示されたような政府を樹立する旨を述べたに過ぎないとする異論がある(たとえば、佐々木惣一「国体は変更する」)。

こうした点に関する細部にわたる検討は、今はおくとして、ここで、まず確認しなければならないことは、実際に、昭和20年の8月15日に、日本国民の眼前で、「革命」といった言葉でわれわれが通常理解するような事態が生じたのかという点である。
8月15日に日本国民を襲ったのは、敗戦という衝撃と虚脱感であり、やがて進駐してくる占領軍への不安であった。
無論、そこには、戦争終結によって、空襲や攻撃の危機が去り、やっと命拾いをしたという安堵の念もあったであろう。
しかし、このような事態を、当時の人々も、今日のわれわれも、「革命」とは称しえないであろう。
もっとも、戦後、時が経つにつれて、8月15日の時点で、国民が直ちに軍国主義の重圧から解放されて自由を享受したかのように描くドラマや小説が現れたことは事実である。
しかし、それは、占領軍進駐後の日本の世相の変化を、それ以前にまで遡らせている結果であり、そこには、他ならぬ「八月十五日革命説」を通俗化した物語が語られるようになった結果なのである。
しかし、この場合でも、こうした敗戦による自由の享受を、そのまま「革命」と呼ぶことは、少なくとも通常の言語感覚では無理があろう。

ただし、本来、法学的な思考というものは、法律上の文言の論理的・意味的な整合性と一貫性を確立することを目指すものであるから、この「八月十五日革命説」についても、時に「法律的意味」での「革命」であると説かれているように、法律的論議を一貫させるための論理的工夫であると考えればよいとも言えよう。
実際、これに似たような、一般人からすればともすれば虚構とも思われるような物語的な構成は、その他の法律解釈の分野においても、しばしば見られるものである。
しかしながら、法律専門家のみが互いに了解して共有していればよいような法律解釈の他の分野における虚構はともかくとして、憲法のように、国民の全てにその全体が開示されて、その正統性が確立されねばならないような法律体系において、このように、一般人には事実との照応が容易とは言えない虚構の物語によって、その成立の根拠が説かれていることは、やはり問題とされるべきであろう。
それは、とりもなおさず、憲法というものが真の意味で護持されるのは、法律学の秘教的解釈に通暁した法律専門家の間においてのみであるということを意味するからである。

そもそも、「八月十五日革命説」は、何故要請されねばならなかったのであろうか。
既に紹介した点からも明らかなように、それは、日本国憲法の文言が、「国民主権」を規定しているという一点に帰着する。
そして、「国民主権」の原理の誕生は、フランス革命の際に生じた「君主主権」から「国民主権」への転換の事実と同質のものであり、従って、日本においても、フランス革命に相応する「革命」を想定しなければならないというのである。
ここには、しかし、何か論理の転倒のようなものがないだろうか。
フランスにおいては、その複雑な事実過程はここで省略するとして、まず、「革命」と呼びうるような事態が進行して、君主の支配が打倒され、「国民主権」の原理が宣言されたのである。
すなわち、政治上のある種の事態が生じ、それを歴史上の断絶をもたらした「革命」として語る物語が誕生し、さらに、そうした物語をもとに、「国民主権」と「君主主権」の絶対的な原理的区別を説くヨーロッパの近代憲法理論が誕生したのである。
もっとも、フランス革命に関しては、既に触れたように、そもそも、こうした絶対的な「断絶」の物語として、それを語ることが果たして妥当であるかが以前から問題とされており、今日なお様々に議論されているところであるが、それはともかく、そうした物語が、従来のフランスの来歴の主要な部分を構成していたことは事実であろう。

これに対して日本はどうか。
日本では、一方で「主権の存する日本国民」と、他方で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」という憲法の文言上の相違がまず存在し、そこから、この相違が絶対的な国制上の原理の断絶を意味するという憲法理論が援用され、さらに、この理論の成立の前提となっている革命の物語を、そのまま日本国憲法成立の過程に強引に押し当てようとしているのである。

無論、戦後の日本において、ドイツやロシアの帝制の廃止に見られるような事態が生じたのであれば、こうしたフランス革命に由来する物語を援用することには十分意味があろう。
個人の来歴と同様、国家成立の物語においても、他国の来歴を援用することを一切斥ける必要はない。
帝国憲法を解釈する際にも、当時のヨーロッパの立憲君主制理論が援用されたのであり、それが、日本の根本的な国制や実際の明治国家体制の成立の過程とどの程度整合するものであったのかは別に検討しなければならないけれども、少なくとも、そうした援用は、帝国憲法の意味を部分的に明らかにするのに一定の意味を持ったであろう。
また、より一般化して、世界の歴史においては、国民が実質的に政治決定に与る傾向が次第に増大しているという、より抽象的なレベルの物語であれば、それは、日本国憲法のみならず、帝国憲法についても、十分に適用可能であったであろう。

にもかかわらず、君主制の打倒という、より具体的な事実を中心とするフランス革命の物語の場合は、そうはいかない。
日本国憲法は、天皇を国家の制度の上から廃絶することはなかったために、フランス革命の物語をそのまま適用することには多大な困難があるからである。
実は、戦後の日本の憲法学者が従事してきたのも、こうした困難にどのように取り組むのかという課題であった。
この点につき、ある論者は次のように述べている。

「主権原理の転換は、権力の担い手の転換を意味するものとして、通常は革命的転換の実体をふまえる。しかし、戦後変革は、この実体を欠いていた。主権原理の転換はあったが、それを不可避とする意識は生み出されていなかった。革命的変革をたんなる憲法改正の問題とみせかけようとした占領軍と為政者の対応が際立っていた。・・・・・・敗戦から憲法制定までの過程は、国民主権についての理論を深化させる絶好の機会であったが、それをなしうる状況にはなかったのである」
(杉原泰雄他編『文献選集 日本国憲法2 国民主権と天皇制』、杉原泰雄、解説、9頁)。

かくして、彼らにおいては、日本においても、本来は、フランスにおけると同様の「革命」が存在すべきであったのだが、やむを得ず不徹底な「革命」に甘んじるしかなかったのであり、今後は、日本国憲法の解釈理論のレベルで、真の「革命」が生じたのと同様の効果がもたらされるべく努めるのが、憲法学者の義務であるということになったのである。
先に触れた、多くの憲法解釈に見られる「天皇」条項の消極的・否定的解釈はここに起因しており、そこでは、天皇の存在が「国民主権」原理と矛盾するということが、憲法解釈の絶対的な前提となっているのである。
多くの護憲派の憲法学者において、彼らが真に帰依しているのが日本国憲法ではなく、実は、フランス革命神話とその物語なのだということの意味が、ここに集約的に示されているのである。

もとより、憲法学者がひとりの市民として発言したり行動したりする際に、フランス革命神話に帰依して、彼らの考える真の「国民主権」の確立に努めるということは、認められてよいことである。
しかし、憲法学者は、憲法学者である前に、そのような意味での「国民主権論者」であるべきなのであろうか。
憲法学者にとっては、眼前にしている憲法について、より整合的な解釈を用意することも、またその職務なのではないだろうか。
「象徴天皇」の地位と「国民主権」ということを整合的に解釈することは全く不可能なのであろうか。
このようなことを述べると、おそらく、そのような方向をとることは、直ちに、基本的人権の尊重や平和主義とった日本国憲法の別の根本原則をも危機に陥れることになると主張されるかもしれない。
しかしながら、そのような考え方自体が、絶対主義から民主主義へというフランス革命物語に拘束されている結果ではなかろうか。
日本国憲法が、事実として、「象徴天皇」制度を規定し、同時に、かなり進んだ各種の人権規定を定めていることを整合的に説明するような物語を何故新たに構想できないのであろうか。
しかも、国民の多数が、その憲法感覚については様々に問題があるにせよ、実際に、民主主義的な政治決定の方式を支持し、人権規定を享受し、しかも天皇制度の存続を希望している以上、国民のこうした一般的な感覚に即した解釈理論を提供すべきではなかろうか。

日本国憲法の物語は、単に憲法というひとつの法典をめぐる物語ではない。
現実には起きなかった革命が起こるべきであったとされ、「日本国憲法」という不徹底な変革の故に、日本の民主主義は未熟な存在であるとされ、時には「日本の民主主義は、血で贖(あがな)われたものではないがために定着しないのだ」といった発言さえなされてきた。
果たして、われわれは、フランス革命に見られたような百万単位の人命の犠牲を払うべきであったのか。
そして、そのようにして獲得されたフランスの今日の政治体制は、それほど賞讃に値するものなのか。
そもそも、フランス革命自体が、ヨーロッパを念頭においた場合でもフランスに特殊な現象である。
「ヨーロッパは革命もジャコバン派も抜きで」、政治的代表制の確立とかブルジョア社会の成立といった「同一の道をたどった」のである。
もとより、その模倣者は存在したとしても(F. フェレ、『フランス革命を考える』)。
にもかかわらず、フランス革命の神話に拘束された言説が流布するなかで、日本は民主主義の意識の点で、世界に遅れているという、自己否定的な来歴が、戦後の日本人を拘束することになったのである。
すなわち、日本国憲法の物語は、そのまま戦後日本の来歴そのものを規定しているのである。

それでは、新たな日本国憲法の物語は、如何に語られるべきか。
「八月十五日革命説」が、一般の日本人において、リアリティを持って受け容れられない性格のものであるとすれば、新たな憲法制定の物語を構想しなければならない。
もとより、ここで制定の物語といわれるものは、日本国憲法が制定される現実の政治的過程をリアリズム的に描写するものを意味しない。
ここでは、あくまで、日本国憲法の正統性を弁証するような成立の物語が模索されねばならないのである。
実際の制定の過程においては、日本国憲法の草案そのものが、占領軍指令部によって用意されたものであること、これに対して、日本の側においては、こうした占領軍の意向を感知して、改正作業が進められたが、占領軍の草案のような新憲法の制定は全く意図するところではなかったこと、にもかかわらず、それを受け容れねばならなかったことといった諸点は広く知られているところである。
こうした事実の故に、日本国憲法は制定の当初から無効であるとする論理は、それなりに成立しうるものである。
とはいえ、既に制定から半世紀を経て、実際の日本国の統治がそれに即してなされてきたことを考えれば、現在の時点で、日本国憲法が制定の時点に遡って無効であるとすることは、「八月十五日革命説」以上に生産性を欠くものと言わねばならない。

そもそも、憲法制定の実際の過程は、そのまま、その憲法成立の法的意義やその正統性の根拠に重なり合うものではない。
伊藤博文や井上毅が憲法の内容の確定や制定の過程を主導したことをもって、帝国憲法が欽定憲法であることを否定することにはならないからである。
日本国憲法についても同様である。
この点を念頭におきつつ、以下見ていこう。

まず、日本側が、不本意ながらも、占領軍によって示された草案をもとに日本国憲法を制定するに至った点に関して、それなりの日本側の主体的判断があったことを認めねばならない。
それは、当時の日本が、連合軍による軍事占領下に置かれており、この新憲法案の拒絶が、占領軍側のより過酷な措置を予想させたからである。
いわば、日本は、連合国と依然として潜在的戦争状態にあり、占領軍の意向の無視は、より徹底した敗北をもたらす可能性があったために、日本はその国家としての存続という、国家としての最も基本的な規範的要請に従って、日本国憲法の草案を受け容れたのである。
さらに、その際、より積極的な理由として、その内容において、受容することを可能にする最低限の条件を備えていると判断されたからだということも重要である。
すなわち、日本側は、そうした自主的な判断の結果、新憲法を受容することを主体的に決断したのである。
日本国憲法の正統性を語る物語は、何よりも、こうした日本側の主体的契機に着目しなければならない。

それでは、その最低の条件とは何か。
それは、言うまでもなく、「象徴天皇」という形で、天皇制度の存続が規定されていたことである。
それ故に、新たな憲法案の基本原理が、帝国憲法のそれと一定の連続性を保持していると考えることが可能となり、受け容れることが可能となったのである。
ここで改めて、日本国憲法が、大日本帝国憲法の改正手続きによって成立したということの意味を考えねばならない。
しかも、それは、次のような天皇の「上諭」に基づくものであった。

「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国憲法の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」。

日本国憲法前文と比べて、それほど注目されることのないこの文書は、日本国憲法の歴史的意義を考察する上で、やはり無視しえない意味を持っているように思われる。
にもかかわらず、この「上諭」については、圧倒的な通説においては、たとえば、「もちろん、日本国憲法の構成部分ではない」とされ(宮沢俊義著・芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』)、日本国憲法が、こうした天皇の勅命による帝国憲法改正の結果として誕生したのだとしても、それは、単に「形式」を借りたに過ぎないと説いている。
それでは、そこで、「形式」とされているものに対する「実質」とは何か。
この点をたとえば、美濃部達吉は次のように解している。

「即ち旧憲法第七十三条の手続に依つたのは、唯形式上のみで、実質的にはそれと全く意義を異にし、勅命を以て議案を付議したのは単に議会に於ける審議の参考に供したに止まり、議会は之に対し完全に自由な修正権を有したのであること、天皇の裁可は国家意思を決定する行為ではなく、既に成立して居る国家意思に対し単に之を認証するの意義を有するに止まるものであつたことを理解するに依つてのみ、新憲法が民定憲法たることを説明することが出来る」(『新憲法の基本原理』、三五頁)。

確かに、新憲法制定は実際の天皇のイニシアティヴによるものではないであろう。
しかしながら、そもそも、「形式」を軽視して、もっぱら「実質」を尊重するのだとすれば、その「実質」のレベルはどこに求めるべきなのか。
占領軍のもとでの憲法制定という現実の政治過程そのものなのか。
もとより、先にも述べたように、憲法理論のレベルでは、必ずしも、そういした現実の制定過程に着目する必要はない。
その点、美濃部の説明は微妙である。
美濃部は、議会の審議の過程に言及したうえで、しかも、「議会は之に対し完全に自由な修正権を有したのである」と述べている。
もし、美濃部が「実質」を憲法制定の政治的な事実のレベルに求めているなら、「完全に自由な修正権を有した」ということも、占領軍支配という当時の状況を考慮すれば、「形式」となりかねない。
もし、美濃部の議論が、こうした制定の政治的な事実過程を念頭に置くものでないとすれば、美濃部の説明は、日本国憲法の制定における、一連の法的手続き過程のある一面を「形式」とし、他の一面を「実質」だとしていることになる。

それでは、そこでの「形式」と「実質」とを分かつものは何か。
先の美濃部の文章からも明らかなように、ここで「形式」に対置されて「実質」とされているのは、ここでも、フランス革命神話に由来する「国民主権」誕生の物語を敢えて挿入できそうな部分なのである。
というのも、引用した美濃部の文章の末尾は、「形式」と「実質」の区別が、日本国憲法が「民定憲法」であることを「説明」するために要請されたものであることを示しているからである。
実際、美濃部は、右の文章に続けて、国民が、新憲法制定の「国家意思」を有することが出来たのは、帝国憲法の規定によるのではなく、ポツダム宣言の結果として生じた「憲法違反の革命的行為」によるものであるとして、先の「八月十五日革命説」を援用する。
それでは、そもそも、そのような新憲法制定の「国家意思」を何故天皇が「認証」する必要があったのか。
「革命」が生じていながら、何故、そうした「形式」を必要としたのであろうか。
そもそも、「認証」とは何なのか。
ここには、直ちに、日本国憲法において、天皇の「公布」や「認証」を含む「国事行為」が如何なる意義を帯びているのかという問題が関わってくるが、多くの通説が、そこにおいても、その「形式」性を強調していることは周知の通りである。

そもそも、日本国憲法が欽定憲法か民定憲法かといった論議そのものが、「国民主権」と「君主主権」との絶対的断絶を説くヨーロッパの憲法理論の問題関心に発するものなのであり、そうした理論にかなうべく「革命」を想定するといった、法律専門家の間にのみ通用して、国民一般にはリアリティを持たないような物語に、いつまでも拘泥すべきではないであろう。
すなわち、日本国憲法についての憲法学的論議をするに際しては、実際の法的な手続き過程全体を整合的に説明できない物語を前提にするのではなく、「形式」とされている部分も等しく考慮するところの、新たな物語を考えねばならない。
すなわち、昭和二十年の八月十五日には、「革命」などは生じなかったのであり、それゆえ、日本国憲法成立までは、占領軍の権力のもとにおいてであれ、帝国憲法が有効に機能していたのである。
そして、日本国憲法は、帝国憲法改正の結果として誕生したのである。

日本国憲法前文は、「国政」が「国民の厳粛な信託」によるものであり、「その権威」が「国民に由来」する旨をうたっている。
このような考え方は、「国民主権」について、ヨーロッパ憲法理論が下している解釈、すなわち、国民自身が「憲法制定権力」の担い手であり、自らの名において統治を行うことで、直ちに国民自身が「正統性」の淵源になるということを取り入れたものに他ならない。
しかしながら、問題は、日本国憲法の成立の過程、ならびに憲法の全体的構成をすべて視野に収める限り、この前文そのものが、天皇の上諭を伴うことによって、初めて法的効果を持っているということである。
すなわち、日本国憲法は、「国政の権威」が自らに由来するという「国民主権」の原理を「国民」が宣言することそれ自体を、改めて、天皇が「裁可」し「公布」することで成立しているのである。
この独特の論理構成をどのように説明するのか、これこそ、日本の憲法学の課題でなければならない。

天皇の行為と「国民主権」の原理とは、そもそも、どうような関係にあるのか。
より具体的な側面から見ていこう。
日本国憲法は、帝国憲法における天皇の「統治権」のうち、実質的な政治決定者としての権限が「国民」にあることが改めて宣言されている点に特質を持つ。
それでは、天皇には、何が残されたか。
それは、日本国憲法が定めるところの「象徴」としての行為、ならびに、内閣総理大臣、最高裁判所の長官の任命、そして、第七条に列挙された一連の国事行為である。
これらは、いずれも、現行通説が、その「形式」性を強調するものであるが、それは、それで構わない。
しかしながら、そもそも、「形式」とは何であろう。
「形式」とは、直ちに無意味なものを意味するのであろうか。
「形式」とはまさしく「形式」であることによって独特の機能を果たすのではなかろうか。
天皇の行為の「形式」性を強調する論者は、いずれも、それでは何故、そのような「形式」が必要であるかを説こうとはしない。

天皇の「形式」とされる一連の行為は、既になされた政治決定に対して、それが、日本国および日本国民による「正統」な決定であることを確認し、これを公的に表現する意義を持つと解すべきである。
すなわち、日本国憲法においては、「国民主権」のもと、「国民」の代表である国会や内閣が実質的な決定を行う権能を有するけれども、単にそこで実際に決定がなされるだけではなく、天皇の行為を媒介にすることで初めて、そうした決定に、日本国および日本国民の決定としての「正統性」が付与されるのである。
ここには、先の日本国憲法における上諭と前文との関係が、そのまま反映されているのである。

それでは、何故、天皇は、そのような権能を有するのか。
それは、まさしく、日本国憲法第一条により、天皇が、「日本国」ならびに「日本国民統合」の「象徴」であるとされていることによる。
しかも、その場合、重要なのは、この第一条が、単に、日本国憲法成立の時点で全く新たに誕生した原理を表明したものではなく、日本の国制上の歴史に対するひとつの解釈のもとに成立したと考えるべきであるということである。
「象徴」とは、後に改めて詳しく述べるが、ここでは、その原義に即して、本来、無形で不可視の理念的存在に形を与えることで可視的存在にするものと解すべきであり、その意味で、「天皇は象徴に過ぎない」といった文脈で言われるような消極的な概念ではない。
すなわち、いずれの国においても、国家という理念的存在は、その国の元首ないしそれに準ずる首長を中心とする建国の儀式や式典を通して、ありありと実感的に把握しうる存在として現前することは、われわれが通常経験するところであるが、「日本国」もまた、天皇に関わる儀礼を通して、可視的に現前するとされているのである。

また、天皇が「日本国民統合」の「象徴」とされていることに関しては、後に詳しく述べるように、わが国近代の国民観念の成立に関わる歴史的事情が関係している。
わが国の国民観念は、近世末期以降、天皇を日本全国の本来的な統治者として仰ぐという意識が一般化するなかから形成されていった。
すなわち、そこでは「国民として」行動することが、そのまま、「天皇の名において」行動することを意味するような状況が生まれたのである。
この点は、革命以後のフランスにおけるように、「国民の名において」行動することが、「君主の名において」行動することと正面から矛盾していたのとは、著しい対照をなしている。
すなわち、日本においては、「国民」が「国民」としての政治決定を行う際、それが、日本国全体を象徴する「天皇」の存在を意識してなされたという事情から、政治決定は、天皇の行為を介して、改めて「正統性」を獲得するという統治の原理が生まれたのである。
この点を抜本的に改めるような政治的変革は、日本国憲法についての従来の解釈理論の根底にあった架空の「革命」の物語の内部以外には存在しない。

従って、「国民主権」における「国民」という観念についても、それが日本の憲法に登場する場合には、右に見たような日本国民の国制史上の来歴を担うものとして理解しなければならない。
従来の「国民主権」の解釈においては、「国民」という観念をいつでもどこでも妥当する普遍的な観念として理解するつもりでいながら、実は、フランス国民という特定の来歴を担った国民の観念をそのまま無自覚に導入して解釈していたのである。

ところで、このような日本の国民の来歴を念頭に置くとき、政治決定が究極的には天皇自身の決定とされるゆえに「正統性」を獲得するのか、あるいは、天皇の行為は、その政治決定が「国民」による「正統」な決定であることを確認し表明する点に意義を持つのかは問題となるところであるが、日本国憲法においては、その前文の趣旨、および国事行為について定めた第七条の「国民のために」との文言、また改正規定である第九十六条第二項の「国民の名で」との文言に即して、後者として理解するのが妥当であろう。

もとより、天皇のこうした行為は、日本国憲法第三条に定めるように、内閣の「助言と承認」を必要とする。
そのことの意味は、天皇は、「正統性」が付与されるべき政治決定の内容には関与することが出来ないことを意味する。
天皇が「国事に関する行為」のみを行い、「国政に関する権能」を有しないとの第4条の規定は、改めてそのことを定めたものである。
そして、後に述べるように、天皇の行為について言われるところの「形式」性は、実質的な政治決定に与らないことで、むしろ、「国民統合の象徴」としての機能をより適切に果たすことが出来るという具合に、より積極的に理解すべきであろう。

もっとも、「正統性」という観念自体が、政治哲学的には、様々に探求すべき余地を残している。
従って、以上の点に関しては、他にも様々な理論構成が考えられよう。
憲法学者を含め一般国民の間において、より活発な論議を期待したいところである。
ただ、ここで繰り返し強調したいのは、フランス革命の物語を借用した上で「国民主権」を解釈し、それが天皇の存在と矛盾するという前提に立って、天皇の行為の「形式」性のみをひたすら強調することで、天皇の存在の意義を限りなく「無化」して捉えようとすることは、憲法そのものの条項を過不足なく体系的に解釈するうえでは、適切ではないということである。

ところで、仮に八月十五日にフランス革命に相応する事態を想定しなかったとしても、日本国憲法成立の時点で生じた、天皇の地位をめぐるこのような大きな変化は、あるいは、「革命」に類似するものかもしれない。
実際、占領軍から、その憲法草案を受け取った際の日本側の印象は、そのようなものであった。
ここにおいて、天皇の「裁可」と「公布」が天皇の意思であるとしても、天皇は、帝国憲法において、このような内容を持つ意思を発動することが許されるかという問題が生じる。
帝国憲法は、その第四条で、天皇の「統治権」の行使は「憲法の条規」による旨定めている。
天皇は、無条件に万能の権限を振るえるわけではない。
あくまで、帝国憲法の各条項、また、帝国憲法の根本的な原理に従わねばならない。
帝国憲法下の通説的解釈は、日本国憲法が成立するような憲法改正を「違憲」と見做したはずである。

もっとも、この場合、そうした通説的解釈自体が、やはり、フランス革命の物語に立脚する憲法理論に依拠していたことを想起しなければならない。
戦前の憲法学理論の多くは、ヨーロッパの立憲君主制理論に依拠していたが、この立憲君主制自体が、ドイツにおけるように、フランス革命の物語の現実の政治過程での進行が中途で停止しているような状況において成立する一種の妥協形態であるとされていたのである(たとえばC.シュミット『憲法論』)。
この場合、帝国憲法の定める国制が、立憲君主制理論の特にドイツ的な解釈によって、やはり君主制の一形態とされる限りで、フランス革命の物語は、やはり、当時の憲法学者を拘束したのである。
美濃部や宮沢のような帝国憲法下において指導的な憲法学者であった人々が、当初、帝国憲法の全面改正には反対し、日本国憲法が制定された後には、「八月十五日革命説」に立たなければならなかったのもそのためである。

しかしながら、今日の時点で、帝国憲法と日本国憲法との連続性を語る新たな物語を構想する場合、必ずしも、こうした帝国憲法下の通説的解釈理論に従う必要はない。
先にも述べたように、立憲君主制理論をはじめとするヨーロッパの憲法学理論は、帝国憲法を部分的に解釈するには有効であっても、その全体的な意味をすべて説明するわけではないからである。
まず、帝国憲法は、『憲法義解』も明言するように、天皇の地位については、「憲法に依て新設の義を表するに非ずして、固有の国体は憲法に由て益々鞏固なることを示す」ものとされていた。
すなわち、天皇という制度は、帝国憲法の制定によって、初めて誕生したものではなく、「固有の国体」に淵源するものとされていたのである。
このことは、天皇の条項に関しては、ヨーロッパの憲法理論のみをもって解釈することが出来ないことを示唆する。

まず、ここで何よりも重要なのは、「憲法」という言葉を、近代の成文憲法の体裁をとったもの(この意味の憲法を「憲法典」と呼んでもよいであろう)に限定せず、およそ国家が存在する限り、いずれの国家も有しているはずの、その根本的国制を規定するルール全体(これを、憲法学がいうところの「実質的な意味の憲法」と呼んでもよい)を指すものと考えねばならないということである。
このルールに関しては、明示的に文章化されたものと並んで、現実に行われていた慣行や、これに関する解釈や観念も含むとしてもよいであろう。
戦後においてのみならず、戦前においても、わが国では、「憲法」というと、もっぱら「憲法典」を指す傾向が強かった。
しかしながら、「憲法典」の文言のみで国政の根本に関わる諸問題を処理することは事実として出来ない(小島和司『憲法学講話』、参照)。
従って、ここでは、単に帝国憲法や日本国憲法の文言にのみ依存するのではなく、より広い視野に立って、すなわち、律令体制や幕藩体制といった様々な過去の国家体制の根本的なルール - 日本の「憲法」全体の歴史を考慮に容れて、改めて天皇の国制のうえでの位置を検討しなければならない。
とりわけ、実質的な権力関係というより、統治の正統性の原理に着目する限り、幕末まで存続したと考えられる「憲法」としての律令体制を考慮に容れねばならないであろう(上山春平『天皇制の深層』、参照)。

ところで、ここで、まず問題となるのは、帝国憲法第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「統治」の意味である。
もともと、井上毅の憲法草案においては、第一条に該当する箇所では、「統治」という言葉ではなく、「治(シラ)ス」という言葉が用いられていた。
井上によれば、この「しらす」は、私的所有や支配を意味する「うしはく」とは区別される概念であり、「うしはく」が、「オキユパイド」や「ゴーウルメ」と表現されるような、あたかも私的物権と同様に考えられているヨーロッパの君主の権力に対応するのに対して、「しらす」は、日本の天皇に固有の概念であって、当初から公的な意義を担った観念であったというのである(「言霊」)。

それでは、そもそも、「しらす」とは何か。
それは、端的に「知る」ことを意味し、その具体的意味は、諸説あるが、要するに、「神の言葉」を伝える「まつる」に対応するものであり、「神意を知る」ことを指す。
「神意を知る」とは、そのことで、国の安泰と繁栄が保証されるが故に、「統治」ということと結び付くのである。
その場合、天皇の「しらす」は、また、三種の神器の「鏡」に象徴されるような、人々の心をすべて、自らの心のうちに映し出すような理想の精神のもとでの統治であるとされる。
井上の「しらす」の理解について、たとえば、小林昭三氏は、西洋の君主は、私的支配の権能としての「権力」の所有者であり、それ故、「権力抗争の一方の当事者」であるのに対して「日本の天皇は、権力抗争の外にあって、権力抗争をつつみ込む」存在とされていたと説いている(『明治憲法史論・序説』)。
もとより、これは、あくまで天皇の理念について言われているものと解すべきであって、歴代の天皇がすべてこのような理念に近い存在であったか否かは別である。
それは、国民代表の理念そのものとが、それが、そのまま現実の個々の国会議員に妥当するか否かが別の問題であるのと同様である。

それでは、上に見た、帝国憲法の第一条の「統治」と第四条の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」といわれているところの「統治権」との関係はどうであろうか。
この点につき、大原康男氏は、井上の考え方を引きつつ、第四条の「統治権」は、第一条の「統治」とは異なり、全面的に外国憲法を継受したものであって、それゆえ、ヨーロッパ憲法理論での「主権」をめぐる論議は、もっぱらこの第四条に関わるものであったと述べたうえで、そこでの「統治権」はまた、本来、第一条の「しらす」の原理によって領導されるべきものだとされていたのだが、後の憲法学者の多くは、天皇主権説論者、天皇機関説論者双方を含めて、この区別を見落としてしまったのだとしている。
そして、このように、第一条と第四条とでは、本来的に異なる「統治」の観念が表現されていたにもかかわらず、第一条においても、「治(シラ)ス」に替えて「統治」という言葉が用いられることになったのは、ひとつには、井上と異なり、国学的教養が薄く、むしろ、ドイツの憲法理論に通じていた伊藤博文と伊東巳代治の意向の方が優位したためではないかというのである(『現御神考試論』)。

帝国憲法第一条の「統治」については、先の『憲法義解』も、詳しい説明を省きながらも、井上の見解を反映して、「しらす」と解している。
この「しらす」をめぐる解釈学は、さらに深化させる必要があるが、上に見ただけでも、それがヨーロッパの「主権」の観念のみによっては解釈しきれないものを持つことは明かとなろう。
おそらく、天皇が行う「しらす」としての「統治」は、第四条の「統治権」以上に根源的な観念を表示すると解すべきである。

もとより、このような解釈も、あくまでも、帝国憲法の一解釈であり、帝国憲法下の少なからぬ学説が解するように、第一条を第四条と同じ意味で理解することも可能である。
しかしながら、その場合においても、日本語の「統治」には、単なるヨーロッパ的な「Govern」によっては蔽い尽くせない意味があり、それ故、また「主権」という言葉では等値しえないものがあることは認めねばならないであろう(成沢光『政治の言葉』参照)。
しかも、帝国憲法は、とりわけ、天皇の制度に関しては、そこにおいて初めて成立したものではなく、帝国憲法以前から存在する「国体」に由来するものであるとしている。
従って、「しらす」のように天皇に関わる根本的な観念の本来的な意味を無視することはやはり適切ではなかろう。

ところで、「しらす」を上のような意味で解するとき、たとえば穂積八束や上杉慎吉のように、天皇の大権をあたかもヨーロッパの絶対君主のそれに比肩させて解釈するということも、天皇の伝統を逸脱したものであると言うべきであろう。
言い換えると、彼らもまた、戦後とは逆の立場から、フランス革命の物語に拘束されていたと見るべきであり、ヨーロッパ絶対主義下の君主権力をモデルとして天皇の「統治」を考えていたのである。
興味深いのは、帝国憲法をその独自の「古神道」によって理解していた憲法学者、筧克彦は、穂積や上杉の見解を、「しらす」と「うしはく」とを混同するものだと批判し、大正期に上杉と美濃部との間でなされた「国体」論争では、むしろ、美濃部に好意的な立場に立っていたという事実である(長尾龍一「法思想における『国体論』」)。
戦後の憲法学は、帝国憲法を穂積や上杉のような見地から理解した上で、それと日本国憲法との断絶性を必要以上に強調する傾向があるのではなかろうか。

なお、ここで重要なのは、ここでの「しらす」の意義をめぐる論議は、単なる経験科学でもなければ、古代の言葉の意味の単なる解明でもなく、あくまで、法解釈学としての憲法学における探求であるということである。
すなわち、そこにおいては、物語の構想と同じく、実践的な関心に基づいた「理由」の探求がなされているのだということである。
われわれがいま試みているのは、日本国憲法に言う「国民主権」と「象徴天皇」との関係を如何に解すべきかという問題であり、さらには、それが、帝国憲法とどのような意味で連続性をもつのかという点の探求なのである。

さて、帝国憲法第一条による「統治」すなわち「しらす」の主体が天皇であり、しかも、それが、第四条の「統治権」の「総攬」の主体としての天皇よりも根源的な意味を持つとすれば、帝国憲法の改正としての日本国憲法の誕生は、この第四条の天皇の地位が変化したに留まるのであり、第一条の天皇の地位には、根源的な変化はないが故に、そうした改正は、「合意」であると解することが可能ではなかろうか。

日本国憲法制定後、この憲法によって「国体」は変更したか、という点をめぐる論争があった。
この論争は、宮沢俊義と尾高朝雄との間で、また、和辻哲郎と佐々木惣一との間でなされたが、ここで着目したいのは、後者の和辻・佐々木論争である。
佐々木は、「八月十五日革命説」には立たなかったが、日本国憲法が帝国憲法第四条を否定する内容を持つが故に、「国体は変更した」という立場をとった。
これに対して、和辻は、「国体」ということを帝国憲法の制度と同一視すれば、そのように言うことも可能であるが、もともと、明治以前には、天皇が「統治権」を「総攬」するという事実はなかったのであり、にもかかわらず、天皇が、古来より、「国民全体性の表現者」、すなわち「日本国民の統一の象徴であるということ」は、「日本の歴史をぬいて存する事実」であり、さらに、日本国憲法において、天皇が「象徴天皇」という形で国家制度のなかに明確に規定されていることは、江戸時代に比べれば、その地位は、はるかに「統治権の総攬ということに近づけられている」ことになり、「国体の変更」について云々するには当たらないと主張した(『国民統合の象徴』)。
これに対し、佐々木はさらに、江戸時代においても、「大政委任論」に見られるように、「社会的事象」においてはともかく、「法律事実」としては、天皇が「統治権」を「総攬」していたのであり、それに反するような事態があったとすれば、それは単に違法な状態に過ぎなかったのだと主張した(「国体の問題の諸論点」)。

この論争に関しては、それが、本来曖昧な「国体」という観念をめぐるものであったが故に、法学的論争としては「不毛」なものであったということ、また、「国体」をどのように理解しようとも、日本国憲法の誕生によって、国制の根本的な変化があったという前提に立たねばならないとするのが、今日の多くの憲法学者の間における大勢であるが、そこには、言うまでもなく、過去との何らかの連続性を説くこと自体が、「国民主権」の原理を脅かしかねないという危惧の念があることは疑いえない。
確かに、「国体」という観念に対しては、今日多くの人々において警戒心が抱かれるのが常である。
また、この観念は、多くの論者が指摘するように、曖昧で多義的なものである。
しかし、このことは、「国体」という観念が一概に無用のものであることを意味しないし、また、それをめぐって行われた論争が徒労であったということを意味しない。
「国体」という観念が、わが国の憲法の歴史において、それなりの重要な意義を帯びて用いられていた以上、この観念を一切思考の外に追いやることはやはり適切とは言えないであろう。

ここで、和辻の立論を改めて眺めてみるならば、和辻が専門の憲法学者でなかったために、一般の憲法学者に共通するところの、もっぱら「憲法典」のみを重視するといった傾向から解放されて、「国体」をより広い歴史的見地から考察する立場に立っていたことが解る。
それでは、和辻のそうした態度は、非法学的な、そして、非憲法学的な態度だということになるであろうか。
むしろ、和辻の論議は、「実質的な意味の憲法」をも視野に入れたものだと理解すべきではないであろうか。
ここでは、和辻のそうした思考態度をもとに、「国体」を「実質的な意味の憲法」に属する観念であり、しかも、その根本的な規範の部分を指す観念であると考えてみてはどうであろうか。

それでは、「国体」の意味の確定は如何にして可能か。
それは、あくまで英米の判例法的な解釈にも似た手続による。
すなわち、過去の憲法やその解釈を参照しながら、目下の決定に関連する先例を求めていくということである。
その際、「国体」について、様々な論者が展開した議論は、いずれも、「国体」の解釈論であり、水戸学の「国体」論は、あくまで、その有力解釈学説のひとつと見做すべきであろう。
「国体」の解釈は、こうした有力学説や、過去の現実の国制の実態ならびに、それについてなされた当時の解釈を踏まえつつ、その最大公約数的なものを摘出した上で、実践的に意味の確定を行うべきである。
このような見地に立つとき、帝国憲法や日本国憲法自体も、「国体」についての公定解釈の一例を示しているということになるであろうし、それまでの「国体」の解釈との相違や発展の局面についても憲法学的な考察が可能であるということになるであろう。

ところで、佐々木・和辻の論争に戻って、江戸期の「法律事実」がどうであったかは、議論の余地があるところである。
問題は、佐々木の言う「法律事実」をどのように解するかによるのだが、敢えて佐々木のように解釈しなければならない必然性はないであろう。
佐々木の場合は、「国体」の解釈の余地が狭く、和辻の場合は、それより広いということが言えるであろう。
われわれは、今日の象徴天皇という制度との関係で、「国体」を解釈しようと試みている。
その際、和辻の「国体」解釈は、和辻自身が意図したように、戦後の天皇制度のあり方にきわめて適合的なものではなかろうか。
ただ、「象徴」という概念そのものについては、和辻が述べていることも踏まえて、より具体的なレベルで、その意義を確定する必要があるが、それについては後に改めて述べよう。

「国体」が、「実質的な意味の憲法」の根本的な規範の部分を示す観念であるとして、それをひとつの文章で示すとすれば、それは、「日本は、天皇がしろしめす国である」ということになるであろう。
すなわち、この古言をどのように解釈するかによって様々な「国体」論が生まれるわけである。
もっとも、古代語である「しらす」が、「神意を知る」ということを原義としている以上、そのような神話的ないし宗教的な意味合いを持つ観念は、近代憲法の基本原理たりえないという批判もありうるであろう。
事実、戦後において、日本国憲法の誕生は、帝国憲法の天孫降臨の物語に立脚する神話的な正統性原理を打破したところに重大な意義を持つとされているのである。

しかしながら、翻って考えると、今日の日本の憲法学は、ヨーロッパの「主権」観念自体が、キリスト教的な神の全能・神の絶対性という観念に由来しているという歴史的事実には無感覚なようである。
すなわち、「主権」の絶対性といった観念も、それ自身の本来の意義を把握しようとすれば、世界の超越的支配者であるキリスト教的な神の観念についての実感的理解が必要であり、それが、全能の神を中心とする世界観から人間中心の世界観への転換を伴いつつ、王権神授説を媒介として、世俗の世界の絶対的権力を指示するに至り、さらに、それが、「人民主権」の観念に継承されているということを念頭に置かねばならないのである(小野紀明『精神史としての政治思想史』、第三章、参照)。
ヨーロッパの「主権」観念をめぐるこうした歴史的な経緯は、今日の法学的観念を問題にする場合においても、それが、単に宗教的起源を持つというだけで、その「非合理性」を云々して排除すべきではないということを示唆する。

実際、「しらす」の意義にしても、当初の神秘的な方法で「神意」を知るということから、次第に、その「世俗化」が進行して、とりわけ、儒教的な「有徳君主思想」の流入とともに、仁徳天皇の有名な歌にみられるように、竈の煙が立つのを見て、民の暮しを「知る」ことを意味するに至る過程が見られるのである(成沢光、前掲書)。
そして、こうした「しらす」の様々な意味を探求して、その意義を改めて今日的見地から解釈する際、以下に見る丸山真男氏の「しらす」をめぐる見解は、象徴天皇の意義を考える際、きわめて示唆的である。

すなわち、丸山真男氏は、「しらす」に対比される「まつる」の用法を見る限り、それを必ずしも宗教的意味に限定すべきではなく、ひろく「奉仕」の意味として解釈すべきであるとして、日本の政治文化においては、この「まつる」の内容が、上位者のために、政治の実質的処理や決定をすることで「奉仕」するという意味となり、しかも、その主体が次第に下降する傾向にあり、これに対して、「しらす」の主体は、ますます、そうした実質的決定過程から超越して、もっぱらその「まつり」の内容を承認する「正統性」付与の主体となっていくと述べている(「政事の構造」)。
この丸山氏の見解は、「国体」観念の持つ歴史的な動態的構造を、きわめて要領よく簡略に表現したものと受け取ることが出来る。
日本国憲法は、「国体」に関するこのような解釈をもとに、象徴天皇の制度を定めたものと理解することが可能となり、しかも、それは、日本国憲法を過去の一連の憲法の連続の上に位置づけることを意味するのである。


▼3.第五章 近代日本における国家制度の形成過程

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これまで、日本の民主主義のあり方が論議される際には、日本国憲法の解釈に見られるように、フランス革命の物語が暗黙のうちに前提とされ、それとの距離を計ることをもって、日本の民主主義の未熟さ、欠陥を検出するということが当然の手立てのように思いなされてきた。
確かに、フランス革命の物語は、ロシア革命の物語とともに、近代世界において普遍的な伝播力を誇った魅力的な物語ではあった。
しかしながら、今日、ロシア革命の歴史的な意義が根本的に見直されつつあるのと並行して、フランス革命も、従来の神話化された状態を脱して、ようやく冷静な検討が加えられる対象となろうとしている。
われわれは、どうやら、こうした外国の様々な革命の物語を介することなく、日本の歴史に直接に接して、われわれ自身の国家の物語を模索する時を迎えようとしているように思われるのである。

それでは、その場合、どのような自画像が浮かび上がってくるのであろうか。
国家の制度をめぐる日本の来歴は、どのように語られうるであろうか。
フランス革命の物語を媒介としない日本の国家制度の来歴は、民主主義の形成といったこととは全く無関係な物語となるのであろうか。

ここで改めて想起しなければならないのは、そもそも、来歴を語る際には、今日のわれわれ自身の価値観そのものが出発点になるということである。
既に見たように、今日の日本人の多くは、西欧的な民主主義的な政治的意思決定のあり方そのものを否定することはないであろう。
それは、必ずしも、欧米の政治制度を観念的に賞讃しているためではないと思われる。
日々の実感のうちに民主主義的な政治決定のあり方を支持しているのではないだろうか。
もっとも、かつて、全能のエリートが「人民」の名のもとに専制的な指導を行うような意味での共産圏の「民主主義」的な政治体制に魅力を感じている人々も少なからずいたから、西欧的な民主主義への支持がどこまで人々の意識に根を下ろしたものであるかという点について確実なことを言うことはできない。
にもかかわらず、多くの日本人の平均的な政治意識においては、単独もしくは少数による専制ではなく、合議による意思決定が好ましいという意味で民主主義が支持されているのではないだろうか。

それでは、そのことは、ひとえに、憲法改正を伴った戦後の政治変革の結果なのであろうか。
確かに、戦後の一連の変革は、日本人の政治意識に大きな影響を及ぼした。
しかしながら、戦後になって初めて、日本人が、議会制度や権力の抑制といった民主主義的な諸観念を本格的に見につけることになったとするのは、それ自体、戦前の日本のあり方をトータルに断罪するという実践的な関心に立った戦後の来歴の言うところに過ぎないのではなかろうか。
天皇の存在と民主主義とは本来的に矛盾するといったフランス革命の物語に由来する前提から脱し、また、こうした戦後の来歴のよって立つ関心からも解放された立場から、われわれ自身の民主主義と国家の制度に関わる来歴を構想することはできないのだろうか。
以下では、天皇と国民との歴史的な関係を視野に置きつつ、日本における国民観念の形成の過程を追跡し、さらに、そうした過程と密接な関係を保ちながら民主主義的観念が日本に特有のあり方を通して形成されていく有様を概観してみよう。

はじめに、フランス革命の物語が、日本国憲法を根拠づける物語として不適切なものであるのみならず、より広く視野をとって、わが国の近世後期以降の天皇と国民意識の形成との関係を探る際にも、不適切なものであることを認識しなければならない。
そこで、まず注目しなければならないのは、フランスでは、ルイ十四世のもとで頂点に達する絶対主義王政が既に確立された段階で、ブルジョア層を中心とする「第三身分」のなかで、国民観念が形成されていくという過程が見られるということである。
その場合、重要なのは、「第三身分」の絶対王政への闘争は、単に実質的な政治決定を下す権能としての国王の権力のみならず、絶対王政の正統性原理そのものへの挑戦であったということ、これに対して、日本の場合は、国民観念は、既存の支配秩序である幕藩体制の正統性原理が改めて自覚的に探求され、さらに、それが新たな解釈を受けることで、そうした解釈により適合するような政治体制を新たに樹立していく過程を通して形成されていったということである。
すなわち、そこでは、政治支配の正統性原理は、その解釈の上での変容を蒙りながらも、全く別個の原理によって置き換えられることはなかったということである。

そして、なお重要なのは、フランスを含めヨーロッパの国王や貴族層は、ヨーロッパ各地に所領を有し、相互に婚姻関係によって結ばれ、本来、フランスやドイツ、スペインといった特定の地域に必ずしも自己のアイデンティティーを持たないインターナショナルな存在であったということである。
たとえば、第一次大戦勃発時、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世とロシア皇帝ニコライ二世とは、イギリスのヴィクトリア女王を共通の祖母とする従兄弟同士のような関係にあり、相互に、ウィリー、ニッキーと呼び合うような間柄であった。
もとより、近代的なナショナリズムの勃興とともに、それに対応すべく、ヨーロッパの王室は、それぞれが支配している国家における「国民の王」であるということに、その新たな存立の根拠を求めようとしていた(B. アンダーソン、前掲書参照)。
にもかかわらず、彼らが、その出自のうえでは、本来、そうした支配地域の住民とは切り離された存在であったことは、やはり無視し得ない。
従って、たとえばフランスにおいては、新たな「国民意識」に目覚めた「第三身分」の絶対王権に対する闘争は、国王や貴族が体現するインターナショナリズムに対する、その地域の一般住民が体現するナショナリズムの抗争としてあらわれたのである。
フランス革命の神話化に力のあった歴史家ミシュレが、「民衆」を「国民」の意味で用いていることは、そのあらわれである。
従って、絶対王権が打倒されて「国民主権」の原理が確立されたことは、同時に、ナショナリズムに立つ真の意味での「国民国家」が誕生したことを意味したのである。

これに対して、日本の場合、国民観念の形成は、むしろ、日本国の本来の君主は誰かという問題意識が先鋭化し、そうした本来の君主を国民観念の中核に据えながら、君主と国民との間における「君民一体」、あるいは「一君万民」といった理念の実現が目指される過程と重なりあっていた。
すなわち、既存の支配権力を本来の君主と国民との間に介在する夾雑物と位置づけて、これを打倒するという方向を取ったのである。
にもかかわらず、このことを、新たに政治舞台に登場してきた従来とは別の君主の権力が、そこで改めて絶対主義的な支配体制を築き上げたと解釈することは、やはり適切ではない。
というのも、以下に述べるように、わが国の「立憲主義」や「民主化」も、こうした過程と並行して進行したからである。

以上の点を念頭において、日本の国民観念の形成の過程、および「立憲主義化」と「民主化」の過程を見ていこう。
日本の国民観念の形成の端緒をどの時点に求めるかについては、様々な議論が可能であろう。
ただ、国民の観念形成の端緒を政治的な意味で他国の民と自らとを区別する意識に求めるならば、それは、やはり、十八世紀末葉から十九世紀にかけて、北辺の海防問題が危機感を持って意識されていく状況に求めても誤りとは言えないであろう。
十九世紀に入って、異国船の日本海岸への来航が頻繁に見られるようになり、また、隣国中国のアヘン戦争における敗北が報じられるに至って、わが国の対外的危機意識は、先鋭なものになっていく。
明治の歴史家、徳富蘇峰は、この間の事情を次のように簡潔に語っている。
「国外の警報は、直ちに対外の思想を誘起し、対外の思想は、直ちに国民的精神を発揮し、国民的精神は、直ちに国民的統一を鼓吹す」(『吉田松陰』)。

既に前世紀の末葉から、日本国のあり方を天皇の統治ということと密接に結び付けて理解する考え方は、賀茂真淵や本居宣長などの国学を中心として台頭しつつあったが、十九世紀の対外的危機感が深まるなかで、水戸の会沢正志斎によって、「国体」の観念を初めて体系的に説いた『新論』が著され、そこでは、万世一系の皇統という点に日本という国家の独自性とその存在理由を求める議論が本格的に展開されていた。
その冒頭の一節で、会沢は次のように述べる。

「謹んで思うに、神国日本は太陽のさしのぼるところであり、万物を生成する元気の始まるところであり、日の神の御子孫たる天皇が世々皇位につきたもうて永久にかわることのない国柄である。本来おのずからに世界の頭首の地位にあたっており、万国を統括する存在である」(橋川文三現代語訳)。

ここから、日本国の民であるとの自覚は、こうした「国体」の観念を明確にし、それを確固として身につけることによって培われるという主張が導かれる。
もとより、この時期の国民観念は、必ずしも一般民衆にまで下降したものではなく、武士を中心とする一部支配層に限られるものであったことは事実である。
にもかかわらず、それが、幕末の政治変革と明治維新を経て、一般民衆にまで定着していく端緒となったことは否定できない。

ところで、わが国のこのような国民観念は、天皇の政治上の地位が確立した状況下において、それに対抗するものとして登場したのではなく、むしろ、天皇の政治的地位が次第に上昇していく過程と並行し、むしろ、それを促進するような形で形成されていったという点が重要である。
江戸期の天皇の政治的地位に関しては、最近、今谷明氏の業績によって、従来一般に考えられていた以上に、重要な意義を帯びていたことが明かにされてきている。
すなわち、天皇は、征夷大将軍の任命から、武家の官位の授与、さらには、東照大権現という幕府の祖神の形成に至るまで、武家政権の正統性が関わる枢要な箇所にすべて関与しており、これに対して、幕府は、独自の正統性観念を創出することができなかったし、対外的な自らの呼称についても「国王」と名乗ることはついになかったのである。
従来、もっぱら幕藩体制の実質的な政治決定のあり方のみが着目されていた限りで、天皇は影の薄い存在と映じていたのだが、その根底にある支配の正統性という点に改めて視点を移せば、天皇の権威は、武家政権存続に不可欠のものとして存在していたという結論が導かれるのである。

今谷氏は、こうした事態を戦国期からの大名の間における天皇の権威の上昇という連続的過程の結果と見た上で、天皇が自らそうした権威を及ぼすというよりは、むしろ、「諸大名が天皇を超越者たらしめている」として、ヘーゲルの言葉を借りて、「服従者が支配者を支配者たらしめている」と述べている(『武家と天皇』)。
こうした今谷氏によって描かれた天皇の権威のあり方について、佐々木惣一のように「法律事実」として、天皇が「統治権」を「総攬」していたと解釈されうるか否かは微妙なところであるが、和辻哲郎の天皇を「国民全体性の表現者」とするような、より抽象的で概括的な表現には十分相応するものであり、それを、別の形で表現したものといってよいであろう。

「正統性」の淵源としての天皇の地位の上昇は、十八世紀末葉から、武家政権の秩序に対して、単に包括的に正統性を与えるということから、限られた範囲ではあるが、個々の政治決定の正当性の承認ということにまで及ぶようになっていく。
それと同時に、朝廷自身が、自己の政治的地位により敏感になり、その権威の上昇に自覚的に取り組むようになる。
藤田覚氏は、光格天皇(1771~1840)の登場にこうした天皇の権威上昇の画期を求め、光格天皇が全国的な飢饉の発生に対して、窮民の救済を幕府に指示したり、あるいは、大嘗祭・新嘗祭の古式の復興や、日本古典講読による天皇の権威の歴史的確認の努力などの様々な事例を紹介して、その点を明らかにしている。
そこには、やはり、この時期の対外的危機感が投影していたのだが、興味深いことは、この時期と前後して、先の佐々木が立論の根拠のひとつとした、朝廷が幕府に「大政」を「委任」したのだという「大政委任論」が、本居宣長や松平定信などによって説き始められたことである。
こうしたなかで、文化四年(一八〇七年)幕府により、朝廷に対して初めて海外情勢が報告され、後に、幕府の対外政策に対して朝廷が介入する端緒が開かれるのである(以上、『幕末の天皇』)。

すなわち、わが国の国民観念は、対外的危機意識の高揚を端緒としつつ、日本全国の本来的な統治者としての天皇という考え方を呼び寄せる形で形成され、その一方で、天皇の側においても、そうした動向に対応するような姿勢が取られるなかで確立されていったのである。
幕末に至ってこうした方向が、ますます本格化していく。
吉田松陰の次の言葉は、その一つの到達点といってよいであろう。
「天下は天朝の天下にして、乃ち天下の天下なり、幕府の私有に非ず。故に天下の内何れにても外夷の侮りを受けば、幕府は固より当に天下の諸侯を率ゐて天下の恥辱を清ぐべく、以て天朝の宸襟を慰め奉るべし。是の時に方り、普天率土の人、如何で力を尽さざるべけんや」。

ところで、先にも述べたように、ヨーロッパにおいて、国民観念の形成は、「立憲主義」また「民主化」の進行と並行しているが、わが国では、それは、それまでの幕府の政治的決定権の独占が動揺していく過程としてあらわれる。
「立憲主義」をここでは、権力が何らかのルールの制限の下にあるべきであるという考え方、また、「民主化」を政治決定の実質的主体が下降していく傾向と捉えよう。
幕府が、ペリーの来航に対して、従来の慣例を破って諸大名に意見具申を求めたことが、わが国の「民主化」の開始を意味していたことは、戦前からの「憲政史」の研究などで広く認められているところである。
安政通商条約締結や将軍継嗣問題を経て、この動きはより本格化し、実質的な政治決定の主体は、幕府から有力諸大名へ、大名からその上士へ、上士から下士へ、さらに「草莽の志士」と次第に下降していく。
一方、幕府の権力低下に伴う政治的多元化状況のなかで、国策の決定は何らかの「衆議」に基づくものでなければならないとする「公議輿論」の考え方が次第に広がっていく。

ところで、このように、政治主体の下降という「民主化」の進行の過程で登場する有力諸大名から「草莽の志士」に至る各政治主体は、いずれも、幕府を迂回して、直接に、支配の「正統性」の淵源としての京都の朝廷を指向し、ここに「京都手入」という現象が生まれるが、そこで興味深いのは、天皇の意思という点に「正統性」を有する「勅命」という観念と、「公議輿論」の観念とが、緊張をはらみながら、合流していくという事実である。
この点に関連してよく引かれるのは、大久保利通が西郷隆盛に宛てた手紙で、朝廷が幕府の第二次長州征伐に対して与えた勅許について批判した次の一節である。
「もし朝廷これを許し給候わば、非義の勅命にて、朝廷の大事を思い列藩一人も奉じ候わず、至当の筋を得、天下万人御尤と存じ奉り候てこそ勅命と申すべく候えば、非義の勅命は勅命にあらず候ゆえ、奉ずべからざる所以に御座候」。

この文章は、大久保のような幕末政治過程において活躍した人々が、あの「玉を奪う」という言葉に示されるように、天皇の政治的権威に対して、ある種の政治的リアリズムによって距離を置いて接していたことを示す例として、よく引用される。
しかしながら、重要なのは、この文章からもうかがわれるように、大久保が「公議輿論」を指向する正統性観念に立ちながら、同時に、「勅命」という天皇の権威に立脚する正統性観念それ自身を何ら否定するものではなかったということ、すなわち、大久保において、二つの正統性観念が並存していたという事実である(松本三之介「幕末における正統性観念の存在形態」参照)。

ここで大久保が直面した問題を整理すれば次のようになるであろう。
すなわち、政治決定の実質的な内容が万人が納得するような「公議輿論」に基づくものでない限り、その政治決定は何ら正当性を持たない。
そのことの意味は、そうした「公議輿論」に沿わない政治決定を勅命として発することを繰り返せば、それは、そのまま、天皇の権威そのものを掘り崩すことになるということである。
こうした危機は、実際に、幕末において、朝廷に各政治勢力が影響力を及ぼし、勅命の内容がその時々の朝廷において有力化した政治勢力の意思に左右されることになった状況下で顕著に見られたことであった。
大久保の認識は、そうしたことの懸念の延長の上に位置づけることが出来る。
と同時に、こうした懸念が生じる前提として重要なのは、「公議輿論」はまた、それだけでは、「正統」な政治決定としての地位を獲得することはなく、やはり、勅命によって媒介されなければならないということである。

おそらく、そこから大久保のような後に明治国家の建設を担うに至る人々において、次のような考え方が確立されていったものと思われる。
すなわち、実質的な政治決定に関して、その内容を確定する方法を合理化すること、そして、そのことで初めて、それを勅命として発する天皇の権威も安定的に確保されるという考え方である。
無論、それは、直ちに議会制などの民主的制度を整えることを意味しなかったであろう。
にもかかわらず、ここで重要なことは、天皇の統治の「正統性」の確立は、天皇個人や朝廷のそれに直属する人々に政治的意思決定を委ねることを通してではなく、むしろ、その政策決定内容の正当性に基づくこと、そして、そうした政治決定を生み出しうるような何らかの合理的な制度の創出が必要であるという考え方があったということである。
この考え方は、明治期以降になって、伊藤博文によって、宮中と府中の区別、ならびに内閣制度の創設などを通して現実に移され、それが「立憲主義」の確立へと導かれていくのである(この点に関しては、たとえば、坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』参照)。

ここで改めて、「しらす」という天皇の正統な統治を表現する観念の具体化として、明治期以降の日本の「立憲主義」の歴史を跡づけることも可能であろう。
すなわち、天皇は、「公議輿論」のあり方を察知し、それを自らの意思として表明することで、その「正統性」を維持し、「立憲主義」の確立は、いわば、こうした天皇の「正統性」の確保と不可分の関係に立つという観点から、明治期以降のわが国の国制の発展を眺めてみるのである。
戦前期の尾佐竹猛などの「憲政史」と称される歴史叙述は、明治期以降の日本の立憲主義発展の端緒を明治天皇の「五箇条の御誓文」に求めていた。
戦後の憲法学説は、これまで述べてきたような事情から、こうした「憲政史」の歴史記述の伝統を重視することはないようである。
しかしながら、戦後の民主主義的価値観を過去の日本の国制との連続性のうえで理解しようとするなら、このような伝統はやはり無視しえない意義を有している。

すなわち、わが国の「立憲主義」は、明治天皇が発した「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という宣言に発するのである。
もとより、この宣言は、当初の原案で「列候会議ヲ興シ・・・」とされていたようにように、そのまま、後に確立されるような議会制度を意味するものではなかった。
にもかからわず、この宣言が、幕末からの「公議輿論」観念を継承したものであり、わが国の「立憲主義」の歴史において画期をなすものであったことは否定できない。
「五箇条の御誓文」では、それに続けて「皇国未曾有ノ変革ヲ為サントシ 朕躬ヲ以テ衆ニ先ンジ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立テムトス」と述べられている。
ここでは、まさしく、目下の国家と国民が置かれている現状を認識するという意味での「しらす」ということを通して、「万機公論」が宣言されたことが示されている。

こうした「五箇条の御誓文」での宣言が、明治八年の「立憲政体の詔書」でより具体化し、さらに明治十四年の「国会開設の勅諭」において、わが国の議会制度の創設が公約されて帝国憲法制定へと結実していく過程については、詳しく触れるまでもないであろう。
ちなみに、こうした一連の天皇の意思表示は、言うまでもなくわが国の「憲法」を構成している。
すなわち、この過程を法的な過程として眺めるなら、まさしく、こうした一連の天皇の意思表示による「憲法」の積み重ねを経て、「立憲主義」が発展してきたと言えるわけである。

大日本帝国憲法は、既に見たごとく、天皇を「統治権」の「総攬」者である旨を定め、ヨーロッパの立憲君主制理論を導入して、天皇が実質的な政治決定の主体でもあることを明言した。
しかし、この場合においても、立法権については、議会の「協賛」すなわち承認が必要であるとされ、また、行政権についても、大臣の「輔弼」によってなされると定められていた。
このような「立憲制」」を今日的観点からいかようにも批判することは可能であろう。
しかしながら、いわゆる天皇親政ということも、実際は、天皇個人による決定とは異なったことが意図されていたことが、ここでは重要である。

ただ、にもかかわらず、天皇が「統治権」を「総攬」すると定められたのは、そもそも明治国家が「王政復古」によって誕生したという考えに由来するものであることはここで断わるまでもない。
そして、そうした立場に立つ限り、おそらく、「天皇」以外の機関に「統治権」が所属することを明言すれば、それは、かつての幕府政治の復活であり、天皇は「虚器を擁するに過ぎない」という批判が起きることが予想され、それは是非とも避けねばならない事態であったであろう。
そうしたことへの懸念は、自ら徳川幕府を打倒して、新たに権力の地位に就いた明治国家のリーダー達にとってリアルなものであったと思われる。

この点で興味深いのは、明治十五年にかわされたいわゆる主権論争で、民権派に対抗する論陣を張った福地桜痴の議論である。
福地は、民権派の議会主権や国家主権といった論議を批判して、「君主主権」を力説したが、その際、「主権ノ帰着ハ理論ナレバ」、これが天皇にあるとか、国会にあるとか定めたところで、さしあたり「立憲帝政ニ於テ法ヲ制シ政ヲ施クノ実際ニハ多分ノ別異モナカルベシ」と述べていた。
にもかかわらず、「君主主権」を主張したのは、日本の国制の歴史ならびに明治維新の過程を念頭に置き、そのことが持つ長期的な意義を考慮したためであった。
福地は言う。
徳川幕府が崩壊したのは、幕府が「悪い政治」を行ったためではない。
むしろ、「国体」上の原則から、幕府が「正統な政府」ではないとされたからである。
今後も、その統治内容の良否とは別に、同様の批判が惹起される余地がある。
議会が開設されて、イギリスと同様、「議院政になつて国の主権がパーリアメントにある時には矢張り混同して議院幕府」だという非難が起きる可能性があるのである。
従って、天皇に「主権」があるとする「国体」の原則は、議会政治という「政体」を採用して「輿論」による政治が行われる場合でも、明言しておく必要があるというのである(拙稿「福地源一郎の政治思想」)。
ここには、幕末期に幕府の側にいて政局の推移を見守った福地の実際の体験が反映しているが、その後の歴史の推移を見る限り、福地の懸念は根拠のないものではなかった。
たとえば、昭和期になって、近衛文麿による「一国一党」的な国民組織の樹立が意図されたときに、それが幕府政治復活であり憲法違反だという非難が起きて挫折したのである。

日本国憲法は、このような「王政復古」イデオロギーからすれば、場合によっては、幕府政治という非難を招きかねないものかもしれない。
制定当時の人々において、日本国憲法が「国体」を否定するものと見做されたのもそのためである。
しかしながら、幕府政治を批判する「王政復古」イデオロギーそのものが、「国体」についてのあくまでひとつの解釈に過ぎないという点が重要である。
既に述べてきたように、ここでは、「国体」観念の新たな解釈をもとに、日本国憲法を意味づけようとしている。
幕府政治であるという批判を回避するという配慮は、維新後間もない時期において、明治国家の誕生の事情を考慮しなければならない状況によって生まれたものであり、今日の「国体」解釈が、依然としてそれに拘束されねばならない理由はないであろう。

ところで、帝国憲法制定に至る過程を政治史的に見れば、それは、単に天皇の意思表示が積み重ねられていく過程ではなく、様々な現実の政治的な動きが複雑に絡み合っている過程であることは言うまでもない。
明治政府の当局者が、すべてこうした「立憲主義」に同意していたわけではない。
権力の地位にいる者の常として、可能な限り、天皇の権威を独占しながら現状を維持したいというのが、その本来の望むところであったであろう。
にもかかわらず、民権運動による国内からの圧力や、条約改正のための近代的な政治制度の整備の必要という対外的配慮も無視しえないものであった。
そうした様々な政治力学の拮抗するなかで、帝国憲法制定への道が準備されていったのである。

ただ、ここで重要なことは、わが国の「立憲主義」は、天皇の権力と権威に対する国民の闘争ではなく、天皇の権威の承認という共通の前提のもとで、権力を独占した藩閥政府のリーダー達と、そこから疎外された人々との間で、その政治的意思決定に対して天皇から「正統性」が授与される政治主体は誰かという点をめぐる闘争を通して発展したということである。

この点で興味深いのは、明治期において、わが国の「立憲主義」の実現を唱えた人々が、民権運動の活動家も含めて、「君民一体」の理想の実現としてわが国の立憲制度の確立を捉えていたということである。
たとえば『自由党史』(明治四三年)は、「民の富は朕の富なりと宣へるが如く、民の富既に天子の富たらば、民の強も亦た天子の強にして、貧富強弱、憂楽喜戚、倶に與に君民水魚の関係を保維せざる可らざるは、王朝の古よりして殆んど不文の憲法として存在せる所の大義なり」と述べ、こうした「不文の憲法」の現実のあらわれが「維新改革」に他ならないとしたうえで、「直ちに立憲政体を確立して、君民和協の名義を完くし、以て万世不抜の丕基を定むる」ことこそ、「維新改革の精神」をより一層拡充することに他ならないと述べている。
『自由党史』が「不文の憲法」という言葉を用いていることは、「憲法」の原義に忠実であって、それ自体興味深いが(ちなみに、「五箇条の御誓文」については、「立国の憲法」と称している)、それはまた、われわれの文脈に即して言えば、彼ら自身の「国体」解釈と見做すべきものであり、そうした「国体」解釈から必然的に導き出されるものとして、立憲政体を位置づけているのである。

無論、『自由党史』は、明治末年に記されたものであり、帝国憲法の施行の後に確立されていった「天皇制イデオロギー」によって語られた物語であると見ることも出来よう。
しかしながら、民権運動が戦われていた時期から、明治維新と「五箇条の御誓文」を議会制度設置要求の根拠とするといった論理の立て方は広く見られたところであり、また、藩閥を攻撃する際に、それが「君」と「民」との間にあって、上下の意思疎通を妨げるものという見地から批判するという論法もしばしば用いられた。
たとえば、民権過激派による加波山事件の際の檄文には、次のような一節がある。
「奸臣柄を弄して、上聖天子を蔑如し、餓?道に横たわりて吏検するをなさず。国会いまだ開けず、条約いまだ改まらず、言路を壅蔽して志士を逆遇す。かくの如くにしてなお数年を経過せば、国運の前途まさに図られざらんとす。吾人あに黙して止むべけんや」。

民権派は「君民一体」の理念を掲げていたが、それは、彼らの闘争が微温的なものであったことを意味しない。
彼らの闘争は、右の加波山事件をはじめとする激化事件に至るような激しい性格のものであった。
にもかかわらず、そうした過程を、西欧の「市民革命」の物語を援用して、絶対主義王権に対する闘争として叙述することは、果たしてどこまで正しいのであろうか。
もとより、そこでは、明治天皇の発した個々の意思などが問題ではなく、天皇を頂点とする客観的な支配体制 - 「天皇制」との闘争が問題なのだという考え方もできるであろう。
そして、民権派の人々の「尊王観念」は、彼らが明治政府と闘争しながら、イデオロギーの面では、その敵に絡めとられてしまったことのあらわれであり、わが国の「ブルジョア革命思想」の限界を示しているとするのが、これまで、かなりの間一般的であった理解と言ってよいであろう。

しかしながら、この「天皇制」の考え方自体が、いや言葉そのものが、昭和初期、ソヴィエト主導のコミンテルンが、その世界革命の戦略の一環として日本を位置づけるために制作した物語に由来し、日本では講座派と称される人々によって継承されていったものであって、それ自体が、もともとソヴィエトの公定イデオロギーに発するものである。
そうした点は今は置くとしても、そもそも、講座派的理解は、学問的にも妥当なものであろうか。

講座派は、江戸時代をいわば「純粋封建制」と見做した上で、明治維新を、あたかもフランスのルイ十四世の治世にも比肩されるような絶対主義体制の確立と捉え、民権運動をヨーロッパの絶対主義王政下に誕生するブルジョアジーの「民主主義革命運動」と理解するのである。
欽定憲法路線が確定したことは、そのまま、わが国の「市民革命」の挫折を意味し、わが国は、その後、絶対主義体制を維持したまま、「天皇制」という特有の「軍事的半封建的」な支配システムを確立していくと説かれるのである。
「八月十五日革命説」が憲法学者の間に唱えられたり、戦後改革が日本の真の「市民社会」誕生の契機となるといった考え方が知識人の間で広く抱かれたのは、こうした講座派的な日本近代史理解に立って、敗戦後の政治的・社会的な変化に、ようやく到来したブルジョア革命を何とか見出したいという願望が反映していたといってよいであろう。

講座派的見地については、当初から、明治維新をブルジョア社会の誕生と見る労農派からの批判をはじめとして多くの批判があり、とりわけ様々な観点からの江戸時代史の研究の進展するなかで、江戸期の社会発展の実態が従来考えられていた以上に高度なものであることが明らかにされ、講座派の「純粋封建制」などといった理解も成り立ち得なくなっていった。
これに対して、講座派自身においても、このような批判を意識して様々にその見解を修正する試みがなされてきたが、最近十数年来のマルクス主義自体の知的権威の失墜もあって、講座派的歴史理解は往年程の影響力を喪失しているのが現状である。

しかしながら、マルクス主義による見解がどうであれ、そもそも、今まで見てきたように、近代日本における天皇の政治上の地位と国民意識の形成との関係は、フランスをはじめとするヨーロッパのそれとは全く異なった様相を呈しているのである。
すなわち、幕末から明治にかけての国民観念の形成や、それに伴う「立憲主義」や「民主化」の進展をフランス革命における絶対王権に対する「第三身分」の抗争という物語で理解することは誤りであり、同様に、明治期以降の帝国憲法制定に至る過程についても、ヨーロッパの立憲君主制の確立に見られるように、本来、強大な実質的な権力を有していた君主が、その権力を次第に一般国民に委譲していくという過程として理解することも適切ではないと言えよう。

日本の場合は、そもそも、実質的な政治決定の権能を持たなかった君主が、あくまで「正統性」の淵源としての政治的地位を明確化しながら、しかも、その「正統性」の保持の方法が、各政治勢力の対立抗争のなかで、立憲的制度の創出という方向へ合理化していく過程として見ることがことの真相に適うものといえよう。
すなわち、天皇の「正統性」は、「公議輿論」に立脚して初めて安定的に維持されうるという認識が広がるなかで、わが国の「立憲主義」の発展が試みられたということである。
こうした見地に立つとき、わが国の民権運動を「ブルジョア革命運動」と見做して、その思想上の「限界」を云々し、そこに本質的な欠陥を見出すこと自体が、日本国憲法の解釈理論の場合と同様、本来それにそぐわない物語を強引に挿入した結果に過ぎないことが明らかになろう

もとより、民権運動自体が、西欧の民主主義思想や「天賦人権」の観念、あるいは、アメリカ独立革命やフランス革命の物語から様々な示唆を受けていたことは事実である。
すなわち、そこには、様々なレベルでの他国の来歴の借用があったのである。
従って、今日、民権運動を研究する際に、こうした影響関係に着目して、その点についての考察を深めるということが、重要な営みであることは言を俟たない。
また、わが国の「立憲主義」や「民主主義」の様々な側面を欧米と比較しながら検討したり、評価したりすることも欠かせぬ作業である。
しかし、西欧思想の影響があったということは、天皇の権威に対抗するために、そうした西欧の論議が援用されたことを意味するわけでは必ずしもない。
そもそも、広く西欧の制度や思想を参照して、わが国の新たな国制を築き上げるべきことは、やはり、「五箇条の御誓文」の「知識ヲ世界ニ求メ、大イニ皇基ヲ振起スベシ」のうちにあらかじめ包摂されていたと考えられるのではなかろうか。

ところで、こうした見地からの「立憲主義」発達の物語は、昭和期の軍部が政治的に台頭した時期においても、まさしく、それを批判する論拠として援用されていた。
度重なる軍部批判で議会から追われることになる斎藤隆夫は、その有名な「粛軍演説」の一節で次のように述べている。
「我が日本の国家組織は建国以来三千年、牢固として動くものではない、終始一貫して何ら変りはない。また政治組織は明治大帝の偉業によって建設せられたるところの立憲君主制、これより他にわれわれ国民として進むべき道は絶対にないのであります。故に軍首脳部がよくこの精神を体して、極めて穏健に部下を導いたならば、青年軍人の間において怪しむべき不穏の思想が起こるわけは断じてないのである」(『回想七十年』)。

ちなみに、斎藤は、敗戦後、日本進歩党の創立に参加したが、その綱領の冒頭には、「国体ヲ護持シ、民主主義ニ徹底シ、議会中心ノ責任政治ヲ確立ス」とうたわれている。
そして、斎藤本人も、戦後の第八十九回帝国議会での質問で、「如何に憲法を改正するとも之に依つて我が国の国体を侵すことは出来ない、統治権の主体に指を触るゝことは許されない、是は論ずるまでもないことでありまして云々」と述べていた。

昭和の軍国主義が、あたかも帝国憲法体制の必然的産物であったかのような見方が一般化している。
しかしながら、軍国主義の台頭については、むしろ、当時の日本が置かれた国際環境の方を重視すべきであろう。
確かに、後にも述べるように、帝国憲法が、統帥権の独立など、その構造上、軍部勢力の政治的台頭を許すような構造的欠陥を有していたことは否めない。
これは、天皇の実質的な意思決定の制度が、帝国憲法においても十分に合理化されたものとはならなかったことのあらわれであろう。
また、当時の「国体明徴運動」に見られるように、「国体」についての余りに偏狭な解釈が多くの人々を苦しめたことも事実である。
このことは、今後、「国体」という観念を解釈していく上で十分に留意しなければならない点であるし、それはまた、言論の自由をはじめとする人権諸規定の意義を改めて再認識させたという点で、わが国の憲法の歴史に貴重な教訓を残したと言うべきであろう。

しかし、こうした事実をもってして、帝国憲法で「天皇」が「統治権」を「総攬」するとされていることから、直ちに軍国主義が導き出されたという結論を出すことは、いささか短絡に過ぎる。
なぜなら、昭和の軍国主義は、天皇個人の政治的意向が「軍国主義」化し、天皇がそれを「叡慮」として貫徹しようとして生じたものではないからである。
天皇に「主権」があるとされていたことを直ちに軍国主義の台頭と結び付けるのは、むしろ、既に見たような平和と民主主義を一体として捉える戦後の物語に由来し、さらに、そうした民主主義の形成のあり方について、フランス革命をモデルとして評価するような思考態度から生まれてくるものである。
しかも、奇妙なことに、そこでは、フランス革命が徴兵制を生み出し、それ以降の戦争が、全国民レベルで戦われる全体戦争と化して、より過酷なものとなっていったという事実は何故か忘れ去られているのである。
斎藤の例は、帝国憲法下の熟達の議会政治家の憲法感覚からして、軍部支配が異常なものであったことを如実に示すものであろう。

われわれは、帝国憲法のもとでの憲法生活に関して、あまりに戦中派的な体験に捉われすぎているとは言えないであろうか。
ここで戦中派というのは、軍国主義以前の帝国憲法体制を経験せず、異常事態のもとでの帝国憲法体制をそのままその本質として受け取った人々であり、しかも、戦後の世論形成に大きな影響力を有した世代である。
これに対して、斎藤は、より立憲主義的な慣行によって運営されていた帝国憲法体制を経験しており、それゆえ、自らを帝国憲法体制の正統な担い手として位置づけて軍部を批判し得たのである。
われわれもまた、軍国主義への批判と、帝国憲法体制そのものの評価とを区別する視点を持たねばならないであろう。

さて、戦後の日本国憲法も、明治期と同様、天皇の「しらす」という行為を端緒として制定されたと見るべきである。
興味深いことに、日本国憲法が制定された昭和二十一年の新年、昭和天皇によって、後に「天皇の人間宣言」と称されることになる詔書が発せられている。
この詔書が発せられた状況やその本来の意義について論じる前に、まず指摘しなければならないことは、天皇自らが神格を否定して人間であることを宣言したのだから、天皇制度は根底的に変化を遂げたのだと主張される際、そうした主張が如何に憲法感覚を欠如したものであるかという点である。
そもそも、天皇は憲法から自由にあらゆる行為をなしうるものなのか。
その時期の天皇の位に就いておられる方の見解や発言がすべて効力を持つわけではない。
それは、あくまで、憲法典と、それを含めたあらゆる「実質的な意味の憲法」に則るものでなければならないはずである。
天皇の統治が、天皇の恣意的なパーソナルな支配ではないことは、帝国憲法において確定されており、それは、幕末期の「非義の勅命は勅命にあらず」という大久保利通の言葉にも示されていたところである。
同様なことは、現憲法下における仮設的な想定として、万が一、その時の天皇位に就いている方が天皇制度を廃止しようという意向を発した場合に、どのように考えるべきかという問題にも当てはまる。
天皇自らが神格を否定したことが、たとえ、ある人にとって好ましいことであったとしても、その人が、もし正当な憲法感覚を持っているなら、単にそのことを歓迎して済ますのではなく、憲法学的な見地からそのことの意味と法的効力について、改めて考察しなければならないであろう。

もっとも、この詔書は、もともと天皇のイニシアティヴによるものではなく、占領下という異常事態のもとで、占領軍の半ば強要によって発せられたものであり、その限りで法的効力に疑問の余地のないものとは言えない。
しかも、そこでの「神格の否定」とは、英文で書かれた原テキストを見る限り、天皇は、キリスト教のような一神教的な「神」、すなわち God ではないという、当たり前のことが言われているに過ぎない。
すなわち、この詔は、天皇の意義について、日本においては当然とされていることを、占領軍の意向に従って、改めて確認するために発せられたものに過ぎないと解釈すべきである。

日本で「神」とは、時に「野球の神様」といった表現に見られるように、「神」を God と捉える限り、信じ難いような文脈で用いられうる言葉である。
日本語の「神」がどのような存在であるのかについては、さしあたり本居宣長の「尋常ならず、すぐれたる徳のありて、可畏きもの」という定義を念頭に置こう。
すなわち、人間であれ、動物であれ、自然の事物や現象であれ、人々に常ならぬ感銘と畏れを感じさせるものが「神」と称されたのである(このことは、各神社の御神体とされるものを一瞥すれば明かであろう)。
こうした「神」が、世界の外側にあってそれを創造し、それ故、現世と人間を超越するような絶対的な存在としての God でないことは明かであろう。
にもかかわらず、英語の原文「The Emperor is divine」という箇所を「天皇ヲ現御神トシ」と致命的な誤訳をしたことが、天皇は日本的な意味においても「神」ではないとする宣言と解釈される余地を作ってしまった。
これが問題なのは、「現御神」は、後にも見るように、天皇の本質を語る言葉だからである(参照、大原康男、前掲書)。
従って、この部分は、あくまで誤訳であることを徹底させるか、あるいは、そもそも無効であると解釈すべきであろう。

ただ、そうした個々の部分に関する論議を含めて、異常な状況下で発せられたこのような詔書の意味については、日本国憲法の場合と同様、占領軍側の意向を受け容れる際の日本側の主体的契機が何であったかという点に着目して解釈しなければならないであろう。
この「天皇の人間宣言」が出された当時の昭和天皇の真の意向は、三十年後の記者会見で明らかにされた。
それによれば、昭和天皇にとっては、「五箇条の御誓文」の意義を再確認することにその本来の意味があり、「神格とかそういうことは二の問題であった」とされて、次のように述べられているのである。
「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います」(高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』)。

実際、「天皇の人間宣言」の冒頭には、「五箇条の御誓文」が引かれているが、しかも、それは、占領軍が用意した原文にはなかったものであって、昭和天皇自身の意向によって加えられたものであるという。
詔書では、それに続けて「朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ」という文章が続いている。
この詔書が日本国憲法が制定された年の初頭に発せられたことを鑑みるとき、先の憲法改正の上諭との関連が自ずから明らかになってくるであろう。
もとより、ここでの関連とは、昭和天皇自身がこの時期に憲法改正をどの程度実際に意識していたかということではなく、あくまで法的な論理の連関である。
すなわち、こうした法的な連関を想定することは、日本国憲法を「五箇条の御誓文」以来のわが国の立憲主義の伝統に位置づけることを意味するのである。
すなわち、日本国憲法は、昭和天皇が、明治天皇によって発せられた「立国の憲法」である「五箇条の御誓文」に対して、敗戦の原因についての反省や戦後の劇的な情勢の変化を勘案して、新たな解釈を下したうえで、帝国憲法の「改正」を「裁可」し「公布」した結果、誕生したものに他ならない。
いま引いた部分の「平和主義」や「教養」を強調した箇所や、その先の部分の「人類愛ノ完成」への言及は、「五箇条の御誓文」の「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ」、「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ」、「智識ヲ世界ニ求メ大イニ皇基ヲ振起スベシ」を新たに解釈して説かれていると受け止めることが出来よう。
すなわち、天皇は、時代と情勢の変化、また、国民のこれへの態度を「しろしめした」うえで、日本国憲法制定に対して「正統性」を付与したのである。

日本国憲法の制定が占領軍の意向によるものであったことは繰り返すまでもないが、改めて振り返ってみると、それが、帝国憲法の一定の改良としての面を有していることも見落とすべきではないであろう。
帝国憲法は、天皇に直属するとされた各国家機関が、それぞれ割拠独立して行動することを許すような構造的欠陥を有していた。
しかも、その場合、天皇が「立憲君主」に徹して、パーソナルな命令や指示を控えることで、そうした欠陥が、かえってより顕著にあらわれることになった。
帝国憲法下の各国家機関は、具体的意思を発動しない天皇の名のもとに、それぞれの権限の行使や主張を自由になしえたからである。
帝国憲法の制定以前から生存し、ある意味で憲法外的な個人的権威を持つ「元老」たちが健在な間は、彼らは、彼らの後輩である各国家機関の長たちに対して、その個人的な権威を行使して、各機関の間を調整することで、帝国憲法の円滑な運用が可能であった。
しかしながら、こうした「元老」が次第に死に絶え、帝国憲法下の政治体制が、昭和期以降、数々の内外の難問に直面するに及んで、帝国憲法は、その潜在的な欠陥を露呈したのである。

もとより、如何なる憲法といえども無条件に完璧なものではない。
帝国憲法も、条件に恵まれれば、大正期に確立した「立憲主義」的運用が、準憲法的な慣習としての地位を獲得するに至って、安定的な統治を可能にしたかも知れない。
しかしながら、実際は、昭和期になって、軍部勢力の台頭を許し、「憲法破壊」と称されるような現象まで生じて、帝国憲法体制そのものが大きく変質を遂げようとしていたのである。
帝国憲法の改正の結果誕生した日本国憲法は、国会が「国権の最高機関」であり、「唯一の立法機関」である旨を定め、議院内閣制を明示的に規定したことで、帝国憲法の多元的性格を、少なくとも法律的文言のうえでは克服したと見做すことができるかもしれない。

しかしながら、他方で、帝国憲法を批判することが、そのまま日本国憲法体制について無条件の賞讃を与えることであってはならないであろう。
日本国憲法は、日本が戦後のある種の鎖国状況下に置かれることで、帝国憲法が直面したような試練を未だ経ていないと言えるからである。
最近の内外の情勢は、日本国憲法の体制についても、単なる「国民主権」原則の確認のみならず、その全体的な構造に関しても、新たな検討が必要であることを示唆している。
とりわけ、各国家機関の割拠独立性が真に克服されているのか、戦争や災害など非常事態における集権的な権力行使のあり方についてどのように考えるべきかといった点についての検討が、現在の日本の憲法学、さらには政治哲学の喫緊の課題となっていることは言を俟たない。

さて、以上に概観したわが国の国制の歴史から、われわれは、日本が政治領域において他国に類例を見ない特異な道筋を辿ったと見做すべきであろうか。
確かに、日本の国制は、日本に特有の歴史的条件に規定されたものである。
しかしながら、そうした特有の歴史環境のなかにおいても、権力が一定のルールのもとに抑制されるべきであるという「立憲主義」と、政治的決定権が人民の間に下降していくという意味での「民主化」が、わが国に独自のあり方を通して実現されていったことがうかがわれるのである。
それは、近代化という現象が各国や各地域において、様々な形態を取るのと同様であり、特殊を通して普遍に至るということのひとつの例なのである。
その意味で、日本は、世界から孤立した異質な国制の歴史を有しているわけではない。
われわれは、このような日本の国制の歴史に関して、劣等感も優越感も抱く必要はない。
あくまで、われわれ自身の歴史として、受け容れるべきなのである。

無論、民主化をひとえにフランス革命の物語で理解し、日本もそうした物語に沿った道筋を辿らねばならないとする要請や願望には、とりわけ知識人において依然として根強いものがあろう。
ただ、そのような物語を信奉する人々は、自らが口にする「国民」や「人民」といった言葉が、現実に日本という国土に生活する人々を指すものではなく、あくまで、フランスという他国の物語に登場する観念的存在であることに、もっと自覚的でなければならない。
実際、彼らが、フランス革命の物語に同化しながら、そうした方向への改憲論を現実には主張しえないのは、彼らが、現実の多くの日本国民からは孤立していることを密かに感じ取っているからであろう。
もとより、繰り返し述べるように、外国の法学的・政治学的な理論の知識そのものには、貴重な示唆を与えるものが多々あることは言うまでもない。
しかしながら、そのような知識は、とりわけ憲法のような領域においては、あくまで、日本の歴史と現実の国民の意識に即して活用するのが本来のあり方であろう。


▼4.第六章 象徴天皇制度と日本国憲法第一条

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<目次>

◆1.日本国憲法第一条の解釈


日本国憲法第一条が、日本国憲法の制定の時点で打ち出された新たな原理を表明したものではなく、日本のそれまでの国制のなかに一貫していた「国体」の原則を新たな解釈を加えて表現したものであることは既に述べた。
これまで概観してきたわが国の国制発展の歴史を念頭において、改めて日本国憲法第一条を眺める時、それは、どのように解釈されるべきであろうか。
日本国憲法第一条は、日本国憲法の国制の根本部分を規定するものであって、それを解釈する際、これまで見てきた、幕末以来のわが国の「国体」の観念と「立憲主義」の形成の歴史、また、「五箇条の御誓文」を始めとするそれぞれの「憲法」をすべて考慮に容れた上で、その意義を確定しなければならない。
以下で示すのは、あくまで試論的な解釈のひとつであることを断ったうえで述べていこう。
改めて、第一条を引けば以下の通りである。

「(1)天皇は、(2)日本国の象徴であり (3)日本国民統合の象徴であつて、(4)この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

(※(1)~(4)は原文にはない便宜的な符号)。

◇(1)「天皇」の意義



さて、始めに「天皇」の意義である。
ここで、まず一言しておくべきは、ここで、天皇の地位が、「主権の存する日本国民の総意に基く」とされていることを捉えて、天皇の制度が、あたかも、日本国憲法によって初めて創設されたかのように解すべきだとする説についてである。
この立場は、しかし、根本において無理がある。
というのも、いま、われわれが、「天皇」という言葉や観念について一切の事前の知識を持たないで、日本国憲法や皇室典範の文言だけで「天皇」の意味を確定しようとしても、それは不可能だからである。
すなわち、日本国憲法は、既に存在していた天皇の制度に言及して、それを憲法典のなかに取り入れていると解釈しなければならない。

事実、憲法学者も、一般の人々も、無意識に日本国憲法の文言以外の様々な淵源をもとに天皇について語っているのである。
その際、天皇が、「実質的な意味の憲法」に属する観念であることの自覚がないまま、外国の君主の観念を適宜援用したり、宗教学や民俗学的な見地から、論者各様に天皇の意味を定めて、天皇を論じているのが現状である。
そして、一般の人々においては、甚だしい場合は、天皇が一個の制度であることを忘れて、現在の天皇の位についている方の個人的な性向や考えを論じることが、天皇について語ることであるかのような錯覚さえ横行している。
先の「天皇の人間宣言」が引かれる際の一般の態度にもそうしたきらいがある。
細川護煕氏や村山富市氏の個人的な考えや趣味などをいくらあげつらっても、「総理大臣」という観念の意味を確定することにはならないであろう。

「天皇」は、何よりも制度であり、また、「天皇」という言葉は、科学的述語のように、研究者によって任意に定義可能な操作的な用語ではない。
とはいえ、このことは、天皇の意義について、唯一不変の絶対的なものがあることを意味しない。
あくまで、「天皇」という制度が、わが国の国家制度上どのように位置づけられてきたのか、また、「天皇」という言葉が、律令体制をはじめとして過去の法制において何を意味していたのかということを跡づけて、そうした過去の実践とそれへの解釈の集積をもとにしたうえで、現在の実践的関心に即して、解釈学的にその意味を確定すべきである。
それは、やはり、英米における判例法的な解釈手続きに似たような作業であって、いわば、高次の憲法学に属する探求であり、それには、天皇に関する「神学」と呼びうるような識見を必要とするであろう。
こうした前提に立った上で、宗教学や民俗学的見地からの探求もまた、憲法学の補助的理論として有益な寄与をなすと言うべきであろう。

このように「天皇」の意義を考えるとき、まず重要なことは、天皇についての「実質的な意味の憲法」とは何かという問題であろう。
この点についての細部にわたる論議に立ち入ることはここでは出来ないが、一言だけ述べておけば、新たな天皇の即位の際の「大嘗祭」の公的な挙行が必要か否かといった論議は、何よりもまず、「天皇」とは何か、すなわち、ある方が「天皇」と称されうるには、どのような要件が必要とされるかという、重大な問題と関わっているのであり、しばしば論議される「信教の自由」の条項との関係は、その次に位置する問題である。

現行の「大嘗祭」の儀式の各部分につき、明治期になって新たに整えられた部分が多いといったことを主張して、その伝統を疑問視する向きがあるが、これは、そもそも、伝統ということを取り違えて、単に本来の形態をそのまま保持することが伝統の維持だと考えている点で誤りである。
伝統の維持とは、それまでの形態の本質と思われる部分を、その都度、解釈を通して確認して、新たな形を与えて、その活性化を図ることである。
従って、重要なのは、その時点での儀式の改変や拡充が、どのような意図と認識のもとになされたかということである。
様々な事情から、やむを得ず伝統を逸脱するという意識のもとになされた場合は別であるが、そうした改変や拡充が、本来の伝統に合致するという認識に立脚しているなら、それは、十分、伝統の名に値する。
同様に、「大嘗祭」が途絶していた時期があることを挙げて、それが必ずしも必要ではないとする主張がある。
この場合も、そうした途絶が当時においてどのように評価されていたかが問題である。
「大嘗祭」を経ない天皇が「半帝」とされていたことは、自ずからその問題の答えとなるであろう。
次に、こうした「大嘗祭」を皇室の私事として行うべきだとする見解であるが、皇位に就かれる方が、真の天皇となられたか否かは、天皇によってその「統合」が「象徴」される「国民」が共通して確認すべき事項であることは言を俟たない。
従って、もちろん、公的儀式として行うべきことが憲法上の要請である。

「大嘗祭」と「信教の自由」の条項との関係については、既に多くの文献があるから、ここでは、「大嘗祭」の挙行が、この条項に関して、最高裁によって出された「目的効果基準」に適うものであるが故に合憲であるという点のみを指摘しておこう。
すなわち、「政教分離規定」は、いわゆる「制度的保障」の規定であり、国家や自治体の宗教への関わりが、その目的と効果のうえで、少数者の信仰の自由を実質的に損なわない限り、社会儀礼の範囲内で、国や地方公共団体が、宗教行事に関係することは許されるとする趣旨である。

ただ、改めて考察するなら、そもそも、「大嘗祭」のような儀式は、日本国憲法の根幹に関係するものであり、単なる宗教儀礼というよりは、各国の建国の式典にも類比される国家儀礼であり、一般の私人や団体の宗教行事に国家や地方公共団体がどのように関わりうるかといった事例をもとに考察するのは、必ずしも妥当ではない。
従って、公的な挙行を前提にしつつ、その一方で、国民の信教の自由が実質的に犯されないことに配慮するのが本来のあり方であろう。
この点については、後に改めて触れよう。

◇(2)「日本国の象徴」



次に「日本国の象徴」である。
これが、「日本国民統合の象徴」と同じ意義を持つのか否か議論のあるところである。
ここでは、「日本国民統合」を後に述べるような理由から、近代国民国家としての日本における国民観念の成立を念頭においた文言であり、「日本国」は、近代国民国家としての日本をも内包しながら、むしろ、主として建国当初からの日本という国家を指示するものと捉えよう。

さて、「象徴」については、議論百出、明確な定義を与えることは容易ではないが、従来のように、「象徴」を、単に消極的な概念として片付けるのではなく、むしろ、「象徴」ということの原義に即して、本来無形で不可視の存在に、改めて可視的な形象を与えることで、それについての実感的理解を可能なものにするという意味で、むしろ積極的な概念として理解すべきである。
時として「象徴」は「代表」と異なるとされ、その理由として、代表という言葉は、同質のものが他の同質のものを全体として表現する場合に用いられるという具合に説かれることがあるが、ここでは、C.シュミットの「代表」概念が、日本国憲法の「象徴」概念を理解するのに参考になる。
そもそも、シュミットの「代表」の原語は、Repres?ntation であり、訳者によっては、「再現前」と翻訳されうる言葉である(和仁陽『教会 公法学 国家』)。
シュミットは言う。
「代表(再現前)は規範的な過程、手続でなく、また方法でもなく、《実存的なもの》である。代表(再現前)するというのは、目に見えない存在を公然と現存している存在によって見えるようにし、現在化することである。・・・・・・このようなことはいかなる種類の存在についても起こりうることではなく、特殊の存在を前提とする。たとえば、死せるもの、劣等のものまたは無価値のもの、下等なもの等はこれを代表(再現前)することはできない。これらのものには、公然たる存在として引立たせ、《実存》させるに価する高度の存在が欠けているのである。偉大、高貴、尊厳、名声、威厳および名誉というような言葉は、高度の代表(再現前)されるに価する存在の右のような特性をいい当てようとするものである。単なる私的なものおよび単なる私的利害にのみ役立つことがらは、なるほど代理されることがあり、代理人、弁護人および代表者を見出すことはあっても、特殊な意味において代表(再現前)されることはないのである。・・・・・・代表(再現前)の理念は、《政治的統一体》として実存する人民が、何らかの共同生活を営む人間集団の自然的存在に比し、より高尚な、高度で強度な存在を有することに基づいている。政治的実存のこのような特殊性の意味がなくなり、人間がこれと異なる存在様式を選ぶならば、代表(再現前)というような概念についての理解もなくなるのである」(阿部照哉他訳『憲法論』245-246頁、傍点(※注:ここでは《》内)は原文、(再現前)は引用者による補足)。

シュミットの「代表」=「再現前」は、単なる「規範的な過程」でもなく、「手続」や「方法」でもなく、「実存」するものであるとされているが、このことは、天皇の「象徴性」を理解するうえで、「象徴」をともすれば抽象的・観念的関係として捉えがちな従来の多くの解釈 - 既に紹介した和辻の議論もそうだが - に比べれば、より有益な示唆を与えてくれるように思われる。
和仁氏によれば、Repres?ntation という言葉は、「上演」をも意味し、従って、この概念には、「ペルゾーン=公人=役柄による何らかのイデアー=理想像の具体的現出という観念が存在し、従って、公共=公衆=観衆(?ffentlichkeit, Publikum)を前にして行うこと=公共性(?ffentlichkeit, Publizit?t)と、それに結びついた(やはり多義的な概念である)可視性と密接な関係にある」という(和仁、前掲書)。

ここで言われていることを理解するには、たとえばシェイクスピアの『ハムレット』の台本(上演されないうちは不可視のイデアーとしてのみ存在する)が、それぞれの役柄に扮した現実の俳優たち(ペルゾーン=役柄)によって、多くの観客(公衆、観衆)の眼前で「上演」、すなわち「再現前」されることで初めて実際の劇として姿をあらわす(可視性=公共性)ような例を想定すればよい。
その場合、台本の解釈によって、様々な演出が可能となるが、劇があくまで台本に即して上演される限りで、その劇は、『ハムレット』たるを失わない。

そもそも、歴代の天皇とは、いずれも、常に存在しながらも、それ自体は不可視であるところの「皇祖皇宗」の神霊が、その都度「再現前」されたものであり、「現御神」とは、まさにその謂である。
なお、従来ともすれば、天皇が、その「御一身」において、「日本国」ならびに「日本国民統合」を象徴すると説かれることがあったが(美濃部達吉『日本国憲法原論』、清宮四郎『憲法Ⅰ(新版)』など)、これは誤解を招き易い解釈である。
このように解釈するから、天皇の生身の「御一身」が如何なる意味で「象徴」でありうるのかといった方向に議論が展開し、「象徴」の意味が、いたずらに不明確になっていくのである。

ここでは、「天皇」とは、先にも述べたように、あくまで制度であるということを念頭におくことが肝要である。
そのことの意味は、「天皇」という観念が、単に単独の個人の身体を指示するのではなく、「天皇」として行うことが定められた一連の行為を内包する観念であるということである。
とりわけ、天皇という制度は、その都度、状況に応じて適宜に活動することを要請されている総理大臣という職務以上に、前もって確立され標準化された行為形式としての側面が大きい。
そして、その行為は、シェイクスピア劇において主人公ハムレットの役割が成立するためには、それを取り囲む他の様々な役柄との共演が必要であるように、ペルゾーンとしての天皇を囲む他の役柄を定められた人々の一連の行為と連関することによって初めて意義を持つということである。
そして、『ハムレット』が、劇として成立するには、観客が必要なように、「天皇」がそうした制度を通して観衆である国民のなかに公然と姿を現すさまが、「日本国の象徴」という言葉に託されているのである。
たとえば、新年参賀の際に、天皇が観衆のなかに姿を現し、観衆がこれに歓呼をもって迎えるという劇的な場面そのものが、日本国を可視的に現前させていると考えればよいのである。
それは、フランス革命記念日のパレードや、アメリカ独立記念日の式典を眺めることで、これこそ、まさしくフランス共和国である、あるいはアメリカ合衆国であるという具合に実感的に理解するということと同様である。
もとより、日本国を可視的に「象徴」するものとしては、富士山や桜花など日本人のそれぞれにおいて様々なものがありうるであろう。
ただ、日本国憲法は、その第一条において、こうした国民それぞれの可視的イメージとは区別された日本国の公的な可視的表現として天皇を想定しているのである。

今日の新年参賀は、伝統によって規定されている度合は低いが、「天皇」の公的行為の多く、とりわけ古代に淵源する儀式が、源初に確立された理念の「再現前」であることは、江戸期水戸学の理論家、会沢正志斎が記している次のような一節からも見て取ることが出来る。
すなわち、会沢は、「新嘗祭」の意義についてまず次のように記している。
「この嘗というのは、はじめて新穀を召し上がって天つ神にお供えしたまうことである。天祖が穀物のよい種子を得たもうたとき、これにより人民を生活せしめることができると思し召し、これを田に植えたもうた。また口に繭を含んで糸を抽きたまい、ここにはじめて養蚕業がおこった。こうしてこれらを万民の衣食の根本とされたが、天下を皇孫に伝えるにあたり、とくに斎庭の稲穂を授けたもうた。人民の生活を重んじ、よい穀物を重視したもうたことがこれからわかるのである」(『新論』、橋川文三現代語訳、以下同じ)。

これは、「新嘗祭」の起源と理念を解き明かした部分であり、以下、この祭を代々挙行していくことの意味が次のように語られている。
「祭りの日には、中臣氏が中臣の寿詞(祝詞)を天皇に奏上し、斎部氏が新璽の鏡と剣を捧げるが、これは代々かならず当初の儀式どおりに行われ、《あたかも新たに天照大神の命を受けるかのようである》」。
「そして諸般のことにたずさわるものたちも、すべてその職を世襲して代々失うことのないものたちで、機敏にその職務をとりさばくさまは、《まったく天孫降臨の日とかわることがない》。こうして君臣ともにその太初を忘れることはあり得ないのである」(傍点(※注:ここでは《》内)、引用者)。

この一節からも、会沢の見るところの「新嘗祭」が、建国当初の理念とされてきたものの「再現前」であることがうかがわれよう。
すなわち、このような儀式は、日本国というものを、それが創設されて以来の時間的経過のなかで変わることのない存在として可視的に現前させることにその意義を有しており、こうした天皇を劇的な中心に据えた儀式が国民という観衆の前で公然と挙行されるまさにそのことが、「天皇は日本国の象徴である」ということの本来的な意味なのである。

ちなみに、戦後の「開かれた皇室」という言葉に託された態度は、天皇を始め皇室の方々の私的生活に異様な興味を寄せて、それを天皇そのものへの関心と錯覚しているものであり、それは、あたかも、『ハムレット』劇に出演する俳優の楽屋裏での個人的な私生活を見聞することで、『ハムレット』劇そのものを享受したような気持ちになるのと同様である。
こうした「開かれた皇室」といった発想が出てくるのも、日本国憲法の誤った解釈により、天皇が「制度」であるという理解が稀薄になったためであろう。
もとより、皇室の方々が、一定の範囲内で、国民の理想的な私生活のモデルとして姿を現すことは、後に見る「国民統合の象徴」との関連でそれなりに認めてよいことかもしれない。
しかしながら、その場合でも重要なのは、天皇の本義は、あくまでこのような古代儀式を含めた「制度」であるということを忘却しないことである。

ところで、日本国憲法に言う「日本国の象徴」が、こうした宗教性を帯びた古代儀式による「再現前」を意味すると考えることには、「政教分離」の見地から受け容れがたいとするむきもあるであろう。
しかしながら、かつてのソ連のように宗教そのものを弾圧しようとした例は別として、国教制度を定めているイギリスや、建国の宣言においてキリスト教の神に言及しているアメリカ合衆国の例に見られるように、国家の基本的構造に宗教的観念を織り込んでいることは、必ずしも異様なことではないし、今日においても、こうした国々の政治的首長が公的発言において神に言及することもしばしばである。
また、「政教分離」についての各国の状況を見れば、宗教と国家との関係が最も緊張を孕んでいるとみられるフランスの事例を含めて、多くの場合、それは、国家と特定の宗派との分離、すなわち、「国家と教会の分離」と解しているのが現状である(大原康男、百瀬章、阪本是丸 共著『宗教と国家の間』参照)。

にもかかわらず、それを「国家と宗教の分離」と厳格に解釈して、国家が、およそ宗教と完全に断絶していなければならないとする考え方は、特定の文化的・歴史的属性を一切捨象したところの、フィクション的な存在に過ぎない「人類」を主体とする物語を自己の来歴と定めた戦後日本に特有の、そしてそれこそ世界から見て異様な状況の産物である。
そもそも、先にも述べたように、日本国憲法が、「天皇」の概念を、全く新たな見地から創出したとは考えられないのであり、そうだとすれば、「天皇」については、やはり、その伝統に即して理解するのが本筋であろう。
そして、日本国憲法のいう「日本国」が、建国当初以来の日本という国家の理念を指示しているとするなら、「天皇」が「日本国の象徴」であるとの文言の意味を右のように解釈することは、きわめて当然のことではなかろうか。

もとより、「日本国」を「象徴」する「天皇」の制度は、右に引いた「新嘗祭」によってのみ成立しているわけではない。
その他にも各種の儀式が伴うし、その間にも、それぞれ軽重が存在しよう。
また、こうした儀式の他にも、天皇の私的生活の場である宮廷で発達した「みやび」のような宮廷文化の伝統をどのように位置づけるかという問題もある。
皇室が担う宮廷の文化的伝統は、直ちに憲法上の意味を持つものではないとしても、後に見る「国民統合の象徴」との関連で、間接的に国制の上での意義を有するということが言えるかもしれない。
ただ、このような点を含めて、「天皇」という制度の全体は、『ハムレット』の台本のように、明確に確定された原型があるわけでは必ずしもない。
従って、そこには、様々な解釈=演出が必要とされる。
また、「日本国」が国際関係のなかに置かれた近代国民国家としての「日本国」をも含むのだとすれば、単に古代以来の儀式に限らず、たとえば今日の外国使節の応接の際の儀式のように、日本国が外国に対して「象徴」される場合も考えねばならない。
その場合、天皇は当然、「元首」としての性格を持つ。

今日において如何なる儀式が必須のものであり、それを現在の社会状況との関連でどのように解釈=演出して挙行すべきか、この点の探求こそ、高次の憲法学、あるいは天皇神学が解明しなければならないところであろう。
もとより、そうした各種の儀式の挙行には、内閣の「助言」と「承認」が必要である。
功利的な言い方であることを承知の上で敢えて述べるなら、世界から単なる経済発展と技術革新の国であると思われている日本が、その国家としての理念を、こうした伝統に立脚した荘厳で優美な古代儀式によって「象徴」している国家であるということが公然と示されるなら、各国の日本に対する見方や態度も、従来とはおのずから異なったものとなっていくであろう。

◇(3)「日本国民統合の象徴」



次に、「日本国民統合の象徴」である。
これは、既に見てきたところの、近世以降のわが国における国民観念成立の歴史を念頭においた文言であると解釈してはどうであろうか。
すなわち、幕末以降の流動化する政治情勢のなかから、「国民」観念が形成され、その過程で様々に競合しあう国民の各部分、あるいは各層が誕生したが、それがいずれも、究極の統治の「正統性」の淵源として「天皇」を仰いだこと、逆に言えば、「天皇」の観念のもとに、「国民」としての「統合」を保ち得たことを、「天皇」が「日本国民統合の象徴」であるという文言で語っているのである。

こうした国民各部分や各層の「統合」が、より意識的になされなければならないことは、近代化が進行するにつれて、ますます切実に認識されつつある。
もともと、近代国家における「国民」とは、自然的に「統合」されている存在ではない。
共産党支持の国民と自民党支持の国民との間に、そのままで「統合」があると言えようか。
その意味で、日本国憲法前文、また、第四三条における「国会」が「国民の代表者」によって構成されると言われる際の「代表」とは、各議員が直ちに「国民」全体の代表者であることを述べたものではなく、それぞれが「国民」の各部分を代表しつつ、その審議を始めとする国会での活動の過程で、「国民」全体を「代表」するに至ると動態的に解釈すべきではなかろうか。
これに対して、天皇は、国民の各部分が共通して仰ぐ存在であるが故に、そのまま直ちに「国民統合の象徴」である。
ここには、フランスの憲法などで、大統領と議会のいずれが国民を真に代表するのかということが問題となるのと似たような状況がある。
日本においては、天皇が、その歴史的理由から、直接的に「国民統合の象徴」であると解するのである。

ただし、天皇が「国民統合の象徴」であることを、より現実的な次元で維持するためには、単にこうしたわが国における「国民」観念形成の歴史に依存するだけではなく、天皇として積極的に行わねばならない行為があるはずである。
その場合、そこでの「象徴」は、「日本国の象徴」と比べると、より緩やかな観念であり、「象徴」としての行為についても、伝統的な儀式と密接な連関を持ったものでは必ずしもなく、「統合」を「象徴」するためのアド・ホクな様々な行為が考えられる。
ただ、「主権の存する国民」という文言との関係で言えば、こうした天皇の行為は非政治領域においてなされねばならないものであり、それには、各種の福祉・救済事業や文化・芸術に関わる行事が考えられる。
その場合、皇室が担う文化的伝統も、大きな意味を持つかもしれない。
あらかじめ「国民」の間に政治的対立が想定されないような行事や領域のなかに、天皇が現前しつつ、それを主宰することを通して、天皇は、まさしく「国民統合の象徴」としての可視的で具体的な実質を獲得し、それを維持していくのである。

重要なことは、それが、実質的な政治決定の権能としての「主権」の保持者である「国民」の間で未だ決定を見ない政治的問題に関わるものであってはならないということである。
というのも、天皇が、国民のある部分が支持している決定内容について、それが国民全体の決定となる前に、それを支持するような発言や行為を行えば、それは、国民のある部分にのみ関わることになり、「国民統合の象徴」ということに反することになるからである。
この意味で、「主権の存する国民」と「日本国民統合の象徴」という二つの文言は、きわめて密接な内的な連関を持っており、しかも、それは、フランス革命の物語によって解釈された「国民主権」の理念が要請するところではなく、むしろ、幕末以来の大久保利通の言葉が示唆するような認識、すなわち、「勅命」は「公議輿論」に裏付けられて初めてその権威を維持しうるという政治的叡知が、より合理的な形態を取ったことの結果なのである。

「主権の存する国民」の間での政治決定は、「全国民を代表する選挙された議員」の間の討議と、議決すなわち「過半数」によってなされるとされているが、多数決の結果が、なにゆえ、少数派も含めた「全国民」の決定となるのかについては、議論のあるところである。
通常は、ルソーによる古典的な民主主義理論の基本をなす「一般意思」の観念に基づいて次のように理解している。
すなわち、政治決定は公共のことに関するものであり、それに関わる限りで人々は、単なる私人ではなく「国民」である。
その場合、人々は、自分自身にのみ関わる問題において発せられるべき「特殊意思」ではなく、あくまで、公共の問題を志向する「一般意思」において発言し行動しなければならない。
従って、そこでの多数決とは、個別利益の間に実存する相違を露(あらわ)にするものではなく、何が真の「一般意思」であるのかを推測するひとつの手段である。
多数派は、「一般意思」が何であるかの判断において正しかったのであり、少数派は誤っていたのである。
従って少数派が多数派の決定に従うことは、彼らの個別的利害に反することではなく、そのまま公共のことに尽くすことを意味するのであり、そこにおいて、多数派・少数派を含めた「国民」としての決定がなされたことになるのである。

ただ、今日、実際に行われている政治決定に関して、このような想定が現実に成立するか否かは問題となるところである。
ここでは、このような近代の議会政治の現実を考慮に容れつつ、国会を「国民」の各部分を「代表」するものの集合と捉えた上で、その現実の活動の過程で、「国民」全体を代表するに至ると理解した。
もっとも、このように解したとしても、国会の審議の過程で、国会が国民全体を真に代表するものとなると言えるか否かは、少なくとも現実の政治の実態を念頭におく限り疑問が残る。
このことは、従来の議会制民主主義が前提としているような政治決定の正統性の根拠が動揺していることを意味する。
すなわち、正統性の主体としての単一の「国民」という観念そのものが曖昧なものとなっているのである。
こうした事態を考慮するとき、日本国憲法が、直接的な政治領域以外のところで、シュミットのいう「規範的な過程、手続でなく、また方法でもなく、実存的なもの」として、「国民統合」を可視的に「象徴」している「天皇」が、政治決定の「正統性」を確認し、それを公的に表現すべき旨を定めていることは、民主主義を維持するうえでも、きわめて重要な意義を有していると言わざるを得ないであろう。

ここには、単に日本国憲法の解釈の問題のみならず、およそ、国家というものが安定的に存続するためには、抽象的に理解された法的関係や、今日の一般の政治学が描き出す政策決定の過程からは導出されえないところの何らかの共同性が国民の間においてリアルに実感される必要があり、それは、何らかの可視的象徴や儀式を通してはじめて可能になるのではないかという、より大きな問題が関わっているのである(たとえば、David I. Kertzer, Ritual, Politics, and Power esp. ch.4 参照)。
今日、国家の元首的存在について「国家の象徴」である旨を定めたり、また、国民主権を規定する一方で君主制度を有している国々の憲法において、君主が「国家」、「国民統合」、ないし「国家の統合と永続性」の「象徴」と定められている例がいくつか存在し(スペイン、モロッコ、ネパール、カンボジアなど)、とりわけ、その多くが比較的最近になって制定された憲法条文に見られることは(読売新聞社編『憲法 - 21世紀に向けて』、参照)、今日の政治世界において、上に述べたようなことが意識・無意識のうちに認識され始めたことのあらわれではなかろうか。

もし将来において、天皇の制度が日本の憲法の上で廃止され、かつ議会での審議や決定という手続きそのものが権威を失った場合に、あくまで仮説的に起きうる事態のひとつとして想像されるのは、主権者たる「国民」を直接にそして真に「代表」するものは何かという点が改めて切実な問題となることである。
この点は、今日の憲法学界で、「国民主権」の解釈をめぐって、フランス革命時のいくつかの憲法規定をもとに、「ナシオン(nation)主権」と「プープル(peuple)主権」とを区別する論議が展開されていることからもある程度予想される。
そこでは、「ナシオン」が国民という観念的存在であるのに対して、「プープル」こそは、たとえば選挙人団といった具体的に実存する人民であると説かれ、「ナシオン主権」が代議制を通しての一部特権層の支配を隠蔽する機能を持つのに対して、「プープル主権」こそが、真の人民の支配を意味するといった論議がなされているのである(杉原泰雄『国民主権と国民代表制』)。

しかしながら、仮に「プープル」が具体的な人民を指すとしても、「プープル主権」が、そうしたひとりひとりの具体的人民すべてが直接に支配するということを意味するのか、あるいは、それが実際にどのような政治体制を意味するのかはひとつの問題であり、場合によっては、真に「人民」を代表すると称するものの間で、苛烈な政治闘争が展開される可能性があろう。
王政を廃止して「国民」を政治的権威の源泉と認めた後のテロルの時代を含めたフランス革命以降の過酷な事態や、先年のロシアにおける議会と大統領との激しい対立は、まさしく、そのことが現実となった例である。

◇(4)「この地位」「主権の存する日本国民の総意」



次に、「この地位」と「主権の存する日本国民の総意」である。
「この地位」は、「その地位」とされていないことから、単に天皇の「地位」ではなく、その「象徴」としての「地位」を指すのではないかという説もある。
ここでは、「天皇」とは、単に、その「御一身」ではなく、「天皇」という制度全体を指すと解釈し、また、そうした「制度」そのものが、「日本国」や「日本国民統合」を「象徴」すると解しているから、その点の区別に神経質になる必要はない。
問題は、「主権の存する日本国民の総意」である。
この文言の前半部分は、これまで折りに触れて言及したように、実質的な政治決定の権能が国民にあることを明言したものであり、具体的には、国民から選挙された議員によって構成された「国会」が「国権の最高機関」であり、「唯一の立法機関」とされていることを指す。
これは、一面では、「国体」の解釈に即して、天皇の権威の維持の方法が合理化を辿ったひとつの帰結であり、他面では、幕末以来の「民主化」の到達点であろう。

それでは「日本国民の総意」とは何であろうか。
これは、事実を記述する文言であろうか。
すなわち、「天皇」に関わる「この地位」が「国民の総意に基く」ということは、日本国憲法制定当時の「日本国民」の資格を持つ人々全員について妥当する記述であろうか。
当時の「日本国民」のなかには、共産党のように、「天皇制打倒」を叫ぶ人々もいたのである。
とすれば、この文章は、当時の事実についてリアリズム的に記述するものとは言えないであろう。
そのためか、ここでの「総意」とは、「国民の大方の意思」という程度に解すればよいという説がある(横田耕一『憲法と天皇制』)。
ただ、この説は、日本国憲法の「天皇」をできるだけ「無化」する方向で捉えるべきだとする立場に立っていることに注意しなければならない。
すなわち、もし、「総意」ということを文字通り「全員の意思」に解すると、それが事実に妥当しないことになり、その結果、「総意」をルソーの「一般意思」のように解して、事実と区別された規範的理念としての「国民」について述べたものであるとする解釈が導かれることになり、その場合、かえって「天皇」の地位が強化されることを懸念して、あくまで、これを事実についての記述と解した上で、上のような「大方の意思」と理解するわけである。
すなわち、この部分は、何ら規範的要請を伴うものではないが故に、たとえば、この規定から、「天皇を尊重擁護する義務」などを導くのは誤りだとされるのである。

もっとも、この論者も、同じ第一条の文言において、「主権の存する日本国民」の部分については、規範的要請を含むと解釈するであろう。
そうなると、第一条は、ある部分は事実について記述し、他の部分は規範を語っているということになろう。
しかしながら、日本国憲法第一条のなかに、こうした区別を持ち込むことは果たして妥当であろうか。
むしろ、こうした文章は、全体として、事実について記述しながら、同時に未来についての規範的要請を語ったものと解すべきである。
すなわち、そこでの規範的要請とは、現実に対して、天下り的に設定されるものではなく、あくまで、過去の事実についての記述のなかに内在していると考えられているのである。

こうした事実を記述しつつ、それが規範的要請ともなっているタイプの文章として、たとえば、「アメリカ合衆国は民主主義の国である」というのがある。
この文章は、一見すると単に事実についての記述と受け取れるが、合衆国大統領が、なにがしか「非民主的」な内容の政策決定を下そうとしている際に発せられるなら、ある要請を伴ったものとなるであろう。
同様のタイプの文章として、倫理的な問題が絡む選択の前に立たされて、「自分は正直者である」と語る場合が考えられる。
この場合も、「自分は正直でなければならぬ」という未来に向けての規範的要請がそこに含まれていることは言うまでもないであろう。
法律の文章は、すべて上のような、何らかの行為の選択という場を想定した文章であり、それゆえ、事実記述の形態が、そのまま規範的要請となるのである。
ところで、過去及び現在について記述しながら、同時にそれが未来に向けて、ある種の行為のあり方を要請しているような文章の構造は、われわれに何かを想起させないであろうか。
しかり。
それは、まさしく、われわれの見てきた物語あるいは来歴の構造そのものなのである。

無論、第一条は、来歴や物語のように過去形を用いることをしていない。
しかしながら、そのことの意味は、それが、単に記述の時点での事柄を語っているからではなく、そうした事柄が、現在及び将来のいずれの時点においても現前すべきことを想定し、そうした現前の瞬間を念頭に置いて現在形が用いられているのである。
その限りで、そこでの現在形は、「2に3をプラスすると5になる」という命題の場合と同様である。
ただ、上に見た二つの文章や憲法第一条の例が右の数学的命題と異なるのは、そこで語られている事柄が、論理的・数学的命題が指示するものとは異なり、過去から現在にかけての事実でありながら、同時に未来のいつの時点においても現前すべきであるという要請を通常以上に強調するために、本来は過去形で語られるべきものが将来に引き寄せられて現在形になっているということである。
このように見るとき、日本国憲法第一条は、日本の国制の従来のあり方を物語りながら、それを将来に向けての要請として語っている文言だということになるであろう。

ただし、ここで問題となるのは、過去及び現在の事実について語っているという場合の「事実」の意味である。
ここでの「事実」とは、眼前に生じている可視的事態を指すものではないということである。
むしろ、「国民統合」の「国民」が「国民観念」を指しているように、観念や理念が展開されてきた過程としての事実を語っているのである。
その際、「主権の存する」の部分は、先にも述べたように、幕末以来の日本の「民主化」の過程を念頭に置きつつ、日本国憲法制定時点での到達点を宣言したものであり、「日本国民の総意」ということは、形成されてきた観念としての「国民」が、その意味構成において、すなわち、その定義上、「天皇」を「象徴」として仰ぐという意思をその属性としていると捉えるべきである。
この点に関して、ここでの「総意」を単に「意思」と解すればよいとする説もある。
ただ、敢えて「総意」という言葉を用いているのは、日本国憲法第一条が、「日本国民」について、天皇との関連では、複数の類型ではなく、単一のものを想定しており、その定義上、「天皇」を「象徴」として掲げる「意思」を持った存在であるとされてきた「事実」を強調するためであろう。

もとより、このような「事実」は、観念の成立について物語的に記述されたものであり、そうした観念が、個々の場合に、どの程度に現実に妥当してきたかは別の問題である。
しかし、およそ、法律の文章は、現実をリアリズム的に描写することを目的とするものではなく、現実を規制すべき観念のあり方、ここで改めて佐々木惣一の言葉を借りれば、「社会的事象」ではなく「法律事実」を語るものであることに留意しなければならない。
すなわち、「日本国民の総意」とは、歴史的に形成された「日本国民」という理念に関わる属性について述べ、さらに、それを未来にわたる規範的要請として掲げているのである。

ただし、法律の規範的要請は、国民の日常生活において、すべて一律の強度を有すものではない。
この「総意」に関わる規範的要請がどの程度の強度を持つか、すなわち、どの程度の法律的義務を課すことを要請しているかは、各国の例も参照して決定すべきであろう。
ただ、その際考慮すべきは、一般国民と天皇との関係について、かつての封建的な君臣関係のモデルで理解すべきか否かという点である。
この点について、日本国憲法には「臣民」という言葉はなく、また、あの「天皇の人間宣言」においては、「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」とされており、後の記者会見でも、昭和天皇は、「皇室もまた国民をわが子と考えられて、非常に国民を大事にされた。その代々の天皇の伝統的な思召しというものが、今日をなしたと私は信じています」と語られている。
すなわち、その全体の趣旨からして、天皇は、「国体」についてのご自身の解釈に基づき、従来ともすれば強調されてきた君臣の間の絶対的区別の観念を緩和したものと見做すことができる。
従って、天皇と国民との間には、封建的な君臣道徳ではなく、国民の側の敬愛の念を保った穏やかな信頼の関係が要請されていると解釈すべきであろう。
この点から見ると、「象徴侮辱罪」といった罰則規定はあるいは考慮することが可能であるかもしれないが、帝国憲法下の「不敬罪」のような規定は、やはり問題であろう。


◆2.いわゆる日本国憲法の三大原則


以上で、日本国憲法第一条の解釈を終えるが、ここで、日本国憲法の三大原則とされているものについて、いくつかの補足を加えておこう。
三大原則とは、(1)国民主権主義、(2)平和主義、(3)基本的人権である。
(※(1)~(3)は原文にはない便宜的な符号)

◇(1) 国民主権主義



第一番目のものについては、以上の記述以外に、さしあたり付け加えることはない。

◇(2) 平和主義(非武装の考え方)


二番目の平和主義に関しては、既に戦後の来歴について語った部分において、多くのことは述べておいた。
日本国憲法前文のしかるべき部分と、その第九条とりわけ第二項が、「平和と民主主義」に関わる「人類」の来歴に由来するものであり、根本的な見直しが必要であることは改めて繰り返すまでもないであろう。
ただ、第九条第一項の一般的な平和主義を宣言した規定は、日本が一九二八年の不戦条約を締結しており、また、日本が加盟している国連の憲章、そして、今日の国民世論の見地からも、そうした趣旨の条文を存続させるのが妥当であろう。

ここでの問題は、日本の「実質的な意味の憲法」、とくに「国体」との関連で、非武装の考え方をどのように理解すべきかという点である。
江戸期以前にまで遡って「国体」を考察するとき、「国体」は対外的軍備の保持に関して、どのような要請を掲げているとみるべきであろうか。
実質的な対外的常備軍を有さない時期も長期にわたっているから、日本が、ことさらに戦争を志向する国であったということはできないであろう。
ただ、対外的常備軍を設けないことが、敢えて規範的要請とされていたと解釈する根拠もない。
逆に、対外的常備軍を設置すべきであるということは、「国体」の強い規範的な要請であろうか。
先の会沢の「国体」解釈では、日本は、「武を以て国を建て」たことを国柄とするとされており、そうだとすれば、対外的常備軍の設置は、「国体」上の要請のようにも解せられよう。
しかしながら、このような解釈は、当時の国際情勢に対する認識をもとに、武士階層に特有の伝統を、そのまま「国体」として理解した結果ではないだろうか。
帝国憲法は、徴兵義務を規定したが、その論拠として、たとえば『憲法義解』は、「上古以来我が臣民は事あるに当て其の身家の私を犠牲にし本国を防護するを以て丈夫の事とし、忠義の精神は栄誉の感情と倶に人々祖先以来の遺伝に根因し、心肝に浸漸して以て一般の気風を結成したり」と述べている。
すなわち、帝国憲法は、水戸学以来の国際認識を継承しながら、古代律令国家の国制を念頭に置いて、そこでの兵制の観念を媒介にしつつ、武士的伝統を徴兵制によって全国民化しようとしたと言えよう。

興味深いのは、徴兵制に関しては、当時から、それが「四民平等」の原則の実現であるとする議論が広く行われていたという事実である。
すなわち、武器を帯びて国を護るという栄誉が、ひとり武士階級の特権であったような事態を克服して、全国民がこのような栄誉に与ることになったとするものである。
この点を、たとえば、明治の史論家、竹越三叉は次のように述べている。
「此に於てか平民は一段進みて、士族と共に肩を比べて、国家防護の栄職に上るの機を得たり」と(『新日本史 中』)。
平等化の進行と徴兵制度の設置が並行することは、フランス革命が、普通選挙と義務兵役制をもたらしたとされることからも(R. カイヨワ『戦争論』)、ある程度、近代の世界の動きに普遍的な道筋と言えそうである。
日本の場合は、律令国家の制度の再解釈を行い、その後に登場した武士階層の生き方を、全国民のそれへと「民主化」して継承することで、こうした世界史の普遍的道筋に沿った動きに参画することになったのである。

もっとも、明治国家においては、それを取り囲む国際環境もあって、日本の「武備」を尊ぶ伝統が過度に強調され過ぎたきらいもある。
そうした傾向が、果して、「国体」の要請するものであるか否かは、議論の余地があろう。
全国民が常に兵士であるべきか否かについては、「国体」は必ずしも明示的な解答を与えていないように思われる。
戦前期までの全国民の武士化の反動として、戦後においては、社会的安全の維持を武士階級に依存し、自らは経済活動を始めとする私的領域での活動に専念していた町人階層の価値観が、より平俗化した形で過度に行きわたりすぎた傾向がある。
「町人国家日本」という言葉は、国際社会において、秩序の維持という武士の役割をアメリカという外国に依存しながら、自らは、国際社会の町人に徹した日本の姿を象徴するものである。

ここで、言いうることは、どのような軍事制度を設置すべきかは、その時々の国際環境に依存するものであり、およそ自衛権そのものを放棄することは論外として、「国体」は、この点についてかなり広い選択の余地を与えていると解釈すべきである。
ただ、如何なる場合においても、ある種のバランスが必要なように、われわれは、目下の国際情勢を勘案しつつ、武士的伝統と町人的伝統との好ましい調和の姿を模索すべきであろう。

もし、この点に関して、憲法が改正されるなら、その出自の疑わしい現在の自衛隊は法的には一旦解散し、新たな国軍を創設するという手続きを取るべきであろう。
その場合に注意すべきは、軍事に参画することを、日本国憲法第十八条の「奴隷的拘束」や「その意に反する苦役」と解してはならないということである。
国民のどの範囲に人々が実際に軍事に関わるかは別として、兵役に参加することが栄誉と考えられていたという事実は、戦後という特別な時期は別にして、日本の歴史の上で一定しており、そのことを敢えて否定すべき積極的理由も乏しいからである。
軍事に関わることへの栄誉の授与ということを、どのように制度の上で表現していくかは、将来の憲法改正の際のきわめて重要な課題であろう。

◇(3) 基本権の尊重



次に、基本権の尊重である。
帝国憲法の臣民権利義務の諸規定は、「五箇条の御誓文」の「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ」と、「官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス」に由来すると解するべきである。
『憲法義解』は、「臣民権利義務」の章の解説において、日本の太古以来の伝統において、天皇が人民を「大宝」として愛護の念を注いだことを挙げ、「上に在ては愛重の意を致し、待つに邦国の宝を以てし、下に在ては大君に服従し自ら視て以て幸福の臣民とす」という「我が国の典故旧俗に存する者」が、臣民権利義務の「源流」であると解釈している。
その意味では、かつて中江兆民が指摘したように、帝国憲法の臣民の権利は、「恩賜の民権」と称すべきものであって、西欧の自然法的な人権ではない(『三酔人経綸問答』)。

もっとも、このことは、当時の日本国民が、単に受動的に「臣民権利義務」を授与されるような存在であったことを意味しない。
帝国憲法制定以前に民間において案出された数々の憲法草案に定められた権利義務の規定からも、そのことはうかがわれるし、とりわけ、租税の対価として政治参加の権利があるという論理は民間において広く見られたところであり、しかもそれは、単に西欧の憲法理論による影響に留まらず、近世の村落運営のあり方の伝統のなかに存在していたものでもあった(参照、鈴木正節「国民国家構想と天皇」、『近代の天皇』所収)。
また、江戸期の百姓一揆についても、単に困窮の故の自然発生的な暴発ではなく、既得権とはいえある種の権利意識に基づくものである場合も多いことは既に指摘されている。

このような現実に対応して、明治期においても、日本の国民が、歴史的に見ても、常に強力に「人権」を主張してきた存在であったという議論が、たとえば、民友社の山路愛山のような論客によって展開されていたのである。
愛山は、「人権」といった観念をもっぱら「欧州の産物」と見做して、もっぱら権力への服従こそが日本の「国体」であると説くような論議を批判し、古代以来、日本の人民は、支配者の専横に対しては直ちにこれと戦い、「自己の権利を防衛し得べき力量あるを自覚すると同時に必らず其悪む所の政府を覆えして、其好む所の政府に更へんと」してきたと記している。
愛山によれば、古代の律令国家の成立は、氏や姓といった「豪族」の専横に対する人民の反抗に応えて、朝廷が新たな国家体制を創設し、それ故に人民がこれを支持した一例であり、それ以降の政治変動においても、それぞれの政治支配者は、人民の権利を無視しては、その支配を保ち得なかったというのである(「日本に於ける人権発達の痕跡」。明治三十年)。

これに対しては、従来から、こうした伝統的な権利意識が自然法的な人権とは言えないことが指摘されるのが常である。
しかしながら、西欧においても、多くの場合、人々の権利の主張は、何らかの具体的な歴史的伝統のなかにその根拠を求めてなされたのであり、それが、普遍的な「人権宣言」のような形をとるのは、アメリカやフランスのように、伝統から切り離されたり、従来の伝統が完全に崩壊したような状況が生じた場合においてであり、まさしく、過去との断絶としての「革命」の物語が想定されたような状況においてである。
わが国が、普遍的な人権宣言を発するような歴史的事実を持たなかったことから、直ちにわが国の権利意識のあり方を問題にするのは、これまた、他国の革命の来歴に無意識に支配されていることのあらわれであろう。

ところで、日本国憲法の「国民の権利及び義務」はどうであろうか。
日本国憲法では、各権利の主体は、「臣民」ではなく「国民」とされ、しかも、条項によっては、外国人を含めた「何人」も権利主体となりうるとされている。
すなわち、権利の規定としては、より充実した面が見られ、それは、もはや、単なる「大宝」の「権利」ではなく、普遍的人権をうたったものと見てよいであろう。
このような普遍的人権は、如何にして日本国憲法に取り入れられたのか。
これも、やはり、「五箇条の御誓文」の再解釈としての「天皇の人間宣言」に由来するものと見てよいであろう。
とりわけ、そこで「人類愛ノ完成」がうたわれ、その結果として、「臣民権利義務」が拡大されて、「何人」をも含めた一般的な人権規定へと発展したと考えるべきである。
すなわち、天皇は、当時の国際情勢と日本国および国民の現実を配慮して、わが国の新たな憲法が、普遍的な人権の規定を取り入れるべきことを「裁可」したのである。
これを依然として「恩賜の民権」と呼ぶか否かは、ひとつの問題たりうるが、実際の人権規定の解釈においては、この点が大きな問題となる例は殆どないであろう。
人権規定の解釈については、欧米を始め各国の事例をも勘案して適切な結論を得るべきである。

帝国憲法下の「臣民の権利」の規定が不十分なものであり、そのことが、「表現の自由」や「良心の自由」の実現に様々な問題をもたらしたことは事実である。
確かに、明治国家は、少数者の権利の保護に関して寛容ではなかった。
そのことは、たとえば明治期のキリスト者や社会主義者への対応についても示されている。
明治国家は、既に記したように、特定の「国体」解釈に立脚した、ある限定された意味での「革命政権」としての性格を有していた。
そうした新しい政権としての性格が、異論に対して不寛容な姿勢をもたらしたのである。

ただ、治安維持法制定以降軍国主義に至る過程での人権の制限や抑圧は、帝国憲法体制の最大の欠陥を示すもののように考えられているが、この時期の日本の人権状況を考えるに当たっては、単に、政府対国民という対置の図式にのみ立脚するのではなく、この時期以降、日本が国際的な冷戦を開始したのだという事実も考慮しなければならない。
ここでの冷戦とは言うまでもなく、ソ連とのそれである。
冷戦は、第二次大戦後、ソ連とアメリカ合衆国との間で初めて開始されたものではない。
そのように考えるのは、アメリカ合衆国の物語で国際情勢の推移を理解しようとするからである。
一九一九年、モスクワで世界革命の指令部としてのコミンテルンが結成され、さらにその意を受けて、日本共産党が、大正十一年に結成された時点で、日本は、ソ連との冷戦に突入したのである。
治安維持法の制定は、ひとつには、こうした国際情勢への対応としての面を持っていた。
すなわち、それは、ソ連のボルシェヴィキの指示を受け、さらにその組織原理をもとに結成された反体制団体に対処するには、従来の治安法規では不十分であるという認識のもとに制定されたのである。
もともと、ソ連という国家は、公式の国境線の内外にわたって「階級敵」および「人民の敵」と不断に抗争し、これを抑圧もしくは殲滅することを国是とする国家であった。
国内では、それが、数百万にわたるクラークの大粛清をはじめとする各種の迫害・虐殺、さらには巨大な収容所群島の出現としてあらわれた。
国外では、コミンテルンの指令下にある各国共産党によって現地の政治体制を内部から打倒することが、その国家方針となった。

治安維持法下の特別高等警察と日本共産党との闘争は、必ずしも、それまでの国内の政府対反政府勢力の闘争の延長上に位置するものではなく、大日本帝国政府とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の新しい形態の国際的戦争としての側面があることを見落としてはならない。
もとより、ソ連の公的な対外政策も、その来歴が要請する方針にのみ立脚していたわけではなく、ひとつの国家としての現実主義的配慮も大きく作用していた。
すなわち、米ソの冷戦がそうであったように、現実の日ソ間の公的な外交関係には様々な局面があり、ひとえに対立と敵対のみがあったわけではない。
しかしながら、治安維持法下の日本共産党への政府当局の対応を考察する際には、やはり、こうした国際政治の要因を勘案しなければならない。

冷戦が終了した今日からみれば、共産主義建設の試みは、「二十世紀最大の悲劇」とでも称しうる結果をもたらした営みであることが明かとなった。
七十年にわたるこのような営みの結果、経済領域の破壊はもちろん、社会生活の精神的基盤や文化的歴史的伝統を完全に荒廃させてしまった旧ソ連邦下の人々の悲哀と苦難には想像を越えるものがある。
彼らが今後新たな来歴を模索していく道程には、われわれ日本人が想像もつかないような困難が横たわっているであろう。

しかしながら、戦前期の冷戦開始以降の日本においては、マルクス主義が、知識人を中心に非常な魅力を備えており、また、それに対抗するほどの魅力を備えた思想や観念を合理的に展開することも容易な作業ではなかった。
大正期末から昭和の軍国主義の時代にかけて、ナショナリズムや国家社会主義的傾向を帯びた様々な思想潮流が登場し、「国体」観念についても、きわめて偏狭でヒステリックな解釈が横行することになったが、それは、ひとつには、マルクス主義に思想的に対抗しようとする努力のあらわれであったと解釈できる。
しかし、それは必ずしも成功せず、そこから、治安立法によって共産主義思想そのものを抑圧するという方向が強化され、それが、共産主義者以外の多くの人々をも苦しめ、様々な人権の抑圧を招くことになったのである。
しかしながら、このことが、帝国憲法の「臣民権利義務」規定の欠陥に由来すると一概に言えないのは、四半世紀遅れて、ソ連との本格的な冷戦を開始したアメリカ合衆国において、「赤狩り」としてのヒステリックなマッカーシズムが吹き荒れたことを見ても解る。

治安維持法や各種の軍事的な機密保護法下の人権状況が、戦後の帝国憲法に対する評価に大きな影を落とすことになった。
しかしながら、改めて振り返ると、ソ連においては、当時の日本ほどにも、人権規定が意味を持たなかったことも考慮しなければならない。
ソ連もまた、日本の治安維持法を凌駕するような治安法規を持ち、共産党権力の便宜のために逮捕されたり迫害されたりした者の数や割合は、日本のそれをはるかに越えるものがあった。

もし、この冷戦において、日本共産党の目標が達成されていれば、日本において、どのような事態が展開したであろうか。
それは、単なる日本の国内体制の社会主義化を意味するだけではなく、日本の対外的主権がソ連の支配下におかれることを意味したであろう。
そして、おそらく、一般庶民を含めてブルジョアや地主と見做された人々はもちろん、自由主義者やマルクス主義者、さらには日本共産党内部の反ソ連派と見做された人々もすべて、いずれも「人民の敵」という普遍的で包摂的な観念に含まれ粛清されたということも十分想像しうる。
その結果、日本にも収容所群島が出現したであろう。
そして、かつて、ソルジェニツィンが痛恨の思いを込めて回想したような光景(『収容所群島』)、すなわち、新たに樹立された共産党政府から招かれた欧米各国からの知識人達が、ショウウインドウ的に設置された施設を案内されて、極東における新しいユートピア建設の試みに賛辞を送るといった光景が日本でも見られたかもしれない。

無論、こうした事態を想像することは、戦前の人権状況をことさら弁護することを意味しない。
確かに、戦前までの日本においては、冷戦ということを抜きにしても、政府当局者や一般の人々において、人権についての感覚は十分ではなかったと言えよう。
今日、この点についての反省は決して怠るべきではないし、人権感覚の拡充が依然として今日的課題であることも忘れてはならないであろう。
しかしながら、そもそも、人権がそれなりに擁護されるようになったのは、欧米諸国においても、植民地が失われ、人種差別が漸次撤廃されてきた、きわめて最近のことに属するのである。
以上に述べたことは、従来ともすれば、日本の国家体制における本来的な人権感覚の希薄さとして解釈されてきたような事態も、別の観点から考察が必要であることを指摘したまでに過ぎない。
すなわち、二十世紀に特有の国際環境を無視しては、この問題についても適切な理解が得られないということなのである。


■3.まとめ



■4.ご意見、情報提供

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最終更新:2014年04月29日 16:00