「……分らないよ、今だって自分が生きているのかすら分らないんだ、ジュカ」

結局答えを見つけられなかった彼の問いに、届かぬを幸い、一度も呼んだ事の無い彼の愛称と共に、言い訳がましくノブに掛けた手もそのままポツリと呟く。

でも、と。

愚かで穢れきったこんな自分にも大切なものがあった。
妹に、家族に、隣人だった子供たちに、"明日"を許して欲しかった。そして、髪を撫でてくれた日の大きくてまだ温かかった手を差し伸べてくれたあの悲しい魔導師と、彼の妻にも。
間違いだらけの道を選んできた自分に断罪者の権利などないことはとうに分かっている。
それでも、この"どうして"と、己と誰かに対して訴えて鳴る恨みの声が、今もこの俺を動かしている。
それだけがきっと……

-俺が生を許された理由

この扉の向こうにその答えがある。
だから、それももう終わりとなるかもしれない。
侵入の為の手は打ったが、脱出のそれについては考えなかった。火薬壷による騒動が魔力探知を掻い潜る為の陽動でしかないと気付けば、警備は侵入者の目的が館の反対であるこの場所であると容易に気付くだろう。侵入路の限られたこの離れに人が押し寄せれば、脱出は適うまい。

ノブを握った手を覆う黒い革手袋へと視線を落とす。
殺さないことは、殺すことの何倍も難しいことを知ってしまったから。自分の中で無意識とも思える殺意が沸くたびに、革のうちに潜むあぎとに肉を噛まれるたび、いかに自分が容易なものを選んできたのかを知ってしまったから。
だから、わかる。
この扉の先に進めばきっと、あの穏やかなブドウ畑を臨む赤い屋根の家にはもう……

『お前は今でも"死にたがり"のままなのか?』また彼の声が聞こえる。

この先に、死人たる自分が生を長らえることを許された意味がある。
全てを知ること、その上でこの手袋の獣が自分を噛むならば、最後に一度だけ、その警告に自分は背き、願うままに文字通り血塗れた手を再び振るうだろう。その瞬間、自分は生きたと言えるのではないだろうか……。
そして、生きたのならその後は……

崩れ落ちる塔への連絡橋、伸ばされた手を拒み、その残骸と共に落下する自分を見つめたあの瞳と、『簡単に死ぬなんて許さない』そう叫ばれたあの日の声がこだまする。
あの領主の友人たる、お人好しの青年。泣けない泣き虫が怒ったように向けてきたあの瞳はきっとまた怒るのだろうな。ふとそんな気がした。

「もう、違うよ……でも、きっと帰れない……」

逡巡を断ち切るように呟いて、そのノブを回した。








押し開いた扉の中は薄暗く、絡みつくように澱んだ空気と、すえた臭気が立ち込めていた。
部屋に漂うその臭い、気配は自分には馴染んだものだった……まだかろうじて生きているものだけが放つ独特の死臭だ。

当主の間が、私室と寝室を兼ねているだろうことは想像していたが、思っていたものとは些か違った光景。
部屋の中には薄布で間仕切られた大型の寝台が一つ置かれたきりで、側面に置かれた大掛かりな装置から放たれた仄かに青い魔晶の輝きが、寝台に垂れた薄布をぼんやりと映し出す。
腰の後ろから音も無く抜き放った刃が、室内の青い光を吸い込んでまるで氷柱のように切っ先を閃かせる。
廊下同様に深い絨毯を敷き詰めた部屋の中央、部屋の主を横たえた寝台へと近づくごとに濃くなる澱んだ臭いをものともせず、無感情に歩を進め寝台の足もとへと辿りついて、立ち尽くす。

-……なんだ……コレは

あらゆるおぞましい光景を作り出し、茫洋と眺めてきたこの身ですら、その異様さに後ずさりかけて踏みとどまる。
薄布越しに横たわったソレは……まるで、生きた屍だった。
全身から削げ落ちた肉の代わりに痩せ細った骨の輪郭を浮き出す、たわんだ皮膚を被せたかのような痩身の至るところには差し込まれた針。針と繋がった管は無数に伸び、寝台の傍らで静かに唸りを上げる設備と繋がった、老人……その肉体、あるいはそのなれの果て。
設備を稼動させているのであろう魔晶が灯す青い光を布越しに受ける胸には、胸当てのように別の何かが埋め込まれ、朽ちた全身と不釣合いなほどに骨の浮き出た胸を測ったように規則正しく上下させている。

老人の胸を押し上げるごとにどこからか空気の抜けるような規則正しい音だけが室内に響く。
全身至るところに埋め込まれた設備、あらゆる肢体に突き刺さる無数の針と管、自らの意思ではなく、設備によって促されて上下する胸と脈動する皮下に透けた血管……。
かつてどんな凄惨な光景にも眉を潜めたことすらなかった身体が怖気を催して粟立ちと共に、言いようの無い吐き気にも似た不快感を伝えてくるのがわかる。
一体コレはなんなのだ、ここに居るのはファルージュ財閥の宗家当主アルベルト=ファルージュその人ではないのか。
いや、ファルージュの当主は数十年前一度代替わりしたものの、新当主は数年にして死亡し、前当主アルベルトが再びその座に就いたはず。それ以降、代替わりはなされておらず、とすればアルベルトは齢100を遥かに越えていても不思議はない。
けれど……けれど本当にこんな老人が……いまや自ら呼吸すらできないこの人物が、自分の故郷を焼かせた張本人なのか。たとえ当時が齢90前後だったとしても、そんな老人が一体何を求めてあのように残忍なことを命じ、今もおめおめと生き続けていられるのだ。……そもそも、こんな姿を生きているといえるのか。


喉元に切っ先を突きつけ、なぜ故郷を焼かねばならなかったのか、その理由を知りたいと思った。
ここに辿り付くことさえできれば、それは造作も無く、その理由に納得がいこうがいくまいが、城砦都市カルーナから唯一生き残った者として、ただ、ただ思い知らせたかった。
お前が言葉一つ、指先一つで"明日"を奪った者たちがどんなに……どんなにありふれて、穏やかな一日を過ごしてその夜、眠りに就いたかを。
お前と同じように、"明日"が来ることを願うまでも無く、それが本当は無いことなど知る由も無く、みな明日という一日を……仕事を、目的を、約束を思って眠りに就いたのだ……俺が考えることを放棄し、盲目のまま奪ってきた全ての命と同じように。
そう、俺とお前とは同類だ。だから、だから俺もお前もここで……終わるのだ、と。

なのに……。
なのに、なんだこれは。この、魔道器によって息を継がされる、かろうじて人の形をしたものは。
短刀を握り締めた手の内が痛いほど締まり、ギリ……と知らず奥歯が鳴った。
手袋の内に牙が突き立つような痛みが迸るのも構わず、カッと何かが弾けるように視界が赤く染まって寝台から伸びた無数の管を左手で束掴む。

「……フェルナン……か」
どこかヒュウと空気の漏れるような音にも似た、しゃがれた声だった。
持ち上がった管の振動が針から伝わったものか、薄布の向こうで横たわったソレが身じろぎもせずにうっすらと開いた瞳は、何をも映してはいなかった。白く濁った眼球がそこにあるだけ。
けれど……生きていた。
呟いた名には聞き覚えがあった。ファルージュの過去を調べる中で知った前当主の息子、つまりアルベルトの孫にしてファルージュ宗家の血を引くその人物は家を出奔し、長らく消息不明となっていたが、あの賢者の塔崩落から数ヵ月後、事件の首謀者として名を挙げられたあの人に加担していた嫌疑によって帝国から査察を受け、幾つかの業務に対して操業停止を通達されて零落したファルージュ一族の元に突如として舞い戻った人物。右往左往しながらも保身に余念の無い一族を横目に、査察の余波によって蜥蜴の尻尾のように真っ先に切り捨てられた末端の従業員へ、宗家の私財を投じて保障を行っているという噂もあった。その孫の名だ。

「……こんな……ところで何をして……おる。稼がんか……一刻と無駄にする……な。わしは……わしはまだ死なんぞ……ハイラルめ……とんだ食わせ者じゃった……ヴェルツヴァインは惜しいことを……したが、まだ……連邦がある。何でもくれてやれ……わしの命を繋がせるのじゃ……」

意識は混濁しているのか、相変わらずヒョォと漏れ出る空気のような音に挟まれて、老人が虚ろな瞳で呟き繰り返す言葉の意味は判らないが、それは命乞いのようにも聞こえなくもなかった。
ハイラル……老人があの人の名を口にするのを聞いて、ますます手の中の痛みが増す。いまやぐっしょりと血を吸った革の内から染み出た滴りが、掴んだ透明の管を紅に染めていく。

「お前が……お前があの人を追い込んだ。お前が……。答えろ、なぜだ」

なぜカルーナを焼かせたのだ、なぜ敵国であるはずのヴェルツヴァインの為に。
なぜカルーナだったのだ。
なぜ……あの人の愛した人と、俺の家族を焼いた。なぜ俺と妹に四葉のクローバーを探す明日を許してはくれなかったのだ。なぜ俺はあの日、草叢を次から次へと掻き分ける妹に、四葉を見つけてはやれなかった。
教えてくれ、なぜだ……。

管を掴んだ手に思わず力がこもり、内部を流動する液体が詰まりでもしたのか、傍らの設備が異常を知らせるように赤く光る点を明滅させ始めるのを見て慌てて力を緩めた。
苦しげに喘ぎ始めた老人を見下ろして、自らもわずかに荒くなった息を整えるように一つ吐き出す。
まだだ、まだ答えを聞いていない。

「答えろ……」

見えているのかはわからないが、掴んだ管の束を一層持ち上げて、熱に浮かされたように自らの命を継げと呟き続ける老人に、今は自分に生殺与奪の権があることを主張した時だった。
やにわに部屋の外、廊下の向こうから喧騒の音が近づくのに気付き、身を乗り出してもう一度低く、けれどはっきりと問うた。

「答えろ。なぜ城砦都市カルーナを焼かせた」

もう時間が無い。喧騒はいまや扉のすぐ向こうにまで迫っていた。
なんとしても答えを聞かなくてはならない。それは、この老人と自分の終わりを告げるであろう喧騒だったから。
最終更新:2013年07月07日 02:42