間諜を通じて賢者の塔によるウィスタリア急襲の報を確認した日、まずは南洋諸島を抑えにかかった決断は間違っていたとは思わない。
キシュフォルドは島国だ。特に西部は元々海賊を生業とした海の民を祖としており、最大の軍事力は海軍にある。南洋諸島を領有することは領海権の拡大にあたり、自国にとって最大の戦力の活動範囲を伸ばすことにも繋がる。ビクトールは内地への進出を思うとき、キシュフォルドが島国であることを嘆きもするが、反面キシュフォルド本国に手を出すには海を越えるほかに方法は無く、海上で敗れることが無ければ自国を侵されることへの憂いがない。南洋諸島の領海を自国に組み入れてしまえば、それは海原という領土であり、本国への軍事的緩衝地帯ともなる。
まずはキシュフォルドの最大戦力である海軍の活動範囲を広げる。その点においてはハイラルの起こした争乱は役に立ったと言えるが、いかんせん……
「……短すぎた」
再び酒瓶を煽り、ソファで身じろぎを取ると踵の体重を預けたままのビストロテーブルの卓面が歪み、波頭に抱かれる乙女を模した卓脚がミシリといやな音を立てる。
内地での争乱が長引きさえすれば、ハイラル以外に変化を巻き起こす芽として目をつけていた、帝国統治に不満を持った郡国主たちを煽って独立を唆す手筈も取れたというのに……。
そうなれば、キシュフォルドを北から塞ぐ目障りな
カージナル大公国も自国の北部防衛と帝国の支援に兵を割かねばならず、千載一遇の北侵の機会となったであろうことが悔やまれてならない。
返す返すも惜しいことだが、嘆いていても始まらず、各地に再び間諜を放って実情を探らせる傍ら、新たな策をあれやこれやと思い巡らしているのだが、ビクトール自身、それを存外楽しんでいる事実には気づいていない。
ウィスタリア帝国は帝都レンシエラを始めとする主要都市の被害が大きく、虎の子の精霊騎士団も騎士団長の他、将官クラスである真・精霊騎士を2名失うなど甚大な損害を出している。
新型艦船の配備による海軍再編計画も当分頓挫するであろうし、現に先日のキシュフォルドの南洋諸島占拠について具体的な声明は出されていない。
首謀者ハイラルへの加担について嫌疑がかかっている郡国エスティバリス当主が蟄居させられるなど継続する内患も抱えており、帝国にとっても直接の版図ではない南洋諸島へのキシュフォルド進出に苦言を呈する余裕は見られない。
当分は国内の整備に奔走することだろう。
東部列強も中核をなす一国であるヴェルツヴァインが王都を焦土と化し、国王一家の消息は以前不明のまま既に国として成り立っておらず、加盟国当主たちはその始末について復興を口にしつつ、その実はヴェルツヴァインを解体して領土の割譲吸収を狙って紛糾取り沙汰されているという。
『まさしく好機!我らキシュフォルドが内地に覇を唱えるのは今を置いて他にありませぬ』
朝議の席で、内地の様相について報告を受けると興奮した面持ちでそう発言した臣下を思い出し、不快げに太い眉根をぎゅっと絞り、口中で小さく「馬鹿め」と小さく舌打ちする。
大陸内地における二強が疲弊し内患を抱えた今、確かに打って出る好機と言えなくもないだろう。
事実、大公国とサシであるなら東部の兵をも動員すれば戦力は拮抗し、すわ戦となれば平和慣れした大公国の兵に遅れを取るとも思えない。ウィスタリア帝国が同盟国である大公国に援兵を派する戦力は通常の半分にも満たないだろう。
十分に勝機はある。しかし、だ。
今回の争乱については、魔道協会が身内の不心得者によって招いた、公式には『事故』と既に発表されている。
事故によって被害を受け、復興中の国家に対して特段の理由無く戦端を開けば、世情が黙ってはおるまい。
土着民族の小規模集落を幾つか擁するのみで、国際的な交流を持った主権国家の存在しない南の島国を掠め取るのとは事情が異なる。
そうなればキシュフォルドは大公国、帝国のみならず、場合によっては東部列強、商工連邦、首長国……大陸中の国家を同時に敵に回すことになる。それは愚作に過ぎる。
キシュフォルドが内地に出るには、大公国と干戈を交えるに足る理由、もしくは継続し続ける内地の混乱が必要なのだ。
内地が麻のように乱れれば『混乱を収め、民に安寧を』と嘯き、ようようと兵を出せばいい。
ゆえにビクトールは収束に向かって動き出す事態に太い眉をぎりりと寄せ、再びの乱を待ち望んでいる。
そう、収拾がつかないほどに千々に乱れてくれなければ……。
--さて、何をどう突いたものやら……
一旦は収まりを見せたとはいえ、まだ手はある。
人とは面白いものだ、嵐が吹き荒れる最中にはただただ嵐が過ぎ去ってくれさえすればいい、そう願うが、一度それが過ぎ去り、一息つくと荒れに荒れた光景を見回してこう思うのだ。
なぜこうなった?誰を責めればいい?と。
なぜ嵐は起こったのか、避けられなかったのか、嵐に耐えうる環境をなぜ整えなかったのか、と。
それは一見、未来に同じ轍を踏まぬ為に布石を打つ思考のように見えるが、その内には哀惜の念を何かのせいにしてしまわねば立って居られぬ、人の性が潜む。
魔術士の引き起こした、魔術事故による甚大な被害。
魔道協会自身がそのように発表しているし、あの異様な空だ。
間諜の報告によれば、眠れる古の竜まで崩落する賢者の塔に現れたというではないか。
誰がどう見ても、魔術による災厄だ。
魔術は今や素養を持つ持たざるに関わらず、日常近くどこにでもありふれたものとなっている。
暮らしの中に溶け込んだ魔術はあらゆる人種に恩恵を与え、既に文明の柱といっていい。
しかし、今回のことで誰もが心にこう刷り込んだはずだ。『魔術は危険だ』……と。
魔術士たちは恐らくそれを誰よりも知るからこそ魔術士なのだろう。でなければ付き合えるものではない。
しかし、そうでない者たちにとってはどうであろうか。
まして、被害を身近に受けた者たちにとっては……。
ただ便利な道具のように思っていた魔術に対する危惧は、ほんの少しのことで、魔術を用いる者への危惧となりえる。
遥か古には、その為に大陸全土を覆う戦乱があったと言うではないか。
長き年月をかけて、少しずつ築き上げられてきた魔術と、魔術を用いる者たちの信頼と権威は、ハイラルが引き起こした災厄によって失墜したといって良く、魔道協会が各国に対して有していた魔道使用に関する発言力は地に落ちた。
起動は不可能としていた遺物兵器である魔道甲冑を実際に起動し、合成獣を生体兵器として運用してしまったのだ。例えその実行が反乱魔導師による独断であろうと、存在しないとされていた技術を協会は秘匿し、自ら禁忌と定めた行為を成してしまったのだから。
その責任を誰よりも理解しているからであろう、魔道協会は被害地域への復興支援の為、術士団を組織して一早く支援活動を開始しており、一応は各地の人々から感謝もされてはいるようではある。……いまは、そして表向きは。
ビクトール自身には魔術に対する忌避感はない。
せいぜいが役に立つ技術とそれを習得した技術者という認識でしかない。
しかし、魔術を用いぬ身で今回の被害を目の当たりにした者たちには、意識の奥底に植えつけられた何かがあるはずで、それはきっとほんの些細なきっかけで表面化するだろう。
本当に、ほんの些細なきっかけさえあれば……。
ハイラルが起こした乱は確かに短く、直接的にはビクトールにとって期待はずれであった。
しかし、国という組織の中に、魔術士と魔術士ならざる者との間に、ハイラルが残したひずみは今もなお残っている。
折角、国内や隣人同士にひずみを抱えているのだ、それが亀裂と育つ前に侵攻など起こしてキシュフォルドという共通の外敵を与えて、結束を促してやる必要など無いではないか。
魔道を用いた兵器に対して厳しく目を光らせた魔道協会が反逆者の手によってとはいえ、それを稼動可能な状態で秘匿していた事実を露呈し、あまつさえ行使したことによって、その存在意義を衰えさせた今なら、大金をはたいてヴェルツヴァインから密輸した遺物兵器を元に開発させた魔道砲を用いる機会も訪れるかもしれない。
聞くところでは、鉱山妖精どもが岩山から担ぎ出した魔道砲らしきものによって、塔に配備されていた魔道甲冑を遠く離れた山から砲撃したという報告もあるが、連中が糾弾されたとは耳に入っていない。
自ら禁じていたものに足元を掬われ、同じく禁じていたものに救われたのだ、当分は協会が何を言おうと何とでも言い逃れはできるだろう。
当分はハイラルが世界に残したひずみを、せいぜい上手く利用してやろう。
考えを巡らし、打つべき手が見え始めると、当初のもやもやも忘れて、口元をニ…と歪ませるキシュフォルド王ビクトリアノであった。
- 乱を待つ王 -(3)
再び人の間に亀裂を生むことも必要に迫られれば臆さない王に、島のどこかに存在する、陰陽を抱いて眠る火山がゴゴゴと地鳴りを響かせたりする……のかもしれません。
最終更新:2013年07月11日 01:17