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巻一百九十九 列伝第一百二十四

唐書巻一百九十九

列伝第一百二十四

儒学中

郎余令 余慶 徐斉聃 堅 嶠 沈伯儀 路敬淳 敬潜 王元感 王紹宗 彭景直 盧粲 尹知章 張斉賢 柳沖 馬懐素 殷践猷 孔若思 季詡 至



郎余令伝】
  郎余令は、定州新楽県の人である。祖父の郎穎は、字は楚之である。兄の郎蔚之と共に有名であった。隋の大業年間(605-618)、尚書民曹郎となり、郎蔚之は左丞となった。煬帝は語って「二郎」と称えた。武徳年間(618-623)、郎楚之は大理卿によって常山郡公に封ぜられ、李綱陳叔達と共に律令を定めた。持節して山東を説諭したが、竇建徳に捕らえられ、白刃で脅されたが、終に屈しなかった。賊が平定されると、老いたため辞職を願った。諡を平という。

  郎余令は博学で、進士に及第し、霍王李元軌の府参軍事となった。従父の郎知年は、同じく王友となった。李元軌は事あるごとに、「郎家の二人の賢人はいずれも王府に入り、思いがけず小さな畝は松や柏が生えて林となった」と言った。幽州録事参軍に遷った。僧侶となった者が、薪を積んで自らを焚き、長史の裴煚が官の部下を率いて調査しようとすると、郎余令は、「人は生を好んで死を憎むのが情です。彼は教えを違反して、自身の欲望に背いています。公は調査すべきで、軽視してはなりません」と言ったから、裴煚は調査してみると、果たしてその悪事が発覚した。

  孝敬皇帝が東宮であった時、郎余令は以梁の元帝に『孝徳伝』があったから、さらに『孝子後伝』数十篇を編纂して太子に献上し、太子は重んじた。著作佐郎に改め、卒した。


【附、郎余慶伝】
  兄の郎余慶は、官吏としては清廉で、法は厳格であった。高宗の時、万年県令となり、道に落とし物を拾う者はいなかった。累進して御史中丞に遷り、職務は謙虚で身分が下の者にもへりくだり、御史に引き立てられて論議を共にした。吏部侍郎の楊思玄は傲慢で、選考対象者に対して無礼であったから、郎余慶は弾劾してその官を免官した。しばらくして、京師から出されて蘇州刺史となる。連座によって降格されて交州都督に遷った。

  驩州司馬の裴敬敷は郎余慶と常に親しかったが、事件にかこつけて郎余慶の婢の父を笞打ち、婢を自身の愛妾にしようとしたから、裴敬敷を讒訴し、裴敬敷は獄中で死んだ。また財貨を集めさせたができなかったから、民は宮中に詣でて訴えた。使者は十人が調査にあたったが、郎余慶は虚偽による否認をしたから、実情を把握することができなかった。ついには広州都督の陳善弘が調査すると、郎余慶は自身が朝廷に長いことおり、法令に明るかったから、陳善弘を軽んじて、回答しなかった。陳善弘は怒って、「文章を駆使し法を操ることでは、私は君に及ばない。今日、天子の命によって君を取り調べているのだから、我が力に限りないぞ」と言い、拷問しようとし、郎余慶は恐れ、罪に服した。高宗は詔して瓊州に放った。ちょうど大赦によって帰還するところであったが、朝廷はその横暴さを憎んで、春州に遷した。

  それより以前、郎余慶は万年県を治めた時、父の郎知運は酷薄さを嫌い、杖叩きしようとしたが、郎余慶は逃れて免れた。父は「国家が用いているのに、私に何ができるというのか」と歎き、御史中丞となると、また歎いて、「郎氏はなんと危ういことか」と言い、そのため憂いて死んだ。郎余慶はついに貪欲のため手足を切断された。


【徐斉聃伝】
  徐斉聃は、字は将道で、湖州長城県の人であるが、代々馮翊に住んだ。梁の慈源侯の徐整の四世の孫である。八歳で文章をよくし、太宗は呼び寄せて試問し、佩刀していた刀の金を賜わった。弘文館生に推挙され、曹王府参軍に調任された。高宗の時、潞王府文学・崇文館学士、侍皇太子講となり、芳林門にて書籍の編纂を行った。当時、の婕妤となり、寵恩による昇進だと思われるのを嫌って、そのため京師から出るのを求めて桃林県令となった。召還されて沛王侍読となり、再び司議郎に遷ったが、いずれも実際には任につかなかった。累進して西台舎人となった。

  咸亨年間(670-674)初頭、突厥の酋長の子弟に詔して東宮に仕えさせようとしたが、徐斉聃は上書して諌め、次のように述べた。「毛氈や裘(かわごろも)を使うような冒頓単于の末裔が、辮髪を解き衽(おくみ)を削り、側近にさせたところで、「つつしみて威儀を慎み、以て有徳に近づかん(『詩経』大雅 生民之什 民労)」とか「賢くして才能のある者を、官位におつけ下さい。輔弼の官には特に人を選ばれねばなりません(『書経』商書 咸有一徳)」という意味にはなりません。」 また長孫无忌が讒言によって死ぬと、家廟は破壊された。徐斉聃はに向かって、「斉献公(長孫晟)は、陛下の外祖父ではありませんか。後嗣に罪があるとはいえ、祖廟を壊すのは不適切です。今、周の忠孝公の廟は規定を超えて装飾されており、国内に示す例とはならないことを恐れるのです」と言うと、帝は悟り、詔によって献公の官を復し、長孫无忌の孫の長孫延にその祭祀を司らせた。

  徐斉聃は詔誥の作成に優れ、帝はは寵愛し、皇太子および諸王に近侍して文章をつくり、そのため職務は激務で、数日に一度しか暇がなかった。宮中の機密漏洩に関与したとされ、蘄州司馬に貶された。また欽州に流された。卒した時、年四十四歳であった。睿宗の時、礼部尚書を追贈された。

  子に徐堅がいる。


【附、徐堅伝】
  徐堅は、字は元固で、幼い頃から聡明で、沛王が名声を聞いて、召見し、紙を授けると賦をつくったから、優れた人物だと思った。十四歳にして父を失い、壮年になると、穏やかで長者の風があった。秀才に推挙されて及第し、汾州参軍事となり、万年県主簿に遷った。

  天授三年(692)、上言して次のように述べた。「書(『周礼』小司寇)に五聴があり、令(獄官令)に三覆があるのは、真実を失うことを防ぐためのものです。大逆を犯した場合は、詔によって使者が調査し、事実を検証した上で判決を下します。人命は非常に重く、万が一事実でなければ、訴え出ようと思ったところでどうしようもなく、一族は皆殺しとなります。なんと痛ましいことでしょうか。これでは下僚の悪巧みを調べることができず、専ら人の権力を強めさせるだけになります。臣が願うところは、令の通りに覆奏すれば、死刑となる者に恨みはありません。また古代では罰は後嗣に及ぼさず、そのため郤芮(春秋晋の宰相・叛臣)が国を乱しても、子の郤缺は朝廷で昇進し、嵇康(竹林の七賢)は処刑されましたが、子の嵇紹は国難に死にました。そのため他の親族への疑いはなくなりました。今選部が広く謀反人の親属を責め、服喪しない者に至っては数十条もの項目があります。また詔書に「謀反人と同じ堂親の者は京畿の職に任じてはならず、喪で緦麻に相当する親族(高祖父母、妻の父母)は侍衛に任じてはならない」とありますが、臣が願うところは詔書に明記されている場合を除いて、一切の禁止事項を緩和していただきたいと思います。」

  聖暦年間(698-700)、東都留守の楊再思王方慶が共に引き立てて判官となった。王方慶は礼学をよくし、難解な事柄にも質問を投げかけたが、徐堅は解釈を行い、常に今まで聞いたことのないような結論が得られた。文章は典雅かつ重厚で、楊再思は会うたびに鳳閣舎人のようだと思った。徐彦伯劉知幾張説とともに『三教珠英』を修撰したが、当時、張昌宗李嶠が修撰の総指揮をとっており、年月がたっても筆を下さなかったから、徐堅は張説と共に全修撰に専念し、筋道はほぼ定まり、儒者たちはそこでこれによって書籍を完成させることができた。累進して給事中に遷り、慈源県子に封ぜられた。

  中宗韋月将に怒り、ただちに斬ろうとしたが、徐堅は奏上して、盛夏は作物が成長する季節で、秋を待って判決するよう願い、当時多くの人々が助命を嘆願したが、結局杖死となった。にわかに礼部侍郎によって修文館学士となった。

  睿宗が即位すると、太子左庶子兼崇文館学士を授けられ、史書の編纂にあたり、東海郡公に進封し、黄門侍郎に遷った。当時、監察御史の李知古が兵で姚州渳河(洱海)の蛮を攻撃し、降伏させた。また築城することを願い、賦税と徭役を命じた。徐堅は建議して、「蛮夷は羈縻によって属しているだけであって、中国と同じ法にすべきではありません。軍を労して遠征したのに、損が償還できないことを恐れるのです」と述べたが、聴されなかった。李知古に詔して剣南の兵を発して城堡を築き、州県に設置した。李知古はこれによってその酋長を殺し、子女を入れて奴婢にしようと考えたから、蛮が恐れ、李知古を殺した。互いに連れだって反乱をおこし、姚・巂の連絡路は閉ざされて不通となること数年となった。

  それより以前、太平公主が政治を牛耳り、武攸曁が何度も徐堅を迎えるよう願ったが、徐堅は聴さなかった。また妻が岑羲の妹であったから、政治機密を扱う官職を辞職し、太子詹事に転じたが、「私が高位を求めないのは、禍から逃れるためだけだ」と言った。岑羲が失脚すると、悪に染まらず、京師から出されて絳州刺史となった。しばしば外任に遷ったが、しばらくして秘書監・左散騎常侍に遷った。

  玄宗が麗正書院を改めて集賢院とし、徐堅を学士にあて、副学士に張説として集賢院の事務を統括させた。は集賢院で大宴会し、庁舎に百官が集まり、張説は扁額を掲げて寵遇が大きいことを示したが、徐堅は見て、ただちに撤去するよう命じて、「君子は傲慢であってはならない」と言った。泰山に登るのに従い、儀典を参定し、光禄大夫を加えられた。徐堅は典故の多くに通暁しており、およそ七度にわたって高選に選ばれた。卒した時、年七十余歳で、帝は哀悼し、使者を派遣して弔問し、太子少保を追贈し、文と諡した。

  徐斉聃太宗の充容となり、次姉高宗の婕妤となり、全員も図書・史籍に明るく、議する者は徐堅父子が漢の班氏のようであると評した。


【附、徐嶠伝】
  子の徐嶠は、字は巨山である。開元年間(713-741)に駕部員外郎・集賢院直学士となり、中書舎人・内供奉・河南尹に遷った。慈源県公に封ぜられた。父子が相次いで学士となり、祖父から孫まで、三世にわたって中書舎人となった。


【沈伯儀伝】
  沈伯儀は、湖州呉興県の人である。武后の時、太子右諭徳となった。

  それより以前、太常少卿の韋万石明堂の大亨の事を議論し、以下のように上言した。「鄭玄は五天帝を祀ることを説き、王粛は五行帝を祀ることを主張しました。『貞観礼』では鄭玄の説に従い、『顕慶礼』では昊天上帝を祀り、乾封年間(666-668)の詔書では五天帝を祀って兼ねて昊天を祀り、上元年間(674-677)の詔書では『貞観礼』に従い、儀鳳年間(676-679)初頭の詔では祭祀・政治はすべて周制を用いることとなりました。今はどの礼制・楽制に対応すべきでしょうか」高宗はそこで尚書省に詔して儒者たちを集めて議論させたが、定まることがなかった。ここに大享は『貞観礼』・『顕慶礼』の二礼を参照することとなった。垂拱元年(685)、成均助教の孔玄義が奏上して、「父を尊厳あるものとすることについては父を天に配して祭ることが最上で、天は万物の中で最も偉大です。父を敬うことは天に従うことであり、これが最大の孝であり、尊敬の極致です。『易』に「古代の聖王はこの雷声にのっとって音楽を作り道徳を発揚し、また盛んに音楽を奏して上帝におすすめし、併せて父祖の霊をも祭り慰めたのである(『易経』上経 豫)」とあります。上帝は天です。昊天の祭は、祖父・父を二人とも配侑とすべきです。何卒太宗高宗円丘にて上帝に配侑され、神尭皇帝を南郊にて感帝に配侑されますように。祭法では、「文王を祖として武王を宗とした(『礼記』祭法)」とあり、祖は円丘を上帝に配侑させるので、神尭皇帝は南郊にて感帝に配侑するのです。「文王を祖として武王を宗とした(『礼記』祭法)」とあるのは、祖というのは武王を含めてそう言ったのです。明堂をつかさどるのに祖父・父を配侑とすれば、二経に合致するのです」沈伯儀は以下のように述べた。「「まず有虞氏(禹)はで黄帝を祭り、顓頊を祖、尭を宗と仰いだ。また夏后氏もで黄帝を祭り、郊礼で鯀を祭り、顓頊を祖、禹を宗と仰いだ。また殷の人はで嚳を祭り、郊礼で冥を祭り、契を祖、湯を宗と仰いだ。また周の人はで嚳を祭り、郊礼で稷を祭り、文王を祖、武王を宗と仰いだ(『礼記』祭法)」とあり、鄭玄は、「・郊・祖・宗は、皆一緒に供物を捧げる。円丘で昊天を祀るのをといい、南郊で上帝を祀るのを郊といい、明堂で五帝・五神を祭るのを祖・宗という」と述べており、これは最も詳細な記述です。虞・夏の時代には顓頊を退けて嚳を郊礼し、殷は契を捨てて冥を郊礼しており、このことは互いに矛盾していますが、これは周が祭礼の秩序を維持し、明堂にて始めて二人を配侑としたのです。文王の上に五帝を配侑とし、武王の下に五神を配侑とし、父子を区別しました。経に「父を尊厳あるものとすることについては父を天に配して祭ることが最上である(『孝経』聖治章)」とあり、また「明堂で天帝を祀るに際して文王をあわせ祀った(『孝経』聖治章)」とありますように、武王を尊厳あるものとして天に配侑しているとは言わず、つまり武王は明堂にあったとしても、筋道として配祭は等しくなく、同じく祭ったとはいえ結局は一つの主となったのです。緯(『孝経緯』)に、「后稷は天地の主となって、文王は五帝の宗となる」とあり、一つの神に捧げられるのなら複数回祭らなければなりません。複数の神に捧げることとなりますが、この神は二つの主はおりません。『貞観礼』・『永徽礼』では実際に単独で配侑し、『顕慶礼』によった後に始めて併合して祀るようになったのです。今願うところは高祖円丘・方沢に配侑し、太宗を南北の郊に配侑し、高宗を五天帝に配侑することです」鳳閣舎人の元万頃范履冰らは以下のように議した。「現在、昊天上帝らを五祀に礼するのに、すべて高祖太宗を奉って兼配とするのは、これを孝というのです。『詩』の昊天章に「二后(文王・武王)はこれを受諾する(『詩経』周頌 清廟之什 昊天有成命)」とあり、『易』に「音楽を奏して上帝におすすめし、併せて父祖の霊をも祭り慰めたのである(『易経』上経 豫)」とありますように、兼配の概念は存在するのです。高祖太宗は既に五祀に配侑されているので、慣例の通りにすべきなのです。何卒高宗を奉って配侑のお歴々に加えられますように」これより郊祀・円丘では、三帝が一緒に配侑となったという。

  沈伯儀は国子祭酒・修文館学士を歴任して、卒した。


【路敬淳伝】
  路敬淳は、貝州臨清県の人で、父の路文逸は、隋末の大乱に遭遇して、家族は盗賊に皆殺しにされた。路文逸は一人逃れて、流浪して辛苦し、一家の不幸を嘆き、食事を拒んだ。旅人がその窮乏を憐れんで、無理やり食事させ、背負って運んだから、死を免れることができた。貞観年間(623-649)末、申州司馬となった。

  路敬淳は幼くして学問を志し、めったに家から出なかった。親の喪にあい、家にこもって出ないこと三年に及んだ。服喪があけると、慟哭して家に帰り、身体がやせ衰えて、妻が誰だかわからないほどであった。後に進士に及第した。天授年間(690-692)、再び太子司議郎兼修国史・崇賢館学士に遷った。しばしば詔によって慶弔に関する儀式の典籍を編纂し、武后に称えられた。最も系譜に詳しく、魏の時代から、起源や、すべて分家を調査し、『著姓略』・『衣冠系録』等百篇以上を編纂した。後に綦連耀と交際していたのに連座して、獄に下されて死んだ。神龍年間(707-710)初頭、秘書少監を追贈された。


【附、路敬潜伝】
  弟の路敬潜は、若くして路敬淳と名声を等しくし、懐州録事参軍を歴任したが、同じく綦連耀の事件に連座して獄に繋がれたが、死を免れた。後に遂安県令となった。これより先、遂安県令の多くが死んでいたから、路敬潜は辞職したいと思ったが、妻が「あなたは獄でも死なずに命を全うできたのですから、死なないのは運命ではないのでしょうか」と言ったから、その言葉に従った。官につくと、梟が塀で鳴き、鼠が数十匹目の前を走ったから、側近が走って、杖を振り上げて喚いたが、路敬潜は恐れることはなかった。しばらくして衛県令に遷り、中書舎人になった。

  唐の初め、姓氏系譜学はただ路敬淳が最も名高かった。その後、柳沖韋述蕭穎士孔至がそれぞれ編纂事業を行ったが、しかしいずれも路敬淳の調査に基づいていた。


【王元感伝】
  王元感は、濮州鄄城県の人である。明経科に優秀な成績で及第し、博城県の丞に調任された。紀王李慎が兗州都督となると、あつく礼遇され、その子の東平王李続に命じて行って講義を受けさせた。天授年間(690-692)、しばらくして左衛率府録事に遷り、弘文館直学士を兼任した。武后の時、郊祀をやめ、明堂で祭り、嵩山を封じ、詔によって韋叔夏らと共に儀式の草案を定めると、多くの者は王元感が博識で知識も豊富であったから推薦した。四門博士に転じ、そこで弘文館直学士となった。

  年老いても、読書は夜であっても怠らなかった。撰述したのが『書糾謬』・『春秋振滞』・『礼縄愆』などおよそ数百十篇で、長安年間(701-705)進上し、筆写して宮中図書館に収蔵されることを願った。両館の学士・成均博士に詔して可否を議論させた。祝欽明郭山惲・李憲ら経典学者が、王元感が先儒の同異を批判したことをみて、不快に思い、しばしばその主張を疑問視し、王元感は何度も釈明したが、ついに王元感の意見に屈しなかった。魏知古がその書籍を見て、「五経の指南書だ」と感嘆し、徐堅劉知幾張思敬らがその異聞を惜しみ、事あるごとに手助けし、連名して推薦し、遂に詔が下されて褒賞され、これによって儒家の大家となった。太子司議郎兼崇賢館学士を拝命した。中宗は王元感が東宮時代の部下であったから、朝散大夫を加えた。卒した。

  王元感は当初、三年の喪が三十六ヶ月であるとの論を著し、儒者たちを厳しく非難した。鳳閣舎人の張柬之がその説を論破して以下のように述べた。「三年の喪は二十五ヶ月であることは、古代からそうなっています。『春秋』の僖公三十三年十二月に「乙巳、公薨ず」とあります。文公二年に「冬、公子遂、斉にゆき幣を納る」とあり、『春秋左氏伝』ではこのことを「礼に合している」と述べています。杜預は「僖公の喪はこの年十一月に終わり、幣を納れたのは十二月になったのである」と述べているので、これを礼に合しているといったのです。『春秋公羊伝』に、「幣を納れたのを書かないのは、いかなる理由で書かないのか。批判であるからである。いかなる理由で批判したのか。三年の内に婚姻を図らなかったからである」と述べ、何休は「僖公は十二月に薨去したから、まだ二十五ヶ月になっておらず、だから批判したのだろう」と述べ、杜預は暦から推測して乙巳が十一月であって、経書に十二月とあるのは誤りであるとしました。文公元年四月に僖公を葬りましたが、伝に「遅くなった」とあり、そもそも諸侯の葬は五ヶ月で、もし十二月に薨去したのなら、五月では遅くなったということができないので、つまり十一月であることは非常に明白なのです。しかし二人の大家が争点にしているのは、一ヶ月であって、一年ではなく、つまり二十五ヶ月であることは、それは一つの証拠なのです。『書』に「成湯(湯王)が崩じ、太甲が即位した年(『書経』商書 伊訓)」として、「元年、十二月、伊尹は先王の祭りを行ない、あと嗣ぎの王を導いて謹んでその祖父の霊前に見えしめた(『書経』商書 伊訓)」とあり、孔安国は、「湯は元年十一月に崩じた」とし、これはつまり翌年に祥し、また翌年に大祥とし、そのため下言「太甲の三年、十二月朔日のこと、伊尹は衣冠を正し、あと嗣ぎの王を奉じて、亳の都に帰った(『書経』商書 太甲中)」とあるのは、十一月に服喪があけて衣冠を正したのです。「顧命」に「四月、月の影がはじめてできた日、王はご気分がすぐれなくなった」「翌日の乙丑の日、王は崩御された」「丁卯の日、史官に命じて遺命を策書にさせ、即位式の次第を作らせた。それから七日目の癸酉の日、伯相(召公)の命令で、士が材木を用意し(『書経』周書 顧命)」とあるのは、成王が崩御して康王が麻冕をかぶり白黒のはかまをつけること凡そ十日となり、康王が始めて廟に訪れたのです。湯王が崩じたのが十一月であることは明白です。殯が終わった頃は、十二月にただその先祖を訪れたのです。「顧命」に廟を訪れ終わって、「諸侯は廟の門を出て王の命令を待った(『書経』周書 顧命)」とあり、「伊訓」に「謹んでその祖父の霊前に見えしめた。畿内の領主たちや諸国の君主たちがみな後ろにひかえ(『書経』商書 伊訓)」と述べているのは、つまり崩御してから廟を訪れたのであり、周は殷の慣例によったので、元年の前でなければまた一年あり、これは二十五ヶ月である二つ目の証拠なのです。『礼』に「三年の服喪は二十五ヶ月で終わるが、哀痛はまだ尽きず、思慕はまだ消えない。しかし服喪でこれを断ち切るのは、死者を追い求めるに限りがあり、現実の生活に立ち帰ることに決まりがある(『礼記』三年問)」とあり、また「一年して小祥の祭を行えば、野菜や果物を食う。さらに一年して大祥の祭を行えば、酢や味噌の類も用いる。そして大祥のあと一か月して禫祭を行うが、酒肉を食う(『礼記』間伝)」とあり、また「再期の喪は三年にわたる。期の喪は二年にわたる。九ヶ月・七ヶ月の喪は三時にわたる。五ヶ月は喪は二時にわたる。三ヶ月の喪は一時の内である(『礼記』喪服小記)」とあるのは、これは二十五ヶ月である三つ目の証拠です。『儀礼』に「一年して小祥の祭を行い、さらに一年して大祥の祭を行い、あと一か月して禫祭を行うのが、この月であり、吉祭である(『儀礼』士虞礼)」とあり、これは二十五ヶ月である四つ目の証拠です。『書』・『春秋』・『礼』はいずれも周公・尼父(孔子)が定めたものですから、これを採用してもよいのではないのでしょうか。昔、鄭玄が一か月して禫祭を行うというのは、一か月を含み、喪から禫祭まで、おおよそ二十七ヶ月でした。現在すでにこの方法が用いられているのですから、二十五ヶ月であることはもとより疑いようもありません。概ね、子は親を喪うと、生涯にわたる痛みを経験し、その傷が大きいほど悲しみの日は長く続き、痛みが深ければ治りはますます遅くなりますが、一体何年何月になって止むのでしょうか。そのため喪の期間中、悲しみや恋慕は尽きず、彼は胸を叩き、足を踏み鳴らしながら極度の悲しみを語る心は抑えられるのです。祥でははっきりとし、哀しみ悼む心は和らぎますが、孤独の心は一層強まるのです。このような心は、どうして外面だけを取り繕うことができましょうか。そのため先王たちは感情と形式が調和するように中庸の制度を確立し、ここに祥では縞帯と白い絹を着用し、禫祭ではしっかりと心にとどめて忘れないのです。そもそも衰麻を脱ぎ、錦や絹を着用すれば、旅人であっても耐え難いもので、期限がきたからといってこの礼を行えば、なんと難しいことでしょうか。そのため仲由は制度を超越して姉のために服喪することができず、孔鯉は期限を過ぎて母を哭泣することができなかったのは、彼らに心がなかったからでしょうか。教えの厳格さを恐れたからなのです。」 当時の人々は張柬之の言葉は聖人の教えに背かないとお考えたから、王元感の論は遂に廃止された。


【王紹宗伝】
  王紹宗は、字は承烈で、梁の左民尚書の王銓の曽孫である。系譜の上ではもと琅邪出身で、江都に移ったといわれる。若い頃貧窮・労苦したが、学問を嗜み、草書・隸書をよくし、僧坊に居候し、書写して生計を立てること凡そ三十年になった。収入が一月分になると止め、利益を取らず、人々からあつい褒賞があったとしても、簡単には拒んで受けなかった。

  徐敬業が挙兵すると、王紹宗の行状を聞いて、大金で攫おうとしたが、病が重いと称した。また唐之奇を派遣して無理やり従わせようとしたが、赴くことをよしとせず、徐敬業は怒り、王紹宗を殺そうとしたが、唐之奇は、「彼は人望があり、王紹宗を殺せば兵士の心を阻むので、なりません」と言ったから、免がれた。事変が平定されると、大総管の李孝逸がその節義を表し、武后は東都に召し出して、殿中に謁見した、褒賞は非常にあつく、太子文学に遷った。累進して秘書少監となり、皇太子に侍らせた。王紹宗は常に優雅で、当時の公卿でその風格を称賛し、張易之兄弟もまた非常に結びつきを強めた。張易之が誅殺されると、連座して失脚し、家で卒した。

  かつてある人に宛てた書簡に次のように述べている。「田舎者である私の書は未熟で、水墨によって鍛錬を積んだだけにすぎません。常に周到に心を尽くして、精神を統一して思弁して追及してきました。呉中の陸大夫は常に余を虞君と比べていますが、二人とも臨模をしないという理由によるものです。虞君が毛布の中で腹に書いているのを聞いていますが、私とまさに同じことをしています。」 虞君とは、虞世南のことである。

  王紹宗の兄の王玄宗は嵩山に隠れ、太和先生と号し、黄老の術を伝えた。


【彭景直伝】
  彭景直は、瀛州河間郡の人である。中宗の景龍年間(707-710)末、太常博士となる。当時、献陵昭陵乾陵の三陵はいずれも日祭していたが、彭景直は以下のように上言した。

    「礼では、陵は日祭せず、宗廟に月祭があります。そのため王者について、「廟・祧・壇・墠が設けられて鬼神を祭る。この祭りについては、祭られる者と祭る者との間の親疎の差異に応じて礼の大小が定められる。王は七廟を立て、他に一壇一墠を造る。七廟のうち考廟・王考廟・皇考廟・顕考廟の五廟はみな月ごとに祭りを行なうが、遠廟の二祧は、一たび祭りを行なうのに留める。祧に祭る先祖よりももっと遠い先祖を祭るには壇を用い、それよりもっと遠い先祖を祭るには墠を用いる。祈るべきことがあれば祭り、その必要がなければ祭りをやめる(『礼記』祭法)」とあり、譙周(三国蜀の学者)は「天子の始祖・高祖・曾祖・祖・考の廟は、いずれも朔日にお供えし、生きている時のように朔日に食事をお供えするから、月祭と号し、遠祖の二祧の廟は月祭しない」と述べており、つまり古代には日祭はなかったのです。今、諸陵で朔日・望日に食事を奉るのは、近代の事例です。諸節に食を奉ることは、近世の薦新(死者をまだ葬っていない期間に供物を供える)です。鄭玄は、「殷では、月の朔月・月半に、薦新にお供えする(『注礼記』曾子問)」とあり、『儀礼』では、「朔日・半日は、常日の朝夕のようなものであり、大祥(十三か月の喪)では四時に祭し、祭りは廟で行なう(『注儀礼』士喪礼)」と言います。近世に始めて朔日・望日の諸節に陵寝を祭り、ただ四時および臘祭では、五たび廟に祭ります。経を調べ礼を尋ねてみると、陵で日祭するという文はありません。漢の時、京師では高祖から下は宣帝に至るまで、太上皇(高祖の父)・悼皇考(武帝の孫、宣帝の父)とともに陵の旁らに廟を立てました。園にはそれぞれ寝・便殿があり、そのため日祭は寝で、月祭は便殿で行われました。貢禹(前漢の御史大夫)は礼節が煩わしいから、元帝に申し上げて郡・国廟を罷めるよう申し上げました。丞相の韋玄成らは後にこれによって七廟外の寝園をすべてまた修めることないよう意見しました。議者はまた「祭はしばしばすることを欲せず(『礼記』祭法)」とあるから、古礼に復して四季には廟を祭るべきとしました。劉歆は『春秋外伝(国語)』の「祖・禰は日ごとに祭り、曾・高は月ごとに祀り、二祧は時節に享り、壇・墠は年ごとに貢(すす)める(『国語』周語上)」を引用しました。魏・晋以降、墓を祭りません。唐家では古代の作法を選んでいますが、臣が思うよう、諸陵の日祭を停止し、礼の通りとなされますように。」

  は従わず、そこで詔を以下のように下した。「担当役人は日ごとに食を奉るべきではないと言っている。礼というものは人情によって沿革としてきたのだから、どうして古代に拘ることがあろうか。乾陵では朝暮にお供えを捧げ、昭陵献陵では日に一度捧げよ。役人が経費が乏しいというのなら、朕の常膳を減らしてでも行え。」

  が崩ずると、定陵に葬られ、担当官署は和思皇后を併せ祭って葬ろうにも、皇后は武后に殺され、どこに葬られたのかわからなかったから、招魂して梓宮に合わせるべきであると議した。彭景直は、「招魂は所伝がないので、不可とすべきです。何卒、橋山に黄帝の衣冠を納めた故事の通りに、皇后の褘衣(皇后の祭服)を納め、寝宮に戻すなら、衣が魂の輅車となり、太牢で告祭すれば、陵内に入り、帝の梓棺の右に奉り、夷衾というかいまきで覆れますように。」 多くの者がその発言を正当なものだとしたから、制書によって裁可された。彭景直は後に礼部郎中となって卒した。


【盧粲伝】
  盧粲は、幽州范陽県の人で、後魏の侍中の盧陽烏の五世の孫である。祖父の盧彦卿は、同じく著作をよくした。盧粲は成人すると、進士に及第した。神龍年間(707-710)、累進して給事中に遷った。当時、節愍太子が皇太子に立てられると、韋后は皇太子を憎み、中宗にほのめかして衛府の封物を東宮に給わったが、盧粲は反論して、「太子は祭祀を継ぐお方で、歳時における着用品は、担当官署から取るべきです。『周礼』におよそ財器を用いることについて、「毎年の終りには総計をする。但し王や王后・世子に供した看饌(御馳走)は尊敬を表示する意味で計算に加えない(『周礼』庖人)」と述べています。今、諸王らを夷どものようにすることは、古代からの決まり事ではありません」と述べ、詔によって裁可された。

  武崇訓が死ぬと、詔によって墓は陵制になぞらえたが、盧粲は、「おしなべて王・公主の墓は、陵とはいいません。ただ永泰公主は例外で、後世の人が比較できるものではありません。武崇訓の墓域は、何卒、諸王になぞらえられますように」と述べ、詔に「安楽公主は永泰公主とは何ら変わりなく、武崇訓は公主と同じ墓に埋葬されるべきであり、陵にするなど疑うようなことではない」と述べられたが、盧粲は頑なに「陵の称号は、本来は最高の栄誉であり、武崇訓がいくら親しいからとしても、雍王に及ばず、雍王の墓は陵とは称しておらず、武崇訓は公主の縁によってどうして陵の称が得られるのでしょうか」と上奏し、詔によって裁可された。安楽公主は大いに怒り、京師から盧粲を出して陳州刺史とした。盧粲は、「いやしくも主張が認められれば、どれほど遠くとも恐れることはない」と言った。開元年間(713-741)初頭、秘書少監となった。

  その従父の盧行嘉は、仕えて雍王記室となり、同じく学問によって有名であった。

  盧粲は累進して固安県侯に封ぜられ、邠王傅で終わり、諡を景という。


【尹知章伝】
  尹知章は、絳州翼城県の人である。若くして学識があったものの、完全に理解するには至らなかった。突然、夢に巨大な鑿を持った人が尹知章の心臓を突き刺し、心が整えられたかのようであり、驚いて目覚めると、心が開けて透き通り、遂にあまねく六経に通暁した。諸生でかつて講義を授けた者は、改めて尹知章に北面して大義を受けるようになった。

  長安年間(701-705)、定王府文学に抜擢された。太常博士に遷った。中宗の時、ある者が涼の武昭王を七廟の始祖とするよう建言したが、尹知章は「武昭王は遠い時代であり、王業の根拠とはなり得ない」と主張したから、沙汰止みとなった。京師から出されて陸渾県令となり、事件に連座したが、たちまち官を棄てて去った。当時、散騎常侍の解琬も同じく辞職して故郷に帰り、尹知章と共に経術に深い思いを寄せ、喜びを見出した。張説が朝廷に上表し、礼部員外郎に抜擢され、国子博士に転じた。馬懐素が宮中図書の分類や編集を行うと、奏上して尹知章に文字を是正させた。

  官吏の休暇日に、講義を行って怠ったことはなかった。『易』・『老子』・『荘子』に非常に精通していた。弟子で貧しい者がいると支給して養った。性格は温厚で、人々は尹知章が喜んだり怒ったりしたのをみたことがなかった。財産について尋ねることがなく、子が大規模に薪や米を売って生計にしようとすると、尹知章は「そんなことをしたら、貧しい人々はどうやって生計を得るのか。私が民間の収入を奪おうとでもいうのか」と言った。在官中に卒した。注釈した経伝は非常に当時に盛行した。門人の孫季良らがその徳を称揚し、東都国子監の門の外に石碑を刻んだ。


【附、孫季良伝】
  孫季良は、偃師県の人で、一名を孫翌といい、仕えて左拾遺・集賢院直学士を歴任した。


【張斉賢伝】
  張斉賢は、陝州陝県の人である。聖暦年間(698-700)初頭、太常奉礼郎となった。

  武后は百官に明堂にて告朔しようと議し、時令を読み上げ、政事を宣揚するよう詔し、京官九品以上・四方朝集使は全員朝廷に列した。太常博士の辟閭仁諝は次のように述べた。「経には天子が月告朔を行ったとは書かれていません。ただ「玉藻」に「天子は毎月の朔を南門の外で聴く(『礼記』玉藻)」とあり、『周(周礼)』の太宰に、「正月の初一日に畿外の邦国と都鄙に対して治典を宣布する(『周礼』太宰)」とあり、干宝は「建子月は告朔日である」としていますが、これは「玉藻」の「朔を聞く」というのと同じ意味です。今、元日に時令を読むというのは、古代の「聴朔」ということと合致しています。ただ鄭玄は秦の制の月令に五帝五官があるということから、「聴朔は必ず特別な犠牲を用いて時を帝および神に告げ、文王・武王を配侑とする(『礼記注疏』玉藻疏)」と述べていますが、正しくありません。「月令」に「上帝を太昊とよび、その下にある神は句芒である(『礼記』月令)」とあり、宣するに人に告げさせ、時を奉って仕事をさせることを意味し、月にすべて令があります。そのため、天子の月朔でなければ配侑の帝を祭ることはないのです。告朔は、諸侯の礼であって、『春秋』に「月間行事の報告を受けてから楼台に登り(『春秋左氏伝』僖公五年伝)」とあり、鄭玄は同じく、人君は毎月廟で告朔し、その祭を朝享としたと説きましたが、魯では文公から始めて朔日の朝政を行わなかったので、明らかに天子の行うところではありません。鄭玄は、上帝に告げるのは人帝であり、神は重・黎・五官であると主張していますが、天子の拝祭とは言っていません。臣が願うところは、告朔・月祭を罷めて、古代の礼にすべきことです」 張斉賢はその説が正しくないとし、次のように述べた。「『穀梁伝』に「閏月、天子は告朔せず(『春秋穀梁伝』文公六年伝)」とあるのは、他の月に告朔するからです。『左氏伝』に魯が「閏月の告朔の儀式を挙行しないようでは、季節のリズムを無視することになる(『春秋左氏伝』文公六年伝)」とあるのは、つまり諸侯は閏月であっても告朔をしたということです。周太史に「暦と政令を各諸侯に頒布する(『周礼』太史)」とあり、「玉藻(周大史の誤り)」に「閏月、王門に居あり(『周礼』大史)」とあるのは、これは天子が閏月であっても同じく告朔することを意味します。二家の説は聖人が去ってから遠い時代のことではなく、天子・諸侯の告朔の事について載せているのは、明らかに誤りではありません。今議する者が、「正月の初一日に畿外の邦国と都鄙に対して治典を宣布する(『周礼』太宰)」と言って、天子は元日一日に告朔するというのは、ほとんどその趣旨を失っているのです。一年のはじめに、六官は職掌とするところの規則を頒布します。干宝が初一日を朔としたので、代々の人々が初一日を誤って告朔とし、誤りによって典拠となる経を失い、法とすることができなかったのです。議する者が同じく『左氏伝』の説を引用して、専ら諸侯にありというのは、「玉藻」が『左氏伝』の説と正しく同じであることを知らず、ただ天子は元日一日に告朔するというのは、どうして典拠を恣意的に扱うのでしょうか。また時帝というのは、五人帝のことです。鄭玄は、当時の帝は天人を包み、そのため文王・武王を配侑とし、これは並せて両方の五帝に告げることを疑いませんでした。諸侯は暦を天子に受け、廟に納めました。天子は暦を天に受け、明堂におらせ、そのため当時の帝、配侑の祖考に告げたのです。議する者は、「天子は毎月告祭して暦を頒布し、つまり諸侯はどうして納めることができましょうか。だから「太宰」では年始に一年の暦を頒布し、「太史」ではこれを頒布するのです」と述べていますが、これはそうではなく、周太史に「暦と政令を各諸侯に頒布する(『周礼』太史)」、これは全部で十二か月の朔を諸侯に頒布するのです。天子はなおも毎月告朔するのは、「官府と都鄙に頒布(『周礼』大史)」とあり、内も外も言を異にしているのです。礼は罷めるべきではありません」 鳳閣侍郎の王方慶が同じく張斉賢の言を推し進めて次のように述べた。「明堂は、政治を宣揚するための宮であり、天の気を明らかにして、万物を統べるためのものです。漢代の儒者は明堂・太廟を一つのものとし、その祖を宗祀し、上帝を配侑としました。宗祀を清廟といい、正室を太室といい、向陽を明堂といい、建学を太学といい、圜水を辟雍とするのは、名を異にして同じ事をいったのであり、古代の制度なのです。天子は正月上辛に親ら十二月の南郊に祀り、戻って祖廟に納め、月にすべての政治をとり、これを明堂にくばるのです。諸侯は天子の行ったことを受け、これを祖廟に納め、月にすべての政治をとり、その国に行き渡すのです。王はこれによって礼を廟に告げるので、これを告朔と言います。月間行事の報告を受けるので、これを視朔というのです。「玉藻」に、「天子は玄冕の礼装で春分の朝日を都の東門外に迎え、毎月の朔を南門外で聞き(『礼記』玉藻)」とあり、鄭玄は「明堂は国の南にあり、時の堂にあって朔を聴く。終わって正殿に宿る」と説き、今の元日の通天宮で朝賀を受け、役人に時令を読み上げ、政事を宣揚するというのは、古代の礼です。昔の儒者の説に、天子は一年に明堂に入ること十八回、うち大享は一回、月告朔は十二回、四季の迎気が四回、巡狩の年が一回だと言います。今議する者はただ年始に一度入ることのみを許し、それはやりすぎではないのでしょうか。陛下は幸いにも明堂を建立され、告朔の事を守られました。もし月に一度行われるのでしたら、煩雑で、孟月ごとに視朔されるのでしたら、その礼法を制定すべきです。臣下はあえて専断いたしません」 成均博士の呉楊吾らが共に申し上げた。「秦は学を滅ぼし、告朔の礼は廃れました。今、四季の孟月・季夏を用い、明堂に至って五時帝に堂上で告祭することとし、何卒張斉賢・王方慶の議を併せ用いられますように」と述べた。数年もしないうちに、礼はまた廃れた。

  しばらくして、張斉賢は博士に遷った。当時、東都では太社を設置したが、礼部尚書の祝欽明が礼官博士に「周の王室では田主(田神の主)に適合した樹木を植えたが、今太社では石を主な材としている。どうしてか」と尋ねた。張斉賢は太常少卿韋叔夏・国子司業の郭山惲尹知章らと共に議して、「『春秋』に「国君が軍とともに出動する際に、社で祓い、犠牲の血を塗り、祝官は社の木主を捧げて従軍する(『春秋左氏伝』定公四年伝)」とあり、そのため、「命令に従わなかったならば、土地神の位(かたしろ)の前で、死刑に処すだろう(『尚書』夏書 甘誓)」とあり、社稷での神主は石を用い、これによって奉ってお祀りすべきなのです。崔霊恩は「社の神主には石を用い、その土地での産が最もよいのだ」と述べ、『呂氏春秋』に「殷人は社に石を用いる」とあります。後魏の天平年間(534-537)に太社の石主を遷しており、その伝統が長いことがわかるのです。周では木主に適合した樹木を植えたとあるのは、民間の社ではないのでしょうか。太社ではありません」 ここに昔の神主は長さ一尺六寸(約48cm)、一方が一尺七寸(約41cm)であったから、博士にどうしてなのかを尋ねた。張斉賢らは議して、「社の神主の制度には礼法は伝がありません。天子が親征する場合、載せて持って行く場合に、重すぎないようにするのです。『礼』に「社は国土の神を祭り、従って陰の気を祭ることになる(『礼記』郊特牲)」とあります。『韓詩外伝』に「天子の太社は一方が五丈(約11.6m)で、諸侯は天子の半分である」とあり、五は土数です。社主は長さ五尺(約1m16cm)とすべきで、これによって土数の五に準じます。方二尺(約47cm)は、これによって陰偶の数に準じます。その上部を削り、生産される動植物を象ります。その下部を四角にし、地体を象ります。半ばを土中に埋め、本末を均しくします。何卒度量は古尺を用いられますように」と述べた。また「社稷壇は四方の五行の配色に従って色を用いるが、内部は数尺もしないうちに、黄土がおかすことになる。どういういわれなのか」と尋ねられると、張斉賢らは「天子の太社は、寸法は広さ五丈(約11.6m)で、四方に分け、上を黄土で覆い、王者が四方を覆われることを象ります。だからこそ黄土を壇上に覆うべきなのです。旧壇の上は数尺もなく、覆われている範囲が狭く、古例にそむいているのです」と答えた。ここに方角の色によって壇の四面および階段を飾り立て、黄土を上に覆い、犠牲を祭るのにすべて太牢とした。その後、先農壇を「帝社」と改め、また「帝稷」を建立したのは、いずれも張斉賢らの参定による。

  中宗が即位すると、武后東都廟によって改めて唐朝にしようと、議して七部屋を満たせ、涼の武昭王を始祖とした。張斉賢は議を奏上して、「礼に、天子七廟で、始封の君を尊んで太祖といい、百代不遷で、始祖は聞いたことがございません。殷は玄(契)より湯王まで、周は后稷から武王まで、いずれも太祖の後から出て、並び方に序列があります。景皇帝は始めて唐に封ぜられ、実に太祖となり、世代が間近であるため、以前として昭穆の序列があります。今、お上武昭王を引かれて始祖とされていますが、殷・周の本来の始祖である卨・后稷とは異なります。卨・后稷は供肉を捧げられているので、景皇帝がこれに相当します。武昭王の国は代々伝えられず、後嗣は守りを失いました。景皇帝は実際に始めて唐に封ぜられ、子孫は代々受け継いできました。もし身近な唐を捨てて、遠くは涼を引かれることをよしとすることを見たことがありません。また魏は曹参(前漢創業の功臣)を祖とせず、晋は司馬卬(秦の武将)を祖とせず、宋は楚の元王(前漢高祖の弟)を祖とせず、斉・梁は蕭何(前漢創業の三傑)を祖とせず、陳・隋は胡公(西周諸侯で陳の祖)・楊震(後漢の官人)を祖とおりませんが、今武昭王を祖とすることができましょうか。漢で、周は后稷を祀ったのであるから、漢では尭を祀ろうとしましたが、杜林は周が興ったのは后稷からだが、漢の創業とは無関係であり、創業の功は尭によったものではないとし、ついに祀られませんでした。武徳年間(618-623)初頭に定まって、武昭王の時代からは最も近かったのですが、祖として託さなかったことは受け入れられるものではありませんでした。今、武昭王を祖と立てることは、祖宗の意ではありません。景皇帝が位を失い、神位は享(まつ)られることがなく、子孫に伝える謀ではありません」 博士の劉承慶尹知章がまた言上した。「天命を受けた君主は、王としての道のりは多種多様です。祖は功によって、昭穆は親族であるから祀られます。功績がある者は遷されず、親疎が尽きた者は毀廟(毎日の食事の供えなど通常の礼を絶やされた廟)されます。今、廟の数が備わっていないからとして、引遷すべき神主を引いて昭穆の上とすることはよくなく、ましてや七室を充当するということはいかがでしょうか。景皇帝はすでに太祖と号しており、世代が身近であるため六室の神位を保っていましたが、室がまだ七となっていないからといって、天子でもないのに廟を七に充当すべきではありません。大帝の神主はすでに併せ祀られているので、宣皇帝を遷すべきです。宣皇帝は始祖ではなく、また宗号がなく、親は尽きているので遷し、再び立てるべきではありません。何卒六室とされますように」 宰相に詔して詳細に検討させた。ここに祝欽明らが上言して、「博士ら三百人が二つの意見を出しました。張斉賢らは武昭王を祖とせず、劉承慶らは宣皇帝を遷すことを願っています。臣らは全員その奏上をよしとします」と述べ、詔して裁可された。にわかに孝敬皇帝を義宗とし、廟に列して七室とした。西京の太廟もまた同様にした。

  張斉賢は累進して諌議大夫に遷り、卒した。


【柳沖伝】
  柳沖は、蒲州虞郷県の人で、隋の饒州刺史の柳荘の曽孫である。父の柳楚賢は、大業年間(605-618)に河北県長となる。高祖が挙兵すると、堯君素は郡を根拠として固守したから、柳楚賢は「隋が滅ぶことは、天下が周知しています。唐公の名は図籙(図讖符命。神仙に仮託した預言書)に書かれており、行ないは誠実と信義に基づき、豪傑英邁を惹きつけ、天が称えています。君子は兆しを見たら行動するもので、終日待つことはありましょうか」と説得したが、堯君素は従わず、柳楚賢は密かに行って自ら帰順し、侍御史を授けられた。貞観年間(623-649)、持節して突厥を冊したが、突厥からの贈り物は受け取らなかった。交州・桂州の二州都督・杭州刺史を歴任し、いずれも名声があった。

  柳沖は学問を好み、広範な学問を修めた。天授年間(690-692)初頭、司府寺主簿となり、詔によって淮南の安撫に派遣され、安撫の功績によって、河東県男に封ぜられた。中宗の景龍年間(707-710)、左散騎常侍、修国史に遷った。

  それより以前、太宗は儒者たちに氏族志を編纂させ、数多の姓氏の区別を慎重に調査したものの、その後裔の家系の盛衰は一様ではなく、柳沖はその書の改定を願い出たから、魏元忠張錫蕭至忠岑羲崔湜徐堅劉憲呉兢および柳沖に詔し、共に徳行・功績・声望・国籍の家を調査し、家格は二の次にした。夷蕃の酋長で冠帯を継いだ者は、分家して別品とした。たまたま魏元忠らが相次いで没し、先天年間(712-713)になって、再び柳沖および徐堅・呉兢に詔して魏知古陸象先劉子玄らと共に編纂を討論し、完成して、『姓系録』と名付けた。太子賓客・宋王師・昭文館学士を歴任し、老によって致仕した。開元年間(713-741)初頭、柳沖と薛南金に詔して再び改正・修正を行い、定まった。

  後に柳芳が論を著して非常に詳細であり、今その要目を摘出し、以下に著す。柳芳は以下のように述べている。

    「氏族は、古代の史官が記録したものである。昔、周の小史が代々の記録を紡いでいき、昭穆の世代を述べていった。そのため古代には『世本』があり、黄帝以来、春秋の時の諸侯・卿・大夫の名や称号、系統を記録したのである。左丘明の『春秋左氏伝』に同じく、「天子が有徳の人を諸侯に建てる際には、生まれた土地に従って姓を賜わり、封じた土地によって氏を決める。諸侯の場合は公子の字を諡とし、後嗣はそれによって族名を決める(『春秋左氏伝』隠公八年伝)」とあり、昔、尭は伯禹に姓を賜って姒といい、氏を夏とした。伯夷は姓を姜といい、氏を呂とした。下って三代(夏・殷・周)の時代になると、官は代々の功績があるものが、官族となり、邑もまた同様であった。後世はある氏は国を氏とし、それは斉・魯・秦・呉である。氏を諡としたのは、文・武・成・宣がいる。官を氏としたのは、司馬・司徒がいる。爵を氏としたのは、王孫・公孫がいる。字を氏としたのは、孟孫・叔孫がいる。居場所を氏としたのは、東門・北郭。地名を氏としたのは、三烏・五鹿がいる。生業を氏としたのは、巫・乙・匠・陶がいる。このように姓を受け氏を授けられ、多くが栄えたのである。

    秦が学問を滅ぼした後、公侯の子孫は祖先の系譜を失った。漢が勃興し、司馬遷父子が『世本』を用いて『史記』を編纂し、これによって周の系譜が「世家」に明らかとなり、そこで姓氏の出自を知ることとなり、虞・夏・商・周・昆吾・大彭・豕韋・斉桓・晋文はすべて同祖である。さらに王や霸者は攻防を繰り返し、多い者は千年にわたり、少ない者でも数十代に及んだ。先王の封はすでに絶えたが、後嗣はその遺産に恵まれ、強力な家系として存続した。

    漢の高祖は徒士から身を興して天下を有し、官は賢人を任命し、爵位は功績によるように詔し、「劉氏に非ざれば王とせじ。功なく侯たる者あらば、天下ともにこれを誅せん(『漢書』外戚恩沢侯表)」と誓い、先王・公卿の末裔であっても、才能があれば用い、才能がなければ見捨て、士族と庶族を区別しなかった。こうして始めて官が貴ばれたのである。しかし山東の豪族を遷して京師の人員を満たし、斉の田氏、楚の屈氏・景氏は、いずれも大族であった。その後豪族を抜擢・昇進させ、記録に残したが、思うにこれが山東の豪族が七相・五公となって興隆した原因であろう。

    魏は九品の官等級を立て、中正を置き、代々の子孫を尊び、寒人の士を卑しみ、権力は大族の姓に帰することになった。その州の大中正・主簿、郡の中正・功曹は、いずれも名門の士族を採用して任命したから、これによって門閥が定まり、人物を品評した。晋・宋はこれによって、始めて姓を貴ぶようになった。しかし貴賎の別や、一般の区別は容易に変わることはなかった。当時、役人は官僚を選任する際に、必ず系譜や本籍を調査して、その真偽を考察した。そのため官は代々の門閥があり、系譜に代々の官人があり、賈氏・王氏は系譜の学問によって世に現れた。これによって系譜の役職があり、令史の職はすべて備わった。長江を渡った者は「僑姓」と呼ばれ、王・謝・袁・蕭は大族となった。東南には「呉姓」があり、朱・張・顧・陸が大族となった。山東は「郡姓」となり、王・崔・盧・李・鄭が大族となった。関中も同じく「郡姓」と称され、韋・裴・柳・薛・楊・杜が筆頭であった。代の北の者を「虜姓」とし、元・長孫・宇文・于・陸・源・竇が筆頭であった。「虜姓」は、魏の孝文帝が洛陽に遷都した際の、八氏十姓、三十六族九十二姓がそれにあたる。八氏十姓は、帝の宗属が出身であり、あるいは諸国の出身で魏に従った者であるという。三十六族九十二姓は、代の部落の有力者であった。河南洛陽の人と並称した。「郡姓」は、中国士人の門閥の等級を用いてこの制度とし、おおむね三代で三公となった者を「膏粱」と言い、令・僕となった者を「華腴」と言い、尚書・領・護で上位の者を「甲姓」とし、九卿や地方長官のような者を「乙姓」とし、散騎常侍・太中大夫となった者を「丙姓」とし、吏部正員郎は「丁姓」とした。おおよそこれらに含まれた者を、「四姓」と呼んだ。また詔して代人の子孫で、族姓がない者は、穆・陸・奚・于とし、吏部に命じて下級官に充当すべきではなく、「四姓」とみなすべきであると規定された。北斉はこれによって、秀才・州主簿・郡功曹への選抜は、「四姓」でなければ選ばれなかった。そのため江南の氏族は、おおよそ郡の上姓を第一とし、大姓とした。太和年間(477- 499)に郡の四姓を大族とした。斉の僧侶である曇剛の『類例』ではおおよそ甲門を大族とした。周の建徳(573-578)の氏族は全国への声望を以て大族とした。隋の開皇年間(581-600)の氏族は上品・繁栄している姓を大族とした。唐の貞観年間(623-649)の『氏族志』ではおおむね第一等を大族とした。路氏の『著姓略』では、名門の家系を大族とした。柳沖の『姓族系録』ではおおよそ全国の声望のある一族を大族とした。大族に関する歴代の説に通暁していなければ、系譜を述べることはできない。今日世間ではただ崔・盧・李・鄭を四姓とし、太原王氏を加えて五姓と称しているが、思うに正しくなかろう。

    そもそも文の弊害は、官を尊ぶことにある。官の弊害は、姓氏を尊ぶことにある。姓氏の弊害は、欺瞞の崇拝に至るのである。隋はその弊害を受け、その弊害の理由を知らず、そこで古えの道に背き、郷挙を廃止し、定住地を離れ、政務にあたる官吏を尊ぶようになる。ここに士に郷里なく、里に衣冠なく、人に廉恥なく、士族が乱れて庶民が僭称するのである。そのため系譜に精通した者は、系譜を地方の声望によって惑わされず、これを姓氏にただして疑わず、これを婚姻によって区別するのである。山東の人々の性質は、婚姻を貴び、その信を共にするのである。長江南岸の人は教養があって、人物を尊び、その智恵は当然である。関中の人の雄々しさは、そのため冠冕を尊び、達観さは当然である。代の北の人の武は、そのため貴顕の縁戚を尊ぶのは当然である。これらの弊害が起こると、婚姻を尊ぶ者は外族を優先し、本宗を後回しにする。人物を尊ぶ者は庶出をたてまつって、嫡族を退け、冠冕を尊ぶ者は嫡室をないがしろにして栄華を慕い、貴戚を尊ぶ者は勢力や利益に従い、礼教が滅ぶのである。四者はともに弊害があり、その尊ぶ原則を失うのである。

    人々に守る場所がなければ、士族は削減される。士族が削減されると、国はこれに従って衰退する。管仲は「国を治める道は、利を一つから出す者は王となり、二つから出す者は強勢となり、三つから出す者は弱くなり、四つから出す者は滅ぶ」と述べており、そのため冠婚は、人道の大倫である。周・漢の官人は、政治と同様に門閥を重要視し、部下に禁令を知らしめたのは、これは一つから出た者であり、そのため王となったのである。魏・晋の官人は、中正を尊び、九品の官等級を立て、郷にはそれぞれ異なる政治があり、家には競いあう精神があったから、これは二つから出たものであり、そのため強勢となったのである。長江南岸・代北の諸姓は、騒乱は一度ではなく、明確な方向性がなかったから、これは三つから出たものであり、そのため弱くなったのである。隋氏の官人は、吏道によって天下を治め、人々の行動は郷党を基礎とはせず、政治は上を繁多とし、人々は下を乱したから、これは四つから出たものであり、そのため滅んだのである。唐は隋の乱を受け継ぎ、隋の乱から救うには忠義により、忠義が厚ければ郷党は品行方正となり。郷党が品行方正であれば、人物も道を修める。人物が道を修めるなら、冠冕の緒も崇ばれる。冠冕の緒が崇ばれるなら、教化の影響は優れたものとなり、つまり古代と匹敵することができるのだ。

    晋の太元年間(376-396)、散騎常侍で河東の賈弼が『姓氏簿状』を撰述し、十八州百十六郡、合せて七百十二篇とし、士人と庶民の選抜に遺漏がなかった。宋の王弘・劉湛は『姓氏簿状』を好み、王弘は毎日千人の客と対面したが、一人として諱を犯すというような過ちをすることはなかった。劉湛は選曹となると、『百家譜』を撰述して官吏の選抜の順番の助けとしたが、記述は少なく省略されていたから、王倹も同じくこれを拡大し、王僧孺が増補して十八篇とし、東南の諸族を独立して一篇とし、百家の数に入れなかった。賈弼は子の賈匪に伝え、賈匪は子の賈希鏡に伝え、賈希鏡は『姓氏要状』十五篇を撰述して、最も深淵に研究された。賈希鏡は子の賈執に伝え、賈執はさらに『姓氏英賢』百篇を撰述し、また『百家譜』を撰述し、王弘・王僧孺が記録したものを拡大した。賈執はその孫の賈冠に伝え、賈冠は『梁国親皇太子序親簿』四篇を撰述した。王氏の学問は、賈氏の学問を基礎とした。

    唐が勃興すると、系譜を論じた者は路敬淳を師と仰ぎ、柳沖韋述はこれに次いだ。李守素も同じく姓氏を明らかにし、当時の人々は彼のことを「肉譜」と呼んだ。後に李公淹蕭穎士殷寅孔至がおり、当時の人々に称えられた。

    それより以前、漢に『鄧氏官譜』があり、応劭には『氏族』一篇があり、王符の『潜夫論』も同じく「姓氏」一篇があった。宋の何承天に『姓苑』二篇を著した。系譜の学問は大抵これらに基づいている。魏の太和年間(477- 499)、諸郡の中正に詔して、それぞれ本土の姓族の次第を列挙して官吏登用の選抜の基準とし、これを名づけて「方司格」といい、人々は今日でも称えられている。」


【馬懐素伝】
  馬懐素は、字は惟白、潤州丹徒県の人である。江都に客となり、李善に師事し、貧しく財産はなかったから、昼は樵となり、夜はたちまち読書をし、遂に広く経史に通じた。選ばれて進士に及第し、また中文学優贍科となり、郿県の尉に補任された。功労を積んで、左台監察御史に移った。

  長安年間(701-705)、大夫の魏元忠張易之のために左遷させられて嶺表に流されることとなり、太僕の崔貞慎、東宮率の独孤禕之は道中の安全を祈ると、張易之は怒り、人をしてお上に急変を伝えさせ、崔貞慎らと魏元忠の謀反を告げた。武后は詔して馬懐素にこれを調査させ、使者をして厳しく迫らせたが、馬懐素は執行しながらも従わず、「崔貞慎は流人に餞(はなむけ)するのはまさに罪とすべきですが、謀反とするのにはあたりません。昔、彭越が謀叛の罪で誅殺されましたが、欒布はその死体のもとで奏上したにも関わらず、漢は罪に連座させませんでした。今、魏元忠の罪は彭越の比較にもなりませんから、餞した罪に連座させるべきではありません。また陛下は生殺与奪の権を握っておられるので、この罪を加えたいと思っても、自ら聖心によって処断すべきであって、既に臣に調査させているのですから、ただ陛下の法を守ることを知るのみなのです」と言い、武后は意を理解し、崔貞慎らはそこで罪を免れた。宰相の李迥秀は張易之の権勢を借り、誅求するのに法にかこつけたから、馬懐素は弾劾したが罷免され、礼部員外郎に転じた。十道使を以て江西の官吏たちの功績の有無によって官位をあげさげし、処罰するにも慈悲深かった。考功に遷ったが、調べるのに実際の才能を採用し、権貴に謁してへつらうことができなかった。中書舎人内供奉に抜擢され、修文館直学士となった。

  開元年間(713-741)初頭、戸部侍郎となり、常山県公に封じられた。累進して昭文館学士を兼ねた。篤学で、手づからいまだかつて書籍を棄てたことはなかった。謙恭にして慎しみ畏れ、長者をたてた。玄宗は詔して褚无量とともに侍読とし、隔日で交代制とした。既に宮中の門に入り、肩輿で進み、あるいは行在が遠ければ、乗馬を許された。宮中で宴するのを見るごとに、は自ら送迎して師臣の礼をもってした。詔があって句校秘書となった。

  当時、大量の書籍が詰め込まれており、どれも腐敗や虫損があり、題簽と書袋が一致しなかった。そこで馬懐素は意見を述べた。「願わくは紫微省に勤め黄門となり、博学の大儒らを招いて脱誤や誤謬を検討したいと存じます」。また「斉以前の古書については、すでに王侯の『七志』に詳細に記されています。近年の書目や過去の芸文志に遺漏した書籍を調査して王俊『七志』の続編を作り、宮中の書庫に収めたいと思います」といった。詔が下り、許可された。まもなく馬懐素は秘書監に任命された。ついで国子博士の尹知章・四門助教の王直・直国子監の趙玄黙・陸渾県の丞の呉綽・桑泉県の尉の韋述・扶風県の丞の馬利徴・湖州司功参軍の劉彦直・臨汝県の丞の宋辞玉・恭陵県令の陸紹伯・新鄭県の尉の李子釗・杭州参軍の殷践猷・梓潼尉の解崇質・四門直講の余欽・進士の王愜劉仲丘・右威衛参軍の侯行果・邢州司戸の参軍の袁暉・海州録事参軍の晁良・右率府冑曹参軍の毋煚・滎陽主簿の王湾・太常寺太祝の鄭良金らが召され書物の分類や編集が進められた。殷践猷の従弟の秘書丞の殷承業・武陟県の尉の徐楚璧がこの文字を正した。馬懐素は奏じて秘書少監の盧俌崔沔を修図書副使とし、秘書郎の田可封・康子元を判官とした。しかし馬懐素はうまく著述を行えなかったので、なお分類が立てられなかった。馬懐素が亡くなると、は洛陽南城門で挙哀し、潤州刺史を贈り、諡して文といい、輿を賜って遺体は郷里に帰還し、葬儀は官費で行った。

  馬懐素が亡くなると、秘書官に詔するとともに修書学士に命じて四部の書の校定原稿を作らせた。ところがそれぞれに意見が異なり統一がとれず、一年たっても完成しなかった。役人たちは作業への対応に疲弊し、太僕卿の王毛仲は手当の停止を奏上した。また詔して右常侍の褚无量・大理卿の元行沖に選任するにふさわしくない者を調べて辞めさせた。さらに褚无量らは「編纂に体系を与えるには、大儒による統括が必要です」と述べた。詔が下り元行沖に委ねられた。そこで毋煚韋述余欽に総緝の部分を、殷践猷王愜に経を、韋述・余欽に史を、毋煚・劉彦直に子を、王湾劉仲丘に集を編纂させ、開元八年(720)、『群書四録』が完成して献上された。学士には褒賞や昇進が加えられた者はいなかった。

  元行沖は知麗正院となり、また陸紹伯馬利徴劉彦直殷践猷侯行果李子釗王直毋煚韋述王湾趙玄黙余欽鄭良金と朝邑丞の馮朝隠・冠氏県の尉の権寅献・秘書省校書郎の孟暁・揚州兵曹参軍の韓覃王嗣琳・福昌県令の張悱・進士の崔蔵之は校正して正書した。このため秘書省編集を止め、学士は皆清書を行った。

  王愜劉仲丘は老いて病となって郷里に帰った。陸紹伯は在官中に卒した。王直岐王府記室参軍事で、趙玄黙集賢院直学士の職をもって退職した。馬利徴は京師から出て山茌県令となったものの、柔弱で治められず、免官となって家で死んだ。李子釗は連座して非人に任じられ、徳州長史で終わった。余欽は太学博士・集賢院学士となった。王湾は洛陽尉となり、鄭良金は右補闕・京兆府倉曹参軍事となった。権寅献は臨淮太守となった。孟暁は左補闕となった。韓覃は莱州別駕となったが、刺史が誣告されるのに連座し、遠方に流された。崔蔵之は膳部員外郎となった。翌年、将仕郎の梁令瓚を文学直書院とし、後に右率府兵曹参軍となったが罷免され、恒王府司馬で終わった。秘書省校書郎の源幼良馬利徴に代わり、後に協律郎となって罷免された。


【殷践猷伝】
  殷践猷は、字は伯起で、陳の給事中の殷不害の五世の従孫である。博学で、最も氏族・暦数・医方に通暁した。賀知章陸象先韋述と非常に親しく、賀知章はかつて「五総亀」と号し、これは亀が千年に五度集まっても、それを知る者がいないことからの言いである。はじめ杭州参軍となり、文儒異等科に貢挙され、秘書省学士を授けられ、曹州司法参軍に用いられ、麗正殿学士を兼任した。叔父を喪うと、哀慟のあまり吐血して卒した。年四十八歳であった。


【附、殷寅伝】
  幼子の殷寅は、宏辞科に貢挙し、太子校書となり、京師から出されて永寧県の尉となった。吏が侮り傲慢なこと甚だしく、殷寅は怒って殺したから、澄城県の丞に貶された。病で死の床にあったが、母の蕭氏は老いていて、死を受け入れられなかった。殷寅の埋葬後、子の殷亮は指を切断し、髪を切って棺の中に入れ、祖母が仕えることは父殷寅が生きているかのようにするよう誓った。その後蕭氏の病床を看病し、数年にわたって衣服を脱ぐことはなく、その間、白い燕が鴨居に巣をつくった。後に給事中・杭州刺史で終わった。

【附、殷季友伝】
  殷践猷の弟の殷季友は、秘書郎を歴任し、画をよくした。

【附、殷仲容伝】
  従父の殷仲容は、冬官郎中で終わったが、名声を重んじられた。子の殷承業は、慎み深く飾り気がないから称えられ、太子左諭徳・右威衛将軍を歴任した。


【附、殷成己伝】
  族子の殷成己は、晋州長史となる。それより以前、母の顔氏の叔父で吏部郎中の敬仲が酷吏に陥れられ、二人の妹を率いて耳を切り裂いて冤罪を訴え、敬仲は死を免れることができた。殷成己が生まれると、左耳が欠けていたといわれる。


【孔若思伝】
  孔若思は、越州山陰県の人で、陳の吏部尚書の孔奐の四世の孫である。祖父の孔紹安は、兄の孔紹新と共に早くから名声を知られた。陳が滅亡すると、鄠の付近を放浪し、自らの心を励まして学問にあたった。外兄の虞世南が、「この王朝が滅亡し、我が一族が滅亡したとしても、このような弟がいれば、滅亡しないだろう」と言った。孔紹安は孫万寿と共に文章によって称えられ、当時の人々は「孫孔」と呼んだ。隋の大業年間(605-618)末、監察御史となる。高祖が賊を河東に討伐すると、孔紹安は夏侯端と共に監軍となり、礼遇は非常に厚かった。が禅譲を受けると、夏侯端は先に帰順し、秘書監を拝命した。のちに孔紹安も間道から長安に走ったから、帝は喜び、内史舎人に抜擢し、第一級の邸宅、・良馬二匹を賜った。

  孔若思は早くに父を失い、その母が自ら教え導き、成長すると博学によって有名となった。ある人が褚遂良の書を贈ったが、一巻だけ受け取った。その人が、「この書は千金に値します。どうして受け取らないのですか」と言うと、「たしかに、これでは多すぎますね」と答えて、さらにその半分を返した。明経科に及第し、庫部郎中に任じられ、常に「官に仕えるなら郎中くらいで十分だ」と言って、座右の水路に一つの石を置いて流れを止め、自ら足りているという意思を明らかにした。

  中宗が即位した当初、敬暉桓彦範が宰相となると、孔若思が古今あらゆる多くのことを知っていたから、重要な政治問題の時には、必ず礼部に諮問があった。三度礼部侍郎に遷り、京師から出されて衛州刺史となった。故事では、宗室が州別駕となると、刺史に面会しても、傲慢で敬意を表さなかった。孔若思は別駕の李道欽を弾劾・奏上して、取り調べするよう要請した。詔によって別駕が刺史に謁見する際には敬意を示すことは、孔若思から始まった。清廉潔白により銀青光禄大夫に抜擢され、絹百匹を賜り、累進して梁郡公に封ぜられた。開元七年(719)に卒し、諡を恵という。


【附、孔楨伝】
  従父の孔楨は、進士に及第し、監察御史に任じられたが、門には賓客に入れることがなく、当時の人々はその狷介さを非難した。高宗の時、再び絳州刺史に遷り、武昌県子に封ぜられ、諡を温という。

【附、孔季詡伝】
  子の孔季詡は、字は季和である。永昌年間初頭(689)、制科に選ばれ、校書郎を授けられた。陳子昂は常にその精神が優雅で洗練されていると称え、衛玠(東晋の美男子で知られる官人)に比すべきであるとした。左補闕で終わった。


【附、孔至伝】
  孔若思の子の孔至は、字は惟微である。著作郎を歴任し、氏族に関する学問に明るく、韋述蕭穎士柳沖と名声を等しくした。『百家類例』を撰述し、張説らを近代の新族とし、削除した。張説の子の張垍が皇帝の寵愛を得ていたから、「天下の族姓なぞ、何の関係があるというのか。かえって混乱を引き起こしているだけではないのか」と怒った。張垍のはもとから孔至と親しかったから、真実を話した。それより以前、書が完成すると、韋述に示し、韋述は後世に伝えるべきであると言ったが、張垍の言葉を聞くと、恐れて、さらに記述の増減しようとしたから、韋述は、「止めとけ。真なる男たる者が筆を奮って独立した体系の書をつくったのだ。どうして人によって動揺しようか。死んだとしても改めるべきではない」と言ったから、遂に増減を止めた。当時、韋述および蕭穎士・柳沖は全員『類例』を編纂していたが、孔至の書が到着すると最も優れていると高く評価した。


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最終更新:2026年05月10日 03:07
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