わたしは、よく泣く娘だった。
王家に連なる古い血筋と、広大な封地をおよそ三百年に渡り代々伝えてきた家の長女として生まれたわたしは、その他のものと同じように受け継がれてきた慣習に従って、赤子の時分から世話係の手によって養育された。
なに不自由なく育ちはしたが、およそ親子の触れあいという意味においては、わたしは父とも母とも疎遠だった。
父公爵は山を隔てた都で国王の補宰として勤めることが常であったし、同じ屋敷に起居してはいても母と会えるのは、いつも昼下がりのお茶の時間と夕食の大広間に限られた。
疎遠ではあったが、父母は子供に対する愛情が薄かったというわけではなく、厳格ながらも善良な人たちであった。
時おり屋敷へと戻る父は、いつも手土産として都で流行りの菓子や、よその国から取り寄せた人形などを手ずから贈ってくれた。そうして、やはりいつもその大きな手でわたしを抱き上げて顎鬚の相好を崩して笑った。
毎夕、勉学の励み具合を問われ、応じれば微笑みと共に少しの賞賛とさらなる期待を寄せられるのが母とのくすぐったくも嬉しいひと時だった。
けれど、それだけ。
物心ついた頃から自室を与えられ、夜には身の回りを世話する者もわたしを夜着へと着替えさせ、髪を梳き終わると部屋を出て行く。再び朝の日が昇るまで、幼な子には広すぎる部屋で一人きりで眠らなければならなかったわたしは、大抵の子供がきっとそうであるように夜の闇が恐ろしく、大抵の子供がきっとそうされるように母から『だいじょうぶよ』と抱きしめられて眠りに落ちたことが無かった。
バルコニーへと続く硝子戸から星明かりも差し込まぬ暗い夜は恐ろしさもひとしおで、昼間に怪物や狼が現れるような物語を読んで聞かせた世話係と、せがんだ己を恨みながら夜具に潜り込んで丸くなり、風が戸を叩く音に怯えてはすすり泣いたものだった。
そんな夜を何度繰り返しても、わたしは闇に慣れることがなく、夜が嫌いだった。
ところで、わたしには四つ年の離れた兄がいた。
父に似て少しくすんだ銀色の髪を受け継いだわたしとは違って、母譲りの眩いような金色の髪と、貴かんらん石のように緑がかった金の瞳をした兄は、嫡子として、またいずれ家を継ぐ者として、わたし以上に父母の期待を背負って厳しい傅育を受けていた。
食事の時間以外は家庭教師が張り付いての勉学に追われていた兄は、妹であるわたしと兄妹らしく過ごすような時間を日中に持つことも無く、最も近しい年齢の存在でありながら共に遊ぶことはおろか、言葉を交わす機会も自然少なかった。
けれど時折、食器の鳴る音以外には静か過ぎる食事の席で目が合うと、その宝石のような金の瞳をきゅっと緩めて見せてくれるのがわたしは好きだった。
そうされるとなんだか、静まる食卓の居心地の悪さに共感されて笑いかけられたような気がして、ほとんど口をきく機会もない兄を存外茶目っ気のある人物だと、そんな風にわたしは勝手に空想し、彼を身近に感じていた。
その日は昼から黒い雲が遠く山の上にかかり、生暖かな風が何かの前触れのように屋敷の木々を揺らしたので、母はお茶の時間をお気に入りの庭を眺めることのできたテラスではなく、自室で過ごした。
一方わたしと兄も、世話係と家庭教師がそれぞれについてはいたものの、珍しく日中を同じ部屋の中で過ごすことになった。
夕刻が迫ると、空は真っ黒に蔭り、生暖かかった風はぐっしょりと不快な湿り気を帯びて窓枠を越えて吹き込んだ。
いつもより刻限は早かったが、明かりを灯す必要を感じた世話係たちが部屋を離れていたとき、突然空が閃いたかと思うとお腹の底をぎゅっとさせる轟音が天も裂けよと鳴り響いて、わたしは悲鳴を上げて椅子から滑り落ちると膝を抱えてうずくまった。
部屋の対角に置かれた別の机から何事か聞こえたような気がしたけれど、雷に怯え世話係の名を呼んで泣き叫ぶわたしにはよく聞きとることができなかった。
やがて降り出した大粒の雨が、屋根と窓とを叩く音で雷の音は幾分まぎれるようになり、燭台に灯された明かりと世話係の背を撫でる手に落ち着きを取り戻した私は、ふと兄が何か声をかけていてくれたような記憶を手繰って視線をやってみたけれど、既に兄は再び家庭教師の背の向こうで何事か書き取りを行わされていて、視線すら交わすことができなくなっていた。
夕食時、縦長の食卓の遥か上座に腰掛けた母から、雷に怯えなかなか泣き止まなかったことについて、やんわりとだが叱責を受けた。
母は物静かで温和な人だったが、不在がちな父に代わって家長であらねばならず、使用人を用いる立場である自分たちが取り乱したり、毅然とした態度を保てないようなことをひどく嫌った。
表情を読み取ることもできないほど遠くに座る母の声音は穏やかではあったが、それは雷に怯えた娘に『怖かったわね』と労うものではなく、立場ある者として己を律しなさいと嗜めるもので、わたしはとても悲しい気持ちで匙の中ですっかりぬるくなったスープを口に運んだ。
わたしの向かいで、母との中間の位置に腰掛けるはずの兄の顔は見なかった。きっと出来の悪い妹にがっかりする顔をしているのだろうと思ったから。母の声に含まれた硬質的で冷ややかな響きと同じように。
寝室に下がる刻限になっても相変わらず雨音は強く、時折激しい風が硝子を嵌めた窓枠を強く打ってガタガタと嫌な音を響かせていた。
寝台へと横たわると、燭台に覆いをかけて灯りを弱めた世話係に、もうしばらく部屋にいてくれとせがんでみたが、彼女は申し訳なさそうに少し表情を曇らせ、謝罪の言葉と共に一つ礼をすると、いつもと同じように寝室を出て行ってしまった。
恐らくは、わたしがそのようにねだるであろうと察した母から止められていたのであろうが、当時のわたしにはそのような事情も、心苦しかったであろう彼女の心中など思いもよらず、世話係の薄情さにひどく傷ついたことをよく覚えている。
不気味な風雨の音から逃れるように、頭まで夜具へと潜り込んでみたが、柔らかな羽毛が詰まった上掛けは暖かくはあっても音までは遮ってはくれず、不規則にガタガタと鳴り、あちこちで悲鳴のように軋む屋敷が立てる音が恐ろしくて、わたしは一人夜具の中ですすり泣いていた。
やがて再び雷が轟きだした。夜具の中だったので夜空を裂く閃光は見ずに済んだものの、閃きの後にやってくる、あのつんざくような轟音に身構えることも出来ずに、ドーンっというあの音が響くたびに私の身体は強張り、なんだかお腹まで痛むような気がして、わたしは心細さに震えていた。
どれくらい身体を丸めていただろうか。
いつ止むとも知れぬ風雨と雷に眠ることなどできず、ただただ夜明けだけを心待ちにしていたわたしだったが、また大きな雷がばりばりと轟音を立てた直後、寝室とテラスを挟む硝子戸が一際大きくガタンと鳴ったかと思うと、寝室にびゅおっと風が吹き込み、私は夜具の中で悲鳴を上げた。
「だいじょうぶだよ。扉はもう閉めたから静かに」
再び硝子戸の鳴る音がしたかと思うと、一瞬吹き込んだ風はすぐに止み、押し殺したような声が夜具越しに聞こえて、わたしはぎょっと身を固くした。
「僕だよ、わかる?」
再び夜具越しに届いた声音はまだ幼い少年のもので、そう……それは、聞きなれたものではなかったけれど、確かに兄の声だった。
深夜の珍客に、嵐への恐怖を一瞬忘れた私は身じろぎ、恐る恐る夜具から顔を出してみると、そこにはやはり兄が裸足に夜着と髪をずぶ濡れにした姿で立っていて、わたしは幻でも見ているのかと瞳をぱちくりと瞬いた。
「……おにい……さま?どうして」
兄の寝室はさらに上の階にあり、深夜の……ましてやこの嵐の中をどうやってわたしの寝室の外のバルコニーに降り立ったのだろう。いや、それよりもなぜ、ろくに口をきいた事もない兄が、こんな真夜中にわたしの部屋に、ずぶ濡れの格好で立っているのかが分からなくて、わたしは問いかけの続きも口に出来ずに、ただただ濡れ鼠の兄を呆けたように見つめた。
「うん、ちょっと……秘密の方法があってね。昼間ずいぶん怖がっていたから、眠れないんじゃないかと気になって……あぁ、でも僕がここに来たのは内緒だよ」
朝までに乾くといいけれど、そう言いながら兄は濡れそぼった髪を絞り、自分から染み移った水気に逆立った絨毯を気にするように足元を所在なげにするのを、わたしはやはり瞳をぱちぱちと瞬いて見つめていた。
その時は気付いていなかったが、突然の珍客の訪問によって、わたしの意識は不気味な嵐が立てる音の恐怖から解き放たれていた。
兄の言葉で、母から叱責された昼間の失態を思い出して恥ずかしくなったわたしは俯いたが、兄の声音は今までわたしが想像の中で思い描いていたものよりずっと柔らかく、ずっと気安いものだった。
「母上のお言葉は気にしなくていいんだよ。あの人は使用人の手前、ああいう風に言わなければいけないだけだから。こんな嵐は僕だって初めてだし、ステラがびっくりしたって何もおかしくはないよ」
兄の言葉にわたしは驚きっぱなしだった。
兄が母を「あの人」と呼んだこともそうだったが、兄がわたしを気遣ってくれたこと、何よりわたしの名前をまるでいつもそう呼び倣わしているかのような気安さで呼んだことが。
それと同時に、昼間に聞こえたような気がした声は、やはり兄のもので、それは雷に怯えるわたしを叱責するものではなく、気遣ってくれたものだったのだと、今更ながらに気付いた。
「そっち、座ってもいい?」
寝台の隣に置かれた椅子を兄が指差すのにコクリと肯くだけで応じてしまったわたしは、寝台から兄を立たせたまま椅子を勧めることも失念していた己の無作法にまた恥ずかしくなったが、兄は別段気にする風でもなく裸足の足でぺたぺたと絨毯の上を進むと椅子に腰を降ろすや、座面に両足ごと引き上げて胡坐をかいてみせた。
母が目にしたら、綺麗に整った眉を逆立てて怒りそうな不調法だったが、兄は慣れた様子でいて、またそれが不思議と絵になっていた。
寝台脇に陣取った兄は、次々とわたしに話しかけてくれた。
本当はもっと前に訪れたかったこと。
けれど、なかなかそんな機会もきっかけもなかったこと。
そもそもなぜ兄妹なのに日中一緒に遊ぶこともできないのかだとか、自分の家庭教師の授業がひどく退屈だ、などと愚痴めいたものまで披露するのを、わたしは新鮮な驚きに包まれながら耳を傾けた。
兄の印象はまるでわたしの想像とは異なっていたが、わたしを気遣い、どのようにしてか、この嵐の中をずぶ濡れになりながら訪れてくれた目の前の兄の姿は、むしろわたしにとって好ましいものに感じられた。
そんな兄の話に耳を傾け、まだ言葉少なに肯くことで意思疎通をしながら会話を成立させていたわたしは、すっかり嵐のことを忘れかけていたが、再び一際大きく窓の外が閃いた。
寸毫置かずに鳴り響いた轟音に、ヒっと声を上げ肩をビクリと震わせたわたしは、思わずぎゅっと瞑った目を恐る恐る開くと、兄は穏やかに笑いかけていた。
それはなんだか「仕方ないなぁ」と苦笑するような感じで、兄という人についての印象をすこしずつ上書きし始めていたわたしは、そこに気恥ずかしさよりも、安心するような気持ちを覚え始めていた。
「ステラは雷が苦手みたいだね」
つんざく轟音など一向に介さぬ様子で笑った兄に、ほんの少し不公平なものを感じながらもわたしは小さく肯いた。
「あの音がするとお腹がきゅっとなるから……それにあの光も、お化けのような怖い影を作るし、音の前触れだから嫌いです」
小さく呟くと、兄は湿り気を帯び夜目にも輝く金の髪を掻きながら、ウーンと少し唸りをあげた。
「音は確かにびっくりはするね。……でも屋敷の中にいれば怖いことなんかないよ。それに光の方はよく見てるとすごく綺麗だよ。僕は夜の景色が一瞬照らされるとことか好きだけど」
あの恐ろしい雷光を綺麗だと言う兄を、まるで不思議なものを見るような目で見てしまっていたのか、少しバツが悪そうに笑った兄だったが、一瞬何事か考えるように瞳を閉じ、再び開いたそこには何やら悪戯めいた輝きが灯されていた。
「……誰にも内緒だよ」
兄は片目を瞑ると、両手を差し出してまるで大き目の鞠を捧げ持つようにわたしの前に掲げてみせた。
何をするつもりなのかと小首を傾げ瞳を瞬かせていると、両手の間に見えない何かが在るかのように視線を送る兄が、ほんの少し瞳を細め、掲げた指先を僅かに震わせたかと思った次の瞬間、わたしは驚きに声を失った。
兄の掲げた両手の間、その中央に爆ぜるように輝く小さな球体が現れ、そこから時折四方八方へと紫に輝く小さな稲妻が出現していたのだ。
紫電は小さくバチバチと唸りを上げて中心の球体から縦横無尽に走っては消え、再び現われを繰り返しながら、兄とわたしを照らし出していた。
「わぁ……綺麗」
「触っちゃダメだよ。ね、綺麗だろう」
思わず手を伸ばしかけたわたしを素早く制止した兄だったけれど、すぐにまた先程までの柔らかな声音で両手を少し高く、わたしによく見えるように掲げて見せてくれた。
「これはなんですか? あの雷と同じものなのですか?」
「うん。小さいけれど同じものだよ、だから触ると危ないけどね。……ね、そんなに怖いだけのものじゃないだろう?」
魅入られるように兄の手の内の不思議を見つめるわたしに、兄がそう応えて、わたしはコクリと肯いた。
どうやってこんなものを兄は作り出したのだろう。もしかしたらあの家庭教師から教わったのだろうか。もしそうなら、もう少ししたらわたしにも同じことが出来るようになったりするのだろうか。
続けざまに問いを投げたわたしに、兄は少し困ったように笑っただけで小さく首を横に振った。
「僕にもよくは分からないけれど、僕はこういう他の人がしない、ちょっと変わった事ができるみたいなんだ。でも誰にも言わないで」
二人だけの内緒だよ。
そう言ってまた片目を瞑ってみせた兄に、なぜ内緒なのかと問いたい気もしたけれど、なんだか『二人だけの秘密』という言葉の方に魅力を感じたわたしは、藤色に輝く光越しに兄に大きく肯いたのだった。
それ以来、わたしは雷をあまり恐ろしく思わなくなり、その夜を境に兄は頻繁にわたしが一人になった寝室を訪れてくれるようになったことで、夜は私にとって楽しみな時間へと変わり、もう怖いとは感じなくなった。
わたしは色んな兄を知るようになり、紫の雷光以外にも兄が不思議な力をいくつも持っていることを、そしてそれが他の人たちが普通に持っているものとは大きく異なるものだということに気付いた。
けれど、わたしにとって兄は他の人と異なってはいても、他の誰も夜を恐れるわたしに言ってはくれなかった「だいじょうぶ」をくれた唯一の人であったから、誰よりも兄を近しく慕った。
兄の持つ異能は、むしろわたしと兄とを結ぶ二人だけの秘密であったから、わたしはそれを好ましいものと捉えていた。
その力が二人だけの秘密ではなくなり、兄がわたしから遠く離れていってしまう原因となる、その日までは。
最終更新:2022年01月16日 19:02