卒業式を終え、共に卒する者や在院生との別れをひとしきり惜しむと私は一人校内を歩くことにした。
たとえ卒業生といえど、再びこの学び舎を訪れようとこの中庭よりも奥へ進むことは許されないそうだ。確かにその奥は生徒が起居する寮や種々の研究が行われる教室、貴重な資料なども保管されており、少し厳重に過ぎる気もしないではないけれど、生徒たちの安全を守るには必要な措置なのだろう。

それに、ひとたびここを巣立ちそれぞれに国や組織に籍を置いた者が、この中庭の奥でそういった枠やしがらみから短い期間だけ解き放たれて過ごすことを許される不可侵の時間に割って入ってはいけない、そんな気もする。

もうこの奥が自分にとって過ぎ去ってしまった時間であり場所なのだと感じると、学ぶべきことを修め、これから世界を巡る旅へと踏み出した後に誇らしい気持ちで生まれ故郷へと戻れる嬉しさとは別に、一抹の寂しさを憶えないでもなかった。

感慨深いものを抱えながら、ゆっくりとした歩調で二度とは歩めない学院の奥へと道を辿りつつ、すれ違う顔見知りから声を掛けられるたび、手を振って応じながら進む。

……そうだ、最後だしあそこへ行っておこう。


寮塔の奥に聳える第二校舎棟。
その最上階からにょきりと生え立つ二本の尖塔、その最上階。

東の尖塔は学院長の執務室兼私室として使われているが、もう一方である西の尖塔は現在利用されることもなく、放置されて空室となったそこは絶景の見晴台であるのだが、転移術が施された東塔と異なり最上階までは気の遠くなるような螺旋階段を登らねばならないことから、あまり人が寄り付くことは無い。

南洋諸島で海岸の岩肌や、椰子の木に登ることで培われた健脚は人が登る為に切られた石段など苦にもならない。
それに少し汗ばんで登りきった最上階から見渡す、故郷とはまた異なる学院領の豊かな緑の絨毯と吹き抜けていく風が、火照った額や首筋に触れていくあの感触は、確かに他では味わえない爽快感で……。

『表向き、飛行術は禁止だから石段を上がらなきゃだけど、ここの風に吹かれるのが一番気持ちいいんだよ』

ふと螺旋階段を進む足が止まる。
あれ……私はだれからこの場所を教えて貰ったんだっけ……?

『二人だけとは言わないけど、なるべく……秘密ね♪』

そういって茶目っ気たっぷりに笑った秘密の共有者がいなかったろうか。
ひんやりとした冷気を放出する石壁に手をつき、一瞬ぼやけかけた思考に首を振る。

お友達をたくさん作ることが、この学院にいる間の学業と並んだ目標で、それは成し遂げたのだけど……。

「お友達の誰かとの会話を忘れちゃったのですかね……ウーン、ダメですねぇ」

コツンと自らの額を小突き、後でゆっくり思い出さなきゃと頭の中にメモを書き留めて、再びコツコツと石段を鳴らして階上を目指す。








いよいよ老朽化が進んでいるのか、いつも以上にたてつけの悪く感じる扉に魔力干渉してようやく押し開くと、驚いたことに中には先客がいた。

埃よけの布を被された幾つかの家具の間で座り込んだ、女の子。初等部生だろうか。
驚いたように大きく見開かれた緑の瞳は赤く充血していた。
泣いて……る?

「わっ……と、あぁごめんね。誰もいないものだとばかり思っていたから……驚かせちゃった?」

怯えさせないように声をかければ、少女はコクリと一度頷き、思い直したようにふるふると首を横に振った。
その仕草がなんだか可愛らしくて、良かったと呟いてにこりと笑顔を見せる。

「ねぇ、お姉ちゃんもここに風を浴びに来たのだけど、ちょっとだけお邪魔してもいい……かな?」

視線を合わせるようにしゃがんみこんで話しかけると、少女はまた無言でコクンと頷く。
故郷のサンゴ礁と広がる浅瀬、陽射しを柔らかく含んで揺らめく海のような碧玉色の瞳……。

色味にふるさとを見たからだろうか、緑の瞳と年齢にしては切れ上がって大人びた輪郭を描く眼に吸い込まれそうな気がして、なぜか胸がざわめいた。同じ瞳に見つめられたことがかつてあったような……そんな不思議な気分。

でも、違うよねと胸中でかぶりを振る。
人は羨ましがるけれど、左右異なる虹彩色をもって生まれ、瞳の色が引け目のように感じた時期もあった私にとって、他人の瞳の色は関心と羨望の対象でもある。まして故郷の海の色を宿す瞳を覗きこんだことがあれば忘れるはずもない……。

そういえば、この瞳とそれに宿る力を羨ましがることも珍しがることも、褒めることもなくただ『その目も好きだよ』と、とても似合っているもの、そう言って微笑んでくれた誰かが居なかっただろうか……。

いや、そう言ってくれた友人を数多く見つけたし一人一人思い浮かべることができるのに、何か足りない気がして。ちゃんと完成しているのにまだ一つ欠けたピースがあるような、そんな気がする……。
なんだろう、卒業の余韻がまだどこかでここに残りたい私の深層心理をかきたてて感傷的にさせているのだろうか。

またざわざわと凪をうつ心を静めるように無言の少女に語りかける。

「こんなところに一人でどうしたの?登るの大変だったでしょう、ここの階段って一段がすごく大きいものね……。ね、悲しいことでもあったの?」

笑ってくれないかと途中茶化してみたものの、まだ驚いているような困ったような、でもなぜだか心をきゅっと掴まれるように悲しげに揺れる瞳に、トーンダウンした声とともに自然とその髪に手が伸びる。

拒まれるかと思ったけれど、少女はされるままに私の指先に髪を預けていた。
折角の綺麗な髪に張り付いた綿埃をつまんで取り払うと、艶やかでくせのない細い毛を撫でるように梳く。

「……ううん今日は喜ばしい日。でも……とてもさびしいの」

少女はしばし逡巡するように口ごもっていたが、私の瞳を見つめ直すと、ぽつりとそう一言声を発した。
言葉そのものは幼いように思えるのに、そのトーンはなんだか全てを受け容れてくれる母親のようなソレで……

「……そうかぁ。卒業式だもんね、仲よくしてくれた上級生が卒業しちゃうのかな。……あのね、おねぇちゃんも卒業生なんだよ」

ホラと、授与された筒に入れられた証書を持ち上げて見せる。

「……ナ……おねえさんもさびしいの?」

己の髪を撫でるように梳く私の掌に触れた少女が発した問い。
悲しげな少女をなんとなく放っておけなくて、慰めようと思っていたのに、なぜか逆に問いかえされたその声は岩の裂け目に染み込む清水のように柔らかで、なんだか少し感傷的な私の心を労わるような響きで伝わってくる。

「うん……そうだね。少し寂しいかな。お勉強すべきことは全部終えたのに、まだ何かやり残したことがあるような気持ちになったり、沢山できたお友達ともお別れしなきゃいけないのも辛いね。……うん、やっぱりおねぇちゃんもすごく寂しいよ」

私の手を握る少女の小さな手の感触が心地よかった。
ただ一言「うん」と応じた少女と、なんとなく無言で向き合っていると、そっと少女が手を離す気配を感じてなぜだろう、逆にその手を握り返した。なんだか離しちゃいけないような気がしたから。

「ね、そうだいいこと考えた!おねえちゃんとお友達になろう。おねえちゃんね、ここでお友達いっぱいできたんだよ。なんたって100人だよ、100人斬り……あぁそれだとノワちんだ。ええと、正確には100人越え!」

思わず口をついて出たそんな言葉。
今日卒業して巣立っていく身だけれど……でも。

無言で瞳をしばたかせる少女にニッと笑顔を向ける。

「ここから卒業しちゃっても、お友達はずーーっと繋がっていられるんだよ。今日バイバイしてもまたねって言えるし、次に会ったら久しぶりって言えるんだよ。すごくない?ね、そしたらきっとさびしいのも半分個できるよ。だからおねえちゃんと今日からお友達になろう」

握った少女の手を一旦離すと、握手の形で差し出し直す。
私の手に視線を落とし、しばらく見つめていた少女が私を振り仰ぐと、くしゃくしゃに歪んだ緑の瞳から透明の雫が溢れる。

「え、え、え!?ど、どうしたの、だ、大丈夫?おなかいたい??」

突然のことに動揺する私に向かって少女は首を横に振ると、しゃがみこんでいた膝をはらって立ち上がる。

「そっかあ、なんだ良かった。おねえちゃんびっくりしちゃったよー」

今度は私が少しだけ見上げる形になった少女に、かがみ込んだままもう一度手を差し伸べる。

「じゃあ改めまして、私はナナウ。ナナウ・レウレシア・ヲーセ、お友達になって下さい♪ あなたの名前は?」

差し出した手を両手で包みこむように重ねられる小さな手。
ほんの少しだけ表情を和らげた少女が口を開く。

「ありがとう、ナナウ。わたしの名前は………」

突如張り出し窓からゴウッっと風が吹き込み部屋の中の埃と少女の髪を掬って舞いあげる。
少女の唇が三度形を変えるのが見えたのに、言葉が聞き取れなくて、少女と同じように舞い上がる髪を押さえつけ瞳を細く凝らしながらもう一度問いかけようとして……。

「ヲーセの娘の往く道に喜びが溢れるように……ありがとう優しい子。ごめんね……」




ハッとして周囲を見回す。
そこは時々やってきては景色を見回し、風に乗せて故郷の歌を口ずさんだあの尖塔の最上階に間違いなかった。

「……えっと……なんだったけ……ユメ?」

そうだ、日が暮れる前にもう一度ここから見える風景を目に焼き付けておきたくて登ってきたのだけれど……なんだか白昼夢を見たような妙な既視感。いま私は誰かと居なかっただろうか、ここで女の子と言葉を交わしたような気がして……。

もう一度見回して見るけれど、以前訪れた時と同じく埃よけの布を被った古い家具の数々と、うっすらと積もった埃があるだけで、静まり返った室内。

「……やー……これはアレかな。七不思議とかいう怪奇現象に最後の最後に出会ってしまったというやつかなぁ」

ちょっと思案するように肩口から提がる編んだ毛先を捏ねまわす。
怪奇現象だなんて言葉の割には、悪い気配などは感じられない。あるのはほんの少しの……胸を刺す切なさと、じんわりと掌に残る温もり。

そういった話に目のない友人を思い浮かべたけれど、なんでだろう。
なんとなくこのぼんやりとした妙な記憶は話してはいけないような気がして、胸にしまっておくことにした。

張り出し窓に近づいて、その縁に腰をかければ優雅に広がる学院領の風景。
竜肝山脈と裾野に広がる森の上空を滑る鳥を眺めながら、ぼんやりと考える。

あの幻の女の子、さびしいのは私と半分個して少しくらいは和らいだだろうか、と。
最終更新:2012年06月21日 00:14