~ 二振りの魔剣 ~ 帝国北部に伝わる民間伝承を題材とした童話集より

昔々、鉱山によって賑わう麓町に一人の腕の良い剣匠がおりました。
彼は美しく働き者の妻と、明るく利発で町中の誰からも愛される娘と、幸せな毎日を送っていました。

しかしある年の冬、彼が剣を納めに都へ出掛けていた間に、鉱山で爆発事故が起こりました。事故によって鉱山で働いていた大勢が一瞬にして、または大怪我に苦しんだ末に亡くなりました。
鉱山に取り残された鉱夫を救う為、麓町の人々は毎日懸命の救出作業に勤しみました。剣匠の妻も運び出される怪我人の手当てや看病を留守の夫に代わって必死に行いました。

けれど不幸は終わりません。

坑道に取り残された者を救うため、麓町の人々が懸命に土と瓦礫を掘り起こしていた間、坑道内には鉱山の底を破って噴き出した霧が充満し続けました。
必死の思いで埋もれた坑道を掘り起こすと、嫌な匂いの霧が噴き出し救助を行っていた人々を包みこむや、一気に麓町へと向かい流れ出しました。
霧は坑道内に取り残されていた者をことごとく屠り、次に麓町の人々へと襲いかかりました。

霧を大量に浴びた者は、坑道内に残されたものと同様、わずかの間に死へと至りました。
また少量でもそれを吸ったものはやがて病に倒れはじめ、伏した者のほとんどは快癒することは無く、事故の余波はさらに沢山の人の命を奪いました。
何人も何人も……

都で事故の報せを聞いた剣匠は、急いで麓町へと舞い戻りました。

けれど坑道近くで救助者の看病を行っていた妻は噴き出した霧を浴びて亡くなり、残された娘は吸い込んだ霧によってすでに深く身体を蝕まれていました。
剣匠は妻の死に愕然としながらも弱る娘を必死で看病しました。
しかし看病の手も虚しく、やがて娘もその他の大勢の人たちと同じように還らぬ身となりました。
妻を失い、残った娘を為す術もなく失った剣匠の嘆きと哀しみは、いくら時が過ぎてもその事実を受け入れて薄れることは無く、剣匠の心を突き刺し続けました。
剣匠は妻と娘を自らの工房近くへと埋葬し、一日の大半を小さな二つの墓標の前でぼんやりと座り込んで過ごしました。

生き残った人々が告げるお悔やみの言葉さえ胸を抉るような痛みとなることに耐えられなくなった剣匠は、ある日を境に工房に籠りきるようになりました。扉を閉ざした工房からは槌を振う音と、泣き叫ぶ剣匠の声だけが響きます。


事故と噴き出した霧の被害によって鉱山は閉鎖され、日に日に生き残った住人は余所へと越して行きました。
人々が何度工房の扉を叩き、剣匠に呼びかけても返事は無く、ただ槌が鋼を打つ音だけが悲しく鳴り響きました。

剣匠は痛みに耐えきれず、ただ剣を鍛えることで全てを忘れようと寝食を忘れ、ひたすらに槌を振るいます。


庭先の墓標から彼を心配し、悲しい顔して佇む妻と娘の幻に気付くことも無く……。


剣匠はただ悲しくて悲しくて、張り裂けそうに痛む心のままに槌を振いました。
槌を振ることに没頭すれば愛しい妻と娘のことを忘れていられるかと思いましたが、振えば振うたびに工房の戸口で鐘を叩いて食事時を報せに来てくれた妻を……、危ないからと立ち入りを禁じた戸口の外で、彼が造って与えたおもちゃの木槌で彼の槌音に合わせて切り株を叩いて遊ぶ娘の姿が思い出されて、涙が止まりませんでした。

墓標から工房の中を見つめていた妻と娘の幻は、やがて墓標を離れ、槌を振るう彼の隣に寄り添うように現れるようになりました。
ボロボロにやつれてゆく愛した夫の、大好きだった父の腕に、触れることのできない幻の腕を絡めて縋りつきましたが、剣匠は気付きません。


『あぁ、愛しい人、優しい人。どうかもうこの人が私を忘れてくれますように。この痛みから解放されますように……』

『あぁ、あたしを知る人がもうこの世から居なくなってしまえばいいのに、誰もあたしの話でお父さんを苦しめませんように、神さまあたしをこの世界に居なかったことにして下さい』


腕に縋り、妻と娘の幻はそう祈り続けました。
それでも己の胸を突き刺す痛みに苦しむあまり、二人の幻に気付かない剣匠は血の涙を流しながら槌を振るい続けました。

やがて彼の槌は腕に絡みついていた二人の幻ごと鋼に打ち降ろされ、二人の祈りも一緒に鋼の内に織り込まれていきました。

麓町にはカーン、カーンと鋼が打ち合う音と、時折空を引き裂くような慟哭の声が哀しくこだまします……。



どれくらいの時間が経ったのか、剣匠一人を残して住む者の居なくなった鉱山街、その成れの果て。
廃墟となった街の片隅に建つ、古びた工房から槌の音がとうとう止みました。

かつての剣匠は鍛え上げた二振りの剣を前に声も無く立ち尽くしていました。
並んだ輝く刀身には、それぞれ【マグダレナ】【マルティナ】と刻まれていましたが、剣匠にはもはや思い出せませんでした。

それが愛する妻と、娘の名前であることが。

しかし、剣匠の心の解放を願った妻と娘の祈りは聞き届けられていました。
剣匠を苛んだ悲しい記憶はもう消え去っていました、けれどそれは愛する妻と娘のことを完全に忘れるという形で……


二人の祈りとともに打ち鍛えられた剣にもその効果は及び、妻の名を冠した【マグダレナ】は、所有者の最も愛する者の記憶を喰らい、娘の名を銘打たれた【マルティナ】は所有者を誰の記憶にも残さない、無かった存在としてしまう呪いとなって宿っていました。

剣匠は悲しい記憶からは解放されましたが、満たされることはありませんでした。
悲しい事実、それ以上に大切な記憶をも失ってしまったからです。
言葉も忘れ、髪も髭も伸び放題で、もはや人と見分けもつかぬ剣匠は、理由も判らぬ永劫の悲しみに支配され、二振りの剣を手に闇夜へと飛び出しました。

剣匠の行方を知る者はおらず、記憶を喰らう二振りの魔剣も共に姿を消しました。

ある者は、今も剣匠は竜骨山脈を二剣を携えて夜な夜な哭きながら走り狂っていると言い、ある者はどこかの大樹の根元で親子三人で抱き合うように腕に抱いた二剣に貫かれた骸が眠るとも申します……。
最終更新:2012年06月21日 12:35