履修披露会の終幕を飾る退屈な宴から抜け出し、夜の学院へと坂を登る。
普段より一般公開され、披露会中は展示物をある程度夜間でも目にすることができるよう解放された区画である第一校舎棟と隣接施設群を抜ければ、学院の奥にある空中庭園から流れ出すせせらぎが作る堀が目の前を横切る。
小川を越える東西二本の回廊は披露会中は固く閉ざされ、唯一中庭へと通じる石造りの橋が堀を越える道だが……。
堀の向こう岸に張り巡らされた防御式。
それは学生時代にあっては我々生徒を外部の干渉から守る壁であったが、もはや外部の存在となってしまった私を今は遮る壁として横たわる。
探しているものはきっとこの向こうにあるはずなのだ……。
ギリと、知らず鳴った奥歯。
あえてそれを踏み越えるつもりはないものの、それが如何な力を持っているのか少し間近に見たくなり、橋へと足を踏み出すと突然背後から声をかけられた。
「外部の人はその先には入れないわよ」
ち、と内心で舌打ちして踏み出した足を静かに引き戻す。
動揺して怪しまれてもつまらない。穏やかな表情を取り繕うと、ゆっくりと声のしたほうへと振り返る。
警備に残っていた係員かと思いきや、思っていたよりも小さな人影。
視線を下に向ければ、口調には似つかわしくない少女が魔晶灯の柔らかな光を浴びてそこに立っていた。
いささか長さの足りぬ鮮やかな緑の髪をアップにし、やや黄みの強いクリーム色の夜会服に身を包んで両手に夜会靴を一足ずつ下げた姿は、どこか奔放な令嬢を思わせないでもなく似合ってはいたが、如何せん足りぬ背丈と面立ちがまだ幼さを匂わせ、彼女を女ではなく少女と認識させる。
学生だろうか……。
しかしなんだ、瞳があった瞬間にこの身の内を駆け這い上がったざらつきのような感覚は……。
「ええ、知っていますよ。これでも私はここの卒業生でね、中庭の楢の木が見えやしないかと懐かしくなったものでね……」
改めて半身だった身体を向き変えて、少女を正面に捉えて答えると、少女は魔晶灯の光を受けてあらわになった私の顔を見上げて少し目を見張り、やおらふわりと微笑んだ。
「あぁ、あの楢の木……。文学少年が静かに本を読むには格好の穴場ね、今も昔も」
そう言ってくすりと笑った少女の表情に、何か既視感めいたものを覚える。
それにこの口調……。
学生時代、私は人と過ごすのが苦手で静まった図書館でさえ息苦しさを感じ、よく本を抱えては中庭の楢の木の作り出す陰の中、木漏れ日の作る影絵を紙に浮かせながらページを捲ったものだった……。
まるでその姿を見てきたかのような少女の口ぶりに違和感を覚える。
「そう、あの楢の木は今もいい隠れ家なんですね。……君もあそこが気に入っている……学生さん、かな」
見た目が幼いからといって、侮ってはならない。
この年で術士課程の生徒である可能性とて充分にあるのが
魔道学院だ。
親しみを装った口調で、その素性を探るが少女は大きな瞳をクルリと巡らせながらウーンと一つ唸ると、またにこりと微笑み
「生徒ではないけれど、まぁ関係者のようなものね」
そう答えた。
生徒でないということは、職員の身内か何かだろうか。
見た目年齢以上の実力を備えた生徒の可能性が消えたとなると……まさか、このなりで警備隊員や事務方の職員ということもなかろう。
声をかけられたタイミングがタイミングだっただけに少し警戒しすぎたのかもしれない。
口調も言動も変わってはいるが、ただの少女に過ぎない。
そう判じて肩の力を抜く。
昔話が功を奏したらしく、
はじめに誰何した際の口調の厳しさは少女から消えており、なぜか親愛めいたものさえ感じる瞳で見上げられていて居心地が悪い。
怪しまれぬうちに、戻った方がいいだろう。
元より、この奥での仕事……調査と工作の為に、あの廃棄寸前の暗殺者をわざわざ延命させてまで送り込んでいるのだ。
仕事を急がせる必要はあるが、焦ってあの油断のならない学院長の警戒を煽ることもない。
「私はティモル。懐かしい今夜の思い出にお名前を伺っても?」
少女に近付くと、腰を下げながら造りものの笑顔で右手を差し出す。
夜会服を身を纏った少女は少し思案するように瞳を揺らせたが、右手に下げた靴をもう一方の手へと持ち直すと
「……ステラよ」
そう告げ、小さな右手を私の差し出したそれに触れようと伸ばした。
少女の指先が、私の手に触れようとした瞬間、私の右腕に嵌めた腕輪、琥珀金の環に嵌めこんだ高純度魔晶がピシリと音を立てて亀裂を走らせる。
走った亀裂から、魔晶に幾重にもかけ施した封印術式が綻び、その楔によって戒めを与え屈服させた力の片鱗が漏れ出す気配を察して思わず手を引き、腕輪ごと左の手で覆い隠す。
この身に取り込んだ人ならざるモノとその力。
私の身体を逆に内から食い破り、変質を促そうとするその力を押さえ込み、支配する為にかけた封印の術式。
封印の綻びにより緩んだ縛鎖を引きちぎろうと、一度は取り込み制御下に置いたはずの獰猛な獣の本能が再び己の中で鎌首をもたげるのがわかる。
肌の下が毛羽立つような感触とともに、視界は色を失い、身の内で唸り声を上げるソレが、私の中で一つの衝動を繰り返し囁く。
ヒザマヅケ……ヒザマヅケ……--
「ぐ、ぬぅ……」
身を食い破って何かが這い出ようとするかのような嫌悪感からなのか、耳の奥で熱く脈打つ鼓動に紛れて聞こえる何者かの声と身体を押さえつけるかのようにかかる重圧。
なんだ、なぜ制御下に置いたはずの……この私に喰われた獣どもが意思を示す?
あの醜く、世界の捨て子たる下等な獣ども、冥魔。
私の願いの実現の為に哀れな異界の魂を持つケダモノどもも有用に使ってやろうというのに……世界の異物風情がこの私に抗うのか…。
右手に嵌めた枷たる腕輪を強く握り押さえながら、ふらついて数歩後ずされば視界の先で少女が信じられないものを見るような瞳で私を見つめていた。
「っ………あなたは…」
枷の制御から漏れ出した、私が力を求めてこの身に喰らった哀れな獣の力は、人のソレとは異なる力を今わたしの瞳にかけているのか、あるいは幻か。
少女の瞳に映りこんだ私が、魔晶の緩やかな灯りの下でもハッキリと見て取れた。
そこに映った私は、普段は薄くしか開かぬ双眸をいっぱいに見開きながら、少女を眺めていた……そう、人ならざる獣の輝きを湛えた瞳で。
なぜこの枷に亀裂が入ったのか……やはり此処(学院)には、どこかに封じられ存在しているのだ……その干渉としか考えられない。
冥魔どもの長にして、世界と異界とを繋ぐ自在鍵たる存在……リリス。その躯か、あるいは封じられた力か、それはどちらでも構わない。
間違いない、必ず見つけ出し手に入れる……っ、しかし今はダメだ。
身の内で脈打ち、暴れようとする衝動を押さえ、じりじりと後ずさる。
どうする、この少女に見られたか……、消してしまうべきだが……いまここで騒ぎを大きくするわけにはいかない。
内なる衝動を押さえつけるのが精一杯で、目の前のこの少女に精神操作をかけることもかなわない身体では、どうすることもできず、後ずさりながら青ざめて立ちすくむ少女から身を翻す。
構わない、ここにリリスの足跡が存在する確信を得たのだ。
計画に支障を来たすと思われれば、その時消せばいい。造作もないことだ。
その為にあの暗殺者も送り込んでいるのだ……。
こみ上げる吐き気と、皮膚の下を這い回る異物の感覚に額を汗の玉で濡らしながらも、夜の石畳を蹴る私の心は高揚していた。
私の望む、私が手にし続けるはずであった正しき世界を喚び、この穢れに染まり間違いつづける世界を修正する為に必要となる最後の鍵。
やはりそれはこの学院に隠されている……。
あと少しだけ待っていてくれ、あともう少しで失ったものを取り戻すから……。
カタン……
左手に提げた夜会靴が指先のかかりを失って地面へと落下し、石畳を叩いた踵が硬質な音を響かせる。
遠ざかっていく背中を呆然と見送りながら、差し出したまま今も固まる右手、その掌を恐る恐る返してその指先へと視線を落とす。
触れようと延ばしたそれが、感じ取った障壁とそれを硝子片のように砕いた感触。
その奥から漏れ出した、近しい気配と……何より、あの瞳……アレは………
考えたくなかった。まさか、と。
「………まさか……違うよね。そんなはずないよね……ティモル」
今すぐ追いかけて確かめたかったけれど、足が動かず立ち尽くす。
それに、もしそうだとして……自分にはできるだろうか。
もう一度、教え子の心に陵辱の爪を突き立てることが……あれは、あの瞳はあたしの……いいや、私がかつて下した決断が招いたものだとしたら……。
もしそうだとしたら……私は……
周囲には、ジジ……と魔晶灯の光にぶつかる虫の羽音しか聞こえないはずなのに、どこか遠くで世界が歯車を軋ませる音が聞こえたような気がして、私は今はもう見えない、かつての教え子の背が消えた暗闇をいつまでも眺めて立ち尽くした。
最終更新:2013年01月15日 02:18