ウィスタリア帝国西部に位置する保養地ラクトフォートで老舗として鳴る『恵みの泉亭』、その敷地内に離れとして建てられた、小振りながら品の良い洋館を貸し切っている主が露天造りの浴場に身を浸しながら小首を傾げる。

「今夜はやけに賑やかだな」

にわかに華やぐ本館浴場と離れの露天浴場を隔てる庭園と壁を見やりながら呟くと、向かいで蒼い髪を布で纏め上げた少女がムッツリ顔で溜め息を吐く。

「陽が暮れてからシェルタウラス曳きの大型馬車が入ってきたんですよ。実地研修に向かう途中の魔道学院の生徒達だそうです」

わざわざ港湾都市から呼びつけたことでもあり、日頃の疲れを癒して貰おうかと風呂に誘ったものの、一緒に入れと執拗に誘っても堅苦しい格好のまま浴場脇に護衛と称して仁王立ちを続ける少女に、最終手段として湯を浴びせ、ようやく湯船へと引きずり込むことに成功したのだが、ますます加速した仏頂面は、いっかな収まる気配を見せてくれない。

「魔道学院とは学院領のか?」

「……そうですよ。夏休み時期に、わざわざ学外実習なんてしてる酔狂な魔術塾なんて他にありませんから」

ぐっしょりと濡れた私服を近衛のカレンへと手渡し、一旦湯に入ってしまえば観念したのか、肩に乳白の湯を掬ってはかけつつムッツリ顔が頷く。

「ではお前やジーンの後輩ではないか、もしや顔見知りも居るのではないか?挨拶してくればよいものを」

湯船に浮かべた盥から酒瓶を取りあげ手酌で注いで呷ると少女にも杯を差し出すが、掌で突っ返されてしまう。

「冗談やめて下さい、なんて名乗るんですか。内海軍を預かる身が職務放り出して、こんな場所で湯に浸かってるなんて言える訳ないでしょう。万一、部下の耳にでも入ったら……私は辞職願いを出します」

盛大な溜め息と共に、ラクトフォートでは飲酒は18歳からですと杯をぐいぐい押し返してくる少女。

「辞職だなどと大仰な奴だな」

押し返された杯にまた手酌で注ぎながら眉を潜めると、目の前の少女は『ほぅ?』と呟いて瞳を細めるや、周囲の湯がそこかしこで渦を巻き始める。

「突然【力を貸して欲しい、くれぐれも内密に】なんて伝言鳥飛ばして来られれば誰だって大仰にもなります。すわ一大事かと新造艦の処女航海すっぽかしてまで飛んで来たって言うのに……私これでも一応、内海を預かる提督なんですよ、て・い・と・く」

少女の感情に呼応してか、湯船のそこかしこで巻きだした渦から水流が触手のようにウネウネと立ち上がって揺らめく。

「お、落ち着かんか……。力を貸して欲しかったのは嘘ではないぞ。ただ、退屈し凌ぎとは言わなんだが……ほ、ほれ、後輩達に気取られるぞ」

笑顔で宥めると、一つ肩で息をして、ようやく年頃らしい笑顔で艶やかに微笑む少女。

「そうでした、いけないいけない♪」

少女が瞬きしてにっこり微笑むのを合図に、一斉に立ち上がっていた湯柱の触手が支えを失って周囲に落ち……盛大な飛沫を巻き上げた。
纏め上げていた髪も顔もびしょ濡れになり、衝撃で跳ねて頭に被さった盥を取りながら、物音に駆けつけたカレンに手を振り追い返す。

「おい……不遜だぞ。しかも精霊王にさせることか?」

「これしきでティテュスを喚ぶ訳ないでしょう、直接被らなかっただけでも感謝して頂かないと♪……そういえばティテュスの様子が馬車が着いてから何かおかしいんですよね。何というか……こう、ざわつくというか、困惑してるみたいな……」

考え込むように小首を傾げ、頬に手をやる仕草だけ見ていれば可憐な少女に見えなくもないのだが……

「なんだ、それは。どういうことだ?学徒一行に面白き者でも混じっておるのか??」

髪を絞りながら身を乗り出すと、沈んだ酒瓶を捜索しながら少女が露骨に渋面を滲ませる。

「やめて下さい目をキラキラさせるのは……ダメですよ。絶対にダメですよ、お忍びで放蕩するだけならまだしも、ただの学生に接触したりなど不味いってさすがにお分かりですよね?」

「……しかしなアンジェリカ、極東には【ダメには押して良いとき悪いときがある】という格言もあってだな」

指を一つ差し立てて笑顔で応ずるやいなや、ザバリと湯を纏わりつかせながら素早く立ち上がった少女……アンジェリカが湯船に浮かぶ盥を引っつかんで振り抜くと、浴場にカコーンと小気味よい音が響く。

「だから"ダメ"な時なんですってば、ほんとバカですね。しょうがないなぁバカ皇女は♪」

-けっこう痛かったぞ……リカ。
ジンジン痛む頭頂部を両手で撫でつつ恨めしげに視線を上げれば、全裸で仁王立ちという、なかなかに刺激的な光景が目に飛び込むが、指摘でもしようものなら、きっともう一発飛んできそうだ。

「と・に・か・く!私は明日には戻りますけど、小指の先で摘めるくらいでいいから少しは自覚を持って下さい。貴女が妙なことに首突っ込む度に連れ回されるカレン様も、お可哀想でしょう」

「わかった、わかった」

両手を挙げて降参して見せると、『約束ですよ?』と湯船に浸かりなおす水の真精霊騎士に曖昧に頷き返す。
しかし、精霊王がざわめくほどの使い手が身近に……しかも学生の中に居るとしたら……こんなに面白いことそうそうは無い。そうだろう?





ニノ姫には自重しろと言ったものの、確かにティテュスの様子は気にかかる……。

あの学院は規格外の存在が何かと集まりやすい。
炎の精霊王、焔蛇サラマンデルを身に宿す先輩精霊騎士であるジーンにしても自分自身も、それなりに規格外であったとは思うが、学生時分に精霊王にマークされるほどの存在だったかと問われると些か心許ない。

-出掛けの駄賃に少しくらい調べてみてもいいか……。

学院か……と、やにわに感傷的な気分におそわれるのを小さく首を振って追い払う。
他の生徒たちに比べて履修をあまりに早足で駆け抜けてしまった私には、昔話に興じる学友も、そもそも卒業生として沢山の思い出と言うものが無い。
今でこそ友人と呼べる幾人かの存在を得たけれど、時々もっと少女らしく学生生活を楽しんでいたらと考えることもある……。

それでも思い出が皆無と言うわけではない。
私にだって忘れ難い事や、言葉はある。

けれど……

『教科書しまって!ほら、出掛けるわよ。……何って実習よ、休日を有意義に過ごす実習♪』

時々夢にみるあの光景。
誰かに手を引かれて、正門から外郭街へと続く石畳をつんのめりながら走る、ジリジリと熱を照り返す真夏の下り坂を跳ねる私と、私よりも小さく見える誰かの影法師。

それはきっと、私の中で数少ない大切な思い出の一つのような気がするのに、繋いだ手の感触も、息せき切って弾むその声も、眩しいはずの視線の先も夢はみせてはくれない……それらを夢としてみる記憶が欠けているのだ。
自分は冷たいのだろうか、そもそもそんな思い出自体が幻想なのだろうか、そうな風に思うたび胸がチクリといたむ。

久しぶりにみた、あの夢で目覚める……。あぁ……そうだ、あの日もこんな風に朝から暑い一日だった。
毎度の夢もティテュスの様子も気になる……でも、目下のところ大絶賛気になるのは、私の寝台に潜り込んで腕を絡めとったまま気持ちよさげな寝息を立てる、不届きで自覚に欠けたこの存在だ……。

自由な片手でこめかみをぐりぐりと揉みほぐす。

「もぅ……重いし、あっついのよ」

身じろぎする寝顔を見つめていると、口調とは裏腹に、重なりあって触れる体温のようにぬくもりを帯びた自分の声に不覚にも赤面する。

-まぁ、まだ早い時間帯だし。もうしばらくは寝かせといてやろう。

教科書通りに考えれば、この不届きな侵入者の腕を引き剥がして、寝台から退くのが正解だろうが、あの夢で私が受けた実習がホントのことだとしたなら、私の手を引いたあの小さな影法師の持ち主も、きっと同じように言って『大正解』そんな風に笑ってくれる、何故だかそんな風に思えるから。





「カレン、アンジェリカの姿が見えぬが帰ってしまったのか?……何やら面白きことを申しておったが、あやつまさか抜け駆けではあるまいな……」

目覚めると空になっていた寝台の上で胡坐をかき伸びをしながら乳姉妹でもある近衛騎士に声をかければ、存じませんとしれっとした返事が戻る。
どうやらアンジェリカから口止めでもされているのだろう。

……ふむ、まずは広く情報を集め、然る後に策を打つ……情報か……。
虎穴に入らずんば虎児を得ず、市井の暮らしを知るは治世者に連なる者の務めと申すしな。

この辺りで情報が集まる場所と言えば…………おぉ、ラクトフォートは湯で鳴る保養地なれば、得がたき妙手があるではないか♪





『あぁ!?い、いけませんお客さま!も、申し訳ございません、共同浴場前で少しトラブルがございまして……只今準備中とさせて頂いております。いえ、設備的なものではございませんので……い、今しばらくお待ち下さいませ。ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません……』

朝風呂に浸かりに来た魔道学院の生徒を、両手を振って推し留めるメイド。

『え?いえ……その……な、内緒にして下さいましね。実は、離れにいずれかの貴族ご令嬢をお迎えしているのですけれど、その……きょ、共同浴場。……つまり一般解放しております混浴の温泉にご入湯されようとなさいましたもので……それでお付きの騎士さまが、自害してお止めしようと……大騒ぎに……』





この保養地で採れた野菜や卵、花まで扱う朝市で賑わう小路を長身の二人組とすれ違って立ち止まる。

「……今のがそうなの?ティテュス」

問いかければ、足許で子犬サイズの青い有角馬の姿を取り、ちょこんと佇んで器用に首を捻る精霊王。

『そのはずなのですが……気配があまりに不安定で希薄なので、断定は致しかねます』

友人同士なのだろう、罪のない小突き合いをしながら、遠ざかる二つの背中を目で追う。
ティテュスが気にかける理由はよく分からないけれど、危険な感じはしなかった。

土と緑と、ほんの少し甘い水の気配を纏った笑い合う二人組。
あれは沢山の優しさに囲まれた者にだけ許される気配だ。

皇女と同じ屋根の下にあったとしても問題はなかろう。
……いや、むしろ問題はあの皇女の方か。

「危険は無いようだし、もういいわティテュス。そろそろ帰りましょう、カレン様にはお気の毒だけど何日も艦隊を留守にはできないしね」





「ほぉほぉ、それはなかなかに自由な校風よな。いや、さすがはセルファードの宿主が開いただけのことはある。……いや、私も幾人か学院卒の面白き友人を持っておるが、貴公の話で得心いたした。しかしなんとも楽しげな毎日だな、私もそのような学生生活を送ってみたかったぞ、いやはや惜しいことをした」

深夜の露天浴場に文字通り降って湧いた珍客-本人曰く魔道学院の生徒で未知と自由への探求の途中で迷い込んできたそうだ-と差し向かいで杯を回し合う。
飛び込んできた時は随分恐縮していた青年だが、しばらく言葉を交わすうちに順応したのか、問うままに魔道学院での生活や友人たちとの交わりなど、面白おかしく語り聞かせてくれた。

裸身にタオルケット一枚を巻きつけた姿で、初見の青年と湯に浸かりつつ杯を回し飲みする姿など見ようものなら、乳飲み姉妹でもある近衛騎士は卒倒を通り越して本日二度目の自害未遂を起こすのは必至なのだが、青年の話し口調は目の前に光景が浮ぶような躍動感と優しさを兼ねて、大層惹きつける。

話の情景を肉付ける為に湯船から上げて加えられた手振り、笑いをかみ殺しながらそれを追う瞳が捕えた右手の甲、そこに在る引き攣れた火傷の跡を見つけて凍りつく。
砕けた口調ではあるものの、どこか育ちの良さを感じさせると思ったが……責任を担う家の生まれであったか。

「……貴公、その手は……まだ、まだそのように恥ずべき蛮行を行う輩どもは耐えぬのか……」

特権や、人々の上に立つ力を血によって贖っていると思い込んだ恥ずべき輩が、己らの醜さを映し出す正反対で鏡となる存在を疎んで造り出された、古く愚かな悪しき因習。
怒りに拳を握り締め、爪痕の食い込んだ両手を開くと、青年の右手を握り締める。

「すまぬ。全ての貴族に代わって私が詫びよう、いや……これは奢りだな」

青年の手の甲に刻まれた火傷が描くその印に触れるべきでは無い。突如押し黙ってしまった青年を見ずともそんなことは分かっている。
けれど、これは他ならぬ私がけっして見過してはならぬことだ。
どうしても伝えなくてはならない。

引き抜かれそうになった手を胸元に引き寄せて、もう一度強く握り締め、外そうとする視線を絡め取るかのようにしっかりとその瞳を覗き込む。
本心を誰にも読ませぬようになのか、どこか茫洋とおどけたように歪んで見せてはいても、ちゃんとわかる。
ちゃんと気付ける。黄昏を越え、宵へと向かう夜の色を吸い込んだ湖面のように澄んだ瞳の奥に、この傷を負った日と変わらぬ折れぬ一振りの剣を青年が携え続けていることを。たとえ、手にするものが杖へと変わっても青年は、この手を傷つける前も、そして今も……この国と私にとって……

「貴公にとって私が詫びることに意味など無いだろうが、忘れてはならん。この傷は貴公が真の騎士たる証だ! 己が背負うものを片時も忘れず、寸毫たりとも恥ずべきところの無い、誠に貴い心を示すものだ。そのことはけっして私が忘れぬ、そなたも忘れてはならん。すまぬ、許せ。愚かな者どもを御せぬ国を……」

一気にまくしたて、もう一度視線を落とした手の甲をそっと撫でる。

「故あって正式な名乗りはできぬが、親しきものは私をルティーナと呼ぶ。貴公、名は?………良き名だ。また会おうぞ、ジュリオ・ルカ卿」

青年を浴場に残し、踏み込まれる前に浴場を出る。
……明日早朝に宿を出よう、今夜のように放蕩も時に必要だが、そうばかりでもいられないことがよくよく分かった。
正しき行いに対して、嫉妬と羨望の炎で焼いた焼き鏝で報いるような国であってはならないのだ、けっして……。
彼が己の出自に溺れることなく、その責任を果たしたように、私にも私が果たすべき責任があるのだから。

「カレン、明日宿を引き払う。皇宮に戻るぞ」
最終更新:2013年07月13日 01:41