芝生に折り敷いた膝の上から流れる髪をそっと撫でる。
かつては鮮やかな黄金の輝きだったそれは、年月を経て今や艶なく鈍た銀に。

「こうしていると妹を思い出すよ……よく屋敷の庭の樹の下でこうして膝を借りて僕は昼寝をして、妹はいつも詩集を読んでいた……この季節は特に風が気持ちよくてね」

瞳を閉じたまま微睡むように呟く彼の髪を、指先でそっと梳く。

「立場でいえば逆が正しかったのではないのか?ダメな兄だったのだな」

一つ小さく息を吐き、咳き込むように笑った彼は、ひどいなぁと小さく漏らし、しばし口をつぐむ。
春をそよぐ風が耳朶にかかる髪ごと絡んでは悪戯に吹き過ぎて耳鳴りを囁き、頭上に差し伸びた枝葉が透かす陽光が私の膝に頭を預ける痩せこけた胸に鹿の子模様を描いては揺れる。
穏やかな春の昼下がり。

「僕はあんな風に、いつまでも膝枕でうたた寝していられる世界が欲しかった……。魔力のあるなしによって誰かと誰かが、家族が共にいられないような世界が嫌で仕方なくて……それを変えたくて……でも結局僕が求めたものの先で作れたのは、この小さな箱庭だけで、僕が眠りたかった膝を連れてきてはあげられなかった……。僕をあんなに理解したいと願い、僕に倣おうとしていた教え子も。確かにダメな兄で、師匠だったな」

とても穏やかに笑う、今は老いて皺だらけになった魔術士の口元が描いた曲線は後悔か自嘲か。

「あの子たちに見せたかったものを、せめて君に……僕たちが欲っした世界が訪れるのを見せてあげられたなら……」

途切れ途切れの言葉を聞き逃さぬようにと顔を覗きこめば、彼の顔に私の髪が流れ落ちて緑のカーテンを引き、世界から遮られた二人だけの空間に、どんなに嬉しいかと続けられた掠れた声が届く。

「……無理やり私を連れてきたくせに、お前も私を置いていくのか?……私にそれを見せないと、一人になった私は世界を滅ぼしてしまうぞ」

しゃがれた声が、怖いなぁと呟いて笑う。

「あぁ、見せてあげられたら……すごく…嬉しい……なぁ……ステラ、やっぱり僕は……ダメな………」

魔術士の言葉の最後ごと何かを……突然に吹いた風が私の髪とともに巻き上げて空へとさらう。

「……ルクス?………そうか、もう眠ったか」

魔術士の魂を空へと掻きさらっていった風の精が、上空高く悲しげに哭く声が天いっぱいに響いて溶けてゆく。
瞳を閉じた魔術士の髪を何度も何度も撫でながら、消えゆく温もりを記憶するように手のひらに感じさせる。

「あぁ……ダメなやつだよ、お前は。私なんかに押し付けて逝ってしまうのだから……。いいさ、しばらくはそうして眠っていろ。お前が……お前が欲しかったものが訪れたらちゃんと起こしてやるから……」






あれから幾たび春を過ごし、夏を越えたんだろう……
魔術士が願った世界の幾つかは現実のものとして訪れ、あまねく全土にとはいかないまでも拡がっていくのをこの目で観続けてきた。

それはまだまだ拡がっていくのだ、この先も……

けれど、あの日の魔術士のように倒れて見上げる視界に映る空には迫り来る黒い太陽と黒く閃く稲妻……天空を割って大地と重なろうと近づく、こことは似て非なる異なった世界の影。

魔術士の夢みた世界はまだ拡がっていける……
そう、子供たちが拡げてゆく。

その為に、アレをここに落としてはいけない。

それはあの不器用で冷たくて優しくて痛々しい魔術士の祈りで、それはそれを見たいと望む私の願いだから……

黒い曇天へと焼け焦げた右手を差し伸ばし、震える指先で宙を掻く。

「わたしだって……子供たちに見せたい世界が……あるんだ」

それはいつしか私自身のものへと変わった願い、想いを繋げたいという望み、ただその為だけに。

焦げて黒ずんだ指先に緑の燐光が灯り、ふわと小さな光の粒を揺らめかせる。

「ねぇ、ルクス……あたしもダメな先生だったなぁ……でも」

でも知っている。
あの日、魔術士の願いを聞き届けた私がいたように……私の願いを聞き届け、繋いでくれる数多の子供たちがいることを。
指先から発した光は、今や腕を伝い私の全身を包んで輝きを放つ。

あぁ、いまならわかる。
あの別れの日、魔術士が浮かべた笑みが後悔や自嘲でなかったことが……

痛いほどわかるよ、ルクス。

悲鳴をあげるように歪む黒い空を掴むように真っ直ぐに腕を伸ばし、眩く緑の繭のような輝きに包まれる中、上空に迫る異なった世界と同じく異質なものとしてこの世に呼ばれ、それを重なり合わせることで世界を異なるものへと書き換えるためだけに造られたはずの存在は艶やかに笑み……

「でも……あたしは世界一幸せなセンセイだったよ」

緑の繭は爆発的な輝きを放ち、幾条もの光の雨となって空へと駆け上がった。



~願いの揺りかご 緑の光条~
最終更新:2013年10月13日 03:43