扉の前を塞ぐ最後の警備員に身体を寄せ、抱きかかえるようにして鳩尾へと拳を打ち込むと、意思を失って重くのしかかったその背を静かに壁へと預ける。脚を折って座り込むように崩れ落ちた身体から毀れた腕が、毛足の長い絨毯を叩いてトサリと小さな音を立てた。

1メルテ四方の市場価格は10ギアは下らないであろう高価な絨毯も、警備を任される者にとっては侵入者の接近を隠す厄介な代物でしかない。結界術の大家一族、その本家ともなれば、侵入者を探知阻害する結界には絶対の自信もあったのだろう。その驕りを頑丈なブーツの裏からでも柔らかさを伝えてくる絨毯が象徴しているように感じて、廊下でただ一人佇む、当の侵入者は感慨なさげに今はその絨毯に沈み込んだ四人の警備員へと一瞥をくれた。
屋敷の反対側に仕掛けた火薬壷が先刻破裂音を響かせたばかりで、当分は周辺の侵入者捜索に人手を割き、こちらへこれ以上の増員はないだろう。少なくとも自分が目的を果たし終えるまでの時間は稼げた。
探し続けた扉はいまや目の前で、遮るものはもう何も無かった。


_________________________

-教団を潰せさえすりゃァ、ガキ共が家を失わないとでも?だとしたら、どこまでもイタイ奴だな、お前はよォ

かつてこの手で貫いた、あの黒眼鏡の狂殺者が今際に語った、暗殺者集団『緋月の教団』を支える数多の存在。
血泡を吐きながら、でもどこまでも愉快気に彼はしゃべり続けた。教団が掲げる世界の浄化を目指す理念などは見せかけに過ぎず、それは金と引き換えに、その時々、それぞれに薄汚れた目的を抱いた者に代わって血に手を浸す為の方便に過ぎない。それ以外に教団が求められることはなく、それ以外に存在する価値も意味もないのだ、と。

-お前は自分を教団の道具だと思ってたようだが、教団ですら連中の道具の一つでしかない。道具が鈍れば次の刃と取り替える。教団だって同じだ、望む者があるから教団は存在する。教団が道具としての価値を失えば別のものと取って代わるだけ。お前がやっきになって追いかけているものは、その程度の代物でしかないのに、なんだ?ずいぶんと必死になるじゃねぇか。

だから俺は道具の道具なんて真っ平ゴメンだ。俺は俺の愉しみの為にしか殺さねェ。お前なんかの何倍も何百倍も殺してやったけどな。そういって狂える男は古巣に抗う道具風情と自分を嘲笑ったが、ふと口元を歪めてこう言った。

-アァ……でもお前にとっては必死になって噛み付く意味もなくは無いのか……

引き攣れたように吊り上げた唇から、さも可笑しいといった様子で漏れた空気のような音で咳き込むようにして笑った男は、こう続けた。

-産まれはカルーアだっけか?お前、連中に『こんなことをさせない為の力が欲しい』って、手前から連れてけって頼み込んだんだってなァ。傑作だよなァ、縋りついた相手こそが、ファルージュの爺ィが我が身可愛さの金儲けに走った実験に、体よく雇われて手引きした本人だってんだからよォ……

どのようにして自分の故郷から、教団に入った当時の経緯まで男が調べたのかも、教団が故郷の惨劇に本当に関与していたのかも、ファルージュの~と口にした詳細についても聞けず仕舞いとなった。
青ざめて問いただす自分を嬉しげに、そう愛しげにといって良いほど恍惚の表情で満足そうに見つめた男は、胸に突き立った刃に乗り出すようにして身を捻り、切っ先を自ら心臓へと導いて満面の笑みで事切れたから。

あんな男の残した言葉に、自分の中の何かを仕向けられるのは気が進まなかったが、それでも調べずにはいられなかった。これまであえて思い出さないように目を背けてきた24年前のウィスタリア-ヴェルツヴァイン間の国境紛争、カルーアの悲劇その真実について……。
緋月の教団に繋がる者、ファルージュが出資する魔道戦術研究所に当時籍を置いていた者、その関係者。記録に残らなかった歴史を噤んだまま生き長らえていた者たちに、今すぐ永遠に口を噤むかを選ばせて得た事実は……あの男が語った通りであった。
まさしく滑稽だった。故郷と家族、父を母を祖母を……妹を燃え盛る雨の中に置き、それがいかに命を灰へと変えたかを確かめるためにやってきた者たちへと、愚かにも幼い自分は縋りついたのだ。こんなことを仕出かした者に復讐する力をくれ、と。そして家族を焼いた者たちと一緒になって、今度は別の誰かから……そう、あの娘を皮切りに家と家族とを奪う者となったのだ、自分は。
調べを進め、少しずつ真相へと近づくほどに目も眩むような嫌悪感は誰あろう自分自身を焦がすかのように身のうちで暴れまわり、何度投げ出して、ただ盲目に教団を憎むことで己への嫌悪をすり替え忘れてしまおうと思ったことだろう。けれど、調べることをやめることができなかった。まるで篝火に誘われた蛾が夜の炎に焼かれるように、調べ続けた。なぜそれは起こったのか、なぜファルージュはそれを求めたのか、なぜあの日、自分の家族は焼き死なねばならなかったのか、ただそれだけを求めて。
しかし調べれば調べるほどに混乱は深まった。仮にもウィスタリア貴族であるファルージュ家が、自国の街を焼かせねばならなかったその目的について知る者を一人として探し出すことが出来なかったが、ある日気づいた。
……居る、たった一人だけ。それを命じた張本人だけは知っているはずなのだと……


_________________________



重厚なノブへと黒い革手袋に包まれた指を伸ばしかけ、不意に手首に嵌めた腕輪が視界に入る。
環に配された複数の魔晶石が薄く明滅光を灯すそれに、そっともう一方の指先をかざすと、小さくブンと唸りを残して石は輝きを失う。
結界魔術の大家にして、魔道多角産業を束ねる財閥ファルージュ一族の宗家が管理する、とある屋敷。
この先に居るのは、24年前、東部列強ヴェルツヴァインの軍部を買収し、新型術式の威力確認と宣伝の為、情報の伝達事故を装って帝国との国境に程近い城砦都市へと、獲物を捕らえたが最後、灰にし尽くすまで消えることのない炎の雨を降らせた張本人、ファルージュ財閥の当主ただ一人のはずだ。
決して人前に姿を見せない巨大財閥の首魁が住まう、この屋敷に張り巡らされた探知結界の網目を見つけ、幾つかを無力化するのに役立った腕輪も、この先はもう必要ないだろう。
この先で必要となるのは……。腰の後ろに手挟んだ短刀の柄へと無言で手を掛け、硬い手触りを確かめる。
ノブへと触れると、『餞別だ』そう言って腕輪を投げて寄こした人物と、その言葉が思い出される。


_________________________



ぐっすりと寝静まった母屋から音も無く抜け出し、明かりもつけない納屋の奥から昼間用意しておいた荷物を取り出して外に出てみれば、先刻までは隠れていた月が空に現れ、蒼い月明かりを斜めに降らせていた。
丁度、月明かりが伸ばした光の川を挟んだ先で、一体いつ現れたのか楠木の幹に人影が一つ腕を組んでもたれ掛かっていた。
「暇乞いを聞いた覚えもなければ、許した覚えもなかったはずだが……俺の記憶違いか?」
「……したいことが見つかったら、いつ出て行ってもいい。一番最初にそう言ってた方の記憶は?」
瞬間脳裏をよぎった誰かよりもずっと高い身長と、ずっと低い声音になぜか安堵した自分を感じながら声細く応じて、納屋の影の中から踏み出して人影とすれ違う。
月明かりに伸びる影が交差すると、人影は楠木からもたせ掛けていた背を離すと隣について歩を合わせる。
「覚えているさ。しかし黙って行っていいとまでは言った覚えはない」
静かな彼の言葉に、わずかながら歩みが鈍る。
彼には恩義がある。この羽虫のような命を繋ぐために彼の庇護を利用してきた。彼自身は自分のそういう思惑も全て判った上で自分を手元に置いていたことも、与えられた仕事の他に隠れて動き回ることを見逃されてきたことも、知っている。
だからきっと彼に暇を乞うのは筋なのだろうと思う。乞えば彼もきっとそれを許すだろう……けれど。
「君は"あの娘"に話すだろう」
ポツリと漏れ出た言葉に、我がことながら驚きを覚える。一体自分は何を恐れているのだろう、と。
「無論だ。後で詰め寄られるのは俺なのだぞ。古今東西ありとあらゆる罵詈雑言を上品に浴びせられた挙句、庭師ひとつ御せ無いのかみたいなことを言ってくるに決まっている」
結構傷つくんだぞと、いつものようにどこか人をくったようにおどけて肩をすくめる彼の言葉に、今夜寝室に下がってからずっと思い出さないようにしてきたものが、生き生きと金色の輪郭を描き出しそうになるのを頭を振って思い留まらせる。
「すまない……」
柵に沿って続く小路を歩きながら、彼に詫びを口にする。
白く塗った柵の向こう側では、この数年で最も広く葉を茂らせたぶどうが低い茂みを作り、夜風に葉鳴りの音を奏でる。もう一月もすれば、たわわとは言えないだろうが、実った房は収穫を迎えるだろう。
「謝るくらいなら自分で納得させてから出かけろと言いたいが……まあ、お前もお前ならあの娘も娘だからな。せっかくのぶどう畑がお前たちの喧嘩で壊滅するのを見るのも惜しい」
彼の言い草に、彼女が小さな子供たちと一緒に世話をし続け育った畑が夕日の照り返しを受けるのを眩しそうに見つめる姿がとうとう思い出されてしまって足が止まる。
ほんの数時間前に見納めたつもりだったのに、なぜだかその姿をもう一度見たかった。
小さく息を吐きつつ、その心配はないさと呟きながら彼へと振り返り、もう一度『すまない』そう告げて頭を下げる。
「すまないついでに頼まれてくれないか……」
きっと自分が帰ってこれないと。
だから、『なぜ生きているの?』その問いの答えを探すために、『自分を殺させてやる』その約束を守れないことを……すぐでなくていい、いつか伝えてはくれないか、と。
どう端的に伝えたものか思案して口ごもったのも束の間、間髪入れずに、にべもない彼の声が覆いかぶさる。
「断る」
頭を上げて、自分より少し背の高い彼を困ったように見上げれば、予想通りに不機嫌そうな眼差しがこちらをじっと見つめていた。
重ねて何を言ったものかと言葉を探していると、それすら先読みしたように彼はもう一度『断る』と憮然とした声音で突っぱねると、おもむろに隠しに手を差し込んで取り出した、平たい箱を差し出した。
「餞別だ、持って行け」
困惑したように佇めば、二度三度と突き出される手のひらに促されるまま箱を受け取る。蝶番になった上蓋を開けば、繻子布を敷いた底には腕輪が一つと折りたたまれた紙切れが一片鎮座していた。
「これは?」
「世界一強固な結界に守られた、胸糞悪い金持ち宅の庭を荒らしたいとボヤいたら送ってこられたものだ」
どうやら彼には自分が探しあてたものも、これからどこに赴くのかもお見通しらしい。それもずっと以前から。
折りたたまれた紙を指先で摘んで開き見れば、見覚えのある文字と見覚えのある無愛想な文体でその使用方法が記されていた。
当代随一の賦与魔術士と、当代随一の属性結界術士の合作だろう。であればこれは……受け取れない。
自分の求めるものが復讐なのかどうかはわからない。けれど、もし得た答えが導き出すものが復讐となるならば、そんなものに彼女たちを巻き込む訳にはいかない。まして自分の屍から見つかって出所が知れれば大事となりかねない。そんなことで、あの子供たちの"家"を奪うことも、穢すこともあってはならない。
紙切れを戻して蓋を閉じた箱を差し戻そうとして、革手袋越しの手首ごと掴まれる。
「……黙って持っていけ。全て承知でお前に宛てて造られたもので、お前に宛てて綴られた文字だ。その悲観主義の頭で、ほんの少しでも迷惑がかかると思えるのなら、どんなことをしてでも持って帰って来い」
有無を言わせぬ強い眼差し。
いつも飄々として、どこにあるのか掴ませない本心。以前の自分であったなら、きっと気づくことも無かったのだろう、この穢れきった手を握り締めた腕が痛むほどに無言で伝える『迷惑であるものか』の音なき声は。
それが理解できるだけ、ここで過ごした数年は、少しは自分をマシなものへと変えられたのだろうか。
月夜にも眩い眼差しを直視できずに、伸ばされた腕、掴まれた手首へと視線を逸らし、最後に脇に広がるブドウ畑へと転じる。
数年前にはひび割れた土と、剥きだしの石、腐って倒れ落ちた棚木の残骸が広がるだけだった荒地の面影はもうそこに見ることはできない。あぁ……人も、これほどに変わることができたとしたら、どんなにか良いだろう。
戻した視線の先で、じっと見つめてくる彼に肯くことすらできず、無言のまま掴まれた拳に触れるとそっとその指を解き放す。
「……すまない」
何がすまないのか、自分でもよくわからなかった。
世話をかけたことへの礼であるのか、持ち帰りたいと願いながらそれをどこか諦めていることへの許しであるのか、あるいは……彼がその胸襟を開いて見せてくれた好意に、とうとう向き合うことができなかった弱虫な自分を恥じてのことなのか……。
彼から二、三歩後ずさり、一度深く頭を垂れると踵を返す。
彼は引き留める言葉を口にしない代わりに、一つだけ問いを投げかけた。
「なぁ……このブドウ畑を育てた、育てられたお前は、今でもまだ"死にたがり"のままなのか?」
けれど、自分はやはり答えを見つけられなくて、ただ黙って暗闇の中へと影を溶かしたのだった。
最終更新:2013年07月03日 00:04