「おはようラニウス。ほら、もういい加減に起きなさい」

枕に横たえた頭に大きな手が触れ、くしゃりと髪をかき混ぜられながら降る柔らかな声音を合図に、今朝も少し呻いて身じろぎをする。

毎夜寮を抜け出しては院内の目付けた場所を歩き回り、夜が白む前に寮へと戻って半刻ほど眠りに就く。

短時間の睡眠を数度に分けて取る訓練を受けた身は一度に二~三刻もの纏まった睡眠は必要なく、薄々夜歩きに気付いている勘の鋭い同居人がそっと音を立てないように目覚めるよりも幾らか早く覚醒はしているのだが、夜歩きした人間というのは眠いのが普通だ。

同居人は詮索する気は無いようだが、少しくらい眠たがっているのが自然だろうと判断して、いつからか彼より早く目覚めるのをやめ、朝からの授業に間に合うぎりぎりの時間を見計らってかけられる声を待つようになった。
寝台に身体を横たえたまま眠ったふりをし、眩しげに眼を細めながら枕元で苦笑いする彼を見上げるのが、今は日課と化していた。

その方が自然だから、ただでさえ勘の鋭い彼に無用の疑いを抱かせない為、ただそれだけの為だ。
でなければ貴重な活動時間を割いてまでこんな演技の必要など無いのだから……。

長く瞑ったまま待っているから、眠ったふりから解かれると、闇夜でも効くよう鍛えられたこの瞳には窓から差し込み、同居人の金の髪を梳いて届く朝日があまりに眩しく感じる、ただそれだけのこと。

そんなことを考えながら、ついいつもより長めにぼんやりと見上げてしまった。
妙に胸がざわついてフイと視線を逸らせ、寝台から起き上がると、彼はもう一度笑って、枕で少し癖のついた俺の黒髪を撫でると「早く用意をしろ」と手拭いを差し出す。

柔らかく編まれた手拭いを受け取り、寝台から絨毯敷きの床に素足をぺたりと降ろして立ち上がる。
部屋に備えられた簡易の洗面台からたらいに水を移すと、顔を洗い口をゆすぐ。
少し白く曇った年代物の表面鏡に向かい合うと、括ったままだった髪を一旦ほどき、癖を慣らしてえりあしでしっかりと括り直して部屋へ戻ると、同居人は先日揃いで購入してきたカップへとポットから中味を注ごうとしているところだった。



「時間的に今更だが、せめて朝食の摂れる時間に起きてはどうだラニウス?毎日とは言わんが、こう毎日朝を茶だけで済ますのはよくないぞ」

湯気の立つカップをソーサーごと受け取り、応接セットに腰を下ろす。
既に朝食を食堂で済ませてきた同居人は、手周りのものさえ揃っていればそのまま教室へ移動しても良いものを、わざわざ俺を起こし、こうやって茶を淹れる為に部屋まで毎朝戻ってくる。

濃く出した茶と温めた乳とを半分で割り、少し甘めに甘味料を入れられたカップの中味から昇る香気を鼻腔に受けながら、朝食の大切さを説かれるのも半分日課のようなものになっている。

「ああ……でも俺が前に居た地域では一日二食が普通だったから……」

嘘ではない、俺が生まれた地域ではそういう習慣を持った家も多かった。
けれど実際に育った場所では、一日に固くなったパンの欠片とわずかな干し肉に一度ありつけるだけだった。それも人数分用意されることはない。
生きたければ、他人のを奪ってでも手に入れろ。
そうやって食事すら闘争の自我を植え付ける為に用いられ、生きることと引き換えに誰かの死を容認させる意識を植え付けられる。
弱い固体は淘汰されていく幼少期を越えた自分の胃は最低限の燃料で、最大の力を引き出す術に否応なく適応して、今となっては量を摂れば逆に支障をきたすようになってしまっている。

一日に二食だって、ここの温かな食事とその量は俺の身体には合わない……。

「ふむ、まぁ無理にとは言わんが……まったくあの娘とは好対照だな……」

恐らくは同居人に妙に懐き、食堂で隣に腰掛けては嬉しげに食事を摂る、あの少女のことを言っているのだろう。先日同居人から俺の話を聞き、食事を欠かすことについての世界と命への不義理というテーマで一説講じたらしいが、俺の知ったことではない。

人を刈る俺が、畜生の命を憚るなど滑稽に過ぎるではないか……。

冷め始めたカップの中で琥珀色の茶が波立つのを眺めていると、扉がけたたましく叩かれて同居人が応対に出る。
あの叩き方は寮塔付きの介助妖精の誰かだろう。洗濯物でも届けに来たか?
俺の膝丈より少し高いくらいの背丈の彼らは、よく働き、見た目以上に力もあって身の丈以上の洗濯物の袋を抱えてはよく廊下をちょこまかと走っている。

「うむ、今日もお勤めご苦労なことだぞ」

人の世話を焼くのが何より好物の彼らにとって、生徒の面倒をみるという学院との契約は願ったりかなったりなのだが、お人よしをカンバスに描き起こしたような同居人は毎度彼らへの礼を欠かさない。
いつものやりとりとともに扉を閉じた同居人が何か手にしつつ戻ってくる。

どうやら洗濯物の返却ではなかったようだ。

「ラニウス、お前にだ」

差しだされたのは白い封筒。無言で受け取り訝しげに宛名を確認すると、流れるような筆跡で描かれた文字。『帝立魔道学院 攻城術教室 導師課程 炎の塔504号 ラニウス・ユナイト殿』

間違いなく自分宛だ……。
自分に知り合いなどいない、ここに送り込まれたことを知っているとすれば、送り込んだ張本人たる教団だが、このような形で連絡"渡り"がつけられることは無い。

一体どこの誰が……。
投函元を表す印章は……賢者の塔……。

ひっくり返すと蝋で封はされているものの印章は無い。
表書きと同じ筆跡で綴られた『ティモル・L・ハイラル』の署名。

……学院に編入手続きを行う書類上、後見人として記載されていた名前……。
賢者の塔の研究導師という肩書きを持つ教団の協力者、実在する人物の名前を用いていることは知っていたが、まさか接触して来るとは……任務中の者に対してなんと迂闊なことを、教団が許したのか?……一体どういうことなのだろう。

投函元を記す捺印が無く、学院領側の受領印のみがある所をみると一般の郵便を用いず個人的なルートで学院領関所へと届けさせたということか。

「お前に手紙など珍しいではないか。……どうかしたのか、ラニウス?」

封筒を手に黙りこくった俺を不思議そうに覗きこんだ同居人の声に、我へと返る。

「ああ、いや後見人からのようだ。でもあくまで学費を出してくれているだけで会ったこともない相手でな。……いずれにしても大した用事ではないだろう。時間も無いし後でいい」

「お披露目会も近いし、気遣ってくれているのではないか?もしかするとお前のように相手も気恥ずかしいのやもしれん。なんにしても恩のある相手だ、面倒くさがらず返事くらいしてやるのだぞ」

にこりと笑んだ同居人へと曖昧に頷き、封筒を胸元にしまいながら、それより……と書棚に置かれた時計を振り返って見せると、彼はぎょっとしたように目を見開く。

「しまった、もうこんな時間か。ラニウス、すまんが俺は行かねば。ではまた午後にでもな」

卓に積んでいた書物や、ルーンを刻んだ魔晶などを大きな手で、やはり厚く大きな胸元に抱えあげながら矢継ぎ早に言葉を投げかける同居人に静かに頷いて送り出す。

大柄な同居人が廊下を駆け去る音を確かめると、扉に背を預けたまま懐から先程の封筒を取り出し、ためつ透かしつ眺めてみるが、やはり何の変哲もない"封筒"でしかない。
魔力を帯びているわけでもないし、封筒自体の厚みも一定、インクの他に薬品が含浸された形跡も細工も見受けられない。

どうみてもただの手紙……。

しかし、俺に手紙を受け取る謂れなどある筈もなく、疑問符ばかりが浮かぶ。
仕事の為に赴いただけの場所、第一目標が人の命ではなく、学院領の防御施設構造に関する情報収集と、依頼人から指定されたとある痕跡の探索である以外、これまでとなんら変わりない、いやむしろ対象が具体的でないことから面倒ではあるものの、任務としての難度は低い。
なのに、ここに来てから調子の狂うことばかりで、苛立ちが募る。

小さく溜息を漏らし、小机から封書用のナイフを取るとそっと切っ先を差し入れて開封する。

念には念を入れ、少し様子をみるものの、変化があるわけでもない。
警戒し過ぎたことが逆に腹立たしくなり、開け口を逆さにして中身を小机へと振り落とすと、出てきたのは折りたたまれた品の良い便箋とお披露目会期間中、学生によって企画・開催される舞台劇の指定観覧券。

便箋には、封筒と同じ筆跡で綴られた当たり障りの無い短い挨拶と、これまで連絡を怠ったことへの詫びの言葉。
お披露目会に公式訪問する用事があるので、良ければその際に近況など聞きたい。
そう締めくくられた短い手紙がしたためられていた。
観覧券に関する記載は見当たらない。

内容だけ見れば、学院への公式訪問のついでに後見している学生がどんなものか確認しておこう、といった程度の手紙でしかない……。

まさか、本当に学業について気になるわけでもあるまい。

後見人についての書類を用意したのは教団本部だ。
書類に使われた賢者の塔所属の導師は実在はするものの、教団と表立った関係を持たないことが何より重要だったはず。
後見人たる導師が教団の協力者であることは紛れもなく、己の名がそのように使われている情報も当然与えられるが、自分への指示と同じくただ有望な若者の学業を支援している、されている。
ただそれだけの関係であることを貫くよう指示されているはずであるのに……一体何を考えている。

導師の処遇など知ったことではないが、自分に与えられた任務を考えるに、複数与えられた目的の内、最悪の内容を進行するよう指示が下れば、自分はただの学生の仮面を脱ぎ捨てざるを得ず、恐らく生きてここを出ることは叶うまい。

そうなれば、後見人に名を連ねた導師とて知らなかったでは済まされず、なんらかの調査の手が入るだろう。
最悪、教団との繋がりが露見する危険性が感じられれば、それ以前に教団によって消されるだろう。
賢者の塔に籍を置くほどの導師であれば、それが理解できぬほど愚かではあるまいに……。

指示を仰ぐために本来のルートで教団に渡りをつけて確認するのが望ましいが、お披露目会までもう何日もない。
とても休暇を得て、学院領外のあの街まで出掛ける時間も、適当な理由も見つけられそうになかった。

しばし観覧券を見つめながら、この手紙の意図について考えるが結論は出そうにない。
小さく溜め息をつきながら、折り目にそって畳んだ便箋とともに観覧券を封筒へと戻し、再び懐へと収める。

「……乗ってみる……か?」

手紙の送り主の意図が読めず、教団の指示も仰げない以上、自分で判断する他ない。
放置することも考えたが、手紙自体が何らかの異常措置として教団によってもたらされたものであれば重要かつ緊急の事態であろうし、逆に送り主に万一教団への敵対意思が芽生えてでもおれば厄介だ。

教団の手によるものであればそれで良し。確認した上で、任務継続の邪魔になるようならばその時は………。

ふと、書棚の時計に目をやると、間もなく一限の出席認定の猶予時刻を回ろうとしていた。
最終更新:2012年06月21日 12:39