「んー……よい、しょっと」

書架用のレール式梯子を、最も奥の戸棚へとずらして動かす。
学院が衣替え行事である迎夏の大掃除を終えたからというわけでもないけれど、あたしの他には誰も訪れない、この部屋も綺麗にしてあげないと…そんな気になって一人で始めた大掃除。

扉も窓も存在しない、書庫。
持ち出さざるべきものと、あたしにとって大切なものを収めたこの部屋に捨てるようなものは何一つ無いけれど、それでも長い時間を越えてきた書架や戸棚に積もった埃くらいは払ってやりたい。

少しずつ時間を作っては、持ち込んだ掃除用具で埃を払い、絞った雑巾で一つずつ拭っていく作業も半月ほどかかって、ようやく最後の戸棚に手が付けられるようになった。

梯子のガタつきを整えるように少しガタガタと揺すって満足すると、とんとんっと二段ほど登って振り返り、白金の毛並みを持った九尾の狐がバケツの取っ手を咥えた顎を逸らして差し出してくるのににこりと笑むと、バケツの縁にかけた雑巾を手にして梯子を登りきる。

「ありがと、タマモ。埃がかかっちゃうから、ちょっと離れてなさい」

眼下の九尾に声をかけつつ、棚につけた戸を引き開けて中を覗き込んだ瞳が、ひとまとまりに折り畳まれた何かを見つけて手が止まる。

あぁ……そうか。
ここにしまっていたんだっけ。

脇に雑巾をおくと、伸ばした手でそれに触れる。
少し湿り気を帯びた重く荒い布の感触を確かめて、二度三度とひんやりと冷たいその表面を撫でさする。

幾重にも折り畳まれたその布を掴んで引いてみたけれど、それはとても重くて今のあたしには腕の力だけでその奥から引き出すことはできそうにない。
そう、あの夜に必死でこれを引こうとしていたあの子と同じように……。





「……で、あるからして、この場合の"念"とはつまり"念動"をあらわす意味で用いる。念動は魔術の基本骨子の一つだ、それぞれが体内で錬出する魔力を……」

開け放った窓から緩やかに吹き込む風が、夏の足音を報せるような温みで前髪を揺らし、眠気を誘う。講義室に響く少し硬質的な教導師の声もいまなら子守唄に出来そうだ。
重みを増した瞼をしばたくと、教科書を持ち上げて顔を覆い、ふぁと一つ欠伸を噛みころそうとするけれど、我慢できず肩を竦めるようにして教科書の陰で大欠伸に顔をしかめる。

「こら、講義が終わるまでまだ半々刻はあるぞ」

高い位置から声が聞こえてきて、しまったと思わず首を竦めつつ教科書をそろりと降ろせば、鮮やかな緑の髪をゆったりと三つ編みにして片方の肩口から胸へと垂らした太い毛束が視界の先で揺れる。

編みこみを解けば一体どれほどの長さなのだろうという見当違いの思考をかき消しながら、すみませんと謝罪しかけた先で、長身の女性教導師は一つ息を吐くと、伸ばした白い指先でコツリと私の斜め前に腰掛けた女生徒の頭頂部をつついた。

どうやら私の大欠伸を咎められたわけではなかったらしいことが分かって、出しかけた声と開いた口を誤魔化すように小さく咳をしながら拳を口許に宛がうと、教導師は赤い瞳でチラとこちらを一瞥すると、ちゃんと見ていたぞとでも言うように綺麗なアーモンド形の眼をまるで猫のようにキュッと絞ったけれど、特に何も言っては来なかった。

教導師は私の斜め前で俯いたままの女生徒の手元、広げられた教科書を覗き込むように一瞬首を逸らしたが、ふと授業が止まって注目を浴びていることに気付いてさっきの私のように咳払いをすると、音読していた教科書の続きを読むように一人の男子生徒の名を呼び、教科書の音読を託した。

声変わり前の少年の声で再び教科書が読み上げられる他は、静謐を取り戻した講義室の中、注意され注目を浴びたことで真っ赤に顔を染めて俯いたままの女生徒を見つめた教導師は少し困ったようにしていたけれど、やおら長身の腰を折って女生徒の耳元に唇を寄せると何事か囁くのを、私は教科書に視線を落とすふりをしながら横目で眺めていた。
何事か囁かれた少女は、ビクリと肩を震わせてますます赤くなったけれど、講義室中の視線を集めて固まっていた表情は少しだけ和らぎ、教導師を見上げて何度かどんぐりみたいな大きな瞳をしばたかせていた。

何を囁かれたのかが気になったが、どんぐり眼の女生徒をそのままに身を翻した教導師はまた教科書を片手に生徒たちの机の間を歩き始めてしまった。

思わず乗り出していた上体から、まだ顔の赤い女生徒が机の上に開いた教科書の端がちらっと視界に入る。
文字と幾つかの図を記した紙の端、私の教科書では白紙の筈のその部分には何かが所狭しと描かれているように見えた。

そそられた興味に、さっきまでの眠気はどこ吹く風。
そっと後を振り返り、講義室の最後列を曲がって遠ざかる教導師の背を確かめた私は、何か描かれたページを捲ろうとした名前も知らない女生徒に小さく声をかけることにした。

「ね、ね。ソレなぁに?せんせいに何て言われたの?」

またぞろビクンと跳ねた小さな肩ごしに、おそるおそるといった感じでほんの少し顔を背けて振り返った女生徒と目が合うが、彼女は弾かれたようにまた前を向き直ると、俯いてしまった。

肩と首を竦めるその姿勢は、まるでそうしていれば透明になれるとでも思っているかのようだったけれど、めげずに息を吐くような音で声を投げかける。

「なんて言われたの?ねぇってば……っ」

観念したようにもう一度振り返った女生徒の泳ぐ視線を自らのそれで絡め取るようにニッと笑うと、またぱちぱちと音がしそうなまばたきをした女生徒が小さく口を開く。
蚊の鳴くような……そういう表現が似合いそうな囁き声でおずおずと応じる女生徒。

「……ゾウの鼻はもうちょっと長いって………」

もういいでしょとでも言うように、そそくさと前に向きなおりかけた女生徒の上着の裾を手を伸ばして摘んで引くと、逃がさぬとばかりに畳み掛ける。

「ゾウ??ゾウって何?そこに描いてるソレ??それって動物?」

思わず乗り出してしまった頭に、教室の向こう端から折り返してきていた教導師が開いて手にした教科書の背表紙が、今度こそコツンと音を立てて落ちたのだった。

「ハンナ!ハンナ=ハッキネン、眠気が去ったのなら続きから読みなさい」

まるで自分のせいで、私が教導師から音のわりにはちっとも痛くはない一撃を貰ってしまったかのように瞳を歪めて揺らした女生徒に、続きは後でねと片目を瞑って見せると教科書を掴み、椅子を引いて立ち上がる。

それが私と、言葉で気持ちを表すのは苦手だけれど、とても上手に描いた絵で気持ちを伝えられることにまだ気付いていなかった、七つ歳下の初等部同級生、クレオとの出会いだった。



~幻燈の国 #1~
最終更新:2013年10月13日 03:16